2023年12月 2日 (土)

週刊大司教第145回:待降節第一主日B

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しばらくお休みさせていただいておりました週刊大司教を、待降節第一主日から再開いたします。

この間、東京教区ホームページに公示させていただいたとおり、11月8日、東京教区司祭が覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕され、さらに11 月29 日に、同東京教区司祭は覚醒剤取締法違反について処分保留のまま、別件の麻薬特例法違反の容疑で再逮捕されました。まだ捜査段階であり、逮捕容疑の詳細も詳らかではないため、詳細については現段階では逮捕の事実以上にお知らせできることがありません。教区司祭が法令違反を持って逮捕されるという事態をおもく受け止め、適正な捜査によって真相が明らかにされることを信じながら、捜査に全面的に協力して参ります。皆さまにご心配とご迷惑をおかけする事態となり、大変申し訳なく思っております。心よりお詫び申し上げます。今後、詳細が明らかにされた段階で、随時改めて皆さまにもお知らせして参ります。

以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第145回のメッセージ原稿です。

待降節第一主日B
週刊大司教第145回
2023年12月03日

わたしたちのうちで誰ひとりとして、人生の終わりを免れるものはいません。それぞれの人生を、それぞれに与えられた時間の中で生きるとしても、必ず終わりがやってきます。

限りがある時間を生きていることをよく知っているにもかかわらず、わたしたちには対処するには困難がつきまといそうな問題への対処を先延ばしにしようとする傾向があります。しばしば、時間が解決してくれるなどと言って、将来の世代へと負の遺産を残してしまってはいないでしょうか。

教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」において、「もはや、世代間の連帯から離れて持続可能な発展を語ることは出来ません」と指摘されました。(159)

教皇はより良い世界を実現するためには、いま良ければそれでかまわないという刹那的な自己中心の考え方だけではなく、共通善に基づいて、将来世代への何を残していくのかという責任も視野に入れなくてはならないと、次のように指摘されます。

「わたしたちがいただいたこの世界は後続世代にも属するものゆえに、世代間の連帯は、任意の選択ではなく、むしろ正義の根本問題なのです。」(159)

わたしたちは、どのような世界を後世に残していこうとしているのでしょう。将来の世代との連帯という視点で考えたことがあるでしょうか。この課題に取り組むことは、いまの世界で生きる意味をあらためて問い直すことを意味しています。楽なことではありません。

2015年に「ラウダート・シ」を発表されて以来、教皇様は地球温暖化の問題や気候変動の問題に発言を繰り返してきました。しかし取り組みを先送りしようとする世界の動きに業を煮やし、この10月4日に「Laudate Deum(主を称えよ)」を発表され、具体的な取り組みの必要性と、政治に対する積極的な提言の必要性を強調されました。その上で、教皇様は、ドバイで開催される国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)に自ら出席されることを決意されました。

「目を覚ましていなさい」と言う主の呼びかけは、未来を見据えて、今を生きるわたしたちが、将来世代との連帯の中で、被造物の管理を任された僕としての責任ある行動をとることも求める呼びかけです。教皇様と共に地道に、連帯の必要性を呼びかけ、また自らも行動し続けたいと思います。

教会は12月の最初の主日を、宣教地召命促進の日と定めています。

この日わたしたちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。

もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派ですが、アジアのほぼ全体がいまでも宣教地です。その意味でも、日本を始めアジアにおける福音宣教を推進するために、さらに多くの働き手の存在は不可欠です。皆さまのお祈りをお願いいたします。

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2023年10月28日 (土)

シノドスホールから:その3

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シノドスはまもなく終了します。本日、土曜日の午後に最終の全体会議が行われ、終了となる予定です。長い一ヶ月でした。季節も変わりました。

最終の第四周は、23日月曜日朝のミサで始まりました。今回はアジアの担当で、司式がFABC(アジア司教協議会連盟)会長のチャールズ・ボ枢機卿(ヤンゴン大司教)、その横にFABC前会長のオズワルド・グラシアス枢機卿(ボンベイ大司教)、そしてFABCの事務局長のわたしがつきました。聖歌隊は、ローマ在住のフリィピン出身修道者が務め、侍者はローマ在住のフィリピン人若手司祭を中心に構成されていました。この中には、フィリピン宣教会の司祭で、以前日本におられた若手司祭もおり香部屋で突然日本語で話しかけられてびっくりいたしました。

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そのミサ後、朝の全体会で、シノドスから教会全体への書簡が採択されることになりました。これが多分、事務局の誤算の始まりとなりました。この後、一週間の当初のスケジュールが、毎日のように変更されます。なお書簡をシノドスから発出することは教皇様ご自身の希望で、前の週に、教皇様が出席される中で、圧倒的多数(11の反対票)で書簡を発出することが採択されました。

その書簡の採択に当たって、用意された文書を英語で読み上げて(もちろん同時通訳が会場にはあります)拍手で採択しようとしたのですが、さすがにこれには異論が続出。結局、全員に書簡を配布し(つまり、イタリア語、英語、スペイン語、フランス語に翻訳して)、それから全体会を開催して個別の意見発表をうけつけ、さらにそれを書き直すために起草委員会を開催するので、急遽月曜の午後と火曜終日が休日となりました。わたしはこの間に、国際カリタスの行事と、所用での国務省訪問が入ったので、休日とはいきませんでした。

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その後、25日水曜に再開され、神の民への手紙が採択され、同時に今回のシノドスの位置づけについての事務局長からの説明が行われました。神の民への手紙は、なるべく早く多くの人に読んでいただくためにと、各国の司教協議会に翻訳を急ぐようにと指示があり、日本語訳も、中央協議会の翻訳担当が頑張ってくださり、一日で完成。すでに中央協議会のホームページで公開しています。

この書簡は、まだ第一会期が終わろうとしている段階で、さらに来年また同じメンバーで同じシノドスの第二会期が行われる中、決定したことを伝えているのではなく、また話し合われた内容を伝えているのでもなく、シノドスに参加している多くの思いを伝え、歩みを共にするようにとの呼びかけの文書です。この手紙を読んで、結局シノドスは何も決めていないと失望する声も聞こえてきますが、そういう類いの文書ではありません。この後に、さらに膨大な、討議の内容を伝える文書が出てきます。神の民への手紙は、シノドス参加者の思いを代弁するものですので、是非ご一読ください。

この日の夜、平和を求めて、サンピエトロ大聖堂内で、シノドス参加者が集まり、ロザリオの祈りが捧げられました。

また25日の水曜日の昼前には、今回の全体の内容を伝える文書の原案が示され、それについての小グループでの話し合いが、26日の木曜日丸一日、行われました。35のそれぞれの小グループから、最終的には千を越える修正の動議が提出され、起草委員会の修正作業が始まりました。

27日金曜日は、午前中に小グループで、来年の10月までの間をどのように勧めるのかについての小グループでの話し合いと全体会が行われ、午後は休会して、午後4時から、各国の司教協議会会長を集め(50名ほどが参加しました)、第二会期までの司教協議会の取り組みについての意見交換がありました。一年弱の時間しかないことと、これから帰国して、すぐに待降節から降誕節、年末年始となるので、いずれの国も、全国レベルでの取り組みをするには時間がないことが指摘され、今後、事務局が何らかの方向性を提示することになりました。

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なおこの27日の夜は、教皇様がシノドス全体会の中で呼びかけられた平和のためのロザリオの祈りが、午後6時から、サンピエトロ大聖堂で行われ、シノドス参加者のほか、多くの人が参加されました。バチカン放送のビデオを下に張っておきます。ロザリオの祈りと聖体顕示式が、教皇様の臨席で行われました。以下、バチカンニュース日本語版からの引用です。(なお写真はすべて東京教区オリジナルです)

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『教皇はロザリオの祈りに続き、平和の元后、聖マリアにご自身の祈りを捧げられた。
 この中で教皇は、「紛争に引き裂かれ、武器に蹂躙されたこの時代」、「平和を見失った人類家族に憐みの眼差しを向けてください」と聖母に祈った。
 そして、教皇は、「危険と混乱の中にあるこの世界のためにとりなし、いのちを受け入れ大切にすること、死の種を播き未来をかき消す戦争の狂気を拒むことを教えてください」と聖母により頼んだ。
 「御子がいなければ、わたしたちはひとりでは何もできません」と言う教皇は、「わたしたちの平和であるイエス」に立ち返らせ、「憎しみに囚われた人の魂を揺さぶり、紛争をあおる人を回心させ、子どもたちの涙をぬぐい、孤独な人やお年寄りを助け、負傷者や病者を支え、祖国や愛する人を置き去りにせざるを得なかった人を守り、気落ちした人を慰め、希望をよみがえらせてください」と祈った。
 「救いのあけぼの」である聖母に「争いの闇に曙光を差し込んでください」と教皇は願いつつ、「国々の指導者たちに平和の道を励まし」、「悪にそそのかされ、権力と憎悪に目がくらんだあなたの子らを和解させ」、「神の調和を心に注いでください」と祈り求められた』

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さて、起草委員会は、昨晩金曜日の午後9時から集まって、最終報告書の書き直し作業をしています。本日土曜日の、午前11時頃にできあがる予定です。本日は午後4時から、その報告書についての採決があり、教皇様のお話の後、第二会期まで休会となる予定です。最終報告書は、例えば英語の原案がA4で50ページ近くありますから、修正を入れると60から70ページほどになるかもしれません。またお知らせします。

この一ヶ月間の、皆様のお祈りに感謝いたします。下の写真は、今週、会議の合間を縫って所用で訪問した国務省の三階のテラスから見た、シノドス会場のパウロ6世ホールです。奥の波を打っているのが会場。右手はサンピエトロ大聖堂正面、下がサンピエトロ広場です。

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週刊大司教の号外編が、短い現地報告として10回ほど、東京教区のYoutubeチャンネルで公開されていますので、是非ご覧ください。

 

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2023年10月22日 (日)

シノドスホールから:その2

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シノドスは第三週が終わり、残すところあと一週間です。

ローマは、ここ数日小雨がちらつき、朝晩はちょっと涼しくなってきましたが、それでも日中は蒸し暑い日が続いています。このところ悪化しているガザの状況により、シノドスホールでも様々な声が上がっています。毎日の祈りの中では、特に中東における平和を求める祈りが捧げられ、また中東諸国の代表を通じて、自由討議の枠組みの中で、命の危機に直面する人々の声がシノドスホールに響き渡っています。これらの声を受けて、教皇様は、来たる10月27日を、平和のために特別に祈る日と定められました

また国際カリタスでは、19日の木曜日の夜にガザでミサイル攻撃を受けた教会において、避難していた住民と共に、支援活動に当たっていたカリタス・エルサレムの職員が殺害されたこともあり、今回の事態を非常に憂慮しています。また人道支援も滞っており、攻撃の当事者に、市民の命を第一に保護する姿勢をとるように呼びかけています。

攻撃された教会ではカリタス・エルサレムの職員が5名、避難者支援に当たっていましたが、攻撃を受けた場所で支援活動を行っていた26歳のカリタス・エルサレム女性職員が亡くなり、また彼女の子供と夫も亡くなっています。攻撃を受けた直後の報道では17名が犠牲になったと伝えられています。

国際カリタスは中東地域のカリタス(Caritas MONA)と共同で声明を発表しており、一般市民とその生活のためのインフラに対する攻撃を即座に停止すること、また関係する当事者すべてが即座に攻撃をやめ、市民を保護し、人道支援を即座に安全に妨げることなく行わせ、国際法を遵守することを強く求めています。

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さて今週のシノドスです。16日月曜日は、シノドスの歴史に刻まれる出来事でした。アジアの女性として初めて、日本の西村桃子さんが議長代理として、全体の司会をされました。この日は教皇様も出席され、西村さんは教皇様の隣で、司会進行をされていました。アルゼンチンで宣教者をしていた西村さんは、教皇様とはマテ茶で繋がるお友達です。

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その16日月曜日と17日火曜日は、その前の週の13日金曜日から続いていた討議要項B2の話し合いが続けられ、最終的にそれぞれ35の小グループのレポートが完成し提出されました。

このレポートを書くために、事前の調査で、英語、スペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語などの話者の参加者の中から、秘書が事前に指名されています。秘書は一つの課題に35名が必要で、それが四課題ですから、最低でも140名の秘書が必要です。会場にいるメンバーとほかの参加者をあわせると450名ほどですので、三分の一ほどが秘書を担うことになります。これが大変なのです。幸い私のような者は英語のネイティブでもないですし通常の話者でもないので指名されることはないのですが、秘書になった方は最終提出のレポートを、霊的な会話の中から聞き出して2ページ程度にまとめ、内容を類型分けし、さらにそれを全員に読んでもらい、手直しをし、さらに二回ほどにわたって行われる全体会での意見を参考にもう一度行われる小グループの分かち合いでさらなる手直しをし、最終的にレポートに仕上げます。小グループ参加者には、夜中にメールで原案が回ってきたりするので、夜遅い夕食の後も読まなくてはなりません。秘書役の皆さんが仕上げてくるレポートを読むと、とてもではないですが、英語の通常の話者ではないわたしには、ボキャブラリーの点からも、神学的知見からも、秘書はできないと感じさせられるほど素晴らしいレポートがたくさん仕上がってきています。

これらすべてをまとめて文書を作る神学者のチームがあり、さらに参加メンバーからもそこに選出されてさらに読み込む委員会も設置されていますので、最終的にどのようにまとめられるのかが楽しみです。

ただ今回は、膨大な文書を作成することよりも、来年開催される第二会期をにらんで、短い文書が用意される予定で、加えて「神の民への手紙」と題するシノドスからの呼びかけ文が用意されることになりました。これは最終週に話し合われ、採択される予定です。

18日水曜日にまたサンピエトロ大聖堂で朝のミサを共にし、今度は討議要項のB3の課題についての霊的な会話が行われました。それが終了し、各グループの秘書からレポートが提出されたのが、21日土曜日のお昼です。

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その間、19日木曜日の会議終了後19時15分から、サンピエトロ広場の中にある難民のモニュメントの前で、教皇様が司式されて、移住者と難民のための祈りが捧げられ、シノドス参加者全員が祈りを共にしました。このモニュメントの中には、聖家族が描かれていると言われ、多分この下の写真の中央の人物像が、聖家族かと思われます。大工道具を手にした男性と、その後ろで幼子を抱える女性です。

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20日金曜日お昼休みの間、午後2時15分から、定例で行われているシノドスの記者会見に参加するように呼ばれ、記者の皆さんに少し話をするチャンスがありました。わたしを含め4名の参加者がこの日は参加しましたが、記者会見は広報省長官のルフィーニ氏によって毎日行われており、シノドス参加者が数名ずつ、それぞれの体験を語っています。(下に、20日の会見のビデオを張ります)

わたしも、アジアでは、特に日本がそうであるが、沈黙することが好まれ、積極的に声を上げることが苦手なので、霊的会話のような小グループでの分かち合いは、参加者全員が声を上げ、心に抱いていることを表現する機会になるので、重要であること。アジアの大陸別総会でも小グループによる霊的会話は行われ、非常に多くの人に自分の思いを表現する手段として好評であったが、それは今のシノドスの場でも同様であること。また国によって言葉が異なり文化が異なる中で、普遍教会も異なる現実の中で信仰を生きている。その中でアジアは特に混沌としているが、普遍教会全体のシノドスの歩みを考えるとき、一つの型にはめるのではなく、それぞれの地域の文化や歴史を考慮することが大切であること。シノドス性は同一性ではないこと。また国際カリタスの総裁として、カリタスの愛の奉仕の業こそが、シノドス性を生きるものであり、カリタスは今も、またこれからも、教会にとってのシノドス性を生きる重要な道具となること。カリタスは世界で、困難に直面する人の尊厳を守り、促進し、上下ではなく同じ地平に立って、支え合いながらともに歩むことで希望を生み出してきた、まさしくシノドス的存在であること、などを話させていただきました。

記者会見の中で、女性の叙階について何か決まったのかと、数名の記者からの質問が出ました。シノドスの小グループでどういう話が進んでいるかを、シノドス外に話すことを控えようという教皇様の呼びかけがあるので、一体何が話されているのか、興味を持たれているのは間違いありません。具体的なことは控えますが、会場では、具体的課題の詳細については話されていません。それよりも、シノドス性とはそもそも一体何を意味しているのか、その共通理解を、普遍教会全体で持つためにはどうしたらよいのかという、根本的な課題が分かち合いの中心になっています。

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明日、22日の日曜日は、午前中にローマの日本人会のミサに招かれています。また報告します。あと一週間です。残念ながら最初から最後まで体調は完璧ではありませんでしたが、最終日までしっかりと努めることができるようにお祈りください。またシノドス参加者全員のために、特に教皇様のために、お祈りください。加えて、特に中東における平和のため、またウクライナやミャンマーなど、混乱する地の平和のためにもお祈りください。

 

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2023年10月14日 (土)

シノドスホールから

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ご存じのように、シノドスに参加するために、ローマにおります。日本からは司教協議会の代表としてわたし。また教皇様が任命された司祭や信徒修道者の代表として、また議長代理として西村桃子さん。さらに専門家として弘田鎮枝さんと、三名が日本からの参加者ですし、日本語話者とすれば、ルクセンブルグのオロリッシュ枢機卿様も含まれて、4名となります。

正直、プログラムがタイトです。イタリア独特のシエスタタイム(昼寝時間)が午後に3時間ほど入るので、微妙な感じですが、朝は8時45分に始まり、12時半まで。その後、それぞれの宿舎に帰り昼食。午後4時に再び集まって午後7時半まで。それから宿舎に戻って夕食です。各自のIDカードには、写真と名前、そして討議要綱(Insrumentum Laboris)に記されているAの課題とBの三つの課題に対応して、併せて四つの小グループ分けが記され、裏にはQRコードが記されています。このQRコードで出欠が管理されています。

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会場には35の小グループ用テーブルがあり、それぞれに参加者11名ほどと一名の司会役の席が指定されており、それぞれにタブレットが置かれていて、名前がすでにスクリーンに表示されています。朝にはそれでQRコードを読みとり、出席者数を確認、一日の終わりにはログアウト。欠席には文書での申し出が必要で、バチカンの役所の責任者なども、ほぼすべて皆勤です。参加者は代表と専門家などを含め、400人を超えています。

詳しい会場での話し合いの内容は、分かち合いという性格上、皆さんもよくご存じのように、そこで話された内容は外で口外しないのが原則ですから、基本的には、毎日行われているバチカン広報省のルフィーニ長官の記者会見以上のことは外部には伝えられていません。

毎日の様子については、東京教区のシノドス担当者である小西神父様が、短くビデオにまとめて、毎日のように東京教区から公開していますので、そちらを参照ください。実はわたしもそれを毎日見ていて、現場にいては気がつかなかったこともあったりして、驚かされています。

会議は基本的に、討議要綱にあるワークシートの設問通りに進んでいます。是非、討議要綱をご覧ください。そしてそこにある設問に、それぞれの共同体で分かち合いをしていただければと思います。こちらのリンクに邦訳があります。また今回はこれが強調されていますが、霊における対話(霊的な会話)方法が、分かち合いの方法として強調されており、この方法を、教会全体に取り入れたいという思いが感じられます。聖霊の導きを共同体として識別するための道です。討議要綱の日本語版は、中央協議会のこちらからダウンロードできます。また霊における対話(霊的な会話)については、その日本語訳の討議要綱の15ページ以下に説明されいますし、18ページにはイラスト化したものの翻訳されていますので、是非ご覧ください。

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会議は、それぞれの課題ごとに、まずミサで始まり、次に総会議場で霊的な講話、全体的な解説と具体系な体験の分かち合いがあり、その後に、各テーブルに分かれた小グループごとの霊的会話に入ります。そして全体会議で小グループの発表と自由討議。そしてもう一度グループでの最終レポート作成となります。このパターンで、これまで10月4日から7日、9日から12日とすすみ、現時点では13日から始まった討議要綱のB2の諸設問についての分かち合いが進んでいます。教皇様は、全体討議には参加されます。車椅子での移動ですが、誰よりも早く会場に現れ、参加者に挨拶する時間を設けてくださっています。

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全体会の自由討議のところでは発言が許されますが、わたしもB1の設問のところで、教会のカリタスの業について発言させていただきました。

すでに記したように内容をお話はできませんが、ただ巷にいわれているような、教皇様が秘密を守るように命じたということではありません。対立する課題でもそれぞれが恐れずに自由に話をするために、分かち合いの原則を守り情報の断食をしようと教皇様が呼びかけられました。また小グループでの霊的な会話は和やかに進んでおり、全体として緊張した雰囲気は全くありません。また事前にいわれていたような特定の課題について、議論が巻き起こっているということもありません。全体として祈りの雰囲気に包まれて、ともに歩もうとする姿勢が感じられます。

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体調的にきつかったのは、出発の前夜、深夜になって予定していたルフトハンザ航空からメールが入り、羽田からミュンヘンは運航がANAなのでよいものの、ミュンヘンからローマがその日ほぼすべて欠航になりました。ローマに行けません。しばらく待ちながら深夜に様々やりとりしてわかったのは、振り替え便が早くても2/3日先になること。これではシノドス開始に間に合いません。そこでほかの航空会社のサイトに軒並み当たり、ルフトハンザの払い戻しより(ちょっと高かったものの、払い戻しができるチケットにしていて幸いでした)ちょっと安くなるターキッシュ(トルコ航空)のチケットを見つけ即座に、イスタンブール経由のターキッシュを予約し、ルフトハンザをキャンセルして払い戻し手続きをしたら、もう出発日の朝でした。

そのままローマに入り、ローマ郊外のサクロファノでの三日間の黙想会の後、開会のミサが野外ミサで、これがまた暑くて長い。その日の夜から、首筋あたりに湿疹が出て、そろそろ落ち着いてきましたが、かゆみに悩まされ続けています。加えて、泊めていただいている宿舎が、先日引退されたボッカルディ大使の手配で、教皇庁の外交官養成所なのですが、それがパンテオンのすぐ近くのため、バチカンまで微妙な距離です。歩けば25分程度ですが、朝晩は涼しくなってきたものの、日中は30度近い暑さのローマです。これで、朝出かけ、昼休みに戻り、また夕方出て夜遅くに戻るのは、結構大変でして、そのためこの数日は、司教の日記に報告を書く時間も気力もないまま過ぎてきました。

やっと半分終わりました。第二週目の土曜日です。あと二週間。乗り切ることができるように、皆様のお祈りを、どうかお願いいたします。またシノドス参加者が聖霊の導きを識別し、教会の進む方向を見極めることができるように、どうぞお祈りください。

 

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2023年9月30日 (土)

週刊大司教第144回:年間第26主日A

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シノドスに参加するために、ローマに出かけています。

10月末日までの一ヶ月間、ローマから、またシノドスの様子などを報告させていただきます。

出発前に撮影していた、週刊大司教第144回、年間第26主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第144回
2023年10月01日

この週刊大司教をご覧いただいている本日、わたしはシノドスに参加するためにローマにおります。事前の予定では、9月30日の晩に、エキュメニカルな祈りの集いがあり、その後10月3日まで、ローマ郊外で参加者全員が集まり黙想会が行われます。その後、10月4日からバチカンで今回のシノドスの第1会期がはじまります。また来年の10月には、同じ参加者で、第二会期が行われる予定になっています。

シノドス参加者に聖霊が豊かに注がれ、識別が深められ、教会のためによりよい道を見いだすことができるように、シノドスのために皆様のお祈りをお願いいたします。

マタイ福音には、父親の命令に対する兄と弟の答えと、実際の行動についてのイエスの話が記されていました。兄は命令を拒んだものの、結局考えをあらため父親の望み通りにした。しかし弟右は、命令に従うそぶりを見せたものの、結局それに従わなかった。イエスは「どちらが父親の望み通りにしたか」と尋ねていますが、すなわち神にとって大切なのは、結果として神の望みを実現しようと行動することであって、表向きに積極的なジェスチャーをすることではないということを、明確にします。

残念ながらわたしたちは、見た目にとらわれて人を裁きます。表向きのジェスチャーに簡単にだまされます。かぶった仮面の内側を見抜くことができません。そして時に、表向きの表現や行動をよりよく見せることが、信仰心を表現することだと勘違いすらします。でもそれは、神には通用しません。人の目をごまかすことは容易でも、神の目をごまかすことはできません。

わたしたちは、神の望みをこの世界の中で実現するように、本当に努め、行動しているでしょうか。そのわたしたちの姿勢を問いかけているのが、今回のシノドスです。

今回のシノドスは、教会が教会であるための本当のあり方を再確立しようとする試みです。教会共同体が愛に満ちあふれていたり、敬虔であったり、喜びに満ちあふれているのは、福音を告げ知らせるため、それも言葉の知恵によらずに主の十字架をむなしいものとしないためであります。つまり交わりの共同体は、それ自体が福音をあかしする存在、すなわち宣教する共同体でなくてはなりません。共同体が宣教する共同体であるからこそ、誰ひとり排除されることなくすべての人がその交わりに招かれることができます。そのためにも、教会共同体は、常に聖霊の導く方向性を識別することが必要であり、その導きに身を任せることで、ジェスチャーではない信仰のあり方を具体的に生きることが可能になります。

何か雲をつかむような話をしてしまいましたが、公開されているシノドスの討議要綱などに目を通していただき、シノドス参加者とともに、みなさんそれぞれの場で、祈りと分かち合いのうちに、聖霊の導きを識別する道を歩んでいただければと思います。

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2023年9月23日 (土)

週刊大司教143回:年間第25主日

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東京教区では、悲しいことに、9月に入って帰天する司祭が相次いでいます。森司教様、西川神父様、古賀神父様に続いて、9月20日には星野正道神父様が73歳で帰天されました。葬儀ミサは9月26日の予定です。どうぞパウロ星野正道神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

星野神父様の略歴は、こちらをご覧ください。長年にわたり教育界で働かれ、特に白百合女子大学で長く教授を務められました。

9月はこれで、すべての火曜日が、教区司祭の葬儀ミサとなりました。帰天された司祭の永遠の安息をお祈りいただくと共に、彼らの後を継ぐ後継者が与えられるように、司祭の召命のためにも、どうかお祈りくださいますように、心からお願い申し上げます。

それでも新しい司祭は、少しづつではありますが、確実に誕生し続けています。9月23日土曜日の午後には、イグナチオ教会でイエズス会に二人の新しい司祭が誕生しました。叙階されたのはアシジのフランシスコ森晃太郎さん、洗者ヨハネ渡辺徹郎さんのお二人です。おめでとうございます。これからのお二人の司祭としての人生に神様の祝福を祈ると共に、その活躍に期待しています。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第143回、年間第25主日メッセージ原稿です。

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週刊大司教第143回
2023年9月24日

マタイの福音に記されたぶどう園で働く労働者と主人の話は、なんとなく心が落ち着かない話であります。確かに記されている話では、主人は最初の労働者に一日につき一デナリオンの支払いを約束して雇用したのですから、何も約束違反はしていません。しかし実際には、明らかに自分より短い時間しか働いていない労働者が、自分より先に一デナリオンもらっているのだから、もっと働いた自分にはより多くの報いがあるはずだと考えるのは、支払いが労働の対価であるという考え方からは、当然です。実際問題、雇用の現場で、同じ職種にもかかわらず、丸一日働く人と1時間しか働かない人を、全く同じ給与にしたとしら、あっという間に労働争議が発生しそうです。

しかしイエスの本意は、労働の対価としての支払いのことにないことは、その終わりの方の言葉によって少し理解できるような気がします。

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」

すなわち、イエスはここで、ご自分のいつくしみについて語っておられます。ご自分が愛を持って創造し、賜物として与えられたいのちを、神がどれほど大切にしておられるか。そのいのちに対する愛は、分け隔てなく、価値における優劣の差もなく、すべからく大切であり、愛を注ぐ対象であり、いつくしみのうちに包み込む対象であることを、この言葉は明確にしています。

この世界は、往々にして、数字で見える成果によって人間を評価し格付けします。それが極端になると、人間のいのちの価値を、能力の優劣によって決定し、この世界に役に立たないいのちには存在する意味がないという暴力的な排除の論理にまで到達してしまいます。数年前に発生した、障害者の方々の施設を元職員が襲撃し、19名の入所者を殺害するという事件思い起こします。犯人の、「重度の障害者は生きていても仕方がない。そのために金を投じるのは無駄だ」などという主張が、極端に走ったいのちへの価値判断を象徴しています。神にとっては、どのような違いがあったとしても、ご自分が創造されたいのちは、すべからく等しく大切な存在であることを、今日の福音は明確にしています。

本日は、世界難民移住移動者の日であります。教皇様は「移住かとどまるかを選択する自由」をテーマとして掲げられました。メッセージの中で教皇様は、ヨハネパウロ二世のこの言葉を引用しています。

「移民と難民のために平和的状況を築くには、まず、移民しない権利、すなわち母国に平和と威厳をもって住む権利の保護に真剣に取り組まなくてはなりません」

その上で教皇様は、「移民難民は、貧困、恐怖、絶望から逃れるのです。こうした原因を根絶し、やむにやまれぬ移住に終止符を打つには、わたしたち全員が、おのおのの責任に応じて、それぞれが協力して行う取り組みが求められます」と呼びかけておられます。

すべてのいのちは、優劣の差なく、すべてが神の目にとって大切な存在です。その愛といつくしみは、すべてのいのちに向けられています。神の愛といつくしみのまなざしを、わたしたちの利己心が、差別意識が、排除の心が、遮ることのないようにいたしましょう。

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2023年9月16日 (土)

週刊大司教第142回:年間第24主日A

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東京教区では、森司教様、西川哲彌神父様に続いて、9月10日にパウロ・テレジオ古賀正典神父様が帰天されました。葬儀は9月19日火曜日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。お祈りください。

古賀神父様は、一時、神学生時代にレデンプトール会の志願者として名古屋で養成を受けられたこともあり、わたしにとってはその当時からの知り合いでありました。年齢のわたしより一つ下であります。東京教区司祭として1990年に叙階後、小教区司牧や教区本部事務局で働かれ、わたしが司教になった2004年頃は、中央協議会の法人事務部長も務めておられました。その後体調を崩し、2017年からはペトロの家で療養生活を続けておられましたが、この9月10日の早朝、帰天されました。古賀神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

秋田の涙の聖母で世界に知られている聖体奉仕会修道院で、4年ぶりに秋田聖母の日が開催され、地元の成井司教様に、大阪の酒井司教様とわたしも加わり、9月15日のミサは秋田県内外の司祭も含めて、司教三名、司祭6名で、集まった150名を超える方々とともに、ミサを捧げ祈ることができました。わたしはミサを司式させていただきましたので説教原稿は別掲します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第142回、年間第24主日メッセージ原稿です。

年間第24主日A
週刊大司教第142回
2023年9月17日

多分に身勝手なわたしたちは、自分の過ちは無条件で許してほしいと願うのに、自分に対する他者の過ちには、そう簡単に許してしまおうという気持ちにはなりません。いつくしみとゆるしは、わたしたちにとって生涯の課題であるともいえるでしょう。

本日の第一朗読であるシラ書も、そしてマタイ福音も、ゆるしと和解について記しています。

わたしたちが他者との関係の中で生きている限り、どうしてもそこには理解の相違が生じ、互いを理解することが出来ないがために裁いてしまい、その裁きは時として怒りを生み、結局のところ相互の対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの感情を抱いたままでは、自分と神との関係の中で、ゆるしをいただくことは出来ない。

わたしたちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを悔い、神にゆるしを願うことでしょう。しかし神は、神にゆるしを請う前に、他者と自分の関係を正しくすることを求めます。他者との人間関係において、ゆるしと和解が実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。

マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言うイエスの言葉を記しています。もちろん490回ゆるせばよいという話ではなく、七の七十倍という言葉で、限りない深さを持った神のゆるしを示します。またそのゆるしをいただいたものが、そのあわれみを他者との関係における自らの行動につなげるのではなく、反対に隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、他者を裁くものには、神のゆるしがないことも明示されています。

わたしたちは、なぜ、ゆるし続けなくてはならないのか。それをパウロはローマの教会への手紙で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、わたしたちの人生そのものが、主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としているのだと指摘します。

その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、自らの命を奪おうとしているものをゆるすいつくしみであり、愛するすべてのいのちの救いのために、自らを犠牲にする愛といつくしみそのものの人生です。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的にゆるし、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。それは、わたしたちが、愛といつくしみそのものである主イエスに従うのだと、この人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」というパウロの言葉に、今一度心を向けましょう。

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秋田の聖母の日@聖体奉仕会

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久しぶりに、秋田の聖体奉仕会修道院を会場に、秋田の聖母の日が行われ、東京から出発した17名ほどの巡礼団とともに、参加してきました。今回は、地元の成井司教様を始め、大阪の酒井司教様とわたしの三名の司教と、秋田地区などで働く司祭6名が参加して、一般の参加者も150名を超えていました。久しぶりに集まって祈りを捧げることができて、感謝です。

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この秋田の聖母の日が始まったきっかけは、2013年10月に、ローマ教区が主催して世界各地の聖母巡礼所を中継で結んだロザリオの祈りに参加したことでした。当時のことはこちらに記してありますし、当時のビデオもまだ見られますので、ご覧ください。リンク先の当時の司教の日記の一番下にビデオが貼り付けてあります。(ビデオ内で秋田が登場するのは、1時間55分あたりです)10月12日の夜に始まり、時差の関係で徹夜で祈りをささげ、翌日のミサで締めくくった集まりには、海外も含め各地から多くの方が参加されました。当時の日記には、事前申し込みは800人ほどでしたが、当日はそれ以上に人が聖体奉仕会に集まったと記されています。

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この行事に触発されて、翌年2014年から、9月14日の十字架称賛と15日の悲しみの聖母の両日、聖体奉仕会で「秋田の聖母の日」と名付けた祈りの集いを開催してきました。それ以来、毎年、国内外から、多くの方が参加してくださっています。また秋田地区の神言会司祭団も、協力してくださっています。わたしは17年に新潟教区から東京教区に移っても、毎年この行事には参加しておりましたし、それに併せて巡礼も行ってきました。

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残念ながら感染症の状況のため、2019年の集まりを最後に、オンラインでの開催が続いてきましたが、今年は久しぶりに集まることができました。十字架の道行きは個別に行われ、東京発の巡礼団も午前中にゆっくりと庭での十字架の道行きをすることができました。そして皆で集まってのロザリオの祈りでは、酒井司教様が講話をしてくださり、聖体礼拝では成井司教様の講話、そして悲しみの聖母の祝日ミサはわたしが司式させていただきました。

15日の夜は、羽田空港で雷雨があったようで、秋田便が欠航となり、東京から出発した巡礼団は慌てましたが、企画した信徒の旅行社パラダイスの豊富な危機経験と聖体奉仕会の助力のおかげで、秋田市内に宿を確保でき、巡礼団も無事に翌朝東京へ向かいました。

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みなさんご苦労様でした。企画運営してくださったみなさん、ありがとう。参加してくださったみなさん、感謝します。

以下、ミサでのわたしの説教の原稿です。なお前日、十字架賞賛の祝日のミサでの説教は、原稿はありません。

秋田の聖母の日
2023年9月15日
聖体奉仕会聖堂

3年以上に及ぶ感染症による混乱の中、目に見えないウィルスと対峙してきたわたしたちは、これから先に一体どんな未来が待ち受けているのかという、これまでであれば抱くことのなかったような先行きの見通せない不安の闇に引きずり込まれ、まるでその暗闇の中を手探りで歩いているような状況が続きました。具体的に目に見える危険が迫っているのであれば、様々に対処する方法も考えられて心の安心を得ることもできるのでしょうが、目に見えない存在がどのような影響を具体的に及ぼすかが良くわからないという状況は、わたしたちを疑心暗鬼の闇に引きずり込みました。 この秋田での、恒例となっていた秋田の聖母の日の巡礼も、そのような状況の中で集まることができず、開催することが難しい状態が続いていました。今年、こうやってみなさんと一緒にこの聖堂に再び集まり、聖母マリアの生きる姿勢に倣い、その霊性に学び、聖母の取り次ぎを求めてともに祈ることができるようになったことは、大変喜ばしいことだと思います。

みなさん、聖母とともに、ともに祈りを捧げるために、この秋田の地まで、良くおいでくださいました。

今年はさらに、夏の大雨もあり、秋田市内では聖霊高校なども洪水の被害に遭い、聖体奉仕会の近くでは土砂崩れも起こりました。大きな災害に見舞われ、まだまだ普段の生活を取り戻すには時間がかかる状況の中、今年の秋田の聖母の日を、予定通りに開催するために奔走してくださった聖体奉仕会のみなさんと協力者のみなさんに、心から感謝申し上げます。

先の見通せない不安の暗闇ということを考えるとき、聖母マリアご自身が、まさしくそういった不安に囲まれて人生を歩まれたことを思い起こさざるを得ません。

ルカ福音には、シメオンがマリアに語った言葉が記されていました。シメオンはその中で、幼子イエスについて、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と宣言します。天使のお告げを受け、救い主の母となることを知らされ、その驚きの告知を謙遜の心で、「お言葉通り、この身になりますように」と受け入れたマリアは、あらためてシメオンの口を通じて、まさしくその幼子こそが神の救いそのものであることを告知されます。この知らせに対するマリアとヨセフの素直な驚きを、「幼子について言われたことに驚いていた」と福音は記しています。

そしてマリアに対してシメオンは、その驚きにさらに追い打ちをかけるように、イエスの将来について「反対を受けるしるしと定められています」と驚きの事実を告げ、加えて「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と、マリア自身も苦しみの道を歩むことになる事実が告げられます。

この驚くべき告知の連続は、それこそマリアにとって、先行きの見えない大きな不安の闇となって襲いかかったことでしょう。しかしそれに立ち向かわれたマリアは聖母となりました。

聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

そこには、先行きが見えない不安による疑心暗鬼の闇に引きずり込まれる誘惑もあったことでしょう。イエスの弟子たちがそうであったように、苦しみの道を否定しようとする誘惑もあったことでしょう。そのようなことはあり得ませんと、反論したくなる誘惑もあったことでしょう。

それらはまさしく、イエスご自身がペトロを叱責された、「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉に明らかなように、神の計画を無にしようとする悪の誘惑です。

聖母マリアは、しかしその誘惑と不安に立ち向かわれました。神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる方々との連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。

今日の福音は、聖母がその苦しみの道を一人孤独に歩んでいたのではないことを明確にします。そこにはシメオンのように、神の計画を知り、その神の計画に身を委ねるようにと励ます具体的な存在がありました。そしてもちろん天使のお告げの言葉、すなわち「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」、そして「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」というお告げの言葉における約束は、聖母にとって、救い主ご自身が常に道をともに歩んでくださるという確信を与えました。神のみ旨を識別しながら、ともに歩む信仰の道。まさしくいま教会が歩んでいるシノドスの道を最初に歩まれたのは、聖母マリアであります。

わたしたちが、感染症などの困難に直面し、怖じ気づき、疑心暗鬼の心が自己保身に走らせ、利己的な心は他者の必要に目をつぶらせ、心を安定させるために異質な存在を排除しようとするとき、聖母の生きる姿を思い起こさないわけにはいきません。わたしたちの信仰は、神の計画に信頼し、互いに助け合い、ともに歩んでくださる主に信頼しながら謙遜に身を委ねる信仰です。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりで、聖母マリアについて語っています。教皇は、「マリアは、福音を述べ伝える教会の母です」と記しています。

教皇は聖母の生きる姿勢を、「常に気をくばる友」、「あらゆる苦しみを理解される方」、「正義を生み出すまで産みの苦しみを味わうすべての民の希望のしるし」、「人に手を貸すために自分の村から急いで出かける方」などと記して、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と述べておられます。

この混乱の時代、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

この先行きの読めない不安な時代に、そして連帯と助け合いが必要なこの時代に、あたかもそれに逆らうかのように、尊い賜物であるいのちをないがしろにするように、例えばウクライナでは戦争が続いています。世界各地で、いのちを危機に直面させるような状況が続いています。

神の母である聖母マリアは、信仰に生きるわたしたちすべての母でもあります。聖母は、いのちをないがしろにすることやいのちに対する攻撃をすることではなく、その尊厳を守り、育み、始まりから終わりまで徹底的にいのちを守り、神のみ旨に生き続けることの重要さをその姿で示しています。この困難な時代に生きているからこそ、聖母の生きる姿勢に倣い、神の計画に身を委ね、ともに歩んでくださる主に信頼し、神のみ旨の実現のために尽くして参りましょう。

 

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2023年9月12日 (火)

セバスチャン西川哲彌師葬儀ミサ@東京カテドラル

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東京教区司祭セバスチャン西川哲彌神父様は、9月8日、聖マリアの誕生の祝日の早朝に帰天され、本日9月12日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、葬儀ミサを執り行いました。西川神父様の永遠の安息のために、お祈りくださったみなさん、ありがとうございます。

西川神父様は、ご存じの方は多いと思いますが、なかなかユニークな方で、面倒見が良く優しい反面、時には厳しく叱りつけることもありました。その評価は、それぞれの体験によって様々に分かれるところですが、以下の説教でも触れたように、病人訪問に足繁く通うなど、困難と孤独のうちにある人に徹底的に寄り添う方でもありました。

わたし自身はカリタスジャパンの委員会を通じて、司祭時代に知り合いましたが、その後、新潟の司教になってからは、西川神父様がしばしば秋田の聖体奉仕会を訪れマリア様に祈って行かれたことを存じ上げていました。祈るだけでなく、得意の大工仕事を披露されたり、様々なものを寄付して行かれました。

さらに東京の大司教になってからは、しばらく関口で一緒に生活をしていましたが、わたしが関口教会でミサをしたときには、必ず説教を褒めてくださる。褒めて育ててくださる方でありました。

1年半ほど前、司祭館で階段からの転落事故で一命を取り留めたものの意識が回復せず、1年半にわたる闘病生活の後に、帰天されました。

以下、葬儀ミサの説教原稿です。

セバスチャン西川哲彌師葬儀ミサ
2023年9月12日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

西川神父様、人生の最後の最後に、苦しみのうちにじっと耐え忍び、よく頑張りました。御父の元で、すべての苦しみから解き放たれて、愛といつくしみの光に包まれて、休まれますように。

2022年2月26日の早朝、清瀬教会の朝ミサに出てこられないことから、司祭館を訪ねた信徒の方によって、倒れているのを発見されました。朝、新聞を取りに行った帰りに、階段で転落したものとみられます。即座に病院に運ばれ、手術を受け一命は取り留めたものの、意識は戻りませんでした。その後、ベトレヘムの園病院に転院され、シスター方を始め医療スタッフの手厚い看護の中、一時は意識が戻るのではないかという期待もありましたが、それもかなわず、9月8日、聖マリアの誕生の祝日の早朝、80歳の人生を終えられました。

感染症の状況の中、病院では面会もままならず、わたしも7月11日に、許可をいただき、15分だけ面会し、病者の塗油を授けることができました。手を握ると、確かに目が動いて、誰かが来ているとわかっているのではないかと感じました。しかし残念ながら最後の日まで意識は回復することなく、1年半に及ぶ闘病の末、御父の元へ旅立って行かれました。西川神父様。本当によく頑張りました。

司祭は叙階式の時に、司教からいくつかの質問を受けます。「福音をのべ伝え、カトリックの信仰を表すことによって、神のことばに奉仕する務めを誠実に果たしますか」と問われて、「はい、果たします」と力強く応えます。また、「教会共同体の助けのもとに、貧しい人、苦しむ人、助けを必要とするすべての人に、主の名において、神のいつくしみを示しますか」と問われて、「はい、示します」と約束いたします。

1976年11月3日に、このカテドラルで司祭叙階を受けた西川哲彌神父様も、その日同じように力強く約束されたことだと思います。そしてそれから50年近くにわたる西川神父様の司祭人生は、まさしくその約束を具体的に生きる人生であったと思います。

今日、西川神父様とのお別れのためにお集まりの皆様は、わたし以上にたくさんの思い出をお持ちだと思います。司祭に叙階された後に、高円寺教会の助任にはじまり、清瀬教会に至るまで、10近い小教区で司牧にあたられましたので、そこで、その「とき」に出会い、時間をともにし、様々な交わりのあった方々は大勢おられることと思います。限りなく優しく、思いやりにあふれる司祭である反面、時に厳しく叱りつけることなどもありましたから、その思いではそれぞれユニークでバラエティに富んでいることと思います。

わたし自身は司教になる前、もう20数年以上前にカリタスジャパンの援助秘書をしていた時代、東京教区のカリタス担当者であった西川神父様と、会議の席で初めてお会いしました。独特の雰囲気に圧倒されましたが、その頃からよく声をかけていただくようになりました。

東京に来てからは、西川神父様は関口の主任でしたので、毎日の朝食にはじまって、生活を一緒にする機会がありました。様々な思い出がある中で、心に残っていることは、説教を必ず褒めてくださったことと、どんな遠くであっても、病人を訪問することを大切にされていたことでありました。時に、車に乗って何時間もかかる遠方まで、病人訪問に出かけておいででした。

マタイの福音にある、あの羊と山羊を分ける話の、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。・・・わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主の言葉にあるように、人生を終えて、主の御前に立つ西川神父様に、主御自身がその労をねぎらっておられることだと確信します。

司祭としての人生の中で、西川神父様は、困難に直面する人たち、孤独にある人たちのもとを訪ね、そこで主御自身と出会った来られてのだと思います。

わたしたちは信じています。イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠のいのちに招かれる救い主です。わたしたちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。イエスをキリストと信じるわたしたちには、すべての人がその救いに与ることができるように、神の愛といつくしみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命があります。そのために、わたしたち自身の言葉と行いを持って、主との出会いの機会を生み出していかなくてはなりません。

2019年11月に東京で、東北の大震災の被災者とお会いになった教皇様は、「町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と、人と人との交わりの重要性を強調されました。

暗闇に輝く希望の光は、互いに助け合う人との出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。しかし残念ながら、実際の世界ではその連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、この歴史に残る困難の中で、暴力がいのちを危機にさらしています。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。わたしたちには互いに助け合うものとして、多くの人との出会いが必要です。その出会いの中での支え合いが必要です。西川神父様は、司祭としての人生を歩みながら、その人と人との出会いの機会を生み出し続けてこられました。それを通じて、多くの人が、主イエスご自身と出会う機会を生み出してこられました。

2013年11月の教区ニュースでのインタビューに、西川神父様のこういう言葉が記されていました。
 「司祭叙階までの歩みを振り返ると、ダメな自分ばかりです。ダメな自分の根は、意固地さだったり、コンプレックスだったり、照れ隠しだったりするわけです。自分自身だけを見るとどうしようもない存在です。しかし、そんな自分がイエスを背負っている、自分の背中にイエスがいる、背中にいるイエスがダメな自分を生かしてくれるという、叙階の秘跡の持つ偉大な神秘を噛みしめました」

西川神父様は、毎日、その背中にいつくしみそのものであるイエスを背負って生き続けてこられました。いま御父の御許で、その背中におられるイエスが、西川神父様を後ろから抱きかかえ、すべての苦しみから解き放ってくださっていると、信じます。西川神父様が永遠の安息に与ることができますように。

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2023年9月 9日 (土)

週刊大司教第141回:年間第23主日

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年間第23主日となりました。この数日、台風の影響を大きく受けた地域があります。東京教区でも千葉県内で大雨が降り、教会がある地域でも大きな影響があった模様です。今の段階では、教会自体の被害の報告はありませんが、今回の台風に伴う大雨で被害を受けられた皆様にお見舞い申し上げます。

東京教区では、先週の森司教様に続いて、9月8日の早朝にセバスチャン西川哲彌神父様が、80歳で帰天されました。1年半ほど前、清瀬教会の主任をされていたときに階段から転落されて、その後、入院生活を送っておられました。葬儀ミサは9月12日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行います。西川神父様の永遠の安息をお祈りください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第141回、年間第23主日のメッセージ原稿です。

年間第23主日A
週刊大司教第141回
2023年9月10日

わたしたちは、人生の旅路の中で、決して一人で置き去りにされることはありません。わたしたちは、「世の終わりまでともにいる」と約束された主が、常に歩みをともにしてくださると信じています。

その主は、わたしたちを共同体へとつないでくださいました。実際に手をつないで歩んでいるわけではなく、実際の人生の旅路では、物理的に一人で歩みを進めることもあるでしょう。しかしわたしたちは、主の名の下に集められた共同体に、信仰の絆で常につながっています。

この3年間のコロナ禍の間、感染対策のために離ればなれにならざるを得ない事態が続いていたとき、わたしたちは普及したインターネットによって、互いにつながっているという感覚を持つことができました。わたしたちの信仰の絆は、インターネットの絆以上の存在です。その絆は、神の与えた掟によって結び合わされているからです。パウロはローマ人の手紙に、「どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます」と記しています。その相互の愛の絆によって、わたしたちは物理的に離れていてもつながっており、世界中の兄弟姉妹とともに、一つの共同体を作り上げています。

主の名によって集められたその共同体には、主御自身が常に存在されます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。

この主御自身の存在によって結び合わされたわたしたちは、感謝の祭儀に与ることで、朗読される御言葉のうちに現存される主と出会い、ご聖体の秘跡のうちに現存される主をいただきます。

わたしたちを結び合わせる掟の中心にある「隣人愛」とは一体何なのでしょうか。「自分のように愛する」」とは一体どういうことでしょう。それはただひたするに優しくすることでもなければ、自分の思いを押しつけることでもありません。それは、自分自身が生きて行くことを肯定しているのと同じように、交わる他者がいのちを生きていくことを肯定する態度であります。生きるための希望は、互いに支え合う交わりの絆を確認するところから生み出されます。すなわち連帯こそが、生きる希望を生み出します。そこに隣人愛の根本があります。

常にともにいてくださる主イエスこそ、わたしたちがいのちを生きようとする思いを肯定し、支えてくださる方です。わたしたちがいのちを豊かに生きる希望を生み出すことができるようにと、道をともに歩まれる方です。その愛をわたしたちは心にいただき、主と一致しながら、さらに愛の絆を多くの人へと広げて参りましょう。

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