カテゴリー「司教の日記」の1836件の記事

2017年8月15日 (火)

聖母被昇天祭ミサ@新潟教会

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本日は聖母被昇天祭でありました。また終戦記念日でもあります。第二次世界大戦で亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈り、聖母マリアの取り次ぎによって、神の平和がもたらされるようにと、ミサに参加してくださったみなさまとお祈りいたしました。

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全国各地ではっきりとしない天気の日であったようですが、珍しく新潟市内は雨も降らず、お昼頃には青空も見られました。それでも気温は30度に達せず、思いの外涼しい8月15日でした。

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ミサ後には、新潟教会では恒例ですが、バーベキューパーティー。子どもたちも参加してくれたことですから、定番のスイカ割りも行われ、短い時間でしたが楽しい夏のひとときを過ごすことができました。準備してくださったみなさま、そしてこの暑い中、鉄板の前でバーベキューに取り組んでくださったみなさま、感謝します。またタルチシオの霊名にあたり、霊的花束を贈ってくださった多くの教会の方々に、心から感謝いたします。私は、ヤコブ書5章16節の言葉、すなわち「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」を、信じています。お祈りに感謝。

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以下、本日のミサ説教の原稿です。

東北の大震災の後、わたし自身もしばしば口にするのですが、「忘れない」という言葉が繰り返されてきました。確かに、カリタスジャパンでの経験からいっても、世界の様々な地域で、大きな災害などの被害に遭われ復興に取り組んでおられる方々や、紛争によって家を追われ避難生活を続けておられる方々の口から、「忘れないでほしい」という願いを聞かされることがしばしばあります。

困難に直面し苦悩のうちにも生きる道を模索するとき、だれからも助けの手が差し伸べられず孤立するのであれば、人間の心から希望が奪いとられてしまいます。「忘れないでほしい」という願いは、単に記憶にとどめておいてほしいという願いではなく、ともに寄り添って歩んでほしいという願いであります。それは神によってともに支え合って生きるようにと私たちのいのちが創造されているからこそ、当然の心の叫びでもあります。

イエスご自身が最後の晩餐において御聖体を制定されたときの言葉、すなわち「私の記念としてこれを行いなさい」こそは、私たちの信仰が「忘れない」ということに基づいていることを思い起こさせます。それは、単にイエスという存在を記憶にとどめておいてほしいという願いではなく、御聖体の秘跡にあずかることによって、常に主ご自身と歩みをともにするようにという招きでもあります。それは単なる過去の記憶ではなく、その出来事を今の視点からあらためて理解し、あらためてその出来事を今生きようとすることです。その意味で私たちの信仰は、「忘れない」信仰です。

旧約聖書のイザヤ書には、神ご自身の「忘れない」姿勢がこう記されています。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」(49章15節)

ここでイザヤの預言は、「忘れない」ということは、単に記憶にとどめておくことだけではなく、さらには寄り添い歩みをともにすることにとどまるのでもなく、それをはるかに越えて相手の存在を自分の心に深く刻みつけることなのだといわれます。私たちの「忘れない」信仰は、そこまでの徹底的な生き方を求めています。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりの部分で、聖母マリアについて考察を加えています。その中で次のように述べられます。
「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります」

その上で教皇は、本日の福音に記されたマリアによるエリザベト訪問を取り上げ、次のように記します。
「マリアは、祈りかつ働くナザレの女性であり、すぐに動かれる聖母、人に手を貸すために自分の村から『急いで』出かける方です。正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」

聖母マリアは、ただ単に忘れないだけではなく、またその存在を心に留めているだけでもなく、思いもよらない人生の転換で不安にあったエリザベトのもとへ、ともにいるために出かけていかれました。しかも自分自身も、思いもよらない神からのお告げを受けて、人生が大きく転換するという出来事の中で翻弄されていたときに、自らの都合はさておき、手を貸すために出かけていかれた。そのマリアの「他者に向けて歩む力」を、教皇様は、「優しさと愛情の革命的な力」と表現されています。そして福音の中でエリザベトは、そういったマリアの生き方を表現して、マリアこそは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」なのだといいます。私たちの「忘れない」信仰は、革命的な力強さを持った信仰です。

1981年に広島を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、平和メッセージの中で、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と四回も繰り返され、核兵器の廃絶と戦争のない平和の確立を訴えられました。

8月15日に私たちは毎年、第二次世界大戦の悲劇を思い起こしながら、敵味方に分かれた双方の亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、平和への誓いを新たにしています。残念なことにいま、東アジアのこの一角では、以前にも増して核による攻撃への恐怖が増し、あたかも武力攻撃が不可避であるかのような論調さえ聞こえてきます。その現実の中で、「忘れない」信仰に生きているわたしたちは、教皇ヨハネパウロ二世の呼びかけに応えて、「過去を振り返り」、その上で将来に対してどのような責任をとる行動を今とるのか考えなくてはなりません。

平和メッセージで教皇はこう呼びかけました。
「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。」

教会はこの現代社会にあって、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を聖母マリアに倣って生き抜かなくてはなりません。教会は、過去の悲しい記憶を、ただ単に忘れないだけではなく、その意味を現代の視点からあらためて理解し、将来へ向かって責任ある歩みを進めるようにと、社会に対して呼びかけなくてはなりません。

教会はこの現代社会にあって、紛争や混乱した状況が続く世界各地の人々に心を留め、常に寄り添って歩み続けることを示さなくてはなりません。

教会はこの現代社会にあって、虐げられ、忘れられ、孤立し、排除されている人々に、いのちの創造主である神が一人ひとりの名をその手のひらに刻まれているのだということを、伝えていかなくてはなりません。

聖母マリアの生き方が、私たち一人一人の生き方となりますように。勇気を持って「忘れない」信仰に生きることが出来るように、神様の導きを願いましょう。
 

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2017年8月12日 (土)

聖クララ会、上越高田で30年

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昨日、8月11日は聖クララの祝日でした。新潟県上越市高田には、観想修道会である聖クララ会の上越修道院があります。私の前任である故佐藤敬一司教様が、聖クララ会を新潟教区に招聘し、八王子の修道院からこの地にシスター方が派遣されてきてから今年で30年。毎年8月11日は修道院で聖クララの記念ミサが捧げられますが、昨日は特に30年記念ということで多くの方が集まり、修道院の小さな聖堂は一杯になりました。

佐藤司教様は、教区の霊的な支柱として、観想修道会の存在が不可欠だと考えられ、この地に同じフランシスコファミリーのシスター方を招かれたと伺いました。もちろん教区はすべての方々の祈りによって支えられているのですが、そのなかでも、南で聖クララ会の皆さんが、そして北では聖体奉仕会の皆さんが、日々の祈りを持って教区を支える霊的支柱となってくださっています。毎日のお祈りに感謝いたします。

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昨日のミサには、近隣で療養生活を続けておられるフランシスコ会のブルーノ神父さまと教区の高藪神父さまも参加してくださり、元気なお声を聞かせてくださいました。(写真は、ブルーノ神父と一緒に)

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先般、聖クララ会は八王子の修道院を閉鎖されました。何名かの会員が高田に移ってこられ、共同体は少しですが大きくなりました。また閉鎖に伴い、八王子修道院にあった聖クララの御像やアシジのフランシスコの御像が、新発田建設の協力で移設され、高田修道院の庭に設置されました。普段は禁域で入ることの出来ない庭ですが、昨日は私が同行して、ミサ後の懇親会に参加された方にも見学していただきました。聖クララ会は、町中の小さな観想修道院が基本だと伺ったことがあります。高田修道院も住宅地にある小さな修道院です。この修道院で観想生活のうちに教会の霊的な支柱となってくださる方々が、一人でも現れることを祈っています。聖クララ会の召し出しのためにも祈りましょう。

以下、聖クララ会修道院での昨日のミサの説教原稿です。

聖クララ会の上越修道院がこの高田の地に創立されて30年。新潟教区にあって、その福音宣教の活動を毎日の祈りと観想の生活を持って霊的に支えてくださる会員のみなさまに、まずもって心から感謝申し上げます。

日本の16ある教区の中で、信徒総数が一万人を下回る教区はいくつかありますが、そのなかでも、新潟教区は南は新潟県の糸魚川から北は秋田県の大館まで、地理的に広大な教区です。信徒数の少なさ、つまり教会共同体の規模が小さいことと、地理的に広大で皆が集まることにおいて困難があり、さらには歴史的に見ても仏教などの伝統が文化に強く根付いている地域ですから、福音を告げ知らせることは容易ではありません。

教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」には、聖クララ会のように観想に全面的に献げられた会の修道者について、こう記されています。
 「(観想修道会の修道者は)その生活と使命をとおして、山上で祈るキリストに倣い、歴史において神が主であることをあかしし、来たるべき栄光を先取りします。・・・彼らは教会共同体に、主に対する教会の愛を見事にあかしし、秘められた使徒的豊かさによって、神の民の成長に貢献しています」

教皇様は、教会共同体の成長のために、観想修道会の修道者の存在が重要であると指摘しているのです。ここでいわれる教会共同体が豊かに成長することとは、単に信徒の人数が増えることを意味しているのではなく、神の民に属する一人ひとりが霊的に成長し、日々の生活で福音に生き抜き、福音のあかしとなることをも意味しています。その結果として、信徒が増えるということもついてくるのかもしれません。新潟教区の教会共同体が豊かに成長するために、上越高田の聖クララ会の皆さんの霊的なあかしの生活は不可欠であり、私たちの模範となり、また私たちの成長を支えてくださいます。

この福音宣教について、同じ「奉献生活」の中で、教皇ヨハネパウロ二世は次のようにも指摘し、奉献生活者の福音宣教への貢献についてこう述べられます。
 「外に現れる活動以上に、宣教は、個人的なあかしによってキリストをこの世に示すことのうちに存在します。これは挑戦であり、これこそ奉献生活の第一の務めです。奉献された人々がキリストにいっそう似たものとなるよう努めれば努めるほど、キリストはすべての人の救いのために、この世においていっそうはっきりと現れ、活動するのです」

したがって、この修道院の中で生活する会員の皆さんは、隠れて籠もっているのではなく、徹底的にキリストに従うその生活のあかしを通じて、共同体としてこの場でキリストを社会に向けてあかしをすることで、教区における福音宣教に直接に貢献してもるのです。

その意味で、心からこの30年のこの地でのあかしの生活に感謝申し上げますし、これからも新潟教区を霊的に支え、私たちに信仰生活の模範を示し、社会に対してキリストをあかししていってくださいますように、お願い申し上げます。

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さて、私たちが福音をあかしし伝えていかなければならない社会は、いまや「いのち」が危機に瀕している社会であります。近隣の国との緊張関係の中で、今にも戦争が始まるのではないかという危機感が煽られてもいますが、紛争状態が続き難民が大量に発生している地域もあります。武力紛争や戦争は人間のいのちを暴力的に奪い取る行為として、教会は常に反対の意志を表明してきました。ちょうど8月のこの時期は日本の教会にとって平和を考えるときですが、私たちは広島を訪問されたヨハネパウロ2世の平和メッセージのこの一説を思い起こしたいと思います。
 「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です」

戦争や紛争の状態に直接巻き込まれてはいない者の、私たちの国においても、いのちが危機に瀕していることには変わりがありません。そういった現実を踏まえて、司教団は先頃、「いのちへのまなざし」というメッセージを改定して発表しました。神から賜物として与えられたいのち、神の似姿として善いものとして創造された人間のいのち。その尊いいのちと人間の尊厳が、ないがしろにされるような事件が起こったり、状況が発生したりしています。

その最たるものは、昨年相模原で起こった障害と共に生きる人たち19名を殺害した事件です。犯人の青年の、障害のある人たちを役に立たない存在と決めつけ、社会から無駄を省くために彼らを抹殺することを良しとする思想や価値観には、同意できるところはまったくありません。しかしそれ以上に、その考え方に賛同する人たちが、今の日本の社会に少なからず存在することも、今回の事件は明らかにしました。独りの特異な人物の突出した考えなのではなく、ある一定数の人たちの心の底にうごめいているいのちへの価値観が浮き彫りになりました。

人間のいのちは、その存在自体が価値あるものであって、役に立つのか立たないのかで、その存在を判断されるのではないということを、わたしたちは、この社会の現実の中で伝えていきたいと思います。

人間のいのちが存在しなければ、当然人間による共同体は存在せず、共同体が存在しなければ、福音を伝えることにも意味はありません。したがって、いのちを守ることはすべての根本にあることがらであると思います。

いのちが危機に瀕しているこの社会であるからこそ、私たちは勇気を持って福音をあかししていかなければなりません。

聖クララ会の会員のみなさまには、これからも主の福音をあかしする存在として、新潟教区のみなの模範となり、その霊的生活を通じて、教区全体の福音宣教を支えてくださるようにお願い申し上げます。ともに、この社会の直中で、いのちの福音をあかしして参りましょう。

 

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2017年8月 8日 (火)

「秋田の聖母の日」など

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いくつかあらためてお知らせです。

1: 聖母被昇天祭司教ミサ

聖母被昇天祭の司教司式ミサは、8月15日(火)午前10時から新潟教会です。ミサ後には恒例の懇親会(バーベキューなど)が行われます。ミサの行われる聖堂は、残念ながら冷房はありませんが、懇親会は冷房のある部屋も用意されますので、どうぞご参加ください。(写真は昨年8月15日のバーベキューの模様)

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2:秋田の聖母の日とその前の祈りの旅

今年も9月14日と15日に「秋田の聖母の日」が行われます。秋田市の聖体奉仕会が会場です。今年はファティマの聖母御出現100年ということで、全国を巡回しているファティマの聖母像が、教皇庁大使館のご好意で秋田の聖母の日に運ばれて参ります。この聖母像は全国を巡回した後、10月25日(水)に広島の司教座聖堂で安置されることになっています。秋田聖母の日に参加ご希望の方は、聖体奉仕会に葉書でご連絡ください。詳しくはこちらのリンクから、聖体奉仕会のホームページへ。(写真は昨年の秋田の聖母の日)

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またこの聖母の日に合わせて、旅行会社のパラダイスさんが東北の祈りの旅を企画しています。今年は青森をめぐりながら、祈りの旅を続けます。私もこの旅にご一緒します。9月12日出発で12日と13日の二泊の後、14日の午前中には秋田へ到着し、秋田の聖母の日に参加します。なお旅行には秋田での宿泊も含まれています。詳しくは以下のパラダイスさんへお問い合わせください。

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なお、11月2日から11日の、聖地巡礼(イスラエルとヨルダン)も続けて募集中です。これも同じパラダイスさんですから、是非ともお問い合わせください。聖地巡礼は私がご一緒し、毎日ミサがあります。

パラダイス 電話:045-580-0023 

ファックス:045-580-0024

(営業時間:月曜~金曜の9時半~18時)担当は村上さんです。

e-mail: mary@junrei.co.jp

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2017年8月 7日 (月)

神言会創立の地へ巡礼

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機会に恵まれ、神言会創立の地であるオランダのシュタイルに足を伸ばしました。神言会は、当時ドイツ国内でビスマルクによるカトリック弾圧の文化闘争の嵐が吹き荒れていたこともあり、国境を越えたオランダのシュタイルで、1875年に創立されました。創立者は、ドイツのゴッホ生まれの教区司祭聖アーノルド・ヤンセン。シュタイルからゴッホまでも、車で一時間弱の距離です。(上の写真、遙か向こうに見える二つの塔が、シュタイルの神言会聖ミカエル修道院の聖堂)

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聖アーノルド・ヤンセンの時代に建設された聖ミカエル修道院はシュタイルに今でも建っており、近くには彼が創立した聖霊会と永久礼拝会の修道院も建っています。そして、聖ミカエル修道院の地下聖堂には、1975年の列福にあたって、会員墓地から改葬された聖人の遺体が、棺の中に安置されています。(上の写真は聖堂に眠る聖アーノルド・ヤンセンの棺。その向こうのステンドグラスは、二つの手を象徴しています)

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創立者の眠る前で祈り、またその上の階に当時のまま残されている、初期の宣教師たちが派遣されていた場である大聖堂で祈り、あらためて宣教修道会である神言会のスピリットを心に刻むことができたように思います。

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ちょうど聖霊会の第三修練(刷新コース)に参加している世界中から集まった30名ほどのシスターと、インドネシア語で初めて行われた神言会の刷新コースに参加しているシニア世代の会員(第三世代と呼ばれてました)が集まってミサを捧げる日にあたり、創立者が眠る聖堂で、ミサを司式させていただきました。ミサの中では、シスター方がそれぞれの文化の聖歌を奉献したり、聖体拝領の後にはインドのシスターが感謝の踊りを献げたりと、世界中へと宣教者を派遣してきた神言会と聖霊会というアーノルド・ファミリーの霊性を象徴する時となりました。

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2017年7月29日 (土)

HIV/AIDSデスクの研修会@東京

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先週の土曜日の午後、東京四谷のニコラバレを会場に、日本カトリック司教協議会HIV/AIDSデスク主催の研修会が開催され、40名近い方々が参加してくださいました。

第5回目となる今回の研修会のテーマは、「性教育でどこまで教えるかー人権・エイズ・LGBTー教育現場からのメッセージ」でした。講師を務めてくださったのは、名古屋の南山中学高等学校男子部で長年にわたり保健体育の教員を務めておられる中谷豊美先生。信徒の教員です。

中谷先生は以前から積極的に性の問題を保健体育の授業で取り上げるとともに、ホスピタルクラウンの活動も積極的に行い、さらには学校の奇術部の顧問も務めるという、ユニークな先生です。

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カトリックの学校において、性の問題をどうやって、どこまで教えるのかは難しい課題です。しかし、いのちの尊厳を考えるとき、その誕生にかかわる性の問題を避けてしまっては、その後に巷にあふれかえる玉石混淆の情報に翻弄されてしまうことになります。ですから、そこはしっかりと押さえなくてはなりません。司教団メッセージ「いのちへのまなざし<増補新版>」には、性についてこう記してあります。

「聖書の世界は、人間を『男と女に創造された』ものとみて、性を、最初から神の祝福のもとにとらえています。それは、性を生殖から切り離すものでも、また生殖との関連においてのみ評価するものでもありません。性を人間の営み全体にかかわるものとして理解しているのです(23)」

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また教会が、だれ一人として排除しない主イエスの生き方に倣うとき、性にかかわることがらでも、同じように誰かを排除するようなことがあってよいはずがありません。HIV/AIDSデスクが設置された当初から、そのことは常にデスク委員の念頭にあり、まずはHIVに感染した人たちと距離を置こうとする態度から教会がどのように決別するのかが大きな課題の一つとなってきました。そして近年は、LGBTという言葉で代表される、性的指向の多様性が社会の中でも注目されるにつれ、教会の態度も見直すべきだという教皇フランシスコの強いリーダーシップがあります。「いのちのまなざし<増補新版>」にはこう記されています。

「性的指向のいかんにかかわらず、すべての人の尊厳が大切にされ、敬意をもって受け入れられるよう望みます。同性愛やバイセクシュアル、トランスジェンダーの人たちに対して、教会はこれまで厳しい目を向けてきました。しかし今では、そうした人たちも、尊敬と思いやりを保って迎え入れられるべきであり、差別や暴力を受けることのないよう細心の注意を払っていくべきだと考えます。例外なくすべての人が人生における神の望みを理解し実現するための必要な助けを得られるよう、教会は敬意をもってその人たちに同伴しなければなりません。結婚についての従来の教えを保持しつつも、性的指向の多様性に配慮する努力を続けていきます。(27)」

神からのたまものであるいのちの尊厳が、例外なくすべて、まずもって優先されることの大切さを、常に心に留めていたいと思います。

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2017年7月28日 (金)

まもなく平和旬間です

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日本のカトリック教会は、毎年、広島に原爆が投下された8月6日から、終戦記念日の8月15日までの10日間を、カトリック平和旬間と定め、平和について考え、祈る『時』としています。1981年に教皇ヨハネパウロ2世が来日され、広島で力強い平和アピールを発表されました。広島で教皇は、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と指摘されていました。この時期、各地では過去の歴史を真摯に振り返り、そこから教訓を学び、新しい道を歩んでいくことができるように学ぶ行事が行われますし、また戦争の犠牲になられた多くの方々の永遠の安息のために祈りが捧げられます。同時に、なかなか過去の歴史から学ぶことのできない不十分な私たちが、よりふさわしい道を見いだすことができるようにと、神様の導きをともに祈ります。

平和旬間にあたり、司教協議会の会長である長崎教区の高見三明大司教が、談話を発表しています。こちらのリンクから中央協議会のページに入りご一読ください。

新潟教区では、その地理的条件から、一カ所で教区全体の行事を行うことはしておらず、それぞれの地区で、この時期に平和のための様々な行事が企画されています。

新潟では、毎年7月の末に、講演会と平和祈願ミサが企画されておりますが、今年は来る7月30日の日曜日に開催されることになっています。すでに、各小教区にはお知らせが届いていることとは思いますが、あらためてお知らせ申し上げます。

7月30日(日)午後1時半より、講演会

講師:アムネスティ・インターナショナル日本 山口薫さん

平和祈願ミサ 午後3時半から 新潟教会(司教ミサ)

アムネスティ・インターナショナルは、ご存じのことだとは思いますが、国際的な人権団体として有名です。ホームページはこちらのリンクですが、そこにはこのように紹介が記載されています。

「アムネスティ・インターナショナルは、1961年に発足した世界最大の国際人権NGOです。人権侵害のない世の中を願う市民の輪は年々広がり、今や世界で700万人以上がアムネスティの運動に参加しています。国境を超えた自発的な市民運動が「自由、正義、そして平和の礎をもたらした」として、1977年にはノーベル平和賞を受賞しました。」

少なくとも国際社会は、第一次と第二次世界大戦を通じて、大規模な戦争がどれほどの「害」を生み出すもなのかを悟ったに違いありません。そして核兵器が存在する現在、あれほどの大規模な戦争をはじめることは、すなわち世界の破滅を意味することも理解しているものと信じます。しかしながら、地域を限定した紛争は止むことなく頻発していますし、誰かが暴発するのではないかという疑心暗鬼も、繰り返されています。人類が、本当の意味で互いを完全に信用し信頼することは、夢物語なのかもしれません。そしてそれは結局のところ、一人一人の人間の心が反映された現実でしかありません。

平和の実現は、単に国家間の信頼だとか、核兵器の廃止だとか、紛争の停止だとか、そういった大きな目的の達成によってのみもたらされるものではなく、同時に、一人一人の回心も必要としているのです。

私たち一人一人は、何のために神によってこのいのちを与えられたのか。どう生きるようにと創造されたのか。自分自身の心に、家庭に、地域共同体に、平和がないのであれば、本当の平和は達成されないと感じます。

そして平和とは、神が最初に世界を創造されたときに生み出された秩序、神の秩序が完成されることです。私たちの現実がどれほどそこから遠いことか。かけ離れていることか。

この数日、相模原でのあの事件のことを考えるとき、私は悲しくて悲しくてたまらないのです。それは、独り犯人が悪人だと指弾することではなく、その犯人と同じ価値観が、すくなからずの人によって賛同されていることが、とても悲しいのです。

役に立たないからといって、誰かを排除しようとする心は、平和を生み出しません。違っているから、理解できないから、自分と違うからといって、誰かを排除しようとする心は、平和を生み出しません。

神に似せて、善いものとして創造されたこのいのちを、身勝手な理由をつけて卑下する心は、平和を生み出しません。

いのちの尊厳をまもろうとしない社会は、たとえ戦争をしていなくても、平和な社会ではないということを、私たちは、いま、自覚したい。そう思います。(写真は、2003年にルワンダで撮影)

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2017年7月26日 (水)

本当に、悲しいです、ね。

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いのちへのまなざし

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ちょうど一年前、相模原で障がいと共に生きておられる19名の方々が殺害されるという事件が起こりました。26名の方も怪我をされたといいます。あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を、心からお祈りし、また傷を負わされた方々に回復と心の平安がもたらされるように、祈ります。

犯人の青年の、障がいを持った人たちに対する考え方、価値観、そしてなによりも人間のいのちに対する考え方には、まったく賛同することができません。それ以上に、事件後には、インターネット上などで、「よくやってくれた」などという賛同の言葉が少なからず見られたことは、私たちが生きているこの社会が、人間のいのちをどう捉えているのかを象徴的に表しているものとして、わたしはすくなからずの衝撃を受けました。

あらためて繰り返すまでもなく、キリスト者にとって、いのちは神から与えられた賜物であり、神はご自分の似姿として、そして善いものとして、人間のいのちを創造されたと、わたしは信じています。そしていのちの価値を計ることがゆるされているのは、その創造主である神のみであり、同じ被造物である人間がそうすることは、神に対する傲慢だと、わたしは思います。いのちは、この世界におけるその始まりから終わりまで、まもられなければなりません。一人一人のいのちの尊厳は、誰一人として奪われてはなりません。

日本のカトリック司教団は、先般、「いのちへのまなざし」と題したメッセージの「増補新版」を発表しました。16年前に発表したメッセージを改定した内容です。旧版冒頭のあいさつに記されていることが、いのちの大切さを説いているこのメッセージ全体を貫くテーマの一つです。

「この世界は人間だけのものではない。人間の幸せも、この世で完結するものではない。世界は神の手の中にあるものであり、人間の営みも、神とのかかわりの中で完成され充実していくものである」

さらにいえば、「誰一人として排除されたり忘れ去られていい人はいない」。これが私たちの牧者である教皇フランシスコの様々な言動の中心にある考えだということを念頭におくとき、自ずと私たちの言動も定まってくるのではないでしょうか。

是非一度、「いのちへのまなざし」を手にとって、読んでみてください。今年の9月2日と9日には、午後1時半から新潟教会で、「いのちへのまなざし」を学ぶ信徒養成講座があります。講師は私です。

以下は、国際ラルシュが公開している短編映像です。静岡にあるラルシュかなの家で暮らすある女性を中心に、相模原の事件に対する考えと行動を短い物語にしたものです。オリジナルは日本語ですが、国際ラルシュのフェイスブックには、英語とフランス語の字幕版が公開されています。(L'Arche Internationale)

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2017年7月16日 (日)

外国人技能実習生について学ぶ@新潟教会

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先週は木曜日と金曜日、栃木県の那須にあるベタニア修道女会の聖ヨゼフ山の家に出かけ、社会福祉法人慈生会の研修会でお話をさせていただきました。

ベタニア修道女会は、1937年に、パリ外国宣教会の宣教師ヨゼフ・フロジャック神父によって、まずは東京教区立として創立された修道会です。その霊性は、修道会のホームページにはこう記されています。

「会の霊性は、フロジャク神父の遺訓である「自ら貧しいものになる」生き方に現れています。そしてそれは、二つの源泉から汲み取ることができます。一つはベタニアの名に示された霊性、もう一つは修道会の保護の聖人とされた聖ベルナデッタの生き方です。」

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また、「『ベタニア』はヘブライ語で……神の前に身をかがめ……『神により頼む貧しい者の家』という意味があります。『ベタニア』はイエスの親しい友、ラザロと、マルタと、マリアの家がある村です。イエスが、エルザレムに向かう時、また帰りにも、好んで立ち寄り、憩われ、疲れを癒されたところです」とも記されています。

フロジャック師はさまざまな社会福祉事業に取り組まれベタニア修道女会がその活動の中心になり、その流れの中で創立されたのが社会福祉法人慈生会。現在は数々の事業を東京を中心に行っていますが、例えば、清瀬には児童養護施設、病院や高齢者施設、中野には乳児院や高齢者施設、そして栃木県の那須にはかつてフロジャック師が手に入れた広大な敷地の中に、障害者支援施設「マ・メゾン光星(以前の公聖学園)があります。

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今回は、その那須にあるベタニア修道女会の聖ヨゼフ山の家を会場に、各施設の責任者と副責任者、法人の理事や評議員の方を対象に、二日間お話をさせていただきました。

そして、昨日の土曜日、7月15日は、新潟教会を会場にして、日本カトリック難民移住移動者委員会が、東京教会管区セミナーを開催してくださいました。日本カトリック難民移住移動者委員会は、カトリック司教協議会の委員会で、カリタスジャパンなどと同じく、社会司教委員会を構成する委員会です。現在は名古屋の松浦司教が責任者です。

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それぞれの教会管区で毎年セミナーを開催されており、今年のテーマは「外国人技能実習生」。東京教会管区セミナーということで、札幌教区、仙台教区、東京教区、横浜教区からも参加者があり、新潟教区からの参加者も含めて30名を超える方々が集まってくださいました。

『移住者と連帯する全国ネットワーク』の鳥井一平さんに、詳しくお話を伺い、その後各教区の取り組みを分かち合って、最後は私が御言葉の祭儀の祈りを持って、午後1時から5時までの研修会を終わりといたしました。

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研修生という言葉は以前からよく聞きますが、この数年で制度が大きく変わり、現在は『技能実習生』。様々な職種での技能を研修するために来日していますが、実態はその名目とは関係のない労働であったり、手取り賃金が非常に低くなっ至り。中には、実習生の人間としての尊厳に関わるような事例があったり、客観的に見れば人身売買と非難されてしまうような事例も見受けられるなど、制度自体の問題が指摘されています。外国からの移民は受け入れないとか、単純労働者は受け入れないなど、世論の動向に反応しながら日本政府はこういった制度を定めていますが、しかし同時に、様々な分野で労働者は不足しており、加えてオリンピック・パラリンピックを控えて、今後も建築現場などで労働力の不足が見込まれる中、様々な衣をかぶって、結局は単純労働者の短期使い捨てにつながる制度でもあると思います。労働力をどうするかの議論ではなく、人間としての尊厳を持った労働者に対する政策をしっかりと議論する必要があるとの指摘が、お話の中でありました。

受け入れ側と送り出し側双方で解決しなければならない問題があるのは、30年以上前のエンタテイナーの問題と同様です。教会は、一人一人が神から生命を与えられた尊厳ある存在であることを大前提に、虐げられたり軽んじられたり排除されたりしてもよい存在はひとつもないのだということを、これからも強調していきたいと思います。一人一人を大切にする神の手が、困難に直面する人に直接差し伸べられるように、その神の手となって取り組みたいと思います。

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なお日本カトリック難民移住移動者委員会では、『技能実習制度Q&A』のタイトルで、非常にわかりやすいパンフレットを作成しています。(写真)これは英語やベトナム語など、多言語で用意されています。是非ご活用ください。お問い合わせは、各教区の滞日外国人司牧の窓口や、東京のカトリック中央協議会の難民移住移動者委員会事務局まで。

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2017年7月11日 (火)

聖地巡礼のお知らせなど

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あらためて、聖地巡礼のお知らせです。

今年もパラダイス社によって、イスラエルを中心とした聖地巡礼が企画されています。今年は11月2日(木)の夜10時頃に成田空港を出発し、11月11日(土)の夜7時過ぎに成田空港へ戻る日程です。今回の企画ではイスラエルだけではなく、途中で国境を渡り隣国のヨルダンへ参ります。最初はガリラヤ湖畔を中心に、ティベリアに3連泊。その後1泊2日でヨルダンを訪れて、またイスラエルに戻り、エリコに一泊。その後はベトレヘムに2連泊で、エルサレムへ巡礼します。

興味のある方、是非一度、お値段や日程などの詳細を、パラダイス社にお問い合わせください。横浜の信徒の方の会社です。電話は045-580-0023 (営業時間は月曜から金曜の9時半から18時まで)。FAXは045-580-0024です。またメールでのお問い合わせは、mary@junrei.co.jp まで。担当は村上透さんです。

申し込み締め切りは9月15日。もちろん例年のように、私が同行する予定です。毎日ミサが行われます。どうぞ、ご一緒ください。

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今日は7月の教区司祭団の集まりが、新潟教会で行われました。毎年、夏のこの時期は、いつものような泊まりでの研修や話し合いは行わず、とにかく集まってミサを捧げ、その後昼食を共にしながら情報交換をすることにしています。今日は鶴岡教会の伴師を含め、新潟から長岡近隣で働く司祭17名が参加しました。

ちょうど福音にはマタイから、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という言葉が朗読されました。あらためて、眼前に拡がる豊かに実った畑で働く働き手が遣わされますようにと、司祭団で召命のために祈りました。

もちろん教会には信徒が果たす役割も多くあり、福音宣教においても、いまでは信徒の果たす社会における生活での言葉と行いを通じた「あかし」による福音宣教には、重要な意味があります。

しかし同時に、司祭の果たす役割には、特に秘跡の授与にはじまり、共同体の牧者として護り導き、また正統な信仰を教える役割には重要なものがあります。これからも新潟教区の各地で、小教区の共同体の牧者として、率先して福音をあかししていく司祭が必要です。

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今日はいわゆる共謀罪の趣旨を含む改正組織犯罪処罰法の施行日となりました。私は法律の専門家ではないので、その内容全体の細部にわたって意見を述べる能力はありませんが、あらためて宗教者の立場から、是非とも司法の担い手の方々には、個々人の内心の自由を尊重し護られますことをお願いいたします。内心なるものは、結局のところ他人の目にはどうしても見えないものなのですから、それを制限することは、当然他者による恣意的な介入にしかなり得ません。個々人の内心における善悪を判断できるのは、究極的にはその本人でもなければ他人でもなく、神でしかないはずです。

また法律は、常に善意の権力者の掌中にあるとは限りません。仮に善意の権力者の手を離れるようなことがあったときにも、その暴走をとどめる手段を明確にされておかれますように。もしそれが不可能ならば、将来への不安には大きなものがあります。国家の権力を担われている方々が、廃止を含めてより善の道を選択できるように、全能の神の祝福と護り、そしてより正しい道への導きがあるように、心から祈ります。

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