2026年9月 5日 (土)

週刊大司教第267回:年間第23主日A

Img20260822wa0019

8月いっぱいお休みさせていただいた週刊大司教は、今回から再開します。これまでも常時、3回分ほどは事前に撮影してストックしてきたのですが、枢機卿を拝命して以来、不在にすることが多く、お休みさせていただくこともまれにあるかと思います。

8月は国際カリタスの緊急な要務のためローマに数日だけ出かけざるを得なかったり、一年前から引き受けていた香港での一週間の黙想指導などがあり、その合間に、広島でも平和行事、東京での平和旬間、聖母被昇天祭などの重要な国内行事もありましたので、大変にバタバタしておりました。

Img20260821wa0012

香港では神言会の台湾・香港の会員27名ほどの黙想指導で貴重な霊的な体験をわたし自身がさせていただきました。香港とマカオは神言会の中国管区の一部分で、現在の管区長は台湾におられます。黙想の家は、日本では白百合学園を運営しているシャルトルの聖パウロ修道女会のシスターによって運営されており、香港の裏手側、深圳との境(国が同じなので国境ではないですが、国境に近い取り扱い)に位置しており、深圳の町並みを望むことができる場所でした。黙想会は英語で行いました。私にとって一週間の黙想会でお話しするのは、人生で二回目の経験です。短い講話ならばいくらでも経験がありますが、一週間の黙想指導には、やはりそれなりの経験と霊性の深さが必要だなと感じさせられました。

Img20260821wa0096

またこの黙想会終了後、金曜日の午後には、マカオで働いている神言会員に連れられて車で長大な連絡橋を渡り、お隣のマカオを訪問し、日本の殉教者の聖遺物のおかれている、あの正面の壁だけが残っている聖パウロ教会で、数多くの殉教者の聖遺物の前でお祈りさせていただきました。

Img20260822wa0013

またその翌日土曜日には、朝から香港の空港の近くにある水の上に広がる大澳村を、青年たちと一緒に訪れてミサを捧げ、対話集会を行う機会も頂きました。集まっていたのは、英語を話す青年達で、出身も多様な文化圏でした。その中には、学校で日本語を学んでいるという青年も複数おり、英語と日本語が飛び交う不思議な雰囲気でした。

780893533_1376313871296626_8066482524303

さらに、8月16日と23日には、香港市内の教会で英語で主日ミサを捧げさせていただいたり、23日にはそのミサ後に、今度は香港日本人会でのミサを捧げさせていただいたりと、多くの出会いがあったことに感謝しています。

785993473_1376313627963317_4454337274525

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第267回、年間第23主日のメッセージです。

年間第23主日A
週刊大司教第267回
2026年9月06日

今年の夏は、天候が不順で、非常に暑い地域もあれば、繰り返し台風の被害を受けた地域も少なくありません。また日本では熊本をはじめ世界各地で頻発した地震もありました。被害を受けられた皆さまにお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。

同時に、教皇様がこの夏の間の一般謁見やアンジェルスの祈りの時に繰り返されたように、世界各地で戦争や紛争が継続し、神からの賜物であるいのちが暴力にさらされています。いのちに対する暴力はゆるされず、神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにしてはならないと、神を信じるわたしたちは改めて強調したいと思います。暴力を肯定する口実を探すのはやめましょう。

本日の第二朗読でパウロはローマ人の手紙に、「その他どんな掟があったも、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません」と記しています。その相互の愛の絆によって、わたしたちはそれぞれ異なっていても、一つにつながれており、ともに暮らす家においていのちを生きることで、一つの共同体を作り上げています。

9月1日は被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、9月1日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。

世界的に気候変動の影響が語られ、その原因が様々に取り沙汰される中で、2015年、教皇フランシスコは「ラウダート・シ」を発表されました。副題は、「ともに暮らす家を大切に」とされています。広く環境問題に取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託された自然界を、養い育てる責務を果たすことにつながり、それは信仰上の責務でもあると強調されました。

教皇フランシスコが強調されたエコロジーへの配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めようとかいう単独の課題への取り組みのことにとどまりません。それは、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に、ひとり一人が真摯に向き合い、答えを見いだそうとすることに他なりません。

マタイ福音は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と記し、主の名によって集められたわたしたちの共同体には、主御自身が常に存在されていることを明示します。ます

この主御自身の存在によって結び合わされたわたしたちは、感謝の祭儀に与ることで、朗読される御言葉のうちに現存される主と出会い、ご聖体の秘跡のうちに現存される主をいただきます。

わたしたちを結び合わせる掟の中心にある「隣人愛」とは一体何なのでしょうか。「自分のように愛する」とは一体どういうことでしょう。それはただひたするに優しくすることでもなければ、自分の思いを押しつけることでもありません。それは、自分自身が生きて行くことを肯定しているのと同じように、交わる他者がいのちを生きていくことを肯定する態度であります。生きるための希望は、互いに支え合う交わりの絆を確認するところから生み出されます。すなわち連帯こそが、生きる希望を生み出します。そこに隣人愛の根本があります。

ともに暮らす家を大切にすることも、互いのいのちを守ることなのですから、まさしくエコロジカルな取り組みは隣人愛の行動であります。

ビデオ

| |

2026年8月30日 (日)

年間第22主日A@東京カテドラル聖マリア大聖堂

1787318344923

8月の最後の主日。本日は関口教会の10時の主日ミサを担当し。東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサを捧げました。

説教の中でも触れていますが、今週の火曜日、9月1日から、「ラウダート・シ」にちなんだ「すべてのいのちを守る月間」が始まり、10月4日まで続きます。

東京教区では、今週の土曜日、9月5日の午後1時から、司教団の「ラウダート・シ」部門担当である新潟の成井大介司教様においでいただき、講演会とミサをすることにしております。時間がある方には、是非ご参加ください。講演会は午後1時からケルンホール、ミサを午後4時から聖マリア大聖堂です。

以下、本日のミサの説教原稿です。

年間第22主日関口教会ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月30日

今年の夏は、早い時期から台風が発生したり、酷暑が続いてみたり、また先日は千葉県内でも大きな被害が出たように各地で豪雨被害もありました。今朝ほども福井県で豪雨の被害が出ていると報道されています。さらには熊本を始め各地で地震が発生したりと、自然の巨大な力の中で生きていくわたしたち人間の力が、いかに小さなものであるのかを思い知らされた夏でもありました。被害を受けられた多くの方々には心からお見舞いを申し上げます。またネパールと中国の国境地帯では、大きな土石流の災害も発生し、多くの方が被害を受けられ、亡くなられた方も多くおられると報道されています。先日訪問したインドネシアのフローレス島や、フィリピン、コロンビアやベネズエラなど、世界各地で地震災害が発生しています。被害を受けられた方々に、いのちの与え主である神様のいつくしみ深い手が差し伸べられることをお祈りいたします。

今年の5月末からは、気象庁の防災気象情報も変更され、大雨警報などの程度が数字で示され、早い段階から避難を呼びかける制度となったり、線状降水帯という言葉も、少し前までは集中豪雨などと行っていましたが、だんだんと耳に慣れてきました。明らかに気候は変動しています。確かにこの数年、日本の気候は荒々しくなり、特に夏の気候はまるで熱帯地方のようになりました。否定する人もいる中で、いわゆる温暖化による気候変動は事実なのだと確信させるに十分な、気候の大きな変化を、夏でも冬でも経験するようになりました。

教皇フランシスコが「ラウダート・シ」を発表されてから10年以上が過ぎました。2015年のことでした。「ともに暮らす家を大切に」と副題に記され、環境問題に総合的な視点から広く取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託されたこの自然界を養い育てると言う、創世記に記された人間の務めを果たすことにつながり、それは同時に信仰上の責務でもあると強調されました。

毎年9月1日は「被造物を大切にする世界祈願日」とさだめられていますが、東京教区では次の土曜日、9月5日の午後1時から、司教団のラウダート・シ部門の担当である新潟の成井大介司教様をお招きして講演会をケルンホールで開催し、またその日の午後4時から、成井司教様の司式で東京カテドラルでミサが捧げられます。どうぞご参加ください。

また9月1日からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の期間として「被造物の季節」と定められており、日本の教会ではこの期間を「すべてのいのちを守るための月間」と位置づけています。この期間は、気候変動や温暖化の問題を取り上げるだけでなく、それ以上に、「ラウダート・シ」がもとめているわたしたちの「共通の家」を守るという理念の啓発に取り組み、またそれを神から与えられた賜物であるいのちの視点から、霊的に深めていくために定められています。すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な時とすることが求められています。

今年の「被造物を大切にする世界祈願日」にあたり、教皇レオ14世はメッセージを発表され、そのタイトルを、イザヤ書2章から引用されて、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」とされています。

メッセージの中で教皇は、「国々が「剣を打ち直して鋤とし」、いのちを損なうものを、いのちを支えるものへと変える時が来ると語りました。ところが、今日わたしたちは、それとはまったく逆のことばかりを目にします。暴力と戦争へと心血を注ぎ続けているのです」と指摘されています。

その上で教皇は、戦争こそは「次々と犠牲者を生み、家族を引き裂き、何百万人もの人を故郷から追いやり、恐怖と不正義と分断を募らせ」ると述べ、「何世代にもわたる社会の荒廃と環境の破壊を残す」ことによって、悪循環を生じさせていると指摘されます。環境問題への取り組みは、平和構築への取り組みであることを、教皇は明確に述べています。

平和構築について教皇はメッセージで、「戦争は、神にかたどり、神に似せて造られた人間として生きること、いのちを尊ぶこと、わたしたちにゆだねられている大地のケア、これらに深刻な落ち度があったことの表れです。単に政治的な失敗であるだけではなく、道徳的、霊的な落ち度でもあります」と記し、わたしたち信仰者は率先して、「真理、対話、忍耐、善意、正義、いつくしみ、理解、配慮、愛」によって、人々の心にいやしを生み出そうと呼びかけています。

「ラウダート・シ」の呼びかけは、わたしたちが享受している生活を大きく変えていくことを意味しているため、抵抗されたり無視されたりしがちであります。しかし、神がこの世界を創造し守り育み管理するようにとわたしたちに託したその願いに心を留めるならば、何もせずに今の生活を享受し続けることは、福音にあったように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」とわたしたちも主から叱責される姿勢であることは間違いありません。

預言者エレミヤの嘆きの言葉が、第一朗読に記されていました。

「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」

わたしたちはイエスを通じて語られ、聖霊によっていまも導いてくださる主の救いの福音が実現するようにと、生活を通じて取り組んでいます。その取り組みの度合いにはそれぞれの生活の現実において違いがあるとはいえ、エレミヤが記すように、「もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上が」るのですから、止めることはできません。一度でも心で受け止めたのであれば、主の言葉は、決して消えることのない炎として、心の内に燃え続けています。

イエスのメッセージを現代社会の中で生き、さらに伝えていくことには、様々な困難が伴います。環境問題にしても、平和の確立にしても、賜物であるいのちと人間の尊厳を守ることにしても、現代社会の現実はそれに生きることが、まるで夢物語を語り続ける愚か者の生き方であるかのように、嘲笑の対象としてしまいます。社会の現実は、わたしたちが福音に従って生き、語り、行動することを、容易ではないものにしています。

福音が夢物語と見なされるときに、エレミヤの言葉を心に留め、そして第二朗読のパウロの言葉を心に留めたいと思います。ローマの教会への手紙で、「あなた方はこの世に倣ってはなりません」と、力強く勧めの言葉を記しています。わたしたちは常に、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを」わきまえるものになりたいと思います。

この世界の常識に流されて、妥協してしまいたくなるわたしたちの心に、主は、「サタン、引き下がれ。あなたは、・・・神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しい言葉を向けられています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」という主の言葉は、苦行をしろと言っているのではありません。十字架の道は単なる苦しみの道ではなく、神が自ら創造された賜物であるいのちを救うために歩まれた、自己犠牲による愛の道です。他者のために捧げる愛の奉仕の道です。主の十字架は、苦しみの象徴ではなく、すべてを賭して、わたしたちへの愛を目に見える形で行動に移された神の愛といつくしみのあかしです。

イエス自身が歩まれた道、すなわち十字架の道を、ともに歩むようにと言う主の呼びかけに、真摯に応えるものであり続けましょう。

 

| |

2026年8月15日 (土)

2026年聖母被昇天祭ミサ@東京カテドラル


1785799645893

聖母被昇天祭は、同時に、毎年、平和について深く考えともに祈る機会となる終戦記念日でもあります。また平和旬間の最終日でもあります。

聖母マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義に基づく祭日で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世がその教義を荘厳に公布しました。

中央協議会のサイトには、この日が8月15日となった歴史的経緯について、こう記されています

この8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。この死去は、マリアが天に召された(帰天)ことと永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

なおわたしの洗礼名である聖タルチシオは、8月15日が祝日であり、タルチシオを洗礼名に頂いている人は8月15日に今でもお祝いをするかと思いますが、その8月15日が聖母の祭日となったため、典礼の暦上は8月12日へ前倒しになっています。この霊名の祝日のために、わたしのためにお祝いとお祈りをくださっている多くの皆さまに感謝申し上げます。タルチシオという霊名は、わたしが生まれた当時、父も母も教会で働いていたこともあり、わたしたち家族が住んでいた岩手県の宮古教会で司牧にあたっていたスイス人宣教師が、「聖タルチシオがヨーロッパでは侍者の保護の聖人だから」ということで選んでくださったと聞いています。

以下、本日午後6時から配信している関口教会の聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月15日

聖母マリアは平和の元后です。

なぜそうなのかと言えば、聖母マリアは、神の定めた秩序がこの世界に実現するために、人生のすべてを捧げられた方だからであります。

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。すなわち神の望まれる世界の実現こそが、平和の達成なのですから、神の意志を実現するために生きるすべての人は、平和を実現するために生きていると言っても過言ではありません。

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる口実を見つけ出しては、わたし達人類は神からの賜物であるいのちに暴力的に襲いかかり、その尊厳をないがしろにしています。そのようないのちの状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物であるいのちはその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。なぜならそれはわたし達が作ったものではなくて、神から無償で与えられた賜物であるからです。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。わたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るために人生をかけることこそは、それこそが平和を確立するための道です。ですから聖母マリアは、平和の元后です。神の意思の実現のためにすべてを投げ出して人生を捧げたからであります。

平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受けたときに、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と記されています。神の意志が実現する、すなわち平和の実現とはいかなる状態なのかがそこに明示されています。

そこでは、この世界の常識が全く覆され、多くの人から見捨てられ、忘れられ、いらないものとして排除され、社会の中心から追われて周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが豊かに向けられていることが記されています。

聖母マリアがその人生のすべてをかけてその身に引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割でありました。その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって忘れられた人たちへのいつくしみに満ちた配慮と思いやりを、この讃歌は高らかに歌っています。

また神がどこに人間の価値を見いだすのかについて、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りではなくて、人間が価値を見いださない存在のうちにこそ神は価値を見いだすのだと宣言します。

すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとしてすべからく大切なのだという、神のいのちに対する価値観が、そこには明示されています。わたしたち人間が価値がないとみなすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。

エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。神の意志が実現すること、神の秩序が実現すること、つまり神のことばが実現することこそが、神がよしとされる状態であり、それが神の平和の実現であります。弱い存在や異質な存在を排除するところに、平和は実現しません。自分の利益のために他者を犠牲にしても構わないと判断するところに、真の平和は存在しません。自分の存在を守るために、誰かが犠牲になるのはやむを得ないと考えるところに、神の平和は実現しません。

いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが暴力的に奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。その喝采の陰に、どれだけの人が子供や親や親しい人を暴力的に奪われて嘆き悲しんでいることでしょう。戦地で親しい人を奪われて嘆き悲しむ姿を、ニュースなどで目にすることがあります。それをどこかの誰かの悲劇に留めず、その悲しみをわたし達自身の心に刻み込みたいと思います。

2026年5月30日の夕刻、バチカン庭園で行った平和のためのロザリオの集いの終わりのあいさつで、教皇レオ14世はこう述べられました。

「マリアとともにロザリオの神秘を観想することは、御父が語られた唯一の決定的なことば、悔い改めの心をもって御父に立ち帰るすべての者にとっての平和のことばを、イエス・キリストのうちに見いだすようにわたしたちを導きます。」

その上で教皇は、「平和は正義と愛からほとばしり出ます。人々と家庭と地域社会と民族を結びつける調和と同じように。この緊張と紛争の時代においても、平和は、平和を奪われた人々の叫び声にわたしたちが耳を傾けるならば可能です。――罪のない子どもたち、苦悩のうちにある母親と父親、虐待された受刑者、避難民、あらゆる年齢の苦しむ人々の叫び声に。彼らのすべてが発することばはただ一つ、平和です」と述べて、聖母マリアと共にいのちを守り平和を実現するように祈り行動するように招いておられます。

いのちに対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりにし、またその暴力を肯定し、暴力の源である兵器を増強しようとする社会の風潮の中にあって、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日もわたしたちが生きる道筋を示そうとされています。栄光のうちに天にあげられた聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の言葉が実現し、その秩序が確立され、神の平和が実現するように、聖母マリアと共に歩んで参りましょう。

| |

2026年8月 8日 (土)

2026年平和旬間@東京教区

1786184472889

日本のカトリック教会は、広島に原爆が落とされた8月6日から終戦の15日までの10日間を、平和旬間と定め、毎年、平和について黙想し、祈り、また呼びかけ行動するための期間としています。もちろん平和について考え祈ることはキリスト者にとって常に必要なことですが、この10日間の特別な期間は、1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世が、広島の地から世界に平和を呼びかけたことに触発され、その呼びかけを受けて翌1982年から毎年集中して平和について考え祈るときとして行われている特別な時です。

1786184357760

まさしく大量破壊兵器で、一瞬のうちに何万、何十万もの人命が奪われた体験を、その歴史において二度も刻まれた私たちの国は、人類社会全体に対してその悲劇から生み出された平和を希求する真摯な願いを、訴え続けていく責務があります。さらにはそもそも核兵器の使用を招いた戦争という手段を持って国家間の紛争を解決することに対しても、同じ家に生きる兄弟姉妹として解決するためには他の道があるのではないかと、世界の国々に呼びかけたいと思います。

この平和旬間にあたり、司教協議会会長としての談話を発表しています。カトリック中央協議会のサイトをご覧ください

また東京教区の平和旬間の取り組みは、教区ホームページのこちらをご覧ください。

1786184365518

以下、本日午後3時半から東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた平和祈願ミサの、説教原稿です。なおこのあと平和巡礼ウォークが目白駅まで行われましたが、わたしは急用のためローマへ出かけなくてはならなくなり、平和巡礼ウォークには参加できませんでした。暑い中、参加くださった皆さま、ありがとうございます。

平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月8日

平和を求めて語り、また行動する人に対して、嘲笑の言葉が浴びせられるのは、決して目新しいことではありません。旧約聖書にも、例えばエレミヤ書には、王に対して戦いを控え、攻めてくる敵に刃向かわないことこそがいのちを守ることだと忠告する預言者エレミヤに対して、役人たちは王にこう言ったと記されています。

「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」(エレミヤ38章4節)

こうしてエレミヤはすさまじいまでの迫害を受けることになりますが、平和を語り続けたことでいのちを危機にさらした事例はわたしたちの身近にもあります。

太平洋戦争へと歩みを進めていた日本においても、政治家だけではなく、平和を語る学者や宗教者、そしてジャーナリストなどに対して、治安維持法に基づく嫌疑で弾圧があったり、社会全体の好戦的な雰囲気が醸成される中で、それに抗うものに対する社会的な圧力と具体的な攻撃は増していったことが記録されています。

そしていま、社会全体がどこに向かっているのかは、実際には予測することは難しく結果論でしかないのかもしれませんが、必ずしも平和の方向に向かっているとは言いがたく、人間の好戦的な指向性に資する方向に歩みを進めているようにしか感じられません。

1981年に広島を訪問された教皇聖ヨハネパウロ二世は、「戦争は人間の仕業です」とその平和アピールを始められました。続けて教皇は、広島と長崎について、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にすると、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめる」と述べています。

さらに教皇は、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と三回繰り返され、核兵器の使用による悲劇を忘れることなく、核兵器の使用の否定と核兵器の廃絶に触れた上で、こう述べておられます。

「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません。」

私たちは今どのような道を歩もうとしているのでしょうか。平和への呼びかけが嘲笑の的になる時代は、果たして平和へと向かっている時代なのでしょうか。

教皇レオ14世は、先般ご自身の著書を発表され、そのタイトルを、まだ仮訳ですが、「武器のない、武器を取り除く平和」とされています。

教皇は序文の中で、「平和を生み出すのは核兵器ではなく、軍縮です。この数十年間、核の緊張緩和が進む中で自明のものと思われていたこの真実は、今日、人々を恐怖と戦慄に陥れている軍拡競争によって影をひそめてしまいました。」と記しています。

その上で教皇レオ14世は、「平和は、つまるところ希望を必要としています。教会はこれからも、すべての人々への愛を説き続けるでしょう。もし世界が今日何かを求めているならば、それは未来への希望のメッセージであるとわたしは信じています」と記し、主イエスのメッセージにこそ希望の唯一の源泉があり、それを告げる使命があるのだと強調されています。

わたしたち日本の司教団は、昨年の戦後80年にあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもってわたしたちに突きつけられています。

人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、実はそれは間違いなどではなくて、それこそがわたしたちの本当の姿なのかもしれないと思ってしまいます。

いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。

東京教区の姉妹教区であるミャンマーでは、今でも軍事政権による混乱が続き、平和を求める教会の叫びには暴力が襲いかかり、絶望を生み出し続けています。先日バチカンで行われた枢機卿会議で、二日間、アフリカは南スーダンの首都ジュバ大司教のムラ枢機卿様と隣同士でしたが、南スーダンを始めアフリカ各地の非常に厳しい社会情勢と、いつ終わるともしれない内戦状態について実情を伺い、リーダーたちが平和に目覚めるように祈ってほしいと依頼されました。世界の各地で、平和は片隅に追いやられ、忘れ去られ、命が危機に直面し、暴力のもたらす絶望が支配しています。

私たちはこの現実の中で、愚直に平和を語り続けるものでありたいと思います。非戦による平和を説いて迫害されたエレミヤでありたいと思います。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられ、似姿としての人間の尊厳を与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。過去に謙遜に学ぶものでありましょう。

 

| |

2026年7月25日 (土)

週刊大司教第266回、年間第17主日A

1784901338629

7月最後の主日は年間第17主日です。

今週はアジア司教協議会連盟(FABC)の総会のために、インドネシアのジャカルタに来ています。日本からは、司教協議会会長のわたしと、代表として成井司教様、ガクタン司教様が、また信徒家庭局の秘書として西村桃子さんが一緒に参加しておられます。

Img20260723wa0007

今回の総会のテーマは「シノドス的な回心と宣教への招き。アジアにおける橋となり、また橋を架けるものとなるために」とされており、バチカンからもシノドス事務局のグレック枢機卿が参加するなど、シノドス的な教会共同体のあり方を実践する場となっています。

Img_20260722_091651073

また福音宣教省のタグレ枢機卿が、忙しい中ジャカルタまでおいでくださり、二日目に静修を指導してくださいました。総会は話し合いというよりも、祈りと分かち合いの場となっています。

Fb_img_1784808699952

アジア全体から司教協議会の代表や各部局の担当者など150名ほどが参加していますが、詳細は他の報道に譲ります。またアジアの枢機卿は全員参加する権利がありますが、今のところ12名のアジアの枢機卿が参加しています。

Img_20260722_173614688

なお、総会に先立ち、四日間ほどフローレス島のエンデ大司教区を、成井司教様と一緒に訪問してきました。フローレス島は、インドネシアの中でもカトリック信徒の多い地域で、エンデ教区のクレドン大司教様は、少し前まで神言会の総会長でした。これについては後日また。

Img_20260724_0955475312

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第266回、年間第17主日のメッセージです。

なお「週刊大司教」の配信は、8月中はお休みとさせていただきます。今の予定では再開を9月5日土曜日と考えております。また8月8日(土)午後の東京カテドラル聖マリア大聖堂における平和祈願ミサと、8月15日夕方の聖母被昇天ミサは、どちらもわたしの司式で、ネット配信を行う予定です。

年間第17主日A
週刊大司教第266回
2026年7月26日

「宝」という言葉には、経済的な価値を持っているという意味だけではなく、他では代えることのできない大切な存在という意味もあります。わたしたちが生きている世界は、どちらの価値を大切にしようとしているのでしょう。

マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を語ります。ここでイエスが語る「宝」は、もちろん数字で量ることのできる価値に富んでいる財産としての「宝」ではなく、自分の人生にとって決定的な意味を持つ「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、いのちを生かす価値のある「宝」であります。

わたしたちキリストに従う者にとっての宝は、福音そのものではないでしょうか。なんと言ってもわたしたちにいのちという賜物を与えてくださった神ご自身が、神のことばという宝物として、常にわたしたちと歩みをともにしてくださっているのです。わたしたちはこの宝を、人生のすべてを賭けてでも手に入れて従い、さらに多くの人にその宝を分け与える者でありたいと思います。

まもなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、日本のカトリック教会にとって大きな意味を持つ平和旬間がはじまります。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。わたしたちは将来の世代に対する責任を担うためにも、過去を忘れ去ることのないようにしたいと思います。

教皇レオ14世は、先般アフリカ司牧訪問へ向かう機内で、教会の平和への呼びかけが政治的発言として受け止められることについて問われ、「わたしたちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、わたしたちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と答えられ、平和構築は福音という宝物を大切にしている教会にとっての優先事項であることを明確にされています。

さらに教皇は、「戦争に強く反対し、平和を促進し、問題解決のために各国間の対話と多国間主義を推進し続けるつもりだ。今日、あまりにも多くの人たちが苦しみ、あまりにも多くの罪のない人々が殺されている。誰かが立ち上り、より良い方法があると言うべきだと思う」と述べておられます(『バチカン・ニュース』2026年4月13日)

平和旬間をまもなく迎えるにあたり、この教皇の言葉を思い出したいと思います。わたしたちが平和を求めて声を上げるのは、それこそが福音という宝物がわたしたちに求めていることだからに他なりません。

暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。「戦争は死です」。賜物であるいのちを生かす神の「宝」から目をそらすことなく、ともに歩まれる平和の主に従っていきたいと思います。

| |

2026年7月18日 (土)

週刊大司教第265回:年間第16主日

1784519927393

年間第16主日です

今週は成井司教様と一緒に、インドネシアのフローレス島にあるエンデ大司教区を訪問しています。この教区の司教様は、神言会の前総会長であるブディ・クレドン大司教様です。またフローレス島のエンデ教区も、神言会の古くからの宣教地の一つです。

来週月曜から一週間は、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会がインドネシアのジャカルタで開催されます。こちらの模様はまた、お知らせします。

本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

年間第16主日A
週刊大司教第265回
2026年7月19日

現代社会の現実は、まさしく福音が記しているように、神が望まれている良い麦と、人間の欲望に支配された悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。

神からの賜物であるいのちに対する暴力が横行する現実の中にあっても、同時にそのいのちを守るために、困窮する他者に手を差し伸べ、ともに歩もうとする人も多く存在します。神の愛をその言葉と行いであかしする人も多くおられます。

しかし暴力の支配と、賜物であるいのちが危機に直面する悲劇的現実があまりに目立っているがために、おもわず、神が悪の存在を容認しているのだろうかと考えてしまいます。全能の神がそのように容認するのであれば、社会の現実の中で悪と対峙することには、全く意味がないことになってしまいます。

福音は、神は良い麦と悪い麦の存在を知ってはいるが、それを刈り入れの時まであるがままにされているのだと記します。善と悪を明白に峻別できるそのときを待っておられるのだと記します。すなわちいのちの与え主である御父は、悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではありません。悪がその力を振るうことを容認しているわけではありません。

そのことを心に留め、毒麦を凌駕するほどに良い麦が世界を支配するように、わたし達は良い麦を一層力強く増やしていく努力をしなければなりません。わたしたちはただ荒れ狂う暴力の嵐の前に力なく傍観するのではなく、良い麦をさらに広く蒔き続ける努力をしなければなりません。わたしたちに与えられている使命は、畑に入って毒麦を抜きととることに専念することではありません。それよりも毒麦を凌駕するように、良い麦をさらに広く蒔き続けることに他なりません。そのためにも、どこに毒麦があるのかを知り、指摘することには大きな意味があります。毒麦がはびこっているところにこそ、わたし達は良い麦を蒔かなくてはならないからです。

現代世界憲章は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まっています。教会は、現代社会の現実の中で、いのちの危機に直面し、人間の尊厳を奪われ、生きるための困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたいと願っています。

現代世界憲章はさらに、「全ての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。従って全ての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない(29)」と記します。

私たちが生きている世界は、その「いのち」をないがしろにし、あまつさえ人間自身が「いのち」をコントロールする権利があるとでも言わんばかりの傲慢さに満ちあふれ、いのちを守るどころかいのちを奪う暴力が支配しています。こういった現実の中で、現代世界憲章は、全人類との対話のうちに神の福音をあかしするために、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務が」あると指摘しています。社会の現実の中で、神の望まれる世界の実現を妨げている出来事に目を向け、起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点からそこに示されるしるしを読み取り、共通善を念頭に置いて発言することはることは、教会の務めです。それこそが毒麦を凌駕するために必要なわたし達の務めです。

| |

2026年7月11日 (土)

週刊大司教第264回:年間第15主日A

1783917496633

年間第15主日です。この主日、わたしは、生まれ故郷の岩手県宮古市の教会で、主日ミサを捧げることになっています。

わたしが生まれた70年近く前、両親は教会とその幼稚園で働いていたため、わたしは宮古教会で生まれ、そこに住み、人生の最初の数年を教会で過ごしていました。

1783825958989

そのときの主任司祭は、ベトレヘム外国宣教会のスイス人の宣教師です。その宣教師と毎日の生活を共にし、毎日のように朝のミサに与ったことが、その後のわたしの人生に大きな影響を与えたと思います。司祭になることだけにとどまらず、文化や言葉の壁を越えて福音を宣教する宣教師としての人生です。

その意味もあって、毎年一度は、感謝を持って生まれ故郷の宮古教会で、感謝のミサを捧げさせていただいています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

年間第15主日A
週刊大司教第264回
2026年7月12日

今の時代、言葉はどれほどの重さを持っていると考えられているのでしょうか。インターネットが発達し、人工知能による情報提供も普通のことになった今、音としてこの世界に生み出される言葉の何パーセントが、心に裏打ちされた重みを持った言葉なのでしょうか。バーチャルな世界で言葉がもてあそばれ、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、重みを失って漂っているとき、わたし達は、キリスト者の信仰にとって、言葉が重要であることを思い起こしたいと思います。

神のことばは、常にわたしたちとともにいてくださる神の現存です。なぜならば、世の終わりまでわたしたちとともにいてくださると約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。ヨハネ福音の冒頭は、「初めに言があった。言は神であった」と始まります。わたし達の信仰は、言葉による信仰です。

ヨハネ福音に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおり、神はご自分のことばを種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

わたしたちは、神が蒔き続けておられる言葉の種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

今必要な準備は、軽く漂う言葉に席巻されている世界に対して、言葉には顔があり心の重みを担っているのだということを証しのうちに伝えていくことであろうと思います。現実の世界の中での具体的な人とのかかわりにおいて、わたしたち自身の言葉と行いこそは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

神の言葉が受け入れられた世界こそは、神が望まれた世界の実現です。神の言葉が豊かに実るとき、そこには神御自身からの賜物であるいのちを徹底的に守り抜く世界が実現し、神の似姿としての人間の尊厳が尊重されているはずです。いのちに対して暴力を振るう世界が、神のことばの種が豊かな実りを生み出す土壌となることはあり得ません。

インターネットが普及している現代社会にあってわたし達は、ネット上に発信されていく様々な言葉でさえも、顔と心に裏打ちされた重さを持った言葉としていく努力が必要です。心配りも何もなく発信されていく攻撃的な言葉が、神の言葉が芽吹く土壌を生み出すことはありません。

時にキリスト者と言いながら、他者のいのちや尊厳に対して暴力的で攻撃的になる、きわめて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、そのキリスト者は一体どんな土壌を神のことばの種のために備えようとされているのかと悲しく思います。

わたしたちの語る言葉こそが、神のことばの種を蒔く土壌を準備するためにあるのだと心に留め、神の言葉の種が豊に実を結ぶように、務めていきたいと思います。

| |

2026年7月 4日 (土)

週刊大司教第263回:年間第14主日A

1782731997335

7月になりました。年間第14主日です。

前回もお知らせしましたが、6月26日(金)と27日(土)に臨時の枢機卿会があったため、ローマに出かけていました。毎日40度近い熱波に襲われていたヨーロッパですが、ローマも異常に暑い毎日でした。

Img_20260628_122920985

28日(日)にはブラジル司教団が設置するコレジオ(宿舎)を会場に、朝のミサに始まり夕方6時近くまで、各大陸別司教協議会連盟の集まりがあり、わたしもアジア司教協議会連盟の事務局長ですので、他の司教様方と一緒に参加して参りました。今後、大陸別司教協議会連盟の連携をどのように強めていくのかなどについて意見交換でした。

1782737893295

その後、29日(月)は聖ペトロと聖パウロの祝日で、これはローマのお祝いでもあるので、ローマは休日でした。午前中は、教皇様が司式するミサに共同司式。このミサの中で、この一年間に管区大司教(メトロポリタン)に任命された大司教様方が、教皇様との一致の印であるパリウムを頂きました。私自身のパリウムを頂くミサは2018年6月29日でしたが、この時のミサはサンピエトロ広場、つまり外のでミサでした。しかし今年は異常な暑さということもあり、ミサはサンピエトロ大聖堂内で行われました。天上が遙かに高いので、エアコンがないものの、暑さは少し和らいでいました。

Img_20260629_152924349_hdr

サンピエトロ広場に通じる道には、前夜から準備された花絵がいくつも並び、その多くのが平和訴える内容でした。そしてその晩には、バチカンの前のサンタンジェロ城で花火大会。あまりの人混みに近づけず、サンピエトロ広場から眺めました。

Img_20260629_215151094_hdr

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第263回、年間第14主日のメッセージです。

年間第14主日A
週刊大司教第263回
2026年7月5日

心の安らぎは、絶望の中にではなく、希望のうちに見いだされます。わたしたちの人生の歩みにおける希望は、一体どこに見いだすことができるのでしょうか。

現代社会にあって、希望を見いだし、心の安らぎを得ることは容易ではありません。自分の周囲だけでなく、世界全体の現実を見るならば、今この瞬間も暴力にさらされていのちの危機に直面したり、貧困や圧政の中でもがき苦しんでいる人たちの現実が容易に見いだされます。社会が発展し、技術が進歩する中で、人々の暮らしは改善され、希望が生み出されると考えられてきましたが、現実は残念ながらそうではありません。

この現実の中にあって、人と人との出会いのなかにあって希望を見いだし、安らぎを生み出すことは、教会の使命の一つではないでしょうか。

教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」で、理性と自由意志を与えられた人間は、社会の発展の中で様々な種類の希望が生まれ、そしてそれが奪われ、また発展が必ずしもいのちを生かす希望には繋がらないことを体験してきたと指摘します。

その上で教皇は、「わたしたちは日々を歩んでいくために、小さな希望から大きな希望まで、なにがしかの希望を必要としています。しかし、わたしたちは偉大な希望がなければ満足できません。この偉大な希望は、他のあらゆる希望を超えたものでなければなりません。この偉大な希望は、神以外にはあり得ません」(31)と記し、真の希望は神の懐に抱かれることによってのみ達成されることを明示されています。

マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、すべての人が同じように考え、仲良く過ごしているというのは、現実的ではありません。異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、しかしそれでも教会が希望と安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょうか。それは教会共同体がシノドス的な共同体として、互いに支え合い、耳を傾け合い、ともに祈り、聖霊の導きを識別しようとしてともに歩んでいるからであり、その教会共同体の真ん中には、主イエスご自身が現存され、その主の存在こそが、希望の源となっているからに他なりません。ひとり一人の優しい性格に頼った仲良し共同体を目指しているのではなく、互いに異なる存在を尊重し耳を傾け、支え合い、祈り合う中で、ともにイエスに身を寄せ合うからこそ、安らぎが生まれ、希望が生み出されます。

残念ながら、教会共同体の中で、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え、欠点を抱えた不十分な人間です。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心に主ご自身が来てくださいます。主とともにあるわたしたちは、主が与えてくださる安らぎを、自らもあかしし、行動する道を見いだしていきましょう。

| |

2026年6月27日 (土)

週刊大司教第262回:年間第13主日A

1782526650037

年間第13主日となりました。まもなく6月も終わりです。

教皇様は臨時の枢機卿会を招集されましたので、わたしは昨日の金曜日と本日の土曜日、その枢機卿会に出席のため、ローマにおります。また明日の日曜日には、アフリカ、南米、アジアの司教協議会連盟の会議が一日中予定されており、さらに月曜日には、教皇様が司式される聖ペトロ・パウロのミサに枢機卿団は参加することになっています。そのためまだ数日ローマに滞在しております。

Img_20260626_182056548

ローマは熱波に襲われており、日中の気温は40度近くまで上がる日が続いています。枢機卿会はグループセッション(霊における会話)のため、参加している180名ほどの枢機卿は11人くらいずつで丸テーブルに分かれていますが、その場所を確保するために、あの広いパウロ六世謁見ホールの前四分の一位を使っています。一応冷房はあるものの、非常にマイルドの冷房で(確かソーラーエナジーを使っているはず)、さすがにこれはということで、最初のセッション以外は、黒スータンに赤い帯ではなくて、普通の半袖ローマンカラーシャツでも良いことになりました。高齢の枢機卿も多いので(枢機卿会には80歳以上もすべて参加する権利があるので)、熱中症で倒れる枢機卿が出ないように祈るばかりです。

Img_20260626_182050288

枢機卿会の詳細は後日に。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第262回、年間第13主日のメッセージです。

年間第13主日A
週刊大司教第262回
2026年6月28日

マタイ福音は、イエスに従うと宣言するわたしたちが、人生の歩みにおいて何を大切にしているのかを問いかけます。

もちろんわたしたちは、目の前に苦しみと安楽が選択肢としてあるのであれば、安楽な道を選択してしまう誘惑の中で生きています。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」と記し、人生の歩みにおける苦しみの意味を記しています。

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神ご自身が十字架の上で、わたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。すなわち安楽な道ではなく、苦しみの道を歩み続ける責務があります。

同時に、福音に記された、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という主イエスの言葉の意味は、単に苦しみを求めているというよりも、さらに深いところへとわたしたちを導きます。そもそも「自分の十字架」とは一体なんでしょうか。あえて苦行を耐え忍ぶことでしょうか。

マタイ福音に記されたこの言葉は、わたしたちが主にふさわしいものとなるための条件としての十字架です。それは受け身的に苦しみを耐え忍ぶことにとどまらず、積極的に前向きな行動を促す言葉でもあります。

パウロはローマの教会への手紙に、「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」と記しています。主御自身の死と復活をもたらしたその中心には、十字架が存在します。すなわち、わたしたちは、十字架を通じて主の死にあずかり、主とともに新しいいのちに生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛といつくしみを具体的にあかしする、栄光と希望を指し示す存在です。

その栄光と希望は、神がご自分が創造された人間の命を愛するがあまり、自ら十字架の苦しみに歩みを進め、その苦しみを通じてわたしたちすべてに救い野道を開かれた、目に見える具体的な愛のあかしであります。つまり、十字架は、自分のために苦しみことではなく、愛のあかしを具体的な行動を持って行うための苦しみであります。

わたしたちが神からよしとされるのは、神の愛といつくしみをいただいて、自らそれを積極的にあかしする行動を選択したときです。十字架をあかしするものとなりましょう

| |

2026年6月20日 (土)

週刊大司教第261回:年間第12主日A

1781924423519

年間第12主日です。

この一週間、6月15日から19日まで、定例の司教総会が、潮見のカトリック会館で開催されました。カトリック司教協議会の所在地であり、その事務局であるカトリック中央協議会の置かれている日本カトリック会館は、竣工から30年以上が経過し、全面的なリニューアル工事を一年かけて行っています。全体を半分ずつに分け、現在は上半分の工事中ですので、上半分にある事務担当がすべて下半分に移動しています。そのためいつもの総会会場であるマレラホールも仮設の事務所になっているため、今回の司教総会は、一回にある職員の方々の食堂を利用して会議テーブルを配置し、行いました。

一日目はフランシスコ会の小高神父様による霊的講話を頂き、その後にグループに分かれて分かち合い、そしてミサを捧げ、さらに夕方には、東京教区で働く宣教師のグループが、潮見教会でバーベキューに招待してくださったので、そこで司教たちと宣教師たちの出会いの場となりました。

Pxl_20260616_085729401-002

また二日目の夕方には司教団と男女の修道会の代表とで、教皇庁大使館を訪れ、司教叙階10周年を迎えたモリナ教皇大使と、誕生日であったジョゼッペ参事官のお二人にお祝いを申し上げる機会がありました。

さらに三日目には、成井司教様を講師に、インターカルチュラリティについての勉強会も行いました。

司教総会で決定したことは、この後、カトリック中央協議会の広報や、カトリックジャパンニュースで公開されると思いますので、そちらに譲ります。司教たちのためにいつもお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。お祈りの支えがなければ、聖霊の導きに与ってふさわしい判断をすることも難しくなります。皆さまのお祈りをお願い申し上げます。

Okinawa2503_20260620124301

6月23日は沖縄の慰霊の日です。昨年は80周年ということもあり司教団全員で参加しました(写真は昨年の魂魄の塔)。81周年の今年も、朝6時から小禄教会でミサがあり、魂魄の塔までの平和行進が行われます。ローマにいるため参加できませんが、当日は沖縄の皆さんに思いを馳せ、心を合わせて平和のために祈りたいと思います。皆さまにあっても、この日に沖縄の歴史と現実に思いを馳せ、神の平和の確立のために、祈りを捧げられますようにお願い致します。

以下本日午後6時配信、週刊大司教第261回、年間第12主日のメッセージです。

年間第12主日A
週刊大司教第261回
2026年6月21日

先日、6月12日はイエスのみこころ(聖心)の祭日でした。それにちなんで、6月は聖心の月とされています。

イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水はいのちの泉であり、新しいいのちを与える生かす聖霊でもあります。

イエスのみこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、そこから満ちあふれるご自分の愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、回心を呼びかけたという出来事があったと伝えられています。そして主イエスはみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、そのため、9ヶ月の間、初金曜日のミサにあずかり聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあると教会の伝統は教えています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと伝えられています。

今日の福音には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉があります。どのような形され力を持って信仰に介入しようとする迫害に立ち向かい、福音に基づく真理を語り続けるようにとの励ましです。

教皇レオ14世御自身が、その模範を示しています。信仰に基づいて発言された神の平和への望みに対して、大国の政治家が現実離れしていると批判され、一般社会でも論争を呼んでいます。しかしながら教皇レオ14世は、平和への思いを語ることを止めようとはしませんでした。

教皇様は先般アフリカを訪問された際、「宗教と神の名を、自分の軍事的、経済的、あるいは政治的な利益のために濫用し、聖なるものを闇と汚れに引きずり込む人々は、不幸である」と断言されました。その上で、「平和は、隣人を自分の兄弟姉妹として受け入れることによって抱きしめなければならないものです。わたしたちは自分の兄弟姉妹を選びません。ただ、互いに受け入れ合わなければならないのです。わたしたちは同じ家に住む、一つの家族です」と呼びかけられました。

わたし達は同じように、この世の力の前で恐れることなく、信仰を表明できているでしょうか。それは単に、神を信じているのですと表明することにとどまるのではなく、信じていることに基づいてどう生きようとしているのかを具体的に表明することです。

イエスのみこころが、いまこの現代社会の現実の中で、わたし達にどのように生き、どのように行動師、どのように語ることを求めているのか、見つめ直しましょう。信仰を勇気を持って表明する者でありたいと思います。
 

| |

«年間第11主日ミサ説教@東京カテドラル聖マリア大聖堂