2026年4月11日 (土)

週刊大司教第251回:復活節第二主日A

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復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、いつくしみの主日と定められています。

今回のメッセージの中で触れている、2005年4月3日の教皇ヨハネパウロ二世最後のメッセージは、こちらのリンクからお読みいただけます。またいつくしみの主日についての解説も、その末尾に記されています。

教皇レオ14世は、現在の世界情勢、特に中東における米国やイスラエルの主導する戦乱を憂慮され、4月11日の夕刻に平和のための祈りを行うことを決め、参加できる方には一緒に祈るようにと呼びかけています。ローマ時間の夕方ですので、日本時間では日曜の午前1時という深夜となります。可能であればこちらのリンクから中継をご覧いただけますし、ご自分の良い時間に、教皇様の平和への移行に心を合わせて、お祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第251回、復活節第二主日のメッセージです。

復活節第二主日A
週刊大司教第251回
2026年4月12日

週の初めの日の夕方、恐れて隠れていた弟子たちのもとにおいでになった復活の主が、最初に口にした言葉は「あなた方に平和があるように」でありました。

一年程前、2025年5月8日。教皇選挙の二日目の夕刻、第267代の教皇に選出されたレオ14世が聖ペトロ大聖堂のバルコニーに姿を現し、集まっていた多くの人たちに、牧者として語りかけた最初の言葉も、この「あなたがたに平和があるように」という呼びかけでした。

教皇様は続けてこう呼びかけました。

「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです。」

各地で武力による暴力の行使が続き、神からの賜物であるいのちが危機に直面するこのとき、絶望の暗闇のうちあるわたしたちに、主は「あなた方に平和があるように」と呼びかけておられます。

さらに5月18日に聖ペトロ大聖堂前で行われた就任ミサの説教において、教皇レオ14世はこう述べておられます。

「わたしたちの第一の大いなる望みはこれだと言いたいと思います。すなわち、世の和解のためのパン種となる、一致と交わりのしるしである、一致した教会です」

こう呼びかけることで教皇は、分断と対立をもたらす暴力が支配する現代社会の中で、和解と一致を生み出すことはキリストの弟子であるわたしたちにとって、重要な使命であることを指摘されています。

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められました。聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに身をゆだね、互いに分かちあう大切さを黙想する日であります。

よく知られていますが、2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の神のいつくしみの主日のためにメッセージを用意されていました。そこには、こう記されています。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

神のいつくしみを目に見える形とするのは、わたしたちの愛の具体的な実践です。わたしたちの教会共同体における愛に基づくゆるしと和解は希望を生み出し、わたしたちを一致と交わりのしるしであるパン種へと育んでいきます。

教会は絶望を生み出す対立の場ではありません。混乱する世界の中で、互いの愛のうちに、平和を生み出すパン種として、あかしする者でありたいと思います。

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2026年4月 5日 (日)

2026年復活の主日@東京カテドラル

御復活おめでとうございます。

復活の主日、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、700人を超える参列者で一杯でした。昨晩は雨でしたが、今日はなんとか天気も回復し、桜も残っており、春らしい分に金の中での復活祭となりました。

以下、本日10時ミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月05日

主イエスの復活は、受難と死の苦しみを経た後の新しいいのちの始まりであり、永遠のいのちへとわたしたちを導く、御父の愛といつくしみの勝利のお祝いです。いのちを生きる希望のお祝いです。

皆様、主イエスの御復活、おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭において洗礼を受けられ、ともに主イエスに従って歩む仲間となった皆さん、おめでとうございます。信仰は一人でこっそりと生きるものではなく、ともに祈り支え合う信仰の友と一緒に、教会共同体の中で生きるものです。この教会共同体の皆さんとともに、新しく洗礼を受けられた皆さんを喜びのうちにお迎えいたします。

本日の第一朗読、使徒たちの宣教は、力強く主イエスについてあかしをするペトロの姿を記しています。ペトロは渾身の力を込めて、「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と語り、すなわちイエスの福音をのべ伝えていきます。

しかしわたしたちはよく知っています。この勇気に満ちあふれた宣教者は、その少し前に、イエスを知らないと三度にわたって否定し、イエスを裏切り逃げてしまったことを。

ペトロがただの裏切り者にとどまっていたなら、世界に向けて高らかにあかしをするこのペトロの言葉は、全く薄っぺらな言葉になってしまいます。わたしたちは、同じ音を発声していても、それを裏打ちする心があるのかないのかで、言葉の重みが異なることを経験上よく知っています。深い思いと現実の体験に裏打ちされた言葉には、力があります。

2019年に教皇フランシスコが訪日された際、「教皇、日本に難民の受け入れを促す」というような内容のニュースが流れ、それに対して「大きなお世話だ」などという批判的なコメントも散見され、少しだけでしたが炎上いたしました。教皇様の日本での発言を振り返りましたが、実は難民についてはほとんど全く発言しておらず、実際に難民について触れたのは、ここ、東京カテドラルでの青年の集いにおいて、一言、こう述べた部分だけでした。

「とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。」

しかしこの一言が、すべてのいのちを守るためと言う教皇フランシスコの確固たる信念に基づいた「言葉」であったがゆえに、聞く人に大きなインパクトを与えたのだと思います。

わたしたちはネット上だけに限らず現実の世界でも、薄っぺらな言葉が飛び交う時代に生きています。深く考えることもなく、その背景を探ることもなく、言葉の裏にある心に思いを馳せることもなく、反射的にデジタルの世界に投げつけられる様々な言葉。その言葉の多くが時間とともに消え去って行くことを目の当たりにするとき、これらの言葉の裏には何ら信念も価値観もないことが分かります。そういった時代だからこそ、確固たる信念に基づいた「言葉」は、いのちの「言葉」は、暗闇に輝く一筋の光のように、多くの人の心に突き刺さり、大きな反響を呼び起こします。

ペトロのあの日の力強い宣言が、力強いと感じられるのは、その言葉が信念に基づいているからに他なりません。そのペトロは、数日前の、恐れにとらわれて主を裏切った、人間の心の弱さの中にあるペトロではありません。主イエスの復活を体験し、主の十字架によって変えられ、イエスこそキリストであるという信念と、自らもその新しいいのちに招かれているという確信が、ペトロの言葉を裏打ちする信念となりました。確固たる信念に基づいた言葉には、力があります。

十字架の出来事を通じてペトロが復活の栄光の証人となったという事実を通じて、主の十字架の意味が明確になります。十字架は、神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光を示しています。

わたしたちも、同じ信仰に招かれている者として、確固たる信念に裏打ちされた言葉を語る者でありたいと思います。

2020年に始まった感染症によるいのちの危機以来、世界は常にいのちの危機に直面しています。東京教区では姉妹教会であるミャンマーの方々を忘れることなく、平和のために祈るようにと呼びかけ続けています。今現在も政治的に不安定な状況は変わらず、特に中部から北部にかけて、軍部による攻撃にさらされている地域もあり、平和を訴える教会への攻撃も止むことがありません。

またこの時期に始まったウクライナや聖地、とりわけガザでの紛争状態は解決することなく、いまでも多くの人が暴力にさらされいのちの危機に心安まることのない毎日を過ごしておられます。中東各地では、暴力的な状況を逃れ安全を求めて、少数派であるキリスト者が他の地域へと移住するということも起きています。加えて現時点でも、米国やイスラエルによるイラン攻撃によって始まった戦争状態はどのような展開を見せるのか定かではなく、毎日のようにさらに多くのいのちが危機に直面させられています。神からの賜物であるいのちに対する暴力は絶望を生み出し、いのちを生きる希望を奪い去ります。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。ともに歩む中で力づけられ、支え合う仲間とともに、この社会の中にあって、神の愛といつくしみをあかしするようにと招かれています。賜物として与えてくださったいのちを守り、神の似姿としての人間の尊厳を守りぬくようにと招いておられます。ともに歩みながらそのように招いてくださる復活された主イエスこそは、わたし達の希望です。しかしながら世界は、その招きに応えようともせずに神に背を向け、繰り返し絶望を生み出し続けています。

復活祭にあたり、わたしたちはペトロと同じように、主の十字架が示される神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光に与り、新しいいのちへの確信のうちに、いのちの与え主である御父への確固たる信仰に基づいて、力強く福音をあかしするものになりましょう。「わたしたちは、すべての証人です」と語るわたしたち自身の言葉が、薄っぺらな言葉にならないように、教会共同体の中で仲間とともに歩むことで絆を深め、ともに支え合い、ともに祈り合い、ともに感謝を捧げ、信仰における確信を深めながら、神の愛の言葉を告げ知らせるものとなりましょう。

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2026復活徹夜祭@東京カテドラル

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主イエスの御復活、おめでとうございます。

復活徹夜祭で洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。

昨晩、東京カテドラルでは16名の方が洗礼と堅信を受け、共同体に加わりました。

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以下、復活徹夜祭の説教原稿です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月04日

お集まりのみなさま、主イエスの御復活のお喜びを申し上げます。

わたしたちの主イエスの受難と十字架上での死を思い起こし、四旬節の間ともに歩んできたわたしたちにとって、いのちの絶望である死を打ち破り、永遠のいのちへと復活された主エスは、わたしたちの希望の源です。

復活徹夜祭の典礼は、小さな光から始まります。ろうそくにともされた光が、明るい部屋の中であればそれほどのインパクトを残すことはありません。しかし光の祭儀の時に、この聖堂の照明は落とされ、それによって、小さなろうそくの光であっても、暗闇を切り裂くように光り輝く様をわたしたちは体験します。そして旧約聖書に記された様々な物語から語られる、神のことばに耳を傾けました。

これらは神と共に歩む最初の旅路の物語であります。わたしたちすべてを永遠のいのちへと招かれている御父は、それを仰々しい大きな天変地異を持って始めることはされませんでした。すべてを、ひとりの人から、一つの家族から、一つの民から始めて行かれ、まるで暗闇にろうそくの光が輝くように、この世の闇の中で小さく輝く救いの物語でありました。世界の片隅で、神は選ばれた民とともに歩み、その光を徐々に大きく育て上げ、輝きを増していきます。その救いの物語、すなわち救いの計画は、主イエスの受難と死と復活を通じて、小さな民から世界へと羽ばたき、いまや世界中でその光を輝かせる民となりました。

しかし、一人一人が掲げる光は、ろうそくの光のように小さなものであることに変わりはありません。この世界の中で、一人一人は小さな存在に過ぎません。だからこそわたしたちは、この光を輝かせるために、共に神の民として歩み続けます。

暗闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持ちます。いまの世界は、闇を深めています。世界各地で頻発する紛争状態は終わることなく、主イエスご自身が最初に福音を告げた地、聖地を始め、中東での緊張状態は続いています。単に社会の状況が落ち着かないといったレベルではなく、今日、このときにも、いのちの危機に直面し、希望を失い、絶望と嘆きの中で、助けを求めて叫び続けている人がどれほどいることでしょうか。この暗闇だからこそ、わたしたちは光を輝かせなくてはなりません。一緒になって、神の民として、いのちを生きる希望の光を掲げていかなくてはなりません。絶望のうちに失われていくいのちがあることを、いのちの与え主である神ご自身が望まれているはずがありません。

今夜、このミサの中で、洗礼と堅信と初聖体の秘跡を受けられる方々がおられます。ご存じのようにキリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、今夜、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、そこには大人のキリスト者としての果たすべき責任があります。もちろん、すでに洗礼や聖体や堅信を受けているわたしたちすべてにも、同じ責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。

「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」

モーセに導かれてエジプトでの奴隷状態から逃れようと旅だった民は、エジプトのファラオの強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて神にただただ泣き叫ぶばかりでありました。そこで神は、モーセに対して、行動を促します。勇気を持って前進するようにと命じます。しかもただ闇雲に前進するのではなく、神ご自身が先頭に立って切り開く道を、ともに歩めと、命じておられます。

教会はいま、シノドスの道を歩む教会となろうと呼びかけ続けています。教皇フランシスコが何度も繰り返されたように、それは何か新しい組織になるための制度改革をしようとかそういう話ではなく、まさしくこの旧約聖書の物語にあるように、人間には不可能に見える道を、神の導きに信頼して勇気を持って前進する神の民になろうという呼びかけてあります。そのために神の呼びかけ、聖霊の導きを皆で識別しようという呼びかけです。すなわち旧約聖書に記されているように、希望を掲げて勇気を持って歩み続けるという、神の民の原点に立ち返ろうという呼びかけであります。

復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。

「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。」

イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。力強いリーダーが突然いなくなったのですから、呆然と立ちすくんでいたのかも知れません。絶望のうちにバラバラになろうとしていたのかもしれません。

恐れと不安にとらわれ、前に向かって民としてともに歩むことを忘れた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。立ち止まるのではなく、前進することを求めます。行動するようにと促します。ガリラヤは新しいいのちを生きる希望の原点です。なぜならばガリラヤでこそ、イエスが最初に福音を告げ、最初に弟子たちを呼び集めました。ガリラヤ湖畔で、イエスはペトロをはじめとした弟子たちと出会い、従うようにと呼び出しました。ガリラヤは弟子たちにとっての信仰の原点です。自らが教え諭したその地、信仰の原点に立ち返り、そこから改めて勇気を持って希望の旅路をともに歩み始めるようにと弟子たちに命じています。神の民は旅する共同体です。

主の死と復活にあずかるわたしたちの責務の第一は、勇気を持って前進することです。パウロが聖木曜の朗読であったコリントの教会への手紙で述べていたように、わたしたちの責務は、「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせること」であります。復活の栄光へと繋がった主の死を告げ知らせることです。十字架上での受難と死を通じてあかしされた、神の愛を告げ知らせることです。復活を通じてわたしたちに示された、いのちを生きる希望を告げ知らせることであります。

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2026年4月 4日 (土)

2026年聖金曜日・主の受難@東京カテドラル

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聖なる三日間。聖金曜日夜7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた主の受難の典礼での、説教原稿です。

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なお、説教の中で触れている教皇ヨハネ23世の「地上の平和」は、中央協議会から文庫本(ペトロ文庫)として発売されています。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月03日

わたしたちの救い主は、今日、愛する弟子たちに裏切られ、群衆からはあざけりを受け、孤独のうちに十字架を担いながら歩み続け、この世のいのちの絶望の淵にあって、苦しみを耐え忍び、十字架の上で命を御父に捧げられます。

その苦しみは、ご自分の犯した罪のためではなく、イザヤが記しているように「多くの人の過ちを担い、背いた者のためにとりなしを」するためでありました。

イザヤは、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた」と記しています。救い主イエスの十字架における苦しみと死は、わたしたちの平和のために、またわたしたちの癒やしのために、罪のゆるしを願う捧げ物でありました。わたしたちのいのちを生きる希望は、主イエスの苦しみによってわたしたちに与えられています。

それにもかかわらず、わたしたちはその平和のうちにいのちを尊ぶ務めを忘れ去り、神の似姿として与えられた尊厳を護ろうともせず、イエスの苦しみによってもたらされた平和を葬り去り、希望を捨て去ろうとばかりしています。

復活される前のイエスがペトロに直接語りかけた最後の言葉は何だったでしょう。それは、ペトロがイエスを護ろうとして剣を手にし、大祭司の手下であるマルコスを切りつけたときにイエスの言われた、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」であります。その後、三度裏切ったペトロに対して、ゆるしのまなざしを向けたことはありましたが、次に直接イエスがペトロに話しかけるのは、復活の後になります。

すべての人に平和と癒やしを与えるための苦しみの旅路に身を投じるにあたり、イエスが一番弟子であるペトロに言い残された言葉は、武器を捨て、御父の計画を実現させよという言葉でありました。

教皇レオ14世は受難の主日の説教の中で、現在の米国やイスラエルとイランを中心とした中東の戦争状態に思いを馳せながら、「平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください」と呼びかけられました。

教皇様は、同じ説教の中で、「イエスは武器をもたず、自分を守らず、いかなる戦いも行われませんでした。イエスは神の優しいみ顔を示しました。神はつねに暴力を拒絶します。自分を救う代わりに、十字架に釘づけにされます。それは、人類の歴史のあらゆる時間と場所に立てられたすべての十字架を引き受けるためです」と述べています。ですから主イエスは今日も、あらゆる時間と場所に建てられたすべての十字架を一身に引き受け、苦しみを神に捧げ、わたしたちに平和と癒やしがもたらされるようにと、その身を神に捧げておられます。

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受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせます。ペトロは武器を手にすることが主イエスの望まれる平和の構築に繋がらないことを諭され、その後悔のなかでなんとかイエスに繋がろうと大祭司の屋敷の中庭に入ったものの、さらに三度にわたってイエスを否定し、深い後悔と大きな絶望の中に落ち込んでいたことだと思います。

裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。十字架の出来事を通じて、ペトロを復活の栄光の証人とすることで、福音は、主の十字架が持っている意味を明確に示しています。十字架は神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光を示しています。

いま世界は、「十字架につけろ」と熱狂のうちに叫んで、平和と癒やしをもたらす神の御子を死に追いやった群衆のように、「暴力には暴力を。死には死を」と叫んで絶望の暗闇を深めようとしているかのようであります。教皇様と心を合わせて、わたしたちも、世界の政治のリーダーたちに、「平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください」と呼びかけたいと思います。

1962年のキューバ危機を踏まえ、東西の冷戦が深まる中、1963年に発表された教皇ヨハネ23世の「地上の平和」の終わりには、「ひとり一人の中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植えつけなければ、人々の間に平和は成立し得ません」と記されています。

その上でヨハネ23世は、平和が「真理を土台とし、正義によって築かれ、愛によって生かされ、最後に自由において実践される」真の秩序に基づいていなければ、「平和」は虚しい単語に過ぎないと指摘されます。単に争い事が止み、闘いが終わればそれで平和なのではなく、神の計画が実現している世界でなければ、そして一人一人がその神の計画に身を委ねていなければ、真の平和は実現しないと指摘されます。道は遙かに遠いと感じさせられます。

主イエスが苦しまれた十字架の傍らには、聖母マリアが佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。真の神の秩序を実現している聖母は平和の元后です。

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。

教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、平和の実現を目指して歩み続けます。

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2026年4月 2日 (木)

2026年聖木曜日・主の晩餐@東京カテドラル

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2026年聖木曜日、夕方7時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、主の晩餐のミサ説教の原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月02日

「わたしの記念としてこのように行いなさい」

最後の晩餐の席で、ご聖体の秘跡を制定された主イエスは、パンとぶどう酒を弟子たちに与えた終わりに、そう述べられました。

聖週間にあたり、主の受難と死を追憶し、その復活の栄光に与ろうと歩んでいるわたしたちは、その信仰における旅路を、主イエスとともに歩み続けます。そして今夜、主の晩餐を記念してここに集まったわたしたちに対して、パウロは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と、弟子たちに残したイエスのことばを伝えます。

「記念」ということばは、何か記念日などのような響きがありますが、ギリシア語でアナムネシスというこのことばは、単に記憶していることだけではなく、さらに踏み込んで、過去のあるときに行われた出来事に、わたしたちが霊的に結ばれることを求めます。ご聖体祭儀に与るごとにわたしたちは、主の晩餐に招かれ、そこで語られた主イエスの思いへと霊的に繋がります。

イエスは、「行いなさい」と命じられていました。わたしたちは何を行うように命じられているのでしょうか。単にパンを裂きぶどう酒を飲み続けることを繰り返しなさいと命じられているのではありません。わたしたちは主イエスの思いを具体的に生きていくようにと命じられています。主イエスは、その晩、ご自分が賜物として与えられたわたしたち人類のいのちを愛するがあまり、自らを犠牲にして捧げ、人類が数多積み重ねてきた罪のあがないの生け贄となろうとされています。

イエスの受難と死がもたらしたいのちの勝利によって、永遠のいのちへと招かれていると信じるわたし達にとって、その受難と死を通じた復活は、希望の源です。わたし達の希望は、十字架上で捧げられた神の子羊の血によって、罪の枷が永遠に打ち払われる解放へと繋がる過越によって成り立っています。

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福音は、弟子の足を洗う主イエスの姿を記しています。イエスが伝えようとした福音の神髄を、自らの行動で模範として残された、その衝撃的な出来事は、まさしく神の愛といつくしみに基づく具体的な行動の中にこそ、いのちを生きる希望があるのだと言うことを具体的に示しています。キリストに従うものにとって忘れることはできず、自らの行動を持って伝え続けたい出来事が記されていました。

ある研究所の報告では今年2026年に入った段階で、世界では60近い地域紛争が起こっており、それは第二次世界大戦以降最も多いと言われていました。また国境を越えて紛争に関与している国は90カ国を超えるとも指摘されていました。ガザやウクライナでの状況は言うにおよばず、アフリカでも、そしてアジアでも、小規模な紛争は頻発し、それが将来的に大規模な紛争へと繋がっていく可能性を否定することはできません。加えて今現在、世界はイランとイスラエルと米国の動向に注目し、終わりが見通せない戦乱に包まれている中東の状況に、心を痛めています。武力の行使は真の平和の確立には繋がりません。暴力が暴力を呼び起こす、負の連鎖が始まるだけです。

紛争に巻き込まれている各地に平和が訪れることを祈りたいと思います。暴力の波に巻き込まれていのちの危機に直面し、絶望の暗闇の中でいのちをつないでいる兄弟姉妹のために祈りたいと思います。そして暴力を持って争いを解決しようとする政治のリーダーたちに、神の賜物であるいのちを重みに心を馳せ、いのちを守るために自制するように、あらためて呼びかけたいと思います。

このような混乱と悲劇が続く世界にあって、わたしたちのいのちを生きる希望は、どこにあるのでしょうか。すべてのいのちは等しく、神の似姿として尊厳を与えられており、そもそも互いに助けるようにと神から創造されていると創世記に記されていることを考えるとき、世界のどこかでそのいのちが危機に直面している事態は、神が望まれる状況ではありません。

この数年の感染症に始まり各地で頻発する紛争は多くのいのちを暴力に直面させ、奪い去り、世界を利己的で不寛容が支配する場としてしまいました。利己的で不寛容な世界は人間関係を破壊し、人間関係が断絶される中でわたしたちを支配するのは絶望です。いま世界を支配するのは暴力と絶望です。暴力と絶望があまりにも力強く、あまりにもそこかしこにあふれているがために、わたしたちはいまや、それが当たり前であるかのように話し、対抗するためには暴力を肯定することもやむを得ないという雰囲気に包まれてしまっています。

この世界の現実は、主イエスが最後の晩餐の時に、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた行動なのでしょうか。

わたしたちに必要なのは希望であり、そのためにも互いに支え合いともに歩む人間同士の絆を取り戻すことが不可欠です。この現実の中で、今こそ必要なのは、ともにいのちを生きるために連帯することであり、ともにいのちを生きるために支え合うことであり、神の愛といつくしみを具体的に生きることであって、いのちを暴力を持って奪うことではないとあらためて主張したいと思います。

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最後の晩餐の席でイエスは、別れゆく弟子たちに、心の底からの愛を込めて、ご自分が世々に至るまで共にいるということを明確にする秘跡を残して行かれました。どこか遠くから見守ったり励ましたりするのではなく、旅路を歩む巡礼者であるわたしたちと常に共にいることを、ご聖体の秘跡を制定することで明確にされました。主はご聖体の秘跡を通じて、常にわたしたちと共におられ、その信仰の絆においてわたしたちを愛の行動へと招かれています。

教皇ベネディクト16世は、使徒的勧告「愛の秘跡」において、「聖体によって教会はいつも新たに生まれ変わります」と記しています。その上で教皇は、「神の民は、聖体への信仰が生き生きとしていればいるほど、より深く教会生活に参加し、キリストが弟子たちに委ねた使命にしっかりと結ばれた者となります」と指摘されています。

ご聖体の秘跡は、イエスが残される弟子たちに対して、万感の思いを込めて残された愛の秘跡です。だからこそ聖体の秘跡に与るわたしたちは、万難を排して、主イエスの心からの思いを具体的に生きていかなくてはなりません。あの最後の晩餐の席にわたしたちの信仰生活の原点があります。

いのちの源である主ご自身によって集められている神の民は、主の現存である聖体の秘跡によって、力強く主に結び合わされ、主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致し、ともに歩み続けながら、社会の現実の中で、神の愛といつくしみに具体的に生きていこうとしています。

パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、自らを犠牲として捧げるところに、主はおられます。自分を守ろうとするのではなく、隣人を思いやり、互いに支え合い、ともに歩むところに、主はおられます。「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」キリスト者であり続けたいと思います。

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2026年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日である4月2日の午前中、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを捧げました。

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ミサには東京教区で働かれる教区司祭と修道会・宣教会司祭による司祭団130名ほどと、聖堂一杯の修道者や信徒の方が参加してくださり、教皇大使モリナ大司教も同席され、ミサの終わりにメッセージを読み上げてくださいました。

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またミサの中では、東京教区の今井神学生が祭壇奉仕者に、サレジオ会の堤神学生が朗読奉仕者に選任され、司祭への養成課程の一つ前に踏み出されました。またこのミサには、新学期が始まり東京の神学院に集まった全国の神学生たちも参加してくださいました。養成を受けている神学生たちのためにどうぞお祈りください。

なお東京教区では、これまで今井神学生ひとりでしたが、この四月からふたりが新しく加わり、予科での養成を始めました。

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以下、聖香油ミサの説教原稿です。先日出かけてきた、カリタスアフリカの総会(上の写真)について触れています。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月02日

先日、3月16日から21日まで、アフリカのコートジボアールで開催されたカリタスアフリカの総会は、発表されてから21年が経過したベネディクト16世の「デウス・カリタス・エスト(神は愛)」をテーマとしていました。130名を超える参加者はこの回勅の示す方向性を振り返り、アフリカにおける教会の愛の業・カリタスへの取り組みへの決意を新たに致しました。

この総会が採択した最終宣言には、「わたしたちは新たな確信のうちに宣言します。教会は愛そのものです。神の愛は、キリストの脇腹から流れ出る水のように、教会の心からあふれ出し、社会の片隅で苦しむ人々の元へと届いていきます」と、教会の愛の業・カリタスの存在意義が記されています。

わたしたちの教会は、争いの場ではありません。絶望を生み出す場ではありません。この社会のただ中にあって、いのちを生きる希望を生み出すために、教会はこれまで同様これからも愛の実践を通じて、神の愛が、すべての人へと届くように努めようとする存在です。

「デウス・カリタス・エスト(神は愛)」の冒頭でベネディクト16世は、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想」ではなく、「ある出来事との出会い、ある人格との出会い」こそが人をキリスト者にするのだと指摘されています。

教皇フランシスコも2019年11月、東京で東日本大震災の被災者や支援関係者とお会いになったとき、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。・・・町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と言われ、出会いを通じた人と人とのつながりこそが、いのちを生きる希望を生み出すのだと強調されていました。

具体的な人間関係が希薄にありつつある現代社会にあって、わたし達の信仰には、目に見える形での具体的な出会いと関わりが不可欠なのだと、教皇たちは繰り返してきました。それは主ご自身が、「困っている人は自分のことだと」言われ、具体的に「飢えている人、のどが渇いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人」に対して行動したことは、わたし自身にしてくれたことだと言われているからに他なりません。わたしたちは具体的な出会いを通じて心に希望を抱き、主ご自身との出会いへと導かれます。教会は主との出会いへとわたしたちを導く場です。

教皇レオ14世は使徒的勧告「ディレクシ・テ(わたしはあなたを愛している)」に、「貧しい人々に対する教会の愛は、教会にとって本質的なものであり、それは教会の不変の伝統の一部になっています・・・。キリスト信者にとって貧しい人々は、社会学的なカテゴリーではなく、キリストの肉体そのものです(110)」と記され、教会が本質的に愛をあかしする存在であることを明確にします。

昨年5月18日の就任ミサの説教において、教皇レオ14世は、分断と対立をもたらす暴力が支配する現代社会の中で、和解と一致を生み出すことは教会の使命であると指摘されます。

続けて教皇は、「現代、わたしたちは多くの不一致を、また、憎しみと暴力と偏見、違いへの恐れ、地球の資源を搾取し、もっとも貧しい人々を疎外する経済的枠組みによって生じた、多くの傷を目にします。わたしたちは、この練り粉の中で、一致と交わりと兄弟愛の小さなパン種でありたいと思います。・・・わたしたちはこの道を、わたしたちの間で、しかしまた、姉妹であるキリスト教教会や、他の宗教の道を歩む人々や、深い不安のうちに神を求める人々、すべての善意の人とも、ともに歩まなければなりません。それは、平和が支配する新しい世を築くためです。」

わたしたちの教会は、いま、日本の社会の現実の中で、一体何をあかしする存在であるのか、自らに厳しく問いかけたいと思います。わたしたちは、「一致と交わりと兄弟愛の小さなパン種」でありたいと思います。神の愛そのものとして、愛をあかしする存在でありたいと思います。社会の中で疎外された人、孤独のうちにある人、絶望のうちにある人たちとともに歩む教会でありたいと思います。

そのなかにあって司祭は、神の民の牧者として、その先頭に立ち、率先して希望を生み出すものでなければなりません。司祭には、イエスとの出会いの中で生まれるいのちを生きる希望を、多くの人に分け与える務めがあります。ひとりでも多くの人がイエスとの個人的な出会いの中で希望を心に抱き、共同体に生きることで互いに支え合い、連帯のうちにその希望を燃え輝かせるように導くことは司祭の務めです。司祭は、希望という実りをより多く生み出すために、多くの人、特にいのちの危機に直面する人と歩みをともにし、展望と希望を回復させるような関係を作り上げる者でありたいと思います。

本日のこのミサの中で、朗読奉仕者と祭壇奉仕者に選ばれる神学生がおります。

朗読奉仕者選任の儀式書には、その務めとして次の三点が掲げられています。

まず第一に、典礼祭儀で神の言葉を朗読し、第二に教理を教えて秘跡に与る準備をさせ、そして第三にまだキリスト教に出会っていない人たちに救いの教えを知らせることであります。

すなわち朗読奉仕者とは典礼において上手に朗読をするだけの奉仕者ではなく、まさしく福音を告げ知らせ、教会の教えを伝えるために特に選任される重要な役割です。福音宣教の重要な担い手として選任されるのだという自覚を、深めていただきたいと思います。

福音宣教は、単に言葉で語るだけではなく、行いによるあかしを持って伝えられなければなりません。具体的な出会いをもたらす者でなくてはなりません。空虚なことばを語る者ではなく、行いによるあかしとして最も大切な愛の奉仕のわざに生きる者であってください。希望を生み出す出会いをもたらす者であってください。

祭壇奉仕者に選任される方は、教会の奉仕者の務めの中で特別な役割を受け持つことになります。

教会、すなわち神の民は感謝の祭儀を頂点として集まり、そこにいのちの源を見出します。祭壇奉仕者は、教会の司牧責任者の指導、監督のもとに、司祭や助祭の仕事に協力し、また奉仕者として、病人を含めて信者に聖体を授ける務めが託されます。

このような尊い奉仕の務めをゆだねられる祭壇奉仕者は、聖体の秘跡にいっそう深く結ばれよう務め、自分の役割の深い霊的な意味を悟るように心がけなければなりません。私たちの信仰共同体にとって、感謝の祭儀は最も重要な意味を持っていますし、私たちの信仰にとって御聖体はその中心にある、イエスご自身だからです。日々、キリストを通して自分自身を父である神にささげるよう努力してください。また、兄弟姉妹と一つのパンを分かち合うのですから、キリストのからだである神の民の中で、弱い人や困難に直面する人、忘れ去られている人を特に大切にし、キリストの愛の教えを実行するよう心がけてください。

お集まりのみなさまには、神学生たちのために、また司祭のためにお祈りを続けてくださることを、心からお願いいたします。ともに歩む教会共同体を生み出す力は、みなさまのお祈りから生み出されます。一緒にカリタスをあかしする道を歩みましょう。

 

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2026年3月28日 (土)

週刊大司教第250回:受難の主日A

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週刊大司教の250回目にあたる本日は、受難の主日(枝の主日)であり、聖週間が始まります。

すでに東京大司教区のホームページでも公表されているとおり、聖週間中の東京カテドラル聖マリア大聖堂での典礼は、インターネットで配信されますし、後刻にご覧頂くことも可能です

なお、聖土曜日については、「週刊大司教」の配信はお休みです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第250回、受難の主日のメッセージです。

受難の主日A
週刊大司教第250回
2026年03月29日

わたし達は受難の主日から始まる聖週間において、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。受難の主日では、まず冒頭に主イエスのエルサレム入城が朗読され、そしてミサでは主の受難が朗読されます。今週の週刊大司教では、冒頭のエルサレム入城を朗読いたしました。

エルサレムに入城するイエスを、人々は熱狂のうちに迎えます。しかし支配者からの解放をもたらす政治的なリーダーの誕生を待ちわびている民衆の願望は、熱狂を生み出し、熱狂は、心の目をふさいでしまいます。謙遜さのうちにロバに乗って人々と共に入場するイエスの姿を見つめる群衆は、その心の目が熱狂に支配され、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の真髄が、ロバに乗った謙遜な姿に凝縮されていることに気がつきません。心は自分たちの勝手な願望に支配されているからです。

イエスを熱狂のうちに迎えた群衆は、その数日後に、今度はイエスを十字架につけて殺すようにと要求する群衆へと変身していきます。熱狂は冷めやすいのです。扇動された熱狂に支配された人々の心の目には、十字架を背負い罵られながら歩みを進めるイエスの姿に、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の神髄が凝縮されていることに気がつきません。わたしたちに必要なのは、自分たちの願望が生み出す熱狂から距離を置き、心を落ち着かせ、現実のうちに時のしるしを探ることであります。

時として熱狂は、暴力的な負の力を生み出します。熱狂が生み出す暴力は、わたし達のいのちに対して牙をむくことがあります。信仰は興奮の産物ではありません。信仰は静かな出会いの中で見いだされるものです。熱狂した心が見ようともしない現実のうちに、主はおられます。

便利になった世界でインターネットによる情報の拡散は、時にイエスをエルサレムに迎え入れた群衆を支配したような熱狂で、世界を包み込む力を持っています。善と悪の対立のような単純な構造は現実にはあり得ないにもかかわらず、熱狂による興奮は判断を単純化した裁きへとわたし達を誘います。その裁きがさらに生み出す熱狂は、自分勝手なイメージを増幅し、そのイメージに支配される心の目は、そこに生身の人間の存在があることを、賜物であるいのちを生きている神から愛される人間の存在があることを、人の心があることを、見えなくしてしまいます。時としてその熱狂は、イエスを十字架の死に追いやったように、暴力的な負の力を持って賜物であるいのちを破滅へと追いやることさえあります。

教皇様は今年の四旬節メッセージで、「断食」」について語る中で、こう呼びかけます。

「隣人を攻撃し、傷つけることばを控えることです。ことばの武装を取り除くことから始めようではありませんか。辛辣なことば、性急な判断、その場におらず弁解できない人の悪口をいうこと、中傷することをやめようではありませんか。むしろ、ことばを慎み、優しさをはぐくむことを学ぶために努力しようではありませんか。家庭の中で、友人の間で、職場で、ソーシャルメディアにおいて、政治的な議論において、メディアにおいて、キリスト教共同体において。そうすれば、多くの憎しみのことばは希望と平和のことばに代わることでしょう」。

主は、わたしたちの目の前に静かに佇まれ、わたし達が熱狂から解放され、「多くの憎しみのことば」を「希望と平和のことば」に変えられるのを待っておられます。いったいわたしたちは何を見ているのでしょうか。

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2026年3月21日 (土)

週刊大司教第249回:四旬節第五主日A

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四旬節第5主日です。

この一週間は、国際カリタスの総裁の業務で、カリタスアフリカの総会に出席するため、アフリカのコートジボアールへ出かけており、土曜の夜まで帰国していません。詳細については、帰国後に報告します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第249回、四旬節第五主日のメッセージです

四旬節第五主日A
週刊大司教第249回
2026年03月22日

復活祭を間近に控えた四旬節第五主日、イエスの親しい友であったラザロの死と復活の話が、ヨハネ福音から朗読されます。特に復活祭に洗礼を受けるために最終の準備の時期に入る教会は、本日のミサにおける洗礼志願者のための祈りで、「あなたはラザロと墓の中から呼び起こし、またご自分の復活によってすべての人を死から解放して」くださった記します。それによってラザロの復活と主の復活は異なる現実であることを明示します。すなわち、ラザロは主によって呼び起こされたのであり、主はご自分で復活されたと明示することで、主こそがいのちの与え主であり、復活であり、永遠のいのちであることを、信仰においてわたしたちが再確認するようにと促しています。主こそはいのちの与え主であり、復活であり、いのちであります。

イエスは、ラザロの死という苦しみに直面して、単に悲しみに暮れるのではなく、その痛みと苦しみを通じてこそ、神は栄光を現すのだと明示されました。そして御自身も受難の道へと歩みを進められ、十字架上で苦しみの後にいのちをささげられます。しかしその苦しみを通じて、神は永遠のいのちへの復活という栄光を世に示されました。

教皇ベネディクト十六世は、15年前の3月11日に発生した東日本大震災の苦しみを経験した日本の少女の質問に、海外メディアの企画でしたが、答えたことがありました。

「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と問いかける少女に対して、教皇は、「これに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。

その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」と、苦しみのなかにあっても神の愛に身を委ねることが希望を生み出すのだと強調されました。

ベネディクト16世は回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

復活祭が近づいた今、改めてわたし達の信仰の原点であるいのちの与え主との出会い、そして苦しみを通じてこそ現される神の栄光に信頼し、特にこの時期、洗礼の準備をしている兄弟姉妹と歩みを共にしながら、信仰における希望を新たにいたしましょう。

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2026年3月15日 (日)

2026年四旬節第四主日ミサ@東京カテドラル

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以下、本日四旬節第四主日の、関口教会午前10時の主日ミサでの説教の原稿です。

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なお関口教会10時のミサでは、14名の洗礼志願者のための典礼が行われました。洗礼を準備されているみなさんのために、祈ります。

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またミサ後には、ケルンホールで、四旬節の講話を担当させていただき、多くの方に参加していただきました。ありがとうございます。

四旬節第四主日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年03月15日

2月28日の土曜日、米国とイスラエルによるイランへの攻撃が突如始まり、世界は今この時点でも、大きな混乱の中にあります。

すでにコロナ禍の2021年2月1日に発生したミャンマーでのクーデター、それに続く2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻、2023年10月7日に発生したイスラエルによるガザへの攻撃と、世界は武力という暴力によって、神様からの賜物であるいのちが奪われていく様を目の当たりにしてきました。

ウクライナでの戦争が始まる前日、教皇フランシスコは悪化する両国関係と迫り来る戦争の気配に憂慮を示し、こう述べておられました。

「神の前で真剣に良心を問いただすよう、政治責任を負う人々に呼びかけたいと思います。神は平和の神であって、戦争の神ではありません。神は皆の父であり、誰かのものではありません。わたしたちが必要とするのは兄弟であり、敵ではありません」

この呼びかけにもかかわらず、その翌日、多くのいのちが奪われる暴力が始められました。わたしたちが生きているこの時代、世界は、かつてのような世界大戦ではないものの、もっと巧妙に、また発達した技術を使ってもっと冷酷に、そしてかつてよりもっと広範囲で、戦争のうちになんとか生き延びています。

1939年8月24日、第二次世界大戦勃発の気配が支配する世界に向かって、教皇ピオ12世は、ラジオでこう呼びかけました。

「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」

第二次世界大戦前夜のピオ12世の言葉をかみしめながら、あらためて教会は、「武力に頼るのではなく、理性の光によって-換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(「地上の平和」62)」、国家間の諸課題は解決されるべきであるという、ヨハネ23世の「地上の平和」に記されたことばを心に留めます。その上で、国家間の諸課題の解決を口実として、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪う武力に委ねることはゆるされないと主張します。わたしたちの共通の家が平穏に保たれ、神の秩序による支配が確立されるように、政治の指導者たちが忍耐と対話を持って信頼を醸成し、解決の道を模索することを心から願っています。

今日、この瞬間にも、いのちの危機を感じながら恐怖のうちにいのちをつないでいる兄弟姉妹がいることを、仕方がないと諦めてしまうことはできません。

ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復したという奇跡物語を記していました。ちょうど第一朗読のサムエル記には、ダビデの選びの物語が記されていますが、誰もが予測しなかった人物を、神は選ばれたという物語は象徴的です。

神はサムエルに対して、「人間が見るようには見ない。人は目に映ること見るが、主は心によって見る」と述べていますが、そのことばがまさしく本日の福音の物語が語ろうとしていることを象徴しています。

イエスによる奇跡的な癒やしを目の当たりにしながら、ファリサイ派の人々は、安息日の掟を破ったとして、イエスの示される神の真理に自ら目を塞いでしまいます。「見える」と言うことばが、実際に目で見ることと、心の目で理解することの二つの意味があることをわたしたちは知っています。そしてイエスが強調しているのは、まさしく神がダビデを選んだように、目で見えることに心を惑わされずに、心の目で真理を見いだすことの重要性です。

福音の終わりに記されている、視力を回復した人とイエスとの会話は象徴的です。視力を回復した人は、実際に目でイエスを見ており、その人がこの奇跡を働いたことを十分に知っているにもかかわらず、イエスに対して「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と問うています。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。そのことばによって心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。奇跡を働いた神の真理に触れることができたが故の信仰告白です。

ファリサイ派の人たちは、自らの前に枠を設置しているかのように、自分たちが見たいものしか見ない態度を象徴しています。ファリサイ派の人たちは、自分たちの枠組みでしかこの世界を見ることができません。枠からはみ出すものは、存在しないも同様です。ですからその枠に収まらない奇跡的出来事を目前にして理解することができずに、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、反対に癒やしを与えられた人を叱りつけています。わたしたちも、自分の価値観に基づいた枠を目前に堅持している限り、心の目を通じて神の真理に到達することはできません。いまの世界はまさしく、それぞれがそれぞれの価値観に基づいた枠組みを目の前に掲げ、そこからはみ出る事実に目を塞いでいるかのようです。そこには対話や妥協の余地はありません。

わたし達は、目の前で展開する現実に対して謙遜でありたいと思います。現実はわたし達の思い通りにはなりません。何でも自分でコントロールできるわけでもありません。謙遜に、目前に展開する現実と対峙し、そこに響いている真理の声に耳を傾けたいと思います。心の目で見るためには、謙遜にまっすぐに耳を傾け、神の声を聞き取ろうと努めることが必要です。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒め、いのちに対する様々な暴力的攻撃に満ちあふれた現代社会の現実を、「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を告げしらせ、実現しなければならないと強調されました。

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。わたしたちには、殺すなと呼びかけるにとどまらず、いのちを尊び、愛し、守り、育てると言う積極的な務めが課せられています。

パウロがエフェソの教会への手紙で記したように、教会共同体は暗闇にあるこの世界にあって。「あらゆる善意と正義と真実が生じる」光の子として歩むようにと進めています。わたしたちはどのような困難な状況の中でも、いのちを奪う暴力の中でも、臆することなく、与えられた光を放つ存在でありたいと思います。いのちの文化を告げ知らせる者でありたいと思います。いのちを尊び、愛し、守り、育てる者でありたいと思います。

 

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2026年3月14日 (土)

週刊大司教第248回:四旬節第4主日A

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四旬節も後半、第四主日となりました。

米国とイスラエルによるイランへの攻撃以来、すでに混乱していた世界はさらに暴力の支配による混乱によって翻弄されています。あらためて忍耐と対話による信頼醸成を基礎とした平和構築を呼びかけ、神からの賜物であるいのちが、暴力的に奪われることのない世界の実現に努めることを、特に政治のリーダーたちに求めたいと思います。

第二次世界大戦後、その悲劇的な体験から多くを学んだはずの人類は、例えば国連憲章などを通じて、国家が武力によって現状変更することを否定してきたはずでした。すでにこの数年の暴力的な混乱と戦争の状況で、国連自体が力を失い、国連憲章は忘れ去られようとしています。国連憲章の第2条四項には、こう記されています。

国連憲章第2条4項:「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」

残念ながら、こう定められた理念は、全く非現実の定めとなってしまいました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第248回、四旬節第四主日のメッセージです。

四旬節第四主日A
週刊大司教第248回
2026年03月15日

ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復するという奇跡を行い、それに対してファリサイ派の人々が、安息日の掟を破ったとして、イエスの示される神の真理に自ら目を塞いでしまった話を記しています。

この物語からわたし達は、「見える」と言うことばが、実際に目で見ることと、そうではなく心の目で見ることの二つの意味があることを知ることができます。そしてイエスが強調しているのは、目で見えることに心を惑わされずに、心の目で真理を見いだすことの重要性です。

福音の終わりに記されている、視力を回復した人とイエスとの会話は象徴的です。視力を回復した人は、実際に目でイエスを見ており、その人がこの奇跡を働いたことを十分に知っているにもかかわらず、イエスに対して「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と問うています。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。そのことばによって心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。奇跡を働いた神の真理に触れることができたが故の信仰告白です。

ファリサイ派の人たちは、自らの前に枠を設置しているかのように、自分たちが見たいものしか見ない態度を象徴しています。福音は、ファリサイ派の人たちと視力を回復した人とのやりとりを記しています。不可思議な病気の治癒が起こったからこそ、この人を呼び出したにもかかわらず、ファリサイ派の人たちは、自分たちの枠組みでしかこの世界を見ることができません。枠からはみ出すものは、存在しないも同様です。ですからその枠に収まらない奇跡的出来事を目前にして理解することができずに、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、逆ギレして見せます。わたしたちは、自分の価値観に基づいた枠を目前に堅持している限り、心の目を通じて神の真理に到達することはできません。

わたし達は、目の前で展開する現実に対して謙遜でありたいと思います。現実はわたし達の思い通りにはなりません。何でも自分でコントロールできるわけでもありません。謙遜に、目前に展開する現実と対峙し、そこに響いている真理の声に耳を傾けたいと思います。心の目で見るためには、謙遜にまっすぐに耳を傾けることが必要です。

教皇様は今年の四旬節メッセージで、回心における「耳を傾ける」ことの重要性に触れて次のように記しています。

「燃える柴からご自分をモーセに現された神ご自身が、耳を傾けることがご自身の存在の特徴であることをお示しになっています。・・・このように耳を傾ける内的な態度をもつとは、今日、神から、神と同じように耳を傾けることを学ばせていただくことです。そこからわたしたちは、『貧しい人々の状況が上げる叫び声が、人類の歴史を通じて、わたしたちの生活、社会、政治・経済体制、とりわけ教会にたえず問いかける』ことを認識します」。

心の目で真理を見いだすことができるように、耳を傾け謙遜に学ぶ姿勢でありたいと思います。

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