2026年1月10日 (土)

週刊大司教第239回:主の洗礼の主日A

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新しい年の最初の週刊大司教です。主の洗礼の主日となります。

2026年も「週刊大司教」の配信は、定期的に継続していく予定です。どうぞよろしくお願いします。以前にも記しましたが、毎週の配信は千人を超える方に見ていただき、時には二千人を超えることもあります。話しているわたしにも、製作している教区広報担当にとっても、多くの方が視聴してくださっていることは継続する力の源となっています。ありがとうございます。心から感謝申し上げます。皆様の主日に向けての祈りの一助になっているのであれば、幸いです。

また、「週刊大司教」や、このブログ「司教の日記」をご存じない方も多くおられると思いますので、ご覧頂いている皆様には、お知り合いの方に紹介などしていただけると幸いです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第239回、主の洗礼の主日のメッセージです。

主の洗礼の主日A
週刊大司教第239回
2026年01月11日

新しい年のはじめにあたり、みなさまにお喜びを申し上げます。

教皇フランシスコによって始められた25年に一度の聖年は、1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられ、終わりを迎えました。このたびの聖年は、聖年としての行事と共に、教皇フランシスコの帰天とレオ14世の選出という出来事が重なり、様々な意味で特別な年でありました。

その聖なる一年は終わりを迎えましたが、教皇フランシスコによって選ばれた「希望の巡礼者」というテーマは、教皇レオ14世に引き継がれ、これからも教会を導き重要なテーマとしてわたしたちに与えられています。わたしたちは、これからも、この混迷し暗闇に沈む社会の中で、希望を証しする巡礼者であり続けたいと思います。

マタイの福音は、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネの所へ出向き、洗礼を受けた様を記しています。神の子羊が洗礼を受けに来たことに驚き、躊躇する洗礼者ヨハネに対して、イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と述べています。

もちろん「正しいこと」とは、神の目において「正しいこと」、つまり神の定めた秩序の実現のために欠かすことのできない選択のことであります。そして、ヨハネが躊躇するのは、自分がそのような尊大な行動は選択できないという人間のごく当然の価値判断に依っているからです。つまり神の計画の実現には、人間の価値観を遙かに超える神の意志に従った行動を選択することが不可欠であることを、イエスご自身の行動が示しています。

「罪のゆるしを得させるために悔い改めの」水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、カテキズムによれば、「その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾」であり(カテキズム536)、罪人である人類に神ご自身が加わることで、水を通じてわたしたちにその贖いの業に与る道が開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

希望の巡礼者として、混迷する世界の暗闇の中で希望を証しすることは、それほどたやすいことではありません。神の平和を説き、人間の尊厳を護り、神の賜物であるいのちを守ることを主張することは、必ずしも現実社会の選択と轍を同じくする主張とは限りません。時に、福音に基づいて発言し行動することは、夢物語に生きている非現実的な主張と見なされることも少なくありません。

それでもわたしたちは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」という主御自身の言葉に励まされ、福音のメッセージを証しする巡礼者であり続けたいと思います。

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2026年臨時の枢機卿会@バチカン

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この1月7日と8日、バチカンにおいて臨時の枢機卿会(Extraordinary Consistory)が教皇レオ14世によって招集され、世界中から多くの枢機卿がローマに集まりました。

現在枢機卿は、80歳未満の教皇選挙投票権を持っている枢機卿が122名、80歳を超えているなど投票権を持っていない枢機卿が123名います。総勢245名となりますが、今回の枢機卿会には170名ほどが参加しました。中には非常に高齢で、しかしながら教皇様から委任された役目を果たそうと車椅子で参加された枢機卿様方もおられました。日本からは、前田枢機卿様とわたしが参加させていただきました。

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枢機卿会自体は、新しい聖人の認定などのために定期的に開催されていますが、これには基本的にローマに住んでいる枢機卿たちが参加しています。

それ以外に、新しい枢機卿が任命されるとその叙任式のために枢機卿会が開催され、これにはすべての枢機卿が招集されます。

これらとは別に、様々な課題について教皇様に意見を具申したりするために招集されるのが臨時の枢機卿会です。ベネディクト16世の頃までは、定期的に招集されていたと聞いていますが、教皇フランシスコは臨時の枢機卿会を招集されませんでした。

教皇フランシスコが帰天された直後、教皇選挙前に開催された枢機卿の総会では、新しく任命された枢機卿達がお互いを知らないことが指摘され、是非とも新しい教皇には一年に一度程度には臨時の枢機卿会を招集してほしいという意見が相次いで表明されていました。

そこで、教皇レオ14世は、聖年の扉が閉じられ、教皇フランシスコが定めていたすべての日程が終わった時を見計らって、このたびの臨時の枢機卿会招集となりました。

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枢機卿達に国務省から臨時の枢機卿会開催の通知が来たのが11月初めでした。参加するためには、往復の旅もローマでの宿も、すべて自分で準備する必要があります。バチカンからの支援はありません。今回は幸いにも、サンピエトロ広場に繋がる通りのそばにあるバチカンの宿舎の予約が取れ(多くの枢機卿が宿泊されてました)、往復の旅もターキッシュで確保できました。1月ですから、ヨーロッパ、特にドイツあたりは雪になって欠航が出ることがあり、それを避けるためにイスタンブール経由としましたが、予約の関係で帰途にはイスタンブールで9時間の乗り継ぎ待ちとなり、いまこのブログを、イスタンブールの空港の中で書いています。

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さて、枢機卿会開催の数日前に、国務省を通じてすべての枢機卿に教皇様からの手紙が届き、その中には、これからの教会が進むべき優先課題を明確にしたいので、四つの課題について意見を聞きたいと記されていました。

一つ目は、教皇フランシスコの「福音の喜び」をもう一度読み直して、それを宣教にどう生かしていくことができるのか。

二つ目は、教皇フランシスコの時代に定められた教皇庁改革に伴う諸改革について記した「ローマ教皇庁ならびに 世にある教会に対するその職務についての 使徒憲章『プレディカテ・エバンジェリウム(福音をのべ伝えなさい)』」について。その実施状況などをどう見ているのか。

三つ目は、シノドス性についてのシノドスに関して、その実りをどう生かしていくべきなのか。

四つ目が、様々な伝統を包括した典礼の今後についてどのように考えるのか。

これらの四つが掲げられていました。しかしたった二日で、大勢の枢機卿を集めてどうやってこの四つを扱うのだろうといぶかしく思っておりました。そうしたら、素晴らしい展開が待っていました。

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二日間で三回の霊における会話を行うプログラムとなっていたのです。一日目は午後からでしたので、ティモシー・ラドクリフ枢機卿の講話の後、わたしも参加したシノドスで懐かしいパウロ六世ホールに設置された丸テーブルに移動し、そこで八から九名の枢機卿が、霊における会話をすることになっていました。一回目では、四つの課題の中から優先順位をつけて二つを選択すること。二回目と三回目は、選択された二つの課題について、さらに深めることとなっていました。同時にすべての枢機卿は、教皇様に直接メールで意見書を送付することもできるとされています。

会場で渡された資料の一番上に、資料とは別の書簡があり、二日間、英語グループの一つでファシリテーターをするようにと命じられました。さいわいなことに、わたしがファシリテーターを務めることになったグループ9名は、すべて以前から存じ上げている枢機卿様達でしたし、このグループの書記に任ぜられていたのが、これまた旧知のスーピッチ枢機卿(シカゴ)でしたし、さらにシノドス経験者も多く、みなさんがよく理解されていて、3分や2分の発言時間を基本的には守ってくださったので、ファシリテーターの苦労は半減でした。

枢機卿達は言語別と共に、教皇庁などで働く枢機卿のグループと、教区司教を務める枢機卿のグループに分かれ、後者の教区司教を務める枢機卿のグループが9ありました。教皇様は、ローマにいる枢機卿の意見はいつでも聞けるので、今回は特にこの教区司教を務める枢機卿グループの声を聞きたいと言われ、霊における会話の後の発表も、基本的にはこの9グループの書記が行いました。

教皇様は、枢機卿会の冒頭で、みなさんの声を聞くために来ましたと言われましたが、最初から最後まで、よく耳を傾けてくださったと思います。結局、最初の霊における会話で選択されたのは、シノドスについてと福音の喜びについての、二つの課題でした。

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一日目は午後3時頃から7時まででしたが、二日目は、まだくらい朝の7時半からサンピエトロで教皇ミサ。その後会場で皆で朝食。9時15分から祈りと、グレック枢機卿のシノドスについての導入、そしてシノドスについての霊における会話となりました。

この日の昼食は教皇様が提供され、パウロ六世ホールのロビーに配されたテーブルについて全員で一緒に。さらにその後3時過ぎから、福音の喜びについてフェルナンデス枢機卿の導入後に、霊における会話。最後は、改めて二回のシノドスホールに集まり、教皇様のコメントの後、全員でテ・デウムを歌って、枢機卿会は終わりとなりました。

シノドス性について語り合った先のシノドスに参加し、現在もシノドス特別チームとして日本での実施に取り組んでいる者としては、今回教皇様が、教会にとっての司牧の優先改題を見定めるために霊における会話を採用されたことに、大きな励ましを頂きました。またシノドスの具体化についての異なる地域での取り組みや課題について聞くことができたのも、貴重な体験でした。教皇様の、耳を傾ける姿勢にも、学ぶところが多くあったと思います。

教皇様は、今年中にまた枢機卿会を開催し全員を招集する意向です。また毎年同じような枢機卿会を開催される意向も示されています。第二バチカン公会議以降、神の民としてともに歩んでいる教会が、さらにその姿勢を確立していく道が開かれているように感じた枢機卿会でした。

 

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2026年1月 1日 (木)

神の母聖マリア@世界平和の日2026年

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みなさま、新年明けましておめでとうございます。

2026年がみなさまにとって、神様の祝福に満たされた平和な一年となることをお祈りいたします。

1月1日は神の母聖マリアの祝日であり、世界平和の日でもあります。教皇様の世界平和の日のメッセージはこちらからご覧ください

以下、本日午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、新年最初のミサ、神の母聖マリアの祝日ミサの説教です。

神の母聖マリア
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年1月1日

新しい年、2026年の始まりにあたり、お喜びを申し上げます。

聖母マリアの人生は驚きの出来事によって彩られた人生です。天使ガブリエルによる救い主の母となるというお告げ自体が、ひとりの少女の人生にとっては大きな驚きですが、イエスの誕生に至る日々も様々な驚きの連続であったことが、福音に記された物語から感じ取ることが可能です。驚きだけではなく、その中でマリアは人生をかけた選択をし、神の計画に身を委ねる決意を固めていきます。

人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ、恐れや悩みも様々にあったことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがそういった一連の出来事に振り回されることなく、神の計画に信頼しながら、すべてを心に納めて、それらの出来事によって神が望まれる道はどこにあるのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

わたしたちが生きている現代社会は、様々な情報が人間の処理能力を超えて世界を駆け巡り、さらには誤った理解やねつ造された事実が飛び回るなど、一つ一つの出来事にわたしたちは取り込まれて振り回され、一喜一憂し、現実を直視して深く洞察することもできないままに反応してしまったりします。そのようなことが続く中で、落ち着いて考えれば他の選択肢もあるとは言え、両極端な言説や過激な行動が見受けられるようになりました。そんな時代に生きているからこそ、わたしたちは聖母マリアが、起こっている出来事を心に納め、神の意思と計画を思い巡らしていたその祈りの姿勢に習いたいと思います。

同時に聖母マリアは、単なる模範ではなく、わたしたち教会の母でもあり、歩みをともにしてくださる方でもあります。神は、人となられた神の御言葉、暗闇に輝く一筋の光として、わたしたちの希望の源ですが、聖母マリアは、その御言葉である御子イエスと歩みをともにされ、わたしたち教会と歩みをともにされる希望の母であります。

教皇フランシスコは「福音の喜び」の終わりに、聖母について詳しく触れていますが、そこにこう記されています。

「(マリアは)すべての者の母として、正義を生み出すまで産みの苦しみを味わうすべての民の希望のしるしです。マリアは、わたしたちの人生に同伴するために身近な存在になってくださる宣教者であり、母の愛を持って、わたしたちの心を信仰へと開きます。」

新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちに神の計画を探し求め、忍耐の内にイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道、すなわち聖霊の導きを共に祈りのうちに識別し、主とともに歩み、いのちの希望を掲げながら巡礼者としての歩みを続ける決意を新たにしたいと思います。

さて教会は、新年の第一日目を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。1974年、教皇パウロ6世は、「マリアーリス・クルトゥス」で、世界平和の日を、神の母聖マリアの祝日に合わせて設けた理由に触れ、「この聖なる母を通してこそ、わたしたちは生命の与え主を受けるにふさわしい者とされた」と記し、その上で「今一度天使たちによる喜ばしい知らせに耳を傾け、平和の女王を通じて、このうえない賜物である平和を神に祈り求める」日であると呼びかけられました。

今日、世界の平和を考える時、ある研究所の報告では現在56もの地域紛争が起こっており、これは第二次世界大戦以降最も多いと言われています。また国境を越えて紛争に関与している国は92カ国にも及んでいると言われます。ガザやウクライナでの状況は言うにおよばず、アフリカでも、そしてアジアでも、小規模な紛争は頻発し、それが将来的に大規模な紛争へと繋がっていく可能性を否定することはできません。武力の行使は真の平和の確立には繋がりません。暴力が暴力を呼び起こす、負の連鎖が始まるだけです。

世界平和の日にあたって、紛争に巻き込まれている各地に平和が訪れることを祈りたいと思います。暴力の波に巻き込まれていのちの危機に直面し、絶望の暗闇の中でいのちをつないでいる兄弟姉妹のために祈りたいと思います。

教皇レオ14世は世界平和の日にあたり、「あなたがたに平和があるように――「武器のない平和、武器を取り除く平和」に向けて」と題したメッセージを発表されています。

2025年5月8日夕刻。第267代の教皇に選出されたレオ14世は、集まっていた多くの人たちに、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられました。その上で教皇様は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と、武器のない平和を呼びかけられました。

教皇のこの最初の呼びかけは、単なる挨拶の言葉としての「平和」ではありません。なぜなら、その最初の挨拶は、教皇選挙後の慌ただしさの中で即興で考えたスピーチではなく、その日の午前中に行われた二回の投票が終わり昼の休憩となったときに、すでに枢機卿たちの投票行動の推移からご自分が選出される可能性があることを感じたプレボスト枢機卿が、仮にそうなった場合に備えて準備されたスピーチだったからです。いわば教皇レオ14世にとっての、一番最初の施政方針演説でありました。この最初の呼びかけを通じて教皇レオ14世は、混迷を深める現代世界において、平和の確立こそが、教会の最優先課題であることを明確にされました。

今年のメッセージに、教皇レオ14世はその最初の言葉に触れて、次のように記しています。「『あなたがたに平和があるように』。わたしはローマ司教に選ばれた晩から、自分のあいさつの中に、この世界中でともに唱えられる告知を含めることを望みました。わたしたちは繰り返して述べたいと思います。これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです。神はわたしたち皆を無条件で愛してくださいます」

その上で教皇様は、「平和は、目的である以前に、存在であり、歩みです。嵐に脅かされた小さな炎のように内外で反対を受けても、平和をあかしした人々の名前と歴史を忘れることなく、平和を保ってください」と呼びかけ、どんな困難に遭ってもくじけることなく、平和を証しすることをやめないようにとわたしたちを招いています。

混乱の中でもすべてを心に留め、取り乱すことなく神の御心を識別しようとした聖母に倣い、わたしたちも平和を求めて諦めることなく、神の御心を識別しながら、ともに歩んで参りましょう。いのちを護り、すべての人の尊厳を護る世界を実現していきましょう。

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2026年 年頭の司牧書簡

希望の灯火を絶やすことのないように
2026年1月1日

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功 枢機卿

 

 新しい年の初めにあたり、東京教区のみなさまに、ご挨拶申し上げます。

一昨年12月、教皇フランシスコから枢機卿への叙任を受けました。その後、昨年2025年の春に教皇フランシスコの帰天、教皇選挙への参加、新しい牧者レオ14世の誕生、さらに10月9日のローマでの枢機卿名義教会への着座式と、昨年一年は普段にはない行事への対応で教区を不在にすることが続いてしまいました。その間、多くの方にお祈りと励ましを戴いたことに、心から感謝申し上げます。

着座式のためにローマを訪れた際、ジェズ教会を訪問しました。イエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラが葬られているこの聖堂には、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。わたしはローマを訪れるたびごとにこの教会を訪れ、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置された祭壇の前で、感謝の祈りを捧げることにしています。

聖なる宣教師にならって

言うまでもなく、1549年に日本に始めて福音をもたらしてくださった宣教師です。祈りながら心に浮かんだのは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。今の時代であれば、宣教師として派遣されるにしても、事前の行き先について情報を集めることが可能です。テクノロジーが進むにつれて、さらにリアルな情報を手にすることも、また行き先の方と事前に打ち合わせをすることも可能でしょう。

しかしその便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を現代社会から奪ってしまったような気がしています。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気がないのです。

かつて大海原に乗り出し、遙か彼方のアジアに福音をもたらした聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気であったのだと思います。無計画な蛮勇ではなく、信仰に基づく決断の勇気です。

シノドスの道を歩む教会は、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せる教会です。どうしても緻密な計画を立て、明確な方向性がなければ先に進むことに躊躇してしまう現代社会だからこそ、聖霊に身を任せる勇気が必要です。

聖年の終わりにあたり

「希望の巡礼者」をテーマに掲げた聖年は、各地の教区で昨年末の聖家族の主日に捧げられた閉幕ミサと、ローマにおいては1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられて閉幕します。

教皇フランシスコは、混迷を極める現代社会において神の民が旅路を歩み続けるために、二つの大切なことを提示されました。その一つは、教会とは一体どういう存在なのかを問いかけるシノドスの歩みであり、もう一つが、25年に一度の聖年の機会を捉えて、神の民が希望を掲げて歩みを続ける巡礼者であり続けようという呼びかけでした。

教皇フランシスコは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」と記し、この世界を旅するわたしたちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されています。同時に教皇フランシスコは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されました。

新しい牧者として昨年5月に教皇に選出され、サンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せた教皇レオ14世の最初の言葉は、「あなた方に平和があるように」でありました。

その上でレオ14世は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と呼びかけ、平和の確立こそが現代社会における教会の最優先の課題であることを明確にされました。平和の確立こそが絶望の闇を打ち払い、希望を生み出します。いま世界は希望を必要としています。絶望の暗闇を打ち破る希望を必要としています。

ウクライナ、ミャンマー、ガザなど、混迷を深め絶望をもたらし続ける暴力の嵐は止まるところを知りません。神からの賜物であるいのちは、日々、危機に直面し続けています。

先行きへの不安を抱え、将来への道筋が不透明な世界は、いまや自己保身の利己主義的な価値観に席巻され、異質な存在への排除の力と同調圧力が強まっていると感じます。

いのちは神から与えられた賜物です。神の似姿としての尊厳に満ちあふれています。いのちは暗闇の中に輝く希望の源です。いのちへの暴力は、どのような形であれゆるされてはなりません。いのちはその始めから終わりまで、例外なく、人間の尊厳とともに護られなくてはなりません。いのちに対する暴力こそが世界から希望を奪い去り、絶望の闇の支配を許しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いているわたしたちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。それだからこそ、わたし達はともに巡礼者として希望を掲げ、それをあかしする旅路を続けていきたいと思います。

「希望の巡礼者」は聖年の閉幕とともに終わってしまうのではありません。いのちに対する暴力が続く限り、「希望の巡礼者」たちの教会共同体にはこの世の荒波の中で希望のあかしとなる使命があるのです。希望の灯火を絶やすことのないように、それぞれの場で取り組みを続けて参りましょう。

シノドスの歩みは、希望をあかしする道です。聖霊がどこにわたし達を導いていくのかを、事前に理解することはできません。兄弟姉妹と歩みをともにし、互いに支え合い、ともに祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、わたし達を絶望から解き放し希望を生み出す道です。

聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、わたしたちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。その決断こそが、シノドスの歩みを進めていきます。

シノドスの道

2028年10月の教会総会に向けて、それぞれの小教区や教区で、理解と実践を深めることが求められています。シノドス第二会期の最後に出された「最終文書(シノドス流の教会)」は、教皇文書としてわたし達に与えられた羅針盤です。

司教団のシノドス特別チームは、先日、2028年10月に向けてのロードマップを公表し、取り組みを呼びかけています。これに従って、東京教区での取り組みも深めていきたいと思います。まずは「シノドス流の教会、交わり、参加、宣教《シノドス最終文書≫」を是非ともご一読ください。その上で、聖霊の導きを識別するための実践である「霊における会話」に慣れ親しんでください。「霊における会話」ができるようになることがシノドス性の確立ではありませんが、聖霊の導きを見いだすためには有用な手段です。今後、教区の中で互いに分かち合っていただくテーマなどを、教区のシノドス担当から、提示させていただきます。

「最終文書」に記されていることについて具体的にどのような選択をするのかは、それぞれの共同体が置かれている社会の現状や生きているコンテキストによって異なっています。しかしわたしたちの教会がどこを向いて歩んでいるのか、どのような困難を抱えているのか、そういうことを共有しながら、ともに歩み、ともに祈り、ともに識別するすべを身につけることは重要であると思います。

宣教協力体の見直しについては歩みが遅くて大変申し訳ありませんが、総代理であるアンドレア司教様のリーダーシップで、昨年一年は、第二期(2023年・2024年)宣教司牧評議会での話し合いに基づいて、教区を大きく七つのグループに分け、訪問する形で具体的なそれぞれの事情に耳を傾ける作業を進めました。歴史的な経緯があることと、具体的に運用が成功している協力体とそうではない協力体もあることから、見直し作業は簡単ではありませんが、今年中に何らかの提案ができるかと思います。それにあわせる形で、宣教協力体の存在と密接に関連する宣教司牧方針の中間見直しと宣教司牧評議会のあり方の見直しを進めて参ります。

皆でともに

社会全体の少子高齢化が激しく進み、教会にもその現実が重くのしかかっています。同時に、外国籍信徒の方々も、教区が公式に統計として出している信徒数に匹敵する数の方々が教区内にはおられると想定しています。長期に一緒に暮らす方も、短期の滞在の方もいるとはいえ、公式統計上は9万人から10万人の間の信徒数の東京教区ですが、実際にはその倍程度には、兄弟姉妹が存在しているものと推定されます。この方々の存在は、東京教区にとって希望の光であるとともに、一緒に教会共同体を育てていく仲間であります。他人ではなく兄弟姉妹です。

そういった中で、教会は秘跡の機会を提供するだけにとどまらず、信仰を同じくする兄弟姉妹による交わりの共同体であることを、改めて意識したいと思います。教会は、司教だけでは成り立ちません。司祭だけでも成り立ちません。修道者だけでも成り立ちません。同じキリストへの信仰に招かれ、同じ洗礼を受け、同じ信仰を告白する兄弟姉妹は、司教であろうと司祭であろうと修道者であろうと信徒であろうと、どの国の出身であろうと、皆同じキリスト者として一緒に教会共同体を作り上げる神の民です。

誰かが育んですべてを準備してくれた教会で霊的サービスを受けるお客様になるのではなく、一緒になって共同体を育てる道に、どうかあなたの力を貸してください。みなさん、お一人お一人の力と助けがなければ、教会は成り立ちません。それがシノドス的教会です。互いを大切にしてください。誰かに助けてほしいと思っているのはご自分だけでなく、教会に集うすべての兄弟姉妹が、それぞれの形で何らかの助けを必要としています。互いの尊厳を尊重し護りながら、耳を傾け合いましょう。助け合いましょう。祈りをともにしましょう。一緒に教会を育み、豊かにしていきましょう。一緒に歩みましょう。一緒に聖霊の導きに身を任せましょう。

希望の灯火を絶やすことのないように、歩みをともにしてくださるあなたの存在が必要です。一緒に歩んで参りましょう。

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謹賀新年

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皆様、新年、明けましておめでとうございます。

新しい年、2026年が神様の祝福に満たされ、神の平和が実現する年となりますよう、また皆様の上に聖霊の導きがありますように、心からお祈りいたします。

この一年もまた、教会のために、東京教区のために、そして私を含め司祭修道者のためにも、お祈りをお願い申し上げます。

年頭に当たっての司牧書簡を記しました。1/2月号の教区ニュースに掲載されておりますので、またこのブログにも掲載しますので、ご一読いただければと思います。

また年初、1月7日と8日には、教皇レオ14世によって臨時の枢機卿会が招集されており、私もローマに出かけて参ります。教皇様のために、また集まる枢機卿たちのためにもお祈りくださいますように、お願い申し上げます。

祝福に満ちた一年の始まりとなりますように。

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2025年12月28日 (日)

2025聖年閉幕ミサ@東京カテドラル

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世界中の各教区で、本日、聖家族の主日に、聖年閉幕ミサが捧げられています。

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東京教区では、本日12月28日午後3時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、閉幕ミサを捧げました。

以下、本日ミサの説教原稿です。

2025年聖年閉幕ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年12月28日

教皇フランシスコによって、昨年12月24日にバチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉が開かれ、2025年聖年が始まりました。そのテーマは、「希望の巡礼者」であります。

それから一年、世界中の各教区の司教座聖堂では、本日聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の閉幕に感謝を捧げるように求められています。その後、年明けの2026年1月6日に、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられることで閉幕となります。

教皇フランシスコは聖年開幕を告げる文書の中に、「キリスト者の希望の光が、すべての人に向けられた神の愛のメッセージとして、一人ひとりに届けられますように。教会が、世界のあらゆる場所でこの知らせを忠実にあかしすることができますように」と、この一年の聖年への期待を記されていました。果たしてこの一年、わたしたちは希望の光をすべての人に届けることができたでしょうか。

教皇フランシスコは、同じ文書の冒頭で、教会は「希望を神の恵みからくみ取ることに加え、主がわたしたちに差し出す、時のしるしの中にも希望を再発見するよう招かれて」いると強調されました。その上で教皇様は、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と、教会全体がいのちの危機に直面する多くの兄弟姉妹に手を差し伸べともに歩む教会であるようにと招かれていました。

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聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきたことを象徴し、全人類を表現しているといわれます。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を象徴しています。さらに先頭の人物は十字架にしっかりと捉まっています。皆の足元には人生の旅に立ち向かう困難の波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は船の「いかり」となり、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないように支えてくださっていることを象徴するこのロゴマークは、まさしくいま教会が追い求めているシノドス的な教会のあり方を象徴しています。シノドス的な教会は、わたしひとりが希望の光を届ける者となるのではなく、教会共同体全体が希望をもたらす巡礼者として、この世界を共に旅する者となることを求めています。

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バチカンの聖ペトロ大聖堂前の広場左手に、大きなブロンズの群衆像が設置されています。何人もの人が固まって立ち尽くす姿は、ボートに乗って避難する人々の姿だと言われています。その群衆像のタイトルは英語で、「Angels Unawares」と呼ばれています。その意味するところは、ヘブライ人への手紙13章2節に記されている次の言葉です。

「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

 「気づかずに天使たちを」というのがその群衆像の名称です。ボートの上に立ち尽くす様々な人たちの真ん中に、天使の羽が見えています。よく見るとボートの右側側面には、大工道具を持った男性が幼子を抱えた女性と一緒に立っている姿が見えます。それが聖家族だと言われています。

本日は聖家族の主日でしたが、本日の主日の福音は、幼子が誕生した馬小屋での希望と平和に満ちた情景ではなく、父ヨセフが、「子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と天使からのお告げを受けて、いのちを守るために必死に行動した様子を記しておりました。広場におかれたこの群衆像は、安全を求めて避難する多くの人たちの姿を描き、その人たちへの心配りを忘れてはならないことを明示するために制作されています。

長年、他の彫刻がおかれることのなかった聖ペトロ広場にこの群衆像を設置するように命じたのは、教皇フランシスコです。絶望の淵にあって希望を求めて旅を続ける人々の中には、天使も、そして聖家族も、すなわち主ご自身がおられるのだということを、あらためてわたしたちに自覚させるためでありました。救いを求め、安全を求め、不安の内に旅を続ける人々に、手を差し伸べるようにと促す教皇フランシスコの思いでありました。

2023年10月19日、シノドス第16回総会の第一会期中に、教皇フランシスコは参加者全員をこの群衆像の前に集め、祈りの集いを行われました。その祈りの集いで、教皇フランシスコはこう述べておられます。

「よきサマリア人のように、私たちはこの時代のすべての旅人にとっての「隣人」となるよう、彼らの命を救い、傷を癒し、痛みを和らげるよう呼ばれています。悲劇的なことに、多くの人々にとっては手遅れであり、私たちは彼らの墓、もし墓があるとしても、その前で泣くことしかできません。あるいは、地中海が彼らの墓となってしまいます。しかし、主は彼ら一人ひとりの顔を知っておられ、それを忘れることはありません」

その上で教皇フランシスコは、難民の保護に関してご自身が何度も繰り返された四つの行動、すなわち「受け入れ、保護し、推進し、統合する」を繰り返し、教会はそれを実行する存在でなければならないと強調されました。

今日、聖家族は、共に歩く誰かを必要としています。主ご自身がその中で、誰かの心が向けられること、そして手が差し伸べられることを待っています。人と人との心からのかかわりこそが、希望を生み出すために不可欠です。

暴力が支配し、いのちを危機にさらす世界は、絶望を生み出す暗闇であります。わたしたちの世界は、いま、暗闇を打ち破り絶望を取り去る希望を必要としています。わたしたちはこの聖年が終わったからと言って、希望をもたらす巡礼者であることをやめるわけではありません。いまの世界には希望が必要です。多くの人の心に、希望をもたらす業を続けていきましょう。

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教皇フランシスコは、聖年開幕の文書の最後に、次のように記されています。

「今より、希望に引き寄せられていきましょう。希望が、わたしたちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。わたしたちの生き方が、彼らに「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27・14)と語りかけるものとなりますように。主イエス・キリストの再臨を信頼のうちに待ちながら、わたしたちの今が希望の力で満たされますように」

わたしたちは希望の巡礼者です。わたしたちはこれからも希望の巡礼者として、歩みを続けて参りましょう。

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2025年12月27日 (土)

週刊大司教第238回:聖家族の主日A

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暦の上での今年最後の主日は聖家族の主日です。

そして今日、世界中の教区で、聖年の閉幕ミサが行われます。希望の巡礼者としてのわたしたちの歩みは終わることはありません。これからもいのちを生きる希望を多くの人に証ししていくたび日であり続けたいと思います。

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今日の週刊大司教のメッセージの中で、バチカンにおかれている群衆像について触れています。ボートの上に乗って避難する多くの人を守るように、その中に天使の羽が見えています。そして真ん中あたりには、大工道具を持った男性と子どもを抱えた女性の姿があります。聖家族です。

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メッセージでも触れましたが、2023年10月のシノドスの最中に、教皇フランシスコは、シノドス参加者を招いてここで夕べの祈りを捧げ、いのちを守るために旅を続ける人に手を差し伸べる様にと呼びかけられました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第238回、聖家族の主日のメッセージです。なお週刊大司教は、来週はお休みで、1月11日から再開です。

聖家族の主日A
週刊大司教第238回
2025年12月28日

バチカンの聖ペトロ大聖堂前の広場左手に、大きなブロンズの群衆像が設置されています。そのタイトルは英語で、「Angels Unawares」と呼ばれています。その意味するところは、ヘブライ人への手紙13章2節に記されている次の言葉です。

「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

「気づかずに天使たちを」というのがその群衆像の名称です。それはボートの上に立ち尽くす様々な人たちの姿で、その真ん中に天使の羽が見えています。よく見ると真ん中に、大工道具を持った男性が幼子を抱えた女性と一緒に立っている姿が見えます。そう、聖家族です。

本日の福音は、幼子が誕生した後、父ヨセフが、「子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と天使からのお告げを受けて行動した様子が記されていました。広場におかれたこの群衆像は、安全を求めて避難する多くの人たちの姿を描き、その人たちへの心配りを忘れてはならないことを明示するために制作され、教皇フランシスコによってそこに置かれています。絶望の淵にあって希望を求めて旅を続ける人々の中には、天使も、そして聖家族も、すなわち主ご自身がおられるのだということを、あらためて自覚させる群衆像です。

2023年10月19日、シノドス第16回総会の第一会期中に、教皇フランシスコは参加者全員をこの群衆像の前に集め、祈りの集いを行われました。その祈りの集いで、教皇フランシスコはこう述べておられます。

「よきサマリア人のように、私たちはこの時代のすべての旅人にとっての「隣人」となるよう、彼らの命を救い、傷を癒し、痛みを和らげるよう呼ばれています。悲劇的なことに、多くの人々にとっては手遅れであり、私たちは彼らの墓、もし墓があるとしても、その前で泣くことしかできません。あるいは、地中海が彼らの墓となってしまいます。しかし、主は彼ら一人ひとりの顔を知っておられ、それを忘れることはありません」

その上で教皇フランシスコは、「受け入れ、保護し、推進し、統合する:これが私たちが実行しなければならない働きです」と呼びかけられました。

今日、聖家族は、共に歩く誰かを必要としています。主ご自身がその中で、誰かの心が向けられること、そして手が差し伸べられることを待っています。

神のことばである幼子イエスは、家族のうちに誕生しました。幼子イエスは、聖ヨセフと聖母マリアによって大切に育てられ成長していきました。聖なる家族が救いの歴史において重要な役割を果たしたという事実が、家族という存在の持つ役割の大切さを教えています。現代ではさまざまな形態の家族が存在するとは言え、人と人との繋がりの中で、互いに支え合い助け合う連帯の心を育む場として、家族という共同体は重要な意味を持っています。

同時に、いのちの危機に直面し、助けを求めている家族も多く存在しています。その危機は紛争や政治や経済に起因する暴力によってもたらされ、家族を崩壊の危機に追い込みます。

神からの賜物であるいのちが、当然のように守られる世界を目指したいと思います。

 

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2025年12月24日 (水)

主の降誕、おめでとうございます

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降誕祭にあたり、みなさまにお喜びを申し上げます。

みなさまにとって、またみなさまのご家族や友人のみなさまにとって、希望の光が心にともされるクリスマスとなりますように。

以下、本日午後7時半、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主の降誕夜半ミサの説教原稿です。

主の降誕(夜半のミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年12月24日

暗闇に輝く小さな光は、わたしたちの希望の源です。闇が深ければ深いほど、たとえどんなに小さな光でも、わたしたちの心には安心が芽生えます。心の安心は不安と絶望からわたしたちを解放し、心に希望が生まれます。暗闇に輝く小さな光は、わたしたちの希望の光です。

暗闇がもたらす絶望は、わたしたちが前に進もうと一歩を踏み出す勇気を心から奪い去ります。絶望は不安を恐怖に変えてしまいます。恐怖にとらわれた心は、未知の世界へと歩みを進めるよりも、勝手知ったる過去の体験へと戻ることを促します。

幼子イエスの誕生を記す福音には、暗闇の中で羊飼いたちに希望と喜びのメッセージを伝える天使たちの言葉を記しています。天使は「恐れるな」と、闇の中で絶望にとりつかれ、前に進む勇気を失った世界に対して、恐れを取り除く希望の光が与えられたことを告げています。

「恐れるな」と言う天使の言葉は、今宵、この暗闇の中、イエスの誕生を記念して集まったわたしたちにも向けられています。暗闇に輝く小さな光は、恐れを取り除き、闇に打ち勝ち、まだ知らない未来に向かって歩みを進める勇気を生み出す、希望の光であります。クリスマスは、わたしたちが生きる希望を取り戻すために恐れを打ち破る勇気を心にいだく日でもあります。

この夜、誕生したばかりの幼子は、父と母と共に旅の途上にありました。加えてその日、この聖なる家族には、安心して泊る場所さえなかったと福音は伝えています。心の安まらない暗闇の状況で不安を抱える父と母。その家族に新しいいのちが誕生します。この状況の中で、いのちの誕生という人生における重大な出来事に直面したときに、この聖なる家族が抱えた不安は、どれほどだったことでしょう。助けてくれる知り合いとて見つからない旅の途中で、どれほどの不安を抱えていたことでしょう。

その不安を打ち払うために、神が用意されたのは、宿でもなければ食事でもなく、ともに歩む兄弟姉妹との出会いでありました。それこそが、あの夜、羊飼いたちにイエスの誕生の知らせがもたらされた一番の理由です。孤独と不安を打ち破る、共に喜びを分かち合う兄弟姉妹の登場です。闇を打ち破り不安と絶望を払拭する希望は、ともに歩む兄弟姉妹との出会いの中で生まれてきます。いのちを生きる希望は、ともに歩む兄弟姉妹との出会いの中で生まれます。

教皇レオ14世は12月14日、聖年の行事の一つである受刑者の祝祭ミサで説教し、次のように強調されました。

「だれ一人として失われることがありませんように。すべての人が救われますように。これこそが神の望みです。これこそが神の国です。これこそが世における神の業の目的です。降誕祭が近づく中で、わたしたちも揺るぎない決意と信頼をもって、ますます強く神の抱く夢を抱こうではありませんか。わたしたちはどんな困難を前にしても一人きりではないことを知っているからです。主はすぐ近くにおられます。主はわたしたちとともに歩まれます。主がわたしたちのそばにおられるとき、つねに何かすばらしいこと、喜ばしいことが起こるのです」

聖母マリアと聖ヨセフ、そして誕生したばかりのイエスという聖家族は、いのちをつないでいくことに不安を感じていました。暗闇の中で光を求めていました。その光は天使たちによって、そして天使に導かれた羊飼いたちによって聖なる家族にもたらされました。

同じように不安を抱え、心細さのなかで不安を抱えながら旅を続ける家族が、いまの世界にはどれほどいることでしょう。暴力的な出来事に直面し、闇の中をさまよっているいのちが、一体どれほどあることでしょう。誰も助けてくれない。どこにも頼る人がいない。孤独の闇の中で、希望を失い、絶望に支配されているいのちがどれほどいることでしょう。

しかし神は、「だれ一人として失われることがありませんように。すべての人が救われますように」と願っています。その神の願いを実現するためには、暗闇の中で光を届ける人が必要です。ともに歩もうとする人が必要です。いのちをまもるためによりそい、手を差し伸べ、光を届ける人が必要です。

紛争の地にあって、毎日のいのちの危険から逃れるために、旅に出ざるを得なかった人。政治の対立に翻弄されて、生きる場を失った人。国際関係の波間で、人間の尊厳を奪われ、自らの意思に反して旅に出ざるを得なかった人。厳しい経済環境の中で、生きるために旅に出る選択をせざるを得なかった人。愛する家族と一緒になるため、愛する人と一緒に生きていくために、法律の枠を超えて旅に出る人。多くのいのちが、先行きの見えない暗闇の中で、さまよっています。光を求めています。希望を求めています。

自分の存在を忘れられ、孤独のうちに取り残されるとき、人はいのちを生きる希望を失います。世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプや、経済的に困窮する社会の現実の中で、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいる、その声が耳に響いてこないでしょうか。 

クリスマスのお祝いは、明るいイルミネーションに照らされることで、なにやら明るく楽しいイベントになっていますが、その理由は、暗闇の中で輝く光が、心の不安を打ち破り希望を生み出す力となることを実感するために他なりません。喜びは、多くの人と分かち合う喜びであってほしいと思います。光は多くの人と分かち合われる光であってほしいと思います。ひとり一人の心に芽生える希望は、最大の希望、すなわち神の救いへと繋がる希望であってほしいと思います。

教会は、人間のいのちは神からの賜物であると信じています。聖書の冒頭、創世記に記された天地創造の物語から、人のいのちには神の似姿としての尊厳があり、またそれは「互いに助け合う者」として創造されたと信じています。そうであるならば教会は、神からの賜物であるいのちを守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす紛争が勃発する社会に対して、互いの尊厳をまもり、違いを尊重し、弱い存在を支え、声なき声に耳を傾け、誰ひとりとして排除されることなく、忘れ去られることのない世界を実現するために、共に歩みを続ける教会でありたいと思います。

クリスマスおめでとうございます。この喜びを、希望を、一人でも多くの人と分かち合うことができますように。共に希望を心に抱いて、最大の希望である神に向けて、ともに歩んでいくことができるように、常に努力を続けるものでありましょう。

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2025年12月20日 (土)

週刊大司教第237回:待降節第四主日A

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待降節の最後の週に入り、まもなくクリスマスです。どうか良いクリスマスと、祝福に満ちた年末年始をお迎えください。

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目黒教会では毎年恒例の降誕祭に向けたノベナミサ、シンバンガビが行われています。本来は早朝のミサということですが、日本の社会事情を考慮して、前晩、午後7時から行われます。わたしは12月15日月曜のミサを司式。翌日は教皇大使、三日目はアンドレア司教様です、その後、いろいろな神父様につながれて。降誕祭への準備が進められています。ミサは英語でしたので、主にフィリピン出身の皆さんを中心に、聖堂には一杯の方が集まり、ミサに与られました。

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なおすでにご案内かと思いますが、聖年の閉幕ミサが、世界中の教区で、12月28日の聖家族の主日に捧げられることになっています。その後、1月6日、公現の祝日に教皇様が聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を閉めることによって、聖年は正式に閉幕となります。このスケジュールは、聖年のはじめから決まっていたものです。

東京教区では、12月28日午後3時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、わたしが司式して閉幕ミサを行います。

12月28日から1月6日までの間、つまり年始年末に聖年は終わっているのか続いているのか、お問い合わせがありますが、一応、それぞれの教区では12月28日で閉幕です。しかしながら、教会全体としては1月6日が聖年の最後の日です。ロゴやスタンプなどは、1月6日までとされてください。なお聖年のテーマソングを歌い続けること自体には何も問題ありませんので、ミサなどで使いたい場合は、遠慮なく歌ってください。聖年が1月6日の教皇様による閉幕の後であっても、歌っていただいて何も問題はありません。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第237回、待降節第四主日のメッセージです。

待降節第四主日A
週刊大司教第237回
2025年12月21日

降誕祭を目前にした今日、典礼は霊的な準備の仕上げをするかのように、わたしたちに「神は我々と共におられる」ことを、繰り返し伝えます。

イザヤの預言はまさしく「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と記します。マタイ福音はこのイザヤの予言を引用しながら、イエスの誕生の次第を記しています。

神は、わたしたちと共におられます。神がわたしたちひとり一人と歩みを共にしてくださるのですから、当然神を信じるわたしたちは兄弟姉妹として、ともに歩みます。シノドス的教会です。ともに歩む神の民です。その中心には、インマヌエル、神が共におられます。

救い主の母となることを天使に告げられた聖母マリアが、その事実を冷静に受け止め、謙遜のうちにたたずみ、しかし同時に他者を助けるために行動したように、夫であるヨセフも、天使によって告げられた神の思いを受け止め、それに信頼し、謙遜のうちに行動します。この二人の謙遜さ、勇気、そして神への信頼における行動の選択があったからこそ、救い主の誕生が現実のものとなりました。

「天よ、露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ開いて救い主を生み出せ」

今日の典礼の入祭唱に記されるイザヤ書の言葉は、わたしたちがもっとも待ち望んでいること、すなわち救い主の誕生を直接言及しています。主の降誕を待ち望んでいるわたしたちは、雲が露をこの地上にしたたらせるように、神の恵みがわたしたちを包み込み、そのわたしたちの間から救い主が誕生するのだと言うことを確信しています。

天から露のように降り注ぐ神の恵みは、それを受けた人の謙遜さ、勇気、信頼を通じた行動によって、初めて実を結びます。わたしたちの決断と選択と行動が伴わなければ、神が豊かに降り注がれているその恵みを、わたしたちは無駄にしてしまいます。神が人となられともに歩まれたように、わたしたちも既成の概念にとらわれることなく殻を破り、神がそうされたように、ともに歩み支え祈り合うこと、すなわちシノドス的な教会共同体を構成することが、まさしくいま求められています。

暗闇の中を希望を求めてさまようわたしたちは、一つのことを確信しています。それは、神がわたしたちとともにおられるという確信です。見捨てられることがないという確信です。神はご自分が愛を込めて創造された賜物であるいのちを見捨てることは決してない。常にわたしたちとともに歩んでくださる。旅する神の民の真ん中に、御聖体とみ言葉を通じて、主は現存される。その確信がわたしたちに希望をもたらします。共におられる神は、わたしたちの希望です、わたしたちは、その希望を掲げ分かち合うために巡礼の旅路を続ける、希望の巡礼者です。

間もなく降誕祭を迎えます。主がわたしたちと共にいてくださる事実を、降誕祭の喜びのうちにあらためて黙想し、主への信頼のうちに、その希望の光を暗闇の中でともに掲げて巡礼者としての旅路を歩み続けましょう。

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2025年12月13日 (土)

週刊大司教第236回:待降節第三主日A

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待降節は後半に入り、主の降誕に焦点が当てられます。

待降節前のノベナが行われる教会もあることだと思います。重要な典礼上の祝日や、意向のために、九日間連続で祈りをささげることを、「九」のラテン語からとってノベナと呼ばれており、様々な機会にノベナが行われます。かつて修道会で生活をしていた頃には、特に神学院共同体でクリスマス前のノベナを晩の祈りに行っていましたが、小教区などでは、主にフィリピン出身の信徒の共同体が、シンバンガビと呼ばれるクリスマス前のノベナを行っています。フィリピンでは早朝に行われると伺いましたが、東京教区内のいくつかの小教区では、夕方に行われています。メッセージでも触れましたが、私も毎年、目黒教会で晩7時に行われているシンバンガビのミサを一度は捧げるようにしています。英語ミサですが、よろしければご参加ください。今年は12月15日の夜7時が、私の司式です。

今回の香港教区創設80年のお祝いの機会に、香港で働く30名ほどの神言会会員と出会うことができました。香港の司祭養成共同体は郊外の3階建て一軒家の半分を改装して設置されていましたが、このたび隣の部分も購入でき、一棟すべてを共同体に使うことができるようになったそうです。30年来の悲願だったとのことでした。

共同体との昼食後に、数名と一緒に香港郊外の塩田梓島を訪問することができました。釣り客相手の店やシーフードレストランが並ぶ港でモーターボートをチャーターして海を渡り、10分ほど。

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1875年に創設された神言会の最初の中国宣教師であった聖ヨゼフ・フライナデメッツが、中国本土に向かう前にこの島に渡り、1879年に聖堂を建て、二年間司牧をされた地です。1881年に聖人は山東省に移動市、その後中国本土の宣教で活躍されました。150年近い歴史を持つ聖堂は、史跡として指定されているとのこと。

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いまではこの島に住む人はいなくなったものの、塩田事業は続いており、また聖堂は香港教区の巡礼地として大切にされているとのこと。下の写真は、かつて聖人が住んでいた司祭館の跡地に据えられている聖ヨゼフ・フライナデメッツの像です。

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島の船着き場も新しく立派なものでした。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第236回め、待降節第三主日のメッセージです。

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週刊大司教第236回
2025年12月14日

待降節は後半に入ります。前半の二週間は、キリストの再臨、すなわち世の終わりに向けて、過去のしがらみにとらわれずに、謙遜に神の呼びかけに耳を傾け心を向け、回心することに焦点が当てられました。

待降節の後半は、主の降誕を待ち望む喜びに焦点が当てられます。教会の伝統は、大きな祝日や重要な願いのために、九日間の祈りを捧げることを勧めてきました。ノベナの祈りと呼ばれます。東京教区を始め日本の教会にはフィリピン出身の信徒の方が多くおられますが、フィリピンの教会では降誕祭前のノベナの早朝のミサと祈りが捧げられ、シンバンガビと呼ばれています。その伝統も今週から始まります。東京教区でもフィリピン出身の信徒の共同体がある教会では、早朝よりも夕方にこのミサが捧げられており、私も毎年、目黒教会で夕刻に行われるシンバンガビのミサを司式しています。今年は15日の月曜に目黒教会で英語ミサを捧げる予定です。主の降誕という大きなお祝いの喜びをさらに大きな喜びとするために、それぞれの形で喜びのうちにノベナの祈りを捧げることはふさわしい準備ではないでしょうか。

そしてその準備が始まる待降節第三主日は喜びの主日とも呼ばれ、ミサの入祭唱には、フィリピ書4章から、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」と記されています。典礼では教会によってはバラ色の祭服が使われることもあります。降誕祭を間近に控えて、主とともに歩むという喜びを、しっかりと心に刻む主日です。

マタイ福音は今週も洗礼者ヨハネについて記しています。福音では、イエスが、ご自分が示される栄光と救いの業におけるヨハネの役割について語っています。

ヨハネが預言者として人々に伝えたことは、イエスご自身の業によってあかしされました。イエスはそのことを、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子に指示することで、洗礼者ヨハネが果たした役割の偉大さをあらためて確認します。そしてこれまで道しるべとして救い主に至る道を示してきたヨハネに代わり、ご自分の言葉と行いこそが救いのしるしであり、それに躓くことのないようにと呼びかけます。

教会は洗礼者ヨハネに倣い、現代世界の中で預言者としての役割を果たし続けています。教会は、自らが信じる神の言葉を具体的に明かしするものであろうとしています。それはイエスにこそいのちを生きる希望があるからであり、その希望を、神が賜物として与えられたいのちを生きるすべての人に分かち合いたいと願っているからに他なりません。願っているだけではないのです。それが私たちの使命です。

わたしたちは、主イエスの福音を具体的に生きるとき、喜びに満たされ、いのちを生きる希望を抱きます。希望はものではありませんから、はいどうぞと分かち合うことはできません。私たちは人との出会いを通じて言葉と行いで希望をあかしし、希望の種が出会う人の心に蒔かれるように努めます。

絶望や、悲しみや怒りではなく、喜びのうちに福音を告げ、希望をあかしするものであり続けましょう。

香港滞在中に訪問した神言会共同体で、インタビューを受けましたので、それも紹介します。冒頭の紹介は中国語で英語字幕、インタビュー自体は英語です。

 

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