カテゴリー「司教の日記」の1965件の記事

2019年1月21日 (月)

シノダリティ

東京教区の皆様には、新年の教区ニュースの冒頭でお願いしているとおり、宣教司牧の基本方針を策定するために、今年の聖霊降臨までに、多くの方の意見を伺いたいとお願いしているところです。(教区ニュースへのリンクです

具体的なお願いの詳細については、あらためて短い文書で、月末までに、各小教区にお願いをいたします。

でもその前に、今回のご意見を伺うに当たって、是非とも心にとめて頂きたい言葉があります。それが、「シノダリティ」です。

昨年10月のシノドス閉会ミサ後のお告げの祈りでの、教皇様のメッセージを、是非ともお読みください。このリンクに、中央協議会の翻訳があります。是非、ご一読を。

その中で、教皇様は、次のように言われます。

「それは「いやしと希望」のときであり、何よりも「傾聴」のときでした。傾聴するためには、時間、注意力、さらには心と気持ちを開け放つことが必要です。しかしその行程は、日々、いやしに変わっていきました」

互いの話に耳を傾け合うことの重要性です。その上で、

「傾聴というこの基本的な手だてを通して、わたしたちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、みことばと聖霊の光のもとに、「共同体としての識別」が行われました。それは、主からカトリック教会に与えられたもっとも素晴らしいたまものの一つです。つまり、まったく異なる状況にある人々の発言や表情を集め、つねに福音の光のもとに、その現象の利点と複雑性を考慮に入れながら解釈しようとしたのです」

神の求める道はどこにあるのかを、識別するのです。それも一人でそうするのではなく、共同体としての識別です。そして、

「書面の文書を作成することを第一の目的としない「シノドス様式」です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」

「シノドス様式」と訳されている「シノダリティ」。東京教区の宣教司牧の方針を定めるに当たっても、シノダリティの道を歩みたいと思います。互いの意見に耳を傾けあい、共同体としての識別を重ねたいのです。

ですから、今回、意見を求めるにあったては、個々人の方のご意見ではなくて、二人三人が集まって形成する「共同体」の識別の結果を伺いたいと願っています。小教区全体では無理としても、何らかの形での複数の方の互いの分かち合いと傾聴と、その上での識別の結果をお聞かせ願えればと思います。

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キリスト教一致祈祷週間東京集会@小金井教会

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毎年この時期は、キリスト教一致祈祷週間です。今年は1月18日から25日まで、「ただ正しいことのみを追求しなさい」をテーマに、世界各国で開催されています。

東京教区のエキュメニズム委員会(油谷神父様担当)がプロテスタント諸派の方々と共同で企画をされた東京集会が、1月20日(日)の午後2時半から、カトリック小金井教会を会場に開催されました。

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この祈祷週間のために、小冊子が毎年用意されます。これは世界教会協議会(WCC)と教皇庁のキリスト教一致推進評議会が共同で作成するもので、これを日本キリスト教協議会(NCC)とカトリックで翻訳して利用しています。

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毎年特定の国などをテーマの中心に据えて準備が進められ、その国の教会や人々の状況に思いを馳せながら、祈りの集いがもたれていますが、今年はその対象がインドネシアの教会でした。(写真は、インドネシアの民族衣装を身にまとった、小金井教会主任の加藤豊神父様)

小冊子のテーマの解説には「人口2億6千5百万の86%がムスリムであるインドネシアは、世界最大のムスリム人口を有する国として知られています。しかし、残りの約10%は様々な教派のキリスト者です」と記されており、そこには2千万人を越えるキリスト者が存在していることを教えています。

多様な民族、言語、文化が存在する巨大な国では、多様性のうちに一致することが目指され、そのために時としてキリスト者には困難な状況も発生します。そのような中で、一致をもとめつつも、しかし自らの進む道を妥協することない信仰に生きようと、「ただ正しいことのみを追求しなさい」がテーマとして選ばれたようです。

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小金井教会の集会には、カトリックのみならず多くの教派の方が参加してくださり、聖堂は一杯でした。

礼拝の司式は私が、そして説教は、日本キリスト教協議会(NCC)の議長である渡部信師が行いました。

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確かに考えてみれば、異なるいくつもの教派が一つの名称で合同し、具体的に一つの教会として存在できると安易に考えることは、それぞれの教会に長い歴史の積み重ねがあり、教会のあり方自体に異なる見解がある現在では、非現実的であろうと思います。

しかしながら同じイエスを主キリストと信じ、同じ父を神とあがめ、同じ聖霊の働きを信じるものが、心において共有できるものがないはずがありません。わたしたちは同じ福音を信じているのですから、同じ方向を向いて、同じ価値観に支えられて、現実社会にその価値観を、それぞれの教会を通じてともに証ししていく務めを果たすという意味で、教会の一致が推進されることを祈らざるを得ません。

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2019年1月12日 (土)

東京教区修女連新年研修会@イグナチオ教会

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東京教区の修道女連盟主催で、毎年この時期に行われる新年研修会と新年の感謝ミサが本日1月12日午前9時半から午後3時まで、四谷のイグナチオ教会を会場に開催され、教区内の各地から300名を超えるシスター方が集まりました。

今年のテーマは、「真の喜びに生きる教会」で、ミサと講話を今年もまた私が担当。昨年も初めてでしたので、ミサと講話を担当しましたが、そのときに話しきれなかったことが多々あったので、(たぶんそういう意味でも)、今年もミサと講話を担当することに。

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テーマは、着座して一年以上が過ぎ、教区の宣教司牧の方針を確立する段階に入ったこともあり、現在の課題について話すことが主眼でした。同時に、先般青年たちの召命や信仰をテーマとしたシノドスがあったことから、「青年と召命」もサブテーマに。

とはいえ、シノドスの最終文書の英語訳は数日前に発表されたばかりで、今回には読み込みが間に合いません。

そこで、シノドス最終日の教皇様のメッセージ(お告げの祈り)と、閉会時に発表された短いメッセージを基にして、いくつかお話しさせて頂きました。

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その中で触れたのは、シノダリティ(シノドス様式とかシノドス的とか)のことです。

今回のシノドスの終わりに当たっての教皇様のメッセージには、今回は参加者と青年たちがともに道を歩みながら互いに傾聴を心がけ、聖霊に導かれて識別を行い、神の呼びかけに応えることを目指したのであり、文書を作成することが最終目的ではなかったと言う言葉がありました。

多くの人が互いの話に耳を傾けあい、自らの体験を分かち合い、祈りをともにし、神の民として一緒に道を歩みながら識別を重ねるところに、シノダリティの本質があるのだと言うことでしょう。

教会のあり方を考えるときに、この点を教皇様はしばしば強調されているように思います。

東京教区にあっても、宣教司牧の方針を定めるに当たって、そういったともに歩みをともにし、互いに耳を傾け合って、祈りのうちに識別を進める道を進みたいと思います。

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準備してくださったシスター方と、イグナチオ教会の皆さんに感謝します。

ところで、2019年度の教区の人事異動に関して、第一次の人事発表が、教区ホームページに掲載されていますので、ご覧ください。このあと、修道会なども含めて、数次にわたり、人事異動が発表されることになります。

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2019年1月 1日 (火)

あけましておめでとうございます。

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みなさま、新年あけましておめでとうございます。

2019年が、神様からの祝福と護りのうちに、みなさまそれぞれにとって、喜びと希望、そして平安に満ちた年となりますように、お祈り申し上げます。

2019年1月1日の深夜零時、年が明けてすぐに、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、神の母聖マリアの祝日のミサを捧げました。深夜にもかかわらず、聖堂に一杯の方が参列してくださいました。(上の写真は、今年の新潟教会の馬小屋です)

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2019年は、教皇フランシスコの来日が期待されている年です。最終的にはバチカンと日本政府の交渉によって、実現するかどうかは決まるのですが、現時点では、教皇様をはじめ教皇庁の方々は、訪日実現に向けて動いてくださっています。実現を信じながら、わたしたちは、単に訪問のときだけの準備をするのではなく、訪問が日本における福音宣教をさらに強める契機となるように、事前に霊的にも良い準備をしていきたいと思います。

その手始めとして、教皇フランシスコの書かれた文書を、あらためて読み直すことなどはどうでしょうか。ひとりでは難しくても、何人かのグループで、例えば「福音の喜び」などや、または文庫で出ている説教集などを読んでみる会を開いてみるのはいかがでしょう。日本にお迎えする教皇が、どのような教会のあり方を望んでおられるのか、学ぶことは大切だと思います。

勉強はちょっと、と言う方には、ぜひとも、教皇様のために、また教皇様の意向のために、祈ることができます。これもひとりでは大変かも知れませんが、何人かのグループで、例えばロザリオを一緒に唱えることもできるでしょう。教皇様は、常々、ご自分のために祈ってほしいと願われています。

また、2019年は、日本にあっては平成の時代が終わり、今上天皇が譲位され、新しい時代が始まる年でもあります。憲法の精神が豊かに生かされ、新しい国民統合の象徴をいただき、世界に誇る平和国家日本の存在が強められることを、心から祈ります。

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東日本大震災の発生から、この3月で8年となります。被災した各県の復興状況は異なりますが、日本の教会全体としての関わりは、様々な地域で、様々なレベルで継続されています。東京教区が関わる南相馬にあっては、取り組みが新たな次元に入ろうとしています。これからも歩みをともにする道を進みたいと思います。東北以外にも、昨年は全国各地で災害が続きました。教会の様々な取り組みをもって、いのちの与え主である神の、誰ひとり忘れてはいないと言う思いを、目に見える形にしていくことができればと思います。

創造主としての神が望まれる世界秩序が実現しない限り、本当の平和はあり得ないと思います。残念ながら、神が望まれる世界のあり方とは異なる方向に向かう出来事は、各地に数限りなく存在しています。神の御旨に誠実にしたがって、生きる勇気を願いたいと思います。

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以下、深夜ミサの説教の原稿です。

お集まりの皆さん、新年明けましておめでとうございます。

主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念する私たちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

先ほど朗読された福音には、主イエスの誕生の夜、羊飼いたちが天使に導かれて聖家族のもとに駆けつけ、そこで目の当たりにした神による不思議なわざを、今度はさらに多くの人たちに告げ知らせていった様が描かれておりました。福音には「不思議に思った」と記されていますが、実際にはどうだったのでしょう。

今でも、世界各地では、常識を裏切るような出来事がしばしば発生し、そのたびごとに私たちは大騒ぎをいたします。よりよい対応ができずに、たとえば予想を上回るような大災害が発生すると、「想定外」などといった言葉も使われます。そういった「想定外」の出来事が起こるとき、今の時代にはインターネットをはじめとした様々なコミュニケーション手段があるのですから、出来事のインパクトが大きければ大きいほど、多くの人を巻き込んだ騒ぎとなります。多くの人が熱狂します。

もし仮に、2000年前にそのようなコミュニケーション手段があったとしたら、天使に導かれて聖家族に到達した羊飼いの話はあっという間に広まり、ちょっとした騒ぎを巻き起こしていたのかもしれません。

でもわたしたちは、そういった熱狂が一時的であることを、体験を持って知っています。熱はあっという間に冷めてしまい、そうなると誰も起こった出来事に関心を持たなくなってしまう。

羊飼いたちにしても、そうであったかもしれません。その晩起こった出来事の不思議さを耳にした人たちは、一時的に興奮し熱狂したのかもしれませんが、それはすぐに忘れ去られていったことでしょう。それを福音は、「不思議に思った」という言葉で記します。

それに対して神の母である聖マリアは、出来事にいちいち興奮することなく、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」のだと福音は記します。

すべての出来事は神の御手の中にあって起こっています。起こる出来事のいくつかを通じて、神はご自分の計画を示されることでしょう。興奮していては、熱狂していては、その神の声を聞き分けることはできません。熱狂は、結局はイエスを十字架につけて殺してしまったのです。

マリアは、観想のうちに落ち着きながら、神の思いを識別する姿の模範を私たちに示します。

いちいち例を挙げるまでもなく、諸外国との関係にあっても、国内で起こる様々な出来事にあっても、私たちは、圧倒的な情報の前で一喜一憂し、時に興奮し、熱狂のうちにあっという間の判断を下してしまいます。落ち着きましょう。私たちが興奮して焦って、人間の思い通りに何かを進めても、それが神の計画にかなうものとは限らない、どころか、しばしば反対の結果になるのです。

教皇フランシスコはこのことを、「時間は空間に勝る」という言葉で示されています。

使徒的勧告『福音の喜び』に、平和を実現するための4つの原理というのがあって、最初に言われているのがこの「時間は空間に勝る」という原理です。

教皇はこの原理について、こう言います。
「この原理は、早急に結果を出さず、長期的な取り組みを可能にします。…空間を優先することは、現時点ですべてを解決しようとする、あるいは、権力と自己主張が及ぶ空間すべてを我が物にしようとする愚かな行動へと人を導きます。」(『福音の喜び』223)

マリアは、熱狂のうちに興奮して拙速な判断をすることなく、時間を優先して、落ち着きのうちに、神の御旨を知ろうとする謙遜な姿の模範を示しています。

「時間は空間に勝る」は、平和を実現するための四つの原理の一つでありましたが、この1月1日を教会は、世界平和の日とも定めています。今年の世界平和の日にあたり、教皇フランシスコは、「よい政治は平和に寄与する」という題名のメッセージを発表され、政治に携わる人々に語りかけ、また多くの人がよりよい政治の実現に関心を寄せるようにと呼びかけられています。

その中で教皇様は、まず次のように指摘されます。
「平和をもたらすことは、キリストの弟子の使命の核心です。そしてその相手は、人類の歴史に刻まれた悲劇と暴力のただ中で、平和を願い求めるすべての人です」

その上で、政治の果たすべき役割の重要性に触れながら、次のように政治に対する前向きな期待を述べられています。

「人間のいのちと自由、尊厳に対する根本的な敬意のもとに行われるとき、政治は愛のわざの卓越したかたちとなるにちがいありません。」

そして、政治家の理想的な姿を表現するものとして、2002年に死去したベトナム出身のフランシスコ・ザヴィエル・ヴァン・トゥアン枢機卿の「政治家の真福八端」を掲げます。
こう書いてあります。

        「自分の役割に対して高い意識と深い理解をもつ政治家は、幸いである。
          信頼できる人柄の政治家は、幸いである。
          自分の利益のためにではなく、共通善のために働く政治家は、幸いである。
          一貫して忠実である政治家は、幸いである。
          一致を実現する政治家は、幸いである。
          抜本的改革を行うために尽力する政治家は、幸いである。
          耳を傾けることのできる政治家は、幸いである。
          ひるまない政治家は、幸いである」

そして教皇様は、終わりにこう指摘されます。
「政治が平和に寄与するのは、各人のカリスマと能力を正当に評価し、それを明らかにするときです。」

新しい年の初めに当たり、この一年が私たちにとって、熱狂ではなく観想のうちに、神の御旨を識別する年となりますように、またすべての人が、それぞれに与えられたカリスマと能力を正当に評価され、それに十全に生きることのできる社会が実現しますように、ともに神の母である聖母マリアの取り次ぎのうちに、神の導きを祈りましょう。

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2018年12月25日 (火)

主の降誕、おめでとうございます

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主イエスの降誕、おめでとうございます。

みなさま、お一人お一人にとって、またみなさまのご家族にとって、心の暖まるひとときが与えられる、素晴らしいクリスマスとなりますように。

またこのクリスマスの時期に、インドネシアでは大きな津波がありました。2004年にもインドネシアでは、クリスマスに大きな地震があり津波の大きな被害が出ています。被害を受けられた方々のため、特に亡くなられた方々のためにお祈りいたしましょう。

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関口の東京カテドラルでは、12月24日は、午後5時、午後7時、午後10時、そして深夜零時にミサが行われました。わたしは、午後7時のミサを担当いたしました。晴れていたものの、とても寒い晩でしたが、パイプいすがすべて埋まり、立ち見も出るほどで、千人を超える方がミサに与ってくださったのではないでしょうか。聖体拝領のときにも、だいたい6割以上が祝福を求める方でした。

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ミサは、幼子の像を抱いて、聖堂後ろからロウソクに導かれて入堂するキャンドルサービスに始まり、幼子を祭壇前の飼い葉桶に安置して、少女たち(献金少女と呼ばれているようです)が、カップローソクを100近く並べていきました。

以下、昨晩7時のミサの説教の原稿です。

主の降誕(夜半のミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2018年12月24日

お集まりの皆さん、主イエスの誕生、おめでとうございます。

誕生したばかりの幼子は、旅の途上にありました。両親が普通の生活を営んでいた故郷の街での誕生ではなく、旅の途上でありました。加えてその日、この家族には、安心して泊る場所さえ与えられなかった。心の安まらない状況で不安を抱え、そしていのちの誕生という人生における重大な出来事に直面したとき、この家族が抱える不安は、どれほどだったでしょう。助けてくれる知り合いとて見つからない土地で、どれほどの不安を抱えていたことでしょう。

それに追い打ちをかけるようにこの家族は、今宵の不安な出来事の直後に、次には迫害を避けていのちを守るために、エジプトへ避難する旅に出かけなくてはならなかったのです。どれほど心細く、不安であったことか。

クリスマスのお祝いは、明るいイルミネーションに照らされることで、なにやら明るく楽しいイベントになっていますが、その根底には暗闇の中にある不安が存在します。

いま、21世紀の現代社会にあって、同じように不安を抱え、心細さのなかで旅を続ける家族が、世界にはどれほどいることでしょう。

いったい、明日の自分はどうなるのだろう。家族に希望を見いだすことができるだろうか。果たして明るい将来はあるのだろうか。不安の中に、家族とともに、またはただひとりで、旅を続ける人が多くおられます。

紛争の地にあって、毎日のいのちの危険から逃れるために、旅に出ざるを得なかった人。政治の対立に翻弄されて、生きる場を失った人。国際関係の波間で、人間の尊厳を奪われ、自らの意思に反して旅に出ざるを得なかった人。厳しい経済環境の中で、生きるために旅に出る選択をせざるを得なかった人。愛する家族と一緒になるため、愛する人と一緒に生きていくために、法律の枠を超えて旅に出る人。

不安の中にも旅立つ理由には、他人が推し量ることのできないそれぞれの事情があることでしょう。それは一人一人の旅人にとって、いのちをかけた決断をするだけの事情であったことだと思います。それはわたしたちも想像してみればわかることですが、単に観光のために海外へ出かけるだけでも簡単ではありません。母国を離れ、未知の国へと旅に出ることが、どれほど大きな不安を伴うものであることか。暗闇の中に足を踏み出すことほど、不安なことはありません。

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キリスト教にとって、人間のいのちは神からの贈り物、賜物です。神はそれを条件をつけずに、わたしたちに与えられました。キリスト教の信仰は、完全である神が、自らの似姿としていのちを創造されたところに、人間の尊厳の源泉を見ています。そして神は、すべてのいのちを、大切なもの、かけがえのないものとして愛され、すべてのいのちがどんな条件にあったとしても、より良く生きられることを願われています。ですからキリスト教の信仰は、人間のいのちの価値は、人間が判断して決めるものではなく、神のみ手にゆだねられているのだと考えます。

ともすると今の時代、社会の役に立たないいのちには、存在する価値がないと決めつけようとすることがある。そう感じさせる事件や言動が見られるようになりました。まるで自分が生み出したものであるかのように、人間のいのちの値踏みをすることが、果たして正しいことだといえるでしょうか。

神は、大切でいとおしく思っている人間のいのちの尊厳を、明確に示すために、自ら進んで人間となられました。完全な神が、自ら不完全な人間となることで、人間のいのちが神にとってどれほど大切な存在であるのかを示されました。

神は、そうするために、どのような方法でも選ぶことができたことでしょう。

しかし神は、人間の尊厳がいのちにあることを示すために、幼子として誕生されました。親からの保護がなければ自分では生き抜くことが難しい頼りない存在の中に、人間の尊厳があることを示されました。だからすべてのいのちは、どのような状態にあっても、どのような条件の下にあっても尊厳があり、その尊厳は守られなくてはならないと、キリスト教は考えます。

さらに神は、旅路にあって暗闇の不安におののく家族に誕生されました。それによって、神は、すべての不安におののく家族に対して、自らが暗闇に輝く希望の光であることを示されました。ともに歩まれる希望の光であることを示されました。

神は希望の光。いのちの道しるべ。暗闇に輝く光。すべての不安をぬぐい去る力です。

教会は、クリスマスにあたって、あらためていのちを守り抜くことを呼びかけます。危機にさらされているすべていのちを守り抜くことを呼びかけます。その尊厳がそこなわれることのないよう、社会の状況が改善されるように呼びかけます。そして、旅にある人たちが、その安全を守られ、いのちの尊厳を奪われることのないように、歩みをともにすることを呼びかけます。

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クリスマスを祝うこの時期、世界の各地には、美しく飾り付けられたクリスマスツリーが数多く見受けられます。普段はキリスト教とそれほど縁のない日本においても、全国各地に美しく飾り付けられたクリスマスツリーがあります。

ツリーには様々なデコレーションがあることでしょうが、やはり一番伝統的なのはイルミネーションなどの明かりによる飾りであり、そしれ当然ですが、明かりは暗闇の中でこそ、美しく輝きます。

クリスマスツリーこそは、わたしたちがクリスマスに何を祝っているのかを、はっきりと教えてくれる存在です。暗闇の中に輝く光、すなわち人生の様々な不安を打ち破る希望の光は、イエス・キリストにあるのだと言うことを、その存在で教えているのです。

この時期、街角で、暗闇の中で様々に輝くクリスマスツリーを目にするとき、それがいのちの希望を示していること、それを通じていのちの大切さを説いていること、さらにはそのいのちが、すべて例外なく大切にされ、互いに助け合うように求められていること。それをどうぞ思い出してください。クリスマスに確認するべき愛は、助けを必要としている人への愛です。いのちの危機にさらされている人たちへの愛です。孤独と言う暗闇のうちにいる人への愛です。

すべてのいのちは、神の似姿として、よいものとして、例外なく神から愛され、神から使命を与えられてこの世界に誕生しました。誰一人として、その存在を無視されたり、排除されてもよい人はありません。神から与えられた使命を十全に生きることのできないような社会の現実も、そのままで容認されてよいはずがありません。夢物語の理想に聞こえるかもしれません。でも神はその夢物語のようなクリスマスの誕生物語の中で、今宵、ここに集まった皆さんに、語りかけておられます。

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2018年12月24日 (月)

コングレガシオン・ド・ノートルダム調布修道院起工式

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12月22日の土曜日の午後2時から、調布にあるコングレガシオン・ド・ノートルダム修道会において、修道院の耐震改築工事に伴う一連の工事の起工式を行いました。

これまであった修道院の一部を壊して、既設の建物に隣接して、平屋の建物を作るもので、施工は新発田建設さんです。設計者と施工者が同じなので、新潟の司教館とよく似たコンセプトの建物になるかと思います。

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当日は、小雨模様でしたが、起工式の間は雨もやみ、泥だらけにならずに済みました。シスター方と工事関係者が参加し、司式には私以外にサレジオ会の濱口管区長が参加してくださいました。

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式後には、管区長であるシスター遠藤の手作りというクッキーやケーキをいただきながら、茶話会となりました。

私が知っている限り、日本にはノートルダムを名乗る修道会は、コングレガシオン・ド・ノートルダムとノートルダム教育修道会と、ナミュール・ノートルダムの三つがあるように思います。

コングレガシオン・ド・ノートルダムは、東京の調布以外では、福島の桜の聖母学院や北九州の明治学園で知られています。

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ホームページによれば、「コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会宣教的信仰に​生きるカトリック女子修道会です。本会は、モントリオール​の最初の教育者であり、新しいフランスの開拓者でもあったマルグリット・ブールジョワによって17世紀に創立されま​した」とあります。

工事が無事に終わり、会員の皆様にふさわしい修道院ができあがることを祈っております。

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神田教会献堂90年

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ケルンから戻りローマへ出かける間に、一つ重要な出来事がありました(澤田神父様の白寿ミサも重要ですが、既報です)

12月9日の日曜日に、神田教会の聖堂の献堂90年をお祝いいたしました。教会自体は140年ほど前に、再宣教の象徴として創立され、幾たびかカテドラルとしても指定された、東京教区にとって、重要な聖堂です。以下、当日の説教の原稿です。

                      神田カトリック教会献堂90周年感謝ミサ
                                2018年12月9日

神田教会の聖堂が献堂されて90年という節目の年に、神田教会の皆様と一緒に、この90年の神様の導きと護りに感謝して祈りを捧げたいと思います。 

現在の聖堂は1928年(昭和3年)に建築され、戦争中の東京大空襲からの難をなんとか逃れ、戦後には大司教座がおかれてプロカテドラルとされていたと伺いました。東京教区にとって、重要な聖堂であると共に、神田教会自体が禁教令が解かれた直後の1874年(明治7年)にその歴史を刻み始めたという、日本の教会の歴史にとっても重要な位置を占める教会です。

140年以上前の時代、この地にあってキリスト教の宣教に取り組んだ宣教師たちの苦労は、この自由な時代に生きている私たちには想像することもできません。数々の困難に直面しながらも、キリストの福音を宣べ伝えた宣教師たちの献身的働きに心から感謝すると共に、宣教師たちを助け共に福音を生きた私たちの信仰の先達たちの勇気に倣っていきたいと思います。

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信徒数の伸び悩み、召命の減少、司祭・修道者・信徒の高齢化。後継者の不在。現代の教会が直面する課題を挙げ始めたらきりがありません。かつての時代のような肉体的な迫害は終わり、信教の自由が保障されています。しかし残念ながら、社会全体はその自由の中で、神に近づくどころか、少しずつ離れ去る道を選び、宗教に対しての関心も失っています。

関心を失うだけならまだしも、私たちの信仰の立場から見れば、神への挑戦としか見られない出来事も頻発しています。それはすなわち、神が愛すべき賜物としていつくしみのうちに創造され私たちに与えられたいのちへの挑戦であります。

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私たちのいのちは、神がご自分の似姿として創造されたことで、限りない尊厳を与えられました。すべてのいのちが、どのような状態にあってもすべからく大切にされなくてはならないのは、私たちキリスト者が優しい人間だからではなく、イザヤ書にあるとおり、神がその一人一人を決して忘れることなく、その名を手のひらに刻んだといわれるほどに大切にされているからです。限りない愛を持って、すべての人を見守っておられるからです。

それにもかかわらず、私たちは、あたかも人間の知恵や知識がいのちを生み出し方のように錯覚し、その価値を自分たちで決めようとします。役に立たないいのちは生きる価値がないなどといてとしまいます。いのちを守ろうとしない時代に平和はありません。今の時代は、神に背を向けるだけではなく、挑戦しようとしています。

この時代にあって、私たちが福音に生きること、その福音をできる限り多くの人に伝えようとすることは、必ずしも歓迎されることではありません。いのちを守ることを最優先にしようとする姿勢は、時として夢を見るものとして揶揄される対象です。

そんな時代だからこそ、私たちは、臆することなく、積極的に勇気を持って、神の平和を告げたいのです。神が与えられた賜物であるいのちを守ることが、最優先だと主張したいのです。

わたしたちは、教会というのは単に聖堂という建物のことだけを指しているのではないことを良く知っています。第二バチカン公会議は教会憲章において、教会は神の民であると指摘したうえで、つぎのように述べています。

教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)。
ですからわたしたちは、この地域社会にあって「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」として存在する「神の民」であって、その共同体の存在こそが教会そのものであります。

しかしながらこの共同体には、やはり集い祈る具体的な場が不可欠です。その意味で、聖堂の存在は、わたしたちが神の民としての互いの絆を具体的に確認し、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」となるための目に見える場として、なくてはならないものであります。

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献堂90年を迎えたこの聖堂は、この地域にあってどのような存在となっているでしょうか。福音を告げしらせ、神の思いを伝えるための道具となっているでしょうか。神と人との親密な交わりを証しする場となっているでしょうか。人々の一致のしるしとなっているでしょうか。

またこの小教区の皆様は、この聖堂に入るときにどのような思いをいつも抱かれるのでしょうか。入るたびに、あまり快くない体験ばかりを思い出すのでは悲しい。そうではなくて、聖堂が、入るたびに心の安らぎと喜びを生み出してくれるような、そういう存在であって欲しいと思います。この聖堂に満ちている雰囲気は、すなわち教会共同体に満ちている雰囲気の反映です。現代社会に生きる神の民の心を映し出す鏡であります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、教会のあるべき姿を明示されています。教会は、「出向いていく教会」でなければならないと教皇は言います。出向いていく教会は、「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」教会です。

もちろん教皇は、まず第一にわたしたちに具体的な行動を促して、そのように呼びかけられています。神から与えられた賜物である生命を頂いているすべての人が、大切にされ神のいつくしみのうちに生きることができるような社会。それを築きあげることが、現代社会にあって福音を告げ知らせるキリスト者の使命であると教皇は主張されます。

同時に教皇は、わたしたちが教会の歴史の中に安住することにも警告を発しておられると思います。変化に対して臆病になりがちです。新しいことに挑戦していくことに、気後れしてしまいがちです。

日本の教会はいま、とりわけ地方の教会において、少子高齢化の影響を大きく受けて、どちらかと言えば規模の縮小期に入っています。そういうときに私たちはどうしても、いまあるものを守ることを優先して考えてしまいます。守ろうとするとき、わたしたちは外に対して固い殻をまとってしまうことさえあります。聖堂の雰囲気はそのわたしたちの心を即座に反映してしまいます。なぜならこの聖堂に満ちている雰囲気は、教会共同体に満ちている雰囲気の反映だからです。

献堂90周年にあたり、神田教会が、守りの姿勢に籠もってしまうことなく、あらためて社会の隅々にまで呼びかける教会として開かれるように、わたしたちと道をともに歩んでくださる主イエスの導きを願いましょう。

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2018年12月20日 (木)

教皇様の来日の可能性が、高まりました

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最終的には、教皇庁からの公式の発表がなければ確実とはいえないのですが、しかし、教皇様の日本への司牧訪問の可能性が、限りなく具体的になりました。(上の写真は、バチカンニュースから)

12月17日の月曜日は、教皇様の82歳の誕生日でした。前田枢機卿様は、6月の枢機卿親任の時から、名義教会の着座を12月16日と教皇庁と打ち合わせ、その際に、17日に教皇様への個人的な表敬訪問の約束を取り付けておられました。
枢機卿たちは教皇の顧問ですから、比較的自由に、教皇様との個人謁見の予約を取ることができます。
ところがその間、9月には教皇様が、2019年中の来日の可能性に公の場で言及されるという事態が生じました。そこで、急遽、その謁見の約束を利用させて頂いて、大阪、長崎、東京の三人の大司教が教皇様にお会いして、来日の可能性についてお伺いを立てることになりました。
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というわけで、わたしは、当初の予定にはなかったのですが、急遽、12月16日の前田枢機卿名義教会着座ミサに出席し、さらに17日には教皇様や国務長官、18日には福音宣教省長官や列聖省長官と面談することに相成りました。
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17日は、午前11時頃、誕生日と言うこともあっての特別の配慮で、前田枢機卿様に同行した25名ほどの日本からの巡礼団は、ケーキを持って教皇宮殿に入り、なんと、執務室の前室まで入れて頂き、そこで教皇様に直接、誕生日のお祝いを申し上げることができました。
そこで教皇様は、「この集まりは、私の訪日の食前酒みたいなものですね」といわれ、改めて訪日の意思を明確に示されました。
その後、前田枢機卿、高見大司教、私、アベイヤ司教、通訳の和田神父と教皇様の執務室で謁見。そこで教皇様からは、明確に、来年末頃(10月から12月の間)に、日本を訪れたい旨の発言がありました。教皇様は来年の日本における政治スケジュールをご存じで、そのように時期を希望されておられました。具体的な日時は、バチカンと日本政府との交渉で最終的に決まることですので、訪問の期間を含めて、今後の公式発表が待たれます。
教皇様からは、日本の高齢者の状況や青年たちの状況、そして核廃絶への取り組みへの質問があり、そのような教皇様の関心に基づいて、今後、日本におけるメッセージが準備されることになるかと思います。
同時に教皇様は、東北をはじめとした地震や津波の被災者の方々への思いも述べられ、この教皇様の思いをどのように具体化するか、これから考えていかなくてはなりません。
最終的には、日本滞在が何日になるのかで、具体的にできることが決められてくるのですが、教皇様の年齢や体調、その後のスケジュールも勘案しながら、できる限り多くの方々と会う機会を設ける努力をしたいと思います。
多くの方が、様々な思いや願いを持って、教皇様の訪日を待たれているとは思いますが、与えられる時間をどう生かすのか、そこに関わるのが教会だけではなくバチカンと日本の政府という関係もありますので、できる限り、教会の意向が尊重されて、司牧訪問が最優先されるように願っています。

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2018年12月16日 (日)

前田枢機卿、名義教会の着座式

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枢機卿に任命されると、必ずローマの名義教会を指定されます。これは枢機卿が教皇の顧問であることから、本来はローマに居住する者と考えられているからのようです。

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実際には、多くの枢機卿がローマに住まず、世界各地の教区司教をしているので、ローマの名義教会とは関係が無いようにも思われますが、それでも必ずその名義教会で着座にミサをし、折に触れて訪れるなど、関係を保つことになります。そしてその名義教会の入り口には、当該枢機卿の紋章も掲げられることになります。

というわけで、大阪の前田万葉枢機卿も、枢機卿親任に当たってローマの教会を名義教会として指定され、本日、待降節第三主日に、着座式が行われました。

名義教会は、ローマ市内のテルミニ駅に近く、サンタマリアマジョーレ大聖堂にも近い、聖プデンツィアナ(Basilica Santa Pudenziana)教会です。ローマ市内でのフィリピン人共同体司牧の中心にもなっており、ミサには多くのフィリピン出身の信徒が参加されました。

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今日のミサには、日本から高見大司教と私が参加したので、日本の三大司教がそろい、さらに大阪からアベイヤ補佐司教が参加。さらにはローマ在住の日本人や関係の司祭団も加わり、フィリピン人信徒に加え、日本の修道者や信徒、さらに25名の日本からの巡礼者も加わり、聖堂は一杯でした。駐バチカンの中村大使ご夫妻も参加されました。

また、こういった枢機卿のローマでの公式の行事には、教皇庁の儀典室から担当のモンセニョールが派遣されてきて、典礼をしっかりとコントロールし、ミサ後には、この日の行事についての記録を読み上げて、参加した司教や司祭の署名が求められました。

ミサは英語で行われ、説教では、もちろんのことですが、前田枢機卿が日本語で話されて、事前に色紙に記した三つの俳句を披露されました。通訳はアベイヤ司教。俳句の翻訳に、苦しんでおられました。

この教会では、現在聖堂地下の発掘が進んでおり、使徒の時代の遺跡なども発見されているとのことで、ミサ後の祝賀会が終わってから、責任者のモンセニョールが、日本からの巡礼者などを案内してくださいました。

前田枢機卿の前任は、ケルンのマイスナー枢機卿の名義教会であったと伺いました。なにかご縁のようなものを感じました。とてつもなく寒いローマでした。

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2018年12月 8日 (土)

澤田和夫神父様、白寿の感謝ミサ

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東京教区の名物司祭のひとりであるヨハネ澤田和夫神父様は、1919年12月9日の生まれです。すなわち、明日で99歳。白寿であります。

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本日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、澤田和夫神父様の白寿を祝い、感謝のミサが捧げられ、神父様とこれまで様々な出会いのあった多くの方々が参加してくださいました。その中には、岡田名誉大司教をはじめ司祭や修道者も多く、また信徒ではない方、様々な身体的であったり精神的困難を抱えて生きておられる方などなど、これまでの澤田神父様の人生を象徴するようなバラエティーに富んだ方々が集まりました。

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澤田神父様は、このところ車椅子での生活をされており、日曜日にはそのまま関口教会の主日ミサに会衆席から参加されておられます。今日は、屈強な侍者の青年たちが多数集まり、澤田神父様を、車椅子ごと内陣へ持ち上げ、久しぶりの共同司式となりました。

ミサ後には、ケルンホールで茶話会が行われ、神父様のお元気に、ケーキのロウソクの炎を吹き消されておりました。

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神父様、お誕生日おめでとうございます。次は来年の100歳の誕生日を目指して、これからもお元気でお過ごしくださいますように。

以下本日の説教の原稿です。

司祭が長年忠実にその務めを果たしてきたことを祝うとき、わたしたちは、神からの呼びかけ、すなわち召命に前向きに応えている人生そのものをお祝いいたします。ですから、澤田神父様の99歳の誕生日を祝うこのミサで、まずは召命について少し考えてみましょう。

召命は、わたしたちが神の望まれる生き方を選択することにあり、そのなかには司祭や修道者となる生き方もありますが、わたしたちキリストに従う者にはすべからく、何らかの神からの呼びかけがあり、すなわち召命があります。わたしたちひとりひとりは、その召命に忠実に生きるようにと招かれています。

わたしたちは、人生の中にあって幾度となく、どのように生きていくのか選択を迫られ、決断を重ねていきます。司祭や修道者になることだけではなく、わたしたちが神に従う者としてどのような生き方を選ぶべきなのか、どのような生き方へと招かれているのか、その神の呼びかけに耳を傾ける努力を続けることは、すべてのキリスト者に共通している大事な務めです。

召命のために祈るのは、単に、司祭が増えるようにとか、修道者が増えるようにと祈ることだけなのではありません。そうではなくて、キリストに従う者すべてが、神からの呼びかけを識別しながら、最善の道を見いだすことができるようにと、兄弟姉妹皆のために祈ることでもあります。

澤田神父様は1951年の12月に叙階されていますので、99年の人生のうちほぼすべてとも言うべき70年近くを司祭として奉仕されてきました。司祭が長年にわたり教会へ、社会へ、そして多くの人々へ奉仕されたことに感謝をささげるとき、わたしたちは、召命に生きる姿の模範をそこに見いだします。召命は、司祭であれ信徒であれ、キリストに従うすべての者に与えられているのですから、澤田神父様のように、長年にわたって司祭が忠実にその使命に生きる姿は、勇気を持って神からの呼びかけに応え生きる姿として、すべてのキリスト者の模範であります。

司祭は叙階の秘跡によって、「最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別される」とカテキズムには記されています。すなわち司祭には、三つの重要な役割があるということです。

一つ目は「福音を宣教すること」。二つ目が「信者を司牧すること」。そして三つ目が、「神の祭礼を執行する」ことです。この三つの務めすべてに忠実に生きる司祭の姿は、すべてのキリスト者にとって生きる姿勢への模範を示すものでもあります。

わたしたちは、司祭の示す模範に倣って福音を宣教したい。わたしたちは司祭の示す模範に倣って教会共同体を育て上げたい。そしてわたしたちは司祭の示す模範に従って聖なる者でありたい。

多くの方々が、澤田神父様の70年に及ぶ司祭生活の中で、様々な出会いの体験から、この三つの司祭の務めにおいて、大きな影響を受けられてきたことと思います。勇気を持って、司祭としての召命に応え、忠実に生きてきた人生の模範であります。

神からの呼びかけに、謙遜のうちにも勇気を持って応えられた最高の模範は、聖母マリアの生き方であります。

教皇フランシスコは、聖母マリアは祈りと観想のうちに、密やかに生きる信仰生活の姿を示しているだけではなく、その霊的な土台の上に、助けを必要とする他者のために積極的に行動する力強い信仰者の姿の模範でもあると指摘されます。

使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、次のように記しています。
「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です。・・・教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)。

聖母マリアの人生を見れば、それは決して弱さのうちに恐れているような生き方ではありません。それどころか、神から選ばれ救い主の母となるというすさまじいまでの人生の転換点にあって、「私は主のはしためです。お言葉通りに、この身になりますように」と、恐れることなくその運命を受け入れ、主イエスとともに歩み、その受難の苦しみをともにしながら死と復活に立ち会い、そして聖霊降臨の時に弟子たちとともに祈ることで、教会の歴史の始まりにも重要な位置を占めるのです。教会にとって、これほどに強い存在はありません。まさしく、信仰における「革命的な力」を身をもって表された方です。

しかし聖母マリアは、あくまでもその強さを誇ることなく、謙虚さと優しさのうちに生きて行かれます。ですから謙虚さと優しさは、弱い者の特徴なのではなくて、本当に強い者が持つ特徴であると言うべきでしょう。

教皇フランシスコの言葉は、現代社会が優先するさまざまな価値観への警鐘となっています。聖母マリアの生き方を語るとき、ここでも、いったい本当に力のあるものはだれなのかという問いかけを通じて、この世の価値基準への警告を発していると感じます。今の世界では、いったいどういう人が強い者だと考えられているのか。その判断基準は、真の強さに基づいているのか。

聖母マリアの生き方を見るときに、本当の強さとは、謙虚さと優しさという徳のうちにあるのだとわかります。それならば、私たちの世界は「謙虚さと優しさ」に満ちているでしょうか。残念ながらそうとはいえません。それよりも、自分たちが一番、自分たちこそが強いと虚勢を張って他者を排除し、困難に直面する人や助けを必要とする存在に手を差し伸べるどころか、不必要なものとして彼らに関心を寄せることもなく、排除すらしてしまう。そんな虚勢を張った強者の価値観が力を持ち始めてはいないでしょうか。虚勢を張った強者の価値観は、どこまでも自分本位で身勝手です。

聖母マリアの生きる姿勢に倣いながら、私たちも謙虚さと優しさのうちに、神から与えられた召命に一生涯忠実に生きていきたいと思います。

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