2026年8月 8日 (土)

2026年平和旬間@東京教区

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日本のカトリック教会は、広島に原爆が落とされた8月6日から終戦の15日までの10日間を、平和旬間と定め、毎年、平和について黙想し、祈り、また呼びかけ行動するための期間としています。もちろん平和について考え祈ることはキリスト者にとって常に必要なことですが、この10日間の特別な期間は、1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世が、広島の地から世界に平和を呼びかけたことに触発され、その呼びかけを受けて翌1982年から毎年集中して平和について考え祈るときとして行われている特別な時です。

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まさしく大量破壊兵器で、一瞬のうちに何万、何十万もの人命が奪われた体験を、その歴史において二度も刻まれた私たちの国は、人類社会全体に対してその悲劇から生み出された平和を希求する真摯な願いを、訴え続けていく責務があります。さらにはそもそも核兵器の使用を招いた戦争という手段を持って国家間の紛争を解決することに対しても、同じ家に生きる兄弟姉妹として解決するためには他の道があるのではないかと、世界の国々に呼びかけたいと思います。

この平和旬間にあたり、司教協議会会長としての談話を発表しています。カトリック中央協議会のサイトをご覧ください

また東京教区の平和旬間の取り組みは、教区ホームページのこちらをご覧ください。

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以下、本日午後3時半から東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた平和祈願ミサの、説教原稿です。なおこのあと平和巡礼ウォークが目白駅まで行われましたが、わたしは急用のためローマへ出かけなくてはならなくなり、平和巡礼ウォークには参加できませんでした。暑い中、参加くださった皆さま、ありがとうございます。

平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月8日

平和を求めて語り、また行動する人に対して、嘲笑の言葉が浴びせられるのは、決して目新しいことではありません。旧約聖書にも、例えばエレミヤ書には、王に対して戦いを控え、攻めてくる敵に刃向かわないことこそがいのちを守ることだと忠告する預言者エレミヤに対して、役人たちは王にこう言ったと記されています。

「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」(エレミヤ38章4節)

こうしてエレミヤはすさまじいまでの迫害を受けることになりますが、平和を語り続けたことでいのちを危機にさらした事例はわたしたちの身近にもあります。

太平洋戦争へと歩みを進めていた日本においても、政治家だけではなく、平和を語る学者や宗教者、そしてジャーナリストなどに対して、治安維持法に基づく嫌疑で弾圧があったり、社会全体の好戦的な雰囲気が醸成される中で、それに抗うものに対する社会的な圧力と具体的な攻撃は増していったことが記録されています。

そしていま、社会全体がどこに向かっているのかは、実際には予測することは難しく結果論でしかないのかもしれませんが、必ずしも平和の方向に向かっているとは言いがたく、人間の好戦的な指向性に資する方向に歩みを進めているようにしか感じられません。

1981年に広島を訪問された教皇聖ヨハネパウロ二世は、「戦争は人間の仕業です」とその平和アピールを始められました。続けて教皇は、広島と長崎について、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にすると、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめる」と述べています。

さらに教皇は、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と三回繰り返され、核兵器の使用による悲劇を忘れることなく、核兵器の使用の否定と核兵器の廃絶に触れた上で、こう述べておられます。

「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません。」

私たちは今どのような道を歩もうとしているのでしょうか。平和への呼びかけが嘲笑の的になる時代は、果たして平和へと向かっている時代なのでしょうか。

教皇レオ14世は、先般ご自身の著書を発表され、そのタイトルを、まだ仮訳ですが、「武器のない、武器を取り除く平和」とされています。

教皇は序文の中で、「平和を生み出すのは核兵器ではなく、軍縮です。この数十年間、核の緊張緩和が進む中で自明のものと思われていたこの真実は、今日、人々を恐怖と戦慄に陥れている軍拡競争によって影をひそめてしまいました。」と記しています。

その上で教皇レオ14世は、「平和は、つまるところ希望を必要としています。教会はこれからも、すべての人々への愛を説き続けるでしょう。もし世界が今日何かを求めているならば、それは未来への希望のメッセージであるとわたしは信じています」と記し、主イエスのメッセージにこそ希望の唯一の源泉があり、それを告げる使命があるのだと強調されています。

わたしたち日本の司教団は、昨年の戦後80年にあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもってわたしたちに突きつけられています。

人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、実はそれは間違いなどではなくて、それこそがわたしたちの本当の姿なのかもしれないと思ってしまいます。

いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。

東京教区の姉妹教区であるミャンマーでは、今でも軍事政権による混乱が続き、平和を求める教会の叫びには暴力が襲いかかり、絶望を生み出し続けています。先日バチカンで行われた枢機卿会議で、二日間、アフリカは南スーダンの首都ジュバ大司教のムラ枢機卿様と隣同士でしたが、南スーダンを始めアフリカ各地の非常に厳しい社会情勢と、いつ終わるともしれない内戦状態について実情を伺い、リーダーたちが平和に目覚めるように祈ってほしいと依頼されました。世界の各地で、平和は片隅に追いやられ、忘れ去られ、命が危機に直面し、暴力のもたらす絶望が支配しています。

私たちはこの現実の中で、愚直に平和を語り続けるものでありたいと思います。非戦による平和を説いて迫害されたエレミヤでありたいと思います。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられ、似姿としての人間の尊厳を与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。過去に謙遜に学ぶものでありましょう。

 

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2026年7月25日 (土)

週刊大司教第266回、年間第17主日A

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7月最後の主日は年間第17主日です。

今週はアジア司教協議会連盟(FABC)の総会のために、インドネシアのジャカルタに来ています。日本からは、司教協議会会長のわたしと、代表として成井司教様、ガクタン司教様が、また信徒家庭局の秘書として西村桃子さんが一緒に参加しておられます。

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今回の総会のテーマは「シノドス的な回心と宣教への招き。アジアにおける橋となり、また橋を架けるものとなるために」とされており、バチカンからもシノドス事務局のグレック枢機卿が参加するなど、シノドス的な教会共同体のあり方を実践する場となっています。

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また福音宣教省のタグレ枢機卿が、忙しい中ジャカルタまでおいでくださり、二日目に静修を指導してくださいました。総会は話し合いというよりも、祈りと分かち合いの場となっています。

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アジア全体から司教協議会の代表や各部局の担当者など150名ほどが参加していますが、詳細は他の報道に譲ります。またアジアの枢機卿は全員参加する権利がありますが、今のところ12名のアジアの枢機卿が参加しています。

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なお、総会に先立ち、四日間ほどフローレス島のエンデ大司教区を、成井司教様と一緒に訪問してきました。フローレス島は、インドネシアの中でもカトリック信徒の多い地域で、エンデ教区のクレドン大司教様は、少し前まで神言会の総会長でした。これについては後日また。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第266回、年間第17主日のメッセージです。

なお「週刊大司教」の配信は、8月中はお休みとさせていただきます。今の予定では再開を9月5日土曜日と考えております。また8月8日(土)午後の東京カテドラル聖マリア大聖堂における平和祈願ミサと、8月15日夕方の聖母被昇天ミサは、どちらもわたしの司式で、ネット配信を行う予定です。

年間第17主日A
週刊大司教第266回
2026年7月26日

「宝」という言葉には、経済的な価値を持っているという意味だけではなく、他では代えることのできない大切な存在という意味もあります。わたしたちが生きている世界は、どちらの価値を大切にしようとしているのでしょう。

マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を語ります。ここでイエスが語る「宝」は、もちろん数字で量ることのできる価値に富んでいる財産としての「宝」ではなく、自分の人生にとって決定的な意味を持つ「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、いのちを生かす価値のある「宝」であります。

わたしたちキリストに従う者にとっての宝は、福音そのものではないでしょうか。なんと言ってもわたしたちにいのちという賜物を与えてくださった神ご自身が、神のことばという宝物として、常にわたしたちと歩みをともにしてくださっているのです。わたしたちはこの宝を、人生のすべてを賭けてでも手に入れて従い、さらに多くの人にその宝を分け与える者でありたいと思います。

まもなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、日本のカトリック教会にとって大きな意味を持つ平和旬間がはじまります。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。わたしたちは将来の世代に対する責任を担うためにも、過去を忘れ去ることのないようにしたいと思います。

教皇レオ14世は、先般アフリカ司牧訪問へ向かう機内で、教会の平和への呼びかけが政治的発言として受け止められることについて問われ、「わたしたちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、わたしたちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と答えられ、平和構築は福音という宝物を大切にしている教会にとっての優先事項であることを明確にされています。

さらに教皇は、「戦争に強く反対し、平和を促進し、問題解決のために各国間の対話と多国間主義を推進し続けるつもりだ。今日、あまりにも多くの人たちが苦しみ、あまりにも多くの罪のない人々が殺されている。誰かが立ち上り、より良い方法があると言うべきだと思う」と述べておられます(『バチカン・ニュース』2026年4月13日)

平和旬間をまもなく迎えるにあたり、この教皇の言葉を思い出したいと思います。わたしたちが平和を求めて声を上げるのは、それこそが福音という宝物がわたしたちに求めていることだからに他なりません。

暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。「戦争は死です」。賜物であるいのちを生かす神の「宝」から目をそらすことなく、ともに歩まれる平和の主に従っていきたいと思います。

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2026年7月18日 (土)

週刊大司教第265回:年間第16主日

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年間第16主日です

今週は成井司教様と一緒に、インドネシアのフローレス島にあるエンデ大司教区を訪問しています。この教区の司教様は、神言会の前総会長であるブディ・クレドン大司教様です。またフローレス島のエンデ教区も、神言会の古くからの宣教地の一つです。

来週月曜から一週間は、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会がインドネシアのジャカルタで開催されます。こちらの模様はまた、お知らせします。

本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

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週刊大司教第265回
2026年7月19日

現代社会の現実は、まさしく福音が記しているように、神が望まれている良い麦と、人間の欲望に支配された悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。

神からの賜物であるいのちに対する暴力が横行する現実の中にあっても、同時にそのいのちを守るために、困窮する他者に手を差し伸べ、ともに歩もうとする人も多く存在します。神の愛をその言葉と行いであかしする人も多くおられます。

しかし暴力の支配と、賜物であるいのちが危機に直面する悲劇的現実があまりに目立っているがために、おもわず、神が悪の存在を容認しているのだろうかと考えてしまいます。全能の神がそのように容認するのであれば、社会の現実の中で悪と対峙することには、全く意味がないことになってしまいます。

福音は、神は良い麦と悪い麦の存在を知ってはいるが、それを刈り入れの時まであるがままにされているのだと記します。善と悪を明白に峻別できるそのときを待っておられるのだと記します。すなわちいのちの与え主である御父は、悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではありません。悪がその力を振るうことを容認しているわけではありません。

そのことを心に留め、毒麦を凌駕するほどに良い麦が世界を支配するように、わたし達は良い麦を一層力強く増やしていく努力をしなければなりません。わたしたちはただ荒れ狂う暴力の嵐の前に力なく傍観するのではなく、良い麦をさらに広く蒔き続ける努力をしなければなりません。わたしたちに与えられている使命は、畑に入って毒麦を抜きととることに専念することではありません。それよりも毒麦を凌駕するように、良い麦をさらに広く蒔き続けることに他なりません。そのためにも、どこに毒麦があるのかを知り、指摘することには大きな意味があります。毒麦がはびこっているところにこそ、わたし達は良い麦を蒔かなくてはならないからです。

現代世界憲章は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まっています。教会は、現代社会の現実の中で、いのちの危機に直面し、人間の尊厳を奪われ、生きるための困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたいと願っています。

現代世界憲章はさらに、「全ての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。従って全ての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない(29)」と記します。

私たちが生きている世界は、その「いのち」をないがしろにし、あまつさえ人間自身が「いのち」をコントロールする権利があるとでも言わんばかりの傲慢さに満ちあふれ、いのちを守るどころかいのちを奪う暴力が支配しています。こういった現実の中で、現代世界憲章は、全人類との対話のうちに神の福音をあかしするために、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務が」あると指摘しています。社会の現実の中で、神の望まれる世界の実現を妨げている出来事に目を向け、起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点からそこに示されるしるしを読み取り、共通善を念頭に置いて発言することはることは、教会の務めです。それこそが毒麦を凌駕するために必要なわたし達の務めです。

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2026年7月11日 (土)

週刊大司教第264回:年間第15主日A

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年間第15主日です。この主日、わたしは、生まれ故郷の岩手県宮古市の教会で、主日ミサを捧げることになっています。

わたしが生まれた70年近く前、両親は教会とその幼稚園で働いていたため、わたしは宮古教会で生まれ、そこに住み、人生の最初の数年を教会で過ごしていました。

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そのときの主任司祭は、ベトレヘム外国宣教会のスイス人の宣教師です。その宣教師と毎日の生活を共にし、毎日のように朝のミサに与ったことが、その後のわたしの人生に大きな影響を与えたと思います。司祭になることだけにとどまらず、文化や言葉の壁を越えて福音を宣教する宣教師としての人生です。

その意味もあって、毎年一度は、感謝を持って生まれ故郷の宮古教会で、感謝のミサを捧げさせていただいています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

年間第15主日A
週刊大司教第264回
2026年7月12日

今の時代、言葉はどれほどの重さを持っていると考えられているのでしょうか。インターネットが発達し、人工知能による情報提供も普通のことになった今、音としてこの世界に生み出される言葉の何パーセントが、心に裏打ちされた重みを持った言葉なのでしょうか。バーチャルな世界で言葉がもてあそばれ、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、重みを失って漂っているとき、わたし達は、キリスト者の信仰にとって、言葉が重要であることを思い起こしたいと思います。

神のことばは、常にわたしたちとともにいてくださる神の現存です。なぜならば、世の終わりまでわたしたちとともにいてくださると約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。ヨハネ福音の冒頭は、「初めに言があった。言は神であった」と始まります。わたし達の信仰は、言葉による信仰です。

ヨハネ福音に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおり、神はご自分のことばを種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

わたしたちは、神が蒔き続けておられる言葉の種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

今必要な準備は、軽く漂う言葉に席巻されている世界に対して、言葉には顔があり心の重みを担っているのだということを証しのうちに伝えていくことであろうと思います。現実の世界の中での具体的な人とのかかわりにおいて、わたしたち自身の言葉と行いこそは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

神の言葉が受け入れられた世界こそは、神が望まれた世界の実現です。神の言葉が豊かに実るとき、そこには神御自身からの賜物であるいのちを徹底的に守り抜く世界が実現し、神の似姿としての人間の尊厳が尊重されているはずです。いのちに対して暴力を振るう世界が、神のことばの種が豊かな実りを生み出す土壌となることはあり得ません。

インターネットが普及している現代社会にあってわたし達は、ネット上に発信されていく様々な言葉でさえも、顔と心に裏打ちされた重さを持った言葉としていく努力が必要です。心配りも何もなく発信されていく攻撃的な言葉が、神の言葉が芽吹く土壌を生み出すことはありません。

時にキリスト者と言いながら、他者のいのちや尊厳に対して暴力的で攻撃的になる、きわめて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、そのキリスト者は一体どんな土壌を神のことばの種のために備えようとされているのかと悲しく思います。

わたしたちの語る言葉こそが、神のことばの種を蒔く土壌を準備するためにあるのだと心に留め、神の言葉の種が豊に実を結ぶように、務めていきたいと思います。

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2026年7月 4日 (土)

週刊大司教第263回:年間第14主日A

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7月になりました。年間第14主日です。

前回もお知らせしましたが、6月26日(金)と27日(土)に臨時の枢機卿会があったため、ローマに出かけていました。毎日40度近い熱波に襲われていたヨーロッパですが、ローマも異常に暑い毎日でした。

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28日(日)にはブラジル司教団が設置するコレジオ(宿舎)を会場に、朝のミサに始まり夕方6時近くまで、各大陸別司教協議会連盟の集まりがあり、わたしもアジア司教協議会連盟の事務局長ですので、他の司教様方と一緒に参加して参りました。今後、大陸別司教協議会連盟の連携をどのように強めていくのかなどについて意見交換でした。

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その後、29日(月)は聖ペトロと聖パウロの祝日で、これはローマのお祝いでもあるので、ローマは休日でした。午前中は、教皇様が司式するミサに共同司式。このミサの中で、この一年間に管区大司教(メトロポリタン)に任命された大司教様方が、教皇様との一致の印であるパリウムを頂きました。私自身のパリウムを頂くミサは2018年6月29日でしたが、この時のミサはサンピエトロ広場、つまり外のでミサでした。しかし今年は異常な暑さということもあり、ミサはサンピエトロ大聖堂内で行われました。天上が遙かに高いので、エアコンがないものの、暑さは少し和らいでいました。

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サンピエトロ広場に通じる道には、前夜から準備された花絵がいくつも並び、その多くのが平和訴える内容でした。そしてその晩には、バチカンの前のサンタンジェロ城で花火大会。あまりの人混みに近づけず、サンピエトロ広場から眺めました。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第263回、年間第14主日のメッセージです。

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週刊大司教第263回
2026年7月5日

心の安らぎは、絶望の中にではなく、希望のうちに見いだされます。わたしたちの人生の歩みにおける希望は、一体どこに見いだすことができるのでしょうか。

現代社会にあって、希望を見いだし、心の安らぎを得ることは容易ではありません。自分の周囲だけでなく、世界全体の現実を見るならば、今この瞬間も暴力にさらされていのちの危機に直面したり、貧困や圧政の中でもがき苦しんでいる人たちの現実が容易に見いだされます。社会が発展し、技術が進歩する中で、人々の暮らしは改善され、希望が生み出されると考えられてきましたが、現実は残念ながらそうではありません。

この現実の中にあって、人と人との出会いのなかにあって希望を見いだし、安らぎを生み出すことは、教会の使命の一つではないでしょうか。

教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」で、理性と自由意志を与えられた人間は、社会の発展の中で様々な種類の希望が生まれ、そしてそれが奪われ、また発展が必ずしもいのちを生かす希望には繋がらないことを体験してきたと指摘します。

その上で教皇は、「わたしたちは日々を歩んでいくために、小さな希望から大きな希望まで、なにがしかの希望を必要としています。しかし、わたしたちは偉大な希望がなければ満足できません。この偉大な希望は、他のあらゆる希望を超えたものでなければなりません。この偉大な希望は、神以外にはあり得ません」(31)と記し、真の希望は神の懐に抱かれることによってのみ達成されることを明示されています。

マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、すべての人が同じように考え、仲良く過ごしているというのは、現実的ではありません。異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、しかしそれでも教会が希望と安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょうか。それは教会共同体がシノドス的な共同体として、互いに支え合い、耳を傾け合い、ともに祈り、聖霊の導きを識別しようとしてともに歩んでいるからであり、その教会共同体の真ん中には、主イエスご自身が現存され、その主の存在こそが、希望の源となっているからに他なりません。ひとり一人の優しい性格に頼った仲良し共同体を目指しているのではなく、互いに異なる存在を尊重し耳を傾け、支え合い、祈り合う中で、ともにイエスに身を寄せ合うからこそ、安らぎが生まれ、希望が生み出されます。

残念ながら、教会共同体の中で、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え、欠点を抱えた不十分な人間です。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心に主ご自身が来てくださいます。主とともにあるわたしたちは、主が与えてくださる安らぎを、自らもあかしし、行動する道を見いだしていきましょう。

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2026年6月27日 (土)

週刊大司教第262回:年間第13主日A

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年間第13主日となりました。まもなく6月も終わりです。

教皇様は臨時の枢機卿会を招集されましたので、わたしは昨日の金曜日と本日の土曜日、その枢機卿会に出席のため、ローマにおります。また明日の日曜日には、アフリカ、南米、アジアの司教協議会連盟の会議が一日中予定されており、さらに月曜日には、教皇様が司式される聖ペトロ・パウロのミサに枢機卿団は参加することになっています。そのためまだ数日ローマに滞在しております。

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ローマは熱波に襲われており、日中の気温は40度近くまで上がる日が続いています。枢機卿会はグループセッション(霊における会話)のため、参加している180名ほどの枢機卿は11人くらいずつで丸テーブルに分かれていますが、その場所を確保するために、あの広いパウロ六世謁見ホールの前四分の一位を使っています。一応冷房はあるものの、非常にマイルドの冷房で(確かソーラーエナジーを使っているはず)、さすがにこれはということで、最初のセッション以外は、黒スータンに赤い帯ではなくて、普通の半袖ローマンカラーシャツでも良いことになりました。高齢の枢機卿も多いので(枢機卿会には80歳以上もすべて参加する権利があるので)、熱中症で倒れる枢機卿が出ないように祈るばかりです。

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枢機卿会の詳細は後日に。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第262回、年間第13主日のメッセージです。

年間第13主日A
週刊大司教第262回
2026年6月28日

マタイ福音は、イエスに従うと宣言するわたしたちが、人生の歩みにおいて何を大切にしているのかを問いかけます。

もちろんわたしたちは、目の前に苦しみと安楽が選択肢としてあるのであれば、安楽な道を選択してしまう誘惑の中で生きています。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」と記し、人生の歩みにおける苦しみの意味を記しています。

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神ご自身が十字架の上で、わたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。すなわち安楽な道ではなく、苦しみの道を歩み続ける責務があります。

同時に、福音に記された、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という主イエスの言葉の意味は、単に苦しみを求めているというよりも、さらに深いところへとわたしたちを導きます。そもそも「自分の十字架」とは一体なんでしょうか。あえて苦行を耐え忍ぶことでしょうか。

マタイ福音に記されたこの言葉は、わたしたちが主にふさわしいものとなるための条件としての十字架です。それは受け身的に苦しみを耐え忍ぶことにとどまらず、積極的に前向きな行動を促す言葉でもあります。

パウロはローマの教会への手紙に、「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」と記しています。主御自身の死と復活をもたらしたその中心には、十字架が存在します。すなわち、わたしたちは、十字架を通じて主の死にあずかり、主とともに新しいいのちに生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛といつくしみを具体的にあかしする、栄光と希望を指し示す存在です。

その栄光と希望は、神がご自分が創造された人間の命を愛するがあまり、自ら十字架の苦しみに歩みを進め、その苦しみを通じてわたしたちすべてに救い野道を開かれた、目に見える具体的な愛のあかしであります。つまり、十字架は、自分のために苦しみことではなく、愛のあかしを具体的な行動を持って行うための苦しみであります。

わたしたちが神からよしとされるのは、神の愛といつくしみをいただいて、自らそれを積極的にあかしする行動を選択したときです。十字架をあかしするものとなりましょう

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2026年6月20日 (土)

週刊大司教第261回:年間第12主日A

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年間第12主日です。

この一週間、6月15日から19日まで、定例の司教総会が、潮見のカトリック会館で開催されました。カトリック司教協議会の所在地であり、その事務局であるカトリック中央協議会の置かれている日本カトリック会館は、竣工から30年以上が経過し、全面的なリニューアル工事を一年かけて行っています。全体を半分ずつに分け、現在は上半分の工事中ですので、上半分にある事務担当がすべて下半分に移動しています。そのためいつもの総会会場であるマレラホールも仮設の事務所になっているため、今回の司教総会は、一回にある職員の方々の食堂を利用して会議テーブルを配置し、行いました。

一日目はフランシスコ会の小高神父様による霊的講話を頂き、その後にグループに分かれて分かち合い、そしてミサを捧げ、さらに夕方には、東京教区で働く宣教師のグループが、潮見教会でバーベキューに招待してくださったので、そこで司教たちと宣教師たちの出会いの場となりました。

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また二日目の夕方には司教団と男女の修道会の代表とで、教皇庁大使館を訪れ、司教叙階10周年を迎えたモリナ教皇大使と、誕生日であったジョゼッペ参事官のお二人にお祝いを申し上げる機会がありました。

さらに三日目には、成井司教様を講師に、インターカルチュラリティについての勉強会も行いました。

司教総会で決定したことは、この後、カトリック中央協議会の広報や、カトリックジャパンニュースで公開されると思いますので、そちらに譲ります。司教たちのためにいつもお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。お祈りの支えがなければ、聖霊の導きに与ってふさわしい判断をすることも難しくなります。皆さまのお祈りをお願い申し上げます。

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6月23日は沖縄の慰霊の日です。昨年は80周年ということもあり司教団全員で参加しました(写真は昨年の魂魄の塔)。81周年の今年も、朝6時から小禄教会でミサがあり、魂魄の塔までの平和行進が行われます。ローマにいるため参加できませんが、当日は沖縄の皆さんに思いを馳せ、心を合わせて平和のために祈りたいと思います。皆さまにあっても、この日に沖縄の歴史と現実に思いを馳せ、神の平和の確立のために、祈りを捧げられますようにお願い致します。

以下本日午後6時配信、週刊大司教第261回、年間第12主日のメッセージです。

年間第12主日A
週刊大司教第261回
2026年6月21日

先日、6月12日はイエスのみこころ(聖心)の祭日でした。それにちなんで、6月は聖心の月とされています。

イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水はいのちの泉であり、新しいいのちを与える生かす聖霊でもあります。

イエスのみこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、そこから満ちあふれるご自分の愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、回心を呼びかけたという出来事があったと伝えられています。そして主イエスはみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、そのため、9ヶ月の間、初金曜日のミサにあずかり聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあると教会の伝統は教えています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと伝えられています。

今日の福音には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉があります。どのような形され力を持って信仰に介入しようとする迫害に立ち向かい、福音に基づく真理を語り続けるようにとの励ましです。

教皇レオ14世御自身が、その模範を示しています。信仰に基づいて発言された神の平和への望みに対して、大国の政治家が現実離れしていると批判され、一般社会でも論争を呼んでいます。しかしながら教皇レオ14世は、平和への思いを語ることを止めようとはしませんでした。

教皇様は先般アフリカを訪問された際、「宗教と神の名を、自分の軍事的、経済的、あるいは政治的な利益のために濫用し、聖なるものを闇と汚れに引きずり込む人々は、不幸である」と断言されました。その上で、「平和は、隣人を自分の兄弟姉妹として受け入れることによって抱きしめなければならないものです。わたしたちは自分の兄弟姉妹を選びません。ただ、互いに受け入れ合わなければならないのです。わたしたちは同じ家に住む、一つの家族です」と呼びかけられました。

わたし達は同じように、この世の力の前で恐れることなく、信仰を表明できているでしょうか。それは単に、神を信じているのですと表明することにとどまるのではなく、信じていることに基づいてどう生きようとしているのかを具体的に表明することです。

イエスのみこころが、いまこの現代社会の現実の中で、わたし達にどのように生き、どのように行動師、どのように語ることを求めているのか、見つめ直しましょう。信仰を勇気を持って表明する者でありたいと思います。
 

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2026年6月14日 (日)

年間第11主日ミサ説教@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第11主日のミサを、関口教会の主日10時に捧げました。海外からの旅行者の方も含め、聖堂に一杯の方がミサに与り、祈りの時を共にしてくださいました。

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明日6月15日月曜日から金曜日まで、日本の司教団は東京で一緒に集まり、司教総会を開催します。どうか集まる司教たちの上に聖霊の豊かな導きがあるように、みなさまのお祈りをお願い申し上げます。

以下、ミサの説教での原稿です。

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週刊大司教第260回
2026年6月14日

先ほど朗読された第一朗読の出エジプト記には、モーセに対する主の言葉のうちに、「世界はすべてわたしのものである」と記されていました。世界はそれを創造された神のものであるにもかかわらず、その管理を任されたわたしたち人類は、まずもっていのちを賜物として神から無償で与えられている存在であるにもかかわらずおごり高ぶり、神の者であるこの世界を破壊し続け、賜物であるいのちに暴力で襲いかかっています。

神のものを神が望まれる姿にするのは、神から生かされているわたしたちの務めであります。その務めをないがしろにして、欲望に促されて勝手なことばかりをしている世界の現実に対して、神に立ち返るよう呼びかけるのは、わたしたちの責務であります。

その意味で、今週、6月15日から17日まで、フランスのエビアンでG7サミット(主要国首脳会議)が開催されますが、そこに集まる政治のリーダーたちに呼びかけることも、教会の務めの一つであります。

この会議に合わせてG7各国、すなわちカナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、英国、米国の各カトリック司教協議会会長と、欧州連合(EU)司教協議会連盟会長は連名で共同声明を、この金曜日に発表しました。わたしも現在、日本の司教協議会会長を務めていますので、その声明の作成に加わり、名前を連ねております。

この声明は、それぞれの司教協議会に属しているすべての司教の総意というわけではなく、あくまでも会長たちの話し合いの中で生まれてきた内容ですが、劇的に変動している世界情勢を目の当たりにして、牧者として発言される教皇様のご意向や、特にこの数日のスペインでの司牧訪問と、特にその中での難民や移住者との出会い、そしてそこにおける発言を踏まえて、それぞれの司教協議会会長が持ち寄った意見をまとめ上げたものです。声明全体はかなり細かく四ページに及んでいますが、今の時点で日本語に翻訳され公開ているのはそのサマリーとも言うべき二ページとなっています。

タイトルを「「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」といたしました。その中でわたしたちは、「武力紛争、地政学的な分断、拡大する不平等、気候変動の課題、技術革新といった課題に直面する中で、わたしたちは、すべての人間の尊厳が、政治・経済活動の基礎であり続けなければならないと断言」しています。

その上で主要国の首脳たちに対して、開発や国際連帯、AI人工知能の倫理的課題、気候変動等への取り組みを促しながら、人間の尊厳を守り抜くことを求めながら、わたしたち司教は「教会の司牧者として、またイエス・キリストの弟子として、わたしたちはこの声明を通して、カトリック教会が諸民族のただ中に身を置き、もっとも弱い立場にある人々のために身をささげ、平和、正義、地球規模の共通善のために対話できるよう尽力する」と宣言しています。

教皇様は訪問中のスペインで、難民の方々やそのために働くカリタスのボランティアとお会いになり、そこでボランティアの分かち合いに対して、「わたしたちのまなざしの回心は、移民のケースが「またもう一件」という単なるカテゴリーや統計上の数字でなくなるときに始まることを、あなたの話が教えてくれた」と述べています。

三十年近く前に、まだわたしが神父としてカリタスジャパンの難民支援活動に関わっていた頃、素晴らしいインタビューを見たことがあります。「あなたはいま、一体何件の難民のケースを抱えていますか」とリポーターに問われた現場で働く国連職員が、そのとき何千件も扱っていたにもかかわらず、「何を言っているんだ。わたしが抱えているのは難民のケースではなくて、ひとり一人の人間だ」と答えたのです。衝撃的でした。

人は生きています。ひとり一人は神から愛され、いのちと尊厳を与えられて生きています。教皇様は同じスペインへの司牧訪問中に、「ある意味で私たちは皆、旅人・移住者です。なぜなら、私たちは皆、天の故郷へ向かう旅を続ける巡礼者だからです」と述べられました。この旅路の中で、一人たりとも脱落する者がないように、神から愛されているいのちが一つたりとも失われることのないように努力を続けることは、あわれみの活動ではなくて、神を信じるわたしたちの当然の責務であろうと思います。するべきことは山積みです。

今日の福音は、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言う主の言葉とともに、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という言葉が記されています。

その直後に12人の弟子の選びが記されているので、どうしても、「働き手」は特別に選ばれた人のことであると思ってしましまいます。果たしてそうでしょうか。

そもそもこの言葉は、神の国の完成のために、わたしたちが地上でするべきこと、しなければならないことは、実は神の目において山積しているにもかかわらず、それをないがしろにしているわたしたちへの警告の言葉であります。

「収穫は多い」、つまりわたしたちが福音を実現するためにしなければならない務めはあまりにも多いということです。それに取り組むための働き手がもっと必要なのですけれど、するべき仕事は皆が同じではありません。そこには様々な異なる方法での取り組みが必要です。

だからこそ、12人の弟子たちには様々な人物が選ばれています。皆が同じ才能を持ち同じことをするために選ばれたのではなく、それぞれに与えられた賜物にしたがって働く者が選ばれました。しかも、神の計画を実現するために忠実である者が選ばれました。つまりそれは司祭や修道者という専門職だけが必要なのではなくて、キリストに従うという意思を表明しているわたしたちキリスト者すべての務めが必要なことを示しています。わたしたちひとり一人がどうこの言葉に応えるかが問われています。

もちろん司祭は必要です。修道者も必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、わたしたちすべての責務です。やるべきことは山積しています。自らのできることに忠実に働く弟子が、今求められています。その弟子は、わたしたちキリスト者すべての役割です。

ともに助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の現実の中に山積している数多くの収穫に心を向け、「働き手」としての役割を忠実に果たしていきましょう。

 

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2026年6月13日 (土)

週刊大司教第260回:年間第11主日A

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年間第11主日です。

6月15日から17日までフランスのエビアンで開催されるG7サミットに先立ち、以下に記したG7各国のカトリック司教協議会会長は連名で、「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」と題した声明を発表しました。声明の邦訳(サマリー)はすでに中央協議会のホームページに掲載され、詳細な声明全体邦訳中です。

声明はフランス司教協議会会長であるアブリーヌ枢機卿の呼びかけで始まり、一ヶ月以上前からオンラインで何度か会議を重ね、文案が作成されました。会議は英語とフランス語で行われ、最終文書はフランス語で書かれ、フランス語と英語が正本です。

なおこの声明はそれぞれ署名している司教協議会会長の声明であって、各司教協議会の総意ではありません。

この声明に署名しているのは、ジャン=マルク・アブリーヌ枢機卿(フランスカトリック司教協議会会長)、わたし(日本カトリック司教協議会会長)、マッテオ・マリア・ズッピ枢機卿(イタリアカトリック司教協議会会長)、ポール・コークリー大司教(米国カトリック司教協議会会長)、リチャード・モス大司教(イングランド・ウェールズカトリック司教協議会会長)、ピエール・グードロー司教(カナダカトリック司教協議会会長)、ジョン・キーナン司教(スコットランドカトリック司教協議会会長)、ハイナー・ウィルマー司教(ドイツカトリック司教協議会会長)、賛同者:マリアーノ・クロチアータ司教(欧州連合(EU)司教協議会連盟会長)です。こちらのリンクからご一読頂ければ幸いです

以下本日午後6時配信、週刊大司教第260回、年間第11主日のメッセージです。

年間第11主日A
週刊大司教第260回
2026年6月14日

「収穫は多いが、働き手が少ない」

神の国の完成のために、わたしたちが地上でするべきこと、しなければならないことは、実は神の目において山積しているにもかかわらず、それをないがしろにしているわたしたちへの警告の言葉であります。

このイエスの言葉について、特に「働き手が少ない」という部分に注目して、司祭や修道者という、いわば専門職にある存在への召命が増大するようにと祈ることが求められている解釈することもできますが、わたしはそれよりも「収穫は多い」という言葉に注目しています。わたしたちが福音の実現のためにしなければならないことは多いのです。それに取り組むための働き手がもっと必要なのです。そしてそれは司祭や修道者という専門職だけではなくて、キリストに従うという意思を表明しているわたしたちキリスト者すべての務めであります。わたしたちひとり一人がどうこの言葉に応えるかが問われています。

もちろん司祭は必要です。修道者も必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、一人司祭だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの場で、それぞれに与えられた才能に従って、「働き手」となることが求められています。

教皇レオ14世は先日新しい回勅「マニフィカ・フマニタス」を公布され、人工知能(AI)の倫理性について信仰の立場から踏み込まれました。

それに先立って発表された今年の世界広報の日のメッセージに、次のような一節があります。

「新たなAIシステムがもたらすもう一つの大きな問題は、バイアスです。バイアスは、現実に関するゆがんだ認識の獲得と伝達をもたらします。AIモデルは、それを構築する人々の世界観によって形成されます。そして、それが用いるデータにおける固定観念や偏見を複製することによって、思考様式を押しつける可能性があります。・・・AIは、わたしたちの顔と声を自分のものとすることにより、並行的な「現実」を作り出すことでわたしたちを欺くことさえありえます。わたしたちは多次元世界の中に沈められ、現実と虚構を区別することがますます難しくなっています。」

わたしたちは人工的に生み出された虚構の中に生きる危険性に直面しています。その中で、人間の存在は具体的な声と顔を失い、痛みや悲しみを訴える心は失われ、本当の希望や喜びに到達することができなくなる可能性があります。わたしたちは、現実の中にある、人々の心の叫びに耳を傾け、それを心に刻む者でありたいと思います。神が働き手を求めている収穫は、虚構の世界ではなく、現実世界の中に存在しています。

わたしたちの目の前には、神の国の完成のためにしなければならないことが広がっています。働き手はわたしたちです。わたしたちは共同体の一致の絆のうちに、その務めを果たしていきます。なぜならばキリストの体である共同体にこそ、いのちがあるからです。共同体の絆、交わり、兄弟愛に、わたしたちを生かす源であるいのちがあります。一人では「働き手」の務めを果たすことはできません。ともに助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の現実の中に山積している数多くの収穫に心を向け、「働き手」としての役割を忠実に果たしていきましょう。

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2026年6月 6日 (土)

週刊大司教第259回:キリストの聖体の主日A

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キリストの聖体の主日です。三位一体の主日の週の木曜日がキリストの聖体の祝日とされ、ラテン語の呼び名で、「コルプス・クリスティ」と言われます。もっとも、キリスト教国を含め現代の多くの国では週日に集まることが難しいので(国家の休日であれば別ですが)、その次の日曜日にこの祝日を移動させることになっており、日本でもキリストの聖体の「主日」となります。

キリストの聖体の主日と言えば、多くの国、特に伝統的キリスト教国においては、神の民の一致を目に見える形で現し、主の現存にともに感謝をささげ、主イエスとの一致の誓いを新たにするために、大規模な聖体行列が行われます。主御自身の現存であるご聖体が町の中を顕示され運ばれていく中で、その町に住む多くのキリスト者が、目に見える形で主を礼拝する姿は、信仰の力強い証しとなります。キリスト者が少数派の日本で、同じような意味での聖体行列が町中を練り歩くのは難しいのですが、機会が整い、ご聖体への冒涜の恐れを避けることができるのであれば、東京でも聖体行列をすることができれば良いと思っています。また日本ではちょうど梅雨の始まりの時期でもあり、天候という別なチャレンジもありますが、機会をみて実現できればと思います。皆が主イエスの現存に敬意を表し、礼拝することが重要な目的であることを忘れてはなりません。

またキリストの聖体の主日にあたり、信仰を守ることやそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が尊重されていない国で、また神からの賜物であるいのちに対する暴力が横行し、人間の尊厳がないがしろにされている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に信じる者と共にいてくださり、わたしたちの信仰における兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、祈りたいと思います。

教皇レオ14世の新しい回勅「マニフィカ・ウマニタス」発表の記者発表(2026年5月25日)における、教皇様のメッセージが邦訳されています。またカトリックジャパンニュースにも詳報されています。回勅本体の邦訳は、夏前にはできあがるものと思いますが、ひとまずこれらをご一読ください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第259回、キリストの聖体の主日のメッセージです。

キリストの聖体の主日A
週刊大司教第259回
2026年6月07日

レオ13世の回勅「レールム・ノヴァールム」公布から135年目となる5月15日、教皇レオ14世はご自分の回勅「Magnifica humanitas」を発表されました。教皇は回勅の冒頭で、「神が創造された素晴らしき人類は、今日、決定的な岐路に立たされている。それは新たなバベルの塔を積み上げるか、あるいは、神と人類が共に暮らす国を築くかという選択である」と記し、人工知能(AI)の課題に教会が取り組む必要性を強調されています。

レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を、「教皇レオ十三世が、・・・歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです」と述べていました。

レオ14世は、教皇に選出された当初から「平和」の構築とともに、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。

今年の世界広報の日のメッセージにおいても、教皇は神ご自身がわたしたちに語りかけられるそのことばは、「神の子イエスの声とみ顔のうちにわたしたちに知らされた」と述べています。

わたしたちの信仰は、デジタルの世界によって生み出される仮想現実の中にあるのではなく、生きている人間の具体的な交わりの中に存在しています。

その意味で、ご聖体の秘跡は、何か想像の産物ではなく、まさしくそこに、主イエスが具体的な「声とみ顔」を持って実際に存在し、わたしたちを主との交わりに日々招いてくださる、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であります。(教会憲章11)

キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに主御自身が現存され、わたしたちとともに常におられます。それは想像の産物ではなく、具体的な声と顔を持つ具体的な存在です。

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

わたしたちの信仰と共同体は切り離すことができません。パウロはコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。わたしたちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有するという「交わり」のなかで、生きている信仰です。

ご聖体をいただくわたしたちは、そこに実際に存在しておられるイエスと出会い、ともにその秘跡に与った兄弟姉妹として、キリストにおける一致をあかしするものでなくてはなりません。キリストの聖体のお祝いは、わたしたちの信仰が具体的に生きている主との交わりのうちにある生きた信仰であることを再確認するように、わたしたちに求めています。

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