聖木曜日である4月2日の午前中、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを捧げました。
ミサには東京教区で働かれる教区司祭と修道会・宣教会司祭による司祭団130名ほどと、聖堂一杯の修道者や信徒の方が参加してくださり、教皇大使モリナ大司教も同席され、ミサの終わりにメッセージを読み上げてくださいました。
またミサの中では、東京教区の今井神学生が祭壇奉仕者に、サレジオ会の堤神学生が朗読奉仕者に選任され、司祭への養成課程の一つ前に踏み出されました。またこのミサには、新学期が始まり東京の神学院に集まった全国の神学生たちも参加してくださいました。養成を受けている神学生たちのためにどうぞお祈りください。
なお東京教区では、これまで今井神学生ひとりでしたが、この四月からふたりが新しく加わり、予科での養成を始めました。
以下、聖香油ミサの説教原稿です。先日出かけてきた、カリタスアフリカの総会(上の写真)について触れています。
聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月02日
先日、3月16日から21日まで、アフリカのコートジボアールで開催されたカリタスアフリカの総会は、発表されてから21年が経過したベネディクト16世の「デウス・カリタス・エスト(神は愛)」をテーマとしていました。130名を超える参加者はこの回勅の示す方向性を振り返り、アフリカにおける教会の愛の業・カリタスへの取り組みへの決意を新たに致しました。
この総会が採択した最終宣言には、「わたしたちは新たな確信のうちに宣言します。教会は愛そのものです。神の愛は、キリストの脇腹から流れ出る水のように、教会の心からあふれ出し、社会の片隅で苦しむ人々の元へと届いていきます」と、教会の愛の業・カリタスの存在意義が記されています。
わたしたちの教会は、争いの場ではありません。絶望を生み出す場ではありません。この社会のただ中にあって、いのちを生きる希望を生み出すために、教会はこれまで同様これからも愛の実践を通じて、神の愛が、すべての人へと届くように努めようとする存在です。
「デウス・カリタス・エスト(神は愛)」の冒頭でベネディクト16世は、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想」ではなく、「ある出来事との出会い、ある人格との出会い」こそが人をキリスト者にするのだと指摘されています。
教皇フランシスコも2019年11月、東京で東日本大震災の被災者や支援関係者とお会いになったとき、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。・・・町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と言われ、出会いを通じた人と人とのつながりこそが、いのちを生きる希望を生み出すのだと強調されていました。
具体的な人間関係が希薄にありつつある現代社会にあって、わたし達の信仰には、目に見える形での具体的な出会いと関わりが不可欠なのだと、教皇たちは繰り返してきました。それは主ご自身が、「困っている人は自分のことだと」言われ、具体的に「飢えている人、のどが渇いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人」に対して行動したことは、わたし自身にしてくれたことだと言われているからに他なりません。わたしたちは具体的な出会いを通じて心に希望を抱き、主ご自身との出会いへと導かれます。教会は主との出会いへとわたしたちを導く場です。
教皇レオ14世は使徒的勧告「ディレクシ・テ(わたしはあなたを愛している)」に、「貧しい人々に対する教会の愛は、教会にとって本質的なものであり、それは教会の不変の伝統の一部になっています・・・。キリスト信者にとって貧しい人々は、社会学的なカテゴリーではなく、キリストの肉体そのものです(110)」と記され、教会が本質的に愛をあかしする存在であることを明確にします。
昨年5月18日の就任ミサの説教において、教皇レオ14世は、分断と対立をもたらす暴力が支配する現代社会の中で、和解と一致を生み出すことは教会の使命であると指摘されます。
続けて教皇は、「現代、わたしたちは多くの不一致を、また、憎しみと暴力と偏見、違いへの恐れ、地球の資源を搾取し、もっとも貧しい人々を疎外する経済的枠組みによって生じた、多くの傷を目にします。わたしたちは、この練り粉の中で、一致と交わりと兄弟愛の小さなパン種でありたいと思います。・・・わたしたちはこの道を、わたしたちの間で、しかしまた、姉妹であるキリスト教教会や、他の宗教の道を歩む人々や、深い不安のうちに神を求める人々、すべての善意の人とも、ともに歩まなければなりません。それは、平和が支配する新しい世を築くためです。」
わたしたちの教会は、いま、日本の社会の現実の中で、一体何をあかしする存在であるのか、自らに厳しく問いかけたいと思います。わたしたちは、「一致と交わりと兄弟愛の小さなパン種」でありたいと思います。神の愛そのものとして、愛をあかしする存在でありたいと思います。社会の中で疎外された人、孤独のうちにある人、絶望のうちにある人たちとともに歩む教会でありたいと思います。
そのなかにあって司祭は、神の民の牧者として、その先頭に立ち、率先して希望を生み出すものでなければなりません。司祭には、イエスとの出会いの中で生まれるいのちを生きる希望を、多くの人に分け与える務めがあります。ひとりでも多くの人がイエスとの個人的な出会いの中で希望を心に抱き、共同体に生きることで互いに支え合い、連帯のうちにその希望を燃え輝かせるように導くことは司祭の務めです。司祭は、希望という実りをより多く生み出すために、多くの人、特にいのちの危機に直面する人と歩みをともにし、展望と希望を回復させるような関係を作り上げる者でありたいと思います。
本日のこのミサの中で、朗読奉仕者と祭壇奉仕者に選ばれる神学生がおります。
朗読奉仕者選任の儀式書には、その務めとして次の三点が掲げられています。
まず第一に、典礼祭儀で神の言葉を朗読し、第二に教理を教えて秘跡に与る準備をさせ、そして第三にまだキリスト教に出会っていない人たちに救いの教えを知らせることであります。
すなわち朗読奉仕者とは典礼において上手に朗読をするだけの奉仕者ではなく、まさしく福音を告げ知らせ、教会の教えを伝えるために特に選任される重要な役割です。福音宣教の重要な担い手として選任されるのだという自覚を、深めていただきたいと思います。
福音宣教は、単に言葉で語るだけではなく、行いによるあかしを持って伝えられなければなりません。具体的な出会いをもたらす者でなくてはなりません。空虚なことばを語る者ではなく、行いによるあかしとして最も大切な愛の奉仕のわざに生きる者であってください。希望を生み出す出会いをもたらす者であってください。
祭壇奉仕者に選任される方は、教会の奉仕者の務めの中で特別な役割を受け持つことになります。
教会、すなわち神の民は感謝の祭儀を頂点として集まり、そこにいのちの源を見出します。祭壇奉仕者は、教会の司牧責任者の指導、監督のもとに、司祭や助祭の仕事に協力し、また奉仕者として、病人を含めて信者に聖体を授ける務めが託されます。
このような尊い奉仕の務めをゆだねられる祭壇奉仕者は、聖体の秘跡にいっそう深く結ばれよう務め、自分の役割の深い霊的な意味を悟るように心がけなければなりません。私たちの信仰共同体にとって、感謝の祭儀は最も重要な意味を持っていますし、私たちの信仰にとって御聖体はその中心にある、イエスご自身だからです。日々、キリストを通して自分自身を父である神にささげるよう努力してください。また、兄弟姉妹と一つのパンを分かち合うのですから、キリストのからだである神の民の中で、弱い人や困難に直面する人、忘れ去られている人を特に大切にし、キリストの愛の教えを実行するよう心がけてください。
お集まりのみなさまには、神学生たちのために、また司祭のためにお祈りを続けてくださることを、心からお願いいたします。ともに歩む教会共同体を生み出す力は、みなさまのお祈りから生み出されます。一緒にカリタスをあかしする道を歩みましょう。