2024年4月12日 (金)

アドリミナのために司教団はローマにいます

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今週、日本の司教団は全員で、ローマに滞在しています。といっても司教さんたちが一緒に旅行をしたくなったので団体旅行に出かけたとか言うわけではありません。

教会法の399条の1項に、教区司教は五年ごとに、教皇様に対して、自分に任せられている教区の状況を報告しなくてはならないと定められているからで、その報告をいつするか、どのようにするのかは、聖座が決めると定められています。

わたしにとっては2007年、2015年に続いて、三回目のアドリミナです。今回から、聖座から指示された「どのように」の部分が、大きく変わりました。現状の司教の総数では、5年ごとの訪問は不可能となり、いまは、今回が9年ぶりであるように、7年から9年くらいのインターバルになっています。

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以前は、日本の教会を管轄している福音宣教省と、教皇様との謁見へは、司教団全員で出かけましたが、今回からは、調整役となる福音宣教省の担当者が定めたスケジュールに従って、ほぼすべての省庁を、司教団全員で訪問することとされました。以前の時は、福音宣教省や教皇謁見以外では、それぞれの司教が担当している委員会などに対応する役所を、それぞれ訪問していました。ですから一人一人の司教がすべての省庁を訪問することはなく、スケジュールには余裕がありました。

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しかし今回は、朝8時半頃から始まって昼の1時過ぎまで、そして午後も3時くらいから6時くらいまで、ほぼ毎日、いくつもの省庁を、全員で訪問しなくてはなりません。ドレスコードもあります。省庁訪問はローマンカラーにダークスーツ。教皇謁見は司教正装です。おじさんたちばかりが黒ずくめの団体で、ぞろぞろ移動している姿は、特にバチカンを訪れる観光客の中にあって、目立ちます。移動するのも、宿も食事も全員一緒です。

それぞれの省庁に割り当てられた時間は、大体1時間半ほど。すべてがサンピエトロの周囲にあるのではなく、いくつかの省庁は、ローマ市内の飛び地にもあります。2025年の聖年に向けて、ローマ市内は道路やら何やらの工事中で、どこへ行っても大渋滞。移動も簡単ではありません。(なお掲載している省庁の写真は、訪問した省庁のほんの一部だけです)

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そのそれぞれの省庁の一時間半ほどで何を話すのか。当然通訳が入りますので(省庁側はイタリア語、こちらは日本語で、相互に通訳が入ります)、実際に使える時間は半分です。まずは省庁側が、自分たちの紹介や、この数年の間に(前回のアドリミナ以降)行った通達や指示などについて説明をし、その後それに対して日本の司教団からの現状の報告を行い、最後にいくつか質問をいただいて、それに答えて、それでほぼ時間は終わります。ですので、何かテーマを決めて、話し合いをするということではありません。基本的に互いの活動の報告をして、聖座側の質問に答えているという状況です。特にこの数年は、教皇様の指示による省庁の再編成が進んでいて、前回のアドリミナの時には存在していなかった省庁や(総合的人間開発省など)、合併で役割が変更になった部署もあります。ですから、その役割について初めて聞くようなこともありました。毎日いろいろと新しいことを学んでいます。そして日本の現状も伝えることができているかと思います。

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もちろん、いくつかの省庁では、日本の司教団から、様々な課題について、対応を質問されたりもしますが、基本的には情報交換です。またいくつかの省庁では、この数年間に世界中の教区に出した指示を、日本では具体的にどのように生かしているのか、様々に尋ねられたりもします。

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使徒の後継者である司教にとっては、偉大な使徒である聖ペトロと聖パウロの、それぞれの墓所である大聖堂を巡礼訪問し、ミサを捧げることは重要なアドリミナの行事です。また教皇様にお会いして、日本の教会の状況を報告することも大切です。

今回のアドリミナでは、明日、金曜日の午前中に教皇様とお会いして、2015年以来の日本の教会の現状を報告することになっています。

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今回省庁を訪問して感じていることは、やはりローマから見るとはるか極東にある日本の教会の現状はよく伝わっていないと感じることと、同時に、教皇様の省庁改革によって、それまでの教えてやる、指導してやる、という雰囲気は、少々和らぎ(少々です)、聖座の省庁は、それぞれの教区の手助けのために、宣教活動の支援のためにあるのだということが強調されたことでしょうか。特に、前回2015年と比較しても、いくつかの省庁では信徒の専門家や女性の役職者が見られるようになり、いくつかの部署を除いて、柔軟な雰囲気が広まりつつあると感じさせられます。

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明日の教皇様と司教団の謁見、そして聖ペトロの墓所でのミサ、さらに土曜朝の聖パウロの墓所でのミサで、今回の訪問は終了です。それぞれのバチカンの省庁のみなさんから、日本の教会のみなさん一人一人の宣教活動への貢献と協力に感謝の言葉あることをお伝えします。

 

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2024年4月 6日 (土)

週刊大司教第162回:復活節第二主日B

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復活節第二主日は神のいつくしみの主日です。

メッセージの中でも触れていますが、日本の司教団は4月8日から13日まで、定期的な聖座訪問「アドリミナ」のために、全員がローマに出かけます。もちろん様々な理由から、全員が一緒に飛ぶことはありませんが、この数日以内に、日本の現役のすべての司教はローマに集合し、バチカンの各省庁を訪問して意見交換をし、さらに教皇様と謁見して、日本の教会についての報告をしてきます。

また滞在中には、省庁訪問や教皇様との謁見だけでなく巡礼の要素もあり、特にペトロとパウロの墓前で司教団はミサを捧げます。

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私にとっては、2007年のベネディクト16世教皇、2015年の現フランシスコ教皇と、三回目のアドリミナになります。上の写真は、その2015年のアドリミナに参加した日本の司教団ですが、よく見るとそのときから9年で、現在の司教団の顔ぶれは大きく変わっていることが分かります。この写真に写っている2015年当時の日本の司教団は16名ですが、そのうち、すでに10名が引退され、そこには新しい司教様が任命されています。一口に「日本の司教団」と言ったとしても、その顔ぶれは10年くらいでガラリと変わっているものです。

アドリミナに出かけている日本の司教団のため、また教皇様のために、どうぞお祈りください。お願いいたします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第162回、復活節第二主日のメッセージ原稿です。

復活節第二主日B
週刊大司教第162回
2024年4月7日

ヨハネ福音は、主が復活された日の夕刻、まだ何が起こったかを理解していない弟子たちが、恐れのうちに隠れてしまっている様を伝えています。もちろん自分たちのリーダーを殺害した人々の興奮への恐れもあったでしょうし、同時に、見事にイエスを裏切り見捨ててしまったことへの自責の念もあったことでしょう。

その弟子たちの真ん中に現れたイエスは、弟子たちの心の闇を打ち払うように、平和を告げます。平和は神が定められた秩序が完全に存在する状態です。神との完全な交わりのうちにある状態です。すなわちここで、イエスは神がいつくしみそのものであり、常に神との完全な交わりへと招き続け、見捨てることはないことを明白に示します。神のいつくしみに完全に包み込まれていることを知ったとき、弟子たちの心の暗闇は打ち払われました。

復活節第二主日は、「神のいつくしみの主日」です。1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」に、教皇ヨハネパウロ二世は、「(神の)愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(7)と断言されています。

教皇フランシスコは、2015年12月8日から一年間を、「いつくしみの特別聖年」と定められ、神のいつくしみについてあらためて黙想し、それを実行に移すようにと招かれました。

その特別聖年の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」には、「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父のいつくしみを現さなければなりません」(12)と記されていました。

わたしたちはいま、世界の各地で、いのちの危機に直面し、暗闇の中で恐れに打ち震えています。どこへ向かって歩みを進めれば良いのか分からずに、混乱した世界で生きています。そのわたしたちに、常に共にいてくださる主イエスは、わたしたちの直中に立ち、「あなた方に平和があるように」と告げながら、わたしたちをそのいつくしみで包み込もうとされています。復活された主は、わたしたちの具体的な愛の行動を通じて、世界に向かって平和と希望を告げしらせようとしています。「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命が」あります。

不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っているわたしたち一人ひとりが、いつくしみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

明日4月8日から13日まで、日本の司教団は全員で、アドリミナの訪問のためにローマを訪れています。アドリミナとは、世界中の司教団が、定期的に聖座を訪問し、ペトロの後継者である教皇様に謁見して教会の現勢について報告をし、聖座の各省庁を訪問して情報交換するために行われます。さらには教会の礎を築いた二人の偉大な使徒、聖ペトロと聖パウロの墓前でミサを捧げ、サンタマリアマジョーレとラテランの両大聖堂にも巡礼します。前回は2015年でした。ローマを訪問している日本の司教団のために、また教皇様のために、お祈りください。

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2024年4月 2日 (火)

2024年御復活の主日@東京カテドラル

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3月31日、復活の主日、午前10時からの東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月31日

皆様、御復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方、堅信を受けられた方、おめでとうございます。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。

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教会は、単に日曜日に集まるこの建物だけのことではありません。教会とは人の集まりのことです。御父がわたしたちに賜物としていのちを与えと信じ、復活されたイエスを救い主、新しいいのちに招かれる主と信じ、聖霊が常に守り導いていると信じている、信仰者の集まりこそが教会です。旧約においてイスラエルの民が神から選ばれ、神と契約を結んだように、主イエスの御体と御血による新しい契約の民として招かれているわたしたちは、新約における神の民であります。教会は、救いの道をともに歩む神の民であり、その中心には、ご聖体を通じて、また御言葉を通じてわたしたちと共にいてくださるイエスがおられます。そして最後の晩餐で示されたように、イエスはわたしたちに、互いに足を洗いあうように、すなわち互いに愛し合い支え合って歩むようにと命じられました。さらに復活された主は、全世界に行って福音をのべ伝えるようにと命じられました。わたしたち教会は、その命令に生きて、時の流れを旅する神の民であります。

新しい仲間を迎え入れ、互いに支え合いながら、ともに歩んでいきましょう。体が一つの部分でできていないように、そこには様々な人がいて当然です。一致は一緒ではありません。それぞれが自らに与えられたいのちを十全に生き、互いに支え合い、ともに歩むことで、主における一致を実現していきましょう。

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さて教皇様は、3月27日に、聖地で暮らすキリスト者に向けて書簡を送られました。昨晩も触れましたが、イスラエルとパレスチナの対立には長い歴史があり、この数ヶ月は、泥沼のような状況の中で、多くのいのちが危機に直面し、ガザではすでに3万人を超えるいのちをが暴力的に奪われたと報道されています。

教皇様は書簡の冒頭で、「わたしたちの信仰の中心にある御復活は、主御自身が生き、亡くなられ、そして復活したまさしくその地でこれを祝う皆さんにとって特に意味があります。あなた方が何世紀にもわたって生きてきたその地がなければ、救いの歴史は成り立ちません。・・・皆さんの信仰における証しに感謝します。皆さんの間に存在する愛に感謝します。希望のない状況で希望を持ち続ける皆さんの力に感謝します」と呼びかけられました。

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主の復活を今日祝うわたしたちは、その出来事を伝えるヨハネの福音を耳にしました。葬られたはずの主の体が見当たらない「空の墓」は、復活の最も最初の証拠です。その事実が起こったその地で、聖地で、いまこのときも、いのちが危機に直面し、人々は希望を奪われ続けています。教皇様の意向に合わせて、わたしたちも、聖地にとどまり続けている信仰における兄弟姉妹の勇気ある証しに感謝し、パレスチナもイスラエルも、聖地に生きているすべての人の安全と安心のため、平和が確立される道が開かれることを祈りたいと思います。

姉妹教会であるミャンマーのバモー(Banmaw)教区のレイモンド司教様から、聖週間中にメールが来ました。レイモンド司教様は、ミャンマーの司教団を代表して、アンドレア司教様の叙階式に参加してくださった方です。

レイモンド司教様からは、ミャンマー北部にあるバモーの町では、この数日、砲撃やドローンによる爆撃が相次ぎ、司祭や信徒はシェルターに避難せざるを得ず、聖週間の典礼を行うことができないというメッセージでした。果たして本日、復活の喜びを共にすることができているのかどうか、心にかかります。

聖地にしても、ミャンマーにしても、またウクライナでも、さらにはシリアやアフリカ各地。それぞれの国の名前を挙げたらきりがありません。いのちを危機にさらすような状況が、世界各地で収まることがありません。その地で生きる人たちが心に抱く恐怖はいかばかりかと想像いたします。いのちの危機に直面し、不安と絶望のうちに希望を失っている多くの方のために、復活の主がいのちの希望を与えてくださるように祈りましょう。同時に、こういった事態が長期にわたって続くと、どうしてもその存在を、安全なところにいるわたしたちは忘れてしましがちであります。忘却されることほど、危機に直面している方々からいのちを生きる希望を奪うことはありません。常に記憶にとめ、平和が訪れるまで祈り続けましょう。

暴力によって引き起こされる悲しみや恐怖は、怒りと復讐の心を引きずり出します。結局、暴力の連鎖がいつまでも続き、いのちの危機が増し加わるだけで、このような人間の状態は神の御心に適うことでは決してありません。

主イエスが復活によって死の闇を打ち破り、新しいいのちの希望が闇に輝いた喜びの日を祝うわたしたちは、あらためていま世界に必要なのは、まさしく新しいいのちに復活された勝利の主が人類にもたらした恵み、すなわち神の愛に基づくゆるしと愛と希望であって、神の平和が世界を支配するように、争いをやめいのちを守り、人間の尊厳を確立するように、祈りのうちに求めたいと思います。

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第一朗読の使徒言行録をどのように聞かれましたか。ペトロの説教です。ペトロは堂々と、「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をしたわたしたちに対してです」と人々に宣言します。使徒の頭であるペトロだから当然と言えば当然です。しかしそのペトロは、復活の出来事の数日前には、三度にわたって、堂々と、イエスのことを知らないと宣言していました。それが良いか悪いかではありません。つまり、復活の出来事の体験は、それほどにまでに人を変えるのです。古い生き方を脱ぎ捨て、新しいいのちとして生きるように、変えるのです。古い生き方を捨て去り、まったく新しい生き方を選択する。それこそが復活の主にあって生きる道ではないでしょうか。

世界の現実を見るとき、またわたしたちの国の現実を見るとき、時に過去のしがらみ、歴史的背景、様々な過去に基づく理由によっていのちの危機が生み出され続けています。暴力の連鎖によって、憎しみと復讐の道を歩み続けるのではなく、まったく新しいゆるしの道を選択すること。何とか今の生きる道を維持していくのではなくて、神の導きの中で、常に新しくされ、いのちを守る道を見いだそうと努めること。それがわたしたちのたどるべき道です。

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2024年3月31日 (日)

2024年復活徹夜祭@東京カテドラル

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御復活おめでとうございます。

東京カテドラルで行われた復活徹夜祭では、15名の方が洗礼を受けられました。またさらに7名が加わって堅信も行われました。おめでとうございます。今日から一緒に信仰の道を歩んで参りましょう

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以下、復活徹夜祭の説教原稿です。

聖土曜日復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月30日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

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暗闇は光によってのみ打ち払われます。復活讃歌の冒頭には「まばゆい光を浴びた大地よ、喜び踊れ。永遠の王の輝きは地を照らし、世界を覆う闇は消え失せた」と、闇を打ち払う光の輝きが記されています。

それほどの力強い光は、いったいどれほどの大きな光なのでしょうか。復活讃歌の終わりには「このろうそくが絶えず輝き、夜の暗闇が打ち払われますように」と歌われています。「このろうそく」とはどのろうそくでしょう。ここに輝いている復活のろうそくです。大きな光でしょうか。いや少しでも風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎です。弱々しい炎です。

復活讃歌は、「その光は星空に届き、沈むことを知らぬ明の星、キリストと一つに結ばれますように」と続いています。

天地創造を物語る創世記の冒頭で、神はまず「光あれ」と宣言し、混沌とした闇に秩序をもたらします。すなわち神こそは、世界を覆う闇を打ち払う希望の光であり、この世界に正しい秩序を与える世界の王であります。復活讃歌は、この小さな復活のろうそくの光が、世界を照らす希望の光である救い主、キリストと一つに結ばれる、神の存在の象徴であることを明確にします。わたしたちは今宵、暗闇の中に集まって、復活のろうそくに火がともされるのを目撃しました。闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持って輝きます。すなわちわたしたちは、復活のろうそくの小さな光をこの闇の中で体験することで、その光が一つになって結ばれる全能の神の光の輝きを体験しました。復活された主は、人類を覆う最も深い闇である死を打ち破り、新しいいのちへの希望を与え、混沌とした世界に新たな秩序を打ち立てられました。復活のろうそくにともされた炎は、死の闇を打ち破り、新しいいのちへと復活された主イエス・キリストの希望の光です。

暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しいいのちに招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることをわたしたちはあらためて思い起こします。

復活のロウソクにともされた小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられました。皆さんお一人お一人が手にする小さなろうそくに、小さな炎がともされていきました。

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「キリストの光」という呼びかけの声に、なんと応えたでしょうか。「神に感謝」です。何をわたしたちは感謝したのでしょう。それは、神から新しいいのちへの希望を与えられたことをあらためて実感しながら、神に感謝しました。ひとり一人のろうそくの炎は小さくとも、ここに集う多くの人のロウソクにそれが分け与えられ、全体として、聖堂を照らすに十分な光となりました。

わたしたちが成し遂げたいのはそれなのです。ひとり一人ができることには限界があり、一人で掲げることのできるいのちの希望の光は小さなものです。わたしたちの周りの闇は、その小さな炎で打ち払うには深すぎる。だからこそ、皆の小さな炎を一緒になって掲げたいのです。教会が、ともに歩むことを強調する理由はそこにあります。いま教会が歩んでいるシノドスの道の本質は、そこにあります。それぞれ掲げるろうそくは異なっているでしょう。炎の大きさも異なっているでしょう。皆が同じことをするのではありません。しかしそれぞれが勝手に小さな炎を掲げていては打ち払うことができないほど闇は深い。だから連帯のうちに、支え合い助け合いながら、共に光を掲げて歩むのです。教会は、いのちを生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではありません。希望と喜びの光を掲げることができなければ、教会ではありません。

主が復活されたその地、すなわち聖地で、いま多くのいのちが暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは三万人を超えるいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。いのちの希望がもたらされた聖地で、いったいどうしたらいのちの希望を取り戻すことができるのか、その道を世界は見いだせずにいます。今この瞬間も、いのちの危機に直面し、恐れと不安の中で絶望している多くのいのちがあることを考えると、暗澹たる思いがいたします。

ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争も、未だ終わりが見通せません。東京教区の姉妹教会であるミャンマーでも、平和を求めて声を上げる教会に、軍事政権側の武力を持った攻撃が続いているとミャンマーの教会関係者から状況が伝わってきます。

世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいます。教会は、いのちを生きる希望を掲げる存在であることを、改めてわたしたちの心に刻みましょう。

戦地や紛争の地だけでなく、わたしたちの生きている現実の中ではどうでしょう。障害のある人たちや幼い子どもに暴力を加え、いのちを奪ってしまう。様々なハラスメントを通じて、人間の尊厳を奪い去る。多数とは異なる異質な存在だからと、その存在を否定する。暴力を受けているのは、神が賜物としてわたしたちに託されたいのちです。社会に蔓延するいのちへの価値観が、そういった行動に反映されています。この社会の中で、教会は小さいけれども希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。

今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けたわたしたちには、キリストとともに、新しいいのちの道を歩むという務めがあります。キリストと共に、そして皆と共に、支え合って歩みます。

主の死と復活にあずかるわたしたちに求められているのは、行動することです。前進することです。なにもせずに安住の地にとどまるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。そこには、ともに歩む仲間がいます。それぞれが自分の小さなろうそくの炎を掲げ、ともに歩むことで、世界を支配する暗闇を打ち払いましょう。

「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現のために、福音を告げしらせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

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2024年3月30日 (土)

2024年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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聖金曜日、主の受難を黙想する日です。東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で、典礼が行われました。

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聖金曜日の典礼では、盛式共同祈願や十字架の崇敬の部分で、歌唱するところがあります。特に盛式共同祈願では、冒頭の祈りの意向を歌唱することになっています。司式する私はその後の祈りを唱えますので、どなたかに歌唱していただく必要があります。これを今年は協力司祭の金泌中(キム ピルジュン)神父様が歌われました。ソウル教区司祭のピルジュン神父様は、このたび2年間の日本語習得を終え、復活祭後に西千葉教会などで助任司祭として正式に任命されていますが、兼任する本郷教会のミサを担当して不在の天本主任司祭に代わって、堂々と歌唱されました。今夜の復活徹夜祭の復活讃歌も、ピルジュン神父様と伺っています。

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この祈願の歌唱部分は、簡単なように見えますが、歌うのは難しいのです。というのも、ミサの叙唱もそうですが、結構高めの音をキープして連続でタタタと歌い続けなくてはなりません。ちょっと気を抜くと、終わりの方の音程が見事に二度程度は落ちてしまい、多分終わりはレの音だと思いますが、それよりも遙かに下になって、落ち着きが悪くなり安いのです。伴奏なしで同じ音程で歌い続けるのは、楽なことではありません。

余談でした。以下、聖金曜日主の受難の説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月29日

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」

イザヤの預言にそう記されていました。

聖金曜日、主の受難を記念する今日、わたしたちは、ともに歩み苦楽をともにしてきた弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに十字架上での死に至るまで、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスに心を馳せ、主とともに祈ります。

その苦しみはいったい誰のためだったのか。それを明確に示しているのが、預言者イザヤの言葉です。それはまさしく、わたしたちひとり一人の罪の結果でありました。

イザヤは「彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだ」と記しています。

今日は、主の苦しみこそは、わたしたちの救いのためのあがないの捧げものであったことを、思い起こす日です。一言も語らず、ただ無言のうちに、その姿を持って、わたしたちに神の愛の深さを示された事実を、かみしめる日です。主の十字架を目の当たりにして、ただただその愛といつくしみに心から感謝を捧げる日です。

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受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせています。

すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべてのいのちを、ひとりたりとも見捨てることなく、永遠のいのちにおける救いへと招くために、わたしたちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。すべての人の罪科を担う神のいつくしみとゆるしです。わたしたちは、主の十字架を目の当たりにして感謝すると同時に、十字架が指し示すその希望と栄光を褒め称えます。

ですからこの裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。三度にわたって主を知らないと主張し、裏切りの罪を犯したペトロを、十字架の出来事を間に挟んで、復活の栄光の証人とすることで、主の十字架が持っている意味を、福音は明確に示しています。それは神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光です。

わたしたちは、主の苦しみの旅路に心をあわせ、ともに歩むようにと招かれています。主の十字架は、わたしたちの信仰の原点です。そこにこそ神の愛といつくしみが目に見える形で示されています。そこにこそわたしたちの目指すべき希望と栄光が、目に見る形で示されています。わたしたちは、信仰の原点である十字架を高く掲げ、その意味を社会の中であかしするように招かれています。

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十字架の傍らには聖母が佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、共に歩み続けます。

昨年2023年10月27日の夕刻、ちょうど開催されていたシノドス第一会期の参加者を、わたしもそこにいましたが、聖ペトロ大聖堂に招いて、教皇様は世界の平和のためのロザリオの祈りを捧げられました。その祈りの中で、教皇様は、次のように聖母に呼びかけられました。

「聖母よ、いまは暗闇の時です。この暗闇の時に、わたしたちはあなたを見つめます。・・・カルワリオにおいて、剣が母の心を貫きました。しかしその謙遜さと力強さで、悲しみの闇にあっても、復活の希望を燃やし続けました。・・・あなたの呼びかけに耳を塞ぎ続けるわたしたちを、あなたは愛のうちに、見捨てることはありません。聖母よ、あなたの手でわたしたちを回心へと導いてください。再び神を最優先とすることができるように。教会の一致を保つことができるように。世界に一致を生み出すものとなることができるように。」

イザヤの預言にあったように、「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった」存在です。その散らされた民を、聖霊の導きの識別のうちに、神の民として再び一致へと導こうとするのが、いまわたしたちが歩んでいるシノドスの道であり、その道を歩む模範は聖母マリアです。わたしたちが身勝手にそれぞれの道を歩もうとするとき、わたしたちは主の十字架にその罪をさらに負わせ続けています。聖母に倣い、勇気を持って神の導きに身を委ね、一致のうちに神の民として神に向かって歩み続けるものでありたいと思います。栄光と希望の十字架の証し人であり続けたいと思います。

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2024年3月29日 (金)

2024年聖木曜日、主の晩餐のミサ@東京カテドラル

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聖木曜日、主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、アンドレア司教様と共に捧げました。

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ミサは、同じ聖マリア大聖堂に所在する関口教会と韓人教会の合同で行われました。

ミサ後にご聖体は、大聖堂向かって左にあるマリア祭壇に安置されました。主の晩餐のミサは沈黙のうちに終わり、聖堂内の装飾は、祭壇の上を含めすべて取り払われます。聖金曜日の主の受難の典礼は、始めも終わりも沈黙で行われ、そのまま暗闇の沈黙で始まる復活徹夜祭につながります。ですから、聖なる三日間は一つにつながった典礼のうちに過ごすときです。

以下、ミサの説教原稿です。

聖木曜日主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

わたしたちは、主イエスご自身によって食事の席に招かれている弟子の共同体です。教会がシノドスの道、すなわちともに歩む道をたどっているのは、教会が本質的に共同体であるからに他なりません。わたしたちはひとりで勝手に独自の信仰を深め歩む存在ではなく、互いに助け合いながら、共に聖霊に導かれて歩みを続ける神の民であります。わたしたちにそのことを明確に示しているのは、最後の晩餐において示された、主御自身の具体的な業による模範です。

最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない」と言われたと記されています。

自分の足を洗うのではありません。自分と親しい人の足を洗うのではありません。自分が好ましいと思う人の足を洗うのではありません。「互いに足を洗いあわなければならない」と、主は弟子たちに命じます。共同体の属するすべての人に対して、わたしたちはそれぞれが、互いの足を洗うために、その前で身を深くかがめなくてはなりません。共同体のすべてのものが、互いに、相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめて、互いに足を洗うようにと主は命じます。身をかがめて互いの足を洗うために、自分自身を全くの無防備な状態にせよと主は命じます。互いにすべてを相手に委ねる姿勢をとるようにと主は命じています。

ひとりでは、互いに足を洗うことはできません。自分の親しい人だけでは、互いに足を洗うことにはなりません。

ですから、教会共同体が、自分ひとりで歩むものではなく、また親しい人だけで歩むものではなく、それよりもすべての人と互いに支え合いながら、祈りあいながら、聖霊の導きを識別しながら、ともに歩む教会であることは、この最後の晩餐の時の主御自身の模範によって、定められたことです。すなわち、シノドス的な教会であること、シノドスの道を歩むことは、何か新しいアイディアなのではなくて、そもそも教会のはじめから当然のように内包している、教会の根本的な性格です。

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福音は、「わたしがあなた方にしたように、あなた方もするようにと、模範を示したのである」という主イエスの言葉を記しています。ですからわたしたちは、互いに助け合いながら、互いに身を委ねながら、ともに歩む共同体でなくてはなりません。

主の晩餐に招かれたわたしたちを、集められた多くの人を、一つに結び合わせているのは、ご聖体のうちに現存される主御自身です。その夜、パンをとり祈りを捧げ裂いて弟子に与えられた主は、「これはあなた方のための私の体である」といわれながら、聖体の秘跡を制定されました。すなわちご聖体は、それを与えられた「わたしたちのため」の主の現存です。わたしたちのための主の体。その主の体は、わたしたちを一致させる主の現存です。

第二バチカン公会議の教会憲章には、「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(教会憲章11)」と記されています。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」で聖アウグスチヌスの言葉を引用しながら、「主なるキリストは・・・ご自分の食卓にわたしたちの平和と一致の神秘をささげます。一致のきずなを保つことなしにこの一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、その一致のうちに互いにいのちを分かち合い、互いに愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。わたしたちは、その一致を、具体的に社会の中であかしする共同体となるようにと、主から命じられています。ご聖体をいただくわたしたちひとりひとりの責務です。

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教皇ヨハネパウロ二世は、同じ回勅で、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。わたしたちは、いのちを生かし、互いを共同体の交わりへと招き、一致のうちに互いに支え合い仕え合う共同体の姿を通じて、いのちのパンにおける交わりへとひとりでも多くの人が招かれるように努めなくてはなりません。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

御聖体において現存する主における一致へと招かれているわたしたちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られるときまで、主の死を告げしらせる」務めがあります。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げしらせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、わたしたち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、互いに支え合い、互いに身をかがめ、足を洗いあう姿勢で生きることを求められています。

教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しています。

「兄弟的無償性を生きない人は、自身を強欲な商人に変え、自分が与えるものとその見返りに得るものをいつも量っています。対して神は、無償で与えてくださいます。忠実ではないものさえも助けるほどにです。・・・わたしたちは無償でいのちを受けました。いのちを得るのに支払いはしていません。だからわたしたちは皆、何ら期待せず、与えることができるのです。助ける相手に見返りを求めることなく、良いことができるのです(140)」

わたしたちは神からの無償の愛のうちに、主の晩餐に招かれています。主御自身である聖体の秘跡のうちに共同体の交わりの中で歩むようにと、招かれています。幾たびも裏切り続けているにもかかわらず、不忠実なわたしたちを主は、幾たびも幾たびも交わりへと招いてくださっています。今日もまた、その最初の招きである主の晩餐を記念するわたしたちの真ん中に立ち、わたしたちを、互いに支えあうものとなるように招いておられます。

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2024年3月28日 (木)

2024年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の本日、午前10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサが行われました。

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学校や特別な業務などがある場合を除いて、教区内の司牧活動で働く司祭は、すべて司教とミサを共にして、叙階の誓いを更新することが求められています。本日のミサには、事前の想定以上に、100名を優に超える司祭が共同司式に参加し、司祭叙階の誓いを更新して行かれました。

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また、ミサのはじめには、サレジオ会の深川信一神学生の祭壇奉仕者選任式と、東京教区の今井克明神学生の助祭・司祭候補者認定式も行われました。また先日、アンドレア司教様から助祭に叙階されたばかりのイエズス会のムカディ助祭(コンゴ出身)が、ミサのために奉仕してくださいました。

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下にビデオも張りますが、本日は私の声の調子が思わしくなく、残念ながら高い音が出ていない調子外れになってしまっています。

以下、本日のミサ説教の原稿です。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

教会共同体は、常に聖霊によって導かれ、常に刷新されながら時の流れの道を前進し続けています。教会は、常に古い存在であるけれど、同時に常に新しい存在でもあります。

ガリラヤ湖のほとりで弟子たちを招かれたイエスの呼びかけのことばによって共同体が生まれ、弟子たちと共にした最後の晩餐でご聖体の秘跡を制定され、十字架における受難と死を通じて御復活の栄光を現し、五旬祭の日、人々を恐れ隠れていた弟子たちに聖霊が降り、その出来事を通じて福音を世界各地へと告知する教会が誕生した。教会は、2000年ほど前に起こったこれらの出来事に根ざしています。その意味で、教会は常に古い存在です。しかし同時に、聖霊降臨のその日から、教会は常に聖霊の導きによって先へ先へと、時の流れの中で新たにされながら、前進を続けてきました。その意味で、教会は常に新しい存在です。常に刷新されながら前進する教会です。

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2020年から続いた世界的なパンデミックは、社会に、そして教会にも大きな負の影響を残しました。教皇様は今年の2月11日、2025年の聖年の開催を新福音化推進評議会議長フィジケラ大司教に宛てた書簡を発表されました。その中で教皇様はこの数年を振り返って、「孤独死という悲劇、存在の不確かさ、はかなさを見せつけられたことに加え、わたしたちの生き方も変えられてしまった」と指摘され、その上で、「わたしたちは、与えられた希望の炎を燃やし続け、すべての人に、開かれた精神、信頼する心、広い視野をもって未来を見つめる力と確信を回復させるため、全力を尽くさなければなりません」と呼びかけておられます。

教皇様は2025年の聖年が、「わたしたち全員が緊急性を感じている新たな再生のしるしとして、希望と自信に満ちたムードを再構築するために、大いに助けとなるでしょう」と指摘され、そういったことを踏まえた上で、聖年のテーマを、「希望の巡礼者」と定めておられます。

教皇様は2024年を祈りのうちに聖年に向けての準備を進めるときとするように求められ、その中でも特に、「この数十年間の教導権とともに、聖なる神の民を方向づけ、導き続け、すべての人に喜びに満ちた福音を告げ知らせるという使命を発展させる」ために、第二バチカン公会議の四つの憲章を学び直すことを求めておられます。教会全体が巡礼者として「多様性の調和の中で一致して」シノドスの道を歩むことが、「教会が従うよう求められている共通の道」を明らかにすると、教皇様は指摘されます。

現代世界憲章には、「神の民は、世界を満たす主の霊によって導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、展望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11)」と記されています。ですから、時のしるしを読み取ることは、教会共同体にとって忘れることのできない責務です。

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とはいえ、常に新しくされて前進し続ける教会共同体というのは威勢の良い響きですが、日本の教会の現実はどうでしょうか。昨年、日本の教会の教区数は、16から15に減りました。全国各地で信徒数の減少や司祭不足から、小教区の統廃合が聞かれるようになりました。二つあった神学院も、今年から東京に一本化されます。修道院の閉鎖は相次いでいます。もちろん日本の社会全体が少子高齢化の影響で縮小減速傾向にあるのですから、教会もその影響を受けるのは当然ですが、マイナスのイメージが顕著です。

パウロ6世の使徒的勧告「福音宣教」に、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくとも、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります」(80)と記されています。

救いのわざは、人間のわざではなくて、神様のご計画のもとにあるので、わたしたちは何も心配する必要はないのかもしれません。しかし問題はそこではありません。「福音宣教」の続きには、「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか」(80)と記されています。

わたしたちはネガティブな現実の前で嘆いて後ろを振り返るのではなく、前を向いて前進を続ける必要があります。なんとしてでも福音を一人でも多くの人に伝えようと様々な手を尽くされる御父の熱意を、具体的に実行するのは、わたしたちの務めです。ですから教会は、福音宣教を「目的」としているのではなくて、福音宣教こそが教会がこの世界に存在する「理由」そのものです。

わたしたちは教会共同体として存在している限り、福音を告げ、多くの人を救いに招くのが当然であって、それはわたしたちにとって副次的な存在理由ではありません。福音宣教はわたしたちの、この世界における根本的な存在理由です。

教皇フランシスコの「福音の喜び」には、「人々との現実の出会いを失って、人間よりも組織に注意を払う、人間不在の司牧」への指摘があり、「歩みそのものよりも『道案内図』に熱心」な教会は、結局、そこに集う人々から熱意を奪い、希望を失わせると記されています(81)。わたしたちも、聖霊の導きに素直に従って、嘆きではなく希望を生み出すような教会でありたいと思います。

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共にシノドスの道を歩み続ける教会共同体にとって、牧者である司祭の存在は重要です。今日のこのミサで、教区で働く司祭団が見守る中で、助祭・司祭候補者認定式と祭壇奉仕者選任式が行われることには、福音宣教の後継者の誕生につながるという大切な意味があります。

司祭への道は、決して共同体の中で序列が上がり段々と偉くなっていくのではなく、反対に、出会う多くの人にいのちを生きる希望を見いだす道を示し、互いの絆を生み出し深めていくために、ともに歩む姿勢を学んでいく道です。司祭養成の道を歩むことは、力強いものとなっていく道ではなく、自分の弱さ、足りなさの自覚を深める道です。自分の弱さを自覚するからこそ、神の力が自分のうちで働くのです。力不足を自覚するからこそ、支えてくださる多くの方々の祈りの力を感じることができるのです。どうか、常に謙遜な奉仕者であってください。

同時に、司祭の養成には、信仰共同体の愛に満ちた関わりも不可欠です。司祭の養成は、養成担当者だけの責任ではなく、教会共同体の皆が責任を分かち合い、祈りを通じて、養成を受ける神学生と霊的に歩みをともにすることが必要です。また神学生にあっては、養成の歩みを進める中で、しばしば困難に直面し、人生の岐路に立たされます。そのようなとき、ふさわしい選択をするために、多くの人の祈りによる支えが必要です。司祭修道者の召命も、信仰における連帯によって生かされます。どうぞ、神学生のために、そして新たな召命のために、お祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、祈りを持って支えてくださるように、歩みを共にしてくださるように、お願いいたします。

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2024年3月27日 (水)

2024年受難の主日(枝の主日)@東京カテドラル

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2024年3月24日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での受難の主日(枝の主日)ミサの説教原稿です。今年は、聖堂の外に集まり、短いですが行列をして入堂することができました。

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なおすでにお知らせしていますが、今後、東京カテドラル聖マリア大聖堂からのミサ配信は、司教司式ミサを中心に、一部のみとなります。配信がある場合は、東京教区ホームページなどでお知らせします。また配信元のYoutubeチャンネルも、関口教会から東京教区に変更となります。詳しくは、東京教区のホームページを、こちらのリンクからご覧ください

なお今年、2024年の聖週間の聖なる三日間は、聖木曜日の聖香油ミサも含めて、すべて配信されます。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月24日

わたしたちが語る言葉は、ただ風に流されて消えていく音の羅列ではありません。わたしたちの語る言葉の背後には、わたしたちの存在そのものがあり、わたしたちの心があり、それだからこそ、わたしたちが語る言葉には力があります。わたしたちの存在を生み出しているいのちが、その背後にあるからです。

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今年の正月の世界平和の日のメッセージで教皇フランシスコは、「AIと平和」というテーマを掲げ、人工知能などのもたらす可能性とその倫理的な方向性を明確にしようとされました。

教皇は、科学技術の進歩と人工知能がもたらす様々な可能性と、新しい技術の裏に隠れて、古来から人類が内包する未知の存在を恐れて、排除する壁を築こうとする傾向が再燃していることを指摘した上で、「人工知能は、人間の比類なき潜在能力や、より高い志に仕えるべきで、それらと競合するものであってはなりません」と指摘されます。

わたしたちは機械ではありません。人工的に合成された音を、外に向かって発生する存在ではありません。わたしたちの発する音は、わたしたちの心を反映した心の叫びであり、その言葉には力があります。

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四旬節を通じて霊的な回心の道程を歩んできたわたしたちは、受難の主日の今日から、聖週間を過ごし、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。その聖週間の冒頭で、主イエスのエルサレム入城の福音が朗読され、そしてミサの中では主の受難の福音が朗読されました。

この二つの朗読ほど、わたしたちの発する言葉の力を考えさせる朗読はありません。その力とは、二つの力です。一つは人のいのちを生かす言葉。そしてもう一つは人のいのちを奪う力。

捕らえられたイエスを目の前にして問いかけるピラトに対して、集まった人々は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音の受難の朗読には記されています。

「十字架につけろ」。なんとわかりやすい短い叫びでしょう。興奮した人々をさらに興奮させるのは、興奮した心に入り込み、それを捉える、わかりやすく短いキャッチフレーズです。「十字架につけろ」という簡単明瞭な叫びは、瞬く間に人々の興奮した心を捉え、大きなうねりを生み出していきました。人の言葉が持つ負の力。暴力的に人のいのちを奪う力は、短いキャッチフレーズが飛び交う中で増幅され、このとき最大限に発揮されていました。

興奮状態の渦の中で、どんな理性的な言葉も興奮した人々を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、抵抗することをやめてしまいます。大きな興奮のうねりに身を任せ、犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡してしまいます。

口々に「十字架につけろ」と叫んでいた人々は、いったい誰でしょうか。

最初に朗読された福音にその同じ人たちの姿が記されています。イエスを喜びの声を持ってエルサレムに迎えた群衆であります。この同じ群衆は、数日後に、イエスを「十字架につけろ」と叫びました。興奮の渦は、理性的な判断をかき消してしまいます。

目の前に展開する大きな興奮の波にただ身を任せ、喜んでみたり悲しんでみたりと、流されるだけの存在が、そこに集まった多くの人たち、すなわち「群衆」です。なぜ自分がそう叫んでいるのか、その理由を考えることはありません。しかし口から発する言葉には、力があります。人のいのちを生かす力、人のいのちを奪う力。自分が発する「十字架につけろ」という言葉が、ひとりの人の、いのちを奪おうとしていることに、気がつこうともしません。

もしタイムマシンが本当にあって、その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆の所へ出かけることができたとして、ひとり一人に尋ねてみたら、どう答えるのでしょう。「別に死んでほしいなんて、自分は思っていない」、「だって、みんながそういっているから」、などなど、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰も感じません。でも口から出た言葉には、力があります。

今の時代のコミュニケーションでは、時として、短い言葉の投げ合いになり、興奮状態の中で、理性的な判断が見過ごされてしまい、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすく、興奮をもたらすその言葉は、いのちを生かす言葉でしょうか。それとも、救い主を十字架につけて殺害したような、いのちを奪う言葉でしょうか。

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わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの人々が、クーデターのあと、いまに至るまで、どれほど翻弄され、暴力の中でいのちの危機に直面しているのか。ウクライナで続いている戦争のただ中で、どれほど多くの人がいのちの危機に直面し、恐怖の中で日々の生活を営んでいることか。ガザを始め聖地で、どれほど多くのいのちが、暴力の中で奪われていることか。

多くのいのちが、恐怖の中で「いまを生きていたい」と叫んでいます。その声が、直接わたしたちの耳に届くことはありませんが、しかし、いのちの危機に直面する人たちの存在は、その言葉に力を与え、その言葉の力をわたしたちは感じることができます。

経済の悪化で職を失った人たち、経済の混乱や地域の紛争の激化によって住まいを追われ、家族とそのいのちを守るために母国を離れ移り住む人たち。思想信条の違いから迫害され差別され、いのちの危機に直面する人たち。異質な存在だからと、共同体から、そして社会から排除される人たち。一人ひとりは、すべて、そこに存在する、賜物であるいのちを生きているかけがえのない神の似姿です。ひとり一人が、「いのちを生きたい」と叫んでいます。その言葉の持つ力をわたしたちは感じることができます。

わたしたちは、いのちを生かす言葉を語るものでありたいと思います。いのちを生きたいと叫ぶ言葉に応えるものでありたいと思います。無責任に、いのちを奪う言葉を語るものとならないように心するものでありたいと思います。

聖週間が始まります。あの日のイエスの出来事にこの一週間心を馳せながら、自分はどこに立っているのか、何を叫んでいるのか、振り返ってみたいと思います。

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2024年3月23日 (土)

週刊大司教第161回:受難主日

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受難の主日となりました。復活祭に向けた聖週間の始まりです。

この復活徹夜祭や復活の主日に洗礼を受けられるみなさん。最終の準備の一週間です。特に聖木曜日に記念する主の晩餐、聖金曜日に記念する主の受難と死、そして墓に収められた主と共に沈黙のうちに復活の喜びを待ち望む聖土曜日。この聖なる三日間を経て、復活の喜びに至るために、復活徹夜祭は、暗闇に輝く小さな光で始まります。闇に輝くいのちの希望の光を私たちは主から受け継ぎます。

この一週間、主とともに歩みましょう。

以下、本日午後6時配信、受難の主日の週刊大司教第161回目、メッセージ原稿です。なお週刊大司教ビデオでの福音は、枝の行列前に朗読されるエルサレム入城を朗読しています。

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週刊大司教第161回
2024年3月24日

捕らえられたイエスを目の前にして問いかけるピラトに対して、集まった人々は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音の受難の朗読には記されています。

「十字架につけろ」。なんとわかりやすい短い叫びでしょう。その場に集まった人々は興奮していました。興奮した心に入り込み、それを捉えるのは、わかりやすく短いキャッチフレーズです。「十字架につける」という簡単明瞭な叫びは、瞬く間に人々の興奮した心を捉え、大きなうねりとなっていきました。

興奮状態の渦の中で、理性的な思考が顧みられることはありません。どんな理性的な言葉も興奮した人々を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、抵抗することをやめてしまいます。大きな興奮のうねりに身を任せ、犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡しました。

受難の主日には、二つの福音が朗読されます。最初に朗読されるのは、イエスを喜びの声を持ってエルサレムに迎えた群衆の姿が記されていました。その同じ群衆は、数日後に、イエスを賛美し喜んでエルサレムに迎え入れたことなど忘れ去って、「十字架につけろ」と叫びました。興奮の渦は、理性的な判断をかき消してしまいます。

「群衆」という存在は、自分自身の頭を使って責任を持って判断をすることを停止した人々です。目の前に展開する大きな波の興奮にただただ身を任せ、喜んでみたり悲しんでみたりと、流されるだけの存在です。なぜ自分がそう叫んでいるのか、その理由を考えることはありません。なぜなら手間のかかる面倒なことだからです。そこにひとりの人の、いのちがかかっていることに、気がつこうともしません。

その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆一人ひとりに、仮にインタビューができたとしたら、どうでしょう。「イエスに死んでほしいなんて、そんなことは自分は思ってもいない」などという、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰が感じるでしょう。

今の時代のコミュニケーションでは、時として、短い言葉の投げ合いになり、興奮状態の中で、理性的な判断が見過ごされてしまう事例を目の当たりにすることがあります。

時として、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。短い言葉のやりとりは,時として、無責任な言葉の投げつけあいに発展します。じっくりと考え練り上げた内容ではなくて、「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすく、興奮をもたらします。だから深く考えることもなく、送信してしまいます。

その言葉は、いのちを生かす言葉でしょうか。それとも、救い主を十字架につけて殺害したような、いのちを奪う言葉でしょうか。

聖週間が始まります。あの日のイエスの出来事にこの一週間心を馳せながら、自分はどこに立っているのか、何を叫んでいるのか、振り返ってみたいと思います。

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2024年3月19日 (火)

教皇様にお会いしました

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3月13日、教皇フランシスコは、2013年に教皇に選出されて11年目の記念日を迎えられました。教皇として12年目に入られました。教皇に選出されたとき、すでに76才でしたし、前任のベネディクト16世が85才で退任されたこともあり、その時点では10年を超えて教皇職を務めるであろうとは、少なくとも私は考えていませんでした。

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ちょうどその2013年の5月に国際カリタスの理事会があり、その際に参加者と一緒に、新し教皇職を始められたばかりの教皇フランシスコにお会いする機会がありました(上の写真。真ん中は当時の国際カリタス総裁のマラディアガ枢機卿)。それから11年です。その間には、2019年に日本を訪問していただき、東京では先導役も務めさせていただきました。また先般のシノドスでは一ヶ月間、度々お会いすることもできました。なんとなく弱々しいけれど、しかし芯がしっかりとした、実は力強い教皇であると、お会いするたびに感じてきました。しかもどんなに困難な状況でもユーモアを忘れない教皇様です。

昨年2023年5月に、国際カリタスの総裁に選出されて以降、新しい事務局長共々、正式に教皇様に謁見をお願いしてこなかったので、このたび国際カリタスの活動報告を兼ねて謁見をお願いしていたところ、教皇儀典室から、3月14日の朝8時半に来るようにとの通達でした。数週間前の知らせでしたので、慌てて準備をし、その間に予定されていた東京教区の会議などはアンドレア補佐司教様にお任せして、3月12日から15日まで、ローマに滞在してきました。

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その間、現在のウクライナやガザ、そしてシリアでのカリタスの活動の件で、東方教会省のグジョロッティ枢機卿様とお会いして意見交換をしたり、総合人間開発省に報告をしたり、シノドス事務局でシスターナタリーとシノドスへのカリタスの関わりについて意見交換したり、事務局長のアリステル・ダットン氏と共に、三日間歩き回りました。バチカン周辺は聖年に向けてそこら中で道路工事が行われており、道路は大渋滞。タクシーやバスを使うより、歩いた方が早いのです。

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3月14日の朝8時前に、教皇宮殿に出向きました。いまや招待状がメール添付のPDFで来る時代です。スイス衛兵にスマホを見せながら、いくつかの関門を通過して、教皇様の執務室までたどり着きました。

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そこでの教皇様との話の内容はかけませんが、健康はいかがですかとのこちらの問いかけに、教皇様は力強く、でも小さな声で、「教皇職を続けるのに問題ない健康状態だと、医者のお墨付きをもらっている」とお答えでした。確かに昨年10月に比べても、少し齢を重ねたのが分かります。しかし頭脳は変わらず明晰。大きな移動は車椅子ですが、短い距離であれば杖をついて歩いておられます。

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4月の復活祭の後に、日本の司教団は全員で、アドリミナの訪問のためローマに行きます。そこで再会することをお伝えして、教皇宮殿を後にしました。教皇様にはお時間を取っていただいて、感謝です。

今年の秋のシノドス第二会期、そして今年末からの聖年などなどに加え、海外への司牧訪問も考えておられる様子です。全力を尽くして与えられた使命を果たそうとされている教皇様のためにお祈りをどうぞお願いいたします。

 

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