2025年11月 8日 (土)

週刊大司教第231回:ラテラノ教会の献堂

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本日の主日は、ラテラノ教会の献堂の記念日と重なります。ラテラノ教会とはローマ司教の司教座聖堂、すなわち教皇様のカテドラルの献堂の記念日ですので、主日に優先してお祝いされます。今日は特に教皇レオ14世のためにお祈りいたしましょう。

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11月6日夜から7日午後にかけて、上石神井にある日本カトリック神学院で神学院司教会議を行い、全国のほぼ全員の司教が神学院に集まり、神学院に一泊して神学生と交流し、ともに祈り、そして神学院の運営について話し合いました。神学生のために、また司祭修道者の召命のためにお祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第231回、ラテラノ教会献堂の主日のメッセージです。

ラテラノ教会の献堂C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第231回
2025年11月9日

11月9日はラテラノ教会の献堂の祝日です。今年は日曜日と重なりましたので、主日にこの献堂記念を祝うことになります。なぜならば、ラテラノ聖堂とは、教皇様のローマ司教としての司教座聖堂・カテドラルとして重要な意味を持っているからです。

普遍教会の牧者であるローマ教皇のカテドラル献堂を祝うことは、私たちの教会は、あたかも本店があって支店があるというような、本店であるローマの教会の支店が日本にあるということなのではなく、ひとりの牧者の下にどこにいても皆で一つの神の民を形成しており、それぞれの教会は一つの身体の部分なのだということを思い起こさせます。その意味で、ラテラノ教会の献堂の祝日はわたしたちにに、教会とはいったい何であるのかをあらためて考えさせる祝日です。

シノドスの道は、まさしくこの「教会とは何であるのか」をあらためて振り返ることをわたしたちに求めていました。教会は各地にある建物のことではなく、時の流れの中を共に旅する神の民であることをあらためて自覚し、神の民としてともに歩み、支え合い、耳を傾け合い、共に祈ることを通じて、聖霊の導きを識別することを目指しているのが、いま進められているシノドスの歩みです。それぞれの地方の教会は勝手に歩んでいるのではなく、皆が一つになって構成する神の民の一部分であることを自覚するためにも、その中心にある教皇様のカテドラルの存在を意識することは大切です。

この地上における目に見える組織としての教会は、同時に霊的な交わりとしての教会でもあり、さらには天上の教会ともつながれています。教会憲章の8項には、次のように書かれています。

「位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」

ですから教会共同体のありかたを、普遍教会のレベルでも地方教会のレベルでも、社会一般の価値観で定め、判断していくことは、必ずしもふさわしいことではありません。私たちは、様々な考え方や思想を持った人間ですが、同じ信仰において結ばれていることを心にとめて、自分の考えではなく神によって集められたものとして、互いの違いを乗り越えてキリストの神秘体を形作る努力をしなくてはなりません。わたしたちひとりひとりが教会です。ひとり一人が教会を構成するのです。日曜日に教会という建物に来たときだけわたしたちは教会の一員になるのではなく、信仰者として生きている限り、常にどこにあっても、わたしたちは大きな神の民の一部として教会に生きていくのです。

ヨハネ福音でイエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とユダヤ人たちに語ります。建物ではなくご自身そのものが神殿であることを明確にします。ですから教会は、復活されたイエスのからだであります。

その意味で、神の民を牧者として導く役割を主ご自身から託されたペトロの後継者である教皇様のために、この祝日には祈りを捧げましょう。わたしたちは教皇様とともに歩み、ともに主の身体を作り上げる神の民であります。

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2025年11月 1日 (土)

週刊大司教第230回:死者の日

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11月1日は諸聖人の祝日、2日は死者の日とされています。

この時期の全免償についてメッセージでも触れています。今年は聖年ですので、次の文書も参照ください。「教皇フランシスコにより発表された2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」で、リンク先は中央協議会のホームページです。次のように記されています。

「2025年の通常聖年の期間中、すでに与えられた他の免償は有効であり続けます。心から痛悔し、罪の傾きから離れ(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 20, § 1]参照)、愛の精神に動かされ、聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます。これは代願のかたちで、煉獄の霊魂に対して与えられることも可能です」

東京教区では11月2日の午後、合同追悼ミサが三カ所で捧げられます。関口のカテドラル、府中墓地、そして五日市霊園で、すべて午後2時から始まります。カテドラルはわたし、五日市霊園はアンドレア司教様、府中墓地は小田武直神父様の司式となります。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第230回、死者の日のメッセージ原稿です。

死者の日主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第230回
2025年11月2日

11月1日は諸聖人の祝日であり、翌2日は死者の日とされています。教会の伝統は、11月1日から8日までの間、全免償を得ることで、それを煉獄の霊魂に譲ることが出来るとも定めています。この期間、ゆるしの秘跡を受け、どこであっても聖堂を敬虔に訪問し、聖体をいただき、墓所で祈り、主の祈りと信仰宣言を唱えて全免償をいただき、それを煉獄の死者に譲ることができます。

もちろん今年は聖年ですから、教皇庁内赦院の定めによって、「ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ」、それを煉獄の霊魂のために与えることは年間を通じて可能とされています。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

11月1日と2日の記念は二つでひとつの記念であり、教会は地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在していることを、わたしたちに思い起こさせてくれます。

イエスをキリストと信じる私たちは、イエスに結ばれることで、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。わたし達の人生の歩みは、この世のいのちだけで終わるものではなく、永遠の中でわたし達は生かされています。

わたしたちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、いのちを生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。シノドス的教会です。ともに歩む教会、互いに耳を傾けあう教会、互いに支え合う教会は、すなわちそれこそが「交わりの教会」そのものであります。

私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」とカテキズムに記しています。

シノドス的な教会は、天上の教会との交わりの中で、霊的に支え合う共同体です。ですから、例えば祈りの側面がかけていて、この世における助け合いの集団となってしまっては、本来の意味とは異なるものとなってしまいます。シノドス的教会は聖徒の交わりの教会です。地上と天上の教会の交わりにある教会です。

ですから私たちは死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りを捧げるのではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、いま生きている祈りをささげるのです。

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2025年10月30日 (木)

2025/10/26、堅信式ミサ@赤羽教会

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10月26日の主日、午前9時から、東京の北区にある赤羽教会で、12名の方の堅信式が行われました。おめでとうございます。

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赤羽教会はコンベンツァル聖フランシスコ会が司牧担当する教会です。現在の主任司祭は、同会の平孝之神父様。東京教区のホームページには、戦後1949年8月15日に創設された赤羽教会の歴史が、以下のように記されています。

「赤羽教会の設立は、当初長崎を拠点として活動していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会が終戦後、東京に新しい修道院や神学生養成のための神学校の必要性を強く感じ始めたことに起因します。ドナト・ゴスチンスキー神父とゼノ修道士が派遣され、赤羽にその地をみつけ、戦争中の空襲で焼けた工場跡のこの土地を、当時の管区長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父がアメリカからの寄付金で購入しました」

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蟻の町野マリアと呼ばれた尊者北原怜子(さとこ)さんを導いてともに活躍したゼノ修道士も有名で、聖徳の誉れ高く、お二人の列福運動はコンベンツァル会が担当して長年進められており、近頃は、ポーランドからの巡礼者も増加していると伺いました。それもあって、信徒会館の前には同会の聖人であり、1930年にゼノ修道士と共に来日した聖マキシミリアノ・コルベ神父様の新しい銅像が建立され、さらに向かい側にはゼノ修道士の銅像も制作中であるとのことでした。東京教区でも、北原怜子さんの資料をかなり保有していることもあり、コンベンツァル会に協力しながらですが、保有する資料の整理も進め、保存を進めるよう努めたいと考えています。それはまた故岡田大司教様の願いでもありました。

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以下、同堅信式ミサの説教録音から起こした内容を整理した説教の原稿です。

堅信式ミサ
カトリック赤羽教会
2025年10月26日

一年ほど前、昨年の10月6日、教皇様が日曜日恒例のお昼のアンジェラスの祈りを終えた後に、新しい枢機卿を任命するつもりだと言って21名の名前を読み上げられ、その中にわたしの名前も入っていました。それからあっという間に一年が経ちました。

枢機卿になるとは、事前に何も通告がなかったので、急な話で驚きました。翌日、ちょうどシノドスに参加している新たに任命された枢機卿のもとに、教皇フランシスコからの手紙が届けられました。他の新しい枢機卿へは、それぞれの教皇大使を通じて郵送したのだと思います。

教皇様から直接の手紙って、もらったことないですよね。思いのほか大きな紙ファイルに入っているのですが、立派な教皇様の紋章が付いたファイルで、その中に二重に折り畳んだ紙があり、手紙の本文が印刷されて、一番最後に小さな教皇フランシスコのサインがある。

その手紙に、その中に、あなたを枢機卿に任命しましたということが書いてあって、そして教皇フランシスコのアドバイスが書いてあるんです。

その中の一つが、かつて教会の歴史の中で、枢機卿になるというのは名誉を得ることであった。言ってみれば貴族のような高い位に上げられるという、世俗的な名誉だと考えられていた。けれども、今の時代の教会にあっては、そうではないのですと。あなたは「目を上げ、手を合わせ、裸足でいる」を自ら体現するものとして、謙遜に生きていきなさいと記されていました。

この現実世界で起こっている様々な出来事に、しっかりと目を向けて、地に足を着けて、そして神に向かい、低いところから高みに向かって、目を上げなさい。謙遜でありなさい。現実からすべてを始めなさい、というようなことが書いてありました。

名誉を与えられたと考えるのではなくて、あなたは仕える者として、ありなさい。教皇様ご自身の名称の一つに、「しもべの中のしもべ」という言い方がありますけれども、まさしくその、一番下から全てを見つめる、謙遜なしもべでありなさい、と諭す教皇フランシスコの思いが、記されていた書簡でした。

ですから、枢機卿になったということは、どういうことなのか。私自身にとってどういうことなのかということと、教会全体にとって、特に東京の教会にとってどういう意味があるのか、というのはそれぞれ別な思いがあるとは思いますが、わたし自身にとっては、教皇フランシスコが遺された言葉の通り、謙遜に、地に足を着けて生きていくという心構えについてあらためて考えさせられる、その契機になったと思っています。

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謙遜に生きていく。それは教皇、または枢機卿とか司教とか司祭、修道者だけの課題ではなく、わたしたち、イエス・キリストの信仰に生きることを選んだ者すべてにとっての課題です。謙遜に生きていくというのは、人間関係をスムーズに、うまく作り上げていくためのマナーとしての謙遜さ、または、文化的な背景からある、謙遜さもあるでしょう。それとは違う、生きる姿勢そのものとしての謙遜さです。つまり、マナーとして謙遜になり、互いにうまく人間関係を作ってうまくやっていきましょう、そのために謙遜さを身につけましょうと言っているわけではない。その謙遜さは、生き方そのものです。生き方そのものにおいて何を中心に置いているのか、というところにあるのです。

ちょうど今日の福音書は、ファリサイ派の人と徴税人、二人の人物の対比ということで、謙遜さについてイエスが語っているところですね。

ここで、実際の身体的な視点、つまりどこに向かって目を向けているでしょう。ファリサイ派の人は、上を向いて神様の方を見ていますね。実際の目が向いている方向です。そして、徴税人の方は下を向いていて、神様の方を向いていないのです。

しかしながら実際には、その身体的な目が物理的にどちらを向いているかということは、実はあまり問題ではありません。我々はそれに捉われやすい。社会の中で、具体的に生きている中では、どこを向いているかとか、どういう態度を取っているかなど、表面的な表に現れることに、どうしても気が捉われてしまいます。

けれども、この話の中でイエスが語っているのは、心も目の話です。心の目は、いったいどこを向いているのかなのです。そうするとですね、ファリサイ派の人は自分のこと、内側にしか向いていないんですよ。自分の内側、自分のことしか考えていない。盛んに自分を褒め称えていますが、それは、自分の世界の中に、どんどんどんどん閉じ籠っていくということです。そうすると、自分の世界の中では自分が中心ですから、当然自分が一番立派に決まっている。いかに自分が立派かとほめたたえながらか、自分にどんどん視点を向けて行く状況です。

それに対して、徴税人は、自分で自分を判断しようとはしていません。彼は、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、罪人のわたしを憐んでください」と。わたしについて判断するのは、神様、あなたです。神様が、わたしのことを判断するんです。ですから、あなたにすべてを委ねます、という姿勢です。身体的物理的な目は下を向いていますけれども、その心の目は、しっかりと神様の方を向いているんです。神様、あなたのおっしゃる通りに、わたしはいたしますという、神にすべてを委ねる生き方の姿勢ですよね。

その違いが、信仰の中で生きていく謙遜さを教えています。つまり、謙遜さというのは、その表向きの態度が謙遜かどうか以上に、心の目がどこを見ているのかと、わたしたちの心はどこを向いて生きているのか、という問題にかかっているのだと思います。

どうしても、自分のこと、見栄とか、名誉とか、楽しみとか、そういうことに目が行ってしまう。心の目もそこに向けられ内向きになってしまいがちですけれども、イエス様は、目を天に上げなさいと。心の目を天に上げなさいと。神にすべてを委ねて、神に判断を委ねなさいと。そしてその判断に、素直に従いなさい。そういう生きる姿勢を、謙遜さとして求めておられると思います。

今日、堅信を受けらる方々が、12名ほどおられると思います。

堅信式は、洗礼から始まって、ご聖体を受けて、そして堅信で、キリスト教の入信の秘跡が完成します。残念ながら、途中までで終わってしまう人もいますが、洗礼を受けて、ご聖体を受けて、そして堅信を受けることによって、わたしたちの、キリスト者としての入信の秘跡が完成するのです。

堅信の秘跡を受ける時には、その時には、完全なキリスト者がそこに出来上がっているんですよね。でも人間は弱いので、出来上がった瞬間から、どんどんどんどん落ちてゆきます。いつまでも完璧でいられるわけではなく、息を吸うように罪を犯しまくって生きているのですから、どんどんそれは錆びて行くんです。

でも、なんとか、その完全なキリスト者として到達した、それを、保っていきたいんですよね。そのために、どうしたらいいか。自分の力ではどうしようもないので、だからこそ、堅信の秘跡を通じて与えられる聖霊の助けが必要なんです。

聖霊は、この堅信の秘跡によって、聖霊を受けることによって、その日、何か急に人が変わってスーパーマンになるとか、そういうことではないんです。そうではなくて、謙遜に生きよう、神に全てを委ねて生きようと決意するその心を、なんとか錆びないように、その完璧なキリスト者になったその日から、どんどん落ちていかないようにと、一所懸命に支えようと自分がしているときに、それを支えてくれるのが、聖霊の働きであります。

ですから、その聖霊の働きに信頼しながら、大人としての、成熟した、出来上がった、完成した、キリスト者として、この世界の中で、謙遜に神に、神の望みに身を任せて、生きていくことができるように、神に向かって心の目を上げ、すべてを委ねる努力をしていただければと思います。

 

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2025年10月25日 (土)

週刊大司教第229回:年間第30主日C


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時間は瞬く間に過ぎ去り、10月も最後の日曜日とないました。今月の最初の頃は枢機卿名義教会着座式のためにローマにいたことが、遙か昔のようです。写真は上が10月11日、マリアの霊性の祝祭、下が10月8日の一般謁見です。

先週10月19日は、世界宣教の日でありました。中央協議会のホームページに以下の説明が掲載されています。

「世界宣教の日」は、すべての人に宣教の心を呼び起こさせること、世界の福音化のために、霊的物的援助をはじめ宣教者たちの交流を各国の教会間で推進することを目的としています。この日の献金は、各国からローマ教皇庁に集められ、世界中の宣教地に援助金として送られます。日本の教会は、いまだに海外から多くの援助を受けていますが、経済的に恵まれない国々の宣教活動をさらに支援できるように成長していきたいものです。

教皇庁宣教事業に関しては、日本における対応部署のホームページが設けられており、そこに詳細が記されていますので、一度お訪ねください。現在の日本全体の教皇庁宣教事業担当者は、東京教区の門間直輝神父様です。

本日の週刊大司教でも触れた今年の世界宣教の日の教皇メッセージは、そのサイトに掲載されています。こちらからご覧ください

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第229回、年間第三十主日のメッセージです。

年間第30主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第229回
2025年10月26日

わたしたちの目は、節穴です。肝心な本質が見えていません。往々にして、思い込みと勘違いを引き起こしています。ルカ福音は、本質を知るためにどこに目を向けるのかを記しています。

福音は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、目を上げることもなく胸を打った徴税人ほうが、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人とされた話を記します。当時の徴税人は様々な不正に手を染めていたとも言われ、多くの人の目には正しい人とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの人からは正しい人と見なされていたことでしょう。神の目には本質が見え、わたしたちの目は節穴です。

ファリサイ派の人が自分を見つめています。自分しか見えていません。わたしはどういう人間なのか。彼が語るのは、自分のことばかりであり、すなわち彼は自分の世界に閉じこもっているので、その世界では自分が一番に決まっています。ですから臆面もなく報いを求めます。

それに対して徴税人は、その目を神に向けています。自分がどういう人間であるのかと言う判断をするのではなく、それをすべて神の判断に委ねています。つまり二人の違いは、自らの存在を神に委ねているのか、委ねていないのかにあります。

わたしたちには、単にマナーとして謙遜になることが求められているのではありません。求められている謙遜さは、神にすべてを委ねているのかどうかであります。御旨に従うことは、格好良く見栄え良く生きることではありません。

自分の名誉のためではなく、神が救いたいと望んでおられるすべてのいのちに福音が届けられるように、神の計画に身を委ね、すべてを尽くして福音をあかしするものとなりたいと思います。

先週、10月19日は世界宣教の日でありました。教皇レオ14世はこの日のためのメッセージのテーマを「諸民族の中で生きる希望の宣教者」とされ、「キリストの足跡に従って希望の使者となり、それを築く者となるという根本的な召命」がキリスト者ひとり一人と教会共同体にはあるのだと強調されています。

その上で教皇は、第二バチカン公会議の現代世界憲章に記されている、「「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」(『現代世界憲章』1)を引用して、「キリストの弟子たちはまず、自らが希望の「職人」となり、混乱し不幸に陥りがちな人類を回復させる者となる修練を積むよう求められています」と、すべてのキリスト者がそれぞれの立場に応じて福音宣教をする者となるように求めておられます。

わたしたちも自らの宣教者としての使命を思い起こし、福音をよりふさわしくあかしする道を探り続けたいと思います。

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2025年10月18日 (土)

サン・ジョバンニ・レオナルディ教会着座ミサ説教

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既報ですが、去る10月9日木曜日ローマ時間午後6時、ローマ市郊外のサン・ジョバンニ・レオナルディ教会で、枢機卿としての名義教会着座式を行いました。

小教区聖堂に皆が入りきれない恐れ場会ったため、着座式をまず聖堂で行い、その後聖堂裏にある運動場でミサを捧げました。

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着座式は、まずブラスバンドに迎えられてわたしが到着。教皇儀典室のモンセニョールに導かれて聖堂前に到着。主任司祭が差し出す十字架に接吻。その後聖水で灌水しながら入堂。祈りを捧げた後に、教皇様による枢機卿への任命書の朗読と提示。そして着座と行われました。

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ミサは通常式文ですが、イタリア語で行いました。小教区の聖歌隊が、伴奏のバンドと共に、とても素晴らしい歌声を聞かせてくださいました。

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第一朗読をイタリア語、第二朗読を日本語、福音をイタリア語で行った後、説教は準備した原稿で日本語で行い、アンドレア司教様がイタリア語に訳してくださいました。

ミサの終わりに聖堂に戻り、儀典室が用意してきた着座の記録にサインして終わりです。

準備してくださった小教区の皆さん、参加してくださった皆さん、ありがとうございます。

以下、そのときの説教の原稿です。

名義教会着座式
サン・ジョバンニ・レオナルディ教会
2025年10月9日

「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」
 私たち教会は、主イエスご自身からこの命令をいただきました。ですから私たち教会は、イエスキリストの福音をのべ伝えることをやめることはできません。しかもイエスは、それを全世界に、すなわち地の果てまで行ってのべ伝えるようにと命じられました。

«Andate in tutto il mondo e proclamate il Vangelo». Noi, la Chiesa, abbiamo ricevuto questo comando dal Signore Gesù stesso. Per questo la Chiesa non può smettere di annunciare il Vangelo di Gesù Cristo. Inoltre, Gesù ha ordinato di andare ad annunciarlo a tutto il mondo, cioè fino ai confini della terra.

いまから476年前、1549年、フランシスコ・ザビエルはその命令に忠実に生きるために、はるかかなたの日本までやってこられました。日本での福音宣教の始まりです。

フランシスコ・ザビエルの時代、ヨーロッパから日本に来ることは、危険な冒険でした。アジアでの宣教のためにリスボンを出発した時から数えると8年です。途中のインドのゴアから出発して日本の鹿児島に上陸するまで4ヶ月です。フランシスコ・ザビエルにとって、「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」というイエスの命令は、そのすべての苦しみを乗り越えさせるほど、意味のある命令でありました。

476 anni fa, nel 1549, Francesco Saverio venne fino al lontano Giappone per vivere fedelmente a questo comando. Fu l’inizio dell’evangelizzazione in Giappone.

Ai tempi di Francesco Saverio, giungere dal continente europeo al Giappone era un’avventura pericolosa. Dal momento in cui partì da Lisbona per la missione in Asia passarono otto anni; e dal porto di Goa, in India, fino allo sbarco a Kagoshima in Giappone, ci vollero quattro mesi. Per Francesco Saverio, il comando di Gesù «Andate in tutto il mondo e proclamate il Vangelo» fu un ordine tanto significativo da permettergli di superare tutte le sofferenze.

それからおおよそ500年。その間に迫害と禁教の時代があり、多くの殉教者が信仰を守るために血を流し命を捧げました。日本の教会は、フランシスコ・ザビエルに始まり、多くの宣教師によって種がまかれ、殉教者の血によって育てられてきました。日本の教会は、宣教師や殉教者という信仰の先輩たちに、感謝をささげる教会でもあります。

Sono trascorsi circa 500 anni da allora. In questo spazio tempo ci sono stati periodi di persecuzione e di proibizione della fede, e molti martiri hanno versato il proprio sangue e donato la vita per custodire la fede. La Chiesa in Giappone è nata con Francesco Saverio, il seme fu sparso da molti missionari, e crebbe grazie al sangue dei martiri. La Chiesa in Giappone è dunque anche una Chiesa che offre gratitudine ai missionari e ai martiri, nostri predecessori nella fede.

今日こうして、日本から多くの巡礼団がローマを訪れ、ローマにある教会共同体の皆さんと一緒にミサを捧げ、そして祈りを共にすることには大きな意味があります。それは私たちが歴史の中で、主イエスの宣教命令に忠実に働いてきたことの証しであります。困難の中にあってもくじけることなく神に従い生きることが、これほどの実りをもたらすという、希望の証しであります。いま私たちが祝っている聖年のテーマは、希望の巡礼者です。私たち日本からの巡礼団は、福音宣教が生み出す希望を証しする、希望の巡礼者として、今日ここに来ました。困難に負けることなく希望を生み出す福音の証しです。

Oggi, il fatto che tanti gruppi di pellegrini dal Giappone arrivino a Roma, per celebrare la Messa insieme alle comunità ecclesiali di Roma e pregare insieme, ha un grande significato. È la testimonianza che, lungo la storia, abbiamo lavorato fedelmente al comando missionario del Signore Gesù. È una testimonianza di speranza: vivere obbedendo a Dio senza scoraggiarsi di fronte alle difficoltà porta frutti così grandi. Il tema dell’Anno Santo che celebriamo è «Pellegrini di speranza». Noi, pellegrini giapponesi, siamo qui oggi come pellegrini di speranza, per testimoniare la speranza che nasce dall’evangelizzazione. È una testimonianza del Vangelo che genera speranza, senza lasciarsi vincere dalle difficoltà.

残念ながら日本の教会は、長い歴史がありますが、社会の中ではいまでも少数派です。東京のような大きな都会ではたくさんの方が日曜日にはミサに参加します。しかし地方ではそうではありません。私が東京の大司教になる前、13年間、司教を務めた新潟教区では、あるとき北の地方の教会を訪問したら、聖堂には10人の方がおられました。でもそれを見て主任司祭のドイツ人宣教師は、「今日は司教様が来ているので、たくさんの人が来ています」と言われました。いつもの日曜日には、三人程度しか来ないのだと聞きました。

Purtroppo, nonostante la sua lunga storia, la Chiesa in Giappone resta ancora oggi una minoranza nella società. In grandi città come Tokyo, molte persone partecipano alla Messa domenicale; tuttavia, non è così nelle zone rurali. Prima di diventare arcivescovo di Tokyo, per 13 anni sono stato vescovo della diocesi di Niigata. Una volta, visitando una chiesa in una regione settentrionale, ho trovato 10 persone riunite in cappella. Ma il parroco, un missionario tedesco, disse: «Oggi, poiché è venuto il vescovo, sono accorse molte persone». Mi disse che di solito alla Messa domenicale partecipavano appena tre persone.

日本での福音宣教は簡単ではありません。しかし私たちはそういった人数が少ないという現実の前で悲観的にはなっていません、なぜならば福音宣教は人間の業ではなくて、神様の業であるからです。神様ご自身が、すべての人を救いたいと願っているのですから、必ずや道を切り開いてくださると信じています。福音宣教においては、困難を前にしてくじけてはいけないのは、フランシスコ・ザビエルの時代からはっきりと証明されています。

L’evangelizzazione in Giappone non è facile. Tuttavia, non ci lasciamo scoraggiare dalla realtà dei piccoli numeri, perché l’evangelizzazione non è opera dell’uomo, ma opera di Dio. Poiché Dio stesso desidera la salvezza di tutti, crediamo che Egli certamente aprirà le vie. Che non ci si debba arrendere di fronte alle difficoltà dell’evangelizzazione è stato dimostrato chiaramente fin dai tempi di Francesco Saverio.

いま日本の教会に日曜日に行けば、日本人以外に、ベトナムやフィリピンやインドネシアやブラジルやアフリカなど、世界中の様々な国から来られた方が、一緒なって祈りをささげています。皆さんそれぞれ自分の個人的な理由で日本に来たと思っていることでしょう。しかし私は、そこには必ずや神様の計画があると信じています。個人的な理由で日本に来ているすべての信徒は、神様から遣わされた宣教師です。もちろん日本の教会にいるすべての人も、神様から遣わされた宣教師です。シノドス的な道を歩んでいる教会は、様々な方が交わって豊かにされ、宣教する教会になります。

Oggi, se si va in una chiesa in Giappone la domenica, oltre ai giapponesi ci sono fedeli provenienti dal Vietnam, dalle Filippine, dall’Indonesia, dal Brasile, dall’Africa e da tanti altri Paesi del mondo che pregano insieme. Ognuno di loro penserà di essere giunto in Giappone per motivi personali, ma io credo che in tutto questo ci sia il disegno di Dio. Tutti i fedeli che vivono in Giappone per motivi personali sono in realtà missionari inviati da Dio. Naturalmente, anche tutti coloro che già appartengono alla Chiesa in Giappone sono missionari inviati da Dio. Una Chiesa che cammina in modo sinodale si arricchisce attraverso l’incontro tra persone diverse e diventa una Chiesa missionaria.

ローマにおられる皆さんと、今日こうして日本から来られた皆さんと、交わりを深めながら、ともに困難に立ち向かい、福音を告げる宣教師となることを、あらためて主イエスに誓いましょう。

Oggi, qui, insieme a voi che vivete a Roma e a voi che siete venuti dal Giappone, rinnoviamo la promessa al Signore Gesù di diventare missionari che affrontano le difficoltà e annunciano il Vangelo, approfondendo la nostra comunione.

 

 

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週刊大司教第228回:年間第29主日C

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先週は、10月9日木曜日夕方6時からローマで行われた枢機卿名義教会着座式のため、週刊大司教は一度お休みさせていただきました。

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着座した名義教会サン・ジョバンニ・レオナルディ教会は、ローマ市郊外の比較的新しい住宅地にある生き生きとした小教区です。聖ジョバンニ・レオナルディが創立した修道会の会員が司牧にあたり、現在はインド出身の司祭が担当されています。

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日本ではあまり知られていない聖ジョバンニ・レオナルディについては、以下のメッセージで触れている教皇ベネディクト16世の、2009年10月7日の一般謁見での講話で詳しく紹介されています。こちらのリンクから是非お読みください

同小教区聖堂は、サイズ的に300人程度の規模ですが、戦後に発展した住宅地にあり、信徒の方々が自分たちの努力で建設した教会だと伺いました。日曜日には4回のミサが捧げられているそうです。敷地内にはいわゆる学童保育的施設やカリタスのセンター、そしてサッカー教室などもあり、子どもたちも多く見られました。

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この日のミサには日本からの巡礼団だけで100名を超えていたため、聖堂に入りきれない恐れがあり、まず名義教会着座式を聖堂で行い、その後に隣にある運動場に移動して、そこでのミサとなりました。信徒の方々にとってはこの日、10月9日は、保護の聖人である聖ジョバンニ・レオナルディの祝日であり、木曜の着座式に始まって日曜の堅信式までの小教区フィエスタの初日となりました。

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運動場にはステージが設けられ、その上でミサを捧げましたが、その後は深夜まで、コンサートが行われ、地域の大勢の方が参加されていました。

日本からは前田枢機卿様、中村大司教様、中野司教様、アンドレア司教様、その他複数の巡礼団の皆さんが参加してくださり、東京教区を代表して事務局長の泉神父様と赤井職員、枢機卿秘書役として小西神父様、前田枢機卿秘書としてスック神父様、巡礼団に同行して山口道孝神父様が参加されました。また日本政府を代表して駐バチカンの千葉大使ご夫妻や、国際カリタス事務局長始めシニアスタッフ、ローマのカトリック日本人会、留学中の司祭や修道者・信徒の皆さん、さらにはローマ市の代表も参加されました。皆さんありがとうございます。心から感謝申し上げます。

下の写真の祭服は、小教区に伝わる祭服だそうです。カズラの下にはダルマチカも着用しています。侍者は福音宣教省管轄下のウルバノ大学で学ぶ神学生たちが来てくださり、全体の儀式は教皇儀典室のモンセニョール(教皇フランシスコ訪日の際にも来られたモンセニョール)がおいでになり、しっかりと仕切ってくださいました。わたしは彼のささやきの通りに動きました。なおミサはイタリア語です。練習しました。説教は日本語で行い、アンドレア司教様が翻訳してくださいました。説教原稿は別途掲載します。

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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第228回、年間第29主日のメッセージです。

年間第29主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第228回
2025年10月19日

10月9日の夕刻、ローマ郊外にあるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会において、枢機卿の名義教会の着座式を行いました。枢機卿になることによって、名義上はローマの司祭団の一員に加えられますので、慣例によって枢機卿にはローマ教区内のいずれかの小教区が名義教会として割り当てられます。ローマ教区の教区司教である教皇様のもとには、300を超える小教区があり、枢機卿の数を超えていますから、中には伝統によって長年名義教会であるところもありますが、わたしの名義教会は今回が初めてとなります。そのためもあって、着座式には多くの信徒の方が参加され、活気のある小教区共同体の一面を体験することができましたし、日本からも巡礼団を始め100名を超える方が一緒に参加くださいましたので、日本とローマの教会共同体の絆も生まれたのではと期待しています。わたしがこの小教区の運営に直接関わるわけではありませんが、今後も信仰上の交わりを深めたいと思います。

10月9日は聖ジョバンニ・レオナルディの祝日でもありました。教皇ベネディクト16世は、2009年10月7日、聖人の没後400周年を記念したメッセージで次のように聖人を紹介されています。

「聖ジョヴァンニ・レオナルディは神の母律修参事会の創立者で・・・強い宣教への熱意においても記憶にとどめられています。レオナルディはフアン・バウティスタ・ビベスとイエズス会士のマルティン・デ・フネスとともに宣教者のための聖座の特別な省、すなわち布教聖省と将来の布教聖省直属のウルバノ大学の設立を計画し、そのために貢献しました」

その上で教皇は、「ジョヴァンニ・レオナルディは、イエス・キリストと個人的に出会うことを自らの根本的な存在理由にしようと努めました。彼が繰り返していったとおり、「キリストから再出発しなければなりません」。すべてにおいてキリストを第一とすることが、彼の判断と行動の具体的な基準であり、司祭としての活動を生み出す原理でした」と述べておられます。福音宣教を第一に掲げて活動された聖人の教会を、名義教会としていただいたことに、心から感謝しています。

本日のルカ福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」、イエスが裁判官相手に正義の行使を求め続ける一人のやもめの話を記しています。その執拗な要求に、裁判官が降参してしまった様を記したあとに、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでも放っておかれることがあろうか」というイエスの言葉が記されています。

そうであるならば、わたしたちは困難にめげることなく、神の福音をのべ伝え続けましょう。諦めることはありません。執拗に祈り続けましょう。執拗に語り続けましょう。執拗にあかし人となり続けましょう。

 10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。福音宣教における困難な状況に立ち向かうためにも、神の母であり、教会の母であり、そしてわたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、多くの人に救いのメッセージがもたらされるように、共にいてくださる主イエスと歩みを共にしながら、祈り続け、あかしを続けていきましょう。

 

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2025年10月 4日 (土)

週刊大司教第227回:年間第27主日

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時間が過ぎるのは本当に速いものです。数日前まで真夏のように暑い毎日でしたが、少しづつ秋が近づいている気配もあります。その秋らしい季節の10月は、ロザリオの月でもあります。

10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具であるのは事実です。10月7日のロザリオの聖母の記念日が1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍への勝利がロザリオの祈りによってもたらされたことを記念していますが、そういった時代からは社会のあり方が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。社会全体の高齢化が進む中で、実際に教会共同体に足を運ぶことが適わない人にとっても、ロザリオの祈りを持って、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。

来週は枢機卿名義教会への着座式(10月9日)のため、巡礼団と共にローマへ出かけていますので、週刊大司教はお休みします。次回の週刊大司教第228回は、10月18日夜6時の配信になります。

以下、本日午後6時配信の、週間大司教第227回、年間第27主日のメッセージです。

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週刊大司教第227回
2025年10月5日

ルカ福音は、使徒たちがイエスに対して「私どもの信仰を増してください」と願ったことをまず記しています。確かに神を信じて生きるとき、信仰という目に見えない事柄を誰かが強めてくれたらそんなに楽なことはありませんから、そのように願う弟子たちの気持ちも分からないではありません。が、イエスの答えは有名な「からし種ひとつぶほどの親交があれば」という言葉でした。もちろん、イエスは、本物の信仰があれば何でもできると言いたかったわけではありません。そうではなくて、イエスがここで指摘するのは、信仰というのは誰かによって強めてもらうような類いのものではなくて、人生における自分の選択とそれに基づく行動によっているのだということであります。

6月に行われた聖年の神学生の祝祭のおりに、教皇レオ14世は集まった神学生たちに対して、信仰は積極的に行動することで深まるとして、次のように話されました。

「キリストのみ心は、計り知れない憐れみによって動かされていました。キリストは人類の善いサマリア人であり、わたしたちにこう語りかけます。『行って、あなたも同じようにしなさい』。この憐れみは、群衆のためにみことばと分かち合いのパンを裂くようにと、キリストを突き動かしました。それは、そのときご自身を食べ物として与えた、二階の広間と十字架でのキリストの振る舞いを垣間見させました。そしてキリストは、こういわれました。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』。それは、あなたがたのいのちを愛のたまものとしなさいという意味です。」

信仰は、まさしく「あなた方のいのちを愛の賜物としなさい」というイエスの招きに応えることによって、強められます。

さらに福音は、務めに対して忠実で謙遜な僕について語るイエスの言葉を記しています。するべき務めをすべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言う謙遜な姿勢こそが、忠実な僕のあるべき姿だとイエスは語ります。わたしたちが信仰を生きる姿勢は、まさしくそのように、それぞれの与えられた召し出しに忠実に、そして謙遜に生きるところに意味があることをイエスは強調されます。神に対する忠実さと謙遜さが、わたしたちにはあるでしょうか。

昨日10月4日で、今年の「すべてのいのちを守る月間」は終わりました。しかしエコロジカルな回心への招きには終わりはありません。

教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と記しています(66)。その上で、「わたしたちはずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました」と指摘されました。創造主に対する忠実さと謙遜さの喪失こそが、神に背を向ける姿勢をもたらし、ひいては被造物を、そして共に住む家を破壊する行動に繋がっていると指摘された教皇フランシスコは、神の前で忠実さと謙遜さを取り戻す回心の必要性を説き続けました。

「私どもは取るに足りない僕です」と心から告白できるものであり続けたいと思います。

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2025年9月27日 (土)

週刊大司教226回:年間第26主日C

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九月最後の日曜日となりました。年間第26主日にあたるこの日、9月最後の主日を、教会は世界難民移住移動者の日と定めています。

この日にあたっての教皇レオ14世のメッセージは、「移住者ー希望の宣教者」をテーマとしています。こちらのリンクから全文をお読みいただけます。メッセージの中で教皇レオ14世は、次のように指摘しています。

「多くの移住者、難民、避難民は、彼らが神に身をゆだね、未来のために逆境に耐えることを通して、日々の生活の中で生きる希望の特別な証人となっています。彼らはこの未来の中に、幸福と総合的な人間的発展が近づくのを垣間見るからです。彼らにおいてイスラエルの民の旅の経験が繰り返されます」

教皇様は、教会は神の民として旅を続ける存在であることを、難民や移住者の存在によって思い起こさせられており、教会が歩みを止めてある一点にとどまるときに神ではなく世に属する者となるとして、次のように記します。

「移住者と難民は教会に、自らの巡礼者としての側面を思い起こさせてくれます。教会は、対神徳である希望に支えられながら、最終的な祖国に到達することを目指してたえず歩み続けるからです。教会は、「定住」の誘惑に屈し、「旅する国」(civitas peregrina)――天の祖国を目指して旅する神の民(アウグスティヌス『神の国』[De civitate Dei, Libro XIV-XVI]参照)――であることをやめるとき、「世にある」者であることをやめ、「世に属する」者となるのです」

こう述べた後で、教皇様は、信徒として移住する人たちや難民の方々の存在に焦点を当て、彼らが福音を告げる宣教者であるとして、次のように記しています。

「とくにカトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです」

国連難民高等弁務官事務所によれば、現在四千万人を超える人が国境を越えて難民となり、さらには七千万人の人が自国内での避難民となっています。国連によれば、この数は10年前と比較しても倍増していると言います。

現時点で国際カリタスは、それぞれの国のカリタスを通じて、カトリック教会として難民の方々の支援や救援を行っています。もちろん現時点ではウクライナやガザの状況は困難を極め、とりわけガザでは虐殺とも言うべき状況が継続しています。神から賜物として与えられたこのいのちの尊厳が損なわれる状況を、教会は見過ごすことはできません。国際カリタスは聖座と共に、あらゆるチャンネルを通じて、停戦の実現と人道支援の強化を求め続けています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第226回、年間第26主日のメッセージです。

年間第26主日C
週刊大司教第226回
2025年9月28日

10年前にエコロジカルな回心を問う「ラーダート・シ」を発表された教皇フランシスコは、その中で、「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります(205)」と指摘されていました。10年が経過して、その状況は全く改善していません。

教会は9月最後の主日を、世界難民移住移動者の日と定めています。この日にあたり教皇レオ14世は、「移住者――希望の宣教者」と題したメッセージを発表されています。

その中で教皇は、「現代の世界情勢は、残念ながら、戦争と暴力と不正と異常気象によって特徴づけられています。そのため何百万もの人々が故郷を離れ別の土地に避難することを余儀なくされています」と現状を指摘し、世にはびこる利己主義的価値観を踏まえて、「限られた共同体の利潤のみを求める一般的な傾向は、責任の共有、多国間の協力、共通善の実現、人類家族全体のための国際的な連帯に対して深刻な脅威となっています」と指摘しています。

ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人は存在する場所すらありません。自分の利益しか眼中にない生き方の姿勢を捨てることができないからです。死後の苦しみの中で神の裁きに直面するときでさえ、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期におよんでもラザロを自分の目的のために利用しようとします。

教皇フランシスコは、わたしたちがこころの扉を開いて、出向いていく教会であることが、集団的利己主義から脱却する道であることを繰り返し指摘し、そのためにこそ、教会はシノドスの道を歩みながら、互いに支え合い、隣人の叫びに耳を傾け、祈り合いながら、神に向かって歩み続けることこそが不可欠であることを強調されました。

希望の巡礼者として聖年の歩みを続けているわたしたちに、教皇レオ14世は、先ほどのメッセージの中で次のような指摘をされて、移住者と難民こそがそのような社会のただ中で、希望の宣教者となるのだと指摘しています。

教皇は、「カトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです。実際、彼らは、その霊的な熱意と活力によって、硬直化し、不活発になった教会共同体を活性化することに貢献できます」と述べています。

わたしたちはこの現代社会の中で、希望を掲げながら旅を続ける宣教者です。FABC50周年の文書には、「宣教は、教皇フランシスコが「自己中心の姿勢」と呼ぶものへと向かうわたしたちの傾向の対極にあるものです。自己中心的になるのは、わたしたちは自分自身のために存在するのではなく、むしろ世界のために存在するのだということを忘れてしまうときです」という指摘があります。

わたしたちがこころの扉を開いて、出向いていく教会であり続けることができるように、イエスの呼びかけに耳を傾けて歩み続けましょう。

 

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2025年9月20日 (土)

週刊大司教第225回:年間第25主日C

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9月も半ばを過ぎ、暑さの続いた東京も少し秋の気配を感じるようになってきました。9月21日は、年間第25主日です。

2004年9月20日、いまから21年前に、新潟において司教叙階を受け、新潟教区司教となりました。その日は、岡田大司教様が主式の司教叙階式でした(下の写真)。この21年の間、2004年から2017年までは新潟で、またその間、2009年から2013年までは札幌を兼任し、そして2017年末からは岡田大司教様から引き継いで、東京教区の大司教を務めさせていただいております。この間、多くの方々のお祈りと励ましをいただき、務めをなんとか果たすことができてきました。

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教区司教としての務め、またカリタスやアジア司教協議会などの務め、日本の司教協議会での務めなどなど、様々な務めを果たしていく中で、多くの方の助けと協力をいただいてきたことに感謝いたします。皆さん、本当にありがとうございます。

まだこれから数年はこの務めを続けていくことになるだろうと想定しています。もっとも、すべては神様の計画ですからどうなるのかは分かりませんけれど、これからも与えられた場で求められる務めをふさわしく果たしていくことができるように、みなさまの助けと協力とお祈りをお願い申し上げます。これからも、どうぞよろしくお願い致します。

これまでも繰り返し説教などの機会に触れてきましたが、聖地の状況はますます混迷を深めています。歴史的な背景から生み出される課題の政治的な解決は一朝一夕では得られないのは、聖地をはじめとする中東地域の複雑な現実ですが、教会の立場からは政治的意図の違いを超えて、まず第一に神から与えられた賜物であるいのちを、すべからく守ることを基本として、声を上げ続けます。いのちは例外なくすべてが、その始まりから終わりまで護られ、神から与えられた人間の尊厳が尊重されなくてはなりません。

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わたしが現在責任者と務める国際カリタスは、世界で活動する他の44の国際NGOなどと共に、9月12日に短い声明を発表しました。原文はこちらの国際カリタスのサイトで英語でご覧ください。以下、仮の機械翻訳を掲載します。

イスラエル軍によるガザ市への攻撃が激化し、全市民に対する強制移動命令が出されている中、家族は避けがたいジレンマに直面しています。逃げれば道中や人であふれかえっている避難所での死の危険があり、留まれば隠れているシェルターへの容赦ない爆撃に直面します。どちらにしても、飢餓と包囲が待ち受けています。

「私たちの唯一の要求は命です。私たちはあなたと同じ人間です。私たちは尊厳と安全の中で生きたいのです。飢えや爆弾で死にたくはありません。」
アイマン(仮名)、ガザ市で家族と避難している父親

100万人近くのパレスチナ人が、飢え、悲しみ、そして何度も移動を強いられながらガザ市に残っています。イスラエルの作戦が続けば、病院は孤立し攻撃され、避難所や学校は爆撃され、逃げることができないほど弱い、年老いた、または病気の人々には、死しか残されていません。

「私たちは一つの場所から別の場所へ逃げることに疲れました。」
アビール(仮名)、人道支援活動家

同時に、イスラエルは人道的な活動を故意に妨害しています。援助トラックは引き続き拒否され、国際NGOは不透明な登録制度によって宙ぶらりんの状態に置かれ、飢饉が深刻化しています。

国際司法裁判所は、ガザのパレスチナ人がジェノサイドから保護される権利を持っていることを認めています。各強制移動の行為や飢餓の高まりは、その危険性をより確実なものにしています。そして、世界はこれが起こるのを見て見ぬふりをすることはできません。

私たちの物資を通過させてください。私たちに働かせてください。この攻撃を止めてください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第225回、年間第25主日のメッセージで原稿です。なお文中に登場するFABCは、アジアの各国地域にある司教協議会の連名組織で、事務局を現在はバンコクに置いています(以前は香港にありました)。現在の会長はインドのゴアのフィリッポ・ネリ・フェラオ枢機卿、副会長がフィリピンのパブロ・ダビド枢機卿、事務局長をわたしが務めています。英語ですがホームページがありますので、ご参照ください

年間第25主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第225回
2025年9月21日

ルカ福音は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」というイエスの言葉を記します。

わたしたちはどうしても、すべてに対して全身全霊を傾けるよりは、そこから自分の得られる利益を勘案して物事の価値を計り、ある意味選択をしながら行動してしまいがちです。どのような選択をするのかに、わたしたちひとり一人の価値観が反映されます。その時々の事情に応じて、わたしたちは、いわば、「神と富」のどちらか必要な方を選択することを繰り返しています。それに対してイエスは、どちらかをはっきりと選択し、選択したのであれば小さなことにも大きなことにも、全身全霊をかけて忠実であれと命じています。

わたしたちが選択する道は、神の愛といつくしみから、誰ひとり忘れ去られることなく、また誰ひとり排除されることのない世界を実現する道です。神の愛はすべての人に向けられているにもかかわらず、その愛の実現を妨害しようとするのは、わたしたちの不忠実さであります。わたしたちは神の愛といつくしみの実現の前に立ちはだかる様々な障壁を取り除くという大きな目的を達成するために、目の前の小さな事への取り組みを忠実に果たしていかなくてはなりません。

アジア司教協議会連盟(FABC)は、2022年10月に開催された創立50周年の総会で最終文書「アジアの諸民族としてともに旅する」を採択しました。その冒頭で、これからの歩みの中心にあるのはシノドス的な教会の道であることを明確に記し、「シノドス的な教会には、交わり、参加、宣教という、不可欠な3要素が」あることを指摘します。

その上で、「交わり」の重要性について、「排他性の傾きに対するアンチテーゼです。洗礼を受けた人は皆、尊厳において平等です。・・・教会には、一流の人も二流の人もありません。霊はさらに、わたしたちが同じカトリック信者とだけでなく、すべてのキリスト者、人類すべて、造られたものすべてとの交わりを結ぶよう、力を与えてくれます。・・・霊との交わりのうちにおいてのみ、わたしたちは弟子の共同体へと成長し、パン生地の塊の中のパン種のように働く、キリスト教基礎共同体、人間基礎共同体の建設者となることができるのです」と指摘しています。

さらにFABCは2025年3月15日に司牧書簡を発表し、「交わり」を具体的に生きるために、特にエコロジーの側面に取り組むことの重要性を指摘しました。その上で同書簡は、9月1日から10月4日まで、ちょうどいま祝われている「被造物の季節」にあって、エコロジカルな回心を交わりのうちに具体化するよう、次のような取り組みを呼びかけています。

第一に、「エコロジカルな責任についてわたしたちの共同体の学びを導く」こと。次に、「より簡素で、より持続可能なライフスタイルを奨励する」こと。そして、「神・人類・宇宙とのわたしたちのかかわりを深める、創造の霊性を培う」ことであります。

シノドスの道の歩みはエコロジカルな回心の道と密接に関わり、それは別々の事柄ではありません。シノドスの道の歩みを深めることは、教会で交わりを持つわたしたちの生き方そのものを見直すことにも繋がります。そのためにも、この数年の間に発表されてきたシノドスの文書などをしっかりと学ぶ時を持ち続けたいと思います。シノドスは過去のことではなく、いまわたしたちが歩む道であり、そのためにも小さなことにも忠実であるものでありたいと思います。

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2025年9月15日 (月)

2025年:悲しみの聖母@聖心女子大学聖堂

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9月14日の十字架称賛の祝日の翌日、9月15日は、その十字架の元にたたずみ、イエスと苦しみを共にされた聖母の御心に思いを馳せる、悲しみの聖母の祝日です。

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今年の悲しみの聖母の祝日のミサは、グレゴリオ聖歌を歌われるCANTATE DOMINO、由比ヶ浜グレゴリアンを歌う会の主催で、聖心女子大学聖堂においてミサを捧げました。ミサ式文は朗読と説教を除いてすべてラテン語ですが、現行の典礼式文によるミサです。

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以下、本日のミサ説教原稿です。

悲しみの聖母
聖心女子大学聖堂
2025年9月15日

わたしたちは、確実に先を見通すことの難しい時代に生きています。先に起こった世界的な感染症の蔓延もそうでしたし、今現在経験している各地での武力紛争の勃発、さらには今年の夏にも経験した気候変動など、先の見通せない不安という暗闇で生きていると言わざるを得ません。

不安の暗闇を生き抜くということを考えるとき、聖母マリアご自身が、まさしくそういった不安に囲まれて人生を歩まれたことを思い起こします。

ルカ福音には、シメオンがマリアに語った言葉が記されていました。シメオンは朗読された福音の直前の部分で、幼子イエスについて、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と宣言します。天使のお告げを受け、救い主の母となることを知らされ、その驚きの告知を謙遜の心で、「お言葉通り、この身になりますように」と受け入れたマリアは、あらためてシメオンの口を通じて、まさしくその幼子こそが神の救いそのものであることを告知されます。この知らせに対するマリアとヨセフの素直な驚きを、「幼子について言われたことに驚いていた」と福音は記しています。

そしてマリアに対してシメオンは、その驚きにさらに追い打ちをかけるように、イエスの将来について「反対を受けるしるしと定められています」と驚きの事実を告げ、加えて「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と、マリア自身も苦しみの道を歩むことになる事実が告げられます。

この驚くべき告知の連続は、それこそマリアにとって、先行きの見えない大きな不安の闇となって襲いかかったことでしょう。しかしそれに立ち向かわれたマリアは、神の母となりました。

聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

そこには、先行きが見えない不安による疑心暗鬼の闇に引きずり込まれる誘惑もあったことでしょう。イエスの弟子たちがそうであったように、苦しみの道を否定しようとする誘惑もあったことでしょう。そのようなことはあり得ませんと、反論したくなる誘惑もあったことでしょう。

それらはまさしく、イエスご自身がペトロを叱責された、「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉に明らかなように、神の計画を無にしようとする悪の誘惑です。

聖母マリアは、しかしその誘惑と不安に立ち向かわれました。神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる様々な人たちとの連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。

今日の福音は、聖母がその苦しみの道を一人孤独に歩んでいたのではないことを明確にします。そこにはシメオンのように、神の計画を知り、その神の計画に身を委ねるようにと励ます具体的な存在がありました。そしてもちろん天使のお告げの言葉、すなわち「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」、そして「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」というお告げの言葉における約束は、聖母にとって、救い主ご自身が常に道をともに歩んでくださるという確信を与えました。神のみ旨を識別しながら、ともに歩む信仰の道。まさしくいま教会が歩んでいるシノドスの道を最初に歩まれたのは、聖母マリアであります。

わたしたちが、困難に直面し、疑心暗鬼の不安にとらわれるとき、心は自己保身に傾き、利己的な心は他者の必要に目をつぶらせ、自分の心を安定させるために異質な存在を排除しようとします。そのときにこそ、聖母マリアの生きる姿を思い起こさないわけにはいきません。わたしたちの信仰は、神の計画に信頼し、互いに助け合い、ともに歩んでくださる主に信頼しながら謙遜に身を委ねる信仰です。

この混乱の時代、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

 

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