2026年3月 7日 (土)

週刊大司教第247回:四旬節第三主日A

26way04

四旬節第三主日です。

アジア司教協議会連盟(FABC)は、今週、3月3日朝から5日夕方まで、バンコクのカミロ会司牧センターで、年に一度の中央委員会を開催しました。中央委員会はアジアの各国地域の司教協議会会長と、香港・マカオ・ネパールなど司教協議会に属していないアソシエートメンバーの代表(現在は香港が代表)、そして各部局の責任司教と秘書も参加します。わたしは日本の司教協議会会長として、また現在二期目を務めているFABCの事務局長として、参加しました。 

Messenger_creation_09644dc2ce834b6d9c5d4

現在の会長はインド、ゴア教区のフィッポネリ枢機卿、副会長はフィリピン、カローカン教区のダビド枢機卿で、実際にバンコクの事務局を切り盛りしているのは、メリノール会のウィリアム神父です。

会場は、バンコクのスワンナプーム国際空港の近くにある、カミロ会が開設する児童のための福祉施設に隣接している、司牧センターです。司牧センターには、貧しい人のための優先的関わりを再確認した教皇レオ14世のディレクシ・テのバナーが掲げられていました。

Img_20260302_131640404_hdr

中央委員会は年に一度集まり、四年ごとに行われる総会の決めた方向性に従って、各部局がどのような活動をしており何を企画しているのかを聞きながら、全体の活動などについて具体的な決定をしていきます。また現在、規約を現状に見合う形で改定する作業を続けていますし、また今年の7月にインドネシアで開催される総会の内容についても話し合いました。

同時に、現在のイランをはじめとした中東での不安定な状況に鑑みて、平和を求める声明も採択しました。


Img_20260304_093753400

また昨年11月にマレーシアのペナンで行われたアジア宣教大会(GPH:希望の偉大なる巡礼)の報告書もできあがり、そのプレゼンも行われました。(下の写真)

アジアは中央アジア、南アジア、東南アジア、東アジアの四つの地域に分かれており、それぞれから、9ある部局に責任司教と委員司教、そして秘書を、まんべんなく選出し、アジア全体で福音宣教の課題に取り組んでいく司教達の組織です。しかし、公用語である英語で責務を果たしていく必要から、どうしても英語を日常的に使う国の出身者が多く任命されることになっています。それでも日本を含めてアジア全体で、できる限り役割を分担して、一緒に取り組んでいくという、シノドス的なあり方が、再確認されました。また司教達の組織ですので、勢い男性ばかりになりがちですが、女性心との神学者もアジアには大勢いることから、様々な分野で、今後も女性信徒や奉献生活者の関わりを増やしていくことも確認されました。

Img_20260304_103204955

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第247回、四旬節第3主日のメッセージです。

四旬節第三主日A
週刊大司教第247回
2026年03月08日

教会とは、どういうところでしょう。教会とは正しい人だけの集まりではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。いつくしみ深い御父は、ご自分が創造されたすべてのいのちを、永遠のいのちにおける救いへと招こうとされています。教会は御父のその招きが具体化し全うされるようにと、すべての人を招き入れる存在であるはずです。回心を成し遂げた人だけを迎え入れるので把握、まずすべてのいのちを招き入れ、共同体の中で共に祈り、共に耳を傾けあい、聖霊の声に導かれながら、ともに回心の道を歩まなくてはなりません。シノドス的な教会は、特定の人だけの共同体ではなく、すべての人を招き入れる神の民です。すべての人が、回心へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちに、教会は常に回心を呼びかけています。

ヨハネによる福音は、のどの渇きをいやすこの世界の水について話すサマリアの女に対して、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語るイエスのことばを記しています。

イエスはサマリアの女に対して、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われ、この世における乾きの癒やしではなく、本当に大切なもの、すなわち永遠のいのちへと目を向けるように促します。水の定義について語るのではなく、目の前に存在する永遠のいのちの源である御自分に目を向けるようにと、促します。

わたしたちは、どこへと目を向けているでしょうか。神に向かってまっすぐと歩むために、見つめなくてはならないのは、永遠のいのちの源である主ご自身です。主ご自身との具体的な出会いが、サマリアの女を救いへと招きました。主との出会いは、回心への招きです。

今年の教皇様の四旬節メッセージ、「耳を傾け、断食する」には、「回心は、一人ひとりの良心にかかわるだけでなく、人間関係のあり方、対話の質、現実からも問い直され、教会共同体においても正義と和解に飢え渇く人類においても真の欲求を方向づけるもの、それを見いだす能力にもかかわります」と記されています。わたし達の回心は、自分とは異なる存在と歩みを共にし、困難の直面する人に手を差し伸べ、罪を悔いる人をいのちの希望を見いだす回心へと招くものであるはずです。

福音は、「わたし達が信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」というサマリア人達のことばを記しています。主との出会いを通じて強められるわたし達の関係は、さらにそれを多くの人へと伝える業へとわたし達を招きます。回心は宣教への招きでもあります。わたし達の証しを通じて回心へと招かれた人は、さらに自分自身の回心における主との出会いを通じて、さらなる福音宣教者へと変えられていきます。

わたし達ひとり一人への回心への招きは、神の民に対する福音宣教者となる招きでもあります。

| |

2026年2月28日 (土)

週刊大司教第246回:四旬節第二主日A

26way05

四旬節第二主日です。改めて、教皇様の四旬節メッセージはこちらから読むことができますので、どうぞご一読ください。

2026synodws01

2月24日と25日の二日間、福岡教区の大名町教会を会場に、全国各教区のシノドス担当者に集まっていただき、司教団のシノドス特別チームによる研修会を開催しました。全国から50名を超える教区担当者が参加し、司教団からも7名の司教が参加しました。

2026synodws04

ご存じのように、シノドス的な教会になる(最終文書の翻訳で言えば「シノドス流」)道はまだ途上であり、現在は、2028年の教会総会(エクレジアル・アッセンブリー)を目指して、2026年一杯の各共同体における具体的な実施ステージ(期間)に入っています。何をするべきなのかは、実は目に見える形での機構改革なのではなく、意識改革というのか教会の体質改善の基礎作りです。そのために聖霊がいま教会に求めている取り組みを、まず、様々な共同体で識別することが不可欠です。そのための手段として有効なのが、霊における会話です。

2026synodws06

特別チームでは今回の研修会の結果を元にして、復活祭までには手引き書を発行しますので、様々なところで、教区担当者の指示に従いながら、識別の取り組みを行っていただきながら、シノドス的な教会の基礎を築きあげていただければと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第246回、四旬節第二主日のメッセージです。なお、今回のメッセージの後半で触れている教皇レオ14世の言葉に関連して、見えない形での迫害について、インタビューを受けた記事がCruxというサイトに、英語ですが掲載されています。ご参考までに。

四旬節第二主日A
週刊大司教第246回
2026年03月01日

イエスの変容の物語は、非常に興味深い人間の心の弱点をわたしたちに教えます。福音は、ペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れたイエスが、高い山の上で姿が変わり、光り輝く驚きの光景が展開したことを伝えています。さらにはモーセとエリヤまで登場しますから、その光景に弟子たちが圧倒されないはずがありません。ペトロは、その興奮のうちにとどまりたいと願い、仮小屋を建てること提案します。

しかし御父は、神の存在はそのような光り輝く華々しいところにあるのではなく、「これに聞け」ということばを持って、静けさのうちにたたずむイエスにこそ、神の栄光があり、神の意志が示されるのだと明示します。

わたしたちはすぐに興奮する世界に、いま住んでいます。わたしたちは自分たちの人生における経験からよく知っていますが、わたしたちは興奮すればするほど、客観性を失い、冷静な判断力を失います。同時に、興奮は長続きせず、すぐに興味を失い、次の興奮の材料を探し求めるようになります。いまわたしたちは、インターネットやスマホなどの発達によって、あっという間に情報を手にすることができるようになりました。興奮する材料は、毎日のように山のように提供されてきます。そしてあちらこちらで、客観性を失い、興奮のうちに、とんでもない判断を積み重ねてしまっています。そしてその興奮の対象は、次から次へと移り変わっていき、忘れられて置き去りにされてしまう人の悲しみだけがの山積みとなっていきます。

一時的な興奮のうちには、神の真理はありません。神からの賜物である命の尊厳は、そういった一時的興奮の嵐の中で翻弄され、ないがしろにされ、時に暴力的に奪われていきます。神の愛の賜物である命が失われるという悲劇も、興奮のるつぼの前ではすぐに忘れ去られ、残されるのは絶望と悲しみです。

わたしたちは、心を落ち着けて神のことばに耳を傾けたいと思います。時に信仰の世界においても、一時的な興奮状態の中に神の真理が表されるかのような錯覚に陥ることがあります。神の真理は、静かにたたずまれる神のことば、主イエスのうちにあります。

貧しい人々への優先的な教会のかかわりを説く教皇レオ14世の使徒的勧告「わたしはあなたを愛している」において教皇は、「多くの場合キリスト信者も、世俗的なイデオロギーや、不当な一般化や誤った結論へと導く政治的・経済的アプローチの影響を受けることがあります。愛のわざの実践が、一部の人の強迫観念と見なされ、教会の使命の熱い中心と見なされずに、軽蔑と嘲笑の的となることがあります」と記し、そのような興奮する世界の風潮に左右されないために、「福音をこの世の考え方に置き換える危険に陥らないために、福音を絶えず読み直さなければならない」と記しています。

興奮の嵐に取り込まれ翻弄されることなく、静かに語りかける神のことばに耳を傾けましょう。

| |

2026年2月23日 (月)

2026年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって

2026年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって

東京教区のみなさま

日本の司教団は2016年12月14日にメッセージを発表し、教皇フランシスコの意向に沿って、日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日と定めました。

2026年にあっては、3月6日(金)がこの「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたります。当日、またはその直後の主日に、この意向を持ってミサを捧げ、東京教区の教会共同体全体として、神からの賜物であるいのちを守り、人間の尊厳を尊重する決意を新たにいたしましょう。

シノドスの道をともに歩んでいる教会は、いのちの福音をのべ伝える神の民として、それぞれがいのちを守る責務を負っているという自覚を新たにし、社会の中で自らの存在と、ことばと行いを通じたあかしによって、率先していのちの大切さを説き、目に見える形でいのちの尊厳を高める道を歩む共同体とならなくてはなりません。

世界には戦争や紛争という暴力、また貧困や不正義に起因する暴力によって、危機に直面するいのちが多く存在し、日本の社会にあっても、誰からも顧みられることなく忘れられたり、孤独のうちに孤立し危機に直面するいのちなど、人類の構造的罪に起因するいのちの危機が数多く存在しています。その中にあって、性的な暴力は、人間の尊厳をないがしろにする、いのちに対する直接の暴力であり、キリスト者が生きる道ではありません。

そうであるにもかかわらず、教会共同体においても、性的な暴力やハラスメント行為が実在しています。性的な暴力やハラスメントは、教会共同体全体として、ひとり一人が責任を自覚しながら撲滅していかなくてはなりません。性的な暴力やハラスメント行為は、神が与えてくださった賜物であるいのちへの暴力です。

残念なことに、教会の指導的立場にいる聖職者や霊的指導者が、自らの使命を放棄したかのように、性的な暴力を働いたり、ハラスメント行為によって人間の尊厳をないがしろにした事例が実在します。とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙し、被害者の方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者が存在することを、大変申し訳なく思います。

東京教区にあっては対応するための委員会を設け、被害の申告があった場合の聞き取りや必要に応じて第三者の調査を行い、教区司教に対して必要な対応をとるように勧告するというシステムを長年設けています。このシステムによって、司教による事例の隠蔽を防ぎ、教区全体として被害を受けられた方への可能な限りの対応にあたることにしています。

しかし、教会内部の歴史に基づく制度上の限界はまだ克服されておらず、現時点では、東京教区で働く修道会会員にあってはその修道会上長が、東京教区司祭にあっては教区司教が対応することになっています。一般の方の立場からすれば、一つの教会の中に複数の対応責任者が存在しているような状況であり、ふさわしい対応を妨げる要因だとのご批判を頂いているところです。この教会の制度上の課題も克服できるよう、この数年来、日本の司教団は教皇庁の未成年者保護委員会と協力しながら、教区や修道会の連携や情報共有の枠組み整備を進め、対応のガイドラインの改定にも取り組んでいます。

修道会の責任者のみなさんには、自らの責務を忠実に果たし、特に被害者の声に耳を傾け、ともに歩む姿勢であることを求めると同時に、教区司教であるわたしも、自らに課せられている責任を誠実に果たしていく決意を新たにいたします。

神からの賜物であるいのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにしたわたしたち教会の罪を心から謝罪いたします。神のいつくしみの手による癒やしによって被害を受けられた方々が包まれますように、心から祈ります。同時に、わたしたち東京教区で働く聖職者や霊的指導者のためにもお祈りくださるようにお願いいたします。

2026年2月21日

カトリック東京大司教区 大司教
枢機卿 菊地功

| |

2026年2月21日 (土)

週刊大司教第245回:四旬節第一主日A

20170913_093451

四旬節の第一主日です。この日曜日あたりから、今年の復活祭に洗礼を予定している小教区では、洗礼志願者のための典礼が始められるところも少なくないと思います。洗礼の準備をしておられる皆様の上に、神様の導きと護りがあるようにお祈りいたします。

司教総会は終了しました。みなさまのお祈りに感謝いたします。今回は、初日の月曜日に議事を取り上げず、祈りと黙想の日としました。ベテラン宣教師のお話を伺い(ご本人は遺言ですと言われていました)、グループで分かち合い、聖体の前で祈りを捧げる一時を過ごしました。総会について、中央協議会でいつものようにビデオをあげていますので、ご覧ください

以下本日午後6時配信、週刊大司教第245回、四旬節第一主日のメッセージです。

四旬節第一主日A
週刊大司教第245回
2026年02月22日

神はわたしたちの想像の産物ではありません。わたしたちこそが神によっていのちを与えられた者であり、だからこそわたしたちが神はどのような存在なのかを決めつけることは、不遜です。

マタイ福音は主イエスが、その公生活を始めるにあたり40日の試練を受けられたと記しています。この試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けたと、福音に記されています。

まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。それは人間の本能的な欲望や安楽・安定ににとどまることへの内向きな願望を表しています。その人生の中心にあるのはわたしであって、神ではありません。「神の子なら」という悪魔のことばが、それを象徴します。自分を中心にものを考えてしまうわたしたちは、不遜にも、神とはこういう存在であるべきだと勝手に決めつけて、自らの願望を実現するために神を利用しようとします。イエスはそれに対して、人が生きることの中心には、自分の願望ではなく神のことばがあることを示されます。神のことばに生きるのであれば、わたしたちの心は、自分ではなく隣人へと向けられます。

次に神に挑戦せよとの誘惑。それは自分こそがこの世界の支配者であるという謙遜さを欠いた思い上がりの欲望です。わたしたちは時として自分たちがこの世界の命運を握っているという思い上がりにとらわれ、神の被造物を好き勝手に浪費し傷つけてきました。

そして三つ目はすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。この被造界の支配者は自分たち人間であるという思い上がりであります。

これら三つの誘惑は、ちょうど教皇フランシスコが「ラウダート・シ」に、「わたしたちが図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことによって、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」と記されたことと、密接に繋がっています。教皇フランシスコは、人間の根本的なかかわり、すなわち「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と記し、その上で、「命に関わるこの三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」と指摘します。ちょうど最初の誘惑が隣人とのかかわり、二つ目の誘惑が神とのかかわり、三つ目の誘惑が全被造界とのかかわりです。この三つの誘惑はわたしたちの現実の中に常にあり、わたしたちはその誘惑の中で、神と隣人と大地とのかかわりを断絶させ、罪を重ねています。

四旬節は、わたしたちが信仰の原点を見つめ直し、いつくしみに満ちあふれた御父の懐にあらためて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。四旬節は、あふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによって永遠のいのちへと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにするときです。

そのために教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すよう呼びかけています。また四旬節の献金は、教会共同体の愛の業の目に見える記しでもあります。この四十日の間、互いに支え合う心をもって、愛の業の内に歩み続けましょう。

| |

2026年2月17日 (火)

四旬節メッセージ@灰の水曜日

2023_09_15akita02_20260213170301

2月18日は灰の水曜日です。今年は司教総会中のため、関口教会でのミサの司式ができずに、申し訳ありません。

教皇様の四旬節メッセージは、先週発表されたばかりで、公式翻訳が間に合うか心配でしたが、中央協議会の翻訳担当がしっかりと間に合わせてくださいました。感謝です。こちらのリンクからご覧ください

四旬節には大齊や小齊と言った断食の習慣が教会にはあります。詳しくは、こちらの中央協議会のサイトの解説をご覧ください。

また四旬節には、教会は特別に隣人へ手を差し伸べる業として四旬節献金を行います。日本の教会では、四旬節献金はカリタスジャパンに委託し、カリタスジャパンは年間を通じて、必要とされる様々な取り組みに、この献金を活用していきます。

以下、今年の四旬節の始まりにあたってのわたしのメッセージです。

四旬節の始めにあたり
メッセージ
2026年2月18日

2月18日は灰の水曜日です。四旬節が始まりました。今年は復活の主日が、4月5日と、新年度の始まりとほぼ同じになりました。

毎年この時期に繰り返す四旬節は、何かを決意しても、すぐ忘れてしまうわたしたちに、約束したことを思い起こすチャンスを与えています。

大切な人と何か約束をして、それをすっぽかした時、その後に、関係を修復するのにどれだけの努力が必要か、わたしたちは人生の中で少なからず経験しています。しかし神様との関係では違います。わたしたちにいのちを与えてくださった神様は、そのいのちが十全に生きられ、神様の似姿としての尊厳が、十分に保たれるような世界を求めて待っておられます。実現のために尽くすことなく、裏切り続けている私たちとの関係を断ち切ることなく、待ち続けているのです。神様は待っています。

わたしたちは、神の子どもとして歩むことを決意し、イエスの告げた福音を心に受け入れ、洗礼の恵みを受けた時、イエスの福音がこの世界で実現するように生きることを誓いました。幼児洗礼の方は記憶にないかもしれません。成人洗礼の方は記憶していますか。洗礼式の時、司祭は、たとえばこう尋ねました。

「あなたは悪霊と、その働きといざないを退けますか?」

どう答えたでしょう?「うーんどうでしょう」とか「そうなってみないと分からないですね」とは言いませんでした。わたしたちは「退けます」と応えました。はたしてわたしたちは、いまどうでしょうか。

イエスが、40日の試練を受けられた時、悪霊に導かれて三つの大きな誘惑を受けられました。それを見ると悪霊の働きといざないとは、私たちの普段の生き方と無関係ではないことがわかります。

まず、石をパンにせよとの誘惑。それは人間の本能的な欲望や安楽・安定ににとどまることへの内向きなわたしの願望で、神の願いではありません。わたしたちは、神とはこういう存在であるべきだと勝手に決めつけて、自らの願望を実現するために神を利用しようとします。

次に神に挑戦せよとの誘惑。それは自分こそがこの世界の支配者であるという謙遜さを欠いた思い上がりの欲望です。

そして三つ目はすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。この被造界の支配者は自分たち人間であるという思い上がりの欲望です。

そう考えてみると、わたしたちは、日頃から悪の誘惑に負けてばかりではないでしょうか。この世界で権勢を誇っているものは、いつの日かすべて灰に帰って行きます。その事実を象徴するのは、。四旬節の始まりを告げる灰の水曜日です。

教会の伝統は、四旬節を過ごすにあたって「祈りと節制と愛の業」という三つの行動を常に心に留めながら、信仰を見つめ直す旅路を歩むようにと勧めています。とりわけ愛の業について教会は、四旬節の間に助けを必要としている隣人、中でも多くの人からその存在を忘れられているような方々に心を向け、特別な献金をするようにも呼びかけています。

この四旬節の間、信仰の原点に立ち返りましょう。最初の約束に立ち返りましょう。そして今年の復活節に洗礼を受けるために最後の準備に入っておられる方々と、歩みを共にし、ともに神に対する誓いを新たにいたしましょう。

| |

2026年2月14日 (土)

週刊大司教第244回:年間第六主日A

1770885638691

年間第六主日です。今週の水曜日は灰の水曜日となり、四旬節が始まります。

また2月16日の月曜日午後から金曜日にかけて、司教総会が行われます。一年に二回、全国の司教たちが集まる会議です。司教たちの上に聖霊の導きがあるように、お祈りいただけましたら幸いです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第244回、年間第六主日のメッセージです。

年間第六主日A
週刊大司教第244回
2026年02月15日

わたしたちの生きている社会には、様々な規則が存在します。国の法律や団体の規則などなど、組織体を運営していくためには規則が不可欠ですが、同時に、その時々の状況に対応するために生み出される規則も多くあります。その背景にある事情が知られているうちは良いので巣が、時間の経過とともに、その規則が作られた背景が忘れられ、字面だけが一人歩きを始めることもあります。時に、どうしてそのような規則による制約が存在するのかさえ、分からなくなったまま、規則だけが一人歩きすることすらあり得ます。

マタイ福音は、イエスご自身の存在と律法や預言者、すなわち旧約聖書との関係を語ります。イエスは旧約の掟や預言と無関係ではなく、イエスがもたらす神の国は旧約に記されていることを完成すると述べていますが、それは規則を厳格に守ることが重要だと説くためではありません。

律法は、「殺すな」と定めていますがイエスは、その定めの根本にまで立ち入ります。「腹を立てるものは誰でも裁きを受ける」と指摘します。すなわち、イエスはそもそも掟の根本にあるはずの、わたしたちはどう生きるかという、人間として生きる姿勢を問いかけます。つまり掟は、どこまでならばゆるされるかを定めるための枠組み基準ではなく、人間はどう生きるかを生み出す基礎となるべきものです。だからイエスは他の箇所で、掟をすべてまもっていると豪語したあの誠実な金持ちの青年に対して、問われるのはどう生きるのかなのだと諭したのです。

今週の水曜日は灰の水曜日となり、四旬節が始まります。

四旬節は、わたしたちの信仰の原点を見つめ直すための時です。わたしたちが心をあらため、いつくしみに満ちあふれた御父の懐に再び抱かれようと心を委ねる、回心の時です。

御父は、しばしば道を踏み外し、時として背を向けて御父の目前から立ち去ろうとするわたしたちを、見捨てることなく忍耐強く待ってくださる方です。なぜならば御父は、わたしたちに賜物としていのちを与え、一人一人のいのちをすべからく愛しておられるからに他なりません。

自由意志を与えられたわたしたち人類の度重なる裏切りにもかかわらず、わたしたちは神からの恵みと賜物に豊かに満たされ続けています。四旬節は、このあふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによってわたしたちが永遠のいのちへと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにするときです。

四旬節は神の掟を書いてあるとおりに守ることを決意する時なのではなく、その掟の背後に控えている神の思いを、神の愛を、心に感じながら、聖霊を通じた神の導きに身を委ねることを決意する時であります。

| |

2026年2月11日 (水)

2026年世界病者の日ミサ@東京カテドラル

Img_20260204_094158869_hdr

2月11日は、世界病者の日です。午後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で世界病者の日のミサを捧げました。

今年の世界病者の日に当たり、教皇レオ14世はメッセージを発表されています。邦訳はこちらのリンクです

なお病者の日のミサは東京教区のカリタス東京によって企画されています。カリタス東京は、いわゆるカリタスジャパンの支部のような形で援助の募金を集めたりする団体ではなくて、教会の愛の業(カリタス)を様々な分野から取り組む諸活動団体を束ねる組織です。残念ながらいまの教会には、かつてのように様々な活動に専属する人材を確保する余裕がありません。かつては社会における愛の業を具体化するために、様々な組織が立ち上げられて力強く活動をしてきました。いまは、そういった個々の活動をなくしてしまうことなく続けるために、できるところは(例えば事務処理や行事の企画など)まとめて一つの組織にした方が、継続できると考えて、数年前から社会活動計の様々な委員会をまとめてカリタス東京といたしました。

カリタス東京のホームページには、今後の研修会のお知らせなどもありますから、こちらのリンクから是非ご覧ください

以下、本日のミサの説教原稿です。

世界病者の日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年2月11日

ルルドは単なるフランスの地名ではなく、聖母マリアを通じて心と身体に癒やしがもたらされる聖地を象徴する名前として世界に広く知られています。聖母マリアが少女ベルナデッタに出現されたのは、1858年2月11日のことでした。それから聖母は18回にわたってベルナデッタに出現され、ご自身を「無原罪の御宿り」であると示されました。関口教会にあるルルドは、フランスのルルドの写しであると言われていますが、各地にあるルルドは、フランスのルルドとは異なるそれぞれの形状をしています。しかし異なるそれぞれが「ルルド」と呼ばれて愛されているのは、「ルルド」と言う名前が象徴する癒やしと希望を、多くの人が求めているからに他なりません。

聖母に促されてベルナデッタは洞窟の地面を掘り、湧き出た水は泉となり、その水によってもたらされた病気の奇跡的治癒は、その後いまに至るまで七十以上が、公式な委員会によって奇跡と認定されています。それ以外にも個人的に何らかの形で癒やしを得た人、また心に安らぎを得た人は、数え切れないほど存在しています。

1993年に、教皇聖ヨハネパウロ二世は、聖母マリアを通じたこれらの奇跡的な治癒を思い起こさせるルルドの聖母の記念日、すなわち2月11日を、世界病者の日と定められました。この日の制定にあたって教皇聖ヨハネパウロ二世は、二つの点を心に留めるように呼びかけています。

第一に、善きサマリア人の業を現代社会において具体的に生きることは、教会にとって福音宣教の重要な部分であるということを神の民全体が理解し、教会は自らの働きを通じて、社会全体が病者と苦しむ人へ心を向けるよう努めることを優先すること。

第二には、この世界に蔓延している理不尽とも思える人間の苦しみを、キリストの受難と死における苦しみと一致させることで、わたしたちがキリストの贖いの業における栄光に与ることができるのだと心に留め、キリスト者としての霊的な成長を目指すこと。この二点です。

教皇聖ヨハネパウロ二世は、人類の救いのための力は苦しみから生み出されることを、キリストの生涯が、そしてキリストの自己譲与があかししていると指摘します。イエスの十字架での受難と死の苦しみこそが、復活の栄光を生み出す力を生み出しました。同様に、この世界における人類の苦しみは、いのちを生きる希望を生み出す源であると教皇は強調されました。

もちろん病気から奇跡的に回復を遂げるということは、病気の苦しみのうちにある人にとって、またともに歩む人にとって、大きな意味があります。しかしながら同時に、奇跡的な病気の回復は、日常にありふれたことではなく、本当にまれにしか起こりません。

ですから教会が病者のために祈るというのは、もちろん第一義的には、イエスご自身がそうされたように、具体的に奇跡的な病気の治癒があるようにと願ってのことですが、同時にもっと広い意味をそこに見いだして、祈りを捧げています。それは互いの結びつき、助け合い、思いやりの次元から、主イエスと出会い、ともに歩むためであります。

私たちは、様々な意味で病者であります。完全で完璧な人間などは存在しません。たとえば障がい者という言葉に対峙するかのように、健常者などと言いますが、実際にはすべての人が大なり小なりなにがしかの困難を抱えて生きているのであり、また年齢を重ねれば当然に、心身の困難さは増し加わっていきます。目に見える肉体的な困難さではなく、心に困難さを抱えている人も多くおられるでしょう。その意味で、完全完璧な健常者という存在は、本当はあり得ないものだと思います。

すべての人が、実はなにがしかの困難を抱えて生きているからこそ、その程度に応じて、わたしたちは助け合わなければならないのです。支え合って生きていかなくてはならないのです。支え合いは一方通行ではなく、互いに支え合ってともに歩む。まさしくシノドス的なともに歩む神の民の生きる姿勢であります。わたしたちは誰かに手を差し伸べて生きていくだけでなく、誰かに支えられて生きているのだと意識することは、共に同じ神の賜物であるいのちを生きるものとして、大切な感覚であります。

教会こそは、なにがしかの困難を抱えて生きているわたしたちが、互いに耳を傾け、互いに支え合い、共に祈り、ともに歩んでいく共同体であります。ともに歩むわたしたちに対して、主イエスの癒やしの手が差し伸べられています。神の民としてともに歩む時、その真ん中におられる主イエスは、ご自分の癒やしの手をわたしたちに差し伸べ、わたしたちをその手に抱き、心に安らぎを与え、いのちを生きる希望を生み出してくださいます。

世界病者の日は、具体的な病気や困難さを抱えている人たちだけを対象にした、特別な人のための特別な日なのではなく、わたしたちすべてが、主の癒やしの手に包み込まれ、安らぎと希望を与えられていることに感謝し、自分も同じように生きようと決意する日であります。

教皇レオ14世は、今年の世界病者の日のための特別な行事を、ご自分がかつて働かれたペルーのチクラヨ教区で行うこととされ、ご自分の代理として、総合的人間開発促進省長官のチェルニー枢機卿様を派遣されました。

また、「サマリア人のあわれみ・他者の苦しみを担うことで愛する」と言うテーマのメッセージを発表されています。

その中で教皇様は、 「わたしたちはスピードと即時性と性急さの文化の中に浸されていますが、同時に、使い捨てと無関心の文化の中にも浸されています。そのため、周囲にある必要と苦しみに目を向けるために近づき、途中で立ち止まることができません」と、強盗に襲われた人のために立ち止まることのなかった祭司とレビ人について触れ、現代社会には困難を抱えている人のために自分の時間を割く勇気のある人が欠如していると指摘されます。

その上で教皇様は、「すすんで人に近づかなければ、だれも隣人にはなれません。だから、あわれみを示した人が隣人となったのです」と述べ、サマリア人のあわれみに満ちた行動は「単なる博愛的な行為ではなく、他者の苦しみに個人的にあずかることは自分自身を与えることだということをそこから感じ取らせてくれるしるしです」と指摘しています。

教皇様はわたしたちひとり一人が、自分の時間を割いていつくしみの行動をとることで、「わたしたちが一つのからだの真の部分であると感じる」ことの重要性を説き、その感覚によって、この一つの身体の頭である「キリストの苦しみと一致」することができると述べておられます。

わたしたちは、単に主イエスの癒やしの手に包まれて安心を得たいだけでなく、主イエスと一致したいと願っています。そうであるならば、自分も助けられ生かされていることを自覚しながら、自分の時間を割いて、困難を抱える人とともに歩む道を選択するしかありません。

謙遜さのうちに互いに支え合い、共に祈り、ともに歩んで参りましょう。

| |

2026年2月 7日 (土)

週刊大司教第243回:年間第五主日A

1770421431745

女子修道会の国際総長会議(UISG)によって提案され進められてきた「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」は2月8日です。今年は主日に重なりましたが、この意向を心に留めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としたいと思います。教皇フランシスコは、2015年2月8日のお告げの祈りの時に、この活動に触れ、積極的に行動するように呼びかけました。UISGが中心になって活動するタリタクムでは、この祈りと啓発の日のホームページを設け、今年の活動を紹介しています(日本語がないので、リンク先は英語です)。

今年も教皇レオ14世が、祈りの呼びかけのメッセージを発表されています。(メッセージは、こちらのリンクは英語版です.そして、こちらが日本語訳へのリンクです。)

2月8日というのは、聖ジョゼッピーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれました。聖人はカノッサ修道会の会員でした。同会のホームページにはこう記されています。

「バキータは男3人、女3人の6人兄弟でした。お姉さんは1874年、奴隷商人たちにさらわれました。バキータは7歳のころ2人のアラビア人にさらわれました。1ヵ月間監禁され、その後、奴隷商人に売り飛ばされます。ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまり、間もなく、冷酷な顔立ちのアラビア人に売り払われます。その後、奴隷商人に売り払われます」

その後、様々な過酷な体験を経て、イタリアにおいて1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。同修道会のホームページに聖バキータの次の言葉が紹介されていました。

「人々は私の過去の話を聞くと、「かわいそう!かわいそう!」と言います。でも、もっとかわいそうなのは神を知らない人です。私を誘拐し、ひどく苦しめた人に出会ったら、跪いて接吻するでしょう。あのことがなかったら、私は今、キリスト者でも修道女でもないからです」

聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間的な尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために、祈りたいと思います。

教皇レオ14世は今年のメッセージで、教皇に就任したときの第一声と同じく「平和がみなさんと共に」という復活した主イエスのことばを繰り返し、「真の平和は、神が与えたすべての人の尊厳が認められ護られるときに始まる」と指摘され、特に現代社会に宛てオンライン詐欺などを通じて人身売取引に巻き込まれる事案に触れ、「例え小さくとも嵐の中で祈りの炎を絶やすことなく、それによってわたし達は不正義に対する無関心に抗う力を与えてくれる」と述べています。

人身売買・人身取引や奴隷などという言葉を聞くと、現代の日本社会とは関係の無い話のように感じてしまうのかもしれません。実際は,そうなのではありません。一般に「人身取引議定書」と呼ばれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性および児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には,次のような定義が掲載されています。

「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a))

すなわち、売春を強制されたり、安価な労働力として,自己の意思に反して、人間の尊厳が守られないような状況下で労働に服させられている人たちの存在は、わたしたちの国でも無関係なことではありません。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第243回、年間第五主日のメッセージです。なおメッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、また世界病者の日でもあります。今年の教皇様の世界病者の日のメッセージは、こちらのリンクからどうぞ。

年間第五主日A
週刊大司教第243回
2026年02月08日

マタイ福音は、イエスの教えとして、「地の塩、世の光」を記しています。

塩も光も、その果たす役割をふさわしく果たしているからこそ意味があるのだとイエスは指摘します。その上でイエスは、弟子が心にかける大切な原則を示します。

人はどうしても他者からの評価を気にしてしまう存在です。良い行いをする時にも、自分がほめたたえられることを、心のどこかで求めてしまいます。皆、自分がかわいいのです。

しかしイエスは、「あなた方の立派な行いを見て」褒め称えられるべきは、その行いを実行する「あなた」ではなくて、皆が「あなた方の天の父をあがめる」ためだと指摘します。与えられた務めを忠実に果たし、その忠実さを通じて、いのちの与え主である神が称えられるように生きること、すなわち神の愛をあかしする者であることが重要であると、イエスは指摘します。

果たしてわたしたちはどうでしょうか。わたしたちが果たすべき役割に忠実であることによって、わたしたちにいのちを与え、救いへと招いてくださる主ご自身の存在をあかしする者でありたいと思います。

今週の水曜日、2月11日は世界病者の日と定められています。

2月11日は1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、湧き出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出し、多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

わたしたちすべての教会共同体が、ルルドの霊的な安らぎの雰囲気に倣い、訪れる多くの人の心に、希望と生きる勇気を生み出すものでありたいと思います。

教皇様は今年の世界病者の日にあたり、「サマリア人のあわれみ、他者の苦しみを担うことで愛する」というメッセージを発表されています。

その中で教皇様は善きサマリア人のたとえ話の現代的意味を探求する必要を説き、「困窮する人に対する思いやりとあわれみは、単なる個人的な努力にとどまらず、さまざまな関係の中で実現されます。すなわち、困窮する兄弟との関係、彼らを世話する人々との関係、わたしたちにご自身の愛を与えてくださる神との関係です」と記し、助けを求める人との出会いの中で、また互いに助け合う人々との出会いの中で、わたしたちは自我を捨てキリストと出会うことを指摘されます。

その上で教皇様は、「自尊心や自己評価を成功やキャリアや地位や家柄といった固定観念に基づかせようとする思いから離れ、神と兄弟の前での自分の位置を再発見すること」が重要であると指摘しています。

現代社会は、忙しい世界です。インターネットの発達は、それをさらに加速させました。すぐに答えがほしいのです。すぐに結論が知りたいのです。でもその中で、立ち止まって、イエスのまなざしを向け、助けを必要としている兄弟姉妹のために、自分の時間を費やすことの必要性を、あらためて心に留めたいと思います。

| |

2026年2月 1日 (日)

2026年日本26聖人殉教祭@本所教会

Image3

2月5日は、聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。東京教区の本所教会では、かなり昔から、この記念日に近い主日に殉教祭を続けてこられました。

今年は、本日2月1日の主日に、ミサが捧げられました。

Img_0804

ミサ後には30分ほど、昨年の教皇選挙やわたしの名義教会着座式などについて、写真を見ながらお話をさせていただき、その後には信徒会館で、今年はいつもの美味のおでんではなく、これまたおいしい豚汁が振る舞われました。準備してくださった皆さん、ありがとうございます。

Image0

以下、本日のミサの説教の原稿です。後半は週刊大司教とほぼ同じ内容です。

日本26聖人殉教者殉教祭ミサ

2026年2月1日

本所教会

昨年は忙しい一年でありました。復活祭の翌日に教皇フランシスコが帰天され、その直後に始まった枢機卿の総会と教皇フランシスコの葬儀。、それに続く教皇選挙。ちょうど教皇選挙という映画が公開され、日本でも注目していただきました。そして新しい牧者レオ14世の誕生と、10月9日のローマでのわたしの枢機卿名義教会への着座式。さらに昨年一年は希望の巡礼者をテーマにした聖年でもあり、それに関係する行事も多く行われました。忙しい一年が終わり落ち着く間もなく、年明けとともに今度は臨時の枢機卿総会が開かれ、新年早々にローマへ出かけてきました。枢機卿に叙任されてから一年以上たちましたが、それ以前にはなかった様々な行事への参加が増えて、教区を不在にすることが続いていますが、その間、多くの方にお祈りと励ましを頂いてきたことに心から感謝しております。

わたしはローマに出かけるたびごとに、時間が許せばジェズ教会を訪問しています。この聖堂にはイエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラの墓がありますし、かつて日本で活躍しその後イエズス会の総長となられたアルペ神父様もここに葬られています。そしてこの聖堂には、日本の教会にとって重要な聖人である、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。ザビエルはインドのゴアに遺体が安置されていますが、アジア各地で洗礼を授けた聖なる右腕は、ローマに安置され、400周年記念などで日本にも運ばれてきたことがあります。

わたしはこの教会を訪れて、日本にイエス・キリストの福音を一番最初にもたらしてくださった聖人の右腕の前で、その福音宣教の業への感謝の祈りを捧げることにしています。日本の教会は、1549年、聖フランシスコ・ザビエルによって始められました。

昨年の10月、名義教会での着座式を前に、いつもと同じようにこの教会を訪れ、祈りを捧げた時に、一つのことが心に浮かんで来ました。それは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。

現代であれば、皆さん、初めて訪れる国に出かける前に何をされますか。ちょっと前であれば、「地球の歩き方」と言うマニュアルみたいな本がありました。今もあると思います。わたしも大変お世話になりました。そして今であれば、まずネットで検索しませんか?到着する空港の情報や泊まるホテルの情報は言うに及ばず、現地の治安や経済状態、何をするべきか、また何を避けるべきか、などなど。ありとあらゆる情報を、出かける前に識ることができます。それだけ情報を事前に調べたとしても、そこがやはり初めて行く国であれば、不安は心に残ります。

それが16世紀はどうだったでしょう。ザビエルには日本について調べる手段は何もなかったことだと思います。事前に断片的な情報はあったことでしょうが、現代のわたしたちが手にするような情報は、全くと言っていいほどなかったことだと思います。それであればこそ、心に抱える不安は大きなものがあったことだと想像します。それでも彼は出かけていきました。大海原に乗り出しました。命がけの冒険であります。

今の時代の便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を、わたしたちから奪ってしまったような気がします。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気が出てこない。

聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気、神の計画にすべて身を委ねる勇気でありました。

いまシノドス的な教会になる道を歩むわたしたちは、ともすれば、先行きがはっきりしないがために、どこを目指しているのかを明確に識ることができないために、尻込みし、様々な理屈をこねくり回しては、前進ではなく今の場所にとどまろうとしてしまいます。不安なのです。先行きが見えないので不安なのです。教会はいま、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せようとしています。

2月の最初の週には、日本の教会の殉教者の記念日が二つ並んでもうけられています。2月3日は福者ユスト高山右近、そして2月5日が聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。

福者ユスト高山右近は、生涯をかけて信仰を守りぬいたが故に、すべてを失い、生まれた国を追われ、家族とともにマニラに追放処分となりました。1614年末のことです。右近は、その直後に熱病にかかり、翌1615年2月3日に、マニラで亡くなられたと伝えられています。信仰のために、すべてを奪われ、それでも喜びと希望のうちに信仰を全うした生き方が、殉教者としての生き方であると教会は認めました。

右近を大名の座から追放しようと決めた秀吉の気持ちを和らげるため、「妥協せよ」という周囲の忠告に耳を貸さず、右近は説得する周囲に対して、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたと伝えられています。

「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟は、わたしはわたしの考えるように生きるという宣言ではなく、わたしの人生は神の手に委ねられているという宣言であります。神にすべてを委ねる勇気が、右近にはありました。

本日このミサでわたしたちが記念している日本26聖人殉教者。1597年2月5日、長崎の西坂の地で、信仰を守り抜き、そのいのちを神にささげた26人は、「人間は一体何のために生きるのか」という問いかけに対する答えを、その生涯の言葉と行いを通じて、多くの人に対して証しいたしました。最後の最後まで神の計画に身を委ねるという勇気を、多くの人の目の前で証しして行かれました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、神の計画にすべてを委ねるという勇気ある行動であることを証ししました。殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなく、勇気を持って神の計画に身を委ね、それを最後まで生き抜いた、その生きる姿にこそ、具体的なあかしによる福音宣教としての意味があります。

26人の聖なる殉教者たちは、「人間はいったい何のために生きるのか」という問いに、明確な答えを残して、そのいのちを生き抜かれました。聖なる殉教者たちは、現代を生きるわたしたちに、人生においてどのように福音を生き抜くのか、その模範を残されました。

シノドスの歩みは、勇気を持って神の計画に身を委ね、いのちを生きる希望をあかしする旅路です。聖霊がどこにわたし達を導いていくのかを、事前に知ることはできません。兄弟姉妹と歩みをともにし、互いに支え合い、ともに祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、わたし達を絶望から解き放し希望を生み出す道です。

聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、わたしたちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。

 

| |

2026年1月31日 (土)

2026年奉献生活者の日ミサ@麹町教会

Hoken2604

2月2日の主の奉献の祝日にあわせて、教皇聖ヨハネパウロ2世は、1997年に奉献生活者のための祈りの日を設けられました。

故チェノットゥ教皇大使の呼びかけに応え、日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることにして、すでに10年以上の歴史を刻んできました。2026年の奉献生活者のためのミサは、本日1月31日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

Hoken2601

わたしが司式と説教を担当し、修道者担当の山野内司教様他大勢の修道会司祭が参加してくださり、聖堂も様々な形態の奉献生活者で一杯でした。今年は、なんと新潟の上越のクララ会修道院から、お二人が参加してくださいました。

Hoken2602

またミサの前には四名の若い奉献生活者の体験の分かち合いもあり(下のビデオ冒頭をご覧ください)、また拝領後には、誓願10周年の男女奉献生活者のお祝いもありました。これからも多くの青年たちが、奉献生活の道へと歩みを進めてくださることを祈っています。

Hoken2605

以下、本日手元にあった説教原稿です。

奉献生活者のミサ
2026年1月31日
聖イグナチオ麹町教会

昨年一年、正確には2024年12月24日にバチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉が教皇フランシスコによって開かれて、2026年1月6日に教皇レオ14世によって閉じられるまで、わたしたちは「希望の巡礼者」をテーマとした聖年を過ごしてきました。

教皇フランシスコは聖年開幕を告げる文書の中に、「キリスト者の希望の光が、すべての人に向けられた神の愛のメッセージとして、一人ひとりに届けられますように。教会が、世界のあらゆる場所でこの知らせを忠実にあかしすることができますように」と、この聖年への期待を記されていました。果たしてこの聖年を通じて、わたしたちは希望の光をすべての人に届ける者となることができたでしょうか。

教皇フランシスコは、同じ文書の冒頭で、教会は「希望を神の恵みからくみ取ることに加え、主がわたしたちに差し出す、時のしるしの中にも希望を再発見するよう招かれて」いると強調されました。その上で教皇様は、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と、教会全体がいのちの危機に直面する多くの兄弟姉妹に手を差し伸べともに歩む教会であるようにと招かれていました。

聖年の閉幕にあたり主の公現のミサで教皇レオ14世は、占星術の学者たちが「宮殿や神殿を後にして、ベツレヘムへと旅立」ったことによって希望の星を再び見いだしたことに触れ、現代にあっても多くの人が占星術の学者たちと同様に、危険や困難を顧みずに希望を求めて歩みを進めようとしていることを指摘します。

教皇様は、「わたしたちの教会の中にいのちはあるだろうか。生まれようとするもののための場所はそこにあるだろうか。わたしたちは、自分たちを旅立たせる神を愛し、告げ知らせているだろうか」と問いかけ、さらに「主の道はわたしたちの道ではありません。暴力をふるう者がそれを支配することはできません。世の権力ある者もそれを妨げることはできません。ここに占星術の学者たちの大きな喜びがあります。彼らは宮殿や神殿を後にして、ベツレヘムへと旅立ちます。そのとき、彼らは星を再び見つけたのです」と指摘されています。この世の栄光や価値観の中に安住し挑戦や変化を避けていたのでは、神における希望を見いだすことはできないと強調されます。

その上で、教皇様は、「だから、希望の巡礼者となることはすばらしいことです。そして、ともに希望の巡礼者であり続けることもすばらしいことです。神の忠実さはわたしたちを驚かせ続けます。わたしたちの教会を記念物にしてしまわず、わたしたちの共同体が帰るべき家であり続け、わたしたちが権力ある者の誘惑に抗い続けるなら、そのときわたしたちは新しい夜明けの世代となることでしょう」と呼びかけられています。

まさしくわたしたちがこの数年間追い求めているシノドス的な教会とは、単なる機構改革ではなく、生き方の変革、すなわち希望をもたらす巡礼者としてともに歩んでいく生き方を選択し、ともに祈りのうちにそれを生きようとする共同体としての教会となることであります。シノドス的な教会は、わたしひとりが希望の光を届ける者となるのではなく、教会共同体全体が希望をもたらす巡礼者として、この世界を共に旅する神の民となるようにと、わたしたちを招いています。

先日一月七日と八日に行われた臨時の枢機卿会の閉会にあたって、教皇レオ14世はこれから数年間の教会の優先課題を明確にするために、多くの声に耳を傾ける姿勢をご自分もそして教会全体も持つことの重要性を指摘され、教皇フランシスコが第二バチカン公会議の仕上げとして始められた今回のシノドス的な教会となる道を継続することを明確にされました。その上で教皇様は、「わたしたちの使命の中心にキリストを見いだすこと。福音をのべ伝えること。わたしたちは皆、イエス・キリストが中心であることをよく知っています。わたしたちはキリストのことばを告げ知らせたいと望みます。それゆえ、現代世界の中であかしを行うことができる、真の霊的生活をわたしたち自身においても生きることが重要です」と呼びかけられています。

この教皇様のことばを念頭に置く時、奉献生活者の神の民における役割の一つに、率先して真の霊的生活を生き、その共同体の中で、教会のシノドス性を具体的に生き、希望を証しする者となることがあると思います。

 「必要とされるのは、神の父としての顔と教会の母としての顔を示すことができる人々です。また、他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です。教会が必要とする奉献された人々とは・・・神の恵みによって変容されることに身を委ね、自分をあますところなく福音に一致させる人です(105)」と使徒的勧告「奉献生活」に記されたのは教皇ヨハネパウロ二世でした。

暴力が支配し、いのちを危機にさらす世界は、絶望を生み出す暗闇であります。社会の混乱は、先行きが見通せない不安を生み出し、不安は希望を消し去ります。災害による社会の混乱をわたしたちがコントロールすることはできませんが、しかしいま世界を混乱させている状況は、人間が生み出した状況です。相互不信と対立は、排除と暴力を容認しています。社会の混乱の中で希望の見いだせない不安にいる人間は、疑心暗鬼を深めます。疑心暗鬼を深めたとき人間は、少なくとも自分にとって確実なものだけは守ろうといたします。自分にとって確実なもの、それは自分自身の存在であります。すなわち、不安と相互不信と混乱の行き着く先は、自己保身であり、究極的には徹底した自己中心、利己主義であり、異質な存在の排除であります。

そうであるにもかかわらず、人間は社会という共同体の中で生きていかなくてはなりません。共同体の構成員が自己保身を深めるとき、社会全体も自己保身的になってまいります。ひとり一人が排除する傾向を強める時、社会全体もそのようになっていきます。

そういう時代であるからこそ、わたしたちは、神はわたしを愛してわたしだけにいのちを与えてくださったのではなく、わたしたちを愛してわたしたちにいのちを与えてくださったのだ。だからこそわたしたちは互いに助け合って、互いを尊重して、ともに歩み、神からの賜物であるいのちの尊厳が護られる社会を生み出していかなくてはならないと、自分たちの存在を通じて、社会に訴えていく存在でありたいと思います。奉献生活に生きる皆さんには、先頭に立たなくてもかまいませんが、率先してその証しに生きる者であってほしいと思います。

世界は、いま、暗闇を打ち破り、絶望を取り去る希望を必要としています。わたしたちはこの聖年が終わったからと言って、希望をもたらす巡礼者であることをやめるわけではありません。いまの世界には希望が必要です。多くの人の心に、希望をもたらす巡礼者の旅路を一緒に続けていきましょう。

| |

«週刊大司教第242回:年間第四主日A