2020年11月21日 (土)

週刊大司教第三回:王であるキリスト

年間最後の主日となりました。王であるキリストの主日です。

この数日、東京都では新型コロナ感染症の検査陽性者が500名を超えることが続いており、週明けにはさらに増加することも懸念されています。また重症となられた方も30名を超えることが続いております。統計を見ますと、やはり高齢の方に重篤化する方が多いようです。東京大司教区にあっては、主日のミサに与る義務は引き続き免除されておりますので、健康に不安のある方はご自宅でお祈りください。

私のメッセージを提供しております「週刊大司教」はミサではありませんが、その主日の福音を朗読し、説教を聞いていただき、主の祈りを一緒に唱えます。ミサに参加することが出来ない場合には、このビデオをご利用いただいて、霊的聖体拝領の一助としていただくことも出来ます。

映像の停止などを自由に出来る方は、例えば、冒頭の集会祈願後に映像を一時停止し、第一朗読と第二朗読をご自分で聖書と典礼などから朗読され、その後映像を再開して福音朗読を聞き、私のメッセージ後の主の祈りが終わったら、再び映像を一時停止して、例えば下記のような祈りを唱えて、霊的聖体拝領とすることも出来ます。しばらくの沈黙の後に、あらためて映像を再開し、祝福とするような方法でご活用いただければと思います。

『聖なる父よ、あなたが私の心に住まわせられた聖なるみ名のゆえに、また、御子イエスによって示された知識と信仰と不滅のゆえに、あなたに感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。

全能の神よ、あなたはみ名のためにすべてをつくり、また人々があなたに感謝するため、御子によって霊的な食べ物と永遠のいのちを与えられました。力あるあなたに何にもまして感謝します。

とこしえにあなたに栄光がありますように。アーメン」(カルメル会『祈りの友』より)

または、次の聖アルフォンソ・リゴリの祈り。ほかにもたくさんの祈りがあります。

わたしのイエスよ、
最も祝福された秘跡のうちに、あなたがおられることを信じています。
わたしはあなたを何よりも愛し、わたしの魂にお迎えしたいと望んでいます。
いまは秘跡によってあなたを受けることができませんから、せめて霊的にわたしの心に来て下さい。
わたしはすでにあなたがわたしの心におられるようにあなたを抱きしめ、わたしのすべてをあなたと結びつけます。
わたしがあなたから離れることを、おゆるしにならないでください。アーメン。

また聖体拝領などについて、2月27日に記した「司教の日記」(こちらのリンクです)もご一読ください。

以下、本日配信の週刊大司教第三回のメッセージ原稿です。

王であるキリスト(メッセージビデオ)
2020年11月22日

典礼の暦がまた新たな一年を始めようとしています。王であるキリストの主日は、典礼の暦では年間の最後の主日です。2020年は、時間が本当にあっという間に過ぎ去っていきました。一年前、わたしたちは教皇フランシスコが日本に滞在されているただ中で、王であるキリストの主日を祝いました。

あのとき、教皇訪日という高揚した気持ちのなかにあったわたしたちは、これから何か新しいことが始まるのではないかという、漠然としてはいたものの、前向きの興奮に捕らえられていたように思います。それが年が明けるとすぐにコロナ禍が世界を襲いました。今度は、いのちが危機にさらされるのではないかという、やはり漠然としてはいたものの、後ろ向きな興奮の中で、この一年を過ごしてきました。残念ながら、その後ろ向きの状態から抜け出す道筋は不確かです。

この一年、特に病床にあった方々のためにあらためて祈ります。また献身的にいのちを守るために取り組まれている医療関係者の皆様に、あらためて感謝申し上げます。

感染症のもたらす困難といのちの危機に直面して、わたしたちは再び、人間の知恵と知識、そして科学や技術の力は、世界の中では本当に小さく弱いものであることを思い知らされています。世界を支配するのはその創造主である全能の神であることを、あらためて心で感じ取っています。わたしたちは、創造主である神にいのちをいただき、生かされている者です。ですから、この世で賜物であるいのちを生きる上で、世界を支配する王であるキリストがわたしたちに求める生き方に、あらためて目を向け、それを自らの生き方としたいと思います。

教皇フランシスコは先週の日曜日を、貧しい人のための世界祈願日と定め、シラ書七章三十二節からとった「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」と言う言葉をテーマにしたメッセージを発表されています。その中で教皇はこう指摘されています。

「弱い立場に置かれている人を支え、傷ついた人をいやし、苦しみを和らげ、尊厳を奪われた人にそれを取り戻す、そうした寛大さは、人間らしく充実した人生に欠かせない条件です。貧しい人とその多種多様なニーズに目を向けるという選択は、時間の有無や個人の損得、あるいは血の通わない司牧や形だけの社会的事業には左右されません。自分をいつも優先する自己陶酔的な傾きによって、神の恵みの力を抑えつけることはできないのです」

教皇フランシスコは、教会はいつくしみを提供する最前線の野戦病院であれと繰り返し述べられ、貧しい人、弱い立場に置かれた人たちへの心配りが教会にとっての重要な使命であると常日頃から指摘されています。

まさしく福音にあるとおり、「私の兄弟であるこのもっとも小さな者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言う主イエスの言葉を、常に心に刻み、それに忠実に生きようとする姿勢であります。

教皇は、「自分を優先する自己陶酔的な傾き」が、神のいつくしみが豊かに働こうとするのを妨げるのだと指摘されています。その上で教皇は、「祈りに費やす時間は、困窮する隣人をなおざりにする言い訳には決してなりえません。正しくはその逆です。貧しい人への奉仕が伴って初めて、わたしたちに主の恵みが注がれ、祈りが聞き入れられるのです」とまで言われます。

わたしたちはこの世界において、神の豊かなあわれみが力強く働こうとする時に、その道具としてあわれみといつくしみを具体化する者とならなければなりません。わたしたちの世界を支配するのは、悪の力ではなく、いつくしみそのものである神の御ことば、主イエス・キリストです。

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2020年11月20日 (金)

吉祥寺教会で堅信式

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11月15日の日曜日に、吉祥寺教会で29名の方の堅信式と、3名の方の初聖体ミサを捧げました。

新型コロナの感染が継続する中、バチカンからは様々な指示が送付されてきておりますが、堅信の秘跡の授け方についても、過日、典礼秘跡省から指示がありました。今回のコロナ禍という緊急事態にあって、個々の堅信を授ける際に、直接頭に按手することが秘跡の要件として不可欠かどうかと言う問いに対して、典礼秘跡省は、塗油前の按手の祈り(聖霊の七つの賜物を願う祈り)において、司祭が手をさしのべることで十分であると回答。また塗油の際には、直接親指で聖香油を塗らなくても、たとえば綿棒などを用いても良いと指示がありました。(もちろん緊急事態下の特例です)

通常は按手の祈りでも手をさしのべますが(下の写真のように)、同時に、個別に塗油をする際に右手を頭に乗せて按手をするのですが、当分の間はその直接触れる按手を省略しています。また、聖香油の塗油も、さすがに綿棒というわけにも行かないので、脱脂綿に聖香油をしみこませ、一人ずつ塗油させて頂いています。

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参加者も限定され、聖歌も最小限となり、いつもとは異なる雰囲気の中でしたが、秘跡の力は変わりません。堅信を受けられた方々、初聖体を受けられた皆さん、本当におめでとうございます。

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なお当日は、神言会で先日叙階された篠崎エジルソン師が、まず堅信式ミサに共同司式され、その後に、ご自分の初ミサを捧げられました。篠崎神父様は、キューバに宣教師として派遣されることになっているそうです。(写真すぐ上)

ミサ後には、これまた先日、司祭叙階60年をお祝いされたばかりの後藤神父様を囲んで、吉祥寺教会の神言会員と昼食でお祝いして参りました。

なお堅信式のミサは、こちらのリンクからビデオを見ることができます

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以下、堅信式・初聖体ミサ説教です。当日は原稿なしでお話ししましたので、多少の繰り返しや逸脱がありますが、ご参考までに。

吉祥寺教会堅信式・初聖体ミサ

このところまた毎日のように報道されていることですが、PCR検査で陽性者の方の数が増えています。これから寒くなっていくので感染が拡大するだろうと専門家の方々は仰っていますし、クリスマスと年末年始がやってくる中で、教会の活動はどうなっていくのかという大きな不安を抱えながら、私たちは今、信仰生活を歩んでいます。

今日堅信を受けられる方々もそうでしたが、今年は聖週間、そして復活祭を祝うこともできませんでした。ご復活に洗礼を受ける為に準備されていた方々はじめ、いまだに洗礼を受けることができない方々が沢山存在しています。堅信式も、教区が聖霊降臨の日の合同堅信式を中止にせざるをえませんでしたので、多くの方が堅信の秘跡を待ち望んでいるという状況でもあると思います。

そういう中で私たちは今、「教会っていったいなんなんだろう・教会とはいったいどういう存在なんだろう」という、私たち自身のアイデンティティに関わる問題を目の前に抱えています。

感染を避ける為に自分が病気にならないだけでなくて、他の人を病気にしない・感染させないという双方向の責任があり、自分さえ良ければということではなくて、他の人の命を守るという、積極的な意味合いをもって感染対策をしていかなくてはなりません。感染対策としては真っ先に「密集、密接、密閉の三つの密を避けましょう」と言われていています。またそのために、「社会的距離を保ちましょう」というわけですけれども、教会というのは残念なことに、毎週日曜日に集まる度に、小さなこの建物の中に多くの人が集まって「密集、密接、密閉」の状況でお祈りします。しかもその中で一緒に歌を歌ったりするのですから、まさしく、「避けなければならない」といわれていることをすべて行うのが、教会の活動であるわけです。

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いつも通りの教会活動ができない。一緒にお祈りができない。一緒に歌えない。様々な活動、例えば教会の日曜学校や聖書研究会、祈りの会など、人が集まる事自体が非常に難しくなっています。

「では教会っていったい何なんだろう?」
これまでであれば、日曜日に教会に時間通りに出かけていってミサに与ることで、「ああ、私は教会の一員なんだ。普遍教会のメンバーなんだ、共同体の一員なんだ」ということを肌で感じることができたわけですけれども、それが出来ない、またはそれが難しい。行きたいけれど行けないというような状況が続いている中で、じゃあ「教会共同体」とはいったい何なんだろうと。

集まることで、たしかに安心を得ることができますよね。一緒の仲間がそこにいて、一緒に祈って、一緒に聖体拝領に与って、一緒に御言葉に耳を傾けたり。。。そうした事が、私達に教会共同体の安心感を与えてくれるわけですけれど、残念ながらそれができない中で、「じゃあ私たちの教会はいったい何なんだろう?」それを本当に考えさせられる。

「私たちの共同体っていったいどうやって存在しているのだろう?」
同じ所に住んでいるわけでもない、同じ地域に固まってみんなで住んでいるわけでもない。同じ場所で同じ仕事をしているわけでもない、全然違う所でまったく違う生活をしている人たちが、集まることすらできない中で「私たちは共同体です。教会共同体です」と言うことに、いったいどういう意味があるんだろうかと、それが出来ない状況下で、いやおうなく考えさせられています。

すぐにこれが回答ですというモデルは出てこないのですが、考えるヒントは第二バチカン公会議です。教会っていったい何なんだろうかと考えた時に、教会憲章の中には、教会というのは二つの実体があるんだと記されています。この地上における組織としての教会と、天上と繋がっている霊的な共同体、この目に見える物理的な存在と、霊的な存在という、2つの側面が教会にはある。そしてその二つはそれぞれ独立して別々に存在しているわけではなく、一緒になって、混じり合って一つの実体として存在しているのが教会なんだと、教会憲章に記されている。それを読むにつけ「教会って物理的な側面だけではなくて、霊的な側面、霊的な繋がりの側面というのがとても大切なんだ」ということを、私たちは今年、あらためて思い起こさせられているのですね。

今までは、物理的な側面が強調されてきた嫌いがある。しかし、霊的な側面、霊的な繋がりの重要さ、私たちには教会の霊的な繋がりがあるんだということを、今年思い起こさせられています。

「霊的な繋がりを充実させましょう」と簡単に言うけれど、実際に具体化させるのはとても難しいです。例えば同じ祈りをしているんだ。例えばロザリオの祈りをしているんだ。時は違えど、場所は違えど、同じ祈りで繋がれているんだ。または聖書の言葉、聖書に記された神の御言葉。日曜日の朗読の箇所は「聖書と典礼」に載っていますし、今はインターネットの時代ですから、インターネットを通じて今日の朗読をすぐに知る事ができますが、この神の御言葉を共有している。今日この神の御言葉を、時は違えど、場所は違えど共有しているんだ。同じ神の御言葉で私たちは繋がっているんだという、この思いがとても大切だと思います。

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東京教区で3月1日の主日から10月31日までカテドラルからミサの中継をしていましたよね。
いろいろ事情があって、この間の10月31日で一旦終わりにしたわけですけれども、それ以外でもイグナチオ教会やいろいろな所でミサの中継が継続されています。実はミサの中継を観るということも一つの霊的な絆を強めていく為の手段ですよね。残念ながらカトリック教会としては、オンラインだけでは、実際に典礼に参加したことにはなりません。ご聖体拝領もできませんし、オンラインではミサに参加するという勤めを果たしたことにならないわけですが、それでもあのオンライのミサを観ることによって、霊的な繋がり、この祈りによって、この霊的聖体拝領を通じて、私たちは結びあわされているんだという思いを、強めることはとても重要だと思います。

そして、今日堅信の秘跡をを受けられる方々、初聖体を受けられる方々。
私たちは綿々とイエスキリストの時代から、この聖霊による堅信、聖霊による祝福、聖霊による導き、それによって教会がずーっと導かれている、その聖霊を受けることによって、私たちは綿々と繋がっている霊的な共同体の一員となるのだと実感します。同じ聖霊の恵を受けて、同じ聖霊の祝福を受けて、同じ聖霊の守りを頂いて、私たちは霊的な兄弟姉妹として今結び合わされている。それも今、この場所だけではなくて、世界に広がる普遍の教会、そしてそれはイエス様の時代から始まって今に至る、綿々と連なる聖なる普遍の教会の中で私たちは繋がれているんだということを、改めて感じさせられています。

ご聖体を今日初めて受ける、これによって最後の晩餐でイエスご自身が、「これを私の記念として行いなさい」と残されていったあの記念、あのイエスの御体と御血を頂くことによって私たちは、あのイエスの最後の晩餐から今に至るまで、綿々と続いているこの信仰共同体の絆の中にあって、主と繋ぎあわされている。霊的な絆の内に私たちは一つの共同体として生かされているんだということを、堅信と初聖体を通じて、改めて感じさせられます。

「私が聖霊を受けた、私ががご聖体を受けた」、そういった私だけの喜びではなく、それは世界に広がる普遍教会の絆の内に、そして天上の聖人たちとともに、天上におられる人々とともに、すべて繋がっている普遍の教会の共同体の絆のうちに私が加えられたという、堅信や聖体の秘跡に与ること、それは「私」だけの喜びではなくて、教会の喜びなんです。

洗礼を受けて、堅信の秘跡を受けて、御聖体の秘跡を受けることによって、それぞれ綿々と伝えられてきたこの信仰共同体の絆の中に、あらたに生かされる。この絆の内に繋がれる兄弟姉妹にとって、普遍教会全体にとっての大きな喜びが、今日のこの堅信の日、初聖体のミサであると思います。

秘跡を受けられるお一人お一人の上に、神様の豊かな祝福と聖霊の導きがあるよう、心からお祈り致します。

 

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2020年11月18日 (水)

教区災害対応チームによるオンラインパネルディスカッションが開催

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東京大司教区には、まだまだ始まったばかりですが、災害対応チームが存在しています。東日本大震災を教訓に、これから起きるであろう災害に備えておくためでもあり、またカリタスジャパンが作成した災害対応マニュアルを実施するためでもありますが、なにぶん初めての挑戦なので、試行錯誤が続いています。

その中で、今回の新型コロナ感染症の拡大は、自然災害にも匹敵する影響を社会に及ぼし、また教会もその影響を大きく受けていることから、災害対応チームの視点からどういった対応が可能であるのか、模索してきました。

その一つが、教区ホームページにも掲載している「コロナ対応支援プラットフォーム」と名付けたブログの開設です。詳しくはこちらのリンクからご覧いただき、その上で、このブログを参照していただければと思います(コロナ対応支援プラットフォームはこちらのアドレスです。 http://catholictad.jugem.jp/

それ以外にも、Facebookにおいて、こちらのリンクで発信をしていますので参照ください。

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この災害対応チームでは、教会活動がコロナ禍のために困難を極める中で、さまざまな取り組みを、特にオンラインで行っている事例を紹介しようと、去る11月14日午後1時半から、オンラインでパネルディスカッションを開催しました。

当日は、教区内で次の方々にパネラーとしてご報告をいただ来ました。

A: カトリック西千葉・千葉寺教会
「リモート聖書講座・主日の福音」 
福島 一基 神父(西千葉教会・千葉寺教会主任司祭) 田中 修さん(講座受講者 千葉寺教会信徒)

B: ドン・ボスコ オラトリオ
「日本語講座にみるベトナム人技能実習生の今」
田村 宣行 神父(サレジオ会) 春山 ミカエル ラップ 神父(サレジオ会)

C: カトリック梅田教会 教会学校 「継続が一番」
藤本 陽子さん(教会学校リーダー) ラメイ アレックさん(教会学校リーダー)

D: カトリック調布教会 教会学校
「これからの教会学校の在り方を見つめて」
荒川 讓二さん(教会学校アニメーター サレジオ会哲学生) 木下 敏孝さん(調布教会教会委員長)
古川 晴麻さん(教会学校生徒)古川 美帆子さん(教会学校保護者)

参加して報告くださった皆さんありがとうございました。このパネルディスカッションの様子は録画してありますので、東京教区のホームページから是非ともご覧ください。録画を見ることの出来るリンクはこちらです。また今後もこのようなオンラインパネルディスカッションを開催して、「困難なときにこそ新たな取り組みを」めざして、体験を共有し、教区全体で生かしていくことが出来ればと思います。

以下、当日のパネルディスカッション冒頭での、私のメッセージです。

本日は多くの方に、オンラインパネルディスカッションに参加していただき、ありがとうございます。

カトリック東京大司教区の災害対応チームとしては、新型コロナ感染症は、地震などの災害と変わらない大きな影響を社会に及ぼしていると認識し、感染症が認知された当初から、教会としてどのような対応が出来るのかを模索してきました。

感染症の拡大は社会全体に大きな影響を及ぼしていますが、教会にもおなじように大きな影響を及ぼしています。社会全体もそうですが、教会も、いのちの危機に直面して、どこに向かえば光が見えるのか分からずに、暗闇の中で彷徨っているような感覚です。

とりわけ教会は大きな影響を受けています。なんといっても、新型コロナ感染症から身を守るために、密集、密閉、密接といった三つの密を避けることが提唱されていますが、教会はまさしくミサを捧げるためにこの三つの密に満ちあふれているところだからです。たくさんの人が狭い場所に集まって、みんなで聖歌を大きな声で歌ったりするのですから、教会は三つの密と共にあると言っても過言ではありません。それが出来ないとなると、とたんに教会はアイデンティティの危機に直面しました。特にカトリック教会は、集まって聖体祭儀に与り、御聖体を拝領することが重要なのですから、それに困難を感じている今、教会は、いったい自分たちはどうあるべきか、大きな悩みを抱えてしまっています。

残念ながら、この危機的状況は、すぐには解決しそうにありません。それなりに感染対策には心を配るようになりましたが、それでも以前のような活動に戻ることは当分難しいと思います。

そんな中で、単に失ったものをどう補充するかという視点だけではなく、与えられている使命、すなわち福音を、「時が良くても悪くも」伝えていく使命から、わたしたちキリスト者は逃れることは出来ません。この困難な中で、どうやったら積極的に福音を伝えていくことが出来るのか。

そこに21世紀の今、わたしたちにはインターネットという道具があります。それを使って教会は何が出来るのか。それも失ったものを補填する補助的な活動ではなくて、積極的にどう打って出るのか。

その道を探るために、今回のオンラインパネルディスカッションを企画しました。東京大司教区の災害対応チームとしては初めての試みです。

「コロナ禍の今、教会(わたしたち)のミッション」。

コロナ禍の今でも、今だからこそできるミッションが、私たちにはあるのではないでしょうか。
実際の取り組みに耳を傾け、新たな道を一緒に模索していきたいと思います。

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報告者は、それぞれの場所からZoomを使って報告をしていただきました。教区本部の司教執務室を配信の拠点として、担当司祭の豊島神父をはじめ私を含めて5名で、役割を分担し、同時配信いたしました。途中、報告が途切れるといったトラブルもありましたが、司会を担当した教区広報の赤井さんが名司会で切り抜けました。

今後もこういった企画を続けますので、是非教区の中で挑戦していることを分かち合いたい小教区や団体は、教区本部までご連絡区ださい。

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2020年11月14日 (土)

週刊大司教第二回:年間第33主日

年間第33主日の福音に基づいた、週刊大司教の2回目をアップロードしました。Youtubeのカトリック東京大司教区のチャンネルからご覧いただくか、東京大司教区のホームページからご覧ください。(一応この記事の下にも貼っておきます)

東京都が毎日午後3時に発表する新型コロナ感染症の検査陽性者数は、このところ高い数字を示しています。本日14日には、検査陽性の方が352人、また本日現在の重症者は41名と発表されました。昨日13日は、検査陽性の方が374人、昨日現在の重症者が39人、さらに一昨日12日は検査陽性者が393人で、一昨日現在の重症者は39人です。数字に一喜一憂しないと心掛けているものの、感染が拡大傾向にあるのは間違いありません。

東京教区では6月末頃から教会活動を再開させ、ミサの公開も限定条件を付けながら進めてきました。今現在は、クリスマスから年末年始へ向けてどのような対応をするかが話題となっています。確かに、当初に比べれば感染対策になれてきた面もあり、手指の消毒、マスクの着用、充分な距離、聖歌を一緒に歌わないことなどなど、対策は定着しています。

同時に、現在の状況を見るに、安心して「普通」の方向へ大きく舵を切ることが出来るような状況では決してありません、先日もお話ししましたが、慣れてしまって危機意識を失うことは避けたいと思います。なんとなく安全だと思い込んでしまいますが、これから寒くなる時期、専門家の警告もありますから、今一度気を引き締めておきたいと思います。

なお、主任司祭には8月1日付ですでに指示をしてありますが、教区内の小教区でクラスターが発生した場合には、一旦、教区のすべての活動を停止にして、全体の感染対策を見直しを行うことになります。従って、この先でも、現在のステージ3の対応を厳しくしたり、それ以前の公開ミサの中止などを含むステージ4に戻る可能性も充分にあることを、常に心にとめていただけると幸いです。(なお東京大司教区は、カトリック医師会東京支部に所属する信徒のドクターから助言を頂いています)

また、東京教区から原案を提出して、カトリック医師会などのご意見をいただいて修正した、11月1日付の司教協議会策定の全国的な対応マニュアルは、中央協議会のホームページに掲載されています。

以下、本日公開した週刊大司教の、メッセージ原稿です。

年間第33主日Aメッセージビデオ 2020年11月15日

わたしたちは、この世界を創造主である神からお預かりしています。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、次のように記されています。
「わたしたちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません(67)」

教皇はわたしたちが思い上がりの中で神に取って代わったかのように、この世界を自由気ままに酷使している現実を、あたかも当然の権利であるかのように振る舞っていることを批判した上で、人間は世界を「耕し守る」よう定められているとして、次のように続けます。

「耕すは培うこと、鋤くこと、働きかけることを、守るは世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

すなわち、与えられた賜物であるいのちを生きているわたしたちは、そのいのちが生きる場として世界を与えられているものの、それは勝手気ままに支配して良いと言うことではなく、責任を持った保護者として耕し守り保存する務めがあることを、繰り返し指摘されています。

その上で教皇は、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と指摘し、「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られた者としての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」と指摘されます。

与えられた賜物は、自分自身が好き勝手に使って良いわけではなく、単に増やしたからそれでよしとされるわけでもなく、実は、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」という、この世界における人間の生を成り立たせている関係のなかで責任ある行動をとることによって、はじめて管理者としての務めを果たしたことになるというのです。

ですから福音において、五タラントン預かった者は、外へ出て行って商売をする、すなわち人間関係の中でそのたまものを活用することによって、良い管理者であることを褒められるのです。逆に、一タラントン預かった者は、それを地の中に隠しておくこと、すなわちだれとの関係をも拒否することで、管理者としての務めを果たしていないと非難されるのです。

今年の被造物を大切にする世界祈願日のメッセージに、教皇フランシスコは次のように記されていました。
「神は、大地とその住人が休息し、力を取り戻せるようにと、その英知をもって、安息日を設けてくださいました。しかし今日、わたしたちのライフスタイルは、地球に限界以上の無理をさせています。発展への飽くなき要求と、生産と消費の果てしない繰り返しが環境を疲弊させています」

その上で教皇は、「進行中のパンデミックは、何らかのかたちで、より簡素で持続可能なライフスタイルを取り戻すよう、わたしたちを促しています。この危機は、ある意味、新しい生き方を広げる機会を与えてくれました。地球を休ませると、どれだけ回復するかが分かりました。・・・余剰で破壊的な活動や意図に終止符を打ち、創造的な価値観、きずな、計画を生み出すために、この決定的な機会を有効に生かさなければなりません」

わたしたちは、まずいのちという最大のたまものを与えられました。そしてそのいのちが生きるためにこの世界を与えられ、管理するようにと託されました。わたしたちは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」の中で、この預けられたたまものを充分に生かし、責任ある行動をとることで、いつの日か、「忠実な良い僕だ」と主から言っていただくように、努めたいと思います。

 

 

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貧しい人のための世界祈願日・そして聖書週間

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11月15日の年間第33主日は、教皇様によって、「貧しい人のための世界祈願日」と定められています。今年で第4回目となります。今晩公開する週刊大司教では触れていませんが、次週、王であるキリストの主日の週刊大司教において、教皇様のメッセージに触れることにしています。

今年の祈願日にあたり、教皇様はメッセージを発表されています。タイトルは、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」というシラ書7章32節の言葉です。メッセージ全文はこちらのリンクからお読みいただけます。その冒頭の部分を引用します。

「古来の知恵はこのことばを、生活の中で従うべき聖なる規範として示しました。このことばは、今日、その重い内容すべてをもってこだまし、本質を見つめ、無関心という障壁を越えられるよう、わたしたちをも助けてくれます。貧困はつねにさまざまな顔をもっており、個々の状態に目を向けなければなりません。その顔一つひとつを通してわたしたちは、兄弟姉妹の中のもっとも小さい者の中にご自分がおられることを明らかにされたかた(マタイ25・40参照)、主イエスと出会うことができます。」

教皇様は、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」という聖書のことばを何度も繰り返しながら、現在の世界の現実を指摘しながら、悔い改めを呼びかけておられます。そこにはこういう一節もあります。

「「貧しい人に手を差し伸べよ」。このことばは、ポケットに手を入れたまま、貧困に心を揺さぶられることのない人の姿をかえって際立たせます。彼ら自身も往々にして、貧困を生じさせることに加担しています。そうした人々は、無関心と冷笑主義を日々の糧としています。」

そして教皇様は、このメッセージを、聖母への祈りで締めくくります。メッセージの終わりにこう記されています。

「だれよりも貧しい人の母でおられる神の母が、貧しい人と日々出会いながら歩むこの旅に寄り添ってくださいますように。おとめマリアは、社会の片隅に追いやられた人の困難と苦しみをよくご存じです。ご自身も馬小屋で御子を産んだからです。そして、ヘロデ王による迫害から、夫のヨセフと幼子イエスとともに他国に逃れることになりました。聖家族は数年の間、難民として暮らしたのです。貧しい人の母であるマリアへの祈りにより、マリアの愛する子らと、キリストの名においてその子らに仕える人とが一つに結ばれますように。そして、差し伸べられる手が、分かち合いと、取り戻された兄弟愛による抱擁へと姿を変えますように。」

貧しい人のための世界祈願日は、いつくしみの特別聖年(2015年12月8日~2016年11月20日)の閉年にあたり公布された使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」において定められました。使徒的書簡はこちらのリンクからご覧いただけます。

さて11月15日から一週間は、聖書週間と定められています。カトリック中央協議会のホームページには、次のように解説されています。

「聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、全国的に聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されました。さらに、聖書委員会の発足と同時に委員による活発な啓蒙活動によって、日本のカトリック教会の中でも聖書への関心が高まってきました。その後、カトリック司教協議会による諸委員会の機構改革にともない、聖書委員会は1998年2月に解消されましたが、聖書週間は常任司教委員会によって引き継がれ、リーフレット「聖書に親しむ」とポスターの制作も継続されることとなり、今日に至っています。」

今年の聖書週間のテーマは、特にラウダート・シ特別年であることから、「あなたはたたえられますように」とされています。中央協のリンクはこちらです。

第二バチカン公会議の啓示憲章は、次のように記しています。

「福音が教会の中に絶え間なく完全にかつ生き生きと保たれるように、使徒たちは後継者として司教たちを残し、彼らに「自分たちの教導職を伝えた」のである。それゆえ、この聖伝と旧新約両聖書とは、地上を旅する教会が、顔と顔を合わせてありのままの神を見るときまで、すべてを与えてくださる神を見るための鏡のようなものなのである。(7)」

さらに次のように記して、聖書がカトリック教会における信仰にどれほど重要な意味を持っているかを指摘しています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである。教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである。(21)」

その上で、「教会のすべての宣教は、キリスト教そのものと同じように、聖書によって養われ導かれなければならない」と指摘します。

わたしたちの主イエスは、人となられた神のことばであります。それが「変わらないものとして伝え」られている聖書にあらためて親しむ機会、それがこの聖書週間です。カトリック教会独自の翻訳としてはフランシスコ会訳がありますし、また先日1972年から翻訳事業に携わってきた大阪教区の和田幹生神父様が、日本聖書協会から第31回聖書事業功労賞を受賞したことからも分かるように、長年にわたってカトリック教会は超教派の翻訳事業に関わってきました。現在はわたし自身が務めていますが、日本聖書協会の理事には司教が一名加わることを慣例としています。ご自身で、また研究会や祈りの集会などでは、フランシスコ会訳や聖書協会の翻訳(新共同訳や聖書協会共同訳など)を、自由に使ってくださって構いません。カトリック教会の典礼にどれを使うかは、翻訳用語の問題や、教会の祈りにも使われる詩編の翻訳など、乗り越えるべき課題がいくつもまりますが、徐々に前進するでしょう。現在は、ミサの典礼などでは、これまでの長年の経緯もあり、新共同訳を、一部許可を得て言葉を換えながら使用していることは、聖書と典礼などから明らかかと思います。

以下、今年の聖書週間にあたり、日本聖書協会がお願いしている献金の呼びかけに書かせていただいた私の文章です。

「神のことばは、信じる者すべてにとって救いのための神の力」です(啓示憲章17)。聖書に記された神からの語りかけが、わたしたちを生かす信仰の力の源となります。
30年以上前にアフリカのガーナの教会で働いていた頃、私が担当していた地域の部族の言葉による聖書は存在していませんでした。ミサの度ごとに、カテキスタが公用語である英語の聖書を手に、その場で「翻訳」をしていました。残念ながらそのすべての朗読が、ふさわしい翻訳であったとは言えず、伝わるはずの神の思いが充分に伝わらなかったこともしばしばでした。
聖書の翻訳は重要な使命です。そして数多ある言語への翻訳作業とその聖書の普及には、充分な資金が不可欠です。また異なる言語だけではなく、視覚に障害を持たれている方々にも、聖書に記された神のことばを信仰の力としていただきたい。その作業のためにも充分な資金が不可欠です。
聖書週間にあたり、ご自身がまず神のことばから信仰の力をいただくと同時に、未だ聖書を手にすることのできない多くの方々に思いを馳せ、祈りと献金をお願いいたします。

 

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2020年11月 9日 (月)

「週刊大司教」を始めました。

Shoseido

2月27日からの公開ミサ中止に合わせて、3月1日から主日ミサをインターネット配信しておりました。配信の機器をそろえ実際に毎回配信をしてくださったボランティアスタッフや、聖歌を歌ってくださったシスター方、非公開の時には、広い大聖堂でミサに参加してくださったシスター方。そのほか多くの方のかかわりと助力で成り立っていた配信でしたが、その分多くの方に負担をかけることになり、また教区の週末行事も再開されるところが出て、わたし自身のスケジュール調整が難しくなってきたこともあり、ひとたびお休みさせていただくことにいたしました。協力いただいた皆様に感謝します。

その代わりになるかどうか分かりませんが、土曜日の晩に、「週刊大司教」と題して、10分程度の短いビデオを配信することにしました。主日の福音朗読とそれに基づく短いメッセージで構成しています。感染状況の変化に応じて、配信ミサが再開される可能性もありますが、当分はこちらを継続していこうと思います。制作は教区本部広報担当です。撮影場所は、大司教館の小聖堂です。(写真)なおYoutubeのアカウントは、配信ミサは関口教会のアカウントですが、週刊大司教は東京教区のアカウントになっています。(Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントをチャンネル登録くださるか、東京大司教区のホームページにリンクを掲載してあります)

 

なお、主の降誕、12月24日と25日には、大司教司式ミサの配信が予定されています。詳細は追ってお知らせします。

以下、第一回目のメッセージ原稿です。

年間第32主日Aメッセージビデオ 2020年11月8日

感染症が拡大し始めた初期の頃、毎日報道される感染者数に、恐れをなしたり安心してみたりと、一喜一憂を繰り返していました。少しでも感染者数が前日を上回っていたり、亡くなられた方があったという報道に接する度に、自らのいのちの危機を肌で感じて対策に奔走したものです。

いわゆる第一波がある程度落ち着いた後、東京では再び毎日の検査での陽性者数が200人を超えることが続き、メディアでも、またその報道に接するわたしたちも、数字の発表を固唾をのんで待っているような状態でした。

現在でも、東京では毎日午後3時になると、検査で陽性となった方々の人数が公表され、同時に亡くなられた方や重症の方の人数も公表されています。残念ながら、まだまだ感染が治まったとは言い難い数字が日々報道されていますが、何か当初のような興奮は冷めやり、まるで当たり前の数字であるかのように、報道でもそれを受け取るわたしたちでも、聞き流してしまうことが増えたように感じています。

災害への備えについてもそうですが、やはりわたしたちは、時間が経過するにつれて当初の強烈な印象を忘れてしまったり、または毎日継続する数字に慣れっこになってしまうものです。

本当は、何もない普段の時にこそ、緊急時を想定して備えておかなければ、いざというときには何も役に立たないことをわたしたちは経験上よく知っています。にもかかわらず、わたしたちの危機感は、実際の危機に直面しないことにはエンジンが始動しないのです。

新型コロナ感染症にしても、すでに専門家からは、この冬に備えなくてはならないという指摘があり、わたしたちも毎年冬のインフルエンザ流行の体験から、危険が迫っていることに体験的に気がつきながら、現時点での何か一段落したような雰囲気の中で制限を解除することにばかり気をとられ、次への備えがおろそかになりつつあるようにも感じます。

今日のマタイ福音は、将来を見越してしっかりと準備をしていた五人のおとめと、今現在のことにしか関心がなく、将来への備えを怠っていた五人のおとめが登場します。

イエスは、この話の締めくくりに、「だから目を覚ましていないさい。あなた方は、その日、そのときを知らないのだから」と述べておられます。

わたしたちは、常に目覚めているでしょうか。何もない普段にこそ、心を備えておかなければ、肝心のいざというときには、何も役に立たない。わたしたちのその常日頃からの備えは、何のためのどのような備えでしょうか。わたし自身が救われるためだけの自己研鑽の備えでしょうか。何を備えるべきなのでしょうか。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」に次のように記しておられました。

「もっとも困窮した人が味わう困難な状況において、教会はそれを理解し、慰め、平等に全体の中に参加できるよう特別に配慮すべきであり、石のような規則を押しつけてはなりません」

さらに「福音の持ついやしの力と光を差し出すよりも、福音を無理に吹き込もうとする人は、それを他者に投げつけるための石打ちの刑に変えてしまう」とまで言われます(49)

わたしたちの備えとは、福音をあかしして語り、また行動することであります。そのあかしは、「福音の持ついやしの力と光を差し出す」ことにあり、他者を石打ちの刑に処するために正しさを押しつけ断罪しようとする行動ではありません。

目覚めているわたしたちは、常に目を他者の必要に向け、神の愛といつくしみそのものである主イエスの福音をあかしするため、言葉と行いを持って、心を常に備えておくようにいたしましょう。

 

 

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2020年11月 1日 (日)

ヨハネ会誓願式@小金井教会

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10月31日土曜日の午後2時から、小金井教会で、福音史家聖ヨハネ布教修道会の誓願式が行われました。通常は略して「ヨハネ会」と呼ばれるシスター方は、社会福祉法人を通じて、主に桜町病院を中心とした諸施設に関わってきました。同修道会の歴史は、こちらのホームページをご覧ください。

この日は、同会はじめてとなるベトナム出身のシスターが初誓願をたてることになり、東京近隣のベトナム出身の司祭たちが集まりました。感染症対策のため、一般の方を招くことができず、聖堂内は主にシスターたちが間隔を空けて座り、歌唱も最低限としました。

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初誓願を宣立されたのは、シスターピア・レ・ティ・トゥ・フォンさん。おめでとうございます。

そして同じミサの中で、有期誓願を更新したシスターが二人、誓願の金祝をお一人が祝い、さらに60年であるダイアモンド祝を三人のシスターがお祝いされました。金祝とダイアモンド祝のシスター方は、それぞれがあらためて誓願生活への決意の言葉を述べられました。

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コロナ禍にあって、命の危機に具体的に直面してきた私たちは、何かしらの不安を抱えて生きています。先行きが不透明なため、闇の中でさまよい続けているような状況です。その中で、孤独のうちに孤立する人、必要な助けが得られない人、命を生き続けることに力尽きてしまう人、様々な側面から神の賜物であるいのちは危機にさらされています。

教会はその中にあって、いのちの希望を高く掲げたいと思います。その教会で、率先して人生をかけていのちの希望をあかしする奉献生活者の存在は重要です。

教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「奉献生活」に、「他の人々がいのちと希望を持つことができるために、自分のいのちを費やすことができる人々も必要です」と記し、奉献生活者が教会にとって重要な存在であることを指摘されました。

誓願に従い、清貧・貞潔・従順を懸命に生き、福音をあかしする存在として闇の中に輝かれますように。

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2020年10月31日 (土)

諸聖人の祭日@東京カテドラル

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11月1日は諸聖人の祭日で、今年は日曜日となりましたから、主日にお祝いすることになりました。

公開ミサを一時中止にした2月27日以降の主日、すなわち3月1日から、インターネットを通じて、大司教司式ミサを配信してまいりました。6月半ば、キリストの聖体の主日の次の日曜、6月21日から限定的ながらも公開ミサが再開されたこともあり、それまでの日曜午前10時の配信から、土曜日午後6時の配信へと変更して続けてきました。毎回、生中継した映像を、そのままYoutubeに残していますから、別途編集することの出来ない映像をその場で作成しなくてはなりません。関口教会の田村さんをはじめボランティアスタッフが、本当に努力してくれました。またできる限り、美しい典礼をと言うことで、聖歌隊としてイエスのカリタス会の志願者とシスター方が、交代で毎回参加してくださいました。毎回、さまざまな歌をご自分たちで選択し、週日にはよく練習してきてくださり、事前の準備も大変だったことだと思います。感謝します。

幸いカテドラル内は他の小教区聖堂にはないほどの大きな空間がありますし、内陣から会衆席までの距離も空間も大きなものがあります。それでも互いに充分な距離を開けて飛沫感染を防ぐこと、ミサの最中でも必要に応じて手指の消毒を繰り返すことなど、いろいろ注意をしてきましたし、公開ミサが再開となってからは、関口教会の定めた方法で参加人数を絞り、また座席は一列ずつ移動させて前後左右2メートルを確保、歌唱は聖歌隊のみ、また聖体拝領直前には全員の手指をあらためて消毒するなど、感染対策をとってまいりました。

小教区でのミサも徐々に再開されてきたこともあり、週末のさまざまな教会行事も再開しスケジュール調整が必要となってきたこともあり、カテドラルからの大司教司式ミサの配信は、本日をもって一時中止とします。今後は大きな儀式や祭日には中継をいたしますし、状況に応じては、あらためて再開することになるかも知れません。ミサの配信に協力してくださった多くの方に、心から感謝します。今後の配信の際には、東京教区ホームページでお知らせいたします。

なお、今回の事態の中で、ミサの配信を始めた小教区も少なくありません。そういった小教区で、情報を公開しているところに関しては、東京教区ホームページで情報を提供していますので、ご覧ください。

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以下、諸聖人の祭日ミサ、10月31日土曜日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げたミサの説教原稿です。

諸聖人の祭日(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月31日

教会は、11月1日を諸聖人の祭日、そして11月2日を死者の日と定め、さらに11月全体を「死者の月」としています。11月1日には、すべての殉教者と証聖者を記念し、11月2日にはわたしたちに先立って御父のもとへと旅立ったすべての人を思い起こし、祈りをささげます。

イエスをキリストと信じる私たちは、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉に信頼し、いつくしみ深い神が、その限りない愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれていることも信じています。

親しい人とのこの世での別れは悲しいことではありますが、教会は同時に、永遠のいのちへの希望を高く掲げることを止めることはありません。葬儀ミサで唱えられる叙唱にも、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

カトリック教会のカテキズムには、「わたしたちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。わたしたちは、信仰における先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。教会共同体はこの世における目に見える組織だけのことではなく、信仰の先達との霊的な絆のうちに、普遍的に存在している実体であります。

その中でも、諸聖人は、その生き方をもって、すなわちその言葉と行いを持って、信仰を力強くあかしした存在として、この世を歩む教会にとっての模範であります。

教皇ベネディクト16世は回勅「希望による救い」において、「人間は単なる経済条件の生産物では」ないからこそ、「有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできない(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

今日私たちが記念するすべての聖人や殉教者たちは、その人生における言葉と行いを通じて、また他者とのかかわりを通じて、この世の命を生き抜いた姿を通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確にあかしした存在であります。

その人生において聖人や殉教者は、人とともに、人のために苦しみ抜きました。真理と正義のために苦しみ抜きました。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために、苦しみ抜きました。

苦しみ抜き、生き抜いたとき、その真摯な生きる姿が、多くの人から尊敬を持って評価される生き方となりました。使徒言行録に記された初代教会の姿を思い起こします。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2章44節~47節)

聖徒の交わりである教会は、現代社会にあって何をあかししているのでしょうか。一致でしょうか、分裂でしょうか。愛でしょうか、憎しみでしょうか。いつくしみでしょうか、排除でしょうか。ゆるしでしょうか、裁きでしょうか。賛美でしょうか、ののしりでしょうか。

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山形県の北の外れに新庄という町があります。この郊外に今年で献堂10年を迎える小さな教会共同体が存在しています。所属している信徒の9割は、近隣の農家でお嫁さんとなったフィリピン出身の信徒の方々です。

10年前、献堂式の時に、リーダーのフィリピン出身の女性信徒が、教会誕生までの道程を話してくれました。20年以上前の来日当初、教会が近くにはなかったため、毎日曜日にご主人に頼んで遠くの町の教会まで送ってもらっていました。それが続いていたあるとき、親戚の方から、「あなたは教会がないと生きていけないのか」と問い詰められたと言います。自分の信仰について真剣に考え抜いた結論は、「もちろん教会がなければ生きてはいけない」でありました。

その日から、出会うすべての同郷の友人たちに声をかけ、日曜日に誰かの家に集まり、司祭を招いてミサを立ててもらい、共同体を育てていきました。

私が彼女たちと出会ったのは新潟の司教となった直後の2005年です。大きな農家の居間でミサを捧げた後に、彼女たちから、自分たちの教会がほしいと懇願されました。近隣に定住した信徒がどれほどいるのか数えてもらったら、フィリピン出身の信徒が90名を超えていました。一緒に歩んでいた日本人信徒は3名です。

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新しい教会を作るなど、財力もないこの小さな教区では無理だと思いましたが、その5年後には、献堂式にまでこぎ着けました。彼女たちの熱心さに感銘した多くの人が、教区内外から支援を申し出て、廃園になった幼稚園の建物を手に入れて改築したのです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

すべてをなげうってただ神のことだけを求め生きる人たちを、イエスは幸いだと呼ばれました。「教会がなければ生きていけない」と言う一途さが、周囲の人を巻き込んで、教会共同体を生み出し、教会の献堂まで実現してしまいました。

わたしたちは、信仰に生きていると言いながら、何に全身全霊をささげているでしょうか。
わたしたちは、共同体において一致していると言いながら、何をあかししているのでしょうか。
わたしたちは、聖体の秘跡に養われていながら、何を告げしらせているのでしょうか。

聖人たちに倣って生きること、すなわち聖性への招きは、すべての人に向けられた召命であります。もちろん自力でそれを達成できるものではなく、神からの恵みが不可欠ですが、同時に招きに応えようとする決意も必要です。聖人たちの生涯に目を向ければ、聖性への招きへの答えは、日々の小さな行動の積み重ねであることが分かります。その積み重ねを支えるのは、主に対する一途な思いであります。

わたしたちの信仰の先達である諸聖人、殉教者の模範に倣い、わたしたちも苦しみを耐え忍びながら、勇気を持ってイエスの福音をあかしできるよう、聖霊の導きを祈りましょう。

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(追伸)

なお教会の伝統は、11月2日「死者の日」または11月1日から8日までの間に全免償を得、それを煉獄の魂に譲ることが出来ると定めてきました。今年はコロナ禍にありますので、教皇庁内赦院は特別の定めを行いました。詳しくはこのリンクのバチカンニュースをご覧ください。その核心部分は以下の通りです。(また免償についての簡単な解説は、例えばこのリンク先を参照ください)

 a.  11月1日から11月8日までの各日において、故人のために、たとえ精神の上だけでも、墓地を訪問し、祈る者に与えられる全免償を、11月中の他の日々に代替できる。これらの日々は、個々の信者が自由に選ぶことができ、それぞれの日が離れていても可能である。

 b. 「死者の日」を機会に、聖堂を敬虔に訪問し、「主の祈り」と「信仰宣言(クレド)」を唱えることで与えられる11月2日の全免償は、「死者の日」の前後の日曜日、あるいは「諸聖人の日」に代替できるものであるが、信者が個々に選べる11月中の別のある1日に代替することもできる。

 

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2020年10月24日 (土)

年間第30主日@東京カテドラル

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10月最後の主日となりました。年間第30主日です。次の日曜は11月1日で、今年は諸聖人の祭日が次の日曜に祝われます。そのため、前晩である10月31日土曜日18時の配信ミサも、諸聖人の祭日となります。

なお、東京カテドラルからの大司教司式配信ミサは、次の土曜日、この10月31日の配信を持って一旦区切りを付けさせていただきますが、現在ではイグナチオ教会をはじめ多くの小教区で配信ミサが行われるようになりましたので、是非そちらをご利用ください。東京カテドラルからの大司教司式ミサの次の配信予定は、主の降誕深夜ミサの予定です。カテドラルからの配信予定については、随時、東京教区ホームページでお知らせいたします。

先週10月17日土曜日午後には、受刑者・出所者の社会復帰支援などを行うNPO法人マザーハウス(代表:五十嵐弘志さん)の主催で、受刑者と共に捧げるミサがイグナチオ教会で行われ、教誨師などで関わる司祭たちと一緒に、司式をさせていただきました(上の写真)。これも配信ミサで行われました。詳しくは、マザーハウスのホームページなどをご覧ください。当日のビデオもホームページからご覧いただけます。

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また10月18日の午後には、碑文谷教会で26名の方の堅信式も行われました。当初は世田谷南宣教協力体(上野毛、田園調布、碑文谷)の合同堅信式の予定でしたが、現在の状況から、碑文谷の方だけの堅信式となりました。また宣教協力体の各教会から主任司祭と役員の方に集まっていただき、ミサ後に短い時間でしたが、現状についてのお話を聞かせていただくことも出来ました。

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先般、典礼秘跡省から送付された指示に従い、堅信を授ける際には直接指で聖香油を塗るのではなく、一人ひとり脱脂綿で塗油をいたしました。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

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以下、本日10月24日土曜日18時から行われた年間第30主日ミサの、説教原稿です。

年間第30主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月25日

教会にはいのちの福音を告げしらせる使命があります。神のことばがひとりの人として誕生した受肉の神秘こそが、すべてのいのちの尊厳を明確に示し、すべてのいのちに比類なき価値があることを明確にしています。

「いのちを守るための行動」などという呼びかけが繰り返される中で、今年わたしたちはいのちが危機に直面する事態を実際に体験し、いのちの価値、そしていのちの意味をあらためて考えさせられています。

災害や疾病など、人間の力の及ばないいのちの危機が存在する反面、世界には人間が生み出した様々な事由から、危機に直面させられている多くのいのちがあります。

教皇フランシスコは先日の一般謁見で、「社会内の不正義、不公平に与えられる機会、貧しい人を社会の周縁に追いやること、貧しい人への保護の欠如」を、「より大きなウィルス」とまで指摘されていました(8月19日一般謁見)

また2018年の一般謁見では、「戦争、人間を搾取する組織、被造物を投機の対象とすること、使い捨て文化、さらには人間存在を都合良く支配するあらゆる構造によって、いのちは攻撃されています。そうして考えられないほど大勢の人が、人間にふさわしいとは言えない状況で生きています。これはいのちへの侮蔑であり、ある意味での殺人です」とまで述べておられます(2018年10月10日)。

感染症への対策を強める中で、明らかに拡大している貧富の格差。社会の不安が増大する中で頻発する、異質な存在への排除の傾向。統制を強める国家による圧政の結果としての、民族や思想に対する迫害。排除の力が強まる中で、顧みられることなく孤立するいのち。

一年前の訪日で、教皇フランシスコは日本の現状を次のように話されていました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会ですが、今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりがだれかを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。(東京ドームミサの説教)」

いまや、その始まりから終わりまで、すべての段階でいのちは危機に直面しています。

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マタイによる福音は、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えるイエスの言葉を書き記しています。

第一の最も大切な掟は、当然ですが、心と精神と思い、すなわち感情もいのちも知性も、人間の存在のすべてを尽くして、いのちの与え主である神を愛せよと教えます。

そして第二の掟として、「隣人を自分のように愛せよ」と教え、その二つを持ってすべての掟の土台となるのだとイエスは教えます。

教皇ヨハネパウロ二世は「いのちの福音」で、「『殺してはならない』というおきては、自分の隣人を愛するという積極的な命令の中に含まれ、いっそう完全な形で表現される(41)」と記し、隣人愛の教えは、そもそも「殺してはならない」という、神の十戒の第五の掟に基づいているのだと指摘されます。

しばしば繰り返してきましたが、今回の感染症に直面する中で、教会が選択した公の活動の停止という行動は、後ろ向きな逃げるための選択ではなく、いのちを守るための積極的な選択でした。それはカテキズムにも記されているとおり、まさしく「殺してはならない」という掟が、他者をいのちの危機にさらすことも禁じているからであり、それはすなわち、「隣人を自分のように愛せよ」という掟を守るためでもあります。

わたしたちはあらためてこの危機的な社会の状況の中で、いのちを守ることの大切さを強調したいと思います。

教皇ヨハネパウロ二世は「いのちの福音」の中で、いのちを守ることに対する厳格な教会の姿勢を明確にすると同時に、それは人を裁くためではないこともはっきりと言明されています。

例えば「いのちの福音」には、次のように記されています。
「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

すなわち、わたしたちはいのちの危機を生み出しているさまざまな社会の現実に目を向け、その社会の現実を、「いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導く」務めがあります。いのちを危機にさらしている事態そのものを指摘することも重要ですが、同時にそういった危機的状況を生み出している社会のあり方そのものを変えていこうとすることも大切です。

いのちの危機を生み出す社会の状況を、教皇ヨハネパウロ二世は、「構造的罪」とよび、それを打破するために世界的な連帯の力が必要であると指摘されています。

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出エジプト記は、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」と記していました。

イエスの言葉と行われた業は、弱い立場に置かれているいのち、すなわち危機に直面しているいのちに対して、わたしたちが積極的に関わらなければならないことを明確に示しています。わたしたちはこの世界にあって、時として、まるで自分たちがこの世の支配者であるかのように振る舞います。そのとき弱い立場にある人への配慮の心は消え失せてしまいます。

しかしわたしたち自身、この世界を自ら生み出したわけではなく、そもそもいのちすら自分で生み出したものではない。すべては神から与えられ生かされている立場であることを考えるとき、いのちの危機に直面する人へ思いを馳せるのは当然の務めであります。

パウロはテサロニケの教会に対して、その生活が周囲に対する模範となっているとの賛辞の言葉を贈ります。そして「主の言葉があなた方のところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなた方の信仰が至るところで伝えられて」いると記しています。

わたしたちの教会は現代社会にあってどうでしょうか。

教会が、いのちを守る場として、この不安が支配する時代に希望の光を輝かせる存在となるよう、またいのちの福音を自信を持って告げしらせる存在となるよう、聖霊の導きに身をゆだねながら、確実に歩みを進めたいと思います。

 

 

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2020年10月17日 (土)

年間第29主日:世界宣教の日@東京カテドラル

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年間第29主日です。10月の終わりから二つ目の日曜日は、世界宣教の日と定められています。説教の中で詳しく触れました。

福音を宣教することは教会の大切な使命です。カトリック教会のカテキズムには、こう記されています。

「洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようにお命じになりました。福音が伝えられてこの秘跡を願うことの出来る人々の救いのためには、洗礼が必要です」

同時にカテキズムは、「神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません」とも記され、望みの洗礼や、洗礼を受けずになくなった幼児の救いについて、神ご自身の御手の中にあるいつくしみによる救いの可能性にもふれ、詳しく解説されています。是非一度、カテキズムの1257番以降をご覧ください。

わたしたちは、すべての人が洗礼の恵みにあずかるように目指して、福音を広く伝えていく努力を続けていかなければなりません。ですから教会にとって福音宣教は、欠かすことのできない務めであります。

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さて昨日、10月16日、ベタニア修道女会の初誓願式と終生誓願式が行われました。例年であれば、修道会の本部がある徳田教会で行われますが、今年は新型コロナの感染症対策のため、広いスペースでと言うことで、東京カテドラルで行われました。

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初誓願を宣立されたシスターフランシスカ齋藤美紀さん、終生誓願を宣立されたシスターテレサ川鍋真澄さん、おめでとうございます。それぞれ派遣される現場で、福音をその言葉と行いであかしされますように、活躍を期待しています。

ベタニア修道女会は、東京教区立の修道会です。当時東京を含む日本の再宣教を福音宣教省から委託されていたパリ外国宣教会のフロジャック神父様が始めた社会福祉の事業がうみだした姉妹たちの会が発展し、1937年に教皇庁布教聖省(現在の福音宣教省)の許可のもと東京のシャンボン大司教によって認可されたものです。詳しくは、ベタニア修道女会のホームページをご覧ください。

教会は、例えば教区などの単位に分けられ、それぞれが司教などの教区長によって司牧されています。一見、さまざまな修道会や宣教会が、それぞれの事情で勝手に活動しているように見えますが、教会法の定めに従って教区長の認可がなければ、その地域で活動することはおろか修道院を作ることも出来ません。ですから、ある意味、すべての修道会や宣教会は、教区長の招きによって教区内に存在しています。多くの修道会や宣教会は、教区長が海外から招いたものですが、中にはベタニア修道女会のように国内で創立された修道会も少なくありません。いくつご存じでしょう。東京教区にも、複数のそういった、日本国内で誕生した修道会が働いておられます。

以下、本日10月17日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげた、年間第29主日公開配信ミサの説教原稿です。

年間第29主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月18日・世界宣教の日

教会は10月の終わりから二番目にあたるこの主日を、毎年、「世界宣教の日」と定めています。教会の最も大切な使命である福音宣教への理解を深め、その活動のために祈る日であり、また世界中の教会が、福音宣教にあって互いに助け合うための献金の日でもあります。

バチカンには福音宣教省という役所があり、日本のようにキリスト教国ではない地域の教会を管轄しています。その福音宣教省には教皇庁宣教事業と名付けられたセクションがあり、この世界宣教の日に集められた世界中の献金を集約し、宣教地における教会の活動を資金的に援助する事業を行っています。各国にはこの部門の担当者が司教団の推薦で聖座から任命されており、日本の教会では、立川教会の門間直輝神父様が、日本の代表として教皇庁宣教事業の活動をとりまとめておられます。昨年は日本の教会からの献金が、福音宣教省の指示に従い、インドの教会活動の援助などに使われたと聞いています。

さて、教会にとって福音宣教は最も大切な使命の一つであります。あらためて引用するまでもなく、例えば、マルコ福音書の終わりには「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活されたイエスによる弟子たちへの宣教命令が記されています。

第二バチカン公会議の教会憲章は、その冒頭で、「諸民族の光はキリストであり、そのため聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げ、教会の面に輝くキリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む(1)」と、教会に与えられた福音宣教の使命を再確認しています。

本日の第二朗読、テサロニケの教会への手紙でパウロは、「わたしたちの福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によったからです」と記しています。同じパウロは、コリントの教会への手紙に、次のように記していました。

「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです(1コリント1章17節)。」

もちろんわたしたちは、何かを信じようとするとき、論理的に構築された事実を理解し、十分に納得した上で、その次の決断を下します。十分に納得するために、さまざまな知識を積み重ねていきます。もちろんそういった知識の積み重ねの重要さを否定することは出来ませんが、しかし、パウロは、そういった知識の積み重ねを、「言葉の知恵」と言い表します。

テサロニケの教会への手紙では、「ただ言葉だけによらず」と記し、コリントの教会への手紙では「言葉の知恵を用いずに」と書いています。福音は積み重ねられた知識によってだけではなく、ほかの方法でこそ告げられなくてはならないと指摘しています。

それは、わたしたちの伝えようとしている福音が、イエスそのものであり、イエスはわたしたち人間の知恵と理解を遙かに超える存在であるからです。すなわち人知の積み重ね、言葉の知恵を遙かに凌駕する存在だからであります。

そのことをイエスご自身は福音の中で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と表現します。

すなわちこの世の価値観によって構築された世界と、神の価値観によって構築される世界は、全く異なる存在であって、神の価値観に基づく言動は、この世の価値観ではその意義を計ることが出来ないからにほかなりません。その二つを無理に一緒にしようとするとき、神の価値観に基づく言動は、妥協のうちに失われてしまいます。

それでは言葉の知恵によらないイエスの存在そのものは、どこで知ることが出来るのか。

パウロは、コリントの教会への手紙でそれを、「キリストの十字架」であると言い切ります。同じことをパウロはテサロニケの教会への手紙では、「力と、聖霊と、強い確信」と言い表します。

キリストの十字架は、神ご自身が、自ら創造された人間のいのちを愛するがあまり、自らその罪科を背負い、究極の理不尽さの中で、自らをご自身への贖罪のいけにえとされた事実、すなわち神の愛の目に見える行いそのものであります。

ですからパウロは、テサロニケの教会の人々が、「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」を神に感謝します。キリストの愛を、目に見える形で生き抜いている教会の姿への感謝です。

わたしたちはキリストの十字架というもっとも強烈な神の愛のあかしを目の当たりにして、神の愛の価値観に虜にされ、その神の愛の価値観に基づいて生き、語り、行動することを通じて、福音をあかししていくのであります。

教皇フランシスコは、本日の世界宣教の日にあたって、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)と言うタイトルでメッセージを発表されています。

教皇は特に、感染症の非常事態に直面しているわたしたちは、「福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです」と記しています。

その上で教皇は、そういった体験を通じてわたしたちは、「自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。・・・皆でともに舟を漕ぐよう求められていて、だれもが互いに慰め合わなければならないのだと」と、共通の理解を持ち始めていると指摘します。世界的な規模での連帯の必要性に、わたしたちは気がつかさせられています。

こうした状況のなかにあるからこそ、教会は福音宣教の必要に目覚め、さらに取り組まなくてはならないと教皇は指摘し、次のようにメッセージで述べています。

「宣教への呼びかけと、神と隣人への愛のために自分の殻から出るようにとの招きは、分かち合い、奉仕し、執り成す機会として示されます。神から各自に託された使命は、おびえて閉じこもる者から、自分を差し出すことによって自分を取り戻し、新たにされる者へとわたしたちを変えるのです」

教会共同体は、未知の感染症の状況の中でどのような道を歩むべきなのか迷っています。すべてのいのちを守るために、これまで慎重な道を選択してきました。こうした状況にあっても、いやこうした状況だからこそ、わたしたちにはそれぞれの生きる場での福音宣教者となることが求められています。不安が渦巻く困難な状況のなかにあっても、だれひとり忘れられてはいないのだ、神から心をかけられないいのちはありえないのだ、愛されていないいのちはないのだと、声を大にしてこの社会のただ中で叫びたい思いであります。

世界宣教の日に当たり、あらためて、「だれを使わすべきか」と問いかける神の声に気がつきましょう。そして自信を持って、「私がここにおります」と応えましょう。日々の生活の中で、自分が生きる姿勢、人と関わる姿勢、配慮の心、そして語り記す言葉をもって、愛といつくしみそのものであるイエスの福音をあかししてまいりましょう。

 

 

 

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