2026年5月16日 (土)

週刊大司教第256回:主の昇天の主日A

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主の昇天の主日です。

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この一週間は、バンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の信徒家庭部局(OLF)が主催して、アジアの現実の中で家庭に対する使徒職を考察するシノドス流の集いが行われました。

この10月に教皇様は「愛のよろこび(Amoris Laetitia)」の10周年を記念した会議を開催することを発表されていますが、今回の集いもこの文書の精神が宣教の現場でどう生かされているかについて、講演と参加者による霊における会話が行われました。

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アジア各地から大勢が参加されましたが、日本からは青年司牧を担当しているアンドレア・レンボ司教様が代表として参加。日本の現状について発表されました。

またこの信徒家庭部局の秘書は西村桃子さんが務めており、当然西村さんも参加して初日の司会を務め、さらにわたしもFABC事務局長として開会のミサを捧げるために、三日間だけ出かけてきました。

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またわたしが会長を務めるカトリック美術協会の恒例の「カトリック美術展」は、今年第70回を迎え、5月15日(金)から20日(水)まで、有楽町マリオン11階、朝日ギャラリーで開催されています。

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初日のオープン時に会場を訪ね、出品作品を鑑賞させていただきました。また当日来られていた出品メンバーの方々からは、作品の解説を頂きました。美術に何らかの形で携わっておられる皆さんには、是非、カトリック美術協会のことも心にかけていただけると幸いです。 

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第256回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

主の昇天A
週刊大司教第256回
2026年5月17日

「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と、福音宣教へ旅立つように弟子たちに命じる復活されたイエスの言葉を、マタイ福音は記しています。その言葉とともに、復活された主は昇天されたと、使徒言行録は記しています。

イエスは、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教え」ることが、「すべての民をわたしの弟子に」することなのだと明示されています。

主の受難と死と復活に与り、新しいいのちへと招かれたわたしたちには、福音を告げ知らせる使命が与えられています。イエスをキリストと信じ、その弟子として従う一人ひとりには、福音宣教の使命が与えられています。わたしたちの責任です。

しかし同時にその責任はわたしひとりに課せられる重荷ではなく、キリストのからだである教会に与えられている使命です。なぜならば、福音とは喜びの便りであって、苦しみの重荷ではないからに他なりません。

そしてわたしたちは、ひとりで喜ぶことはできません。喜びはかかわりの中から生まれます。だからこそ、復活されたイエスが弟子に約束された「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という約束の言葉が思い意味を持つのです。わたしたちはともに歩んでくださる主とのかかわりがあるからこそ、喜びを心に抱きます。そして主御自身が弟子たちとともに歩まれたように、現代のわたしたちは主がともに歩まれる教会共同体の中のかかわりによって、心に喜びを抱きます。いのちを生きる希望を抱きます。そしてその喜びと希望を、教会は共同体の存在を通じて、この世界のただ中で、証ししていきたいのです。その歩みには、主イエスがいつもともにおられます。まさしく教会がシノドス的であろうとすることの意味はそこにあります。

シノドスの最終文書「シノドス流の教会」には、神の民が福音を告げ知らせる喜びの共同体となるために、「教会のシノドス流のスタイルを身につける養成が、洗礼によって授かったたまものは、すべての人のために実らせるべき才能であるという自覚を促す」信仰の継続的な養成が不可欠だと指摘しています。

その上で同文書は、「それぞれの人の人生には、主とのかかわりや教会の交わりへと導かれるきっかけとなった、さまざまな・・・出会いがあります。・・・宣教する主の弟子となることは、一度で達成される目標ではありません。それは、絶えざる回心と、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで愛を成長させること、そして、信仰の喜びのあかしのために聖霊のたまものへと開かれていること」が必要だと指摘しています。

宣教へと派遣されたわたしたちは、話のテクニックを深めたり、神学的知識を豊かに蓄えたりしなければ、その使命を果たすことができないのだと考えてはなりません。そうではなくて、神の民としてのわたしたちの教会共同体を、シノドス的な共同体として常に育てること自体が、福音を豊かにあかしする旅路の第一歩です。

もちろん洗礼の数は重要です。ミサに与る信徒数は重要です。しかしそれ以上に、「いつもあなた方と共にいる」と言う主の言葉に信頼し、共同体としてともに支え合い、祈り合い、識別のうちに共に歩む神の民のシノドス的あり方を深めること抜きでは、数字には意味はありません。

 

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2026年5月10日 (日)

復活節第六主日@東京カテドラル関口教会ミサ

復活節第六主日の、東京カテドラル聖マリア大聖堂における関口教会主日ミサの説教原稿です。

復活節第六主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年5月10日

復活された主は、弟子たちを全世界に向けて宣教へと遣わされました。わたしたちはその使命を受け継いでいます。

本日の第一朗読は、教会の始まりにあたり、福音宣教に努める弟子たちの姿を記しています。使徒言行録は、福音宣教は、もちろんしるしを伴ってはいるものの、まず第一に「宣べ伝える」ことであることを明示しています。さらに、エルサレムの教会が、ペトロとヨハネをサマリアに使わした理由を、「サマリアの人々が神のことばを受け入れた」と記しています。

わたしたちの使命である福音宣教は、神のことばを告げ知らせることによって始められるのだということが明示されています。わたしたちは、神のことばを述べ伝えるようにと派遣されています。

ヨハネ福音が、「始めに言があった」と始まっているように、わたしたちの信仰にとって、言葉には重要な意味があります。

御聖体の秘跡のうちに常に現存されることを約束された主は、さらに愛する弟子たちを心に留め、すべてのいのちへの愛といつくしみに駆られて、聖霊の導きを約束されます。イエスが語る言葉は、ご自分そのものである神の愛といつくしみに裏打ちされた神の言葉であるがゆえに、その愛に満ちあふれたイエスの御心の思いをわたしたちに伝えています。

「わたしはあなた方をみなしごにはしておかない」、「私もあなた方のうちにいる」というイエスの言葉は、共同体のうちに生きることによってわたしたちが神の愛といつくしみに満たされることを教えています。聖霊は教会共同体に働き、共同体としてイエスの福音を明かしするものであるようにと、わたしたちを導いてくださいます。

教会は、復活節第六主日を、「世界広報の日」と定めています。教会の使命である福音宣教は神のことばを告げ知らせること、すなわちコミュニケーションであり、現代社会にあっては、コミュニケーションの核心を担う広報こそが、まさしく福音宣教とならなければならないと考えるためです。

第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。

新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などにとどまらず、いまや時代はインターネットです。すべての人が、この使徒職に関わる道具を手にしています。SNSなどを通じてわたしたちは、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者にとっての使徒職です。わたしたちすべては、世界に向けて発信する手段を手にしていると言っても過言ではありません。

今年の世界広報の日のメッセージのために教皇レオ14世が選んだテーマは「人間の声と顔を守る」でありました。

教皇様は、就任直後から人工知能(AI))の問題について発言を続けておられます。レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を枢機卿たちに説明され、こう述べておられます。

「おもな理由は、教皇レオ十三世が、実際に歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです。」

教皇様は、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。教会にとって、人工知能(AI)の問題は避けて通ることのできない社会倫理的な課題となっています。

教皇様はメッセージで、「わたしたちはあらためて人格について語るために顔と声を必要とします。コミュニケーションというたまものを人間のもっとも深遠な真理として守ることを必要とします。すべての技術革新もこの人間の真理へと方向づけられなければなりません」と呼びかけられます。

例えば駐車場を利用して、出口の精算機で料金を支払い終え、精算機が「ありがとうございます。またおいでください」と言ったから、「ああよかった。また利用しよう」と心に思うことは、少なくともわたしにはありません。感謝の言葉を述べている主が、機械であり、その言葉は単なる音であって、その裏には人間の心が介在しないと知っているためでしょう。言葉の背後に人の心が介在しない、生きた言葉ではないことを知っている時に、心は揺さぶられることはありません。

しかし、いまではパソコンを前にして生成AIのアプリなどで質問をし、それに対する答えを読んだり聞いたりしている自分が、生身の人間と対話しているような錯覚を覚えていることに気がつかされます。

もちろん生成AIのアプリなどを利用すれば、あっという間に情報を収集することができます。これまで様々な検索を重ねてやっと集めることができた資料が、あっという間に手に入ります。便利です。わたし自身は作文をお願いすることはありませんが、自分が直接書いたつたない英語の文章を、もう少しまともな英語に手直ししてもらうこともあります。確かにそういう意味では、非常に便利な「道具」であることは間違いがないのですが、そこにはやはり落とし穴があるように感じます。あくまでも「道具」であることを忘れないようにする必要があります。

そもそも「知能」は単に情報の集積や処理能力のことではなく、実際の経験に基づいて学習したり、推論したり、真偽や善悪を倫理的に判断した上で、試行錯誤を重ね、その末に正解、すなわち真理に到達しようとする能力です。真理を追い求める理性の働きです。したがって、いのちを持たない存在、すなわち人工的な知能とは、本当はあり得ない存在なのかもしれません。

神の似姿として創造された人間には自由意志が与えられていますが、その自由意志を様々な形で制限する情報操作の危険性を、教皇フランシスコは2024年の年頭のメッセージで指摘されていました。さらに教皇は、「道具」という視点から、人工知能を人類の善のために、しかも一部の人の善ではなくすべての人の善に奉仕する道具とするように務める必要性を強調されました。

人間という心と身体を持った存在から切り離された人工的な存在がこの世界の倫理観を支配するのであれば、その環境の中で人間の尊厳は損なわれ、共通善が崩壊する可能性は増し加わります。

イエスの言葉には力があります。それはイエスが神の言葉そのものであり、そこに神の愛といつくしみが具体的に存在しているからであります。信念ある心に裏打ちされた言葉には、力があります。福音宣教を始めた弟子たちの言葉には、同じ力がありました。だからこそ福音は伝えられていきました。わたしたちが言葉に愛を込めるためには、言葉の裏に信念に満ちた心が必要です。言葉を人々を操る道具ではなく、神の愛といつくしみをあかしする道具とし、聖霊に照らされながら、主の愛を受けて、力を持って語るものでありたいと思います。

 

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2026年5月 9日 (土)

週刊大司教第255回:復活節第六主日A

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復活節も第六主日となりました。

第六主日は世界広報の日です。この日のための教皇様のメッセージ、「人間の声と顔を守る」は、こちらからご覧ください

教皇レオ14世は、人工知能(AI)の倫理的課題について、幾度も発言されています。すでに2024年正月の世界平和の日のメッセージにおいて、当時の教皇フランシスコはそのテーマを「人工知能(AI)と平和」とされ、その中で、「利用者が認識するとは限らない選択基準に従って、データの流れが構成され」ることによって、情報が操作される可能性への懸念を表明されています。
 
神の似姿として創造された人間には自由意志が与えられていますが、その自由意志を様々な形で制限する情報操作の危険性を指摘された教皇フランシスコは、同時に、「各人が本性的に備える尊厳と、わたしたちを唯一の人類家族として結びつける兄弟愛が、新技術の開発の基盤であるべきで、その実用化にあたっての評価の厳然たる基準とならなければなりません」と指摘し、共通善への貢献が重要であることを指摘していました。

さらに教皇フランシスコは、2024年6月14日、イタリア南部プーリアで開催された先進7カ国首脳会議(G7)に出席、人工知能(AI)をテーマにスピーチをされ、バチカンニュースによれば次のような指摘をされています。

「教皇は、AIが知識へのアクセスの民主化、科学研究の増大的な進歩、重労働を機械に一任する可能性を約束する一方で、先進国と発展途上国の間に、また社会の支配階層と抑圧された階層の間に重大な不正義をもたらし、「切り捨ての文化」によって「出会いの文化」が追いやられる恐れを語った」

ウクライナやイランでの紛争状態では、遠隔操作の兵器の倫理性が課題となっていますが、それを含め、教皇フランシスコは同年の平和メッセージで次のように指摘されてます。

「遠隔操作システムによる軍事作戦が可能になったことで、それらが引き起こす破壊やその使用責任に対する意識が薄れ、戦争という重い悲劇に対し、冷淡で人ごとのような姿勢が生じています。人工知能の軍事利用を含む、いわゆる「自律型致死兵器システム」の分野における新規技術の研究は、重大な倫理的懸念となっています。・・・人間だけが有する道徳的判断力や倫理的意思決定能力は、複雑に集積されたアルゴリズムが及ぶものではなく、その能力をマシーンのプログラミングに落とし込むことは不可能です。」

人間という心と身体を持った存在から切り離された人工的な存在が倫理観を支配するのであれば、その環境の中で人間の尊厳は損なわれ、共通善が崩壊する可能性は増し加わります。あ

以下本日午後6時配信、週刊大司教第255回、復活節第六主日のメッセージです。

復活節第六主日A
週刊大司教第255回
2026年5月10日

御聖体の秘跡のうちに常に現存されることを約束された主は、さらに愛する弟子たちを心に留め、すべてのいのちへの愛といつくしみに駆られて、聖霊の導きを約束されます。イエスが語る言葉は、神の愛といつくしみに裏打ちされた言葉であるがゆえに、その愛に満ちあふれたイエスの御心の思いをわたしたちに伝えています。

「わたしはあなた方をみなしごにはしておかない」、「私もあなた方のうちにいる」というイエスの言葉は、共同体のうちに生きることによってわたしたちが神の愛といつくしみに満たされることを教えています。聖霊は教会共同体に働き、共同体としてイエスの福音を明かしするものであるようにと、わたしたちを導いてくださいます。

教会は、復活節第六主日を、「世界広報の日」と定めています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。

新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などにとどまらず、いまや時代はインターネットです。すべての人が、この使徒職に関わる道具を手にしています。SNSなどを通じてわたしたちは、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者にとっての使徒職です。

今年の世界広報の日のメッセージのために教皇レオ14世が選んだテーマは「人間の声と顔を守る」でありました。

教皇様は、就任直後から人工知能(AI))の問題について発言を続けておられます。レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を枢機卿たちに説明され、こう述べておられます。

「おもな理由は、教皇レオ十三世が、実際に歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです。」

教皇様は、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。教会にとって、人工知能(AI)の問題は避けて通ることのできない社会倫理的な課題となっています。

教皇様はメッセージで、「わたしたちはあらためて人格について語るために顔と声を必要とします。コミュニケーションというたまものを人間のもっとも深遠な真理として守ることを必要とします。すべての技術革新もこの人間の真理へと方向づけられなければなりません」と呼びかけられます。

言葉に愛を込めるためには、言葉の裏に人間の心が必要です。言葉を人々を操る道具ではなく、神の愛といつくしみをあかしする道具とし、聖霊に照らされながら、主の愛を受けて、心をもって語るものでありたいと思います。

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2026年5月 2日 (土)

週刊大司教第254回:復活節第五主日A

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復活節第五主日となりました。

国際政治の世界が混乱する中で、教皇レオ14世の言葉が注目されています。これに関連して、先のアフリカ司牧訪問の際の、教皇レオ十四世の2026年4月16日、カメルーン、バメンダの共同体との平和の集いでのあいさつを是非ご一読ください。こちらのリンクです。その冒頭部分で教皇レオ14世は、「わたしは平和を宣言するためにここにいます」と言われています。まさしく世界における倫理的な権威は政治家にではなく宗教者にあることをしっかりと自覚され、政治のしがらみの外に身を置いて平和を告げ知らせることは、宗教者の務めであることを明確にされています。

5月は聖母の月です。一年の典礼において、聖母を記念する日はいくつもありますが、一ヶ月が聖母のために捧げられているのは5月と10月です。10月は特にロザリオの月とされています。

5月に聖母マリアに祈りを捧げることについては、歴代の教皇がその大切さを説いてきたところですが、例えばパウロ六世は第二バチカン公会議後の典礼改革のなかにあって、聖母への信心の重要性を説いた「マリアーリス・クルトゥス」でこう述べています。

「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつとおとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています。アヴェ・マリアの祈りを繰り返して唱え続けてゆくことによって、ロザリオはわたしたちに今一度福音における基本的な神秘であるみことばの受肉を提示してくれます。マリアはこの神秘をお告げという決定的な瞬間において黙想したのでした。このようにして、ロザリオは過去におけるよりもおそらく今日において、司牧担当者や神学者たちが好んで定義するように、「福音の祈り」であるといえるのです。」(44)

また1965年に、特に世界平和のために聖母に祈ってほしいと呼びかけた「メンセ・マイオ」では、こう述べています。

「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」(3)

対立と分断が深刻化し混乱する現代社会にあって、政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい決断をすることができるように、そして世界に神の平和が実現するように、この5月にロザリオの祈りを通じて、聖母マリアの取り次ぎを祈りましょう。

東京教区のyoutubeのページには、これまでに制作した、ロザリオを一緒に唱えるための動画がいくつかあげられています。例えばこのリンクをご覧ください。ご自宅でのお祈りのためなどにご活用いただければと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第254回、復活節第五主日のメッセージです。

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週刊大司教第254回
2026年5月03日

「わたしは道であり、真理であり、命である。」

国際社会はこのところ大きく揺らいでいます。国際政治の最前線にいるわけではないわたしたち大多数にとっては、報道される事実と、近年ではネット上であふれ出ている情報によってしか知り得ないことであり、必ずしもそれがすべての真実を語っているわけでもないのですから、本当のことは分かりません。そのため周囲で起こっている出来事や、リーダーたちの言説によって、どうしても判断は揺れ動くことになります。

政治のリーダーたちによる国際政治の世界の駆け引きと、わたしたち信仰者が信仰に基づいて選択する言動は、そもそも全く異なる性質のものであり、それを混同してしまうと、互いに理解することができないまま、対立だけが深まります。

先般の教皇レオ14世の信仰と福音に基づいた平和を求める発言は、国際社会の政治のリーダーにとっては、非現実的なメッセージにしか聞こえなかったことでしょう。教皇レオ14世は、アフリカ司牧訪問に向かう機上でインタビューに答え、「わたしたちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、わたしたちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と述べておられます。まさしくわたしたちも、主イエスにこそ、すなわち福音にこそ「道、真理、いのち」があるのだと信じています。ですからその福音のメッセージに基づいて、人間の尊厳を護り、いのちを守り、平和を築き上げる必要を語ることは信仰者の責務であることを忘れないようにしたいと思います。

主イエスの言葉は、ご自分はすでにできあがっている道を案内する者ではなく、ご自分こそが何もないところに新たに切り開かれていく「道」そのものであるのだと宣言する言葉であります。すなわち、御父へと至る道は、すでにあるのではなく、新しく切り開かれていく道であります。イエスは、その新しい道こそ真理であり、そこにこそいのちがあるといわれます。主イエスは、わたしたちに、主ご自身を信頼し、その新しい道を勇気を持って歩むようにと促しておられます。未知への旅立ちを求めています。

真理といのちへと至る道を、一人で勝手に見つけて歩むことはできません。イエスご自身しか、その新しい道を知らないからです。だからこそわたしたちはイエスに付き従って、歩み続けなければなりません。イエスは、「わたしのいるところに、あなた方もいることになる」と、先ほどの福音に記されているように、主は信仰の共同体とともにおられます。わたしたちはイエスという新しい道を、イエスとともに、そして兄弟姉妹の共同体とともに歩み続けます。

わたしたちは、ともに歩みともに祈ることで、主が「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と言われ、ご自分であかしされたように、神からの賜物であるいのちを愛し守り抜き、すべての人間の尊厳がないがしろにされることのない世界を目指して、語り行動していく者でありたいと思います。

 

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2026年4月25日 (土)

週刊大司教第253回:復活節第四主日A

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復活節第四主日は、世界召命祈願日です。

召命を祈ることは、もちろん第一に、将来福音宣教と司牧に携わる司祭の志願者が誕生するようにと祈ることであり、同時に教会の霊的成長のためにも、修道生活に身を捧げる男女の志願者が誕生するように祈ることでもあります。

しかし同時に、聖霊による賜物はすべてのキリスト者に与えられているのですから、そこには信徒の召命もあります。キリストに従う者として、この世界でどのような役割を果たすことができるのか、祈り黙想することも不可欠です。

今年の世界召命祈願日の教皇メッセージのテーマは、「神のたまものの内的発見」とされています。全文はこちらのリンク先で読むことができます。

なお東京教区では、この主日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、一粒会の主催で、召命祈願ミサが捧げられます。今年はわたしが昨年の教皇選挙出席に続いて今年も会議でローマに出張中のため、日本カトリック神学院院長の稲川圭三神父様が司式してくださいます。どうぞ参加くださり、召命のためにお祈りくださいますと幸いです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第253回、復活節第四主日のメッセージです。

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週刊大司教第253回
2026年4月26日

復活された主イエスとは一体どのような方なのか。本日の福音では、イエスはご自分のことを、「わたしは羊の門である」と宣言されています。

イエスによって与えられる羊への護りは、イエスという門を通った羊にのみ与えられると福音は記します。しかしそれだけなのでしょうか。つまりイエスによって呼び集められた羊、すなわちキリスト者であるわたしたちは、教会という囲いの中で、護られているだけの存在なのでしょうか。安心と安全の中で自分たちだけの幸福を願う者なのでしょうか。

福音をよく読んでみると、そこには門を通って囲いの中にいる羊について、「その人は、門を出入りして牧草を見つける」と記されていることに気がつきます。「出入り」であります。つまりイエスによって神の民へと招かれた者は、囲いの中にとどまるのではなく、外へと出かけていき、そこでも牧草を見つけるというのです。わたしたちはイエスを通じてこの共同体へと導かれ、そこで霊的に養われるだけではなく、外の社会でいのちを受けるための業、すなわちイエスが命じられる福音宣教の業に取り組む力も頂くのです。

教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りをお願いする日としています。毎年東京教区では教区の一粒会が主催して、神学生や志願者と一緒に、召命祈願ミサがささげられます。ちなみに東京教区の信徒の皆さん全員が、この召命のために祈り献金する一粒会の会員です。

イエスの招きに答えて、羊の囲いの外に出て、福音をあかしし告げ知らせる人が必要です。イエスの業を受けついで、羊の牧者となる人が必要です。あらためてみなさまには、司祭や修道者への召命のために、またその道を歩んでいる神学生や志願者のために、お祈りくださるよう、お願いいたします。

また、召命を語ることは、ひとり司祭や修道者への召命を語ることにとどまらず、すべてのキリスト者、つまり信徒の召命を語ることでもあります。「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されています

教皇レオ14世は今年の世界召命祈願日のメッセージに、「召命は、人生と同じように発展していく旅路です。わたしたちはこの旅路の中で、与えられたたまものを守るだけでなく、召命が成長して実を結ぶよう、それを日々の神との関係によって育てていかなければなりません」と記しています。

希望を失い利己主義と排他主義の深まる社会にあって、パン種のように、「神の国を探し求める」召命に生きる人の存在が必要です。召命とは一度識別すればそれで終わるのではなく、人生のすべての段階で育まれていくものです。つまり生涯を通じて、わたしたちには小さなパン種として、福音宣教のために働く道が用意されています。

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2026年4月18日 (土)

週刊大司教第252回:復活節第三主日A

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復活節第三主日です。

教皇様はアフリカを司牧訪問中です。教皇様のためにお祈りください。教皇様は、その就任からまもなく一年となりますが、教皇に選出されたその日の第一声、「平和が皆さんにありますように」から始まって、常に、武器を捨てていのちを守ることでの平和の確立を訴えておられます。この数週間は、中東の情勢に呼応して、平和を呼びかける教皇様の呼びかけが、政治の世界では現実を無視した夢物語と響くことから、両者が対立状態にあるように報道されています。

教会は福音に基づいて、例えば広島を訪れて「戦争は人間の仕業です。戦争は死です」と語りかけた聖ヨハネパウロ二世や、核兵器の廃絶を広島から訴えた教皇フランシスコのように、人類全体に対して平和を語るのが、その使命の一つです。核兵器による戦争の危険性に対しては、キューバ危機の当時のヨハネ23世の政治のリーダーたちへの呼びかけに始まり、同教皇の「地上の平和に象徴されるように、第二次世界大戦後、歴代の教皇様たちは、平和への呼びかけを続けてきました。

緊張の度合いを増し、将来への不透明さが増す中で、命に対する暴力が横行する世界に向かって、わたしたちも教皇様とともに、信仰に基づいた倫理的選択の呼びかけを続けたいと思います。私たちが護りたいのは神からの賜物であるいのちであり、神の似姿として創造された人間の尊厳です。

そして、宗教を紛争の口実に利用することは倫理的にふさわしいことではなく、単に分裂と分断の傷を深めるに過ぎません。ましてや、いのちに対する暴力を正当化するために、信仰を持ち出すことは、信仰者にとってふさわしいあかしではありません。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第252回、復活節第三主日のメッセージです。

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週刊大司教第252回
2026年4月19日

エマオへ向かっていた二人の弟子が象徴しているのは何でしょうか。福音は、イエスが二人に話しかけたとき、「二人は暗い顔をして立ち止まった」と伝えています。

さらに弟子のひとりクレオパが、イエスの質問にあきれたように答えていく中で、「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」という言い方をしています。つまり、彼らの望みは絶たれてしまった。いまや弟子たちは絶望の淵にいるのです。

ですからこの二人の弟子が象徴しているのは、恐れと不安の中で希望を失い、バラバラになっていく共同体の姿であります。共同体のひとり一人を結び合わせていた中心が突然亡くなったときに、バラバラに崩壊していく姿であります。

教会は共同体であると、わたし自身も何度も言いますし、特に第二バチカン公会議以降、幾たびと教会の共同体性について多くの方が語ってきました。教会が共同体である一番の理由は、人がたくさん日曜日に集まってくるからではありません。教会は寄り合い場所としての共同体ではありません。教会は復活されたイエスによって結び合わされている弟子たちの集まりです。

混乱に心が翻弄され、不安にとりつかれ、希望を失うときに必要なのは、落ち着いた心での振り返りです。イエスが何を教えきたのか。何をあかししてきたのか。そしていま眼前で起こっている出来事を通じて、神は何を語りかけているのか。落ち着いて見つめ直し、より良い道を探し求めなくてはなりません。まさしくシノドス的な教会のあり方が求めているのは、そのことであります。

二人の弟子が象徴するのは、自分たちを結び合わせる中心を失って、進む方向を見失いバラバラになった共同体です。その二人にイエスは寄り添い、ともに歩みます。その上で、議論をするのではなく、イエスは弟子たちのやり取りに耳を傾けます。イエスは弟子たちと語り合い、すべての出来事が神の計画の元にあることを気がつかせるために識別へと導きます。食卓でパンを裂くことで目が開かれた後に弟子が語る「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」という言葉こそは、識別の中で聖霊の導きを見いだしたときの心の動きであります。二人は聖霊の導きにしたがって、他の弟子たちの所へ戻り、共同体は再びイエスによって力強く結び合わされ、与えられた福音宣教の使命を果たしていきます。

まさしくシノドス的な歩みそのものであります。

あの夕方、エマオへの道で、二人の弟子と共に歩み、辛抱強く耳を傾けたように、主は今日もわたしたちと歩みを共にされ、辛抱強くわたしたちの叫びに耳を傾け、時のしるしをどのように読み解くのか、わたしたちが聖霊の導きに気づくように導きながら、いつも待っておられます。わたしたちは聖霊に導かれて常に前進を続ける神の民であります。

復活の主とともに、シノドス的な歩みを続ける教会共同体であり続けたいと思います。

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2026年4月11日 (土)

週刊大司教第251回:復活節第二主日A

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復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、いつくしみの主日と定められています。

今回のメッセージの中で触れている、2005年4月3日の教皇ヨハネパウロ二世最後のメッセージは、こちらのリンクからお読みいただけます。またいつくしみの主日についての解説も、その末尾に記されています。

教皇レオ14世は、現在の世界情勢、特に中東における米国やイスラエルの主導する戦乱を憂慮され、4月11日の夕刻に平和のための祈りを行うことを決め、参加できる方には一緒に祈るようにと呼びかけています。ローマ時間の夕方ですので、日本時間では日曜の午前1時という深夜となります。可能であればこちらのリンクから中継をご覧いただけますし、ご自分の良い時間に、教皇様の平和への意向に心を合わせて、お祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第251回、復活節第二主日のメッセージです。

復活節第二主日A
週刊大司教第251回
2026年4月12日

週の初めの日の夕方、恐れて隠れていた弟子たちのもとにおいでになった復活の主が、最初に口にした言葉は「あなた方に平和があるように」でありました。

一年程前、2025年5月8日。教皇選挙の二日目の夕刻、第267代の教皇に選出されたレオ14世が聖ペトロ大聖堂のバルコニーに姿を現し、集まっていた多くの人たちに、牧者として語りかけた最初の言葉も、この「あなたがたに平和があるように」という呼びかけでした。

教皇様は続けてこう呼びかけました。

「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです。」

各地で武力による暴力の行使が続き、神からの賜物であるいのちが危機に直面するこのとき、絶望の暗闇のうちあるわたしたちに、主は「あなた方に平和があるように」と呼びかけておられます。

さらに5月18日に聖ペトロ大聖堂前で行われた就任ミサの説教において、教皇レオ14世はこう述べておられます。

「わたしたちの第一の大いなる望みはこれだと言いたいと思います。すなわち、世の和解のためのパン種となる、一致と交わりのしるしである、一致した教会です」

こう呼びかけることで教皇は、分断と対立をもたらす暴力が支配する現代社会の中で、和解と一致を生み出すことはキリストの弟子であるわたしたちにとって、重要な使命であることを指摘されています。

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められました。聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに身をゆだね、互いに分かちあう大切さを黙想する日であります。

よく知られていますが、2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の神のいつくしみの主日のためにメッセージを用意されていました。そこには、こう記されています。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

神のいつくしみを目に見える形とするのは、わたしたちの愛の具体的な実践です。わたしたちの教会共同体における愛に基づくゆるしと和解は希望を生み出し、わたしたちを一致と交わりのしるしであるパン種へと育んでいきます。

教会は絶望を生み出す対立の場ではありません。混乱する世界の中で、互いの愛のうちに、平和を生み出すパン種として、あかしする者でありたいと思います。

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2026年4月 5日 (日)

2026年復活の主日@東京カテドラル

御復活おめでとうございます。

復活の主日、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、700人を超える参列者で一杯でした。昨晩は雨でしたが、今日はなんとか天気も回復し、桜も残っており、春らしい分に金の中での復活祭となりました。

以下、本日10時ミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月05日

主イエスの復活は、受難と死の苦しみを経た後の新しいいのちの始まりであり、永遠のいのちへとわたしたちを導く、御父の愛といつくしみの勝利のお祝いです。いのちを生きる希望のお祝いです。

皆様、主イエスの御復活、おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭において洗礼を受けられ、ともに主イエスに従って歩む仲間となった皆さん、おめでとうございます。信仰は一人でこっそりと生きるものではなく、ともに祈り支え合う信仰の友と一緒に、教会共同体の中で生きるものです。この教会共同体の皆さんとともに、新しく洗礼を受けられた皆さんを喜びのうちにお迎えいたします。

本日の第一朗読、使徒たちの宣教は、力強く主イエスについてあかしをするペトロの姿を記しています。ペトロは渾身の力を込めて、「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と語り、すなわちイエスの福音をのべ伝えていきます。

しかしわたしたちはよく知っています。この勇気に満ちあふれた宣教者は、その少し前に、イエスを知らないと三度にわたって否定し、イエスを裏切り逃げてしまったことを。

ペトロがただの裏切り者にとどまっていたなら、世界に向けて高らかにあかしをするこのペトロの言葉は、全く薄っぺらな言葉になってしまいます。わたしたちは、同じ音を発声していても、それを裏打ちする心があるのかないのかで、言葉の重みが異なることを経験上よく知っています。深い思いと現実の体験に裏打ちされた言葉には、力があります。

2019年に教皇フランシスコが訪日された際、「教皇、日本に難民の受け入れを促す」というような内容のニュースが流れ、それに対して「大きなお世話だ」などという批判的なコメントも散見され、少しだけでしたが炎上いたしました。教皇様の日本での発言を振り返りましたが、実は難民についてはほとんど全く発言しておらず、実際に難民について触れたのは、ここ、東京カテドラルでの青年の集いにおいて、一言、こう述べた部分だけでした。

「とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。」

しかしこの一言が、すべてのいのちを守るためと言う教皇フランシスコの確固たる信念に基づいた「言葉」であったがゆえに、聞く人に大きなインパクトを与えたのだと思います。

わたしたちはネット上だけに限らず現実の世界でも、薄っぺらな言葉が飛び交う時代に生きています。深く考えることもなく、その背景を探ることもなく、言葉の裏にある心に思いを馳せることもなく、反射的にデジタルの世界に投げつけられる様々な言葉。その言葉の多くが時間とともに消え去って行くことを目の当たりにするとき、これらの言葉の裏には何ら信念も価値観もないことが分かります。そういった時代だからこそ、確固たる信念に基づいた「言葉」は、いのちの「言葉」は、暗闇に輝く一筋の光のように、多くの人の心に突き刺さり、大きな反響を呼び起こします。

ペトロのあの日の力強い宣言が、力強いと感じられるのは、その言葉が信念に基づいているからに他なりません。そのペトロは、数日前の、恐れにとらわれて主を裏切った、人間の心の弱さの中にあるペトロではありません。主イエスの復活を体験し、主の十字架によって変えられ、イエスこそキリストであるという信念と、自らもその新しいいのちに招かれているという確信が、ペトロの言葉を裏打ちする信念となりました。確固たる信念に基づいた言葉には、力があります。

十字架の出来事を通じてペトロが復活の栄光の証人となったという事実を通じて、主の十字架の意味が明確になります。十字架は、神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光を示しています。

わたしたちも、同じ信仰に招かれている者として、確固たる信念に裏打ちされた言葉を語る者でありたいと思います。

2020年に始まった感染症によるいのちの危機以来、世界は常にいのちの危機に直面しています。東京教区では姉妹教会であるミャンマーの方々を忘れることなく、平和のために祈るようにと呼びかけ続けています。今現在も政治的に不安定な状況は変わらず、特に中部から北部にかけて、軍部による攻撃にさらされている地域もあり、平和を訴える教会への攻撃も止むことがありません。

またこの時期に始まったウクライナや聖地、とりわけガザでの紛争状態は解決することなく、いまでも多くの人が暴力にさらされいのちの危機に心安まることのない毎日を過ごしておられます。中東各地では、暴力的な状況を逃れ安全を求めて、少数派であるキリスト者が他の地域へと移住するということも起きています。加えて現時点でも、米国やイスラエルによるイラン攻撃によって始まった戦争状態はどのような展開を見せるのか定かではなく、毎日のようにさらに多くのいのちが危機に直面させられています。神からの賜物であるいのちに対する暴力は絶望を生み出し、いのちを生きる希望を奪い去ります。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。ともに歩む中で力づけられ、支え合う仲間とともに、この社会の中にあって、神の愛といつくしみをあかしするようにと招かれています。賜物として与えてくださったいのちを守り、神の似姿としての人間の尊厳を守りぬくようにと招いておられます。ともに歩みながらそのように招いてくださる復活された主イエスこそは、わたし達の希望です。しかしながら世界は、その招きに応えようともせずに神に背を向け、繰り返し絶望を生み出し続けています。

復活祭にあたり、わたしたちはペトロと同じように、主の十字架が示される神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光に与り、新しいいのちへの確信のうちに、いのちの与え主である御父への確固たる信仰に基づいて、力強く福音をあかしするものになりましょう。「わたしたちは、すべての証人です」と語るわたしたち自身の言葉が、薄っぺらな言葉にならないように、教会共同体の中で仲間とともに歩むことで絆を深め、ともに支え合い、ともに祈り合い、ともに感謝を捧げ、信仰における確信を深めながら、神の愛の言葉を告げ知らせるものとなりましょう。

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2026復活徹夜祭@東京カテドラル

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主イエスの御復活、おめでとうございます。

復活徹夜祭で洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。

昨晩、東京カテドラルでは16名の方が洗礼と堅信を受け、共同体に加わりました。

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以下、復活徹夜祭の説教原稿です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月04日

お集まりのみなさま、主イエスの御復活のお喜びを申し上げます。

わたしたちの主イエスの受難と十字架上での死を思い起こし、四旬節の間ともに歩んできたわたしたちにとって、いのちの絶望である死を打ち破り、永遠のいのちへと復活された主エスは、わたしたちの希望の源です。

復活徹夜祭の典礼は、小さな光から始まります。ろうそくにともされた光が、明るい部屋の中であればそれほどのインパクトを残すことはありません。しかし光の祭儀の時に、この聖堂の照明は落とされ、それによって、小さなろうそくの光であっても、暗闇を切り裂くように光り輝く様をわたしたちは体験します。そして旧約聖書に記された様々な物語から語られる、神のことばに耳を傾けました。

これらは神と共に歩む最初の旅路の物語であります。わたしたちすべてを永遠のいのちへと招かれている御父は、それを仰々しい大きな天変地異を持って始めることはされませんでした。すべてを、ひとりの人から、一つの家族から、一つの民から始めて行かれ、まるで暗闇にろうそくの光が輝くように、この世の闇の中で小さく輝く救いの物語でありました。世界の片隅で、神は選ばれた民とともに歩み、その光を徐々に大きく育て上げ、輝きを増していきます。その救いの物語、すなわち救いの計画は、主イエスの受難と死と復活を通じて、小さな民から世界へと羽ばたき、いまや世界中でその光を輝かせる民となりました。

しかし、一人一人が掲げる光は、ろうそくの光のように小さなものであることに変わりはありません。この世界の中で、一人一人は小さな存在に過ぎません。だからこそわたしたちは、この光を輝かせるために、共に神の民として歩み続けます。

暗闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持ちます。いまの世界は、闇を深めています。世界各地で頻発する紛争状態は終わることなく、主イエスご自身が最初に福音を告げた地、聖地を始め、中東での緊張状態は続いています。単に社会の状況が落ち着かないといったレベルではなく、今日、このときにも、いのちの危機に直面し、希望を失い、絶望と嘆きの中で、助けを求めて叫び続けている人がどれほどいることでしょうか。この暗闇だからこそ、わたしたちは光を輝かせなくてはなりません。一緒になって、神の民として、いのちを生きる希望の光を掲げていかなくてはなりません。絶望のうちに失われていくいのちがあることを、いのちの与え主である神ご自身が望まれているはずがありません。

今夜、このミサの中で、洗礼と堅信と初聖体の秘跡を受けられる方々がおられます。ご存じのようにキリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、今夜、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、そこには大人のキリスト者としての果たすべき責任があります。もちろん、すでに洗礼や聖体や堅信を受けているわたしたちすべてにも、同じ責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。

「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」

モーセに導かれてエジプトでの奴隷状態から逃れようと旅だった民は、エジプトのファラオの強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて神にただただ泣き叫ぶばかりでありました。そこで神は、モーセに対して、行動を促します。勇気を持って前進するようにと命じます。しかもただ闇雲に前進するのではなく、神ご自身が先頭に立って切り開く道を、ともに歩めと、命じておられます。

教会はいま、シノドスの道を歩む教会となろうと呼びかけ続けています。教皇フランシスコが何度も繰り返されたように、それは何か新しい組織になるための制度改革をしようとかそういう話ではなく、まさしくこの旧約聖書の物語にあるように、人間には不可能に見える道を、神の導きに信頼して勇気を持って前進する神の民になろうという呼びかけてあります。そのために神の呼びかけ、聖霊の導きを皆で識別しようという呼びかけです。すなわち旧約聖書に記されているように、希望を掲げて勇気を持って歩み続けるという、神の民の原点に立ち返ろうという呼びかけであります。

復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。

「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。」

イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。力強いリーダーが突然いなくなったのですから、呆然と立ちすくんでいたのかも知れません。絶望のうちにバラバラになろうとしていたのかもしれません。

恐れと不安にとらわれ、前に向かって民としてともに歩むことを忘れた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。立ち止まるのではなく、前進することを求めます。行動するようにと促します。ガリラヤは新しいいのちを生きる希望の原点です。なぜならばガリラヤでこそ、イエスが最初に福音を告げ、最初に弟子たちを呼び集めました。ガリラヤ湖畔で、イエスはペトロをはじめとした弟子たちと出会い、従うようにと呼び出しました。ガリラヤは弟子たちにとっての信仰の原点です。自らが教え諭したその地、信仰の原点に立ち返り、そこから改めて勇気を持って希望の旅路をともに歩み始めるようにと弟子たちに命じています。神の民は旅する共同体です。

主の死と復活にあずかるわたしたちの責務の第一は、勇気を持って前進することです。パウロが聖木曜の朗読であったコリントの教会への手紙で述べていたように、わたしたちの責務は、「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせること」であります。復活の栄光へと繋がった主の死を告げ知らせることです。十字架上での受難と死を通じてあかしされた、神の愛を告げ知らせることです。復活を通じてわたしたちに示された、いのちを生きる希望を告げ知らせることであります。

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2026年4月 4日 (土)

2026年聖金曜日・主の受難@東京カテドラル

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聖なる三日間。聖金曜日夜7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた主の受難の典礼での、説教原稿です。

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なお、説教の中で触れている教皇ヨハネ23世の「地上の平和」は、中央協議会から文庫本(ペトロ文庫)として発売されています。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月03日

わたしたちの救い主は、今日、愛する弟子たちに裏切られ、群衆からはあざけりを受け、孤独のうちに十字架を担いながら歩み続け、この世のいのちの絶望の淵にあって、苦しみを耐え忍び、十字架の上で命を御父に捧げられます。

その苦しみは、ご自分の犯した罪のためではなく、イザヤが記しているように「多くの人の過ちを担い、背いた者のためにとりなしを」するためでありました。

イザヤは、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた」と記しています。救い主イエスの十字架における苦しみと死は、わたしたちの平和のために、またわたしたちの癒やしのために、罪のゆるしを願う捧げ物でありました。わたしたちのいのちを生きる希望は、主イエスの苦しみによってわたしたちに与えられています。

それにもかかわらず、わたしたちはその平和のうちにいのちを尊ぶ務めを忘れ去り、神の似姿として与えられた尊厳を護ろうともせず、イエスの苦しみによってもたらされた平和を葬り去り、希望を捨て去ろうとばかりしています。

復活される前のイエスがペトロに直接語りかけた最後の言葉は何だったでしょう。それは、ペトロがイエスを護ろうとして剣を手にし、大祭司の手下であるマルコスを切りつけたときにイエスの言われた、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」であります。その後、三度裏切ったペトロに対して、ゆるしのまなざしを向けたことはありましたが、次に直接イエスがペトロに話しかけるのは、復活の後になります。

すべての人に平和と癒やしを与えるための苦しみの旅路に身を投じるにあたり、イエスが一番弟子であるペトロに言い残された言葉は、武器を捨て、御父の計画を実現させよという言葉でありました。

教皇レオ14世は受難の主日の説教の中で、現在の米国やイスラエルとイランを中心とした中東の戦争状態に思いを馳せながら、「平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください」と呼びかけられました。

教皇様は、同じ説教の中で、「イエスは武器をもたず、自分を守らず、いかなる戦いも行われませんでした。イエスは神の優しいみ顔を示しました。神はつねに暴力を拒絶します。自分を救う代わりに、十字架に釘づけにされます。それは、人類の歴史のあらゆる時間と場所に立てられたすべての十字架を引き受けるためです」と述べています。ですから主イエスは今日も、あらゆる時間と場所に建てられたすべての十字架を一身に引き受け、苦しみを神に捧げ、わたしたちに平和と癒やしがもたらされるようにと、その身を神に捧げておられます。

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受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせます。ペトロは武器を手にすることが主イエスの望まれる平和の構築に繋がらないことを諭され、その後悔のなかでなんとかイエスに繋がろうと大祭司の屋敷の中庭に入ったものの、さらに三度にわたってイエスを否定し、深い後悔と大きな絶望の中に落ち込んでいたことだと思います。

裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。十字架の出来事を通じて、ペトロを復活の栄光の証人とすることで、福音は、主の十字架が持っている意味を明確に示しています。十字架は神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光を示しています。

いま世界は、「十字架につけろ」と熱狂のうちに叫んで、平和と癒やしをもたらす神の御子を死に追いやった群衆のように、「暴力には暴力を。死には死を」と叫んで絶望の暗闇を深めようとしているかのようであります。教皇様と心を合わせて、わたしたちも、世界の政治のリーダーたちに、「平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください」と呼びかけたいと思います。

1962年のキューバ危機を踏まえ、東西の冷戦が深まる中、1963年に発表された教皇ヨハネ23世の「地上の平和」の終わりには、「ひとり一人の中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植えつけなければ、人々の間に平和は成立し得ません」と記されています。

その上でヨハネ23世は、平和が「真理を土台とし、正義によって築かれ、愛によって生かされ、最後に自由において実践される」真の秩序に基づいていなければ、「平和」は虚しい単語に過ぎないと指摘されます。単に争い事が止み、闘いが終わればそれで平和なのではなく、神の計画が実現している世界でなければ、そして一人一人がその神の計画に身を委ねていなければ、真の平和は実現しないと指摘されます。道は遙かに遠いと感じさせられます。

主イエスが苦しまれた十字架の傍らには、聖母マリアが佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。真の神の秩序を実現している聖母は平和の元后です。

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。

教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、平和の実現を目指して歩み続けます。

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