2020年8月 1日 (土)

年間第18主日@東京カテドラル

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毎年夏が始まるこの時期には、「あっという間に」月日が過ぎてしまったなどと実感させられることが多いのですが、今年はいつもと異なります。まずもって8月が始まったのに、まだ梅雨の中にいるような毎日が続いており、暦の感覚と肌感覚が調和していません。加えて、新型コロナウイルス感染症の事態はいっこうに終息せず、毎日のように両極端の様々な意見が飛び交う中で、ただただ時間だけが過ぎています。

東京都で毎日報告される新規の感染者数は増加していますが、先週も触れたように、その増減に一喜一憂することなく、わたしたちは基本の感染症対策に徹して、互いのいのちを守ることを心したいと思います。密集・密接・密閉を避け、手指を消毒し、マスクを着用しながら、信仰生活を可能な範囲で続け、深めていきたいと思います。

なお、現在のステージにおいて教会活動参加に大きな制約のある、特に高齢の信徒のみなさまへ、特別な司牧的配慮を、それぞれの小教区の事情と地域の事情に応じて考えてくださるように、小教区を担当する司祭方には依頼をしてあります。すべて一概に同じような対応をすることは難しいとは思いますが、それぞれの事情に応じて、霊的な側面での司牧的配慮を講じていくことが出来るように、それぞれの現場で取り組まれていることと思います。ただし、どうか高齢の方にあっては、これまでのインフルエンザなどと異なり、今回の新型コロナウイルスにあっては解明されていないことが今の段階では多々ありますので、「健康に問題はないから」と過信されずに、是非とも慎重に行動されますようにお願いいたします。

現時点での東京や千葉における感染の報告は日々ありますが、幸いなことに教会活動を通じた感染の報告は今のところなく、教会の感染対策にも一定の効果があるものと思われますので、次の一週間、8月2日から9日まで、現在の制約を伴った活動状況を継続いたします。

以下、本日の夕方6時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第18主日の公開配信ミサの説教原稿です。なお以下の写真は、7月25日に午後に麹町教会で行われた、五大陸ロザリオの模様です。

年間第18主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年8月2日 前晩

 

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人間の幸せとは、いったい本当はどういうことなのでしょう。わたしたちはそれをよくわかっているようで、その実、人間を幸せにしてくれるのは何か、考えれば考えるほど様々な課題が浮かび上がってきて、明確に定義づけることができません。

一番の問題は、幸せというのが、何かを持って計ることのできる絶対的な概念ではなくて、一人ひとりでその中身が全く異なる相対的な概念であることです。

そうであったとしても、少なくともわたしたちは、決して皆が不幸になるようにではなく、皆が幸せになるようにと、歴史の中で努力を続けてきたはずであります。

第二次世界大戦の後、荒廃した世界の現実から立ち上がり、再び愚かな戦いをすることなく、幸せな世界を築き上げようとした国際社会は、世界人権宣言を採択します。

その冒頭に、「全ての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳及び権利について平等である」と力強い宣言が記され、さらに第25条には「全ての者は、自己及び家族の健康及び福祉のための相当な生活水準についての権利、並びに失業、疾病、障害、配偶者の死亡、老齢そのほか不可抗力による生活不能の場合に保障を受ける権利を有する」と記されています。

1966年に定められた社会権規約には、「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善について全ての者の権利を認める(11条)」と記されていました。

しかしながら、そういった理想と様々な努力にもかかわらず、現実の世界では貧富の格差が拡大し、世界銀行が定める一日1.9米ドル未満と言う極度の貧困ライン以下で生きる人たちは、改善されたとはいえ、いまでも世界人口の一割ほどをしめています。

教皇ヨハネパウロ二世は、1991年に発表された回勅「新しい課題」に、こう記しています。
「より良く暮らしたいと願うことは間違いではありません。間違っているのは、『あること、生き方』よりも『持つこと、所有』を目指すことが、より良い暮らしに繋がると決めてかかる生活様式であり、より良く生きるためではなく、快楽を人生の目的とし快楽のうちに人生を送るために、より多く持ちたいと願う生活様式なのです(36)」

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教皇フランシスコも、東京ドームでのミサ説教で、このように述べていました。
「子としての自由が抑え込まれ弱まるときがあることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。あるいは、息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、表面的ではかないことがらに胸がときめくように仕向けるのです」

その上で、教皇フランシスコは、「イエスにおいてわたしたちは、自分たちは神の子どもだと知って自由を味わう、新たないのちを見いだすのです」と指摘されます。

あらためて言うまでもなく、神が与えようとされているのは、この世の幸福ではなく、神の言葉に聞き従うことによって、魂がその豊かさを楽しみ、いのちを得る心の糧であります。本当の幸せは、「イエスに出会う人々の心と生活全体を満たす」福音の喜びであると、教皇フランシスコは、「福音の喜び」の冒頭で指摘します

わたしたちには、その福音の喜びこそが真の幸福の源であると主張し、それを多くの人に伝えていく義務があります。

今日の福音は、五つのパンと二匹の魚の奇跡物語でありました。その奇跡が起こる前の、弟子たちとイエスとの会話に注目したいと思います。

大勢の人がイエスの話を聞くために集まっている中で、当然、人間的な必要を満たしていくことを無視することはできません。そこで弟子たちは、それぞれが食事を求めるように人々を解散させようとします。それぞれの思いのままに人々を散らしてしまおうとする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい」と指示をします。

集まっている大勢の人にとって必要なのは、真の幸せをもたらすイエスの福音であって、イエスから離れてこの世の充足を求めることではないと指摘する、イエスの弟子たちへの指示であります。もちろん実際に空腹を満たすことの必要も否定しないイエスは、パンと魚の奇跡を起こしてそれに応えますが、しかしこの場面で重要なのは、その弟子とイエスのやりとりです。

世間の常識に従って行動しようとした弟子たちに、イエスは、真の幸福の源はどこにあるのかをもう一度見直すようにと求められました。

その同じことを、現代に生きる弟子であるわたしたちは、主イエスからおなじように問いかけられています。本当の幸福は、この世の生み出す幸福にはあり得ないことを、そして、本当の幸福は、イエスの福音にあることを、多くの人に伝えるように求められています。福音に従ってより良く生きることこそが、本当の幸福の源であることを、わたしたち自身の生き方と、語る言葉であかししながら伝える務めがあります。

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社会の現実の中で、福音を伝えようとすることには、当然さまざまな困難があります。パウロはそれを、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」による抵抗と記していました。形を変えて、これらの抵抗は現代社会にも存在していますし、そのためにわたしたちは福音を伝えることを躊躇してしまいます。しかしパウロは、そういった苦しみは、「キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない」と断言します。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」に、「もし、イエスを伝えたいという強い思いを抱いていないなら、イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと、もっと祈る必要があります(264)」と記しています。

人間の真の幸福の源であるイエスの福音を、勇気を持って困難を乗り越え、多くの人に伝える思いを抱くことができるように、「再びあなたに引き寄せてください」と、さらに祈り続けましょう。

わたしたちの「心と生活全体を満たし」てくれるのは、福音の喜びであって、それは「イエスに出会う人々」に与えられるからです。「罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放」するのは、「イエスの差し出す救い」にあるからです。

だから、すべての人の幸せを願いながら、「イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと」、何度も何度も祈り続けましょう。

 

 

 

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2020年7月25日 (土)

年間第17主日@東京カテドラル

このところ、毎日のように発表される感染の数にどうしても大きな関心が寄せられていますが、特に東京都の場合はその日に検査が陽性となった方ではなくて、当日朝までに保健所から都に報告され、内容が確認された件数と言うことのようですので、必ずしも、今日は多いとか少ないとか、数字の多寡に一喜一憂する必要はないものと考えています。とはいえ、感染が終息に向かっているようには見えませんし、日々状況が変化しますが重症者数も増減を繰り返していますので、まだまだ慎重に行動する必要があります。

これまでのところ、小教区において感染の報告はありませんが、それが現在の各小教区の感染対策の結果なのか、それとも今般の感染症がそういった程度のことなのかは、残念ながら確証を持ってどちらかだと断定することは出来ません。ですから現時点では、教区としてはより慎重な判断を優先させる必要があると考えています。

したがって、これまで同様の小教区における感染対策を、次週も継続していきたいと思います。原則として、7月26日から8月2日までの一週間は、教会活動にあってはこれまで同様、「感染しない・感染させない」ための対応を継続します。(現在の対応については、東京教区のホームページをご参照ください。また教区の大枠に基づいて、各小教区での独自の対応も定められていますので、ご不明の点は小教区の主任司祭にご確認ください)

以下、年間第17主日ミサ、土曜日午後6時の関口教会でのミサ説教の原稿です。

年間第17主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月26日

 

「良き友は人生の宝だ」とか、「苦難は人生の宝だ」とか、「出会いは人生の宝だ」とか、わたしたちの人生には、さまざまな「宝」がつきものです。

人間関係だとか、社会での体験だとか、そういった多くの宝は、誰かとの出会いの中で、自分の人生を豊かにしてくれる得がたい存在であります。

もちろん、趣味で何かを集めているときなどに、そういったコレクションが「宝」となることもあるでしょうが、いずれにしろわたしたちが「宝」と言うときには、実際の貨幣的な富としてわたしたちを経済的に豊かにしてくれる「宝」のことではなくて、貨幣的な価値では計ることのできない豊かさを与えてくれるものをさして、「宝」と呼んでいます。

マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を記しています。さらには、「持ち物をすっかり売り払い」手に入れようとするほどの、「良い真珠」の話を記しています。

すなわち、何か経済的な付加価値を与えてくれるような「宝」ではなくて、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような「宝」であります。

この話は、ともすれば、非常に利己的な響きを持つ話でもあります。自分の人生の利益のために、隠し持っておこうとする宝の話のようにも聞こえます。

列王記には、ダビデ王を継いだソロモンが、「何事でも願うが良い」と神に言われたときに、自分のための様々な利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願うことで、神からよしとされ、「知恵に満ちた賢明な心を」与えられたと、記されています。

神から、それこそ人生の最高の宝を与えようと言われたときに、ソロモンは自分の利益のためではなく、自分に託された神の民のための宝を求めた。ここに福音に記された、すべてをなげうってでも手に入れたくなる宝の意味が示されています。

自分の利益のためではなく、他者の利益となるために、宝を手に入れる。すなわちわたしたちは、社会の共通善に資するために、宝を求め続ける。
わたしたちの宝とは、いったい何でしょうか。

昨年東京ドームでミサを捧げられた、教皇フランシスコの説教の言葉を思い起こします。
教皇はマタイ福音の6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言う言葉を引用した後に、次のように言われました。

「主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。この世での己の利益や利潤のみを追い求める世俗の姿勢と、個人の幸せを主張する利己主義は、実に巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします」

教皇フランシスコは、無関心のグローバル化という言葉を使って、現代社会に生きるわたしたちが、利己主義を強めながら、むなしいシャボン玉の中に閉じこもって、はかない夢を見ながら、他者への関心を示さなくなっていると、教皇就任直後から指摘を続けておられました。

ドームミサの説教で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる「わたし」に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる「わたしたち」、これしかありません」と指摘されました。

わたしたちは、社会という共同体の中で、孤立することなく、互いの交わりの中で、共同体全体の益、すなわち共通善に資するよう、持っている宝を分かち合わなくてはならない。

教皇ヨハネパウロ二世の「アジアの教会」に、次のように記されています。

「イエスに対する教会の信仰は、いただいたたまものであり、分かち合うべきたまものです。その信仰こそ、教会がアジアに差し出すことのできる最大の贈り物なのです。イエス・キリストの真理を他の人々と分かち合うことは、信仰のたまものを与えられたすべての人にとって重要な義務です(10)」

信仰は、わたしたちにとって宝であることは間違いがありません。そしてその宝は、自分の心に秘めて隠しておくためではなく、また自分だけの救いの鍵でもなく、共通善に資するように、多くの人と分かち合われなければなりません。わたしたちは、受けた信仰を分かち合うために、キリストに呼ばれています。

教皇フランシスコは、昨年この場所で青年たちと出会ったとき、こう述べられました。

「あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在してほしいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんの資質、好み、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためのものなのです」

わたしたちの宝である信仰は、いのちは神からの贈り物であると教えます。教会は、神が愛を込めて創造されたすべてのいのちは、例外なく、その始めから終わりまで大切にされ、守られ、その人間の尊厳が保たれなくてはならないと主張します。すなわち、いのちは最高の宝物です。

その宝物であるいのちは、自分だけのものではなく、他者のために与え尽くすいのちであるようにと、教皇は強調されました。

相模原の障害のある方の施設で、19名の尊厳あるいのちが暴力的に奪われてから26日で4年となります。最高の宝物であるいのちを、互いに与え尽くし支え合うためではなく、価値がないとして暴力的に奪うことは許されることではありません。事件の衝撃が残っているにもかかわらず、いまでも、いのちの価値の差異を強調して選別することをよしとする声が聞こえるのは、大変残念です。最高の宝物であるいのちは、互いの支え合いの中で、尊厳のうちに護られなくてはなりません。

「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と約束された主ご自身が、わたしたちのためにそのいのちを分かち合い共に生き、支えてくださるように、その主に従うわたしたちも、兄弟姉妹との交わりの中で、互いに支え合ういのちを生きていかなくてはなりません。

わたしたちの宝は、すべからく自分だけのものではなく、他者と分かち合うためにある。宝物である信仰を分かちう。たまものであるいのちを共に生きる。互いに助け合い、思いやり、きずなを深め、豊かないのちを生きることができるように、努めてまいりましょう。

 

 

 

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2020年7月18日 (土)

年間第16主日@東京カテドラル

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この数日間、東京では感染者数が拡大しています。このままミサを含めた小教区での活動を継続するべきなのか、それとも再び中止するべきなのか、判断に迷うところです。

これから先、少なくとも一年以上にわたって、感染者数が増減したりする状況は続くことでしょうし、有効な予防策や治療法が確立されるまでには、その程度か、それ以上の時間が必要なことと想定されます。従って、選択肢は二つで、安心安全が確立されるまですべてを中止するのか、または、そういった状況の変化に合わせて教会活動も強弱を付けながら行うことができる道を模索し続けるのか。

6月21日に教会の活動の再開を決めたときの選択は後者です。再開からそろそろ一ヶ月になりますから、それぞれの小教区では出来ることと出来ないことが明らかになりつつあると思います。またミサだけでなく、司牧的配慮の様々な道が模索されていることと思います。しばらくは、気を緩めることなく、常により慎重な道を選択しながら、感染しないことと感染させないことを念頭に、判断していきたいと思います。少なくとも、今週中(7月19日から25日)は、教会の活動を十分な感染対策をとりながら現状のように継続します。

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年間第16主日のミサ説教の原稿です。

年間第16主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月19日

 

「すべてに心を配る神はあなた以外におられない」と、知恵の書は記していました。
わたしたちはこの世界が、創造主である神によって支配されていることを信じています。神は「正義の源」であるその力を通じて「万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方」であると、わたしたちは信じています。

しかしながら、同時にわたしたちは、この世界が様々な矛盾に包まれていることも知っています。神が、その愛といつくしみをもって創造された世界であるにもかかわらず、そこに大きな矛盾が生じるのはなぜなのか。

それは例えば、環境破壊もその矛盾の一つであります。いったいなぜ、そのような矛盾が生じるのでしょうか。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、こう記されています。
「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。このことによって、わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任にゆがみが生じたのです(66)」

すなわち、人間の欲望や思い上がりが、あたかも人間が神の座を奪い取り、神の存在なしですべてをコントロールできるかのように勘違いをさせ、勝手な行動を続けてきたがために、この世界に矛盾を生じさせてしまったのだと、教皇は指摘されます。

人間の生を成り立たせているのは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」であるにもかかわらず、その三つのかかわりは、外面的にも内面的にも引き裂かれてしまった。その三つのかかわりが引き裂かれた状態こそ、罪であると、教皇は述べています。

大きな災害に襲われるとき、大自然の脅威の前にたたずみ、わたしたちは人間の力や知恵がいかに小さな存在であるかを思い知らされてきました。同様に、今年の初めから続いている新型コロナウイルスによる感染症によってわたしたちは、目に見えない小さなウイルスの前で、人間の力がどれほど弱いものであるのか、人間のいのちがいかにもろい存在であるのかを、あらためて思い知らされました。

思い知らされるとき、わたしたちは一時的に、謙遜に生きる決意を心に刻みます。思い上がりを正さなければと、心に誓います。残念なことに、その決意は長続きしません。長続きするのであれば、わたしたちは真摯に神の前で謙遜に生き、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を、それぞれ大切にする世界を構築してきたことでしょう。しかし現実は異なります。すぐに忘れてしまうわたしたちは、繰り返し人間の欲望に負け続け、大きな矛盾はわたしたちの共通の家の破壊につながりました。

マタイ福音には厳しい言葉が記されていました。

創造主である神は、良い麦も後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に峻別すると記されていました。一般的に、このたとえでの刈り入れの時は、世の終わりの最後の審判です。

いまの世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。刈り入れの時まで待っておられる主は、決して悪の存在を容認しているのではなく、峻別できるそのときを待っておられるのだと福音は記します。

パウロはローマの教会への手紙に、「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」と記します。その上で、聖霊がわたしたちの祈りを執り成してくださるとも記します。

わたしたちは、「わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任」を忠実に果たすように求められています。すなわち、この世にはびこる毒麦をしっかりと識別して、それを良い麦へと変えていくこと。そのために、良い麦と毒麦をしっかりと峻別できる識別の目を与えてくださるように、聖霊の取りなしと導きを祈ること。

わたしたちはあらためて天地の創造主である神の前で謙遜になり、いのちを与えられているものとして、人間の欲望ではなく、神の導きに従って、この共通の家を「耕し、守る」務めを果たしていかなくてはなりません。刈り入れの時までに、力の限りをつくして、悪い麦を減らし、良い麦へと変えていく努力を続けなくてはなりません。

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教皇フランシスコは、昨年11月に日本を訪れた際、首相官邸で政府や外交団の関係者に話をされました。その中で、次のように述べています。

「地球は自然災害だけでなく、人間の手によって貪欲に搾取されることによっても破壊されています。被造物を守るという責務を国際社会が果たすのは困難だとみなすとき、ますます声を上げ、勇気ある決断を迫るのは若者たちです。若者たちは、地球を搾取のための所有物としてではなく、次の世代に手渡すべき貴重な遺産として見るよう、わたしたちに迫るのです。わたしたちは彼らに対し、むなしいことばでではなく、誠実にこたえなければなりません。まやかしではなく、事実によって、こたえるのです」

その上で教皇は、世界が共通の家を守るために連帯して取り組むようにと求め、次のように述べられました。

「人間の尊厳が、社会的、経済的、政治的活動、それらすべての中心になければなりません。世代間の連帯を促進する必要があり、社会生活においてどんな立場にあっても、忘れられ、排除されている人々に思いを寄せなければなりません。・・・孤独に苦しむ高齢者や、身寄りのない人のことも考えます。結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、いのちを生み、守る力があるかによって測られるものなのです」

知恵の書に、「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」と記されていました。

人間のわがままな心の思いを主張し続けるのではなくて、愛を込めてこの世界を、私たちのいのちを創造された神のいつくしみと愛に満ちた心に、耳を傾けるときです。すべてのいのちを守るために、排除ではなく互いに支え合いながら、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を大切にするときです。人間の尊厳を掲げて、連帯のうちに互いのいのちへの思いを馳せるときです。

 

 

 

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2020年7月11日 (土)

年間第15主日@東京カテドラル

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この数日の豪雨によって、大きな被害を受けられたみなさまに、心からお見舞い申し上げます。被害の大きかった福岡教区では、すでに被災地支援のための募金が始まっています。(東京教区ホームページでのリンクはこちらです)。被災地では復旧のために人手が足りないことが報告されておりますが、このたびの感染症対策のため、ボランティアは県内の方だけに限られているようです。従って、全国に向けてのボランティア受付のようなことは難しいかと思います。まずは現地からの情報に耳を傾け、できることでの支援を、そして祈りをしていきたいと思います。

この数日、東京都では新型コロナ感染者が100名を超え、さらにこの三日間は200名を超えています。いまの時点では、重症者が少ないことや、亡くなられる方が6月24日から出ていないことを踏まえて、即座に教会活動を停止するようなことはしておりません。現時点での感染対策をしっかりと守りながら、慎重に教会運営を続けてまいります。

しかし今後は、仮に感染者数がこのまま増加し続け、重症者が増加した場合などには、現在の対応を一段厳しいものに戻すことも念頭に、日々刻々と変化する状況を見つめております。これからかなり長期にわたって、現在のように社会の現実として新型コロナウイルスがあるということを前提として、その中で教会活動を続けていく方策を慎重に模索して行かざるを得ないものと思われます。

あらめて申し上げますが、教区の基本方針は三つです。(詳しくは、教区ホームページに掲載しているビデオを、是非一度ごらんください)

1: 教区内地域で新規感染者がいる限り、教会活動では「密接・密集・密閉」を避ける
2: 感染しない、感染させない
3: 秘跡にあずかる機会を提供し、霊的な一致を促す

教会活動を停止するという歴史に残るような事態に、東京教区だけではなく世界中の教会が直面しているのですが、その中で東京教区は6月21日に活動を再開して、まだまだ4回目の日曜日です。教区としての大枠はありますが、それぞれの小教区では事情が異なりますので、感染対策への対応もそれぞれ異なっています。なにぶん誰ひとり経験したことのない事態なのですから、当然どの対応も完璧ではあり得ず、当分は試行錯誤の繰り返しにならざるを得ないでしょう。これからさらに何回かの日曜日の経験を通じて、徐々に改善していくしかありません。なんと言っても、感染症の事態が即座に終息するとは思われず、わたしたちは長期戦を心しなければなりません。

現時点での対応にはまだまだ不備もあることでしょう。大変申し訳ありませんが、しばらくはこの事態を一緒になって乗り越えるため、耐え忍んでくださるようにお願いいたします。教会内での意見の交換は歓迎しますが、あたかも教会がすべて変わってしまったかのように喧伝するような行為は慎まれるよう心されることを希望します。

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以下、年間第15主日、7月11日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信された公開ミサの説教原稿です。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年7月12日

 

神の言葉は、受肉の神秘によって人となられたそのときから、今に至るまで、わたしたちとともに現存しています。人となられた神の言葉である主イエスを通じて直接語られたその言葉は、日々の聖書の朗読を通じて、教会の教えを通じて、典礼を通じて、祈りを通じて、繰り返しわたしたちに伝えられてきました。

第二バチカン公会議の啓示憲章にこう記されています。
「教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである(啓示憲章21)」

すなわち、様々な出来事が時の流れの中で刻まれ歴史は形作られてきたのですが、その間常に神の言葉は時の流れの中に現存していました。しかし世界の現実は、神の言葉に耳を傾けてこようとはしませんでした。時には耳を傾けようとしたこともあったのでしょうが、それは例外です。少なくとも今に至るまで、神が望まれる世界は実現しておらず、神が愛を込めて創造されたいのちは危機にさらされ、人間の尊厳はないがしろにされ、神の似姿がその尊厳を暴力的に奪い取られる事例は、世界に数多く見られます。

わたしたちの国にあっても、近年、数多くのいのちが孤独と孤立のうちに危機に直面しており、とりわけ今般の感染症が拡大し経済が混乱する中で、雇用の不安定さが増大し、いのちをつなぐために十分な助けを得られることなく孤立している人も少なくありません。

もちろん社会には、教会の信徒をはじめとして多くの善意の方々が、積極的に助けの手を差し伸べており、そういったボランティア活動の団体も多く存在しています。東京教区の災害対応チームでも、そういった支援を提供する団体などの情報を集めて、インターネット上で提供していますが、数多くの善意の方々が存在しているという心強い現実を、そういった情報収集から垣間見ることができます。善意の多くの方の存在を知り、その心配りに感謝するとともに、それでもまだ取り残されているいのちがたくさんあることを思わざるを得ません。

また今般の事態にあって、特に医療関係者の皆さんには、常日頃心にかけておられることであろうと思いますが、たまものであるいのちを守るために、日夜尽力されておられることに、心から感謝申し上げたいと思います。

神の十戒の第五の掟は、「殺してはならない」と定めています。

この掟はすなわち、わたしたちに「人間の生命が神聖である」ことを教え、いのちを守ることの重要性を認識することも求めています。カトリック教会のカテキズムには、第五の掟の箇所に、「道徳律は、重大な理由もなく誰かを死の危険にさらさせること、さらに、危険な状態にある人を見捨てることさえも禁じています(2269)」と記されています。

今般の感染拡大の事態にあたって教会が取り入れている感染症対策は、「感染しない」ことだけではなく「感染させない」ことも重要視していると、常々申し上げてきた背景は、そこにあります。「殺してはならない」と神から命じられているわたしたちは、他者をいのちの危険にさらすことも、危険な状態にある人を見捨てることも、禁じられているからです。

神の言葉は、この世界の現実のなかにあって、様々な方法を通じて幾たびも幾たびも繰り返され響き渡っているにもかかわらず、世界全体には浸透していません。

ヨハネ福音の冒頭に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおりであります。

耳を傾けようとする人の心に蒔かれた神の言葉の種は豊かに実を結び、善意の人を駆り立てて、助けを必要としているいのちへ、危険な状態にあるいのちへと、その思いを向かわせます。残念ながら、神の言葉の種は、まだ多くの人の心のうちで、豊かな実を結んではいません。

この危機的な状況の中で、これから今以上に孤立を深めながら危機に直面するいのちは増えていくことが想定されます。ですから、わたしたちは、いただいている神のいのちのことばの種を、蒔き続けなくてはなりません。さらには、蒔かれた種が豊かに実を結ぶようにと、その土壌を良いものとしておく努力も必要です。ただただひたすらに種を蒔き続けるだけではなく、まずは最初に種が蒔かれる土壌を良いものに変えて行く努力も必要です。種を蒔く前に、しなければならない準備もあります。

その準備、すなわち土壌改良を成し遂げるのは、わたしたち一人ひとりの日々の生活における、言葉と行いによる神の愛といつくしみのあかしであります。人とのかかわりの中で、わたしたちの言葉と行いは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

語られる言葉は、わたしたちの口から出る実際の言葉であると共に、わたしたちが、例えばインターネットなどに残していく言葉でもあります。時にクリスチャンを標榜しながら、他者のいのちを守ることをないがしろにするような、きわめて利己的な主張や攻撃的な主張を目にするとき、いったいどのような土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのかと思い、悲しくなることがあります。わたしたちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の言葉が、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためなのだと、常に心しておきたいと思います。

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「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」

神は自らの言葉が、その使命を果たさないままに、むなしく戻ってくることはないと宣言されています。人となられた神の言葉である主イエスによって、神の言葉はわたしたちの間に現存されています。現存されているのですから、どのような困難にあっても、必ずその使命を果たされます。

この神の約束に信頼し勇気をいただきながら、小さな歩みではありますが、わたしたちの言葉と行いを通じて、多くの人の心の土壌を改良し、そこに蒔かれる神の言葉の種が豊かに実を結び、それを通じて神が愛されるすべてのいのちが大切にされ、守られ、その尊厳が尊重される世界が実現するように、努力を続けてまいりましょう。

 

 

 

 

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2020年7月 5日 (日)

年間第十四主日@東京カテドラル

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年間第十四主日のミサ、インターネット配信用に、前晩土曜日の18時に、カテドラルで捧げたミサの説教原稿です。

この数日、東京では100人を超える感染者が相次いで報告されています。公開ミサをこのまま続けるべきか検討しましたが、感染者が重篤化することの少ない若年層に多いことと、この数日間重症者が少なく、亡くなられる方も出ていないことから、現時点での感染症対策(社会的距離、手指消毒、マスク着用、一斉に歌わない、高齢の方にお待ちいただく)を継続することで、お一人お一人のいのちを守りながら、もっとも大切な秘跡である聖体祭儀を続けることが可能だろうと判断しています。ただ、このまま状況を見守りますが、本日の日曜日も東京都の感染者は100名を超えていますし、今後数日間の感染者、重症者、死者、実効再生産数などに注意を払いながら、判断していきたいと思います。また、現在も主日のミサにあずかる義務は東京教区のすべての方を対象に免除していますので、少しでも不安がある方には、ご自宅でお祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

以下、説教原稿です。

年間第14主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月5日前晩

 

今年の初め頃から今にいたるまで、感染症が拡大し、この数日は東京で感染者が増大傾向にあるものの、この混乱の中で、教会はどのように動いてきたのでしょうか。

もちろん、当初から感染予防を心掛け、2月末からはミサも非公開となり、緊急事態宣言が出てからは、すべての活動が停止しました。ですから、教会は今回の事態の中で、全く動いていなかったと、表面的には見えてしまいます。

今回の事態は、多くの人がいのちの危機に直面するということから、大災害の緊急事態に匹敵しています。わたし自身が担当している教会の援助団体カリタスジャパンでも、今の事態は災害の緊急事態と同等と見なして、緊急募金と支援活動を行っています。

とはいえ、まずもって密接、密集、密閉を避けなければならない状況にあって、従来の大災害への対応のように、ボランティアを集めて一緒に行動することには、制約があります。実際、2011年以来、仙台教区において日本の教会が設置しているいくつかのボランティアベースでは、一時的に人を集めることを中止にせざるを得ませんでした。その意味で、従来のような活動には、感染症の下では、限界があります。

しかし、同時に、社会全体で自粛が続く中で、雇用環境も悪化し、また病院に出かけることもままならない人が出たり、住居を失ったり、職を失ったりと、助けを必要とする人は増加しました。

教皇様は、教皇庁にCovid19委員会を設置され、今回の事態に教会がどのように対応できるのか、統合的人間開発の部署や国際カリタスが協力して取り組むようにと定められました。

その発足を報告する記者会見で、責任者のタークソン枢機卿は、「最初は単に健康問題だったが、経済、雇用、生活スタイル、食料安全保障、AIやインターネットのセキュリティ、政治、政府、政策、研究など、新型コロナ感染症が影響を与えなかった人間の生活の側面は何一つない。教皇フランシスコが教えるように、『あらゆるものはつながりあっている』を象徴している」と述べています。

わたしたちの人生のすべての側面が影響を受け、常日頃から生活に困難を抱えている人たちが、さらに大きな困難に直面し、また国によっては、感染症のためだけではなく、そのようにして生じた様々な側面の困難によって、いのちの危機に直面する人も多数おられます。

そのような中で、活動に困難を抱えながらも、従来のような大きな活動としてではなく、小さな単位で、時には個人的に、時には隣近所で、助けを求めている人に手を差し伸べようとする活動が、水面下で広がっています。カリタスジャパンの緊急支援の対象も、従来のような組織的な活動もありますが、その多くは個人的な支援を中心とした小規模なものが増えています。

すなわち、わたしたちは、この困難な状況の中にあって、隣人と互いに助け合うことの大切さをあらためて認識しています。

冒頭に触れたように、教会も、確かにすべての活動が停止していたものの、信徒の皆さんの個人レベルでは、様々な活動に取り組まれる人が多くいると聞いています。教区でも、食料支援や学習支援など、地道な支援活動を支えたり、従来から行っているCTICを通じた外国籍の方々への支援を継続しています。

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わたしたち教会の役割は、人と人との出会いのなかにあって安らぎを与えることです。福音に「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されています。教会は、重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場です。そしてそれは、教会という建物が安らぎの場であるということに留まらず、わたしたち自身が安らぎを与える存在であるという意味でもあります。なぜならば、いつも繰り返しているように、教会とはこの建物のことではなくて、共同体を形作り主イエスの体を形作っている、わたしたち一人ひとりのことだからです。わたしたち一人ひとりが、社会にあって、安らぎを与える存在でありたいと思います。

残念ながら、教会にあっても、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。それは否定できない事実であります。教会に集まっているのは天使のような人ばかりではなく、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。ですから、集まっているだけで、どうしてもそこには対立や争い、無理解や排除が生じてしまいます。

しばしばわたしたちの思い、すなわち人間の知恵や賢さは、自己中心の世界を生み出し、まるで自分の周りに防御壁を築き上げるようにして、そこに近づいてくる人を傷つけている。ですから、わたしたちは常に、自分たちに与えられている使命を思い起こさなくてはなりません。

教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。そして教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心には神の霊が宿ります。そのときわたしたちは、どのような生きる道を選ぶのでしょうか。キリストに属する者として、わたしたちに与えられている務めは、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。力の限り(典礼聖歌390)」ではないでしょうか。

父である神が与えられた最高のたまものであるいのちを守ることは、最も大切な愛徳の業であります。残念ながら、この困難な時期にあって、教会の中でも、教会の外でも、その最も大切な愛徳の業を二の次に考えるような言動が見られました。愛徳の業のうちに、互いに支え合うことこそが、安らぎを与える教会として、今必要な態度です。

教皇フランシスコは、昨年訪日されて東北の被災者と会われたとき、次のように話されました。
「わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決策を総合的に引き受けることのできる唯一のものである、きずなという知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。わたしたちは、互いに互いの一部なのです。」

わたしたちはたまものであるいのちを守ることを大切にする教会でありたいと思います。教皇の呼びかけに応え、力をあわせ、互いの交わりの中で支え合い、重荷を負わせることなく、安らぎを提供する教会であることを目指しましょう。

 

 

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2020年6月30日 (火)

聖香油ミサ@東京カテドラル

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本来ならば聖週間中に行われるはずの聖香油ミサですが、今年は新型コロナウイルスの影響で、聖木曜日に行うことができず、延期となっていました。例年6月29日に近い月曜日には、司祭団が集まり、その年の金祝や銀祝のお祝いをしております。今年はその6月29日月曜日の午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを行いました。

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残念ながら、司祭が大勢参加するミサですから、大聖堂内のそれぞれの距離を保つため、共同司式の司祭にも会衆席にひろがって座っていただきましたので、基本的に一般の方々には非公開といたしました。

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またミサのはじめには、大聖堂入り口に新しく設置された、教皇フランシスコ訪問の記念プレートを祝福いたしました。1981年の教皇ヨハネパウロ二世訪問記念プレートの反対側の壁面にあります。

以下、聖香油ミサの説教原稿と、一番下に、当日のビデオへのリンクです。

聖香油ミサ(非公開)
2020年6月29日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

 

わたしたちは、必ずや後世の歴史に残るであろう出来事のただ中におります。今年は、わたしたちの信仰生活にとって重要な意味を持つ復活祭を共に祝うことができなかったばかりでなく、教会共同体の皆さんと、四旬節も復活節も、共に過ごすことができませんでした。

あらためて言うまでもなく、新型コロナウイルス感染症は、わたしたちの生活から多くの出来事を奪い去りましたが、信仰生活も大きな打撃を受けてしまいました。

同時に、わたしたちは奪い去られたことで、これまで当然だと思っていたことが、それほど重要ではなかったことにも気がつく機会を与えられたように思います。社会の中で優先するべき価値観は何であるのかを、もう一度考える機会を与えられました。

教会にあっても、日曜日に集まることができなくなって、教会共同体とはいったい何であるのかをあらためて考える機会を与えられたと思っています。日曜日にミサのために信徒が集まってくることで、教会は教会であると実感することができていたのですが、今回の出来事は、教会であるということの意味をあらためて考える時を、わたしたちに与えてくれたように思います。

また、わたしたちは福音を告げしらせる教会ですが、今回の事態が、積極的にメッセージを届けるための方法を考える機会をも提供してくれたと思います。大げさに言えば、待ちの姿勢の教会から、積極的に打って出る教会へと変わっていく機会が、このたびの出来事を通じて、わたしたちには与えられていると感じております。

さて、人類のいのちの危機は、ほんの小さな、弱々しい、ウイルスによってもたらされました。まだまだ予防法や治療法が確立されたわけではありませんし、東京では連日感染者の報告があります。ですから、長い自粛期間からの解放感の中で、すべてが解決したようなムードが漂っていますが、当分の間は慎重に行動しなければなりません。

感染が発覚した当初は、まるでちょっとした風邪のようだという楽観論が主流でした。しかし、それほど時間を必要としないうちに、そういった楽観論は打ち砕かれてしまいました。今や、歴史に残る人類のいのちの危機に直面していることは明白です。

感染がある程度落ち着いた現在は、今度は「新しい生活様式」などと政府も音頭をとって、これまでとは異なる社会のあり方が模索されています。

わたしたちは今、価値観の転換を求められています。感染拡大以前の世界に戻ろうとする力は、強く存在するでしょう。しかし今回の事態は、いのちを守るために、わたしたちは何を大切に生きるのかを問いかけ、今までのような社会のあり方を、そのままで続けていくことを許さないでしょう。「新しい生活様式」とは、単に物理的な行動の変革で感染を防止すると言う視点に留まらず、いのちを守るために人類が何を優先するべきなのかを今一度考え直し、新たな生きるスタイルを確立するように求めているように、私は感じています。

いのちを守ることは、わたしたちの信仰にとって重要な視点です。あらためて、昨年の教皇訪日のテーマを持ち出すまでもなく、わたしたちは、神が賜物として与えられたいのちを、徹底的に守り抜くことを主張してきました。いのちは、例外なく、その始まりから終わりまで、その尊厳が守られなくてはならないと主張してきました。

教会は、これまでの歴史の中で、しばしばいのちを守る立場から離れてしまったことを反省しなくてはなりません。特に、わたしたちの人間関係の中で、一人ひとりの尊厳を大切にすることなく、例えばハラスメントのような形で人間の尊厳を傷つけてきたことを、世界中の教会、そして日本の教会は反省し、それを正していく強い決意がいま必要だと思います。

また、すべてのいのちを守ろうとすることは、教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、誰ひとりとして排除されない世界を実現しようとすることでもあります。常にいつくしみの手を差し伸べる教会でありたいと思います。

そしてすべてのいのちを守ることは、同時に神が与えられた被造物を大切に護っていくことにも繋がります。教皇フランシスコは、2020年5月24日からの一年間を、「ラウダート・シ」に基づいて考察を深める年とされました。

感染症の拡大で自粛が続く中、言葉のやりとりでも、人間関係でも、社会の雰囲気でも、殺伐とした雰囲気が世界に広がっているように感じます。いわば心の荒れ野が広がったように思います。同時に、心の荒れ野は、これまで理性が覆い隠していた、排除の思いや差別の思い、暴力的な思いをあからさまにしてしまいました。教会は、人間の尊厳を傷つけるそのような言動を、容認することはできません。いま回心が必要です。

「ラウダート・シ」には、こういう記述がありました。
「『内的な意味での荒れ野があまりにも広大であるがゆえに、外的な意味での世の荒れ野が広がっています。』こうした理由で、生態学的危機は、心からの回心への召喚状でもあります。」(217)

その上で、教皇フランシスコは、「必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりの中であかしさせます。(217)・・・永続的な変化をもたらすために必要とされるエコロジカルな回心はまた、共同体の回心でもあるのです」(219)と指摘されています。

いのちの危機が叫ばれる今こそ、わたしたちは視点を変え、優先事項を見つめ直し、いのちを守ることを前面に出し、共同体としてイエスとのかかわりをあらためて見つめ直す回心が求められています。

さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。

そして、司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司祭団は司教と共にこのミサの中で祝福いたします。

加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、そしてインターネットを通じてご覧の皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、お祈りくださるよう、お願いいたします。

 

 

 

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2020年6月27日 (土)

年間第十三主日ミサ@東京カテドラル

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年間第十三主日です。前晩の6月27日土曜日夜6時から行われた、配信ミサの説教原稿を掲載します。

東京では連日五十人ほどの感染者の報告があります。まだまだ感染症の終息からはほど遠いと感じております。ミサの再開と言っておりますが、実際には、まだまだ教会の活動を全面的に再開するにはほど遠い状況であり、慎重に対応しなければなりません。教会はまだ普通の状態に戻っているわけではありません。

先週よりミサを再開しましたが、これはミサの再開と言うよりも、再開に向けた段階的な試みであるとご理解ください。2月27日以降、ミサはまだ完全には再開されておらず、いまは完全な再開を目指して、様々な条件を定めて、教会のメンバーの安全を優先しながら、限定的にミサを行っている段階です。ですから、様々な制約があり、みなさまにはご迷惑をおかけしております。

「ミサが再開されたのに、自分は参加できない」という声があることも承知しております。申し訳ありません。それぞれの小教区で状況が異なりますから、全体の大枠方針に沿って、それぞれの対応をお願いしています、現在の状況や条件が、未来永劫続く制度改革なのではありませんから、状況に応じて制約の条件は変更されますので、いましばらくは、お互いのためにご協力いただきますようにお願いいたします。宣言自体は解除されていますが、現実にはいまだ緊急事態は継続していると考え、緊急避難的な制約にご協力いただけますようにお願いいたします。

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以下、説教原稿です(写真は先週のミサです)。

年間第十三主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開収録ミサ)
2020年6月28日の前晩

 

教会活動の段階的な再開を始めてから一週間が過ぎました。ご存じのように、未だ感染者は毎日のように報告されており、以前のような完全な状態で安心してミサなどを再開できる状況ではありません。まず第一に、まだ安全な状況ではないのだということを念頭に置いていただければと思います。

その状況下でも、なんとかひとりでも多くの方に秘跡にあずかっていただきたいと考えて、様々な制約の中で、ミサなどを再開いたしました。とりわけ、感染した場合に重篤化し、いのちのリスクがある高齢のみなさまには、まだ今しばらく自宅に留まってくださるようにお願いしており、大変申し訳なく思っています。歴史に残る事態の荒波の中を、先へと進んでいるわたしたちは、互いにいのちを守るために、耐え忍びながら、支えあっていきたいと思います。

本日の、マタイ福音は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という、主イエスの言葉を記しています。

「十字架を担って生きていく」と耳にすると、どのような状況を想像されるでしょう。苦しみを背負って耐え忍びながら、ひっそりと生きていくようなイメージでしょうか。感染症が終息しない中で、様々な困難に直面し、教会でも様々な制約を課されてしまった。十字架を背負って耐えて生きていこうと呼びかけている言葉でありましょうか。
そうではないように、わたしは思います。

そもそも、十字架とはいったいなんでしょう。重荷のことでしょうか。苦しみのことでしょうか。十字架が重荷や苦しみだけであるならば、それはどう見てもマイナスのイメージでしかありません。しかしここでイエスが語る十字架は、主にふさわしいものとされるための十字架であり、すなわち神に良いものとして認められるための、前向きな存在であります。十字架とはいったいなんでしょう。

コリントの信徒への第一の手紙の一章十七節に、パウロの言葉が記されています。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

コリントの教会にあって、誰から洗礼を受けたのかということで派閥争いが起きたとき、パウロは、自らに与えられた使命は、「洗礼を授けるためではなく、福音を告げしらせる」ことなのだと宣言します。

もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、洗礼よりも前に、まず大切なことがある。それはイエス・キリストの福音を告げることなのだと、パウロは宣言します。

加えてパウロは、「しかも」と続けます。「しかも、キリストの十字架がむなしいものとなってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げしらせるためだからです」

福音を、言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなるというのです。ここではじめて、パウロが語る十字架の意味が明らかになります。すなわち、言葉の知恵によらずに福音を告げしらせているのが、キリストの十字架そのものであります。

言葉の知恵によらないとは、具体的に目に見える行動をもってのあかしが、十字架だということであります。十字架は、自らが創造された人間の救いのために、神ご自身がその愛といつくしみの充満として、積極的に行動した愛のあかしであります。神ご自身の行いによる愛のあかしそのものが、十字架です。十字架は、重荷や苦しみの象徴ではなく、積極的な愛の行動の象徴です。神の満ちあふれる愛といつくしみが、目に見える形となった時、イエスは十字架に自らかかり、そのいのちをいけにえとして御父にささげられました。これほど前向きで、積極的な、愛のあかしはありません。

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教会は、神がその似姿として創造された人間のいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく尊重され護られなくてはならないと、繰り返し主張してきました。

いま、いのちを守るために世界が連帯しようとするとき、政治体制の違いや経済的利益の追求などの壁を乗り越えて、優先するべき価値を見直すときに来ていると感じます。

教皇フランシスコは、人間のいのちの尊厳を守るために、そのいのちが生きている地球全体を守ることの大切さを強調されています。

教皇フランシスコは、5月24日のアレルヤの祈りの際に、このように宣言されました。
「5月24日から来年(すなわち2021年)の5月24日までのこの一年間は、この回勅(「ラウダート・シ」)について考える特別な年となります。わたしたちがともに暮らす家である地球と、もっとも弱い立場にある兄弟姉妹を大切にするために力を合わせるよう、わたしはすべての善意の人に呼びかけます」

教皇はこの回勅「ラウダート・シ」の中で、現代社会についてこう指摘しています。
「現在の世界情勢は、『不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床』となります。人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。」(204)

教皇は、世界に広がりつつある個人主義や利己主義を克服するために、新しいライフスタイルを生み出し、社会を変えていかなくてはならないと呼びかけています。世界中で自粛生活が続いた今、わたしたちはライフスタイルを見直すチャンスを与えられているようにも思います。

「神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとっての任意の、あるいは副次的な要素ではありません」(217)と教皇は呼びかけます。

愛のあかしである十字架を、わたしたちは自らの生き方で、言葉で、行いであかししていきたいと思います。あかしして生きることこそ、十字架を担って生きていくことです。そうすることで、神のふさわしいものとされることができます。神にふさわしいものは、当然、神が愛を込めて創造されたこの世界を大切にするものでもあります。

いま、わたしたちにとって必要な生きる道は、どこに向かって開かれているのかを、信仰の目をもって見極めてまいりましょう

 

 

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2020年6月20日 (土)

年間第12主日ミサ@東京カテドラル

長い自粛期間を経て、公開ミサが再開されます。年間第12主日にあたる6月21日からの再開です。前晩のミサを捧げたところも多くあったと思います。関口教会では、日曜日の午前10時は主任司祭がささげますので、わたしの配信ミサは前晩土曜日の午後6時からといたします。当分は継続いたします。

早速、先ほど、最初の公開ミサを捧げました。聖歌はいつもの通りイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。カテドラルの大聖堂は、他の教会と比べても空間が広いため、互いの距離を十分にとって、シスター方に歌っていただいています。

しばらくは状況を見極めますので、ミサの公開に制約があり、申し訳ありません。この状況下では、いのちをリスクにさらさないことが最も重要かと思います。教会にとっても、互いに、感染しない、感染させないためにも、そして神のたまものであるいのちを守ることを最優先にするためにも、慎重な行動をとってくださるようにお願いいたします。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

年間第12主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年6月21日

四旬節から復活節に至る長い自粛期間を経て、やっとミサを公開で行うことができる状況になりました。ただ、感染には波があるとも指摘され、完全に終息したわけではありませんから、しばらくの間、ミサを捧げることにも制約が伴います。その一つが、時間の短縮です。多くの聖堂は、どうしても密接・密集・密閉の状態を生み出しやすいものですから、なるべく集まっている時間を短くしようということで、例えば説教も、通常よりも短くと言うことにしております。

さて、いのちを守るためとはいえ、普段の活動が制限され、自粛ばかりを求められていると、どうしても思考が内向きになってしまいます。内向きになった思いは、自分の心の世界を中心に展開しますから、ともすればとても利己的になり、さらには、普段であれば心の奥底に秘めているような思いや、社会常識が盾となって表に出さない感情までも、あらわにしてしまいます。

自分とは異なる存在との差異を強調して、自らの立場を有利にし、自尊心を保とうとする行為は、差別を生み出す可能性があります。残念ながら人間の心には、自分と他者との相違をことさらに意識して、差別をする誘惑が存在しています。普段は理性や常識がそれをカバーしているのでしょうが、心が内向きになるとき、そういった誘惑が顔を覗かせてしまいます。

米国では、警察官の暴行が黒人男性の死を招き、人種差別への怒りが爆発してしまいました。日本でも、感染症が拡大してからインターネット上では、いつも以上に攻撃的な会話が展開されたり、具体的な差別的言動も耳にいたします。

今更ですが、第二バチカン公会議の現代世界憲章から、次の言葉を引用します。
「すべての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として造られ、同じ本性と同じ根源をもち、さらにキリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。したがって、すべての人が基本的に平等であることは、よりいっそう認められなければならない(29)」

わたしたちキリスト者にとっての人間の尊厳の根源は、創世記の記述にありますが、それを明確に記している公会議の言葉です。

さらに現代世界憲章は、差別についてこう語ります。
「社会的差別であれ、文化的差別であれ、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づく差別であれ、基本的人権に関するすべての差別は神の意図に反するものであり、克服され、排除されなければならない。・・・人々の間に差異があるのは当然のこととはいえ、人格の尊厳は平等であり、このことから、より人間らしい公正な生活条件に届くことが要求される」(29)

北半球での感染にようやく出口の希望が見え始めた今、今度は南半球で、特に南米やアフリカでの感染拡大が心配されています。とりわけ、もともと医療資源に乏しく経済的にも厳しい状況のアフリカ諸国では、現地の司教たちが、感染症後の世界のあり方について、国際社会に向かってのアピールを出しています。日本を含めた先進諸国でさえも、経済に大きな打撃を被ることは確かでありますから、アフリカ諸国の状況はさらに厳しくなることが想定され、感染症以上に、経済危機によって、多くのいのちが危機に直面することが予測されています。

いのちの危機という不安の中に長期間を過ごし、活動の自由が制限される中で、殺伐とした雰囲気に包まれている世界は、いま、連帯とはほど遠い状況に立ち位置を定めようとしています。

ですから教会は、この世界に対して、ひるむことなく福音を告げしらせる義務があります。経済を優先して、あらためて以前のような世界に戻ろうとする流れに抗って、一人ひとりのいのちを大切にし、誰ひとりとして排除されない世界を、連帯のなかで実現しようと、明るみで、そして屋根の上で、ひるむことなく、大きな声で告げなくてはなりません。

教皇フランシスコの呼びかけを思い起こします。
「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(福音の喜び20)

あらためて教会に集うことを始めようとしているわたしたちは、快適な場所を見つけて留まることなく、常に勇気を持って出かけなくてはなりません。それは、流れに逆らうことでもあるので、容易な挑戦ではありません。

現代における宣教について教えるパウロ六世の使徒的勧告「福音宣教」には、次のような興味深い指摘があります。
「人間は、たとえ私たちが福音をのべなくとも、神の憐れみによって、何らかの方法で救われうるのでしょう。しかし、もし私たちが、怠りや恐れ、または恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、はたして私たちは救われうるのでしょうか。

なぜなら、もし宣教しないならば、福音の種が宣教者の声をとおして実を結ぶことを望まれる神の呼びかけに背くことになるからです。種が木となり実を付けるかどうかはわたしたち次第なのです』(使徒的勧告「福音宣教」80)

愛するすべてのいのちが救われるようにと、福音の種が、わたしたちの「声をとおして実を結ぶこと」を神は望まれる。常に困難に向かって立ち向かうようにと、わたしたちは呼ばれています。

世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主に力づけられ、あらためて勇気をいただきながら、福音の種を蒔き続ける宣教者として、神が愛されるいのちの尊厳を、言葉と行いで告げしらせてまいりましょう。

 

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2020年6月19日 (金)

今後の聖体礼拝@東京カテドラル

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東京カテドラル聖マリア大聖堂では、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴って公開ミサが中止となった直後から、連日、大聖堂の主祭壇に御聖体を顕示して、聖体礼拝を行ってきました。

カテドラル構内の師イエズス修道女会のシスター方の協力を得て、顕示する時間は様々な事情から変動しましたが、できる限り毎日継続してきました。感染症の拡大という困難な時期にあって、御聖体に現存される主とともに時間を過ごしながら困難を乗り越えるための祈りをささげ、また東京教区に主ご自身の祝福を願いながら、聖体礼拝を行っています。キリスト教国にあっては、御聖体への理解がある程度期待できるため、今回の事態にあっても、街中に聖体顕示台をもって繰り出すこともされたという話を聞いていますし、あるアジアの非キリスト教国では、信徒が集中して住んでいる地区でそのような聖体顕示が行われたと承知していますが、やはり日本ではそうはいきません。御聖体への理解が全くない中、信徒もいない街中で御聖体を顕示することはできません。そのため、カテドラルで、できる限り聖体を顕示して、聖体礼拝を続けてきました。

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6月21日以降は、公開ミサが再開されますので、毎日というわけには行きませんが、(日中もミサが行われたりするため)、しかしせっかく始めた聖体顕示と聖体礼拝ですから、続けたいと思います。幸い、関口教会主任の天本神父様が配慮してくださり、毎週木曜日の午後1時から4時まで、大聖堂の主祭壇で、聖体顕示と聖体礼拝を行うことになりました。

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本日はイエスのみこころの祭日です。6月はみこころの月と呼ばれます。あふれんばかりの神のいつくしみは、イエスのみこころからあふれ出てきています。そのいつくしみに信頼しながら、困難の暗闇の中にも光を求めて祈りをささげましょう。

もし日中お時間があれば、木曜日の午後1時から4時、聖体礼拝においでください。静かな大聖堂で、御聖体のうちに現存される主イエスを前に、イエスのみこころの思いに触れながら、そのいつくしみが、わたしたちすべてを包んでくださるように、祈りましょう。

当分の間、この形で継続します。

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久しぶりの現実の会議@聖書協会

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これまで多くの会議が中止になったり、ネットを利用した遠隔会議になったりしています。先日もカリタスジャパンの会議は、最初の日がZoomで、そして二日目はスカイプで行われたりしました。

それでもやはり実際に集まる会議は不可欠ということで、今週あたりから、現実の会議が再開し始めています。昨日は潮見で、常任司教委員会が、三ヶ月ぶりで、実際に集まって開催されましたが、互いの距離を十分にとるのが難しいことから、机にはアクリル板の仕切りが設置されていました。アクリル板の仕切りに囲まれて、その中でマスクを着けて話すので、なにかみな発言がもごもごして、聞き取りにくい会議ではありました。でも当分の間はしかたがありません。また教区などでも、当分の間は、遠隔の会議を取り入れるようにしたいと思います。

で、本日金曜日は、朝からずーっと、日本聖書協会の理事会と評議員会でした。日本聖書協会は、銀座のど真ん中、教文館の裏手の同じ建物の中にあります。

聖書協会自体は、もちろんプロテスタント諸派の方々が中心になって運営されている世界的な団体ですが、カトリックも様々一緒に活動をしており、特に日本では、新共同訳聖書や、新しく出た聖書協会共同訳などで一緒に取り組んできました。また実際に働いている方々の中にも、複数のカトリック信徒がおられますし、何を隠そう、私は副理事長であります。

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このところは、カトリック教会からは、一名が理事に、そしてもう一名が評議員に加わることになっており、理事に私が、評議員に中央協議会の大水事務局長が任命をいただいております。今年からマネージメントの態勢が変わっており、事務局の責任者である総主事も、これまで長く務められた渡部さん(現NCC議長)から具志堅さんに交代となって、フレッシュなスタートを切ったのですが、早々に今回の新型コロナ感染症ですべてがストップし、聖書の売り上げにも支障が出ているとうかがいました。

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新しい聖書協会共同訳は、様々な版が次々に出版されていますし、点字版も40巻すべてが完成したそうです。(上は創世記とトビト記。下の写真で、他の聖書との比較で、点字版聖書のそれぞれの大きさがわかるかと思います)

これまで青山に会ったバイブルハウスは、現在は実店舗を閉鎖し、オンライン販売になっています。是非ご利用ください。

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久しぶりに銀座まで行きましたが、確かに人通りが少なくなりました。それでも雨の中、距離をとって、たくさんの人が並んでいる店が。聖書協会のすぐ隣のアップルストアでありました。

なおカトリック教会の典礼では、現在も新共同訳聖書を主に使用しています。新しい訳に変更するためには、カトリックの典礼で使用するために言葉を調整しなければならないところなどもあり、簡単には進まないと、関係者から聞いています。

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