2026年平和旬間@東京教区
日本のカトリック教会は、広島に原爆が落とされた8月6日から終戦の15日までの10日間を、平和旬間と定め、毎年、平和について黙想し、祈り、また呼びかけ行動するための期間としています。もちろん平和について考え祈ることはキリスト者にとって常に必要なことですが、この10日間の特別な期間は、1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世が、広島の地から世界に平和を呼びかけたことに触発され、その呼びかけを受けて翌1982年から毎年集中して平和について考え祈るときとして行われている特別な時です。
まさしく大量破壊兵器で、一瞬のうちに何万、何十万もの人命が奪われた体験を、その歴史において二度も刻まれた私たちの国は、人類社会全体に対してその悲劇から生み出された平和を希求する真摯な願いを、訴え続けていく責務があります。さらにはそもそも核兵器の使用を招いた戦争という手段を持って国家間の紛争を解決することに対しても、同じ家に生きる兄弟姉妹として解決するためには他の道があるのではないかと、世界の国々に呼びかけたいと思います。
この平和旬間にあたり、司教協議会会長としての談話を発表しています。カトリック中央協議会のサイトをご覧ください。
また東京教区の平和旬間の取り組みは、教区ホームページのこちらをご覧ください。
以下、本日午後3時半から東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた平和祈願ミサの、説教原稿です。なおこのあと平和巡礼ウォークが目白駅まで行われましたが、わたしは急用のためローマへ出かけなくてはならなくなり、平和巡礼ウォークには参加できませんでした。暑い中、参加くださった皆さま、ありがとうございます。
平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月8日平和を求めて語り、また行動する人に対して、嘲笑の言葉が浴びせられるのは、決して目新しいことではありません。旧約聖書にも、例えばエレミヤ書には、王に対して戦いを控え、攻めてくる敵に刃向かわないことこそがいのちを守ることだと忠告する預言者エレミヤに対して、役人たちは王にこう言ったと記されています。
「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」(エレミヤ38章4節)
こうしてエレミヤはすさまじいまでの迫害を受けることになりますが、平和を語り続けたことでいのちを危機にさらした事例はわたしたちの身近にもあります。
太平洋戦争へと歩みを進めていた日本においても、政治家だけではなく、平和を語る学者や宗教者、そしてジャーナリストなどに対して、治安維持法に基づく嫌疑で弾圧があったり、社会全体の好戦的な雰囲気が醸成される中で、それに抗うものに対する社会的な圧力と具体的な攻撃は増していったことが記録されています。
そしていま、社会全体がどこに向かっているのかは、実際には予測することは難しく結果論でしかないのかもしれませんが、必ずしも平和の方向に向かっているとは言いがたく、人間の好戦的な指向性に資する方向に歩みを進めているようにしか感じられません。
1981年に広島を訪問された教皇聖ヨハネパウロ二世は、「戦争は人間の仕業です」とその平和アピールを始められました。続けて教皇は、広島と長崎について、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にすると、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめる」と述べています。
さらに教皇は、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と三回繰り返され、核兵器の使用による悲劇を忘れることなく、核兵器の使用の否定と核兵器の廃絶に触れた上で、こう述べておられます。
「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません。」
私たちは今どのような道を歩もうとしているのでしょうか。平和への呼びかけが嘲笑の的になる時代は、果たして平和へと向かっている時代なのでしょうか。
教皇レオ14世は、先般ご自身の著書を発表され、そのタイトルを、まだ仮訳ですが、「武器のない、武器を取り除く平和」とされています。
教皇は序文の中で、「平和を生み出すのは核兵器ではなく、軍縮です。この数十年間、核の緊張緩和が進む中で自明のものと思われていたこの真実は、今日、人々を恐怖と戦慄に陥れている軍拡競争によって影をひそめてしまいました。」と記しています。
その上で教皇レオ14世は、「平和は、つまるところ希望を必要としています。教会はこれからも、すべての人々への愛を説き続けるでしょう。もし世界が今日何かを求めているならば、それは未来への希望のメッセージであるとわたしは信じています」と記し、主イエスのメッセージにこそ希望の唯一の源泉があり、それを告げる使命があるのだと強調されています。
わたしたち日本の司教団は、昨年の戦後80年にあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもってわたしたちに突きつけられています。
人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、実はそれは間違いなどではなくて、それこそがわたしたちの本当の姿なのかもしれないと思ってしまいます。
いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。
東京教区の姉妹教区であるミャンマーでは、今でも軍事政権による混乱が続き、平和を求める教会の叫びには暴力が襲いかかり、絶望を生み出し続けています。先日バチカンで行われた枢機卿会議で、二日間、アフリカは南スーダンの首都ジュバ大司教のムラ枢機卿様と隣同士でしたが、南スーダンを始めアフリカ各地の非常に厳しい社会情勢と、いつ終わるともしれない内戦状態について実情を伺い、リーダーたちが平和に目覚めるように祈ってほしいと依頼されました。世界の各地で、平和は片隅に追いやられ、忘れ去られ、命が危機に直面し、暴力のもたらす絶望が支配しています。
私たちはこの現実の中で、愚直に平和を語り続けるものでありたいと思います。非戦による平和を説いて迫害されたエレミヤでありたいと思います。
神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられ、似姿としての人間の尊厳を与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。
平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。過去に謙遜に学ぶものでありましょう。
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