2026年7月11日 (土)

週刊大司教第264回:年間第15主日A

年間第15主日です。この主日、わたしは、生まれ故郷の岩手県宮古市の教会で、主日ミサを捧げることになっています。

わたしが生まれた70年近く前、両親は教会とその幼稚園で働いていたため、わたしは宮古教会で生まれ、そこに住み、人生の最初の数年を教会で過ごしていました。

そのときの主任司祭は、ベトレヘム外国宣教会のスイス人の宣教師です。その宣教師と毎日の生活を共にし、毎日のように朝のミサに与ったことが、その後のわたしの人生に大きな影響を与えたと思います。司祭になることだけにとどまらず、文化や言葉の壁を越えて福音を宣教する宣教師としての人生です。

その意味もあって、毎年一度は、感謝を持って生まれ故郷の宮古教会で、感謝のミサを捧げさせていただいています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

年間第15主日A
週刊大司教第264回
2026年7月12日

今の時代、言葉はどれほどの重さを持っていると考えられているのでしょうか。インターネットが発達し、人工知能による情報提供も普通のことになった今、音としてこの世界に生み出される言葉の何パーセントが、心に裏打ちされた重みを持った言葉なのでしょうか。バーチャルな世界で言葉がもてあそばれ、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、重みを失って漂っているとき、わたし達は、キリスト者の信仰にとって、言葉が重要であることを思い起こしたいと思います。

神のことばは、常にわたしたちとともにいてくださる神の現存です。なぜならば、世の終わりまでわたしたちとともにいてくださると約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。ヨハネ福音の冒頭は、「初めに言があった。言は神であった」と始まります。わたし達の信仰は、言葉による信仰です。

ヨハネ福音に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおり、神はご自分のことばを種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

わたしたちは、神が蒔き続けておられる言葉の種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

今必要な準備は、軽く漂う言葉に席巻されている世界に対して、言葉には顔があり心の重みを担っているのだということを証しのうちに伝えていくことであろうと思います。現実の世界の中での具体的な人とのかかわりにおいて、わたしたち自身の言葉と行いこそは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

神の言葉が受け入れられた世界こそは、神が望まれた世界の実現です。神の言葉が豊かに実るとき、そこには神御自身からの賜物であるいのちを徹底的に守り抜く世界が実現し、神の似姿としての人間の尊厳が尊重されているはずです。いのちに対して暴力を振るう世界が、神のことばの種が豊かな実りを生み出す土壌となることはあり得ません。

インターネットが普及している現代社会にあってわたし達は、ネット上に発信されていく様々な言葉でさえも、顔と心に裏打ちされた重さを持った言葉としていく努力が必要です。心配りも何もなく発信されていく攻撃的な言葉が、神の言葉が芽吹く土壌を生み出すことはありません。

時にキリスト者と言いながら、他者のいのちや尊厳に対して暴力的で攻撃的になる、きわめて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、そのキリスト者は一体どんな土壌を神のことばの種のために備えようとされているのかと悲しく思います。

わたしたちの語る言葉こそが、神のことばの種を蒔く土壌を準備するためにあるのだと心に留め、神の言葉の種が豊に実を結ぶように、務めていきたいと思います。

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2026年7月 4日 (土)

週刊大司教第263回:年間第14主日A

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7月になりました。年間第14主日です。

前回もお知らせしましたが、6月26日(金)と27日(土)に臨時の枢機卿会があったため、ローマに出かけていました。毎日40度近い熱波に襲われていたヨーロッパですが、ローマも異常に暑い毎日でした。

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28日(日)にはブラジル司教団が設置するコレジオ(宿舎)を会場に、朝のミサに始まり夕方6時近くまで、各大陸別司教協議会連盟の集まりがあり、わたしもアジア司教協議会連盟の事務局長ですので、他の司教様方と一緒に参加して参りました。今後、大陸別司教協議会連盟の連携をどのように強めていくのかなどについて意見交換でした。

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その後、29日(月)は聖ペトロと聖パウロの祝日で、これはローマのお祝いでもあるので、ローマは休日でした。午前中は、教皇様が司式するミサに共同司式。このミサの中で、この一年間に管区大司教(メトロポリタン)に任命された大司教様方が、教皇様との一致の印であるパリウムを頂きました。私自身のパリウムを頂くミサは2018年6月29日でしたが、この時のミサはサンピエトロ広場、つまり外のでミサでした。しかし今年は異常な暑さということもあり、ミサはサンピエトロ大聖堂内で行われました。天上が遙かに高いので、エアコンがないものの、暑さは少し和らいでいました。

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サンピエトロ広場に通じる道には、前夜から準備された花絵がいくつも並び、その多くのが平和訴える内容でした。そしてその晩には、バチカンの前のサンタンジェロ城で花火大会。あまりの人混みに近づけず、サンピエトロ広場から眺めました。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第263回、年間第14主日のメッセージです。

年間第14主日A
週刊大司教第263回
2026年7月5日

心の安らぎは、絶望の中にではなく、希望のうちに見いだされます。わたしたちの人生の歩みにおける希望は、一体どこに見いだすことができるのでしょうか。

現代社会にあって、希望を見いだし、心の安らぎを得ることは容易ではありません。自分の周囲だけでなく、世界全体の現実を見るならば、今この瞬間も暴力にさらされていのちの危機に直面したり、貧困や圧政の中でもがき苦しんでいる人たちの現実が容易に見いだされます。社会が発展し、技術が進歩する中で、人々の暮らしは改善され、希望が生み出されると考えられてきましたが、現実は残念ながらそうではありません。

この現実の中にあって、人と人との出会いのなかにあって希望を見いだし、安らぎを生み出すことは、教会の使命の一つではないでしょうか。

教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」で、理性と自由意志を与えられた人間は、社会の発展の中で様々な種類の希望が生まれ、そしてそれが奪われ、また発展が必ずしもいのちを生かす希望には繋がらないことを体験してきたと指摘します。

その上で教皇は、「わたしたちは日々を歩んでいくために、小さな希望から大きな希望まで、なにがしかの希望を必要としています。しかし、わたしたちは偉大な希望がなければ満足できません。この偉大な希望は、他のあらゆる希望を超えたものでなければなりません。この偉大な希望は、神以外にはあり得ません」(31)と記し、真の希望は神の懐に抱かれることによってのみ達成されることを明示されています。

マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、すべての人が同じように考え、仲良く過ごしているというのは、現実的ではありません。異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、しかしそれでも教会が希望と安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょうか。それは教会共同体がシノドス的な共同体として、互いに支え合い、耳を傾け合い、ともに祈り、聖霊の導きを識別しようとしてともに歩んでいるからであり、その教会共同体の真ん中には、主イエスご自身が現存され、その主の存在こそが、希望の源となっているからに他なりません。ひとり一人の優しい性格に頼った仲良し共同体を目指しているのではなく、互いに異なる存在を尊重し耳を傾け、支え合い、祈り合う中で、ともにイエスに身を寄せ合うからこそ、安らぎが生まれ、希望が生み出されます。

残念ながら、教会共同体の中で、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え、欠点を抱えた不十分な人間です。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心に主ご自身が来てくださいます。主とともにあるわたしたちは、主が与えてくださる安らぎを、自らもあかしし、行動する道を見いだしていきましょう。

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2026年6月27日 (土)

週刊大司教第262回:年間第13主日A

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年間第13主日となりました。まもなく6月も終わりです。

教皇様は臨時の枢機卿会を招集されましたので、わたしは昨日の金曜日と本日の土曜日、その枢機卿会に出席のため、ローマにおります。また明日の日曜日には、アフリカ、南米、アジアの司教協議会連盟の会議が一日中予定されており、さらに月曜日には、教皇様が司式される聖ペトロ・パウロのミサに枢機卿団は参加することになっています。そのためまだ数日ローマに滞在しております。

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ローマは熱波に襲われており、日中の気温は40度近くまで上がる日が続いています。枢機卿会はグループセッション(霊における会話)のため、参加している180名ほどの枢機卿は11人くらいずつで丸テーブルに分かれていますが、その場所を確保するために、あの広いパウロ六世謁見ホールの前四分の一位を使っています。一応冷房はあるものの、非常にマイルドの冷房で(確かソーラーエナジーを使っているはず)、さすがにこれはということで、最初のセッション以外は、黒スータンに赤い帯ではなくて、普通の半袖ローマンカラーシャツでも良いことになりました。高齢の枢機卿も多いので(枢機卿会には80歳以上もすべて参加する権利があるので)、熱中症で倒れる枢機卿が出ないように祈るばかりです。

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枢機卿会の詳細は後日に。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第262回、年間第13主日のメッセージです。

年間第13主日A
週刊大司教第262回
2026年6月28日

マタイ福音は、イエスに従うと宣言するわたしたちが、人生の歩みにおいて何を大切にしているのかを問いかけます。

もちろんわたしたちは、目の前に苦しみと安楽が選択肢としてあるのであれば、安楽な道を選択してしまう誘惑の中で生きています。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」と記し、人生の歩みにおける苦しみの意味を記しています。

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神ご自身が十字架の上で、わたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。すなわち安楽な道ではなく、苦しみの道を歩み続ける責務があります。

同時に、福音に記された、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という主イエスの言葉の意味は、単に苦しみを求めているというよりも、さらに深いところへとわたしたちを導きます。そもそも「自分の十字架」とは一体なんでしょうか。あえて苦行を耐え忍ぶことでしょうか。

マタイ福音に記されたこの言葉は、わたしたちが主にふさわしいものとなるための条件としての十字架です。それは受け身的に苦しみを耐え忍ぶことにとどまらず、積極的に前向きな行動を促す言葉でもあります。

パウロはローマの教会への手紙に、「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」と記しています。主御自身の死と復活をもたらしたその中心には、十字架が存在します。すなわち、わたしたちは、十字架を通じて主の死にあずかり、主とともに新しいいのちに生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛といつくしみを具体的にあかしする、栄光と希望を指し示す存在です。

その栄光と希望は、神がご自分が創造された人間の命を愛するがあまり、自ら十字架の苦しみに歩みを進め、その苦しみを通じてわたしたちすべてに救い野道を開かれた、目に見える具体的な愛のあかしであります。つまり、十字架は、自分のために苦しみことではなく、愛のあかしを具体的な行動を持って行うための苦しみであります。

わたしたちが神からよしとされるのは、神の愛といつくしみをいただいて、自らそれを積極的にあかしする行動を選択したときです。十字架をあかしするものとなりましょう

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2026年6月20日 (土)

週刊大司教第261回:年間第12主日A

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年間第12主日です。

この一週間、6月15日から19日まで、定例の司教総会が、潮見のカトリック会館で開催されました。カトリック司教協議会の所在地であり、その事務局であるカトリック中央協議会の置かれている日本カトリック会館は、竣工から30年以上が経過し、全面的なリニューアル工事を一年かけて行っています。全体を半分ずつに分け、現在は上半分の工事中ですので、上半分にある事務担当がすべて下半分に移動しています。そのためいつもの総会会場であるマレラホールも仮設の事務所になっているため、今回の司教総会は、一回にある職員の方々の食堂を利用して会議テーブルを配置し、行いました。

一日目はフランシスコ会の小高神父様による霊的講話を頂き、その後にグループに分かれて分かち合い、そしてミサを捧げ、さらに夕方には、東京教区で働く宣教師のグループが、潮見教会でバーベキューに招待してくださったので、そこで司教たちと宣教師たちの出会いの場となりました。

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また二日目の夕方には司教団と男女の修道会の代表とで、教皇庁大使館を訪れ、司教叙階10周年を迎えたモリナ教皇大使と、誕生日であったジョゼッペ参事官のお二人にお祝いを申し上げる機会がありました。

さらに三日目には、成井司教様を講師に、インターカルチュラリティについての勉強会も行いました。

司教総会で決定したことは、この後、カトリック中央協議会の広報や、カトリックジャパンニュースで公開されると思いますので、そちらに譲ります。司教たちのためにいつもお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。お祈りの支えがなければ、聖霊の導きに与ってふさわしい判断をすることも難しくなります。皆さまのお祈りをお願い申し上げます。

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6月23日は沖縄の慰霊の日です。昨年は80周年ということもあり司教団全員で参加しました(写真は昨年の魂魄の塔)。81周年の今年も、朝6時から小禄教会でミサがあり、魂魄の塔までの平和行進が行われます。ローマにいるため参加できませんが、当日は沖縄の皆さんに思いを馳せ、心を合わせて平和のために祈りたいと思います。皆さまにあっても、この日に沖縄の歴史と現実に思いを馳せ、神の平和の確立のために、祈りを捧げられますようにお願い致します。

以下本日午後6時配信、週刊大司教第261回、年間第12主日のメッセージです。

年間第12主日A
週刊大司教第261回
2026年6月21日

先日、6月12日はイエスのみこころ(聖心)の祭日でした。それにちなんで、6月は聖心の月とされています。

イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水はいのちの泉であり、新しいいのちを与える生かす聖霊でもあります。

イエスのみこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、そこから満ちあふれるご自分の愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、回心を呼びかけたという出来事があったと伝えられています。そして主イエスはみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、そのため、9ヶ月の間、初金曜日のミサにあずかり聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあると教会の伝統は教えています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと伝えられています。

今日の福音には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉があります。どのような形され力を持って信仰に介入しようとする迫害に立ち向かい、福音に基づく真理を語り続けるようにとの励ましです。

教皇レオ14世御自身が、その模範を示しています。信仰に基づいて発言された神の平和への望みに対して、大国の政治家が現実離れしていると批判され、一般社会でも論争を呼んでいます。しかしながら教皇レオ14世は、平和への思いを語ることを止めようとはしませんでした。

教皇様は先般アフリカを訪問された際、「宗教と神の名を、自分の軍事的、経済的、あるいは政治的な利益のために濫用し、聖なるものを闇と汚れに引きずり込む人々は、不幸である」と断言されました。その上で、「平和は、隣人を自分の兄弟姉妹として受け入れることによって抱きしめなければならないものです。わたしたちは自分の兄弟姉妹を選びません。ただ、互いに受け入れ合わなければならないのです。わたしたちは同じ家に住む、一つの家族です」と呼びかけられました。

わたし達は同じように、この世の力の前で恐れることなく、信仰を表明できているでしょうか。それは単に、神を信じているのですと表明することにとどまるのではなく、信じていることに基づいてどう生きようとしているのかを具体的に表明することです。

イエスのみこころが、いまこの現代社会の現実の中で、わたし達にどのように生き、どのように行動師、どのように語ることを求めているのか、見つめ直しましょう。信仰を勇気を持って表明する者でありたいと思います。
 

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2026年6月14日 (日)

年間第11主日ミサ説教@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第11主日のミサを、関口教会の主日10時に捧げました。海外からの旅行者の方も含め、聖堂に一杯の方がミサに与り、祈りの時を共にしてくださいました。

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明日6月15日月曜日から金曜日まで、日本の司教団は東京で一緒に集まり、司教総会を開催します。どうか集まる司教たちの上に聖霊の豊かな導きがあるように、みなさまのお祈りをお願い申し上げます。

以下、ミサの説教での原稿です。

年間第11主日A
週刊大司教第260回
2026年6月14日

先ほど朗読された第一朗読の出エジプト記には、モーセに対する主の言葉のうちに、「世界はすべてわたしのものである」と記されていました。世界はそれを創造された神のものであるにもかかわらず、その管理を任されたわたしたち人類は、まずもっていのちを賜物として神から無償で与えられている存在であるにもかかわらずおごり高ぶり、神の者であるこの世界を破壊し続け、賜物であるいのちに暴力で襲いかかっています。

神のものを神が望まれる姿にするのは、神から生かされているわたしたちの務めであります。その務めをないがしろにして、欲望に促されて勝手なことばかりをしている世界の現実に対して、神に立ち返るよう呼びかけるのは、わたしたちの責務であります。

その意味で、今週、6月15日から17日まで、フランスのエビアンでG7サミット(主要国首脳会議)が開催されますが、そこに集まる政治のリーダーたちに呼びかけることも、教会の務めの一つであります。

この会議に合わせてG7各国、すなわちカナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、英国、米国の各カトリック司教協議会会長と、欧州連合(EU)司教協議会連盟会長は連名で共同声明を、この金曜日に発表しました。わたしも現在、日本の司教協議会会長を務めていますので、その声明の作成に加わり、名前を連ねております。

この声明は、それぞれの司教協議会に属しているすべての司教の総意というわけではなく、あくまでも会長たちの話し合いの中で生まれてきた内容ですが、劇的に変動している世界情勢を目の当たりにして、牧者として発言される教皇様のご意向や、特にこの数日のスペインでの司牧訪問と、特にその中での難民や移住者との出会い、そしてそこにおける発言を踏まえて、それぞれの司教協議会会長が持ち寄った意見をまとめ上げたものです。声明全体はかなり細かく四ページに及んでいますが、今の時点で日本語に翻訳され公開ているのはそのサマリーとも言うべき二ページとなっています。

タイトルを「「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」といたしました。その中でわたしたちは、「武力紛争、地政学的な分断、拡大する不平等、気候変動の課題、技術革新といった課題に直面する中で、わたしたちは、すべての人間の尊厳が、政治・経済活動の基礎であり続けなければならないと断言」しています。

その上で主要国の首脳たちに対して、開発や国際連帯、AI人工知能の倫理的課題、気候変動等への取り組みを促しながら、人間の尊厳を守り抜くことを求めながら、わたしたち司教は「教会の司牧者として、またイエス・キリストの弟子として、わたしたちはこの声明を通して、カトリック教会が諸民族のただ中に身を置き、もっとも弱い立場にある人々のために身をささげ、平和、正義、地球規模の共通善のために対話できるよう尽力する」と宣言しています。

教皇様は訪問中のスペインで、難民の方々やそのために働くカリタスのボランティアとお会いになり、そこでボランティアの分かち合いに対して、「わたしたちのまなざしの回心は、移民のケースが「またもう一件」という単なるカテゴリーや統計上の数字でなくなるときに始まることを、あなたの話が教えてくれた」と述べています。

三十年近く前に、まだわたしが神父としてカリタスジャパンの難民支援活動に関わっていた頃、素晴らしいインタビューを見たことがあります。「あなたはいま、一体何件の難民のケースを抱えていますか」とリポーターに問われた現場で働く国連職員が、そのとき何千件も扱っていたにもかかわらず、「何を言っているんだ。わたしが抱えているのは難民のケースではなくて、ひとり一人の人間だ」と答えたのです。衝撃的でした。

人は生きています。ひとり一人は神から愛され、いのちと尊厳を与えられて生きています。教皇様は同じスペインへの司牧訪問中に、「ある意味で私たちは皆、旅人・移住者です。なぜなら、私たちは皆、天の故郷へ向かう旅を続ける巡礼者だからです」と述べられました。この旅路の中で、一人たりとも脱落する者がないように、神から愛されているいのちが一つたりとも失われることのないように努力を続けることは、あわれみの活動ではなくて、神を信じるわたしたちの当然の責務であろうと思います。するべきことは山積みです。

今日の福音は、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言う主の言葉とともに、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という言葉が記されています。

その直後に12人の弟子の選びが記されているので、どうしても、「働き手」は特別に選ばれた人のことであると思ってしましまいます。果たしてそうでしょうか。

そもそもこの言葉は、神の国の完成のために、わたしたちが地上でするべきこと、しなければならないことは、実は神の目において山積しているにもかかわらず、それをないがしろにしているわたしたちへの警告の言葉であります。

「収穫は多い」、つまりわたしたちが福音を実現するためにしなければならない務めはあまりにも多いということです。それに取り組むための働き手がもっと必要なのですけれど、するべき仕事は皆が同じではありません。そこには様々な異なる方法での取り組みが必要です。

だからこそ、12人の弟子たちには様々な人物が選ばれています。皆が同じ才能を持ち同じことをするために選ばれたのではなく、それぞれに与えられた賜物にしたがって働く者が選ばれました。しかも、神の計画を実現するために忠実である者が選ばれました。つまりそれは司祭や修道者という専門職だけが必要なのではなくて、キリストに従うという意思を表明しているわたしたちキリスト者すべての務めが必要なことを示しています。わたしたちひとり一人がどうこの言葉に応えるかが問われています。

もちろん司祭は必要です。修道者も必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、わたしたちすべての責務です。やるべきことは山積しています。自らのできることに忠実に働く弟子が、今求められています。その弟子は、わたしたちキリスト者すべての役割です。

ともに助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の現実の中に山積している数多くの収穫に心を向け、「働き手」としての役割を忠実に果たしていきましょう。

 

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2026年6月13日 (土)

週刊大司教第260回:年間第11主日A

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年間第11主日です。

6月15日から17日までフランスのエビアンで開催されるG7サミットに先立ち、以下に記したG7各国のカトリック司教協議会会長は連名で、「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」と題した声明を発表しました。声明の邦訳(サマリー)はすでに中央協議会のホームページに掲載され、詳細な声明全体邦訳中です。

声明はフランス司教協議会会長であるアブリーヌ枢機卿の呼びかけで始まり、一ヶ月以上前からオンラインで何度か会議を重ね、文案が作成されました。会議は英語とフランス語で行われ、最終文書はフランス語で書かれ、フランス語と英語が正本です。

なおこの声明はそれぞれ署名している司教協議会会長の声明であって、各司教協議会の総意ではありません。

この声明に署名しているのは、ジャン=マルク・アブリーヌ枢機卿(フランスカトリック司教協議会会長)、わたし(日本カトリック司教協議会会長)、マッテオ・マリア・ズッピ枢機卿(イタリアカトリック司教協議会会長)、ポール・コークリー大司教(米国カトリック司教協議会会長)、リチャード・モス大司教(イングランド・ウェールズカトリック司教協議会会長)、ピエール・グードロー司教(カナダカトリック司教協議会会長)、ジョン・キーナン司教(スコットランドカトリック司教協議会会長)、ハイナー・ウィルマー司教(ドイツカトリック司教協議会会長)、賛同者:マリアーノ・クロチアータ司教(欧州連合(EU)司教協議会連盟会長)です。こちらのリンクからご一読頂ければ幸いです

以下本日午後6時配信、週刊大司教第260回、年間第11主日のメッセージです。

年間第11主日A
週刊大司教第260回
2026年6月14日

「収穫は多いが、働き手が少ない」

神の国の完成のために、わたしたちが地上でするべきこと、しなければならないことは、実は神の目において山積しているにもかかわらず、それをないがしろにしているわたしたちへの警告の言葉であります。

このイエスの言葉について、特に「働き手が少ない」という部分に注目して、司祭や修道者という、いわば専門職にある存在への召命が増大するようにと祈ることが求められている解釈することもできますが、わたしはそれよりも「収穫は多い」という言葉に注目しています。わたしたちが福音の実現のためにしなければならないことは多いのです。それに取り組むための働き手がもっと必要なのです。そしてそれは司祭や修道者という専門職だけではなくて、キリストに従うという意思を表明しているわたしたちキリスト者すべての務めであります。わたしたちひとり一人がどうこの言葉に応えるかが問われています。

もちろん司祭は必要です。修道者も必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、一人司祭だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの場で、それぞれに与えられた才能に従って、「働き手」となることが求められています。

教皇レオ14世は先日新しい回勅「マニフィカ・フマニタス」を公布され、人工知能(AI)の倫理性について信仰の立場から踏み込まれました。

それに先立って発表された今年の世界広報の日のメッセージに、次のような一節があります。

「新たなAIシステムがもたらすもう一つの大きな問題は、バイアスです。バイアスは、現実に関するゆがんだ認識の獲得と伝達をもたらします。AIモデルは、それを構築する人々の世界観によって形成されます。そして、それが用いるデータにおける固定観念や偏見を複製することによって、思考様式を押しつける可能性があります。・・・AIは、わたしたちの顔と声を自分のものとすることにより、並行的な「現実」を作り出すことでわたしたちを欺くことさえありえます。わたしたちは多次元世界の中に沈められ、現実と虚構を区別することがますます難しくなっています。」

わたしたちは人工的に生み出された虚構の中に生きる危険性に直面しています。その中で、人間の存在は具体的な声と顔を失い、痛みや悲しみを訴える心は失われ、本当の希望や喜びに到達することができなくなる可能性があります。わたしたちは、現実の中にある、人々の心の叫びに耳を傾け、それを心に刻む者でありたいと思います。神が働き手を求めている収穫は、虚構の世界ではなく、現実世界の中に存在しています。

わたしたちの目の前には、神の国の完成のためにしなければならないことが広がっています。働き手はわたしたちです。わたしたちは共同体の一致の絆のうちに、その務めを果たしていきます。なぜならばキリストの体である共同体にこそ、いのちがあるからです。共同体の絆、交わり、兄弟愛に、わたしたちを生かす源であるいのちがあります。一人では「働き手」の務めを果たすことはできません。ともに助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の現実の中に山積している数多くの収穫に心を向け、「働き手」としての役割を忠実に果たしていきましょう。

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2026年6月 6日 (土)

週刊大司教第259回:キリストの聖体の主日A

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キリストの聖体の主日です。三位一体の主日の週の木曜日がキリストの聖体の祝日とされ、ラテン語の呼び名で、「コルプス・クリスティ」と言われます。もっとも、キリスト教国を含め現代の多くの国では週日に集まることが難しいので(国家の休日であれば別ですが)、その次の日曜日にこの祝日を移動させることになっており、日本でもキリストの聖体の「主日」となります。

キリストの聖体の主日と言えば、多くの国、特に伝統的キリスト教国においては、神の民の一致を目に見える形で現し、主の現存にともに感謝をささげ、主イエスとの一致の誓いを新たにするために、大規模な聖体行列が行われます。主御自身の現存であるご聖体が町の中を顕示され運ばれていく中で、その町に住む多くのキリスト者が、目に見える形で主を礼拝する姿は、信仰の力強い証しとなります。キリスト者が少数派の日本で、同じような意味での聖体行列が町中を練り歩くのは難しいのですが、機会が整い、ご聖体への冒涜の恐れを避けることができるのであれば、東京でも聖体行列をすることができれば良いと思っています。また日本ではちょうど梅雨の始まりの時期でもあり、天候という別なチャレンジもありますが、機会をみて実現できればと思います。皆が主イエスの現存に敬意を表し、礼拝することが重要な目的であることを忘れてはなりません。

またキリストの聖体の主日にあたり、信仰を守ることやそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が尊重されていない国で、また神からの賜物であるいのちに対する暴力が横行し、人間の尊厳がないがしろにされている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に信じる者と共にいてくださり、わたしたちの信仰における兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、祈りたいと思います。

教皇レオ14世の新しい回勅「マニフィカ・ウマニタス」発表の記者発表(2026年5月25日)における、教皇様のメッセージが邦訳されています。またカトリックジャパンニュースにも詳報されています。回勅本体の邦訳は、夏前にはできあがるものと思いますが、ひとまずこれらをご一読ください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第259回、キリストの聖体の主日のメッセージです。

キリストの聖体の主日A
週刊大司教第259回
2026年6月07日

レオ13世の回勅「レールム・ノヴァールム」公布から135年目となる5月15日、教皇レオ14世はご自分の回勅「Magnifica humanitas」を発表されました。教皇は回勅の冒頭で、「神が創造された素晴らしき人類は、今日、決定的な岐路に立たされている。それは新たなバベルの塔を積み上げるか、あるいは、神と人類が共に暮らす国を築くかという選択である」と記し、人工知能(AI)の課題に教会が取り組む必要性を強調されています。

レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を、「教皇レオ十三世が、・・・歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです」と述べていました。

レオ14世は、教皇に選出された当初から「平和」の構築とともに、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。

今年の世界広報の日のメッセージにおいても、教皇は神ご自身がわたしたちに語りかけられるそのことばは、「神の子イエスの声とみ顔のうちにわたしたちに知らされた」と述べています。

わたしたちの信仰は、デジタルの世界によって生み出される仮想現実の中にあるのではなく、生きている人間の具体的な交わりの中に存在しています。

その意味で、ご聖体の秘跡は、何か想像の産物ではなく、まさしくそこに、主イエスが具体的な「声とみ顔」を持って実際に存在し、わたしたちを主との交わりに日々招いてくださる、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であります。(教会憲章11)

キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに主御自身が現存され、わたしたちとともに常におられます。それは想像の産物ではなく、具体的な声と顔を持つ具体的な存在です。

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

わたしたちの信仰と共同体は切り離すことができません。パウロはコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。わたしたちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有するという「交わり」のなかで、生きている信仰です。

ご聖体をいただくわたしたちは、そこに実際に存在しておられるイエスと出会い、ともにその秘跡に与った兄弟姉妹として、キリストにおける一致をあかしするものでなくてはなりません。キリストの聖体のお祝いは、わたしたちの信仰が具体的に生きている主との交わりのうちにある生きた信仰であることを再確認するように、わたしたちに求めています。

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2026年5月30日 (土)

週刊大司教第258回:三位一体の主日A

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三位一体の主日となりました。

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駐日教皇大使を務められるエスカランテ・モリナ大司教様は、司教に叙階された10年を迎えられました。司教で10年ということは、教皇大使になって10年ということですが、もちろんその前に日本やガーナを含むいくつかの大使館で、参事官としての経験を積んでこられました。

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モリナ大司教様の10周年感謝ミサが、先日5月28日夜、六本木のフランシスカンチャペルセンターで捧げられ、司教団からは前田枢機卿様、ガクタン司教様、勝谷司教様、そしてわたしが参加しました。また東京教区で働く大勢の宣教師や、駐日の各国大使も参加され、ともに喜びを分かち合いました。モリナ大司教様、おめでとうございます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第258回、三位一体の主日のメッセージです。

三位一体の主日A
週刊大司教第258回
2026年5月31日

三位一体の主日、第一朗読は出エジプト記からとられています。神がモーゼに与えられた掟が記された最初の石の板は、民の裏切りの前で砕かれてしまいました。それに対して神は、神に選ばれた民を代表してゆるしを願うモーセに対して、今一度掟の石の板を与えるにあたり、ご自分が誰であるのかを明示され、こう宣言されています。

「主、主、あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者」

ヨハネ福音は、神が、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と記し、「神が御子をこの世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記しています。

確かにキリスト教にはいくつもの掟があり、罪を重ねることで裁きを受けると教えています。そのためにキリスト教とは、罪人を厳しく裁く共同体だと理解している人すらいます。しかし今日のこの出エジプト記やヨハネ福音に記された言葉から明白なのは、わたしたちの神は、徹底的にあわれみに富み、忍耐強いという、そのいつくしみの側面こそが、神の姿であることを教えています。

もちろん福音は、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」と記して、何でもかんでも無条件に良しとする訳ではないことも明確にし、独り子であるイエスの言葉と行いに従う者にこそ救いが与えられていることもはっきりとさせています。わたしたちへの神の徹底的な愛といつくしみのうちにわたしたちは生かされ、イエスに従うことで救いへの道を歩んでいくことができます。

これほどの愛といつくしみに包まれているにもかかわらず、この社会の中に、さらには教会共同体の中にでさえ、神を信じていると言いながら、互いを裁き、対立し、分裂が生じるのはどうしてなのでしょうか。もちろん、神の正義は貫徹されなければなりません。不正に目を塞ぐことはふさわしい態度ではありません。しかし同時にわたしたちの神は、あわれみといつくしみに満ちあふれた共同体であることを求めます。

ミサを捧げるとき、司祭は十字架の印の後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさんとともに」と呼びかけます。

この言葉は、パウロが、コリントの教会に宛てた書簡を締めくくった言葉です。今を生きるわたしたち教会は、パウロのその締めくくりの言葉から、感謝の祭儀を始めます。すなわち、現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるたびごとに、パウロが締めくくった地点から、すなわち、「兄弟たち、喜びなさい。完全なものになりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と呼びかけた地点から、常に新たなスタートを切っています。

教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされ続けていきます。三位一体の神秘とは、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして愛といつくしみをわたしたちに降り注ぐ、神の愛の力そのものです。

わたしたちを共同体の交わりへと導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。わたしたちは、過去に戻りません。わたしたちは神の愛といつくしみによって与えられるいのちを生きる希望を掲げ、互いに支え合いながら、歩み続ける現代の神の民であります。

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2026年5月23日 (土)

週刊大司教第257回:聖霊降臨の主日

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聖霊降臨の主日です

東京教区では、聖霊降臨の主日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、合同堅信式を行います。また詳報しますが、今年は70名を超える方が一緒に堅信を受けられる予定です。

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この一週間は、国際カリタスの年に五月と十一月の二回行われる理事会(代表委員会)の一回目が、インドネシアのラブアンバジョで開催されたため、出かけておりました。コモドドラゴンで有名でもあるラブアンバジョは、カトリック人口の多いことで知られるフローレス島にあり、以前はルテン教区の一部でしたが、2024年6月にルテン教区から分離独立して、ラブアンバジョ教区となりました。教区司教はマクシムス・レーグス司教様です(上の写真でわたしと握手しているのがレーグス司教様)。まだ誕生して二年の教区です。

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今回は会議に先立って、ラブアンバジョ教区のカテドラルで国際カリタスの75周年と、カリタスインドネシアの20周年、そしてカリタスラブアンバジョの2周年を祝い、感謝のミサを捧げました。司式と説教はわたしが担当させていただきました(ミサは英語)。ちょうどカリタスインドネシアの運営委員会も同じ時に予定され、インドネシアの司教協議会会長のアントニウス・スビアント司教様始めルテン教区のシプリヌアス司教他数名の司教様方もこのミサにご一緒くださいました。インドネシアは聖歌隊が上手なことで知られていますが、ラブアンバジョのカテドラル聖歌隊も、素晴らしい歌声と美しいハーモニーでした。

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またそれに先立ち、カナダのカリタスの支援で行っているコミュニティ農業プロジェクトを国際カリタスの参加者皆で訪問しました。ラブアンバジョから数台のハイエースバンに分乗して二時間。到着したダタック村の聖テレサ教会で大歓迎を受け、実際に農場でレーグス司教様と一緒にほうれん草を収穫させていただきました。

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カリタスは世界的なNGOであることは間違いありませんが、決して上から何かを持ってくるだけの組織ではありません。カリタスは教会なしではあり得ませんし、逆に教会もカリタスなしは考えられません。教皇ベネディクト16世が「神は愛」で記したように、カリタスの業は教会の本質的部分であり、オプションではありません。そしてカリタスは、こういった地域の教会共同体に根ざした小さなプロジェクトの積み重ねでできている組織です。地域の共同体に根ざしたプログラムなしに、カリタスの存在は考えられません。だからその地域で関わっている人たちと一緒に、皆で胸を張って「We Are Caritas(わたし達はカリタスだ)」と宣言するのです。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第257回、聖霊降臨の主日メッセージです。

聖霊降臨の主日A
週刊大司教第257回
2026年5月24日

シノドス的な教会のあり方をテーマとしたシノドス第16回総会において、教皇フランシスコは、しばしば、「皆さんの意見が聞きたいのではありません。聖霊が何を語っているかが知りたいのです。聖霊が主役です」と発言し参加者を驚かせました。

ともすれば現代社会の中で生きる教会は、現代社会の価値観の中にある組織体として、今の時代の常識が求める道を歩まざるを得ません。どうしても明確な行動計画や目標がないと、わたしたちは安心できません。それに対して教皇フランシスコは、状況分析や統計など人間の知恵では知り得ない神の導き、聖霊の声に耳を傾けるという、わたしたちの信仰の本質を忘れてはならないと強調されていました。

第二バチカン公会議の「教会憲章」に、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、 あたかも神殿の中にいるかのように住み……福音の力をもって教会を若返らせ、たえず新たにし、 その花婿との完全な一致へと導く」という言葉があります。教会とは建物や人の集まりのことではなく、時の流れの中を旅する神の民のことであり、その神の民の中に聖霊が働き、導いているのだと教えています。

だからこそ、聖霊がいま私たちをどこに向かって導いているのかを模索し、知ろうとしなければならない。それが霊的な識別です。その識別によって、たとえわずかのことしか分からないとしても、また教会運営の現実的な様々なしがらみに囚われているにしても、常に神の民の中で働く聖霊が、どこに向かって教会を導いているのか。それを知ることが教会が教会であるために必要なのだと、教皇フランシスコは繰り返されていました。

いま2028年10月に開催される評価のための総会に向けて、それぞれの共同体で具体的な実施段階にあるのですが、残念ながら具体的には何をすれば良いのかが明確ではないという理由で困惑する声も聞かれ、中には教皇フランシスコの帰天とともにこのシノドスは終わりだという雰囲気すらありました。しかし今年1月初めの臨時枢機卿会を、まさしくこのシノドス的な霊における会話の手法で実施することで、教皇レオ14世は、教皇フランシスコが備えたシノドスの歩みの道を、粛々と継続することを明示されています。

使徒言行録に記されている聖霊降臨の出来事の特徴はいったいなんでしょうか。

まず、聖霊は、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ところで働いています。すなわち、聖霊は単独でひとり一人に他者と無関係に働くのではなく、共同体が一致しているところに働いています。そして、そのときには、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが集まっていた家中に響いた」と記されています。激しい音は周囲にも響き渡り、「この物音に大勢の人が集まってきた」とも記されています。すなわち、聖霊が働いているところは静寂が支配しているのではなく、騒々しさが支配しています。

重要なのは、聖霊によって生かされ常に刷新されている教会は、聖霊が働いているのですから、決して落ち着いた静かな教会ではあり得ません。騒々しい、落ち着かない教会です。一人でそんなところに取り残されたのなら、耐えきれない騒々しさかもしれません。だからこそ、聖霊は一致して集っている共同体に働くのです。互いに支え合い、助け合い、共に歩む兄弟姉妹がいるところに働くのです。聖霊は教会共同体に、多様性における一致をもたらします。

 

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2026年5月16日 (土)

週刊大司教第256回:主の昇天の主日A

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主の昇天の主日です。

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この一週間は、バンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の信徒家庭部局(OLF)が主催して、アジアの現実の中で家庭に対する使徒職を考察するシノドス流の集いが行われました。

この10月に教皇様は「愛のよろこび(Amoris Laetitia)」の10周年を記念した会議を開催することを発表されていますが、今回の集いもこの文書の精神が宣教の現場でどう生かされているかについて、講演と参加者による霊における会話が行われました。

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アジア各地から大勢が参加されましたが、日本からは青年司牧を担当しているアンドレア・レンボ司教様が代表として参加。日本の現状について発表されました。

またこの信徒家庭部局の秘書は西村桃子さんが務めており、当然西村さんも参加して初日の司会を務め、さらにわたしもFABC事務局長として開会のミサを捧げるために、三日間だけ出かけてきました。

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またわたしが会長を務めるカトリック美術協会の恒例の「カトリック美術展」は、今年第70回を迎え、5月15日(金)から20日(水)まで、有楽町マリオン11階、朝日ギャラリーで開催されています。

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初日のオープン時に会場を訪ね、出品作品を鑑賞させていただきました。また当日来られていた出品メンバーの方々からは、作品の解説を頂きました。美術に何らかの形で携わっておられる皆さんには、是非、カトリック美術協会のことも心にかけていただけると幸いです。 

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第256回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

主の昇天A
週刊大司教第256回
2026年5月17日

「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と、福音宣教へ旅立つように弟子たちに命じる復活されたイエスの言葉を、マタイ福音は記しています。その言葉とともに、復活された主は昇天されたと、使徒言行録は記しています。

イエスは、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教え」ることが、「すべての民をわたしの弟子に」することなのだと明示されています。

主の受難と死と復活に与り、新しいいのちへと招かれたわたしたちには、福音を告げ知らせる使命が与えられています。イエスをキリストと信じ、その弟子として従う一人ひとりには、福音宣教の使命が与えられています。わたしたちの責任です。

しかし同時にその責任はわたしひとりに課せられる重荷ではなく、キリストのからだである教会に与えられている使命です。なぜならば、福音とは喜びの便りであって、苦しみの重荷ではないからに他なりません。

そしてわたしたちは、ひとりで喜ぶことはできません。喜びはかかわりの中から生まれます。だからこそ、復活されたイエスが弟子に約束された「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という約束の言葉が思い意味を持つのです。わたしたちはともに歩んでくださる主とのかかわりがあるからこそ、喜びを心に抱きます。そして主御自身が弟子たちとともに歩まれたように、現代のわたしたちは主がともに歩まれる教会共同体の中のかかわりによって、心に喜びを抱きます。いのちを生きる希望を抱きます。そしてその喜びと希望を、教会は共同体の存在を通じて、この世界のただ中で、証ししていきたいのです。その歩みには、主イエスがいつもともにおられます。まさしく教会がシノドス的であろうとすることの意味はそこにあります。

シノドスの最終文書「シノドス流の教会」には、神の民が福音を告げ知らせる喜びの共同体となるために、「教会のシノドス流のスタイルを身につける養成が、洗礼によって授かったたまものは、すべての人のために実らせるべき才能であるという自覚を促す」信仰の継続的な養成が不可欠だと指摘しています。

その上で同文書は、「それぞれの人の人生には、主とのかかわりや教会の交わりへと導かれるきっかけとなった、さまざまな・・・出会いがあります。・・・宣教する主の弟子となることは、一度で達成される目標ではありません。それは、絶えざる回心と、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで愛を成長させること、そして、信仰の喜びのあかしのために聖霊のたまものへと開かれていること」が必要だと指摘しています。

宣教へと派遣されたわたしたちは、話のテクニックを深めたり、神学的知識を豊かに蓄えたりしなければ、その使命を果たすことができないのだと考えてはなりません。そうではなくて、神の民としてのわたしたちの教会共同体を、シノドス的な共同体として常に育てること自体が、福音を豊かにあかしする旅路の第一歩です。

もちろん洗礼の数は重要です。ミサに与る信徒数は重要です。しかしそれ以上に、「いつもあなた方と共にいる」と言う主の言葉に信頼し、共同体としてともに支え合い、祈り合い、識別のうちに共に歩む神の民のシノドス的あり方を深めること抜きでは、数字には意味はありません。

 

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