2026年10月 3日 (土)

週刊大司教第271回:年間第27主日A

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10月4日はアシジの聖フランシスコの祝日ですが、今年は日曜日と重なりました。今年の10月4日は年間第27主日です。

メッセージでも触れていますが、10月4日をもって、9月1日から始まった「すべてのいのちを守る月間」が終わりとなります。とはいえ、ともに暮らす家を護り豊かにする勤めは終わりませんから、今後も、「ラウダート・シ」の精神を具体化する取り組みを続けていきましょう。

9月30日と10月1日、日本の司教団は潮見のカトリック会館に集まり、特別臨時司教総会を行いました。潮見の日本カトリック会館の建物は、現在リニューアル工事中で、1階から3階までが使えませんので、会議はお隣りの潮見教会の信徒会館を拝借して行われました。

現在日本には、教区司教などの役職を退いた司教を除いて、15教区に17名の司教がおります。司教は司祭と同じく叙階ですから、役職を降りても終身で司教です。叙階されて司教であることと、どこかの教区の教区司教(または教区長とも呼んでいます)であることはイコールではありません。教会の中には、引退されている司教様を含め、教皇大使やバチカンの役所などで働く司教もおられます。現在日本の司教協議会を構成しているのは、現役の教区司教と補佐司教であり、その17名が潮見に集まりました。

今回は議決する事項が一つしかなかったので(詳細は中央協議会からの発表をご覧ください)、それ以外の時間を十分に使い、日本の教会における福音宣教と司牧の様々な課題について、意見交換を致しました。また数年前から関係者と話し合いながら計画を練り上げ、今年の2月の司教総会で決定した、新しい委員会体制が、秘書や委員の任命によって、9月から正式に始まりました。司教だけによって構成される、社会司教委員会、福音宣教司教委員会、広報司教委員会のもとに、秘書や委員を広くお願いする様々な委員会が置かれています。どんな委員会が、それぞれ三つの司教委員会の元にあるかは、こちらをご覧ください。これ以外にも、常任司教委員会の元に置かれた委員会や、事業体としてのカリタスジャパンもあります。

この諸委員会の司教と秘書の合同会議も、一日目の午後に行われました。中央で企画し実施する諸委員会の事業に、全国から協力者に集まって実行していただくという上から下への体制から、各教区や小教区が中心になって行う取り組みを、中央から支援し支える形の委員会制度に変えていこうとしています。シノドスの歩みの成果の一つとしての考え方の転換です。主役は教区であり小教区であり、それに仕える司教協議会の諸委員会と口で言うのは簡単ですが、実現するには様々な工夫と知恵と、特に時間が必要です。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第271回、年間第27主日のメッセージです。

年間第27主日A
週刊大司教第271回
2026年10月04日

マタイ福音は、ぶどう園を農夫たちに任せる家の主人のたとえ話が記されています。あたかもぶどう園が既得権益であるかのようにあぐらをかき、忠実に務めを果たすことのない農夫たちから、「季節ごとに収穫を納める他の農夫」に任せるだろうと記されています。

もちろんこのたとえ話が語られた背景には、神から選ばれた民という立場にあぐらをかき、救いはすでに約束されているとして、実際には神の思いに従うことのない民の存在があります。それに対してイエスは、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と述べることで、神の救いの福音は一部の選ばれた人だけのものではなく、全世界のすべての民に宣べ伝えられなくてはならないという、神の救いの計画を明示します。

教会は本日10月4日をもって、9月初めから続いた「すべてのいのちを守る月間」を終わります。もちろんこの月間が終わったからと言って、教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で呼びかけたことが終わるわけではありません。

教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」に、いのちに関わる三つのかかわりとして、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」をあげた上で、こう記しています。「聖書によれば、いのちに関わるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です(66)」

その上で教皇は、「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました。このことによって、わたしたちに賦与された、地を従わせ、そこを耕し、守るという統治の任にゆがみが生じたのです」と記します。

まさしくあの農夫たちと同じように、わたしたちは任せられた務め、すなわち、神が創造されてわたしたちに「地を従わせ、そこを耕し、守る」という任務を与えられたにもかかわらず、わたしたち人類は、それを、あたかも既得権益のように浪費し搾取し、神から与えられた務めを忠実には果たしてこなかったのだと、教皇フランシスコは指摘されました。

そのことを教皇は、はっきりとこう記します。「今日では、わたしたちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けなければなりません(67)。」

第一の朗読でイザヤは、ぶどうを植えたものの、よい実を得ることが出来なかったことへの、神の憤りを記しています。

「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか。わたしはよいぶどうがなるのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」

さまざまな紆余曲折を経てわたしたちの人生の歩みを導かれる神は、まさしくぶどうを植え、その管理を任せられた神です。よい実がなることを待っておられる神です。神はなすべきことでしなかったことは、何一つありません。残されているのは、植えられたものが、これからどのような実りを生み出すかであります。わたしたちは、神からの問いかけに、どのように答えているのでしょうか。

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2026年9月28日 (月)

二つの10周年

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9月26日の土曜日と27日の日曜日、東京教区での活動に関して、二つの10周年の感謝ミサが捧げられました。

一つ目は26日の土曜日に行われた真生会館の新館リニューアル10周年感謝ミサ。

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1934年に岩下壮一神父様が立ち上げた「聖フィリッポ寮」という学生寮がその原点です。真生会館のホームページには、「真生会館設立目的としては、定款に「学生及び社会人を対象とし、カトリックの精神に則り、その智徳を深め、また、豊かな知性と教養を高め、混迷する社会に貢献する人を育成することを目的とする」と定められて」いると記されています。

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10年前に、敷地の半分を上智大学の国際学生寮のために貸し出し、その残りの場所に、新しい真生会館が誕生しました。現在でも様々な講座が行われ、若者達の集まりも定期的に行われています。活動の詳細については、真生会館のホームページをご覧ください。是非、多くの方に、真生会館を訪れ、その活動に参加し、学びといのちを深めて頂ければと思います。

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私が東京に任命された当時は、森司教様が理事長を務めておられました。現在の理事長は、東京教区補佐司教のアンドレア司教様が務めておられます。

感謝ミサは、麹町聖イグナチオ教会のマリア聖堂で行われ、この小聖堂に一杯の100名以上の方々と、普段から真生会館の活動に関わる司祭団と共に捧げられました。これからの真生会館の活動の上に、聖霊の導きを心から祈ります。

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さて二つ目は、ドイツ語共同体聖ミカエル小教区の、小教区認可10周年感謝ミサです。中目黒にある神の御摂理修道女会(ポーランドで誕生した修道会)の修道院聖堂に集まるドイツ語共同体は、1962年11月に始まったと聞いています。10年前、岡田大司教様はこの共同体を「属人小教区」として認可されました。設立から10年となることから、東京だけでなく近隣の横浜などからもドイツ出身者やドイツ語話者が集まり、聖堂はいっぱいになりました。

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この小教区の主任司祭は、ドイツ司教協議会から派遣されており、現在はミルコ・クイント神父様が派遣されて、主任を務めるとともに、横浜や関西のドイツ語共同体の司牧も行っています。

この日のミサには駐日ドイツ大使ほかドイツ大使館関係者も参加され、また主任司祭としては前任者となるイエズス会のハム神父様も、お元気な姿を見せてくださいました。

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ミサ後には、お天気にも恵まれ、前庭で祝賀会。もちろんソーセージのバーベキューで楽しい時間を過ごしました。

ミサの様子は、以下のビデオをご覧ください。なおミサは、私がドイツ語ができないので、英語で行いました。

東京教区には、様々な言語話者の共同体が存在します。私自身の方針としては、それらをすべて別々の言語別共同体として独立していくことは考えていません。すでに長い歴史的背景を持ったいくつかの共同体が存在していますが、同時に「多様性における一致」をモットーとして掲げる司教ですから、様々な考え方、様々な文化の違いを超えて、キリストの元に一致する共同体を目指したいと願っています。ですから、例えばドイツ語共同体も、特定の文化的背景を持った信徒の隠れ家となるのではなく、その活動が、東京教区という一つの共同体の部分として存在していることを、常に心に留めていただきたいと願っています。言葉が違い、考え方も違うけれど、キリストにおいてい一致して、一つの共同体としてともに歩み、福音をあかしするものとして支え合っていきたいと思います。

なおこの中目黒にある神の御摂理修道女会の東京における社会とのかかわりの活動については、カリタス東京のホームページにインタビューが掲載されていますので、是非ともこちらのリンクからご覧ください。

以下、ドイツ語共同体の小教区認可10周年感謝ミサのビデオです。

 

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2026年9月26日 (土)

週刊大司教第270回:年間第26主日A

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9月の最後の主日となりました。

メッセージでも触れていますが、9月最後の主日は「世界難民移住移動者の日」と定められています。今年の教皇様のメッセージは、こちらのリンクからご覧頂けます。

以下本日午後6時配信、週刊大司教第270回、年間第26主日のメッセージとビデオです。

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週刊大司教第270回
2026年9月27日

教会は、9月最後の主日を、「世界難民移住移動者の日」と定め、「各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」(中央協HP)としています。

難民や移住者への配慮を繰り返し呼びかけられ、また行動された教皇フランシスコは、ご自身の使徒的勧告「福音の喜び」に、「そこにおられるキリストに気づくよう、わたしたちは招かれているのです。すなわち、家のない人、依存症の人、難民、先住民族、孤独のうちに見捨てられてしまう高齢者などのことです」と記され、神のいつくしみそのものである主イエスに倣い、教会が、そしてわたしたちがいつくしみの無償で無尽蔵な提供者となるように、呼びかけられていました。

今年の世界難民移住移動者の日にあたり、教皇レオ14世は、「これらの小さな者を一人でも」という言葉をマタイ福音書から選ばれ、テーマとされています。

メッセージで教皇は、特に過酷な環境にさらされている未成年者に目を向けて、次のように呼びかけています。

「彼らは具体的な顔と固有の歴史をもっており、わたしたちの良心に訴えかけます。・・・残念ながら、未成年の移住者は、彼らを保護し支える大人がいないために、無視されがちです。それゆえ、通過する国や目指す国において保護し受け入れるだけでなく、出身国においても、彼らが避難せざるをえない原因を取り除くための対応が必要です」

その上で教皇は、「議論の軸を、単なる移住の管理から、人権の完全かつ即時的な保護へと移さなければなりません」と指摘し、「移住者の保護と受け入れと真の統合の機会を保障しうる、協調的・連帯的・実効的な対応をするようにと呼びかけておられます。わたしたち自身には、「これらの小さな者」のために何ができるでしょうか。 

マタイ福音は、父親の命令に対する兄と弟の答えと、それに続く具体的な行動についてのイエスのたとえ話を記します。兄は命令を拒んだものの、実際には父親の望み通りにした。しかし弟は、命令に従うそぶりを見せ父親を喜ばせた者の、実際には従うことはありませんでした。

「どちらが父親の望み通りにしたか」とイエスは尋ねます。当たり前ですが、兄の方です。すなわち神にとって大切なのは、結果として神の望み通りに行動することであって、表向きに神を喜ばせるようなジェスチャーをすることではないのです。

残念ながらわたしたちは、表向きのジェスチャーに簡単にだまされます。かぶった仮面の内側を見抜くことができません。そして時に、目に見え他者から評価される表向きの表現や行動をよりよく見せることが、信仰心を表現することだとすら勘違いします。しかしそれは、神には通用しません。人の目をごまかすことは容易でも、残念ながら神の目をごまかすことはできません。

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2026年9月19日 (土)

週刊大司教第269回:年間第25主日A

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九月に入り、東京はなかなか秋晴れとは行かず、曇り空や雨が続いていますが、涼しくなってきました。連休を前に、台風の影響を受け始めた地域も少なくありません。

本日(19日)土曜日は、年に四回開催されている東京教区の宣教司牧委員会の開催日です。東京教区は地区制度を採用しておらず、3から4の小教区が一つになり、22の宣教協力体に別れています。岡田大司教様が考えられた当初は、その一つ一つが小教区に発展していくことも考えられていたようですが、現時点では、宣教協力体内で互いに情報交換をしたり、行事を共催したりと、それぞれの宣教協力体で取り組みは異なっています。その宣教協力体から信徒の代表に出席いただき、教区全体の司祭を代表して、数名の司祭が司祭評から派遣され、教区司教からの諮問に答えるためにに協議を重ねています。

それぞれの宣教協力体代表の信徒の方の立場が異なっているため、以前からどの程度までの決定権があるのかは議論があったところです。現在は、あくまでも教区司教の諮問機関として、アドバイスをする立場となっていただいており、教区全体の議決決定機関ではありません。特に、現在進められているシノドスの歩みに関して、この宣教司牧委員会が率先してシノドス的なあり方を模索し、それを各宣教協力体に持ち帰り実践することを目指し、いまは、教区司教の諮問事項として、東京教区の宣教司牧方針の見直しのために、シノドス的な霊における会話を繰り返しておこない、宣教司牧の優先課題を見いだすことを続けていただいています。

議題があって議論を重ねて結論を出すというのが従来の会議体ですが、シノドスの歩みが目指しているのは全く異なる道です。試行錯誤が続くとは思いますが、宣教司牧評議会での実践が、各宣教協力体へのシノドスの歩みの浸透への道筋になることを祈っています。

参加してくださっている各宣教協力体の代表の方々、司祭の代表の方々には、雲をつかむようなことに挑戦していただき、感謝申し上げます。

なお、日本の教会では、敬老の日の前日の主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」としています。今年は明日、9月20日です。今年の教皇様のメッセージ、「わたしがあなたを忘れることは決してない」は、こちらのリンクからご覧いただけます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第269回、年間第25主日のメッセージです。

年間第25主日A
週刊大司教第269回
2026年9月20日

教会は9月1日から10月4日までを「被造物の季節」と名付け、日本の教会では「すべてのいのちを守るための月間」と位置づけています。

回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。東京教区を始め多くの教区では、その直後の日曜日、今年は9月6日でしたが、この意向でミサを捧げる日としています。この意向のための特別なミサ典礼も準備され、中央協議会のサイトなどから見ることができます。

「ラウダート・シ」がもとめる共通の家を守るという理念の啓発に取り組み、また霊的に深めていくために、この期間を、すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な時とすることが求められています。
今年の「被造物を大切にする世界祈願日」にあたり、教皇レオ14世はメッセージを発表され、そのタイトルを、イザヤ書2章から、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」とされています。

メッセージの中で教皇は、「国々が「剣を打ち直して鋤とし」、いのちを損なうものを、いのちを支えるものへと変える時が来ると語りました。ところが、今日わたしたちは、それとはまったく逆のことばかりを目にします。暴力と戦争へと心血を注ぎ続けているのです」と指摘されています。

その上で教皇は、戦争こそは「次々と犠牲者を生み、家族を引き裂き、何百万人もの人を故郷から追いやり、恐怖と不正義と分断を募らせ」ると述べ、「何世代にもわたる社会の荒廃と環境の破壊を残す」ことによって、悪循環を生じさせていると指摘され、「真理、対話、忍耐、善意、正義、いつくしみ、理解、配慮、愛」によって、人々の心にいやしを生み出そうと呼びかけています。

さて、マタイの福音に記されたぶどう園で働く労働者と主人の話は、なんとなく心が落ち着かない話であります。給与は労働の対価であるという考え方に基づくならば、雇用の現場で、同じ職種にもかかわらず、丸一日働く人と1時間しか働かない人を、全く同じ給与にしたとしら、あっという間に労働争議になってしまうことでしょう。

しかしイエスの本意は、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」ということばにあります。イエスが語るのは、ご自分のいつくしみです。ご自分が愛を持って創造し、賜物として与えられたいのちを、どれほど大切にしておられるか。そのいのちに対する愛は、分け隔てなく、価値における優劣の差もなく、すべからく大切であり、愛を注ぐ対象であり、いつくしみのうちに包み込む対象なのだということ、この言葉は明確にしています。

司教団のラウダート・シ部門担当の成井司教様の言葉ですが、「『ラウダート・シ』が教えるように、この世界のすべてのものはつながっており、生きるために互いを必要としています。この「すべてのいのちを守るための月間」の間、わたしたちは、いのちのつながりを大切にする小さな取り組みを続け、それが家庭へ、地域社会へ、そして被造物全体へと流れ出ていくよう努めましょう。」

いのちの与え主である神にとって、どのような違いがあったとしても、ご自分が創造されたいのちは、すべからく等しく大切な存在であることを、今日の福音は明確にしています。

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9月13日、関口教会堅信式ミサ@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第24主日の午前10時のミサで、関口教会では5名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

以下に、週刊大司教と若干かぶりますが、当日のミサの説教の原稿を掲載しておきます。東京カテドラル聖マリア大聖堂では、毎年聖霊降臨祭の午後に、教区合同堅信式を行って50名以上の方が毎年堅信の秘跡を受けられますが、関口教会単独での堅信式は久しぶりであったかと思います。

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なお、9月14日の十字架称賛の祝日には、聖心女子大学聖堂にて、渡辺宏子先生主宰のCantate Dominoと由比ヶ浜グレゴリアンを歌う会主催で、グレゴリオ聖歌を歌うラテン語ミサを捧げました。典礼は朗読と説教以外はすべてラテン語ですが、現在の典礼です。

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そもそも第二バチカン公会議後の典礼改革で、それまでのミサ式文が改定され日本語の現行のミサに変わったのが、わたしが小学三年生の頃です。それまでに小学一年生から侍者を始めていて、必死でカタカナで憶えたラテン語の階段祈祷などは、典礼が変わったので使わなくなりました。せっかく憶えたのにとがっかりしたことを記憶しています。

典礼が変わるとともに言葉も日本語になったのですから、以前の典礼はいざ知らず、現行の典礼でラテン語ミサに与っている人は、実はそんなに多くはないはずです。グレゴリオ聖歌自体は、今回のグループを始め、多くの方が歌い継いでくださっています。

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わたしが現行のラテン語ミサを歌って司式することができるのは、中学生で入学した当時の小神学校が、日曜日と大きな祝日のミサをすべてラテン語で行い、グレゴリアンを歌うミサとしていたからです。毎週土曜日の夜には、ドイツ人の神父様を指導者に、グレゴリアンの歌の練習までありました。今考えると、ありがたいことでありました。

以下、9月13日、関口教会での堅信式ミサでの説教の原稿です。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年9月13日

本日の第一朗読であるシラ書も、マタイ福音も、ゆるしと和解について語ります。わたしたちは基本的に自分勝手な存在です。人生の始まりから終わりまで、様々な人間関係の中で生きていくのですから、そこには多くの間違いが発生します。自分が犯した間違いにはできるだけ寛大にゆるしてほしいと思う反面、自分に対する他者の過ちに対しては、それほど寛大になれないどころか、時としてできる限る厳しく罰してしまおうとさえします。

ゆるしを願っている相手の立場に立って、相手の心持ちを客観的に想像できるのであれば、ゆるしを願っている人の立場がどれほど大変であるかは分かりそうなものですが、わたしたちはなかなかそうは簡単に、相手の立場に立って寛大にはなれないものです。自分の心の動きは確実に把握できても、相手の心の動きは想像するしかすべがないからかもしれません。

この世界に生きていく限り、全く他者との関係なしに生きていくことができませんから、わたしたちは常に他者との関係の中でいのちを生きています。人生をある程度生きてくると、自分と全く同じ人に遭遇する可能性は、極めて低いことにだんだんと気がつきます。考えることも判断することも行動も感情の動きも、全く同じ人には、なかなか出会うことはありません。ですからわたしたちの人生は、常に理解の相違に満ちあふれ、互いのことを理解することが出来ないことが続き、互いの行動や判断を理解できず、それがためにどうしても相手を裁いてしまいます。時として、その裁きはわたしの心の中に怒りを生みだし、怒りは憎しみに発展することもあります。結果として、この世界には対立関係が蔓延しています。

第一朗読のシラ書はこう始まります。「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方がつきまとう。・・・隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、おまえの罪は赦される。」

他者に対して憤りと怒りの感情を抱き、相手を裁いたままでは、自分と神との関係をただすこともできないと、シラ書は記しています。

わたしたちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを悔い、神にゆるしを願うことでしょう。しかし神は、神にゆるしを請う前に、他者と自分の関係を正しくすることを求めます。他者との人間関係において、ゆるしと和解が実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。

社会はそういう罪人であるわたしたちによって成り立っている集まりなのですから、その中に存在している教会共同体も、基本的には同じように罪人の集まりです。教会は決して罪を犯さない聖人のような選ばれた人だけが集まっている場ではありません。そういう人もいるでしょう。しかし大多数は、罪人です。自分と神との関係をただすことができずにもがいている罪人です。

教会共同体は、そうであったとしても罪人がともに集い、互いに向き合い、互いの関係をゆるしの心のうちに修復し、その上で一緒になって神に向き合い、ともに神のゆるしを求める、ゆるしと寛容さに満ちあふれた共同体であるはずです。わたしたち同士のゆるしと寛容さのないところに、神のゆるしはありません。ゆるしと寛容さに満ちあふれた共同体の姿こそが、現代社会にあって、希望のあかしのしるしとなります。

マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言うイエスの言葉を記しています。七の七十倍という言葉で、限りない深さを持った神のいつくしみを示します。またそのゆるしをいただいたものが、そのあわれみを他者との関係において分かち合うことなく、それどころか隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、ゆるし合うことなく、無慈悲に他者を裁くものには、神のゆるしがないことも明示されています。

信仰者としてのわたしたちの人生は、主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としています。その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、ご自分に襲いかかるものをゆるすいつくしみであり、愛するすべてのいのちの救いのために、自らを犠牲として捧げた、隣人愛の極みであります。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的にゆるし、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。

主イエスの生き方にならう、あかしの人生を歩みましょう。

キリスト教入信の秘跡は三つの秘跡を受けることによって完成します。一番重要なのはすべての基本にある洗礼の秘跡です。でもそれだけですべてが完成するわけではありません。ご聖体の秘跡、そして堅信の秘跡が続きます。わたしたちはこの三つの秘跡を通じてキリスト者になっていきます。信仰に生きるということは、キリストとともに道を歩むことであって、しかもわたしたちはその歩みを同じ信仰を持つ兄弟姉妹とともに歩みます。信仰は旅路です。この世の旅路が終わるまで、キリストとともに、また信仰における兄弟姉妹とともに、わたしたちは旅人として一緒に歩み続けます。

教会は聖霊の働きによって誕生し、共同体としての歩みを始めました。そのことを念頭に、儀式書の冒頭には、「堅信によって、わたしたちは父の賜物である聖霊のしるしを受け、主にいっそう似る者となり、聖霊に満たされる」と記されています。

イエスによって呼び集められた弟子たちが最初の教会共同体となったように、わたしたちも三つの秘跡を受けることによって、弟子たちと同じようにキリストと共に歩み、キリストの言葉を語り、キリストの行いを行い、キリストの一つの体にすべての人が集められ一致するようにと、ともに歩みを始めます。それが教会です。教会とは建物のことではなく、イエスとともに歩み続ける神の民のことであります。

今日、堅信の秘跡を受ける皆さんは、堅信という三つ目の入信の秘跡を受けることのよって完全なキリスト者としてたてられます。完全なキリスト者には、果たすべき使命が与えられています。堅信の秘跡を受けることによって自ら責任を負う大人の信徒となります。その責任とはキリストの使命を果たすために働く責任です。堅信を受けられる皆さんには、是非ともそのことを心に留めていただきたいと思います。大人のキリスト者としての責任を心に留めてください。

今日から、キリストと共に歩み、キリストの言葉を語り、キリストの行いを目に見える形で具体的に行い、キリストの一つの体にすべての人が集められるように働き、一致を実現するものとなってください。キリストの体における一致が実現するところに、神の望まれる平和があります。神におけるゆるしと寛容さこそが、成熟した教会共同体のあかしです。喜びと希望のあかしです。わたしたちは社会の中にあって、一致と平和のうちに生き、喜びと希望をあかしする者でありたいと思います。

 

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2026年9月12日 (土)

週刊大司教第268回:年間第24主日A

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九月に入っても各地で大雨が続くなど、落ち着くことのない天候に左右させられる日が続いています。国内だけでなく、世界各地で自然災害の被害が報告され、亡くなられた方も多数おられます。被害を受けられた多くの方のために祈りを捧げるとともに、教会共同体が存在している地域にはカリタスがありますから、各地のカリタスを通じて被災された方々とともにありたいと思います。以前にも増して、大きな国としてのカリタス組織より、地域の小教区共同体に根ざした地域のカリタスの存在が重要になっています。

日本の教会は普遍教会と連帯して「すべてのいのちを守るための月間」を、10月4日まで続けています。

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東京教区の取り組みとして、先週土曜日、9月五日午後に、司教協議会の「ラウダート・シ」部門担当の成井司教様においでいただき、講演をしていただき、その後カテドラルでミサを捧げていただきました。100名ほどの方にお集まりいただいたことを感謝いたします。

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当日の講演は、撮影してありますので、後日公開されるものと思います。

また本日9月12日午後2時から、カトリック麹町聖イグナチオ教会で、イエズス会の司祭叙階式が行われ、イエズス会員のコエーリョ・ニティン・リズボン師が、司祭に叙階されました。

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司祭叙階、おめでとうございます。これからの活躍に期待しております。

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以下本日午後6時配信、週刊大司教第268回、年間第24主日のメッセージです。

年間第24主日A
週刊大司教第268回
2026年9月13日

マタイ福音はゆるしと和解について語ります。わたしたちは基本的に身勝手な存在です。自分が犯した間違いはできるだけ寛大にゆるしてほしいと思う反面、自分に対する他者の過ちに対しては、それほど寛大になれないどころか、時としてできる限る厳しく罰してしまおうとさえします。

ゆるしを願っている相手の立場に立つことを想像できるのであれば、相手がどれほど過酷な状況にあるのかは分かりそうなものですが、なかなかそうは簡単に寛大にはなれないものです。

この世界に生きていく限り、全く他者との関係なしに生きていくことができませんから、わたしたちは常に他者との関係の中でいのちを生きています。人間関係における経験から、自分と全く同じ人に遭遇する可能性が、極めて低いことに気がつきます。ですからわたしたちの人生は、常に互いの理解の相違に満ちあふれ、互いを理解することが出来ないがためにどうしても相手を裁いてしまいます。時として、その裁きはわたしの心の中に怒りを生みだし、怒りは憎しみに発展し、結果として対立関係が生み出されます。

第一朗読のシラ書に是非とも目を通してください。今日の朗読はこう始まります。「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方がつきまとう。・・・隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、おまえの罪は赦される。」

他者に対して憤りと怒りの感情を抱き、相手を裁いたままでは、自分と神との関係をただすこともできないと、シラ書は記しています。

わたしたちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを犯すことでしょう。

社会はそういうわたしたちの集まりなのですから、その中にある教会共同体も、同じように罪人の集まりです。教会は決して罪を犯さない聖人のような選ばれた人だけの集まりではありません。教会共同体は社会に対するあかしのしるしとして、罪人がともに集い、互いの関係をゆるしの心のうちに修復し、その上でともに神に向かい、ともに神のゆるしを求めるのだということを明確に示す存在でなくてはなりません。わたしたち同士のゆるしと寛容さのないところに、神のゆるしはありません。

マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言うイエスの言葉を記しています。七の七十倍という言葉で、限りない深さを持った神のいつくしみを示します。またそのゆるしをいただいたものが、そのあわれみを他者との関係において分かち合うことなく、それどころか隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、他者を裁くものには、神のゆるしがないことも明示されています。

信仰者としてのわたしたちの人生は、主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としています。その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、ご自分に襲いかかるものをゆるすいつくしみであり、愛するすべてのいのちの救いのために、自らを犠牲として捧げた、隣人愛の極みであります。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的にゆるし、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。

主イエスの生き方にならう、あかしの人生を歩みましょう。

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2026年9月 5日 (土)

週刊大司教第267回:年間第23主日A

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8月いっぱいお休みさせていただいた週刊大司教は、今回から再開します。これまでも常時、3回分ほどは事前に撮影してストックしてきたのですが、枢機卿を拝命して以来、不在にすることが多く、お休みさせていただくこともまれにあるかと思います。

8月は国際カリタスの緊急な要務のためローマに数日だけ出かけざるを得なかったり、一年前から引き受けていた香港での一週間の黙想指導などがあり、その合間に、広島でも平和行事、東京での平和旬間、聖母被昇天祭などの重要な国内行事もありましたので、大変にバタバタしておりました。

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香港では神言会の台湾・香港の会員27名ほどの黙想指導で貴重な霊的な体験をわたし自身がさせていただきました。香港とマカオは神言会の中国管区の一部分で、現在の管区長は台湾におられます。黙想の家は、日本では白百合学園を運営しているシャルトルの聖パウロ修道女会のシスターによって運営されており、香港の裏手側、深圳との境(国が同じなので国境ではないですが、国境に近い取り扱い)に位置しており、深圳の町並みを望むことができる場所でした。黙想会は英語で行いました。私にとって一週間の黙想会でお話しするのは、人生で二回目の経験です。短い講話ならばいくらでも経験がありますが、一週間の黙想指導には、やはりそれなりの経験と霊性の深さが必要だなと感じさせられました。

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またこの黙想会終了後、金曜日の午後には、マカオで働いている神言会員に連れられて車で長大な連絡橋を渡り、お隣のマカオを訪問し、日本の殉教者の聖遺物のおかれている、あの正面の壁だけが残っている聖パウロ教会で、数多くの殉教者の聖遺物の前でお祈りさせていただきました。

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またその翌日土曜日には、朝から香港の空港の近くにある水の上に広がる大澳村を、青年たちと一緒に訪れてミサを捧げ、対話集会を行う機会も頂きました。集まっていたのは、英語を話す青年達で、出身も多様な文化圏でした。その中には、学校で日本語を学んでいるという青年も複数おり、英語と日本語が飛び交う不思議な雰囲気でした。

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さらに、8月16日と23日には、香港市内の教会で英語で主日ミサを捧げさせていただいたり、23日にはそのミサ後に、今度は香港日本人会でのミサを捧げさせていただいたりと、多くの出会いがあったことに感謝しています。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第267回、年間第23主日のメッセージです。

年間第23主日A
週刊大司教第267回
2026年9月06日

今年の夏は、天候が不順で、非常に暑い地域もあれば、繰り返し台風の被害を受けた地域も少なくありません。また日本では熊本をはじめ世界各地で頻発した地震もありました。被害を受けられた皆さまにお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。

同時に、教皇様がこの夏の間の一般謁見やアンジェルスの祈りの時に繰り返されたように、世界各地で戦争や紛争が継続し、神からの賜物であるいのちが暴力にさらされています。いのちに対する暴力はゆるされず、神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにしてはならないと、神を信じるわたしたちは改めて強調したいと思います。暴力を肯定する口実を探すのはやめましょう。

本日の第二朗読でパウロはローマ人の手紙に、「その他どんな掟があったも、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません」と記しています。その相互の愛の絆によって、わたしたちはそれぞれ異なっていても、一つにつながれており、ともに暮らす家においていのちを生きることで、一つの共同体を作り上げています。

9月1日は被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、9月1日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。

世界的に気候変動の影響が語られ、その原因が様々に取り沙汰される中で、2015年、教皇フランシスコは「ラウダート・シ」を発表されました。副題は、「ともに暮らす家を大切に」とされています。広く環境問題に取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託された自然界を、養い育てる責務を果たすことにつながり、それは信仰上の責務でもあると強調されました。

教皇フランシスコが強調されたエコロジーへの配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めようとかいう単独の課題への取り組みのことにとどまりません。それは、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に、ひとり一人が真摯に向き合い、答えを見いだそうとすることに他なりません。

マタイ福音は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と記し、主の名によって集められたわたしたちの共同体には、主御自身が常に存在されていることを明示します。ます

この主御自身の存在によって結び合わされたわたしたちは、感謝の祭儀に与ることで、朗読される御言葉のうちに現存される主と出会い、ご聖体の秘跡のうちに現存される主をいただきます。

わたしたちを結び合わせる掟の中心にある「隣人愛」とは一体何なのでしょうか。「自分のように愛する」とは一体どういうことでしょう。それはただひたするに優しくすることでもなければ、自分の思いを押しつけることでもありません。それは、自分自身が生きて行くことを肯定しているのと同じように、交わる他者がいのちを生きていくことを肯定する態度であります。生きるための希望は、互いに支え合う交わりの絆を確認するところから生み出されます。すなわち連帯こそが、生きる希望を生み出します。そこに隣人愛の根本があります。

ともに暮らす家を大切にすることも、互いのいのちを守ることなのですから、まさしくエコロジカルな取り組みは隣人愛の行動であります。

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2026年8月30日 (日)

年間第22主日A@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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8月の最後の主日。本日は関口教会の10時の主日ミサを担当し。東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサを捧げました。

説教の中でも触れていますが、今週の火曜日、9月1日から、「ラウダート・シ」にちなんだ「すべてのいのちを守る月間」が始まり、10月4日まで続きます。

東京教区では、今週の土曜日、9月5日の午後1時から、司教団の「ラウダート・シ」部門担当である新潟の成井大介司教様においでいただき、講演会とミサをすることにしております。時間がある方には、是非ご参加ください。講演会は午後1時からケルンホール、ミサを午後4時から聖マリア大聖堂です。

以下、本日のミサの説教原稿です。

年間第22主日関口教会ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月30日

今年の夏は、早い時期から台風が発生したり、酷暑が続いてみたり、また先日は千葉県内でも大きな被害が出たように各地で豪雨被害もありました。今朝ほども福井県で豪雨の被害が出ていると報道されています。さらには熊本を始め各地で地震が発生したりと、自然の巨大な力の中で生きていくわたしたち人間の力が、いかに小さなものであるのかを思い知らされた夏でもありました。被害を受けられた多くの方々には心からお見舞いを申し上げます。またネパールと中国の国境地帯では、大きな土石流の災害も発生し、多くの方が被害を受けられ、亡くなられた方も多くおられると報道されています。先日訪問したインドネシアのフローレス島や、フィリピン、コロンビアやベネズエラなど、世界各地で地震災害が発生しています。被害を受けられた方々に、いのちの与え主である神様のいつくしみ深い手が差し伸べられることをお祈りいたします。

今年の5月末からは、気象庁の防災気象情報も変更され、大雨警報などの程度が数字で示され、早い段階から避難を呼びかける制度となったり、線状降水帯という言葉も、少し前までは集中豪雨などと行っていましたが、だんだんと耳に慣れてきました。明らかに気候は変動しています。確かにこの数年、日本の気候は荒々しくなり、特に夏の気候はまるで熱帯地方のようになりました。否定する人もいる中で、いわゆる温暖化による気候変動は事実なのだと確信させるに十分な、気候の大きな変化を、夏でも冬でも経験するようになりました。

教皇フランシスコが「ラウダート・シ」を発表されてから10年以上が過ぎました。2015年のことでした。「ともに暮らす家を大切に」と副題に記され、環境問題に総合的な視点から広く取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託されたこの自然界を養い育てると言う、創世記に記された人間の務めを果たすことにつながり、それは同時に信仰上の責務でもあると強調されました。

毎年9月1日は「被造物を大切にする世界祈願日」とさだめられていますが、東京教区では次の土曜日、9月5日の午後1時から、司教団のラウダート・シ部門の担当である新潟の成井大介司教様をお招きして講演会をケルンホールで開催し、またその日の午後4時から、成井司教様の司式で東京カテドラルでミサが捧げられます。どうぞご参加ください。

また9月1日からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の期間として「被造物の季節」と定められており、日本の教会ではこの期間を「すべてのいのちを守るための月間」と位置づけています。この期間は、気候変動や温暖化の問題を取り上げるだけでなく、それ以上に、「ラウダート・シ」がもとめているわたしたちの「共通の家」を守るという理念の啓発に取り組み、またそれを神から与えられた賜物であるいのちの視点から、霊的に深めていくために定められています。すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な時とすることが求められています。

今年の「被造物を大切にする世界祈願日」にあたり、教皇レオ14世はメッセージを発表され、そのタイトルを、イザヤ書2章から引用されて、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」とされています。

メッセージの中で教皇は、「国々が「剣を打ち直して鋤とし」、いのちを損なうものを、いのちを支えるものへと変える時が来ると語りました。ところが、今日わたしたちは、それとはまったく逆のことばかりを目にします。暴力と戦争へと心血を注ぎ続けているのです」と指摘されています。

その上で教皇は、戦争こそは「次々と犠牲者を生み、家族を引き裂き、何百万人もの人を故郷から追いやり、恐怖と不正義と分断を募らせ」ると述べ、「何世代にもわたる社会の荒廃と環境の破壊を残す」ことによって、悪循環を生じさせていると指摘されます。環境問題への取り組みは、平和構築への取り組みであることを、教皇は明確に述べています。

平和構築について教皇はメッセージで、「戦争は、神にかたどり、神に似せて造られた人間として生きること、いのちを尊ぶこと、わたしたちにゆだねられている大地のケア、これらに深刻な落ち度があったことの表れです。単に政治的な失敗であるだけではなく、道徳的、霊的な落ち度でもあります」と記し、わたしたち信仰者は率先して、「真理、対話、忍耐、善意、正義、いつくしみ、理解、配慮、愛」によって、人々の心にいやしを生み出そうと呼びかけています。

「ラウダート・シ」の呼びかけは、わたしたちが享受している生活を大きく変えていくことを意味しているため、抵抗されたり無視されたりしがちであります。しかし、神がこの世界を創造し守り育み管理するようにとわたしたちに託したその願いに心を留めるならば、何もせずに今の生活を享受し続けることは、福音にあったように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」とわたしたちも主から叱責される姿勢であることは間違いありません。

預言者エレミヤの嘆きの言葉が、第一朗読に記されていました。

「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」

わたしたちはイエスを通じて語られ、聖霊によっていまも導いてくださる主の救いの福音が実現するようにと、生活を通じて取り組んでいます。その取り組みの度合いにはそれぞれの生活の現実において違いがあるとはいえ、エレミヤが記すように、「もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上が」るのですから、止めることはできません。一度でも心で受け止めたのであれば、主の言葉は、決して消えることのない炎として、心の内に燃え続けています。

イエスのメッセージを現代社会の中で生き、さらに伝えていくことには、様々な困難が伴います。環境問題にしても、平和の確立にしても、賜物であるいのちと人間の尊厳を守ることにしても、現代社会の現実はそれに生きることが、まるで夢物語を語り続ける愚か者の生き方であるかのように、嘲笑の対象としてしまいます。社会の現実は、わたしたちが福音に従って生き、語り、行動することを、容易ではないものにしています。

福音が夢物語と見なされるときに、エレミヤの言葉を心に留め、そして第二朗読のパウロの言葉を心に留めたいと思います。ローマの教会への手紙で、「あなた方はこの世に倣ってはなりません」と、力強く勧めの言葉を記しています。わたしたちは常に、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを」わきまえるものになりたいと思います。

この世界の常識に流されて、妥協してしまいたくなるわたしたちの心に、主は、「サタン、引き下がれ。あなたは、・・・神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しい言葉を向けられています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」という主の言葉は、苦行をしろと言っているのではありません。十字架の道は単なる苦しみの道ではなく、神が自ら創造された賜物であるいのちを救うために歩まれた、自己犠牲による愛の道です。他者のために捧げる愛の奉仕の道です。主の十字架は、苦しみの象徴ではなく、すべてを賭して、わたしたちへの愛を目に見える形で行動に移された神の愛といつくしみのあかしです。

イエス自身が歩まれた道、すなわち十字架の道を、ともに歩むようにと言う主の呼びかけに、真摯に応えるものであり続けましょう。

 

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2026年8月15日 (土)

2026年聖母被昇天祭ミサ@東京カテドラル


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聖母被昇天祭は、同時に、毎年、平和について深く考えともに祈る機会となる終戦記念日でもあります。また平和旬間の最終日でもあります。

聖母マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義に基づく祭日で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世がその教義を荘厳に公布しました。

中央協議会のサイトには、この日が8月15日となった歴史的経緯について、こう記されています。

この8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。この死去は、マリアが天に召された(帰天)ことと永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

なおわたしの洗礼名である聖タルチシオは、8月15日が祝日であり、タルチシオを洗礼名に頂いている人は8月15日に今でもお祝いをするかと思いますが、その8月15日が聖母の祭日となったため、典礼の暦上は8月12日へ前倒しになっています。この霊名の祝日のために、わたしのためにお祝いとお祈りをくださっている多くの皆さまに感謝申し上げます。タルチシオという霊名は、わたしが生まれた当時、父も母も教会で働いていたこともあり、わたしたち家族が住んでいた岩手県の宮古教会で司牧にあたっていたスイス人宣教師が、「聖タルチシオがヨーロッパでは侍者の保護の聖人だから」ということで選んでくださったと聞いています。

以下、本日午後6時から配信している関口教会の聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月15日

聖母マリアは平和の元后です。

なぜそうなのかと言えば、聖母マリアは、神の定めた秩序がこの世界に実現するために、人生のすべてを捧げられた方だからであります。

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。すなわち神の望まれる世界の実現こそが、平和の達成なのですから、神の意志を実現するために生きるすべての人は、平和を実現するために生きていると言っても過言ではありません。

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる口実を見つけ出しては、わたし達人類は神からの賜物であるいのちに暴力的に襲いかかり、その尊厳をないがしろにしています。そのようないのちの状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物であるいのちはその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。なぜならそれはわたし達が作ったものではなくて、神から無償で与えられた賜物であるからです。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。わたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るために人生をかけることこそは、それこそが平和を確立するための道です。ですから聖母マリアは、平和の元后です。神の意思の実現のためにすべてを投げ出して人生を捧げたからであります。

平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受けたときに、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と記されています。神の意志が実現する、すなわち平和の実現とはいかなる状態なのかがそこに明示されています。

そこでは、この世界の常識が全く覆され、多くの人から見捨てられ、忘れられ、いらないものとして排除され、社会の中心から追われて周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが豊かに向けられていることが記されています。

聖母マリアがその人生のすべてをかけてその身に引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割でありました。その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって忘れられた人たちへのいつくしみに満ちた配慮と思いやりを、この讃歌は高らかに歌っています。

また神がどこに人間の価値を見いだすのかについて、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りではなくて、人間が価値を見いださない存在のうちにこそ神は価値を見いだすのだと宣言します。

すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとしてすべからく大切なのだという、神のいのちに対する価値観が、そこには明示されています。わたしたち人間が価値がないとみなすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。

エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。神の意志が実現すること、神の秩序が実現すること、つまり神のことばが実現することこそが、神がよしとされる状態であり、それが神の平和の実現であります。弱い存在や異質な存在を排除するところに、平和は実現しません。自分の利益のために他者を犠牲にしても構わないと判断するところに、真の平和は存在しません。自分の存在を守るために、誰かが犠牲になるのはやむを得ないと考えるところに、神の平和は実現しません。

いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが暴力的に奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。その喝采の陰に、どれだけの人が子供や親や親しい人を暴力的に奪われて嘆き悲しんでいることでしょう。戦地で親しい人を奪われて嘆き悲しむ姿を、ニュースなどで目にすることがあります。それをどこかの誰かの悲劇に留めず、その悲しみをわたし達自身の心に刻み込みたいと思います。

2026年5月30日の夕刻、バチカン庭園で行った平和のためのロザリオの集いの終わりのあいさつで、教皇レオ14世はこう述べられました。

「マリアとともにロザリオの神秘を観想することは、御父が語られた唯一の決定的なことば、悔い改めの心をもって御父に立ち帰るすべての者にとっての平和のことばを、イエス・キリストのうちに見いだすようにわたしたちを導きます。」

その上で教皇は、「平和は正義と愛からほとばしり出ます。人々と家庭と地域社会と民族を結びつける調和と同じように。この緊張と紛争の時代においても、平和は、平和を奪われた人々の叫び声にわたしたちが耳を傾けるならば可能です。――罪のない子どもたち、苦悩のうちにある母親と父親、虐待された受刑者、避難民、あらゆる年齢の苦しむ人々の叫び声に。彼らのすべてが発することばはただ一つ、平和です」と述べて、聖母マリアと共にいのちを守り平和を実現するように祈り行動するように招いておられます。

いのちに対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりにし、またその暴力を肯定し、暴力の源である兵器を増強しようとする社会の風潮の中にあって、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日もわたしたちが生きる道筋を示そうとされています。栄光のうちに天にあげられた聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の言葉が実現し、その秩序が確立され、神の平和が実現するように、聖母マリアと共に歩んで参りましょう。

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2026年8月 8日 (土)

2026年平和旬間@東京教区

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日本のカトリック教会は、広島に原爆が落とされた8月6日から終戦の15日までの10日間を、平和旬間と定め、毎年、平和について黙想し、祈り、また呼びかけ行動するための期間としています。もちろん平和について考え祈ることはキリスト者にとって常に必要なことですが、この10日間の特別な期間は、1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世が、広島の地から世界に平和を呼びかけたことに触発され、その呼びかけを受けて翌1982年から毎年集中して平和について考え祈るときとして行われている特別な時です。

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まさしく大量破壊兵器で、一瞬のうちに何万、何十万もの人命が奪われた体験を、その歴史において二度も刻まれた私たちの国は、人類社会全体に対してその悲劇から生み出された平和を希求する真摯な願いを、訴え続けていく責務があります。さらにはそもそも核兵器の使用を招いた戦争という手段を持って国家間の紛争を解決することに対しても、同じ家に生きる兄弟姉妹として解決するためには他の道があるのではないかと、世界の国々に呼びかけたいと思います。

この平和旬間にあたり、司教協議会会長としての談話を発表しています。カトリック中央協議会のサイトをご覧ください。

また東京教区の平和旬間の取り組みは、教区ホームページのこちらをご覧ください。

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以下、本日午後3時半から東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた平和祈願ミサの、説教原稿です。なおこのあと平和巡礼ウォークが目白駅まで行われましたが、わたしは急用のためローマへ出かけなくてはならなくなり、平和巡礼ウォークには参加できませんでした。暑い中、参加くださった皆さま、ありがとうございます。

平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月8日

平和を求めて語り、また行動する人に対して、嘲笑の言葉が浴びせられるのは、決して目新しいことではありません。旧約聖書にも、例えばエレミヤ書には、王に対して戦いを控え、攻めてくる敵に刃向かわないことこそがいのちを守ることだと忠告する預言者エレミヤに対して、役人たちは王にこう言ったと記されています。

「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」(エレミヤ38章4節)

こうしてエレミヤはすさまじいまでの迫害を受けることになりますが、平和を語り続けたことでいのちを危機にさらした事例はわたしたちの身近にもあります。

太平洋戦争へと歩みを進めていた日本においても、政治家だけではなく、平和を語る学者や宗教者、そしてジャーナリストなどに対して、治安維持法に基づく嫌疑で弾圧があったり、社会全体の好戦的な雰囲気が醸成される中で、それに抗うものに対する社会的な圧力と具体的な攻撃は増していったことが記録されています。

そしていま、社会全体がどこに向かっているのかは、実際には予測することは難しく結果論でしかないのかもしれませんが、必ずしも平和の方向に向かっているとは言いがたく、人間の好戦的な指向性に資する方向に歩みを進めているようにしか感じられません。

1981年に広島を訪問された教皇聖ヨハネパウロ二世は、「戦争は人間の仕業です」とその平和アピールを始められました。続けて教皇は、広島と長崎について、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にすると、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめる」と述べています。

さらに教皇は、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と三回繰り返され、核兵器の使用による悲劇を忘れることなく、核兵器の使用の否定と核兵器の廃絶に触れた上で、こう述べておられます。

「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません。」

私たちは今どのような道を歩もうとしているのでしょうか。平和への呼びかけが嘲笑の的になる時代は、果たして平和へと向かっている時代なのでしょうか。

教皇レオ14世は、先般ご自身の著書を発表され、そのタイトルを、まだ仮訳ですが、「武器のない、武器を取り除く平和」とされています。

教皇は序文の中で、「平和を生み出すのは核兵器ではなく、軍縮です。この数十年間、核の緊張緩和が進む中で自明のものと思われていたこの真実は、今日、人々を恐怖と戦慄に陥れている軍拡競争によって影をひそめてしまいました。」と記しています。

その上で教皇レオ14世は、「平和は、つまるところ希望を必要としています。教会はこれからも、すべての人々への愛を説き続けるでしょう。もし世界が今日何かを求めているならば、それは未来への希望のメッセージであるとわたしは信じています」と記し、主イエスのメッセージにこそ希望の唯一の源泉があり、それを告げる使命があるのだと強調されています。

わたしたち日本の司教団は、昨年の戦後80年にあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもってわたしたちに突きつけられています。

人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、実はそれは間違いなどではなくて、それこそがわたしたちの本当の姿なのかもしれないと思ってしまいます。

いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。

東京教区の姉妹教区であるミャンマーでは、今でも軍事政権による混乱が続き、平和を求める教会の叫びには暴力が襲いかかり、絶望を生み出し続けています。先日バチカンで行われた枢機卿会議で、二日間、アフリカは南スーダンの首都ジュバ大司教のムラ枢機卿様と隣同士でしたが、南スーダンを始めアフリカ各地の非常に厳しい社会情勢と、いつ終わるともしれない内戦状態について実情を伺い、リーダーたちが平和に目覚めるように祈ってほしいと依頼されました。世界の各地で、平和は片隅に追いやられ、忘れ去られ、命が危機に直面し、暴力のもたらす絶望が支配しています。

私たちはこの現実の中で、愚直に平和を語り続けるものでありたいと思います。非戦による平和を説いて迫害されたエレミヤでありたいと思います。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられ、似姿としての人間の尊厳を与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。過去に謙遜に学ぶものでありましょう。

 

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