2024年9月 8日 (日)

2024年ガーナへの旅:その9(最終回)

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8月初めのガーナ訪問の最終回です。

7日目となる8月12日は、早朝にホテルをチェックアウトし、アゴメニャ教会の朝7時のミサに出かけました。平日の朝であり、しかも普段は月曜の朝ミサはないにもかかわらず、多くの人が集まり、さらには侍者もたくさんついて香炉も使って荘厳なミサとなりました。

この敷地内には、もともとアクラ教区立として1957年に創立された女子修道会HDR(Handmaids of the Divine Redeemer)の最初の本拠地と修練院、そしてクリニックがあったのですが、いまでは本部や修練院は移転し、クリニックが病院に昇格して運営されています。その修道院に所属するシスター方もミサに来てくださいました。現在この地域はコフォリデュア司教区の中です。

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懐かしい顔がたくさん。この日のために、わざわざ遠くから出てきてくださった方までいて、ミサ後には懐かしい顔をたくさん見つけ、昔を思い出す感謝の一時を過ごしました。昔と変わらない若々しい人も、この30年の時をしっかりと顔に刻んだ人も。でもみんな、若かった頃の思い出を懐かしく語ってくれました。1986年8月15日に、アクラの空港に初めて到着し、誰も迎えがいなくて困っていたときに、助けてくれたシスターとも再会しました。

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この地域にいるコロボ族の人たちは、かつて植民者であるイギリスと闘い、近くの平原にそびえるコロボマウンテンに籠城したりした歴史があります。いまでも、秋のお祭りの時期には、このコロボマウンテンに登り、祈りを捧げる習慣が残っています。また基本的にこのコロボマウンテンに近いオドゥマシやソマニャ地域が本当の故郷で、親族一同の真の家はこの地域にあり、オソンソン村のような奥地は、農作業をするための仮の住まいという考え方がありました。ですからオソンソンのような奥地の村で誰かが亡くなると、埋葬のためにご遺体をわざわざオドゥマシやソマニャまで運んできたり、葬儀は後日、この本当の故郷の家で行うなどの風習がありました。いまでも残っています。葬儀には、かなりのお金を使っていると思われます。このあたり、かつて神言会会員で人類学者の故フーゴ・フーバー師(Hugo Huber)が、その名も「The Krobo」という研究書を著しておられ、そこに詳しく記されています。

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この日は、ミサ後にしばらくアゴメニャで過ごし、そのまま昼頃にアクラへ戻りました。テマの港からアクラへ伸びる高速道路モーターウェイは健在でした。ガーナで一番最初にできた高速道路は、全線コンクリート舗装ですから、重量のあるトレーラーが通過しても大丈夫。立派に役目を果たしていました。交通量が増えたので、拡張する計画があると耳にしました。

午後には訪問団の皆さんは、アクラ市内の最大の市場であるマコラマーケットへ出かけたそうです。わたしは、ちょっとくたびれて管区長館で休憩。夜に合流して、素敵な野外レストランで、今回の旅を皆で振り返りました。

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最終日、8月13日。アクラ市内のMary Mother of Good Counsel(善き助言者である聖母マリア)教会で、朝ミサを捧げました。この敷地のとなりに、HDR修道会の本部があるため、総長や副総長を始めとしてシスター方が参加。また今回の旅行の手配を助けてくださった前駐日ガーナ大使のご家族などが集まり、亡くなられた方の追悼を感謝のミサとしました。その後、出発までの一時、本部修道院でシスター方と一緒に昼食の一時を過ごし、最終的に空港へ。

エミレーツ航空は一時間遅れて出発となり、ドバイでの乗り継ぎが、スケジュール通りでも一時間半ほどしかないために、どうなることかと心配しましたが、遅れている乗り継ぎ客は我々だけではないようで、ドバイの出発が40分遅くなっただけでなく、アクラからの便が到着したらドバイの係員が待っており、その誘導で入ったことのない通路を通り、セキュリティーチェックもしっかりと受けた上で、あっという間に東京行きのゲートに、これまでの生涯で、一番短くすんだ乗り継ぎだったと思います。要した時間がほぼ20分程度。無事帰国となりました。ご一緒いただいた皆さん、お祈りいただいた皆さん。ありがとうございます。

オソンソン村には電気が来ていました。皆、スマホを手にして写真を撮りまくっていました。当たり前です。日本であろうとヨーロッパであろうとアフリカであろうと、わたしたちは同じ時間を生きているからです。経済の安定と発展によって得たものはたくさんあると思います。きっとそれに伴って失ったものも大きいでしょう。しかしそれを、アウトサイダーであるわたしが嘆いても仕方がありません。アウトサイダーは常にアウトサイダーである自覚を持たなくてはならないことは、ガーナにいた頃から、そしてその後にカリタスの業務で様々な国の様々な現場に出かけて、常に心に刻んでおいた思いです。

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ガーナははやり懐かしい故郷でした。カトリック教会は、少しばかり勢いを失っているとご本人たちは言いますが、教会は活気にあふれ、ミサは喜びに満ちあふれ、司祭召命も修道者召命も豊かにある。生き生きとした教会でした。社会にはいろいろと難しい状況はあるけれど、昔と変わらず笑顔の満ちあふれた国でした。オソンソンでの説教の最中に、思わず、司教叙階25周年になる5年後に、また来るからねと約束してしまったのも、その思いの結果です。

いろいろな人が同じことを言いますが、アフリカの水を飲んだものは、また飲みに帰りたくなるものです。

終わり

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2024年9月 7日 (土)

週刊大司教第182回:年間第23主日B

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9月になり、少しづつ秋の気配も感じるようになりましたが、まだまだ暑い毎日が続きそうです。

教皇様はインドネシアに始まり、パプアニューギニア、東ティモール、シンガポールを歴訪中です。教皇様の健康のためにお祈りください。わたしも司教協議会の会長として呼ばれたので、12日のシンガポールでのミサに参加させていただく予定です。

シノドスの第二会期がまもなく始まります。第二会期のための討議要項の日本語翻訳ができあがりましたので、中央協議会のホームページで公開されています。また昨日開催された臨時の司教総会で司教様方に報告ができたので、第二会期に備えた様々な準備の記事や呼びかけなどの記事をシノドス特別チームで作成して、中央協議会の特設サイトに掲載いたしました。どうぞご覧ください。冒頭に、わたしからの呼びかけがあり、さらにそのほかの記事へのリンクも張ってあります。そのほかの記事としては、まず5月に行われた小教区で働く司祭の会合について参加した高山徹神父様の報告、8月に行われたアジアのシノドス参加者の会合について参加した西村桃子さんの報告。そして8月末に行われたアジア、アフリカ、ラテンアメリカの司教協議会連盟の会合の報告をわたしが記しました。

さらには、討議要項(第二会期のための公式な手引き書)はかなり長い文書ですので、その要約も特別チームで作成し、さらにそこから読み取れる今後期待される展開について、チームの小西広志神父様(フランシスコ会)に記事を書いていただきました。ご覧いただけましたら幸いです。(なお、シノドス第二会期の準備のために構成されたシノドス特別チームは、わたしと、神学顧問の小西広志神父様、奉献生活者の西村桃子さん、教区司祭の高山徹神父様、信徒の辻明美さんで構成されています。)

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第182回、年間第23主日のメッセージ原稿です

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週刊大司教第182回
2024年9月08日

マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が、「すべてのいのちを守るための月間」を過ごしているいま朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラウダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、現実に対して閉ざされているわたしたちの心の耳と目が開かれる必要があるからです。

現実の世界におけるしがらみは、わたしたちの思考を制約し、聞こえるはずの叫びに耳を塞がせ、見えるはずの世界から目を背けさせてしまいます。教皇フランシスコは、そういったしがらみによる縛りをすべてうち捨て、いのちが育まれるこの共通の家をどうしたら神が望まれるように育み護ることが出来るのか、目を開き、耳を開くようにと呼びかけます

マルコ福音には、イエスが「エッファタ」の言葉を持って、耳の聞こえない人の耳を開き、口がきけるようにされたと記されています。さまざまな困難を抱えていのちを生きている人に、希望と喜びを生み出した奇跡です。この物語は、具体的に困難の中で生きている多くの方への神のいつくしみの希望のメッセージであると同時に、すべての人にとっても必要な、閉ざされた心の目と耳の解放の物語でもあります。

わたしたちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。わたしたちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、わたしたちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。わたしたち一人ひとりのいのちが豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。だからこそ、わたしたち一人ひとりには今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が必要です。

先頃日本の司教団が発表した総合的エコロジーのメッセージ「見よ、それはきわめてよかった」において、わたしち司教団は、「観る、識別する、行動する」という「三段階を通じて、環境やエコロジーについての理解を深めるよう」勧めています。第一のステップの「観る」について司教団は、「単なる事実の把握にとどまらず、神の思いに包まれながら、心を動かされつつ気づく」ことだとして、それは「出会う」ことでもあると指摘します。その上で、司教団は、「わたしたちはたくさんの思い込みや先入観、自己中心的な願望を持って生きています。また問題の状況・原因は複雑なもので、わたしたちの認識にはいつも限界があります。そのような限界を認めつつ、聖霊を通して豊かに働いてくださる主に信頼して、観る歩みを進めましょう」と呼びかけています。わたしたちの閉ざされた目と耳を開こうと、主は今日も「エファッタ」と呼びかけておられます。

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2024年9月 4日 (水)

2024年ガーナへの旅:その8

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オソンソン村でのダニエル・ナー神父様の初ミサは、定刻9時から少し遅れて始まりました。

オソンソン村の聖堂は、その昔、柱も何も立てずに土のブロックを積み上げ、モルタルを塗ってあるだけの建物で、そのため非常に細長く狭い聖堂です。ですから大きな行事のミサは、以前から、ルルドの前にある屋根がかけられたホールで行われてきました。

初ミサには普段以上の人が集まりますから、そのホールだけでは足りず、聖堂との間の空き地にテントが張られており、すべて満席でした。

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ガーナでは、1957年までイギリスの植民地出会った歴史もあり、英語が公用語ですが、普段の生活ではそれぞれの部族の言葉が使われます。そのため、部族配置にあまり影響されずに多くの人が住んでいる首都のアクラなどでは、基本的に英語で典礼が行われますが、オソンソン村のように大多数が一つの部族であるコロボであると、典礼も基本的にはコロボ語で行われます。この日のミサもコロボ語です。

わたしが働いていた頃にも当然そうでしたので、わたしもコロボ語を一年くらい習って現場に入りましたが、やっとミサが立てられるくらいで、説教は公用語の英語で行い、カテキスタが通訳してくれていました。

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この日のミサでは、わたしが説教を担当することに。結局、日本から一緒に出かけた目黒教会のマーティン神父様が、英語からコロボ語に通訳してくださいました。この日の説教は原稿なしでしたので、勢いで、司教叙階25周年となる5年後に、もう一度オソンソンを訪れると約束してしまいました。2029年にまた、ガーナ旅行を企てますので、興味のある方はいまから心づもりを。

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ミサはもちろん日本のミサと変わらないのですが、5時間かかりました。一番は、歌が長い。ダンスが入る。献金が奉納前と聖体拝領後の二回ある。献金のダンスが長い。など、部分部分で時間がかかります。それ以外では、灌水式があったり、聖書の朗読が始まる前に、聖書を荘厳に迎える式があったり。奉納では、実際に農作物をみんな並んで持ってきたり。

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聖体拝領後の二回目の献金は、男女に分けてみたり、生まれた曜日ごとに分けてみたりするので、これはダンスと共に時間がかかります。ガーナの人は、みな生まれた曜日を知っています。というか生まれた曜日に基づいた名前を持っています。それで、曜日ごとに献金をして、額を競ったりするのです。ちなみにわたしは1958年11月1日生まれで、その日は土曜日でしたから、ガーナの名前はクワメ(Kwame)です。

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5時間のミサの終わりは、新司祭による祝福で、一番最初のわたしから始まって、司祭や修道者、親族、友人、日本からの訪問団など様々な人がそれぞれ前に呼ばれて祝福を受け、その最後は、会場に来ていた各村のチーフたちでした。ガーナの社会で、チーフの存在は重要です。

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また最後に、30数年前に小教区の学費援助を受けていた高校生だった村の子どもたちが、いまや社会で働く大人となっており、今度は自分たちで持ち寄って、村の子どもの学費を援助しようという団体を立ち上げているのですが、そのメンバーから司教叙階20周年のお祝いをいただきました。この子たちには(いまや大人ですが)、感謝の思いしかありません。

ミサ後、司祭館と聖堂の裏手の丘に登りました。ここには中学校があり、わたしが主任だったころに、日本政府の小規模無償援助をいただいて、3クラスの教室棟を建設しました。教会の信徒会長だった技術の先生が、仲間と手作りでコンクリートのブロックを積み上げ、窓や屋根は、コフォリデュア近くの神言会運営の技術学校のブラザーたちに制作をお願いしました。竣工式には、当時に駐ガーナ日本大使にもオソンソンまで来ていただきました。

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その教室棟は、ボロボロになりながらもしかりと活用されていて、いまでもオソンソン村の中学校校舎であり、こういった行事の時の宿泊所にもなっていました。丘の上なので、結構風が強く、飛ばされないように屋根をしっかりと作ってもらったことを記憶しています。(上の写真が現在。下は30数年前の校舎の竣工式でテープカットする日本大使)

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その日は午後3時くらいにオソンソンを出発し、麓の町であり、コロボ族の全体のチーフが住む部族の中心地であるオドゥマシへ向かいました。その地にある、アゴメニャという地区に教会があり、翌朝、月曜の朝7時に、そのアゴメニャ教会でミサを捧げることを依頼されていたためです。その晩は、上述の学費援助グループの面々が、日本からの訪問団を歓待して、夕食会を開いてくれました。

続く

 

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2024年9月 2日 (月)

2024年ガーナへの旅:その7

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ガーナ滞在の六日目です。

8月11日の日曜日。この日は、前日に司祭叙階されたばかりのダニエル・ナー神父様の初ミサに参加するために、ダニエル・ナー神父様の故郷であり、わたし自身が1986年から1994年まで働き、主任も務めていた、オソンソン村ルルドの聖母教会へ出かける日です。

前晩は、オソンソン村のある東州の州都であるコフォリデュアの教区司牧センターに日本からのグループは宿泊し、わたしは司教館に泊まりました。上の写真は、その司教館で、ジョゼフ・アフリファ・アジクム司教様と。1992年に東州がアクラから独立してコフォリデュア教区になったとき、司教は先日登場したケープコーストのバックル司教でしたが、アフリファ司教様はその司教総代理、そしてわたしは司教顧問のひとりとして、一緒に働きました。その後、バックル司教がアクラ大司教に転任して、後任としてアフリファ司教が誕生。2017年12月のわたしの東京での着座式にも、おいでくださいました。

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その昔わたしが働いていた頃に、この司教館の土地を購入してあるのは知っていましたが、その頃は何もない林の中でした。司牧センターが建っているところは、全く地理が把握できませんでした。しかもその昔、夜に移動中に泥沼の深みにはまって車が抜け出せなくなり、神言会の運営する技術学校まで延々と歩いてブラザーたちの助けを求めに行ったあの荒れ果てた未開地のような道路が、中央分離帯付きの立派な片側二車線道路に変身していたのには、感動させられました。

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町外れの丘の上に立つ聖ジョージカテドラルから見たコフォリデュアの町の風景も大きく変わり、とにかく町全体が拡大していました。

そのコフォリデュアからオソンソン村まで距離にして40キロほど。その昔はこの40キロに車で2時間かかっていましたが、いまはどうでしょう。オソンソン村から一番近い病院がコフォリデュアにしかなかったので、この道を、病人を乗せて、のろのろと穴ぼこやら何やらを避けながら走ったことを思い出しました。

今回は、なんと1時間でこの道を制覇。しかも一番懸念していた最後のオソンソン村直前の峠道付近は、なんと道を治す工事中で、四輪駆動ではない車でも、さっと通過です。治す工事と行っても、砂利をまいてグレーダーで表面を削っているだけのことですが、それでもありがたい。

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9時に初ミサと言われていましたが、8時過ぎにはオソンソン村に到着。オソンソン村の中心にある交差点で待ち構えていた、その昔侍者をしたり司祭館の手伝いをしてくれていた少年がいまや高校の校長先生になっていて、彼の運転する公用車に乗り換えて、ドラムやトランペトの若者たちと、クリスチャンマザーズ(教会の婦人会全国組織:青のユニフォームが特徴)に先導されて丘の上の教会まで。

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ここはこの地区の聖母巡礼所になっています。1950年代に宣教師が造成したルルドを、その後の司祭たちが大きく改造して、いまやルルド前には祭壇が設けられ、野外ミサができるようになっていました。わたしの前任者のオーストリア人司祭が、ルルドの前に大きなシェッド(屋根)をかけ、わたしが来てから12月8日前後のルルドの祭りを、一晩の行事から金土日の三日間の行事に変え、最初のステージを作りましたが、いまやとても大きく改変され発展していました。

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またルルドの周りの山も切り開かれて、十字架の道行きなどが設けられています。この地域の聖母巡礼地として定着してきたことは、大きな喜びです。わたしがいた当時に建設した司祭館も、きれいに改修され、新しい部屋が加えられていたり、天井が張り替えられていたりしましたが、ここで暮らした当時を思い起こし、懐かしい気持ちで一杯でした。そして30年以上たってもさらに美しく使ってくれていることに、感謝でした。

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ミサは、同じくこの教会出身で、いまは東京の目黒教会で働く神言会のマーティン・デュマス神父様が司会進行をして(写真下)、新司祭ダニエル・ナー神父様が司式。神言会の管区長や他の司祭も参加して、盛大な初ミサが始まりました。

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聖歌隊はオソンソン村だけでなく、近隣の教会からも加わり、30年以上前と変わらぬ笑顔の若々しいメンバーもちらほらいて、懐かしさに満たされました。わたしの担当は、説教です。都合5時間かかった初ミサが、9時を少し回って、始まりました。

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続く

 

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西千葉教会と千葉寺教会の統合について

9月1日付けで、以下の教会法上の公示を出しましたので、お知らせいたします。

千葉県にある西千葉教会と千葉寺教会は、2025年1月から、西千葉教会に統合されます。

なお公示文には含めることのできなかった、例えば、東京教区における小教区再編などの基本的考えや、今回の統合の経緯については、10月号の教区ニュースの巻頭に掲載いたします。基本的には、1)教区から再編を計画し指示することは、現時点で考えていません、2)今回の統合は、2011年に岡田大司教様が千葉中央宣教協力体の小教区統合を提案したときに始まり、その後の13年間にわたる両教会での検討を経て、最終的に決定されたものです。詳しくは、10月号の教区ニュースをお待ちください。

公示

カトリック東京大司教区大司教タルチシオ菊地功は、教会法515条に従い、2025年1月1日をもって、1956年12月に創設され聖コロンバンを保護者としていただくカトリック千葉寺教会を廃止し、1954年8月15日に創設され被昇天の聖母を保護者としていただくカトリック西千葉教会に統合することを宣言し、ここに公示します。

これまでカトリック千葉寺教会の司牧範囲とされていた地域は、統合の日から、カトリック西千葉教会の司牧範囲となります。それに伴って、カトリック千葉寺教会の洗礼台帳などの記録、小教区会計、その他事務的な記録はすべて、カトリック西千葉教会に移管します。
 

また統合の日をもって、カトリック千葉寺教会の土地建物は、カトリック東京大司教区本部事務局が管轄するものとし、教会活動のすべてを、カトリック西千葉教会に移管します。

カトリック千葉寺教会とカトリック西千葉教会は、2018年7月28日の両教会信徒役員と両小教区主任司祭である福島一基神父と共に、教区本部において大司教との会談を行い、それに基づいて同年8月20日に、大司教名で二つの小教区信徒に宛てた書簡で合意点を確認しました。その上で、二つの小教区には2020年末頃をめどに、「この地域におけるこれからの福音宣教にいったいどのような選択肢があるのか」、また「教会の諸施設の維持管理に関してどのような選択肢があるのか」の合意形成をお願いしたところです。

2023年9月2日付けで、千葉寺教会より、西千葉教会への統合の提案があり、二つの教会の意向確認と、司祭評議会、顧問会での検討を行いました。その結果、統合を進めることがふさわしいと判断いたしましたので、調整の結果、上記の通り決定いたしました。

2011年の岡田大司教様による千葉中央宣教協力体の小教区統合の提案に始まり、13年に及ぶ様々な方面からの検討に取り組んでくださった、カトリック千葉寺教会とカトリック西千葉教会の皆さまに、心から感謝申し上げるとともに、これからの統合された小教区のさらなる発展をお祈りします。

いつくしみ深い御父の御名において。

2024年9月1日

カトリック東京大司教区 大司教
タルチシオ 菊地功

 

 

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2024年8月31日 (土)

週刊大司教第181回:年間第22主日

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あっという間に8月は終わり、9月が始まります。

この数日の、台風に伴う大雨の影響で、被害を被られた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

今年の9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日です。この日から10月4日までを、日本の教会は「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。司教協議会の「ラウダート・シ」デスク(責任司教は成井司教様)では、呼びかけのメッセージを発表しています。また教皇様も、世界祈願日にあたって、「被造物とともにあって、希望し行動しよう」というタイトルのメッセージを発表されています。

さらに日本の司教団では、司教団のメッセージとして、「見よ、それはきわめてよかった」を発表しており、書籍でも頒布していますが、中身が重要ですのでテキストを公開しています。是非ご一読ください。

日本カトリック司教協議会(教会法上の一定地域の司教たちの集まりの名称)には、様々な委員会やデスクなどがあり、事務局であるカトリック中央協議会(日本の法律に基づいた宗教法人の名称)を通じて、それぞれのテーマの担当が様々なメッセージを発表しています。

そういったメッセージの中でも「司教団メッセージ」と呼ばれるものは、現役の司教全員が賛成した一つの地域の司教団の総意を表すメッセージとして、一番重要な意味を持つメッセージとお考えください。ですから、「司教団メッセージ」は、それほど頻繁に出されることはありません。

また司教団も、数年でガラリとメンバーが替わります。例えば2015年のアドリミナに出かけた日本の司教団と、今回2024年のアドリミナに出かけた司教団のメンバーは、10名が入れ替わっています。ですので、前回の司教団メッセージである「いのちへのまなざし、増補新版」と今回の「見よ、それはきわめてよかった」では、司教団のメンバーが替わり、そのトーンなどに違いが出ているのを感じ取っていただければと思います。

なお「ラウダート・シ」デスクが主催して、東京教会管区では、同メッセージ発表に伴う出版記念シンポジウムを、9月7日に、東京四谷のニコラ・バレ修道院を会場に、午前10時半から昼過ぎまで開催いたします。当日は管区内の司教のうち、わたしや成井司教を含め数名も参加します。詳細は、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。(東京教会管区:札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京の各教区で構成)

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第181回、年間第22主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第181回
2024年9月01日

9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、本日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。

教皇様は今年の祈願日にあたりメッセージを発表され、そのタイトルを「被造物とともにあって、希望し行動しよう」とされています。

教皇様はメッセージで、「キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です。・・・信仰は贈り物、わたしたちの内なる聖霊の実なのです。けれども同時に、自由意志で、イエスの愛の命令への従順をもって果たすべき務めでもあります。これこそが、わたしたちがあかしすべき恵みの希望です」と記します。

その上で教皇様は、「イエスが栄光のうちに到来するのを希望をもって辛抱強く待ち望んでいる信者の共同体を、聖霊は目覚めさせておき、たえず教え、ライフスタイルの転換を促し、人間が引き起こす環境悪化を阻止して、変革の可能性の何よりのあかしとなる社会批評を表明するよう招くのです」と呼びかけておられます。

司教団の優先的取り組みとして、司教協議会には「ラウダート・シ・デスク」が設けられており、その責任者である成井司教様は、「月間」の呼びかけで、「イエスのセンス・オブ・ワンダー、驚きに満ちたまなざしは、わたしたちが総合的な(インテグラル)エコロジー、すなわち神と、他者と、自然と、そして自分自身と調和して生きる道筋を示しています。今年のすべてのいのちを守るための月間の間、イエスの驚きに満ちたまなざしで自分を取り巻くいのちのつながりに目を向けてみませんか」と呼びかけておられます。司教団が先般発表したメッセージ、「見よ、それはきわめてよかった――総合的な(インテグラル)エコロジーへの招き」を、是非ご一読ください。

マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘されます。

さまざまな掟や法が定められた背後にある理由は、人を規則で縛り付けて自由を奪うためではなく、神の望まれる生き方に近づくための道しるべであること思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

神がそのいつくしみの御心を持って愛のうちに創造された全被造界は、わたしたちに守り耕すようにと委ねられたものであって、好き勝手に浪費するために与えられてはいません。わたしたちは神から与えられた使命を忠実に果たす、本当の意味での神の掟を守るものでありたいと思います。

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2024年ガーナへの旅:その6

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ガーナ滞在の五日目、今回の旅の一番の目的である、司祭叙階式です。

前晩泊めていただいた神言会の新しい霊性センターからだと、会場の教会まで、アクラ市内にはいらずにバイパスして、渋滞を避けることができます。とはいえ、道路整備が進む前に宅地などの開発が進んだ地域ですので、霊性センターから表通りに出るまでの道がすさまじい。絶対に歩く人よりゆっくりと、上下左右に揺れながら車は進みました。

モーターウェイ延長道路(テマの港とアクラをつなぐ高速道路・モーターウェイの延長道路)と、昨日通過したアクラとケープコーストを結ぶ道路の合流分岐点は、なんと立体交差になっていました。一昔前だと、ここからクワメ・エンクルマ・サークルまで行って、インセワン道路に入るしか方法はなかったのですが、いまは方々に広い道が新しくできていて、混み合うサークルを避けて、アクラから北に向かう国道の最初の部分であるインセワン道路に入ります。それこそ30年ほど前は片側一車線だった道路が、いまや中央分離帯のある4車線道路に発展しています。その道の途中、カトリック聖シルバヌス教会は位置していました。

叙階式は9時に開始予定です。いまのガーナで、9時に始まると言ったら9時に始まります。さすがに30年ほど前も、アクラなどの都市部では時間通りに始まることが多かったのですが、その頃は、わたしがいた村なんかでは、9時に開始と言っても、10時頃に始まれば成功のような様相でした。しかし今回は本当に9時に始まる。出迎えの都合があるので8時45分に到着してほしいと言われていましたが、渋滞がなかったために8時半前に到着。主任司祭から、車で待機してほしいとのリクエストです。

8時45分、小教区の聖歌隊や役員の方々に迎えられて、司祭館へ。今回は神言修道会ガーナ・リベリア管区の叙階式ですから、多くの神言会員が集まり、中には、昔わたしが働いていた頃からの懐かしい面々もおられます。叙階される面々は、以下の通りです。

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この中のひとり、写真に向かって左から二人目、ダニエル・ナー新司祭が、わたしが1986年から94年まで働いていたオソンソン(Osonson)と言う村の出身です。

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この日は、アクラ大司教区の補佐司教であるアントニー・アサリ司教様も一緒に司式に加わってくださり、おかげさまで、司教様の司教杖(バクルス)を貸していただくことができました。(と言うよりも、不測の事態でわたしが来れなかった場合を考えて、アサリ司教様にもお願いしていたのかもしれません)。アントニー・アサリ司教様も、その昔わたしが働いていた地域の部族であるコロボの出身です。

わたし自身も緊張していたので、共同司式司祭が何人いたのか数えていませんでしたが、全員が行列で入堂したので、入祭だけでかなりの時間がかかっています。当日の中継ビデオを下に張り付けますので、飛ばしながらご覧ください。

聖シルバヌス教会はアクラ教区の小教区で神言会の担当ではありませんが、小教区をあげて準備をしてくださり、当日は聖歌隊も素晴らしく、侍者の皆さんもしっかりと働かれて、素晴らしい典礼の叙階式でした。

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説教部分だけを切り抜いたビデオがアクラで公開されていますので、ここに張り付けておきます。

その当日の説教の概要です。神言会員のような宣教司祭の評価は、一体何で定められるのか。それは、いくつの建物を建てたとか、洗礼をどれだけたくさん建てたとか、どれだけ資産を蓄えたとか、そういうこの世の目に見える数字の成果で決まるのではない。もしそうなら、多くの宣教地でほとんどの宣教師が、評価が低いか失敗したということになる。宣教司祭の評価は、福音への誠実な態度で決まる。福音には「わたしは善い牧者。善い牧者は羊のために命を捨てる」とあった。何もないときに「羊のために命を捨てる」というのは簡単だが、準備をしていなければ、いざというときに尻込みしてしまうだけ。「わたしは善い牧者。わたしは羊を知り羊はわたしを知っている」ちょうどいま教会はシノドスの道を歩んでいる。教会は互いの声に耳を傾け、ともに歩み、共に祈り、共に聖霊の導きを識別する神の民となる道を選択した。それを理解した牧者が必要。そして来年の青年のテーマは希望の巡礼者だが、この困難な時代には希望をも立つ存在が必要。司祭は希望を持ってくるのではなくて、人々の心に希望が生み出されるように働く触媒となってほしい。

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叙階の典礼そのものは日本と同じですし、ミサも日本と同じですが、歌やダンスが長く、いろいろなところで時間を費やして、結局4時間半ほどの叙階式ミサとなりました。聖シルバヌス教会の聖堂はかなり大きく、500人以上を収容できるように見えます。そこが一杯で、さらに外にもテントを張っていましたので、司祭団も入れれば、千人近い人が参加した司祭叙階式であったと思います。

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暑かったか?それが涼しかったのです。と言ってもエアコンがあるわけではありません。窓を開け放って、天井の扇風機だけですが、そもそもこの時期のガーナの気温は、日本の東京の夏よりも遙かに過ごしやすい。日中の最高気温が30度を超えることはめったにありません。(暑くなるのは冬の乾期です。サハラ砂漠からの北風が吹きますので、暑くなります)

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そして司式をしているわたしの後ろの壁には窓があり、そこから涼しい風が入ってきたので、かなりたくさん祭服などを着込んでましたが、涼しくミサを捧げることができました。

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叙階式ミサの最後には、まずわたしとアサリ司教の二人が新司祭の前に跪き、祝福をいただきました。その後に家族などの祝福が続きます。日本の叙階式ではあまりすることがありませんが、新司祭の前に司教が跪いて祝福を受けるのは、象徴的な意味があると思います。

4時間以上のミサでしたので、終わった頃には午後1時を過ぎています。参加者皆で昼食をいただき、訪問団は一路、翌日のオソンソン村での初ミサのために、移動を始めます。今日は70キロほど北東に走ったコフォリデュア(Koforidua)という町に向かいます。オソンソン村もある東州(Eastern Region)の州都になります。ここはコフォリデュア教区のカテドラルがあり、訪問団は教区のパストラルセンターに、そしてわたしは以前一緒に働いていたジョゼフ・アフリファ・アジクム司教様の司教館へ泊めていただいて、翌日曜日の早朝にオソンソン村に向かうことになりました。

続く

 

 

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2024年8月28日 (水)

2024年ガーナへの旅:その5

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ガーナ滞在三日目です。

この日は朝食後にホテルをチェックアウトして、エルミナからケープコースト方面へ戻り、その途中にある大司教館へ。大司教館は、かなり昔からこの地を支配する総督の屋敷として建っており、ポーター初代大司教が1950年代に聖堂を増築するなど大幅に改築したものですが、コンクリートなので頑丈で、目の前の大西洋の潮風を受けながらもしっかりと建っています。

ここで、ケープコーストのチャールズ・パルマー・バックル大司教が迎えてくれました。バックル大司教も交えて、日本語でミサ。

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バックル大司教は、1992年、わたしが働いていたアクラ教区の一部、東州が独立してコフォリデュア教区になり、さらにアクラが大司教区に昇格したとき、アクラ教区司祭からコフォリデュア教区司教に任命された方です。それまではアクラにある、1924年創設の歴史と由緒あるアチモタ・スクールの指導司祭をされていました。

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当時はまだ教区司祭としてアクラ教区から新しい教区に移った司祭も少なかったので、まだまだ若輩のわたしも、司教顧問の一人として任命され、バックル司教と一緒に働きました。その後、わたしが日本に戻ってから、彼はカリタスアフリカの総裁になり、今度は国際カリタスの理事会で再会して、また一緒に働くことに。そして2005年には、アクラの大司教に転任し、さらに2018年には由緒正しいケープコーストの大司教に転任されました。2017年12月の東京でのわたしの着座式には、他2名の司教と共に、東京まで来てくださり、彼の働きかけで、当時のガーナ大使が大統領からの祝賀メッセージを取り付けてくださいました。

首都大司教(メトロポリタン大司教)になると、教皇様からその印としてパリウムをいただきます。わたしが東京の大司教になってパリウムをいただきにローマへ行ったとき、バックル大司教もアクラからケープコーストに転任となり、二つ目のパリウムをいただきにローマに来ており、そこでも一緒になりました。わたしにとっては協働者であり、友人であり、恩人でもあります。

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大司教館でのミサ後、ケープコースト城へ。アフリカの植民地時代の出来事についてはよく知られていますし、過去には「ルーツ」という小説もありました。多くを語る必要がありませんが、かつての植民地時代のイギリスの奴隷積み出し拠点が海岸沿いには多く残されており、ケープコースト城もその一つであり、かつてイギリスがガーナをゴールドコーストとして植民地化していくための、最初の拠点施設でもあります。

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ここに、かつて周囲の村々から連れてこられた人たちが、閉じ込められ、海外に向けて運び出されたその跡が、悲しみと共に、美しい大西洋を背景に、残されています。奴隷制度は、人類の歴史の汚点です。繰り返されてはなりません。多くの人が閉じ込められていた、窓もなく湿った牢獄には、訪れた多くの人が手向けた花束が山のように置かれていました。ガイドに促されて、しばし、照明を消し、暗闇の中にたたずみ、祈りました。人間の尊厳について、深く考えさせられます。

今度は40キロほど北に移動して、カクム国立公園に。ここはいわゆる純粋な森林公園で、その中にキャノピーウォークと呼ばれる、いくつかの高所にかかる吊り橋があり、この公園の名物になっています。訪れた日も、ガーナの高校生の団体が吊り橋に挑戦していて、高さからの恐怖の叫び声が、森に響き渡っていました。私たちのグループもこの吊り橋を渡りに皆で出かけ、また森の日陰で育つカカオの木とその実を見学してきました。かつてはガーナの南部は、すべからくこういった森林だったのでしょう。今では、都市化と、耕作、さらにはかつて盛んだった木炭作りのための森林伐採などが重なって、森の大半は消えてしまっています。公園を案内してくれた担当者は、森の中には人が入らないところもたくさんあるので、いまでも野生の動物が多くいるとのことでした。

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三日目は、そのままアクラにむけて140キロ以上を戻り、アクラの町の手前にできたばかりの、神言会の霊性センターに宿泊。翌日の司祭叙階式に備えました。

続く

 

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2024年8月26日 (月)

2024年ガーナへの旅:その4

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アクラの神言会ゲストハウスは、かなり町の真ん中あたりにあります。30数年前は、渋滞も激しくなかったので、空港にも近く、買い物にも便利で、とても良いロケーションでしたが、いまや大渋滞のど真ん中になりました。

このゲストハウスを午後2時頃に皆で出発し、一路、140キロほど離れたケープコーストの町を目指します。しばらく走ると、昔からの渋滞スポットである「カネシ・マーケット」の前を通過。かつては歩行者と乗り合いバスが入り乱れ大渋滞でしたが、その後、横断歩道橋が架かったりして渋滞が緩和されたかと思いきや、おもいっきり渋滞は悪化していました。まずここを抜けるのに一苦労。(上の写真。左手に少し写っているのがカネシマーケットの建物)

その先の丘の上に、神言会の引退司祭の家であるマッカーシーヒルがありますが、かつてはそのあたりでアクラの町は終わりでした。アクラとケープコーストを結ぶ道路には、その先あたりに警察の検問所があり、そこで町は終わっていたのですが、なんといまやアクラの町はすさまじく膨張し、そこから延々と住宅地が続きます。通過していく車の台数も半端ではありません。道ばたには立派なショッピングセンターまでできています。時代は変わるものです。

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順調だったのはそこまで。右手に貯水池が見えるそのあたりから、延々と道路工事が続いています。立体交差にするために、直進をトンネルで通過させる計画なのでしょう。中国系の企業が請け負っているとみられる名称が入った重機が、深い谷のような切り通しを作っていました。そんな工事をしているところは、全く昔と変わらず、交通整理や迂回路は何もなし。ただただ砂埃を舞いあげて、右に左に、のろのろとそして激しく揺れながら車列は進みます。かつてのガーナらしくなってきました。

アクラを出て60キロほどの所に、ウィネバ(Winneba)交差点があります。ラウンドアバウトです。ここをアクラから来て左に折れると、海岸沿いのウィネバの町には以前は教員養成学校があり、わたしが働いていた地域からも、教員志願者が何名か学んでおり、訪問したものでした。その学校はいまでは、教育大学に発展していると聞きました。このあたりに到達すると、ケープコーストまでだいたい半分を来たことになります。ここまででなんとすでに2時間近くかかっています。つまりアクラの町が成長しすぎで、そこから抜け出すのに、とてつもない時間がかかるということです。でもそこから先は、順調でした。

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だんだん海岸線に道路が近づき、椰子の木が立ち並ぶようになると、ケープコーストです。夕方5時近くに到着し、まずはケープコーストのカテドラルへ。高い丘の上にあり、町と海を見下ろす場所です。すさまじく入り組んで、一方通行だらけの町中の道を抜けて、車はやっとの思いで高台の教会へ。(下の写真)

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このカテドラルの中には、ガーナ人司教として初代の大司教だった、ジョン・アミサ大司教の墓所があります。ケープコースト教区は1879年からの歴史がありますが、1950年に大司教区になり、それまで担当してきたアフリカ宣教会(SMA)の司教さんたちの最後のポーター師が大司教となりました。そしてガーナが独立したその日、1957年3月7日、ジョン・アミサ師が34歳の若さで、補佐司教に任命されました。その後1959年12月にアミサ師は大司教を引き継ぎました。(墓碑にも、最初のガーナ人司教と記されています)

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軍事政権とも堂々とやり合ったアミサ大司教は、様々な意味で有名で、何らかの不当な理由で警察に拘束された司祭の釈放を求めて、警察署の前に一晩中立ち続けた話などを、わたしもかつて働いていた当時に耳にしていました。特に当時政権を握っていた暫定国防評議会の議長、ローリングス氏(後に民政移管後の大統領)との不仲は有名でした。

1991年9月22日、移動中のアミサ大司教の車が事故にあい、大司教は68歳で帰天します。その数日後、ケープコーストの野外で行われたアミサ大司教の葬儀には、わたしも他の司祭たちと一緒に出かけました。葬儀ミサの説教は、現在91歳でご健在の、当時クマシ教区司教であったピーター・サポン名誉大司教。内容は忘れましたが、格調の高い説教だと感銘を受けたことだけは憶えています。そのミサの最中に、空軍の小型機が、葬儀会場の上空を何度か通過していきました。ローリングス議長はもともと空軍のパイロットです。本当かどうか分かりませんが、哀悼の意を表するためにローリングス議長が自分で操縦して飛んできたのだと、皆が言っていたのを憶えています。

そういえば、1990年頃に、神言会のある宣教師が帰天されたとき、彼から幼児洗礼を受け、子どもの頃には侍者もしていたローリングス議長は、通夜の行われている教会に深夜に数台の軍用車で乗り付け、しばし祈りを捧げて、疾風のように去って行った現場にいたことがあります。(下の写真が、エルミナの教会にあるアミサ大司教の胸像)

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その後を継いでケープコーストの大司教に任命されたのは、当時ローマに留学中だった、現在のピーター・タクソン枢機卿です。(一つ下の写真はエルミナの教会。その下の写真がタクソン枢機卿の胸像)

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この両者の胸像が、お隣のエルミナ教会に設置されていました。

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この日は、暗くなってからエルミナのガーナ最初のカトリック教会を訪問し、たまたま集まっていたロザリオグループの方々と祈りを共にすることができました。

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そして、そのままエルミナのホテルにみなさんと宿泊です。

続く

 

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2024年8月24日 (土)

週刊大司教第180回:年間第21主日B

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8月の最後の日曜日となりました。年間第21主日です。

今週は、シノドスの関連で、アジアと南米とアフリカの、それぞれの地域司教協議会連合体の責任者を集めて、シノドスについての準備の会合が、オロリッシュ枢機卿様の教区ルクセンブルグで開催されます。主催者によると、南の司教協議会連合の意見を集約するためとのことで、わたしもアジア司教協議会連盟(FABC)の事務局長として参加してきます。アジアからは、FABCの現在の会長であるミャンマーのボ枢機卿、来年からの次期会長であるインドのフェラオ枢機卿様、次期副会長のフィリピンのダビド司教様、さらに副事務局長のラルース神父様が参加し、さらに講師として、ボンベイのグラシアス枢機卿様も来られると伺っています。これについては、また記します。

シノドスはまもなく第二会期ですが、すでに何度も繰り返しているように、第二会期で何かを決めて、それで今回のシノドスが終わるのではありません。

従来のシノドスは、特定の課題について世界各国の様々な意見を集約し、それに基づいてローマの会議で議論して、教皇様への提言を作成するというプロセスでした。今回は全く異なります。何度も繰り返していますが、今回のシノドスは特定のテーマについて何かを決めることではなくて、霊における会話などを通じて教会共同体が共に霊的な識別をして、聖霊の導きを見極めるようになることを目指しています。

そのために、特に第二会期の準備では、草の根の共同体がそれぞれ何かを提言して、それを国などの単位でまとめ上げて、さらにローマで集約するという手段は採用されていません。それよりも、これから先に向かって、長期的な視点から、霊における会話を通じた共同識別を根付かせるために、何がその壁になっているかを見いだし、その壁を乗り越えるにはどうしたらよいのかの道を見いだすことを、まさに霊における会話を通じて話し合い識別するのが、この10月の第二会期です。

ローマに自分たちの意見が届いていない、反映していないとご心配されている方の声を聞きますが、それはこの第二会期の課題ではありませんのでご安心ください。そうではなくて、これから10月の会期が終わっても、将来に向かって、このシノドス的な霊的識別の方法を、いかにして根付かせていくのかを具体的に実践していくのがいまの課題です。教会の方向性の変革は、まだ始まったばかりです。今年の10月で終わりではありません。

したがって、先般シノドス特別チームが作成したハンドブックは、第二会期に間に合わせるために作成したのではなくて、将来を見越して、これから長期的に実践していくための手引きです。来年も再来年も長期的に使っていた抱くものです。この数ヶ月に慌てて実践するためではなくて、これから先何年にもわたって息長く実践することで、霊における会話による霊的識別を定着させるためのハンドブックです。

すでに東京教区においても、いくつもの小教区から追加で注文をいただいています。東京教区の宣教司牧評議会でも、毎回実践して、だんだんと当たり前の識別方法として定着させようとしています。来年以降の教区宣教司牧評議会では、5年目になる東京教区の宣教司牧方針の中間見直しを、霊における会話を通じて深めていくことを考えています。

ハンドブックは中央協議会のシノドス特設ページからPDFでダウンロードもしていただけます。どんどん利用して、多くの方に実践していただきたいと思います。司教協議会のシノドス特別チームでは、必要であれば、教区単位などの研修会のお手伝いをしたり、そのための講師を斡旋することも可能ですので、必要の際には、中央協議会までご相談ください。

また4月末に行われた、教区司祭のためのシノドスの集まりには、日本から大阪高松教区の高山徹神父様が参加してくださいました。高山神父様もシノドス特別チームのメンバーですが、各地の司祭の研修会などで、その貴重な体験をお話しくださいますので、お声がけください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第180回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

年間第21主日B
週刊大司教第180回
2024年8月25日

福音書は、弟子たちに対して自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。人々がイエスを預言者だとかメシアだとか褒め称えていた話を伝えたとき、イエスが弟子たちに、「それではあなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけた話が福音の他の箇所にありますが、今日もまたイエスは弟子たちに自ら判断するようにと迫ることで、わたしたちの信仰が、誰かに言われて信じるものではなくて、自らの判断と決断に基づいた信仰であることを明示しています。

自らをいのちのパンとして示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、多くの人々は理解することが出来ません。世の常識と全くかけ離れたところにイエスが存在しているからです。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。

ペトロの応えの特徴は何でしょうか。それは、ペトロ自身が体験し、納得した事実に基づいている自己決断の言葉であります。ペトロはイエスと出会い、イエスと旅路を共にする中で、イエスこそが永遠の命の言葉であると確信しました。誰かにそう教えられたのでもなく、どこかで学んできたことでもない。自分自身の「イエス体験」に基づいて、ペトロは自己決断をしています。

わたしたちにとって必要なのは、この自己決断に至るための、「イエス体験」、つまりイエスとの具体的な出会いです。

教皇様は、来年の聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

教皇様は、キリスト者の人生は希望と忍耐によって彩られているけれど、希望は人生の旅路の中でわたしたちをイエスとの出会いへと導いてくれる伴侶であると指摘されています。

わたしたちには、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」との出会いの中で、「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」において、そしてご聖体の秘跡において、主と直接に出会う機会が与えられています。

さらに教皇様が今回の聖年で示されるように、主における希望を抱きその希望を多くの人にもたらすことを通じて、わたしたちは主との出会いへと導かれます。

主との具体的な出会いを通じて、わたしたちは信仰における確信を深め、自らの決断のうちに、ペトロと共に、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と力強く応えるものでありたいと思います。

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