2025年11月29日 (土)

週刊大司教第234回:待降節第一主日A

典礼の暦は新しく始まり、本日はその最初、待降節第一主日です。

降誕祭に向けた霊的な準備が始まりました。町中にはすでにクリスマスをイメージした飾りがあったり、クリスマス商戦が始まっていたり、きれいなイルミネーションが暗闇を照らしています。その本当の意味、特に、絶望にとらわれて暗闇を歩んでいるわたしたちに、神の御子の受肉と誕生という希望の光が差し込んだ出来事の意味を、少しでも伝えることができればと思います。

今週末、11月27日から30日まで、アジア司教協議会連盟(FABC)、同福音宣教部門、そして教皇庁宣教事業が共催で、マレーシアのペナンにおいてアジア宣教大会が開催されています。同地の宗教的文化的背景を考慮に入れて、「The Great Pilgrimage of Hope(希望の大巡礼)」という名称で呼ばれています。

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アジアでの宣教大会は、2006年のチェンマイに続いて二回目となります。日本からも、森山、ガクタン、中野、酒井司教を始め全国教区からの20名ほどの代表団が参加しています。わたしも、他の予定との関連で全日程に参加することができませんが、金曜と土曜の二日間は、FABCの事務局側として現地へ飛び、参加してきます。アジアの教会の様々な人との出会いを経験した日本からの参加者の声を待ちたいと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第324回、待降節第一主日のメッセージです。

待降節第一主日A(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第234回
2025年11月30日

待降節が始まりました。典礼の暦は新しい年の始まりです。今日から、主の降誕・クリスマスに向けて、わたし達の信仰における準備が始まります。四週間もうけられている待降節は、前半と後半で焦点が異なります。前半は主に世の終わりに焦点があてられ、後半は救い主の受肉と誕生に焦点をあてています。

しかしその全期間を通じて、中心に置かれているメッセージは、本日の福音に記されている、「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」という主の言葉にあります。いつ起こるのか分からない出来事に備えて、目を覚まし準備を整えておくことの重要性が繰り返されます。

まさしく待降節という言葉自体が表しているように、わたし達は待っています。パウロがコリント人への手紙に記したように、わたし達は「マラナタ」、主よ来てくださいと祈っています。救い主の再臨を待ち望んでいます。

当然ですが、待つことには様々な態度が思い起こされます。いつだろうとそわそわしていることも待つことですが、なにもせずに眠りこけていたとしても、それは待っていることに変わりはありません。しかしイエスの指摘される「待つ」姿勢は、「目を覚ましている」ことと、「準備整えている」という二つの行動を必要とします。ただ立ち尽くすのではなく、行動して待つのです。

わたしたちは、主の時がいつであるのかを知らないのですから、ただ立ち尽くして待つのではなく、その時のしるしをよく識別できるように、常に準備をするために行動するものでありたいと思います。その準備は、主に従って生きることなのですから、自分自身のためではなく、主が愛されているすべての人のためであります。主ご自身の模範に倣って、愛といつくしみに積極的に生き行動するものでありたいと思います。助けを必要とする人々のところへ出向いていこうとする、常に積極的な待つ姿勢をあかしする教会共同体でありたいと思います。

ただ立ち止まって待っているだけでなく、行動する神の民は、主に立ち返る者でもあります。いま一年間わたし達が過ごしている聖年が終わりに近づきました。聖年は祈るときでもありますが、巡礼を促しているように、行動するときでもあります。積極的に待つ姿勢をあかしするときです。

昨年の降誕祭に教皇フランシスコは、次のように述べておられました。

「イエスは門です。・・・すべての人が主に立ち帰ることができるようにするためです。わたしたちは皆、失われた羊のようであり、牧者を必要としていて、御父の家に帰るための門を必要としているのです。イエスは牧者であり、門です」

その上で教皇は、「わたしたちは時として、・・・門をくぐる勇気がないのです。わたしたちの生き方を見つめ直すことが求められるからです。門を通るには、前に一歩を踏み出すという犠牲が求められます。・・・平和の君である御子の大きく開かれた両腕に自分自身を委ねるためです。聖年の始めのこのクリスマス、わたしは一人ひとりの人、すべての民族と国家に呼びかけます。その扉をくぐる勇気を持って、希望の巡礼者となり、武器の轟音を黙らせ、分裂を克服しましょう」

世界は希望を必要としています。その希望は、ただ立ち尽くしていたのでは生まれません。主の再臨を待ち望むわたし達は、その主が求められている神の平和が確立されるために、積極的に行動しながら、主を待ち望む者でありたいと思います。

マラナタ。主よ来てください。

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2025年11月27日 (木)

国際カリタスに新しい副総裁が誕生

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国際カリタスの理事会にあたる代表者会議(Representative Council)と、執行役員会(Executie Board)が、11月18日から20日の間に、ローマ市郊外のサクロファノで開催されました。

2023年の総会での選挙で、わたしは四年の任期で国際カリタスの総裁(President)に選出されましたが、総裁を補佐する副総裁(Vice President)が、この一年以上不在でした。

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現行の規約では、総裁であるわたしが、代表者会議のメンバーの中から一名を指名し、代表者会議の同意を得て副総裁が任命されることになっています。2023年の総会で、わたしは予期しない形で選出されたため、新しい代表者会議のメンバーを全く存じ上げず、かなり苦しんで人選をした結果、当時カリタスオーストラリアの責任者であったカースティー・ロバートソン女史を指名し、当初は彼女が副総裁として支えてくださっていました。

国際カリタスは、総裁と副総裁、会計責任者、法務責任者、総合的人間開発省からの任命者によって執行役員会を形成し、定期会議を年に四回開催して、そこに同じく総会で選出された事務局長の出席を求めて、全体の統治事項を取り扱っています。事務局長は連盟全体を代表し、業務執行責任者として活動体としての国際カリタスを対外的に代表していますが、その活動を見守り指導し、運営に関する最終決定をするのが執行役員会の務めです。総裁は法人としての国際カリタス代表であり、聖座に対する窓口としての役割も負っています。代表者会議は160を超える各国地域のカリタスの代表者によって構成されているため、40名を超える大所帯で、年に5月と11月の二回、原則対面で会議を行います。四年ごとの総会が認めた枠組みに従っての予算の承認や活動計画の評価などが議題となります。

執行役員会は、代表会議と同時に開催される対面が二回と、オンラインが二回の年に四回。それ以外に、総裁、副総裁、会計責任者、事務局長での打ち合わせ会議を、オンラインで毎月開催しています。

一年半ほど前、副総裁がカリタスオーストラリアを離れたことにより、自動的に代表者会議を離脱し、結果として副総裁が不在となりました。後任を任命する機会は、年に二回しかありません。これまで二回、後任を指名しようとしましたが、その都度、それぞれの候補者が所属する国の司教団からの同意が得られず、頓挫を繰り返していました。

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そして何度かの交渉の結果、カリタスニュージーランドの責任者であるメナ(フィロメナ)・アントニオ女史の指名にオセアニアの司教さん達の同意が得られ、この度の代表者会議にわたしの指名を通知し、無事に任命していただきました。(上の写真中央。向かって右はアリステル・ダットン事務局長)

以前は、国際カリタスが世界を七つの地域に分けていることに従い、それぞれの地域の責任者7名が、自動的に国際カリタスの副総裁になっていました。現在の規約では副総裁一人制ですが、総裁としては、補佐してくださる方がいるのといないのとでは全く違います。副総裁が不在の場合、どうしても実務に関わらない総裁は事務局長の意見に左右されやすくなります。本来は、執行役員会が事務局長の活動を見守る役目ですから、総裁と一緒になってその任に当たる副総裁の存在には大きいものがあります。

副総裁に任命されたメナ(フィロメナ)・アントニオ女史は、長年にわたりNGOセクターで経験のある方で、組織運営については、深い知識と経験を持っておられる、頼りになる副総裁です。

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今回は、代表者会議と執行役員会を終え、皆でバスに乗ってローマに戻り、金曜日の午前に教皇栄14世と謁見。理事と事務局スタッフ、総勢70名ほどは、教皇様とひとり一人、言葉を交わす機会を頂きました。また教皇様からは、カリタスの活動の重要性について、力強いメッセージも頂きました

また国際カリタスは、これから一年、創立75周年を祝いますが、その始まりのドキュメンタリー公開セレモニーを、ローマ市内トラステベレの映画館で行い、各国の大使など多くの方に参集いただきました。このドキュメンタリーは、後日公開されます。

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皆様の、カリタスの活動へのご支援に、心から感謝すると共に、カリタスは教会とは別の組織ではなく、教会はその存在の根幹にカリタスの活動、すなわち愛の奉仕を柱として持っていることを、今一度心に留めていただければ幸いです。

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2025年11月22日 (土)

週刊大司教第233回:王であるキリスト

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典礼暦上の一年の最後の主日となります。王であるキリストの主日です。

メッセージでも触れていますが、王であるキリストの主日は世界青年の日でもあります。2027年8月にソウルで開催される世界青年大会への準備が進む中、毎年のこの世界青年の日も大切な祈りの機会です。

教皇レオ14世は、この日のメッセージを発表されています。こちらのリンク先からご覧ください。

第40回目となる世界青年の日のメッセージテーマは、ヨハネ福音15章27節からとられた「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、あかしをするのである」とされています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第233回目、王であるキリストの主日のメッセージです。

王であるキリスト主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第233回
2025年11月23日

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで,選ばれたものなら、自分を救うがよい」

このイエスをあざける議員たちの言葉が、キリストが世界の王であるとは一体どういう意味なのかを,明確に示しています。

全世界の王である神は、自分自身の名誉や欲望のために、皆に仕えることを強制する権力者ではなく、創造されたすべてのいのちへの限りない愛の救いのために、自らのいのちをあたえ、自らを犠牲にする王であることを、議員たちのことばは図らずもあかししています。

さらに議員のことばは、人間の身勝手な思い違いを明らかにします。自分が求めている条件を満たさなければ神と認めないというのです。神はご自分からその姿をわたし達に示す現実の存在であって、人間の願望を満たすための存在、すなわち夢物語ではありません。神がわたし達を支配するのであって、わたし達が神をコントロールするのではありません。

神は苦しみの中でも口を閉ざしてあざけりに耐え、いのちを賭してまで、仕えるものであろうとされます。世界を支配する王であるキリストは、私たちがその模範に倣い、常に仕えるものであるようにと求めます。自分の願望や欲望を満たすためではなく、他者のいのちを生かすために行動することを求めています。

王であるキリストの主日は,世界青年の日と定められています。40回目となる世界青年の日のためのメッセージで、教皇レオ14世はヨハネ福音書からの主イエスのことば、「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」をテーマとして掲げられました。

教皇は、2027年にソウルで開催される世界青年大会までの歩みを念頭に、「わたしはあかしの二つの側面、すなわち神から賜物として頂いたイエスとの友情と、社会における平和の建設者となるという私たちの決意に焦点を当てたい」と述べてメッセージを始めています。

弟子として従おうとするわたし達を「友」として呼ばれるイエスは、その「友情を通して、イエスは皆さんの話に耳を傾け、皆さんに励ましを与え、皆さんを導き、皆さん一人一人を新しい人生へと招いてくださいます」と教皇は述べています。

さらに、世界の過酷な現実の中で命の危機に直面している多くの人の実例を挙げた後で、教皇は青年達に、イエスがそう招いておられるように、そういった困難に直面する人たちに寄り添うようにと呼びかけます。

教皇はメッセージの締めくくりで、福音をあかしする者は平和構築に取り組むことに触れ、こう記しています。

「信仰の言葉を用いて分裂を煽る者たちに倣ってはいけません。むしろ、不平等をなくし、分裂し抑圧された共同体を和解させるための計画を立てましょう。愛する友よ、そのために、私たちの内なる神の声に耳を傾け、利己心を克服し、平和の積極的な担い手となりましょう。復活した主の賜物である平和は、心に主の霊を宿す人々の共通の証しを通して、この世に現れるでしょう」

世界の王であるキリストの支配する世界は、神の秩序が支配する世界です。それこそが真の平和です。わたし達教会共同体も、この世界のただ中で平和をあかしする使徒であり続けましょう。

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2025年11月16日 (日)

東京教区ミャンマーデー@関口教会

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11月の第三日曜日は、東京教区にとってパートナー教会であるミャンマーの教会のために祈り献金を捧げる「ミャンマーデー」です。これまでの歴史や現在の支援活動については、こちらのリンクの東京教区ホームページをご覧ください。(上の写真は、2020年2月、マンダレーのマルコ大司教様と)

ご存じのようにミャンマーでは、コロナ禍の最中に発生したクーデター後、政情不安定が続き、平和を訴えるカトリック教会は攻撃の対象となっています。今年のミャンマーデーにあわせて、ミャンマーからは南部のモーラミャイン教区からモリス司教様が来日され、現在東京でもメンバーが増えているミャンマー共同体と、本日午後に築地教会でミサを捧げて祈りを共にされています。

ミャンマーには全人口の多数を占めるビルマ族と、それ以外の数多くの少数民族が、一緒になって国を作っています。しかしながら、多数派の占める軍が力を持ち、加えて隣国との国境地帯を中心に少数民族による独立運動が続いてきたこともあり、過去の歴史を顧みれば、現在のような状況の中で、対話ではなく武力を持って国家の安定を回復することは至難の業であり、多くのいのちが危機にさらされ、また暴力で奪われてしまうことは避けられません。政府はまもなく選挙を行うことにしていると報道されていますが、果たしてこの選挙が民主的に行われるのか、注目していきたいと思います。

教会はクーデター後から、幾度も軍部や政府に対して、対話による平和構築を呼びかけてきましたが、それに対しては、武力による破壊がもたらされてきました。司教館やカテドラルを空襲で失った司教様もおられます。

長年のパートナーであるミャンマーの教会のために祈りたいと思います。

なお年間第33主日にあたる今日は、貧しい人のための世界祈願日でもあります。教皇様のメッセージはこちらにあります。

教皇フランシスコの意向を引き継いで貧しい人への司牧を教会の中心に据える教皇レオ14世も、メッセージの中で様々な呼びかけを行っています。わたし自身もそうですが、その呼びかけをどのように具体的な行動に移していくのかが、大きな課題であると思います。いつも申し上げていることですが、皆が同じことをする必要はないと共に、皆が同じことをできるわけではないので、必ずこれをしなくてはならないということではありません。しかしながら、貧しい人々へのかかわりが単なる慈善活動ではなくて教会の司牧の中心にあるという教皇様の指摘を考慮するとき、格差を生じさせる社会全体の構造的な課題に目をつぶっていては結果として何も変わらないという状況が何十年も続いているのですから、具体的に教会がどう行動するのかを、今の次代の立ち位置から考えてみる必要を痛感しています。

以下、本日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主日ミサの説教原稿です。

年間第33主日C・ミャンマーデー・ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年11月16日

教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。2016年、いつくしみの特別聖年が終わるにともない、教皇フランシスコは、「世界中のキリスト教共同体を、もっとも小さくされた人々ともっとも困窮している人々に向けられたキリストの愛のより具体的で大きなしるしとするために」この祈願日を設けることを提案され、2017年から教会の世界祈願日として行われています。

教皇フランシスコによれば、その第一の目的は、「使い捨てと浪費の文化を否定し、出会いの文化を受け入れるようキリスト者を励ますこと」であり、同時に「兄弟愛の具体的な表れであるあらゆる連帯活動を通して、貧しい人と分かち合うよう、宗教の別にかかわりなくすべての人を」招くことも目的としています。分断と排除が推し進められている世界の風潮に対して警鐘を鳴らし続けた教皇フランシスコは、経済的困窮のために人間の尊厳を否定され、社会から忘れ去られ、いのちの危機に直面する方々とともに歩むことの重要性を指摘し、こう言われました。

「もしキリストに会いたいと真に望むなら、聖体のうちに与えられる秘跡的な交わりへの応答として、わたしたちは貧しい人の傷ついたからだの中におられるキリストのからだに触れなければなりません」

困難に直面する人たちへの愛の奉仕は、わたしたちの自己満足のためではなく、その人たちとの出会いと分かち合いを通じて、キリストと出会うことであると、教皇は述べておられました。すべての人に与えられたいのちの賜物を、例外なくすべて護ることは、わたしたちの大切な使命です。

9回目となる今年の教皇メッセージは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたはわたしの希望」をテーマとしています。

この一年わたしたちが過ごしている聖年のテーマは「希望の巡礼者」ですが、教皇レオ14世はメッセージの中で、「人生の試練のただ中で、聖霊によって心に注がれる神の愛に対する堅固で力強い確信によって、希望は力づけられます。だから、希望は欺くことがありません」と、聖年の柱となるメッセージを繰り返しています。

その上で、「貧しい人々は、貧困、脆弱さ、疎外による不安定な生活条件の中で希望を告白するからこそ、力強く信頼できる希望の証人となることができます。彼らは権力や富の安定を当てにしません。・・・彼らは別のところに希望を置くしかありません。わたしたちも、神が第一の、また唯一の希望であることを認めることによって、はかない希望から、永遠の希望へと移ります」と呼びかけておられます。

教皇レオ14世は、教皇フランシスコが最初のメッセージで強調した点を繰り返し、貧しい人たちとの関わりは単なる慈善事業ではなく、教会の司牧活動の中心に貧しい人たちがおられることを指摘します。その上で教皇レオ14世は、「神は貧しい人々の貧しさを引き受けました。それは、彼らの声と物語と顔を通して、わたしたちを豊かにするためです。あらゆるかたちの貧困は、例外なしに、福音を具体的に生き、希望の力強いしるしを示すようにとの呼びかけです」と記し、教会共同体が社会の現実の中で、福音を具体的に明かしする存在であるように呼びかけています。

わたしたちは、いま、この社会の中で、何をあかしする存在であるでしょうか。教会は何をあかししているでしょうか。

本日は東京教区にとってはミャンマーデーであり、わたしたちの兄弟姉妹であるミャンマー共同体のみなさまと心を合わせ、ミャンマーのために祈りを捧げています。コロナ禍の最中に起こったクーデター後、未だに政情は安定せず、平和を唱え行動するカトリック教会に対しては、武力による攻撃も起こっています。いくつもの教会が破壊され、カテドラルと司教館を失った司教様もおられます。ミャンマーの平和のために特に祈りたいと思います。

ミャンマーの教会とのパートナーシップの原点は、東京教区が第二次世界大戦後、ドイツのケルン教区によって支援を受けたことに遡ります。1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教は「ケルン精神」、すなわち自己犠牲の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけ、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿との話し合いで、両教区は力をあわせてミャンマーの教会を支援することに合意しました。東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけ、パートナー教会のために祈りを捧げてきました。

シノドス的な教会は、共に支え、共に耳を傾け、共に祈りあいながら、聖霊に導かれて道を歩んでいく教会ですが、そう考えてみると、すでに1954年にケルンが東京を支援し始めたとき、そして1979年に両教区が協力しながらミャンマー支援を始めたときに、ケルンと東京とミャンマーの教会共同体は、シノドスの道を歩んでいたということができます。このシノドス的な教会のあり方を、さらに継続し、深めていきたいと思います。

教皇レオ14世は、先ほどの祈願日のメッセージの終わりにこう記されています。

「この聖年が、古くからの形態と新たな形態の両方の貧困と戦い、また、もっとも貧しい人を支え、助ける新たな取り組みを行うための政策の発展を促しますように。労働、教育、住居、健康は、安全の土台です。武力によって安全を保障することはできません」

貧しさへの取り組みは、経済的問題だけではなく、人間の尊厳の問題であり、神の平和の確立こそがその解決になります。パートナー教会であるミャンマーの平和のために祈り行動することも、この世界祈願日にふさわしいことであると思います。

典礼の暦は待降節から新しく始まりますので、暦の終わりのこの時期には、世の終わりについてかたるイエスの言葉に耳を傾けます。

世の終わりは一体いつ訪れるのか。世の終わりにおける主イエスの再臨を待ち望んでいるわたしたちにとって、関心のあることであろうと思います。しかしイエスは、社会の中で次々と起こる不安を深める状況に振り回されることなく、感情的に振り回されないようにと忠告します。その上で、イエスは、「忍耐によって、あなた方はいのちを勝ち取りなさい」と諭します。

簡単に情報にアクセスできる昨今、不確実な情報に振り回されることも多くなりました。情報の流れを操作することで、一定の世論を生み出すこともできるようになりました。そのような時代だからこそ、振り回されることなく、時のしるしを読み取りながら、忍耐のうちにイエスの言葉に従い続け、真のいのちに到達できるように努めたいと思います。

 

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2025年11月15日 (土)

週刊大司教第232回:年間第33主日C

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典礼の暦も終わりに近づいてきました。本日は年間第33主日です。

年間第33主日は、「貧しい人々のための世界祈願日」です。2016年、いつくしみの特別聖年が終わるにともない、教皇フランシスコは、「世界中のキリスト教共同体を、もっとも小さくされた人々ともっとも困窮している人々に向けられたキリストの愛のより具体的で大きなしるしとするために」この祈願日を設けることを提案され、2017年から教会の世界祈願日として行われています。

分断と排除が推し進められている世界の風潮に対して警鐘を鳴らし続けた教皇フランシスコは、経済的困窮のために人間の尊厳を否定され、社会から忘れ去られ、いのちの危機に直面する方々とともに歩むことの重要性を指摘し、こう言われました。

「もしキリストに会いたいと真に望むなら、聖体のうちに与えられる秘跡的な交わりへの応答として、わたしたちは貧しい人の傷ついたからだの中におられるキリストのからだに触れなければなりません」

困難に直面する人たちへの愛の奉仕は、わたしたちの自己満足のためではなく、その人たちとの出会いと分かち合いを通じて、キリストと出会うことであると、教皇は述べておられました。すべての人に与えられたいのちの賜物を、例外なくすべて護ることは、わたしたちの大切な使命です。

今年のレオ14世のメッセージは、こちらのリンクからご覧いただけます。9回目となる今年の教皇メッセージは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたはわたしの希望」をテーマとしています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第232回、年間第33主日のメッセージです。

年間第33主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第232回
2025年11月16日

典礼の暦は待降節から新しく始まります。そこで暦の終わりのこの時期には、世の終わりについてかたるイエスの言葉に耳を傾けます。

世の終わりは一体いつ訪れるのか。世の終わりにおける主イエスの再臨を待ち望んでいるわたしたちにとって、関心のあることであろうと思います。しかしイエスは、社会の中で次々と起こる不安を深める状況に振り回されることなく、そういった諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないようにと忠告します。その上で、イエスは、「忍耐によって、あなた方はいのちを勝ち取りなさい」と諭します。

簡単に情報にアクセスできる昨今、不確実な情報に振り回されることも多くなりました。情報の流れを操作することで、一定の世論を生み出すこともできるようになりました。そのような時代だからこそ、振り回されることなく、時のしるしを読み取りながら、忍耐のうちにイエスの言葉に従い続け、真のいのちに到達できるように努めたいと思います。

第二バチカン公会議は、「時のしるし」を読み解き行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、教会は「つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている(4)」と記しています。「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、わたしたちの務めです。

教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。今年の教皇メッセージのテーマは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたはわたしの希望」とされています。

この一年わたしたちが過ごしている聖年のテーマは「希望の巡礼者」ですが、教皇様はメッセージの中で、「人生の試練のただ中で、聖霊によって心に注がれる神の愛に対する堅固で力強い確信によって、希望は力づけられます。だから、希望は欺くことがありません」と、聖年の柱となるメッセージを繰り返しています。

その上で、「貧しい人々は、貧困、脆弱さ、疎外による不安定な生活条件の中で希望を告白するからこそ、力強く信頼できる希望の証人となることができます。彼らは権力や富の安定を当てにしません。・・・彼らは別のところに希望を置くしかありません。わたしたちも、神が第一の、また唯一の希望であることを認めることによって、はかない希望から、永遠の希望へと移ります」と呼びかけておられます。

教皇様は、貧しい人たちとの関わりは慈善事業ではなく、司牧活動の中心に貧しい人たちはおられ、「神は貧しい人々の貧しさを引き受けました。それは、彼らの声と物語と顔を通して、わたしたちを豊かにするためです。あらゆるかたちの貧困は、例外なしに、福音を具体的に生き、希望の力強いしるしを示すようにとの呼びかけです」と記されています。

教会共同体の取り組みの中心に誰がいるのか、見つめ直してみたいと思います。時のしるしを正しく読み取り、忍耐強いものでありたいと思います。

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2025年11月 8日 (土)

週刊大司教第231回:ラテラノ教会の献堂

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本日の主日は、ラテラノ教会の献堂の記念日と重なります。ラテラノ教会とはローマ司教の司教座聖堂、すなわち教皇様のカテドラルの献堂の記念日ですので、主日に優先してお祝いされます。今日は特に教皇レオ14世のためにお祈りいたしましょう。

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11月6日夜から7日午後にかけて、上石神井にある日本カトリック神学院で神学院司教会議を行い、全国のほぼ全員の司教が神学院に集まり、神学院に一泊して神学生と交流し、ともに祈り、そして神学院の運営について話し合いました。神学生のために、また司祭修道者の召命のためにお祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第231回、ラテラノ教会献堂の主日のメッセージです。

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週刊大司教第231回
2025年11月9日

11月9日はラテラノ教会の献堂の祝日です。今年は日曜日と重なりましたので、主日にこの献堂記念を祝うことになります。なぜならば、ラテラノ聖堂とは、教皇様のローマ司教としての司教座聖堂・カテドラルとして重要な意味を持っているからです。

普遍教会の牧者であるローマ教皇のカテドラル献堂を祝うことは、私たちの教会は、あたかも本店があって支店があるというような、本店であるローマの教会の支店が日本にあるということなのではなく、ひとりの牧者の下にどこにいても皆で一つの神の民を形成しており、それぞれの教会は一つの身体の部分なのだということを思い起こさせます。その意味で、ラテラノ教会の献堂の祝日はわたしたちにに、教会とはいったい何であるのかをあらためて考えさせる祝日です。

シノドスの道は、まさしくこの「教会とは何であるのか」をあらためて振り返ることをわたしたちに求めていました。教会は各地にある建物のことではなく、時の流れの中を共に旅する神の民であることをあらためて自覚し、神の民としてともに歩み、支え合い、耳を傾け合い、共に祈ることを通じて、聖霊の導きを識別することを目指しているのが、いま進められているシノドスの歩みです。それぞれの地方の教会は勝手に歩んでいるのではなく、皆が一つになって構成する神の民の一部分であることを自覚するためにも、その中心にある教皇様のカテドラルの存在を意識することは大切です。

この地上における目に見える組織としての教会は、同時に霊的な交わりとしての教会でもあり、さらには天上の教会ともつながれています。教会憲章の8項には、次のように書かれています。

「位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」

ですから教会共同体のありかたを、普遍教会のレベルでも地方教会のレベルでも、社会一般の価値観で定め、判断していくことは、必ずしもふさわしいことではありません。私たちは、様々な考え方や思想を持った人間ですが、同じ信仰において結ばれていることを心にとめて、自分の考えではなく神によって集められたものとして、互いの違いを乗り越えてキリストの神秘体を形作る努力をしなくてはなりません。わたしたちひとりひとりが教会です。ひとり一人が教会を構成するのです。日曜日に教会という建物に来たときだけわたしたちは教会の一員になるのではなく、信仰者として生きている限り、常にどこにあっても、わたしたちは大きな神の民の一部として教会に生きていくのです。

ヨハネ福音でイエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とユダヤ人たちに語ります。建物ではなくご自身そのものが神殿であることを明確にします。ですから教会は、復活されたイエスのからだであります。

その意味で、神の民を牧者として導く役割を主ご自身から託されたペトロの後継者である教皇様のために、この祝日には祈りを捧げましょう。わたしたちは教皇様とともに歩み、ともに主の身体を作り上げる神の民であります。

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2025年11月 1日 (土)

週刊大司教第230回:死者の日

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11月1日は諸聖人の祝日、2日は死者の日とされています。

この時期の全免償についてメッセージでも触れています。今年は聖年ですので、次の文書も参照ください。「教皇フランシスコにより発表された2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」で、リンク先は中央協議会のホームページです。次のように記されています。

「2025年の通常聖年の期間中、すでに与えられた他の免償は有効であり続けます。心から痛悔し、罪の傾きから離れ(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 20, § 1]参照)、愛の精神に動かされ、聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます。これは代願のかたちで、煉獄の霊魂に対して与えられることも可能です」

東京教区では11月2日の午後、合同追悼ミサが三カ所で捧げられます。関口のカテドラル、府中墓地、そして五日市霊園で、すべて午後2時から始まります。カテドラルはわたし、五日市霊園はアンドレア司教様、府中墓地は小田武直神父様の司式となります。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第230回、死者の日のメッセージ原稿です。

死者の日主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第230回
2025年11月2日

11月1日は諸聖人の祝日であり、翌2日は死者の日とされています。教会の伝統は、11月1日から8日までの間、全免償を得ることで、それを煉獄の霊魂に譲ることが出来るとも定めています。この期間、ゆるしの秘跡を受け、どこであっても聖堂を敬虔に訪問し、聖体をいただき、墓所で祈り、主の祈りと信仰宣言を唱えて全免償をいただき、それを煉獄の死者に譲ることができます。

もちろん今年は聖年ですから、教皇庁内赦院の定めによって、「ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ」、それを煉獄の霊魂のために与えることは年間を通じて可能とされています。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

11月1日と2日の記念は二つでひとつの記念であり、教会は地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在していることを、わたしたちに思い起こさせてくれます。

イエスをキリストと信じる私たちは、イエスに結ばれることで、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。わたし達の人生の歩みは、この世のいのちだけで終わるものではなく、永遠の中でわたし達は生かされています。

わたしたちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、いのちを生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。シノドス的教会です。ともに歩む教会、互いに耳を傾けあう教会、互いに支え合う教会は、すなわちそれこそが「交わりの教会」そのものであります。

私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」とカテキズムに記しています。

シノドス的な教会は、天上の教会との交わりの中で、霊的に支え合う共同体です。ですから、例えば祈りの側面がかけていて、この世における助け合いの集団となってしまっては、本来の意味とは異なるものとなってしまいます。シノドス的教会は聖徒の交わりの教会です。地上と天上の教会の交わりにある教会です。

ですから私たちは死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りを捧げるのではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、いま生きている祈りをささげるのです。

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2025年10月30日 (木)

2025/10/26、堅信式ミサ@赤羽教会

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10月26日の主日、午前9時から、東京の北区にある赤羽教会で、12名の方の堅信式が行われました。おめでとうございます。

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赤羽教会はコンベンツァル聖フランシスコ会が司牧担当する教会です。現在の主任司祭は、同会の平孝之神父様。東京教区のホームページには、戦後1949年8月15日に創設された赤羽教会の歴史が、以下のように記されています。

「赤羽教会の設立は、当初長崎を拠点として活動していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会が終戦後、東京に新しい修道院や神学生養成のための神学校の必要性を強く感じ始めたことに起因します。ドナト・ゴスチンスキー神父とゼノ修道士が派遣され、赤羽にその地をみつけ、戦争中の空襲で焼けた工場跡のこの土地を、当時の管区長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父がアメリカからの寄付金で購入しました」

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蟻の町野マリアと呼ばれた尊者北原怜子(さとこ)さんを導いてともに活躍したゼノ修道士も有名で、聖徳の誉れ高く、お二人の列福運動はコンベンツァル会が担当して長年進められており、近頃は、ポーランドからの巡礼者も増加していると伺いました。それもあって、信徒会館の前には同会の聖人であり、1930年にゼノ修道士と共に来日した聖マキシミリアノ・コルベ神父様の新しい銅像が建立され、さらに向かい側にはゼノ修道士の銅像も制作中であるとのことでした。東京教区でも、北原怜子さんの資料をかなり保有していることもあり、コンベンツァル会に協力しながらですが、保有する資料の整理も進め、保存を進めるよう努めたいと考えています。それはまた故岡田大司教様の願いでもありました。

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以下、同堅信式ミサの説教録音から起こした内容を整理した説教の原稿です。

堅信式ミサ
カトリック赤羽教会
2025年10月26日

一年ほど前、昨年の10月6日、教皇様が日曜日恒例のお昼のアンジェラスの祈りを終えた後に、新しい枢機卿を任命するつもりだと言って21名の名前を読み上げられ、その中にわたしの名前も入っていました。それからあっという間に一年が経ちました。

枢機卿になるとは、事前に何も通告がなかったので、急な話で驚きました。翌日、ちょうどシノドスに参加している新たに任命された枢機卿のもとに、教皇フランシスコからの手紙が届けられました。他の新しい枢機卿へは、それぞれの教皇大使を通じて郵送したのだと思います。

教皇様から直接の手紙って、もらったことないですよね。思いのほか大きな紙ファイルに入っているのですが、立派な教皇様の紋章が付いたファイルで、その中に二重に折り畳んだ紙があり、手紙の本文が印刷されて、一番最後に小さな教皇フランシスコのサインがある。

その手紙に、その中に、あなたを枢機卿に任命しましたということが書いてあって、そして教皇フランシスコのアドバイスが書いてあるんです。

その中の一つが、かつて教会の歴史の中で、枢機卿になるというのは名誉を得ることであった。言ってみれば貴族のような高い位に上げられるという、世俗的な名誉だと考えられていた。けれども、今の時代の教会にあっては、そうではないのですと。あなたは「目を上げ、手を合わせ、裸足でいる」を自ら体現するものとして、謙遜に生きていきなさいと記されていました。

この現実世界で起こっている様々な出来事に、しっかりと目を向けて、地に足を着けて、そして神に向かい、低いところから高みに向かって、目を上げなさい。謙遜でありなさい。現実からすべてを始めなさい、というようなことが書いてありました。

名誉を与えられたと考えるのではなくて、あなたは仕える者として、ありなさい。教皇様ご自身の名称の一つに、「しもべの中のしもべ」という言い方がありますけれども、まさしくその、一番下から全てを見つめる、謙遜なしもべでありなさい、と諭す教皇フランシスコの思いが、記されていた書簡でした。

ですから、枢機卿になったということは、どういうことなのか。私自身にとってどういうことなのかということと、教会全体にとって、特に東京の教会にとってどういう意味があるのか、というのはそれぞれ別な思いがあるとは思いますが、わたし自身にとっては、教皇フランシスコが遺された言葉の通り、謙遜に、地に足を着けて生きていくという心構えについてあらためて考えさせられる、その契機になったと思っています。

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謙遜に生きていく。それは教皇、または枢機卿とか司教とか司祭、修道者だけの課題ではなく、わたしたち、イエス・キリストの信仰に生きることを選んだ者すべてにとっての課題です。謙遜に生きていくというのは、人間関係をスムーズに、うまく作り上げていくためのマナーとしての謙遜さ、または、文化的な背景からある、謙遜さもあるでしょう。それとは違う、生きる姿勢そのものとしての謙遜さです。つまり、マナーとして謙遜になり、互いにうまく人間関係を作ってうまくやっていきましょう、そのために謙遜さを身につけましょうと言っているわけではない。その謙遜さは、生き方そのものです。生き方そのものにおいて何を中心に置いているのか、というところにあるのです。

ちょうど今日の福音書は、ファリサイ派の人と徴税人、二人の人物の対比ということで、謙遜さについてイエスが語っているところですね。

ここで、実際の身体的な視点、つまりどこに向かって目を向けているでしょう。ファリサイ派の人は、上を向いて神様の方を見ていますね。実際の目が向いている方向です。そして、徴税人の方は下を向いていて、神様の方を向いていないのです。

しかしながら実際には、その身体的な目が物理的にどちらを向いているかということは、実はあまり問題ではありません。我々はそれに捉われやすい。社会の中で、具体的に生きている中では、どこを向いているかとか、どういう態度を取っているかなど、表面的な表に現れることに、どうしても気が捉われてしまいます。

けれども、この話の中でイエスが語っているのは、心も目の話です。心の目は、いったいどこを向いているのかなのです。そうするとですね、ファリサイ派の人は自分のこと、内側にしか向いていないんですよ。自分の内側、自分のことしか考えていない。盛んに自分を褒め称えていますが、それは、自分の世界の中に、どんどんどんどん閉じ籠っていくということです。そうすると、自分の世界の中では自分が中心ですから、当然自分が一番立派に決まっている。いかに自分が立派かとほめたたえながらか、自分にどんどん視点を向けて行く状況です。

それに対して、徴税人は、自分で自分を判断しようとはしていません。彼は、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、罪人のわたしを憐んでください」と。わたしについて判断するのは、神様、あなたです。神様が、わたしのことを判断するんです。ですから、あなたにすべてを委ねます、という姿勢です。身体的物理的な目は下を向いていますけれども、その心の目は、しっかりと神様の方を向いているんです。神様、あなたのおっしゃる通りに、わたしはいたしますという、神にすべてを委ねる生き方の姿勢ですよね。

その違いが、信仰の中で生きていく謙遜さを教えています。つまり、謙遜さというのは、その表向きの態度が謙遜かどうか以上に、心の目がどこを見ているのかと、わたしたちの心はどこを向いて生きているのか、という問題にかかっているのだと思います。

どうしても、自分のこと、見栄とか、名誉とか、楽しみとか、そういうことに目が行ってしまう。心の目もそこに向けられ内向きになってしまいがちですけれども、イエス様は、目を天に上げなさいと。心の目を天に上げなさいと。神にすべてを委ねて、神に判断を委ねなさいと。そしてその判断に、素直に従いなさい。そういう生きる姿勢を、謙遜さとして求めておられると思います。

今日、堅信を受けらる方々が、12名ほどおられると思います。

堅信式は、洗礼から始まって、ご聖体を受けて、そして堅信で、キリスト教の入信の秘跡が完成します。残念ながら、途中までで終わってしまう人もいますが、洗礼を受けて、ご聖体を受けて、そして堅信を受けることによって、わたしたちの、キリスト者としての入信の秘跡が完成するのです。

堅信の秘跡を受ける時には、その時には、完全なキリスト者がそこに出来上がっているんですよね。でも人間は弱いので、出来上がった瞬間から、どんどんどんどん落ちてゆきます。いつまでも完璧でいられるわけではなく、息を吸うように罪を犯しまくって生きているのですから、どんどんそれは錆びて行くんです。

でも、なんとか、その完全なキリスト者として到達した、それを、保っていきたいんですよね。そのために、どうしたらいいか。自分の力ではどうしようもないので、だからこそ、堅信の秘跡を通じて与えられる聖霊の助けが必要なんです。

聖霊は、この堅信の秘跡によって、聖霊を受けることによって、その日、何か急に人が変わってスーパーマンになるとか、そういうことではないんです。そうではなくて、謙遜に生きよう、神に全てを委ねて生きようと決意するその心を、なんとか錆びないように、その完璧なキリスト者になったその日から、どんどん落ちていかないようにと、一所懸命に支えようと自分がしているときに、それを支えてくれるのが、聖霊の働きであります。

ですから、その聖霊の働きに信頼しながら、大人としての、成熟した、出来上がった、完成した、キリスト者として、この世界の中で、謙遜に神に、神の望みに身を任せて、生きていくことができるように、神に向かって心の目を上げ、すべてを委ねる努力をしていただければと思います。

 

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2025年10月25日 (土)

週刊大司教第229回:年間第30主日C


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時間は瞬く間に過ぎ去り、10月も最後の日曜日とないました。今月の最初の頃は枢機卿名義教会着座式のためにローマにいたことが、遙か昔のようです。写真は上が10月11日、マリアの霊性の祝祭、下が10月8日の一般謁見です。

先週10月19日は、世界宣教の日でありました。中央協議会のホームページに以下の説明が掲載されています。

「世界宣教の日」は、すべての人に宣教の心を呼び起こさせること、世界の福音化のために、霊的物的援助をはじめ宣教者たちの交流を各国の教会間で推進することを目的としています。この日の献金は、各国からローマ教皇庁に集められ、世界中の宣教地に援助金として送られます。日本の教会は、いまだに海外から多くの援助を受けていますが、経済的に恵まれない国々の宣教活動をさらに支援できるように成長していきたいものです。

教皇庁宣教事業に関しては、日本における対応部署のホームページが設けられており、そこに詳細が記されていますので、一度お訪ねください。現在の日本全体の教皇庁宣教事業担当者は、東京教区の門間直輝神父様です。

本日の週刊大司教でも触れた今年の世界宣教の日の教皇メッセージは、そのサイトに掲載されています。こちらからご覧ください

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第229回、年間第三十主日のメッセージです。

年間第30主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第229回
2025年10月26日

わたしたちの目は、節穴です。肝心な本質が見えていません。往々にして、思い込みと勘違いを引き起こしています。ルカ福音は、本質を知るためにどこに目を向けるのかを記しています。

福音は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、目を上げることもなく胸を打った徴税人ほうが、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人とされた話を記します。当時の徴税人は様々な不正に手を染めていたとも言われ、多くの人の目には正しい人とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの人からは正しい人と見なされていたことでしょう。神の目には本質が見え、わたしたちの目は節穴です。

ファリサイ派の人が自分を見つめています。自分しか見えていません。わたしはどういう人間なのか。彼が語るのは、自分のことばかりであり、すなわち彼は自分の世界に閉じこもっているので、その世界では自分が一番に決まっています。ですから臆面もなく報いを求めます。

それに対して徴税人は、その目を神に向けています。自分がどういう人間であるのかと言う判断をするのではなく、それをすべて神の判断に委ねています。つまり二人の違いは、自らの存在を神に委ねているのか、委ねていないのかにあります。

わたしたちには、単にマナーとして謙遜になることが求められているのではありません。求められている謙遜さは、神にすべてを委ねているのかどうかであります。御旨に従うことは、格好良く見栄え良く生きることではありません。

自分の名誉のためではなく、神が救いたいと望んでおられるすべてのいのちに福音が届けられるように、神の計画に身を委ね、すべてを尽くして福音をあかしするものとなりたいと思います。

先週、10月19日は世界宣教の日でありました。教皇レオ14世はこの日のためのメッセージのテーマを「諸民族の中で生きる希望の宣教者」とされ、「キリストの足跡に従って希望の使者となり、それを築く者となるという根本的な召命」がキリスト者ひとり一人と教会共同体にはあるのだと強調されています。

その上で教皇は、第二バチカン公会議の現代世界憲章に記されている、「「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」(『現代世界憲章』1)を引用して、「キリストの弟子たちはまず、自らが希望の「職人」となり、混乱し不幸に陥りがちな人類を回復させる者となる修練を積むよう求められています」と、すべてのキリスト者がそれぞれの立場に応じて福音宣教をする者となるように求めておられます。

わたしたちも自らの宣教者としての使命を思い起こし、福音をよりふさわしくあかしする道を探り続けたいと思います。

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2025年10月18日 (土)

サン・ジョバンニ・レオナルディ教会着座ミサ説教

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既報ですが、去る10月9日木曜日ローマ時間午後6時、ローマ市郊外のサン・ジョバンニ・レオナルディ教会で、枢機卿としての名義教会着座式を行いました。

小教区聖堂に皆が入りきれない恐れ場会ったため、着座式をまず聖堂で行い、その後聖堂裏にある運動場でミサを捧げました。

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着座式は、まずブラスバンドに迎えられてわたしが到着。教皇儀典室のモンセニョールに導かれて聖堂前に到着。主任司祭が差し出す十字架に接吻。その後聖水で灌水しながら入堂。祈りを捧げた後に、教皇様による枢機卿への任命書の朗読と提示。そして着座と行われました。

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ミサは通常式文ですが、イタリア語で行いました。小教区の聖歌隊が、伴奏のバンドと共に、とても素晴らしい歌声を聞かせてくださいました。

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第一朗読をイタリア語、第二朗読を日本語、福音をイタリア語で行った後、説教は準備した原稿で日本語で行い、アンドレア司教様がイタリア語に訳してくださいました。

ミサの終わりに聖堂に戻り、儀典室が用意してきた着座の記録にサインして終わりです。

準備してくださった小教区の皆さん、参加してくださった皆さん、ありがとうございます。

以下、そのときの説教の原稿です。

名義教会着座式
サン・ジョバンニ・レオナルディ教会
2025年10月9日

「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」
 私たち教会は、主イエスご自身からこの命令をいただきました。ですから私たち教会は、イエスキリストの福音をのべ伝えることをやめることはできません。しかもイエスは、それを全世界に、すなわち地の果てまで行ってのべ伝えるようにと命じられました。

«Andate in tutto il mondo e proclamate il Vangelo». Noi, la Chiesa, abbiamo ricevuto questo comando dal Signore Gesù stesso. Per questo la Chiesa non può smettere di annunciare il Vangelo di Gesù Cristo. Inoltre, Gesù ha ordinato di andare ad annunciarlo a tutto il mondo, cioè fino ai confini della terra.

いまから476年前、1549年、フランシスコ・ザビエルはその命令に忠実に生きるために、はるかかなたの日本までやってこられました。日本での福音宣教の始まりです。

フランシスコ・ザビエルの時代、ヨーロッパから日本に来ることは、危険な冒険でした。アジアでの宣教のためにリスボンを出発した時から数えると8年です。途中のインドのゴアから出発して日本の鹿児島に上陸するまで4ヶ月です。フランシスコ・ザビエルにとって、「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」というイエスの命令は、そのすべての苦しみを乗り越えさせるほど、意味のある命令でありました。

476 anni fa, nel 1549, Francesco Saverio venne fino al lontano Giappone per vivere fedelmente a questo comando. Fu l’inizio dell’evangelizzazione in Giappone.

Ai tempi di Francesco Saverio, giungere dal continente europeo al Giappone era un’avventura pericolosa. Dal momento in cui partì da Lisbona per la missione in Asia passarono otto anni; e dal porto di Goa, in India, fino allo sbarco a Kagoshima in Giappone, ci vollero quattro mesi. Per Francesco Saverio, il comando di Gesù «Andate in tutto il mondo e proclamate il Vangelo» fu un ordine tanto significativo da permettergli di superare tutte le sofferenze.

それからおおよそ500年。その間に迫害と禁教の時代があり、多くの殉教者が信仰を守るために血を流し命を捧げました。日本の教会は、フランシスコ・ザビエルに始まり、多くの宣教師によって種がまかれ、殉教者の血によって育てられてきました。日本の教会は、宣教師や殉教者という信仰の先輩たちに、感謝をささげる教会でもあります。

Sono trascorsi circa 500 anni da allora. In questo spazio tempo ci sono stati periodi di persecuzione e di proibizione della fede, e molti martiri hanno versato il proprio sangue e donato la vita per custodire la fede. La Chiesa in Giappone è nata con Francesco Saverio, il seme fu sparso da molti missionari, e crebbe grazie al sangue dei martiri. La Chiesa in Giappone è dunque anche una Chiesa che offre gratitudine ai missionari e ai martiri, nostri predecessori nella fede.

今日こうして、日本から多くの巡礼団がローマを訪れ、ローマにある教会共同体の皆さんと一緒にミサを捧げ、そして祈りを共にすることには大きな意味があります。それは私たちが歴史の中で、主イエスの宣教命令に忠実に働いてきたことの証しであります。困難の中にあってもくじけることなく神に従い生きることが、これほどの実りをもたらすという、希望の証しであります。いま私たちが祝っている聖年のテーマは、希望の巡礼者です。私たち日本からの巡礼団は、福音宣教が生み出す希望を証しする、希望の巡礼者として、今日ここに来ました。困難に負けることなく希望を生み出す福音の証しです。

Oggi, il fatto che tanti gruppi di pellegrini dal Giappone arrivino a Roma, per celebrare la Messa insieme alle comunità ecclesiali di Roma e pregare insieme, ha un grande significato. È la testimonianza che, lungo la storia, abbiamo lavorato fedelmente al comando missionario del Signore Gesù. È una testimonianza di speranza: vivere obbedendo a Dio senza scoraggiarsi di fronte alle difficoltà porta frutti così grandi. Il tema dell’Anno Santo che celebriamo è «Pellegrini di speranza». Noi, pellegrini giapponesi, siamo qui oggi come pellegrini di speranza, per testimoniare la speranza che nasce dall’evangelizzazione. È una testimonianza del Vangelo che genera speranza, senza lasciarsi vincere dalle difficoltà.

残念ながら日本の教会は、長い歴史がありますが、社会の中ではいまでも少数派です。東京のような大きな都会ではたくさんの方が日曜日にはミサに参加します。しかし地方ではそうではありません。私が東京の大司教になる前、13年間、司教を務めた新潟教区では、あるとき北の地方の教会を訪問したら、聖堂には10人の方がおられました。でもそれを見て主任司祭のドイツ人宣教師は、「今日は司教様が来ているので、たくさんの人が来ています」と言われました。いつもの日曜日には、三人程度しか来ないのだと聞きました。

Purtroppo, nonostante la sua lunga storia, la Chiesa in Giappone resta ancora oggi una minoranza nella società. In grandi città come Tokyo, molte persone partecipano alla Messa domenicale; tuttavia, non è così nelle zone rurali. Prima di diventare arcivescovo di Tokyo, per 13 anni sono stato vescovo della diocesi di Niigata. Una volta, visitando una chiesa in una regione settentrionale, ho trovato 10 persone riunite in cappella. Ma il parroco, un missionario tedesco, disse: «Oggi, poiché è venuto il vescovo, sono accorse molte persone». Mi disse che di solito alla Messa domenicale partecipavano appena tre persone.

日本での福音宣教は簡単ではありません。しかし私たちはそういった人数が少ないという現実の前で悲観的にはなっていません、なぜならば福音宣教は人間の業ではなくて、神様の業であるからです。神様ご自身が、すべての人を救いたいと願っているのですから、必ずや道を切り開いてくださると信じています。福音宣教においては、困難を前にしてくじけてはいけないのは、フランシスコ・ザビエルの時代からはっきりと証明されています。

L’evangelizzazione in Giappone non è facile. Tuttavia, non ci lasciamo scoraggiare dalla realtà dei piccoli numeri, perché l’evangelizzazione non è opera dell’uomo, ma opera di Dio. Poiché Dio stesso desidera la salvezza di tutti, crediamo che Egli certamente aprirà le vie. Che non ci si debba arrendere di fronte alle difficoltà dell’evangelizzazione è stato dimostrato chiaramente fin dai tempi di Francesco Saverio.

いま日本の教会に日曜日に行けば、日本人以外に、ベトナムやフィリピンやインドネシアやブラジルやアフリカなど、世界中の様々な国から来られた方が、一緒なって祈りをささげています。皆さんそれぞれ自分の個人的な理由で日本に来たと思っていることでしょう。しかし私は、そこには必ずや神様の計画があると信じています。個人的な理由で日本に来ているすべての信徒は、神様から遣わされた宣教師です。もちろん日本の教会にいるすべての人も、神様から遣わされた宣教師です。シノドス的な道を歩んでいる教会は、様々な方が交わって豊かにされ、宣教する教会になります。

Oggi, se si va in una chiesa in Giappone la domenica, oltre ai giapponesi ci sono fedeli provenienti dal Vietnam, dalle Filippine, dall’Indonesia, dal Brasile, dall’Africa e da tanti altri Paesi del mondo che pregano insieme. Ognuno di loro penserà di essere giunto in Giappone per motivi personali, ma io credo che in tutto questo ci sia il disegno di Dio. Tutti i fedeli che vivono in Giappone per motivi personali sono in realtà missionari inviati da Dio. Naturalmente, anche tutti coloro che già appartengono alla Chiesa in Giappone sono missionari inviati da Dio. Una Chiesa che cammina in modo sinodale si arricchisce attraverso l’incontro tra persone diverse e diventa una Chiesa missionaria.

ローマにおられる皆さんと、今日こうして日本から来られた皆さんと、交わりを深めながら、ともに困難に立ち向かい、福音を告げる宣教師となることを、あらためて主イエスに誓いましょう。

Oggi, qui, insieme a voi che vivete a Roma e a voi che siete venuti dal Giappone, rinnoviamo la promessa al Signore Gesù di diventare missionari che affrontano le difficoltà e annunciano il Vangelo, approfondendo la nostra comunione.

 

 

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