2025年7月 5日 (土)

週刊大司教第215回:年間第14主日C

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先日6月30日の月曜日、毎年恒例の司祭の集いのミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられました。東京教区の歴代の教区司教は、土井枢機卿、白柳枢機卿、岡田大司教と、お三方ともペトロが霊名であったこともあり、聖ペトロと聖パウロの祝日に近い月曜に、教区司教のお祝いのミサを行ってきたと伺いました。

わたしの霊名がペトロではないことから、この数年は、その年にお祝いを迎える司祭叙階の記念者(金祝や銀祝)をお招きして、司祭の集いのミサを捧げています。

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今年は、該当者の中から、イエズス会の岩島神父様、フランシスコ会の小西神父様、アウグスチノ会の柴田神父様がお祝いに参加してくださいました。また大阪万博のバチカンナショナルデーに参加するために、日本政府からの招聘で来日中であったバチカン国務長官であるパロリン枢機卿様も、ミサに臨席くださり、その後、東京教区で働く司祭団と昼食を一緒にしながら、しばし歓談してくださいました。この日は、朝大阪から移動され、午後には首相など公人に会う政府関連の公式行事もありましたが、教区の行事にも参加するための時間を空けてくださったパロリン枢機卿とモリーナ教皇大使に、感謝です。

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7月1日と2日には、千葉県の白子で、東京教会管区の年次会議が行われました。札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京から、教区司教と事務局長や総代理などが集まり、情報交換の一時を持ちました。二日目の午前には白子にある聖バチルド・ベネディクト白子修道院を訪問し、ミサを捧げて、修道院のシスター方と祈りの時を一緒にすることができました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第215回、年間第14主日のメッセージ原稿です。

年間第14主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第215回
2025年7月6日

ルカ福音は、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」というイエスのことばを記しています。

このことばを耳にするたびに、「働き手が少ない」という部分は切実な現実の問題として実感させられるのですが、「収穫は多い」というのはどういう意味だろうと考えさせられます。

長年にわたって日本の地で福音は告げ知らされてきました。禁教と迫害の時代を挟んでいるとはいえ、日本における福音の種はすでに1549年から蒔き続けられてきました。救いの道を切り開く福音宣教は、徹底的に人間の業ではなくて神御自身の業であります。もちろん福音宣教は人の業として、時に殉教者の血に支えられながら、日本の地で続けられてきました。しかし福音宣教は徹底的に神ご自身の業であります。ですから、いつくしみそのものである御父は、ありとあらゆる手段を講じて、一人でも多くの人を救いに与らせようとさ、福音の種をまき続けておられます。

それはわたし達人間の成し遂げる業績でもありません。神様は自ら種を蒔き、すでに豊かな実りを用意されています。人間の常識からすれば、諸々の困難が社会の現実にはあり、どう見ても福音を告げ知らせることができない状況だと感じさせられたとしても、主御自身はすでに実りを用意されており、不足しているのはそれを見いだし、刈り取るわたし達働き手であります。

福音には主が72人を任命し、「ご自分が行くつもりの全ての町や村に2人ずつ遣わされた」と記されていました。福音を告げるようにと遣わされた宣教者は、神の支配の確立である平和を告げしらせ、その告知は病人のいやしという具体的な行動を伴っていたことが記されています。同時に福音を告げるようにと遣わされることはたやすいことではなくて、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と主ご自身が言われるように、いのちの危機をも意味する数多の困難を伴う生き方です。まさしく主ご自身が十字架を持って具体的にあかしをされたように、福音を告げしらせることも命懸けの具体的な愛のあかしの行動であります。しかし同時にそれは、主がすでに用意された実りを見いだし、刈り取るための作業でもあります。わたし達はありとあらゆる困難に直面しながらも、見いだし刈り取る者としての務めを果たさなくてはなりません。それが、召命です。

信仰者は、すべからく福音を告げるようにと派遣されています。わたしたち全てが、福音宣教者として派遣されています。働き手は誰かではなく、わたしです。

召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに道を歩み続ける弟子の姿は、今共に道を歩む教会に変わろうとしているわたしたちへの模範です。福音をあかしするシノドスの道を、ともに歩みながら、実りを見いだし刈り取る者としての務めを果たして参りましょう。

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2025年6月28日 (土)

週刊大司教第214回:聖ペトロ聖パウロの主日

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今年は、聖ペトロと聖パウロの祝日が日曜日と重なったため、この偉大な二人の使徒の記念日としての主日となります。

ローマでは、この一年間に首都大司教(メトロポリタン)に任命された大司教が、教皇様からパリウムと呼ばれる肩掛けをいただく式が行われます。

わたしがパリウムをいただいたのは、教皇フランシスコから2018年のこの時期でした。前日土曜の晩には、前田枢機卿様が枢機卿会の中で叙任された日でもありました。このときは、パリウムは小箱に入ったものを教皇様から渡され、帰国後に自分のカテドラルで、教皇大使からそれをいただくという形式でした。下の写真は、2018年当時の教皇大使チェノットゥ大司教様から、パリウムを授けられているところです。

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今回教皇レオ14世は、以前の形式に戻して、ご自分で直接大司教たちに授けることにしたと聞いています。どちらにも象徴的な意味があると思いますが、今回のように直接の方が、確かにペトロの後継者である教皇と使徒の後継者である司教の絆を、直接的に感じることができるのではなかろうかと思います。

ところで、聖ペトロ聖パウロの祝日に近い主日には、ペトロ使徒座献金が行われます。名称はなにか教皇庁の建物でも支える献金みたいですが、実際には教皇様の使徒職、特に困難に直面する人たちを助ける愛の業を実現するための、教皇様への個人的献金です。Peter's PenceとかObolo di San Pietroと呼ばれ、中央協議会のホームページには次のような説明が記されています。

「教皇は毎年、世界各地を訪問します。そして、人々の苦しみや悩みを聞き、優しい笑顔で力づけ、数々の援助を与えます。キリストの代理者、教会の最高牧者である教皇は、祈りと具体的な援助を通して全世界の人々にいつも寄り添っているのです。この教皇に心を合わせて、わたしたちも世界中の苦しんでいる人々のために祈りと献金をささげます」

是非教皇様の活動を支えるために、献金をお願いします。こちらは教皇庁広報省が用意した、今年の呼びかけのページとビデオのリンクです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第214回、聖ペトロと聖パウロの主日のメッセージです。

聖ペトロ聖パウロ使徒の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第214回
2025年6月29日

今年は6月29日の聖ペトロ聖パウロの祝日が日曜日と重なったため、主日としてこの二人の偉大な聖人の記念をいたします。

昨年2024年12月7日に、教皇フランシスコから枢機卿に叙任していただいた際に、教皇様から二つのしるしをいただきました。一つは枢機卿がそのいのちをかけて信仰を護るようにという務めを象徴する深紅の帽子、ビレッタであり、もう一つは右手の薬指にはめる指輪です。この指輪には二人の人物、すなわち使徒ペトロとパウロの二人の姿が刻み込まれています。

ペトロとパウロこそは、いまに至るまで続く主の教会を支える二つの柱であります。二人は人生で歩んだ道は異なるものの、イエスご自身から声をかけられて使徒となり、その生涯を福音の告知のために捧げ、殉教への道を歩まれました。ペトロは使徒の頭として選ばれ、神の民を牧するようにと命じられ、聖霊降臨を経て生み出された教会を育て導きました。パウロは元来は熱心なユダヤ教徒としてキリスト者の信仰を激しく迫害するものでしたが、イエスご自身から回心へと招かれ、世界に向けて福音を告げ知らせる宣教する教会の基礎を築き上げました。

そして二人は、信仰を命をかけてあかしし、その血を持って教会の礎となられました。わたしたちはその二人の信仰を受け継ぎ、守り、育み、同じように勇気を持って信仰をあかしするものとなるように招かれています。

マタイ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だといっているか」と問いかけた話を記しています。弟子たちは口々に、どこからか聞いてきた話をイエスに伝えます。

「あの人はこう言っていた。こちらではこう言われている」。それはいうならば根拠の薄い、または根拠のない噂話に過ぎません。全く今の時代を生きているわたしたちそのもののようです。実際に自分が見聞きしたわけでもないのに、ネット上に流れている情報を鵜呑みにして、即座に結論に到達しようとするわたしたちの姿そのものです。

それに対してイエスは、「それであなたがたはわたしを何者だというのか」と問いかけます。根拠のない噂話ではなくて、自分の体験から得た自分自身の心の思いを語れと迫ります。

イエスとの実際の出会い、交わり、信仰に基づいて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と応えたのは、ペトロでありました。わたしたちも自らの実体験から信仰を告白するものでありましょう。

ところでペトロの後継者である教皇様は、同時にローマの司教でもあります。5月25日、ローマの司教座であるラテラン大聖堂に着座されたレオ14世は、こう述べておられます。

「ローマ教会は、ペトロ、パウロと数えきれない殉教者のあかしを基盤とした、偉大な歴史の相続人です。そしてそれは独自の使命をもっています。この大聖堂のファサードの銘文の「すべての教会の母」に示されるとおりです」

その上で教皇様は、ペトロとパウロのエルサレムにおける対話が教会を大きく発展させたことに触れ、対話の重要性を強調されながら、「この教会は、大胆な計画に限界なく取り組み、新たな骨の折れる見通しにも立ち向かうことによって、「大きく」考えることができることを何度も示してきたからです」と述べ、いま教会が歩んでいるシノドスの道を歩み続けることの重要性を説いています。

聖ペトロとパウロの祝日に当たり、あらためて教皇レオ14世のために祈りましょう。

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2025年6月25日 (水)

80年目の沖縄慰霊の日

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6月23日、沖縄慰霊の日にあたり、那覇教区が主催された第39回平和巡礼に、司教団と共に参加して参りました。

現地で合流した那覇教区のウェイン司教様と押川名誉司教様を加え、全国から15名の司教(うち枢機卿二人)が参加しました。

当日は、午前6時から、那覇空港に近い小禄教会で平和を祈願するミサを捧げ、わたしが司式と説教を担当いたしました。説教は特に、その前の週に開かれた司教総会で採択された80周年の平和メッセージについて紹介する中で、ちょうど悪化していたイスラエルとイランの対立と米国による介入の現実を踏まえ、改めて平和を確立するための決意を新たにしようと呼びかけるものとしました。

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ミサ後、午前7時に小禄教会を出発して、摩文仁にある魂魄の塔を目的地に、約14キロの平和行進が始まりました。成井司教様、酒井司教様、アベイヤ司教様、中村大司教様は一緒に歩かれたと思います。(上の写真。手前は勝谷司教、真ん中は押川名誉司教。遙か前方には小中高生が。)

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その他わたしを含め体力と自信のないものは、安里教会へ移動し、平和学習の講演に耳を傾け、その後ひめゆりの塔の駐車場まで移動して、そこから最後の部分の1.4キロほどを、一緒に歩かせていただきました。沖縄カトリック小学校の子どもたちや中学高校生も一緒の、力強い行進でした。(上の写真、歩くわたしと勝谷司教)

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ちょうどこの日は、公式の式典の後に石破首相がひめゆりの塔を訪れることになったということで、東京から警視庁の機動隊の皆さんが派遣されてきていました。周囲は足立ナンバーの車両ばかりでしたので、フェリーなどで移送されたのでしょうか。

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魂魄の塔前の様子はカトリックジャパンニュースに記されていますので、ご参照ください。

以下当日のミサの説教の原稿です。

沖縄慰霊の日 追悼・平和祈念ミサ
カトリック小禄教会
2025年6月23日

世界を巻き込んで多くの人のいのちを奪い、また多くの人のその後の人生の道筋を大きく変えた戦争が終結してから、今年で80年という節目の年を迎えました。

本日、6月23日は、沖縄慰霊の日であります。日本のカトリック司教団は、今日この沖縄の地にあって皆さんと一緒に祈りの時をともにできる機会をいただいたことに、感謝しています。と同時に、この地にあって祈りの時をともにする中で、あらためて平和を実現するために力を尽くす誓いを新たにする決意を強く心に抱いております。

この数日、イスラエルとイランに米国を加えて武力衝突が深まり、戦争が勃発するのではないかという不安と、核兵器の使用が取り沙汰されることへの懸念が世界中で広まっています。そのような現実の中で、先日帰天された教皇フランシスコが、2019年に長崎を訪問した際に述べられた言葉を思い起こしております。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられているにもかかわらず、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは天に対する絶え間のないテロ行為です」

さらに教皇は広島で、「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。・・・真の平和とは、非武装の平和以外にありえません」と力強く呼びかけられました。

どのような視点から見ても、人間の尊厳を損ない、神からの賜物であるいのちをないがしろにした暴力の嵐である戦争を、良しとすることはできないはずであります。そこに多くの涙と悲しみが生み出された事実を否定できる人はいないはずであります。長い時間が経過するにしたがって、その歴史の教訓を忘れ去り、再び同じおろかな行為をしないと誓ったその心の思いから目を背け、歴史の悲劇を美化しようとする向きさえあります。

あらためてわたしたちは、神から賜物として与えられたいのちの尊厳を守り抜く務めが創造主である御父から与えられていることを心に留め、いのちがその始まりから終わりまで、例外なく徹底的に守り抜くようにと、世界に向けて呼びかけたいと思います。

日本の司教団は、先日開催された司教総会の場で、戦後80年司教団メッセージ「平和を紡ぐ旅」を採択いたしました。副題として、「希望を携えて」を掲げております。時間の関係でその全文をここで朗読して紹介することができませんので、是非それぞれの手に取ってお読みいただければと思います。現在の日本のカトリック司教団の平和への思いの結実でもあり、特に若い世代のみなさんに呼びかけるメッセージでもあります。

メッセージの中で、司教団は日本被団協がノーベル平和賞を受賞した意義に触れ、「80年が経過した今、実際に戦争を経験した人は非常に少なくなってきています。だからこそ、わたし達は歴史的事実に向き合い、学び、記憶に留め、次世代に伝え、平和のために生かしていかなければなりません」と呼びかけました。

その上で、教皇フランシスコの広島におけることば、「思いだし、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です」を心に留めて、「若者のみなさんが広島や長崎、そして沖縄に、巡礼や平和学習の旅をなさるのはとても大切な、意義のあることです」と指摘しました。本日このように多くの方が沖縄の地に集まり、歴史の事実を思い起こし、ともに歩み将来へ伝え続けようとしていることには大きな意味があります。。

またこのメッセージの中では、沖縄や南西諸島の現実にも触れさせていただき、「沖縄の人々は、80年前の恐ろしい戦争の記憶、米軍基地に関連する様々な暴力事件に苦しみながらも、あくまで非暴力による平和アピールを続けてきました。戦争を二度と繰り返さないように。性暴力を含む基地由来の被害が二度と起こらないように。そう叫び続けてきたにもかかわらず、今また、ミサイル基地等が目の前に作られているのです。沖縄の年配の方々の間で、「戦争の準備をしている。」「戦争前と同じ歩みをしている。」そういう声が聞かれます」と記させていただきました。

戦争はあるとき急に宣言があって始まるものではなく、少しづつ忍び足で近づいてくるものです。その忍び足の足音に耳を澄ませ、暴力手解決を図ろうとする動きに明確にNOを突きつけなくてはなりません。

平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢をとり続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、いのちを暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

司教団メッセージでは核兵器の廃絶についても触れていますが、それとは別にわたしたち司教団は、核兵器廃絶についての宣言も今回の総会で採択しております。

こういった現代社会の現実の流れを踏まえたとき、わたしたち司教団は、あらためてわたしたちの主張する平和について、メッセージに記しました。

それは、「平和(シャローム)」は、もともと『欠けたところのない状態』という意味」であることを改めて強調し、したがって、「平和は、単に戦争や争いがない状態なのではなく、この世界が神の前に欠けるところのない状態、すなわち神が極めて良いものとして造られたこの世界のすべてが、それぞれ尊重され、調和のうちにある状態だ」と強調いたしました。そのためにも、常なる回心と対話の継続が不可欠です。平和とは、核兵器や武力の均衡によってもたらされるものではありません。

ひとり一人のいのちを守ることが最優先であると考えるのなら、武力の行使こそは、なんとしてでも避けるべきですが、実際にはそのような考えは非現実的だと批判されることもしばしばあります。非武装の平和を語ると、夢物語だと揶揄されることも珍しくありません。特にその傾向は、この数年の間に強まっていると感じます。

沖縄にとって、そして日本全体にとって、また世界にとって、平和を真摯に考え祈るために大切なこの日に、こうやって実際に沖縄の地に立ち、祈りを捧げるわたし達は、あらためて、神の平和がこの世界に実現することを願い、またそのためにわたし達一人一人が働き続けることを誓い、平和の源である神の祝福と導きに信頼しながら、声を上げ行動し続けて参りましょう。

 

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2025年6月21日 (土)

週刊大司教第213回:キリストの聖体の主日C

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本日の主日はキリストの聖体の主日です。

キリスト教が日本よりも社会認知されている国や伝統的なキリスト教国では、この日に合わせて、ご聖体を顕示しながら行列をして、聖体に現存する主を称え礼拝する聖体行列が行われます。わたしが昔若い頃に主任司祭をしていたアフリカのガーナの村でも、大がかりな聖体行列をしていました。

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日本でも聖体行列が出来ればそれに越したことはありませんが、同時にキリスト教が社会的に認知されず秘跡の意味合いが理解されていない地で、御聖体がご神体であったり、極論すれば見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回ればそれで良いというものではありません。つまりわたしたちの満足のためにするものではありません。

キリスト教が今以上に認知され、ご聖体の意味が広く知られるようになる、そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常日頃から感じています。

同時にご聖体を通じてわたしたちと共におられる主キリストの聖体の主日にあたり、信仰やそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、またいのちを生きる危機を肌で感じながら信仰を守っている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださり、兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、また祈りたいと思います。

月曜日、6月23日は、沖縄慰霊の日です。太平洋戦争末期の沖縄戦で、陸軍の現地司令官だった牛島満中将が、昭和20年6月23日未明に、糸満の摩文仁で自決したとされており、沖縄県では1974年に「慰霊の日を定める条例」を制定し、戦没者の追悼と平和を祈る日とされています。

沖縄県の「慰霊の日を定める条例」の第一条には、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める」とその目的が記されています。

この日には沖縄全戦没者追悼式が行われますが、カトリック教会も那覇教区が、毎年この日に慰霊のミサと祈りをささげる行事や、平和行進を行っており、80周年にあたる今年は、日本の多くの司教も参加する予定となっており、朝6時から小禄教会でわたしが司式して平和祈願ミサが行われます。当日の予定と、バーント司教様の平和メッセージは、こちらのリンクから那覇教区のホームページをご覧ください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第213回、キリストの聖体の主日メッセージです。

キリストの聖体の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第213回
2025年6月22日

映画「教皇選挙」の上映と時期が重なったこともあって、キリスト教国ではない例えば日本においても、本当の教皇選挙が大きな注目を浴びました。わたしも教会やキリスト教について、マスコミで語る機会を多く与えられたことに感謝しています。映画は選挙の情景描写にあって非常に良くリサーチされており、実際の教皇選挙とほとんど変わらない様子が映し出されていました。もっとも実際の人間関係においては、そこまで激しい駆け引きがある権力闘争というよりも、祈りのうちに聖霊の導きを真摯に求める一時であったと実際に現場にいて感じました。

その教皇選挙の前に行われた枢機卿総会では、教会の現状と新しい教皇への期待が参加した枢機卿たちから表明されましたが、その中で、「一致の重要性」が多くの枢機卿から語られました。それは裏を返せば、教会全体の一致が揺らいでいるということへの不安の表明でもあったと思います。

教会のシノドス性を問うたシノドスの終わり、2024年10月末に発表された最終文書は、そのままの形でいまを生きる神の民の声を反映した教皇ご自身の文書ということになりました。後日教皇フランシスコはその冒頭に序文を加えられました。

そこには、「もちろん教会には、教義と実践の一致が必要です。けれどもそれは、教義のいくつかの側面や、そこから帰結される何らかの結論の、解釈の多様性を排除するものではありません」という一文があり、その解釈の多様性が一致を阻害すると感じる人たちがいることは事実でしょう。

もっとも教皇フランシスコ自身が、この共同体としての聖霊の導きがどこへ向かっているのかを明確に知ることは難しいことを自覚していたのは間違いがなく、そのために、即座に結論を求めるのではなく、時間をかけて共同の識別を続けることの重要性を説いておられました。とはいえ、わたしたちは辛抱強く待ち続けることに不安を覚えるものでもあります。

その不安を払拭するのは、ご聖体の秘跡であります。なぜならば、聖体は一致の秘跡であるからに他なりません。

第二バチカン公会議の教会憲章には、「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され、実現される(3)」と記されています。

聖体は、わたしたちを分裂させ分断させるのではなく、キリストにおいて一致するようにと招く秘跡です。なぜならば、それこそがキリストご自身のわたしたちへの心であり、あふれ出る神のいつくしみそのものの具体化だからであります。

ルカ福音は、五つのパンと二匹の魚が、五千人を超える群衆の空腹を満たした奇跡物語を記します。イエスは奇跡を行う前に弟子たちに対して、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じることで、人々を共同体において常に一致させることの大切さを指摘しています。神の民としてともに旅をするわたしたちを一致させるのは、主イエスのわたしたち一人ひとりへの思いです。それは聖体に凝縮されたイエスのみこころであり、まさしく聖体のうちに現存する主は、聖体を通じてわたしたちをその絆で結び、一致へと招いています。主とともに歩み続けましょう。わたしたちはご聖体の秘跡によって一致している神の民であります。

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2025年6月20日 (金)

司教団による教皇レオ14世就任記念ミサ

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6月16日から19日まで、日本のカトリック司教団は、定例の総会を行いました。詳しいことはカトリック中央協議会のウェブサイトやカトリックジャパンニュースで報道されますので、ご参照ください。

また今年は戦後80周年にあたることから、司教団としての平和メッセージと、それに伴う核兵器廃絶宣言2025を採択しました。平和メッセージについては、来週、6月23日が沖縄の平和祈念の日であり、わたしを始め多くの司教が沖縄に赴いて祈りの時を一緒にするため、この日より前に公開することを目指して、検討を続けてきたものです。

6月23日には沖縄での朝6時の平和ミサを、私が司式させていただくことになっています。

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司教総会の間、6月18日の水曜日の夕方、カトリック麹町聖イグナチオ教会において、司教団としての教皇レオ14世就任記念ミサを捧げました。

ミサはわたしが司式と説教を担当し、教皇大使にもご一緒いただき、ミサの終わりにはスペイン語でご挨拶をいただきました。教皇大使は、ちょうどその前の週に、バチカンでの教皇大使の聖年の集まりに参加し、教皇レオ14世と謁見してきたばかりとのことでした。

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以下、当日のミサの説教の原稿です。他の所でも繰り返し話している内容ですが、一応記録のために記します。

教皇レオ十四世就任記念ミサ
2025年6月18日(水)18:00
カトリック麹町聖イグナチオ教会

5月8日夕刻、バチカンのシスティーナ聖堂に集まった133名の枢機卿団は、前日7日の夕刻に始まった教皇選挙における第4回目の投票で、兄弟であるロバート・フランシス・プレボスト枢機卿を、第267代目の教皇に選出しました。前田枢機卿様とわたしも、この教皇選挙に参加するという歴史的な体験をさせていただきました。

プレボスト枢機卿は枢機卿団の前で、教皇選挙における首席枢機卿代理のピエトロ・パロリン枢機卿からの問いかけに答えて選挙の結果を受諾し、「レオ」と名乗ることを宣言されました。教皇レオ14世の誕生です。

教会は、2013年3月から12年間、教皇フランシスコによって導かれてきました。教皇フランシスコへの評価は、それこそ多様性に満ちあふれた様々な評価がありますが、しかしたぐいまれな指導力と霊性を持って、聖霊に導かれた教会のあるべき姿を具体化することに力を尽くし、そのための道を残してくださいました。改めて教皇フランシスコの残された遺産を振り返り、その貢献に感謝したいと思います。

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教皇フランシスコは2019年11月、コロナの感染症ですべてが停止する直前に、日本を訪れてくださいました。わたしは東京の大司教として、東京でのプログラムで教皇様の先導役を務めましたが、特に東京ドームの中を一緒にオープンカーに乗って回ったとき、本当に心から喜びの笑顔で、集まった皆さんに手を振り、子どもたちに祝福を与えられる姿に、愛といつくしみに満ちあふれた牧者の姿を見ました。少しでもその姿に倣いたいと思いました。

2020年以降の世界的な感染症によるいのちの危機や、ミャンマー、ウクライナやガザなどと頻発する戦争や武力紛争は、人々から寛容さを奪い去り、排除と暴力と絶望が力を持つ世界を生み出してしまいました。その現実に対して教皇フランシスコは、2025年聖年のテーマとして「希望の巡礼者」を掲げ、ともに助け合いながら歩むことで教会が世界に対して、キリストにおける希望をあかしする存在となるように求められました。聖霊の導きを祈りのうちに識別する教会、すなわちシノドス的な教会は、互いに助け合い支え合って歩む姿を通じて、キリストの希望をあかしする宣教する教会であります。

教皇選挙は、「選挙」とは言うものの、いわゆる政治的な駆け引きの場ではありません。教皇選挙を前にして連日行われた枢機卿の総会で表明された多くの枢機卿の意見から、教皇選挙とは、希望の巡礼者となるようにと教会を導いた教皇フランシスコのコピーのような人物を後継者として選ぶ作業なのではなく、イエスが最初の牧者として神の民を託した使徒ペトロの後継者を選ぶ祈りの時なのだと、多くの枢機卿が感じていました。

枢機卿たちは聖霊の導きがあるようにと真摯に祈りましたが、それは賢明で良い選択ができるようにと導きを願っていたのではなくて、すでに主ご自身が選ばれているはずのペトロの後継者を、わたしたちの間から見いだすために、ふさわしい識別の賜物を願って祈っていました。

枢機卿総会を終えて、133名の枢機卿がシスティナ聖堂に入ったとき、自分たちの間の誰が一体ペトロの後継者としてすでに選ばれているのかを知っていた枢機卿は誰もいませんでした。しかし、二日目の午後の最初の投票で三分の二超える得票でプレボスト枢機卿が選出されたとき、わたしを始め多くの枢機卿が、確かに聖霊が働いていたと実感したはずであります。

枢機卿総会での多くの意見表明の中では、教会の現状に対する評価とともに、次の教皇にはどのような人物がふさわしいか、何を期待するのかについての意見も多く聞かれました。その様々な意見を積み重ねてみると、次の教皇には、福音宣教の現場、つまり司牧の現実に精通し、同時に規模の大きい組織の運営に長けていることが求められていました。さらには深い霊性を持っていること、はっきりとした神学の見識を持っている人物がふさわしいという意見も多く聞かれました。 残念ながらそのすべてを兼ね備えた人物など、簡単には見つからないというのが、教皇選挙前の雰囲気でありました。

ところが、実際に選出された教皇レオ14世のこれまでの歩みを見れば、司祭としてペルーで長年にわたり司牧の現場で働き、修道会の総長として世界に広がる修道会を12年にわたって束ね、その上で司教としてペルーの司牧の現場で教会を導き、さらにはバチカンで司教省の長官を務め、その上アウグスチノ会の霊性にも深く通じています。これほど完璧に、多くの枢機卿が願った次の教皇のプロフィールを満たしている人物はおらず、なぜ彼にたどり着いたのか、わたしたちには分かりません。主は自ら選ばれ、聖霊を通じてわたしたちがプレボスト枢機卿に到達するように導いてくださいました。わたしたちは、聖霊に導かれて、教皇レオ14世にたどり着きました。

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教皇フランシスコは、シノドスの道を開きました。その道こそが希望の巡礼者として歩むべき道であることを示されました。いま問われているのは、教会が聖霊に導かれた教会であるためにはどのような道を歩むかを識別することです。しかしその道のりは決して平坦ではありません。なぜならば教皇フランシスコ自身が指摘するように、識別を繰り返す中で即座にゴールが見えてくることはなく、シノドス的な教会のイメージも文化や歴史的背景に基づいて様々な多様性があり、この歩みは一朝一夕で終わらせることができない模索の旅路でもあるからに他なりません。

枢機卿総会でも多くの枢機卿が、多様性を尊重しつつも、信仰における明白性を持って、教会が一致することの重要性を強調されました。一致は一つのキーワードになっていると感じています。教皇レオ14世の治世は始まったばかりであり、これからどのような方向に進むのかはまだ分かりません。しかしすでにその最初の日から、一致と平和は教皇レオ14世にとって大きな課題の一つとなっています。

6月1日の聖年にあたっての家庭・子ども・祖父母・高齢者の祝祭のミサ説教で、次のように一致と平和について語られました。

「わたしたちは、家族として、そして、自分たちが生き、働き、学ぶ場で、主がわたしたちが「一つ」となることを望まれたように「一つ」となるために、ここにいます。わたしたちはさまざまですが、一つです。多くの者がいますが、にもかかわらず一つです。あらゆる状況においても、人生のあらゆる段階においても、つねにそうです」

その上で教皇様は、「愛する皆様。「アルファであり、オメガである」方、「初めであり、終わりである」(黙22・13参照)方であるキリストに基づいて、わたしたちが互いに愛し合うなら、わたしたちは社会と世界の中で、すべての人にとって平和のしるしとなります」と呼びかけておられます。

戦後80周年となる今年、日本各地では改めて平和に思いを馳せる祈りの時がもたれます。教皇ヨハネパウロ二世と教皇フランシスコは広島長崎の地から平和と、そのための核兵器廃絶について力強く発進してくださいました。平和は分裂をもたらすものではなく、家族としての一致をもたらすものです。平和と一致を見出す要因は、武力だけに限らず、人間の尊厳をないがしろにするあらゆる行為があります。教皇レオ14世とともに、人間の尊厳を守り、一致のうちに平和を打ち立てる世界の実現のために、働き続けたいと思います。

 

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2025年6月14日 (土)

週刊大司教第212回:三位一体の主日C

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聖霊降臨の次の主日は、三位一体の主日です。

前の記事にも投稿しましたが、先日、国際カリタスが南山大学から人間の尊厳賞をいただきました。下の写真が、その際にいただいた記念の盾です。記念の盾に刻まれているのは、キャンパス内に実際にある上の写真の十字架です。ありがとうございます。

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6月8日の聖霊降臨の主日には、午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教区合同堅信式が行われました。

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今年は52名の方が堅信の秘跡を、わたしとアンドレア補佐司教様から受けられました。復活徹夜祭や復活祭に行われる成人洗礼の場合は、特段の理由がない限り、洗礼と聖体と堅信の三つの秘跡を同じ日に受けていただくようにしています。幼児洗礼の場合は、年齢の歩みとともに、洗礼から始まり、初聖体、そしてある程度の年齢になってからの堅信と続きます。

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そのようなわけで、今年の堅信を受けた皆さんの多数は、小学校高学年から中学生や高校生が多く見られました。堅信を受けたみなさん、おめでとうございます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第212回目、三位一体の主日のメッセージです。

三位一体の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第212回
2025年6月15日

教皇レオ14世は、5月18日にサンピエトロ広場で行われた就任のミサの説教で、「愛と一致」こそが、ペトロの後継者として主ご自身から自分に託された使命の二つの次元である述べられました。

その上で教皇は、「ローマ司教は、キリスト教信仰の豊かな遺産を守ると同時に、現代の問い、不安、課題に立ち向かうために、遠くを見ることができなければなりません。皆様の祈りに伴われて、わたしたちは聖霊の働きを感じました。聖霊はさまざまな楽器を調律し、わたしたちの心が一つの旋律をかなでることができるようにしてくださいました」と、コンクラーベに集まった133名の枢機卿たちに、確実に聖霊の導きがあり、その実りは、愛と一致に神の民を導くのだと指摘されています。

教皇選挙に先立つ枢機卿会で、多くの枢機卿が教皇に求められる役割として、信仰の遺産を確実に明確に伝える霊性の深さと、現代社会の要請に応えるために司牧の豊かな経験と、さらにはこの世の組織を運営するに長けた能力を持つことを求めました。教皇宣教が始まる時点で、誰もそのすべてを兼ね備えた枢機卿は存在しないと思っていましたが、聖霊はしかりと働き、四回目の投票で選ばれたレオ14世こそは、そのような資質をすべて兼ね備えた人部でした。

わたし達は御父によっていのちを与えられ、救いの道をイエスによって与えられ、この世界で聖霊によって導かれて歩みを共にします。わたし達の信仰は、三位一体の神に基づいた共同体の信仰です。ですからわたしたちは、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けます。

わたしたちを「導いて真理をことごとく悟らせる」聖霊が、「わたしのものを受けて、あなた方に告げる」と、ヨハネ福音は主イエスの言葉を記します。その「わたしのもの」とは、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」と主ご自身が言われるのですから、わたしたちは、三位一体の神の交わりの中で、聖霊に導かれて御子に倣い、御父へと結びあわされています。

カテキズムはそれを、「御父の栄光をたたえる者は、御子によって聖霊のうちにそうするのであり、キリストに従う者は、その人を御父が引き寄せ、聖霊が動かされるので、そうするのです」と記します(259)。

わたしたちは共同体で生きる教会であるからこそ、教会共同体は、三位一体の神をこの世に具体的に顕す共同体であるよう務めなくてはなりません。それを実現しようとしたのが、教皇フランシスコが力強く導かれたシノドスの道です。わたし達は共に支え合い、耳を傾けたい、共に祈り、聖霊の導きを識別することで、この世界の現実の中で、三位一体の神の存在を具体的にあかしする共同体となります。

そもそもわたしたちの信仰が三位一体に基づいているからこそ、わたしたちには教会共同体が必要であり、信仰を一人孤独のうちに生きることはできません。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた瞬間に、わたしたちは三位一体の神の交わりの中で、教会共同体の絆に結びあわされるのです。わたしたちの信仰は、共同体の交わりにおける絆によって生かされる信仰です。

主イエスご自身に倣い、御父の願いを具体的に実現するために、聖霊の導きに身を委ね、共同体の交わりの中で、信仰を生きていきましょう。この世界に「愛と一致」をもたらすものとなりましょう。 

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2025年6月 8日 (日)

国際カリタス、南山大学から人間の尊厳賞受賞

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わたしの母校でもある名古屋のカトリック大学「南山大学」は、その教育のモットーを「Hominis Dignitati(人間の尊厳のために)」と定めています。このモットーは南山大学にとどまらず、南山学園全体のモットーでもあり、わたし自身も、名古屋の南山中学から始まって南山大学大学院を卒業するまで、一貫した南山教育を受けてきましたので、「人間の尊厳のために」を、心にたたき込まれてきました。

南山学園のホームページにはこう記されています。

「このモットーは学園創立20周年を機に制定され、当時南山大学教授であったドイツ人宣教師、アルベルト・ボルト師(第7代南山学園理事長)により、自身の経験と第2次世界大戦の痛みの中から、南山教育が掲げる最も大切な理念として生まれ、今日まで脈々と受け継いでいます。」

南山大学では、現在の学長であるロバート・キサラ神父が、大学の創立75周年にあたり、この建学の理念に立ち返るために、人間の尊厳賞を設立されました。キサラ学長は、ホームページのメッセージにこう記されています

「一私立大学のささやかな試みですが、営利組織ではできない、高等教育機関たる大学ならではの試みだと考えています。「人間の尊厳のために」という理念の実現に多大な貢献を果たしている人物、組織等を表彰することにより、本学の理念をあらためて広く社会に理解して頂き、学内外の人々とこれを共有したいと考えています」

このたび、第四回目の人間の尊厳賞の受賞者として、国際カリタスを選定していただきました。選定の理由には次のように記されています。

「カトリックの信仰に基づき、世界中の困難に対し各現場で的確な支援を継続的に実施出来る枠組みを展開」

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この名誉な賞を国際カリタスが受賞することになり、国際カリタスを代表してわたしが、6月7日午後に名古屋の南山大学で行われた表彰式に出席し、賞をいただいて参りました。また表彰式後には一時間ほどの時間をいただいて、国際カリタスの活動やカトリック教会の援助への考え方などについて、講演をさせていただきました。

本来こういった受賞に際しては、実務を担当する事務局長が出席することが通例なのですが、今回は、場所が日本であり、日本語での講演会ということで、わたしが出席することになりました。国際カリタスの連盟に属する162の国・地域のカリタスの皆さん、実際に現場で働いてくださる多くのボランティアの皆さん、またカリタスを様々形で支えてくださる多くの皆さんを代表して、受賞して参りました。当日いただいた記念の盾は、後日手元に届いてから写真を公開します。

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なお当日は、名古屋の教会関係者の方や、旧知の皆さん、中学高校の同級生をはじめ、高校時代の恩師まで来てくださり、懐かしい皆さんにお会いできたことにも感謝で一杯です。

国際カリタスの活動を高く評価し顕彰してくださった南山大学の関係者のみなさまに感謝申しあげるとともに、カリタスの活動を支えてくださる多くの方に感謝申し上げます。

以下、南山大学がYoutubeに掲載している当日の映像です。

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2025年6月 7日 (土)

週刊大司教第211回:聖霊降臨の主日C

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聖霊降臨の主日となりました。

主日の午後には、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、合同堅信式が行われます。堅信の秘跡を受けられる53名の皆さん、おめでとうございます。

堅信式の様子などは、また別途記します。

6月は「みこころの月」と言われます。「みこころ」は、主イエスの心のことで、以前は「聖心」と書いて「みこころ」と読んでいました。イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水が、いのちの泉であり新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみこころ」の祭日が設けられ、今年は月末の6月27日となっています。

みこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖女マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼びかけられました。そしてみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、その一つが、9ヶ月の間、初金に聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあるとされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。

1856年に教皇ピオ9世が「イエスのみこころ」の祭日を定められました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第211回、聖霊降臨の主日のメッセージです。

聖霊降臨の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第211回
2025年6月8日

先日行われた教皇選挙、コンクラーベに参加し、新しい教皇レオ14世を選出した133名の枢機卿たちは、システィナ聖堂で投票を続ける中で、聖霊の働きを実感していました。

教皇選挙は、「選挙」とは言うものの、いわゆる政治的な駆け引きの場ではありません。教皇選挙を前にして連日行われた枢機卿の総会で、教皇選挙とは、たぐいまれな才能と霊性を持って力強く教会を導いた教皇フランシスコの後継者を選ぶ作業なのではなく、イエスが最初の牧者として神の民を託した使徒ペトロの後継者を選ぶ祈りの時なのだと、多くの枢機卿が感じていました。すなわち、枢機卿たちは良い選挙ができるように聖霊の導きを祈っていたのではなく、すでに主ご自身が選ばれているはずのペトロの後継者を、わたしたちの間から見いだすための識別の賜物を願って祈っていました。

枢機卿の総会を終えて、133名の有権枢機卿がシスティナ聖堂に入ったとき、一体その中の誰が本当にペトロの後継者として選ばれているのかを分かっていた枢機卿は誰もいませんでした。しかし聖霊に導かれて投票を続ける中で、最後に3分の二を超えて選出されたプレボスト枢機卿のこれまでの人生を見たとき、わたしを含めて多くの枢機卿が、確かに聖霊に導かれた彼にたどり着いたと感じたはずです。

というのも、事前の枢機卿の総会では、次の教皇には、司牧の現場に精通し、同時に組織の運営に長けており、さらには深い霊性を持った人物がふさわしいという意見で多くが一致している中、そのような資質を持った人物などいないという諦めも感じていました。しかし教皇レオ14世こそは、ペルーでの長年の宣教師としての働き、修道会の総長や司教としての働き、さらにはバチカンでの働きと、必要だと言われた経験を十分に持ち、アウグスチノ会という修道会の霊性にも通じています。主は自ら選ばれ、聖霊を通じてわたしたちがプレボスト枢機卿に到達するように導いてくださいました。

「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください」

聖霊降臨の主日に、福音の前に歌われる聖霊の続唱は、この言葉で始まります。教会は聖霊によって誕生し、聖霊の働きによって育まれ、聖霊の導きによって歩み続けています。

「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように」住んでいると指摘する第二バチカン公会議の「教会憲章」は、聖霊は「教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、種々の位階的たまものやカリスマ的たまものをもって教会を教え導き、霊の実りによって教会を飾る」と教えています。その上で、「聖霊は福音の力をもって教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」とも記し(4)、教会は、「キリストを全世界の救いの源泉と定めた神の計画を実現するために協力するよう」、聖霊から迫られているとまで記します(17)。

聖霊の導きに信頼し、神の道をともに歩むことができるように、祈りのうちに身を任せましょう。

常にわたしたちの間で働かれる聖霊の導きに、心から信頼する共同体でありましょう。

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2025年5月31日 (土)

週刊大司教第210回:主の昇天の主日

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この一ヶ月ほどは、教皇フランシスコの帰天に始まり、続いて葬儀、教皇選挙、レオ14世の誕生、さらには以前から予定されていたメキシコでの国際カリタス理事会と、予定外のプログラムを含めて一ヶ月近く海外へ出ていることが続いたため撮影ができず、週刊大司教を一回お休みさせていただきました。申し訳ありません。今週からまた再開です。今週の週刊大司教が210回目となります。

なお2020年11月7日に第一回目を配信してはじまった「週刊大司教」ですが、過去のすべてのビデオは、こちらのリンクの東京大司教区のYoutubeアカウントからご覧頂けます。

主の昇天の主日となりました。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されてから10年となりました。単なる環境問題への取り組みにとどまらず、わたしたち被造物のふさわしいあり方を問いかけ回心を促すこの回勅は、いままだ解決の糸口さえ見いだされていない地球の様々な問題を目の当たりにするとき、決して時間とともに色あせていくような内容ではありません。

この課題に真摯に取り組むために、司教協議会には啓発活動をするための、「ラウダート・シ」デスクが設けられています。こちらのホームページをご覧ください

またわたしが事務局長を務めているアジア司教協議会連盟(FABC)では、3月にバンコクで行われた中央委員会の際に、FABC司牧書簡を発表しています。この書簡のタイトルは、「アジアの地方教会へ――被造界のケアについて。エコロジカルな回心への呼びかけ」です。邦訳が中央協議会のサイトに掲載されていますので、どうぞご一読ください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第210回、主の昇天の主日のメッセージです。

主の昇天の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第210回
2025年6月1日

使徒言行録は、弟子たちに対して天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と語りかけたと記します。死を打ち破って復活された栄光の主が、自分たちから去って行く。残されたわたしたちはどうなるのだと、呆然として弟子たちはたたずんでいたのでしょう。

この天使の呼びかけは、諦めと失望のうちに呆然と立ち尽くすのではなく、イエスが再び来られることを確信しながら、その日まで、イエスから託された使命を果たして生きよという、弟子たちの行動を促す言葉であります。

イエスから託された使命とは何でしょうか。ルカ福音も使徒言行録もともに、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というイエスの言葉を記します。語るのは自分の考えではありません。自分の才能を披露することでもありません。聖霊に導かれて、イエスが何を語ったのか、何を成し遂げたのか、その言葉と行いについて、世界中のすべての人に向かって語ります。それこそが証しの行動です。すなわち福音宣教であります。だから弟子たちは、イエスが天に上げられた後に、喜びに満たされて、「エルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と記されています。隠れているのではなく、多くの人に向かって証しを続けたのです。

そして、現代社会の中で生きている弟子というのは、福音を信じているわたしたちひとり一人のことであります。現代社会に存在するありとあらゆるコミュニケーションの手段を駆使して、ひとりでも多くの人に、イエスの証しを届けていく者でありたいと思います。

2015年5月24日に教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されたことを受けて、毎年5月末には「ラウダート・シ週間」が設けられ、教皇フランシスコが呼びかけた総合的エコロジーの視点から、わたしたちの共通の家である地球を守るための道を模索し、行動を決断するように招かれています。

今年の「ラウダート・シ週間」は、ちょうど昨日まで、5月24日から31日までとされていました。今年は回勅が発表されてから10年という節目の年であり、同時に「希望の巡礼者」をテーマとした聖年の真っ最中です。そこで今年の「ラウダート・シ週間」もそのテーマを、「希望を掲げて」としていました。新しい教皇レオ14世も、教皇フランシスコの始められたともに歩む道を、同じようにともに歩み始めています。そのペトロの使徒職のはじめから、平和と対話の大切さを説き続けています。わたしたち神からいのちを賜物として受けたものが、共に生きる家を守り抜き、託された使命を果たし、ともに歩んでいくことができるように、ともに務めていきたいと思います。

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2025年5月29日 (木)

国際カリタス理事会@メキシコ

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ローマでの一連の行事が終わり、メキシコへ行って参りました。国際カリタスの理事会にあたる代表委員会のためです。

国際カリタスは世界を七つの地域に分けています。1:アフリカ、2:アジア、3:ヨーロッパ、4:ラテンアメリアとカリビアン、5:中東と北アフリカ、6:北アメリカ、7:オセアニア、となっていますが、その各地域から責任者(地域カリタス総裁)と地域代表が参加する年に二回開催される会議です。

通常は5月と11月にローマで三日間の会議を開催していますが、今年は聖年のためにローマでの会場確保が難しく、ラテンアメリカの地域の皆さんのお招きを受けて、メキシコシティでの開催となりました。

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国際カリタスは4年に一度開催される総会において、一定期間を定めた活動方針の枠組みや財務方針の枠組みを決定します。総会が最高決定機関です。その方針に基づいて、実際に運営するのが年に二回開催される代表委員会であり、さらに具体的な業務執行のために、総裁(わたし)と副総裁、総会計、聖座任命の二名の代表、代表委員会から選出された一名に、法務委員会委員長と事務局長を加えて、執行委員会を構成し、これが年に四回(そのうちに二回は代表会議に合わせ、二回はオンライン)。さらに総裁、副総裁、総会計、事務局長の四名で、毎月の打ち合わせをオンラインで行っています。このいわゆる役員の中でフルタイムで雇用されているのは、ローマに駐在する事務局長だけで(下の写真、右側がアリステル・ダットン事務局長)、後の役員はわたしも含め無報酬のボランティアです。現在の役員は、わたしも含めて2023年5月にローマで開催された総会で選出されており、現在4年の任期の半分まで来たところです。

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国際カリタスは、赤十字国際委員会(ICRC)に続く世界で二番目の規模を持つ民間災害救援NGOだと言われていますが、実際には世界で160を超える独立した地域カリタスの連盟組織体です。独立したというのは、連盟のメンバーになるためには、その地域を管轄する司教協議会などの認可が必要だからであり、それぞれの団体はその地域の司教たちの権威の下におかれています。国際カリタスの役割は、災害や緊急人道支援に当たってメンバーの活動や資金援助をコーディネートすることであったり、全体を代表して国連や諸国際会館の場で政策提言活動をしたり、世界的な規模でキャンペーン活動を行うことにあり、国際カリタス自体が巨額の資金を持ってプロジェクトを行っているわけではありません。

国際カリタスの憲章の冒頭にも、「国際カリタスに特に委ねられている務めは、ローマ教皇や司教たちの愛の司牧活動(慈善司牧活動)を支えることである」と記されていますが、特に教皇様の望まれる方針に従って、それを具体化する活動に全体として取り組むように調整をしています。

各地で活動するカリタス組織は、それぞれに歴史があり固有の名称があったりしますが、基本的にはそれぞれの国や地域のカリタスとしてのアイデンティティを明示し、国際カリタスの活動の一翼を担って活動を行っています。今現在も多くのメンバーが、ウクライナやガザで支援活動に取り組んでおり、またアフリカ各地でも様々な活動を行っています。さらには今年はの聖年に合わせて、「負債を希望に変えよう」というキャンペーンを行ったり、COP30に向けた啓発活動などを続けています。日本における活動は、カリタスジャパンが行っています。

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メキシコといえば、グアダルーペの聖母です。東京教区でもグアダルーペ宣教会の司祭が働いておられるので、その名前を耳にされたことはあろうかと思います。

メキシコシティには、そのグアダルーペの聖母の大聖堂があり、今回の代表委員会参加者全員でミサに与ることができました。ミサはメキシコシティの大司教カルロス・アグイアル・レテス枢機卿様が司式してくださり、カリタスからもわたしとオセアニアの責任者でトンガのマフィ枢機卿、中東北アフリカの責任者でジブチの引退司教であるベルティン司教、ラテンアメリカの責任者であるユカタン教区のロドリゲス大司教が共同司式しました。

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1531年12月9日にフアン・ディエゴに奇跡的に現れた聖母は、この地に聖母に捧げられた大聖堂を建設することを望まれ、地元の司教にそれを証明するために、フアン・ディエゴのまとっていたマントにその姿を映し出すという奇跡を行われました。そのマントは今でも大聖堂の祭壇の壁に掲げられており、祭壇裏手では間近に見ることもできます。ミサは平日の夕方に捧げられましたが、このときも大聖堂は大勢の巡礼者で一杯でした。

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ミサが終わり香部屋から退出すると、廊下で学生バンド((下)が待ち構えており、二曲を演奏し歌を披露してくださいました。聞くところでは、来年、演奏のために来日する予定があるとのことで、素晴らしい演奏でした。

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会議の会場は、メキシコシティの神学校の向かいにある、現地で創立された聖霊会という男子修道会の運営する黙想の家で行われました。広い庭のある会場でしたので、会議場での話し合いだけでなく、庭に出てのグループでの話し合いなども行われました。

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また黙想の家でのミサには、地元のシスターが中心になって結成しているグループが手伝いに来てくださり、ギターと様々な打楽器を駆使しながら、音楽を持って典礼を豊かにしてくださいました。特に、中央下あたりに写る男性が、様々な笛を駆使して、自然界の風の音などを再現しておられたのが強く印象に残っています。

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というわけで、ローマでの一連の行事が終わり、チケットの関係で一旦日本に戻り、東京のカテドラルで教皇レオ14世のためのミサを捧げ、そのままアエロメヒコの直行便で成田からメキシコへ飛びました。ローマの7時間の時差、メキシコの15時間の時差ですから、いま体の時間を元に戻すのに、一苦労しております。

 

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