2021年3月 5日 (金)

教皇様イラク訪問

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教皇様は本日3月5日から8日まで、イラクを訪問されます。日本時間の本日午後3時半頃(ローマの朝7時半)に出発される予定です。旅路の安全と、そして教皇様の意向に沿って、イラクの方々のために祈りをささげたいと思います。

英語ですが、教皇様のイラク訪問の予定はこちらに記されています。(バチカンホームページ)なお、教皇様の海外訪問は、2019年11月にタイと日本を訪問されて以降、新型コロナ感染症のためすべてキャンセルされていましたので、今回が再開第一回目となります。

教皇様は3月3日の一般謁見で、今回のイラク訪問に関して次のように語ったと、バチカンニュースで報じられています。

この訪問について、教皇は、「多くの苦しみを受けたイラクの人々、アブラハムの地における殉教者としての教会と出会いたい、との思いを長い間抱いていた」と述べられた。
また、教皇は、他の宗教指導者たちと一緒に、神を信ずる者たちの間に、兄弟愛の新たな一歩をしるしたいと抱負を語られた。
教皇は、この司牧訪問をより良い形で行い、実りをもたらすことができるよう、祈りをもって訪問を共にしてほしい、と信者らに願われた。

また訪問前のビデオメッセージでは、イラクの方々に次のように語りかけています。

何年もの戦争とテロリズムの後、赦しと和解を主に祈り求めるため、心のなぐさめと傷のいやしを神に願うために、わたしは悔悛の巡礼者としてまいります。平和の巡礼者として訪れ、「あなたがたは皆兄弟です」(参照マタイ23,8)と繰り返すために。
そうです、平和の巡礼者として、兄弟愛の追求のもとに、皆さんのもとを訪れたいと思います。イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒を、ただ一つの家族として一致させる、父祖アブラハムのしるしのうちに、共に祈り、歩みたいという望みに動かされてまいります。

教皇様のために、お祈りください。

また本日3月5日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」であります。聖職者による性虐待の罪にゆるしを願い、被害を受けられた方々の心のいやしのために祈り、同じ過ちを繰り返さない決意を新たにするために、教皇フランシスコは、全世界の司教団に向けて、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるように通達されました。日本の教会では「四旬節・第二金曜日」と定めました。東京教区では、次の日曜日、四旬節第三主日のミサで、この意向のもとにミサを捧げることにしております(教区ホームページ参照ください)。東京カテドラル聖マリア大聖堂では関口教会のミサとして、3月7日午前10時のミサを、わたしが司式してこの意向を持って共にお祈りいたします。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという現代社会の思い上がりを戒めながら、そういった現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を実現しなければならない。そう強調された教皇は、回勅「いのちの福音」の冒頭に、こう記されています。

「いのちの福音は、イエスのメッセ-ジの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『良い知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」

危機にさらされるいのちの現状、教皇ヨハネパウロ二世が指摘する「死の文化」が支配する現実の中で、教会こそは、「いのちの福音」を高く掲げる務めがあることを自覚しなければなりません。

その教会にあって聖職者には、神の賜物である尊厳あるいのちを守るために最善を尽くす義務があり、「いのちの福音」をその言葉と行いを持って証しする義務があります。

残念ながら、その模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という他者の人格を辱め人間の尊厳を蹂躙する行為におよび、いのちの尊厳をおとしめ、いのちの危機を生じさせる事例が、世界各地で過去にさかのぼって多数報告されています。また司教を始めとした教区の責任者や、修道会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽したり、その被害を過小評価した事例も、多数指摘されています。日本の教会も例外ではありません。被害を受けられた多くの方々に、心からお詫び申し上げると共に、教会はいのちの光を生み出す存在となる務めがあることをあらためて心に刻みます。(なお東京教区の対応については、こちらをご覧ください

 

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2021年2月27日 (土)

週刊大司教第十七回:四旬節第二主日

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東京は坂が多いところだと、つくづく思います。アップダウンが結構激しい。東京カテドラルのある関口も丘の上ですから、例えば地下鉄の駅を出てからカテドラルに向かうと、有楽町線の江戸川橋駅でも護国寺駅でも、どちらから来ても、だらだらと長い坂を上ることになります。

今朝ほど所用で、後楽園にある文京区役所へ。天気も良かったので、関口から音羽通りの「谷」へ歩いて下り、大塚警察からお茶の水女子大学の横の「丘」を登り、茗荷谷の駅まで20分ほどの散歩。そこから丸ノ内線の地下鉄で後楽園駅まで。この区間は、地下鉄とはいえ、見事に地上の鉄道です。

後楽園駅は地下二階で文京区役所とつながっています。到着したときはそれほど感じなかったものの、所要を済ませて帰り道。地下二階の連絡通路から後楽園駅に入り、ホームに向けて、ひたすら上る。写真の通り、丸ノ内線のホームは隣の文京区役所の地上二階あたりです (文京シビックホールと隣接のビルが区役所)。「地下鉄」の改札を入ってから、なんとなく常識的に下へ降りる階段を探してしまいますが、ホームへは上りの階段。連絡通路からは四階分を上ります。鉄道はなるべく高低差を設けないで進みますから、それだけこのあたりの地形がアップダウンしているわけで、茗荷谷から後楽園に向けて、かなりの谷になっているんですね。東京は、坂が多い町です。

さて、緊急事態宣言は、東京都と千葉県ではまだ解除になりません。したがって、現在の教会活動における感染症対策は、現状の通り継続します。それぞれの時点での東京教区の対応は、一覧を教区ホームページに掲載しています。教区ホームページの一番上に、常に現時点での対応へのリンクのバナーが掲示されています。こちらのリンクをご覧ください

3月7日に解除になることを期待しつつ、解除された場合には、その時点での新たな対応について、別途お知らせいたします。

コロナ禍になって以来、オンラインでの会議が当たり前になりました。Zoomなんて手段、一年前までは名前も知りませんでした。日本の司教協議会関連の会議も、このところオンラインですが、海外との会議もオンラインになりました。国内も海外も、実際に移動しなくて済むのは良いのですが、海外の場合は参加者の時差があり、どこの時間に合わせて行うかが、今度は難しい調整になります。また物理的に移動する必要がないので、立て続けにさまざまな会議が続いてみたりして、自分の事務室の机の前に、朝から晩まで張り付いている羽目になることもしばしばです。

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オンラインで会議が淡々と進行するのは良いのですが、そして時間の節約にもなっていますが、やはり実際に会って話をすること、休憩時間に一緒にお茶をいただくことの大切さを感じています。そんな休憩のときに、それまで懸案となっていた事案が思いの外解決したりすることをこれまで何度も体験してきたので、やはりオンラインだけですべてはすませられないとも感じています。写真は、数日前のFABC(アジア司教協議会連盟)のオンライン会議参加者の一部です。

以下、本日夕方公開の週刊大司教第17回目のメッセージ原稿です。

四旬節第二主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第17回
2021年2月28日

イエスは常に歩み続けます。権威をもって教え、人知を遙かに超える奇跡を行い、多くの人から賞賛を受けていても、その賞賛の場に留まることなく、さらに多くの人に神の福音を宣べ伝えるために、旅を続ける方です。

本日のマルコ福音は、旅路を歩むイエスが、三人の弟子たちの前で光り輝く姿に変容した出来事を伝えています。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、驚きのあまり何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を建てることを提案したと福音は伝えます。ペトロは、その輝かしい神の栄光の場に留まり続けることを望みました。しかしイエスは歩み続けます。福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。律法と預言書、すなわち旧約聖書は、神とイスラエルの民との契約であり、信仰と生活の規範でありました。そこに神の声が響いて、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と告げたと記されています。イエスこそが旧約を凌駕する新しい契約であることを、神ご自身が明確にしました。

創世記は、神からの試練の内にあるアブラハムの姿を記します。イサクを献げるようにと言う、神からのいわば無理な要求です。アブラハムは、今の安定に留まることなく、神に従って前進することを選びます。アブラハムの人生は、安定に留まらず、常に挑戦しながら旅を続ける人生でした。その生き方を、神は高く評価しました。

信仰は、常なる挑戦へと旅立つことをわたしたちに求めます。この世でその挑戦が完成することはないでしょう。しかしそれは、ただ闇雲に前進する旅ではなく、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と神ご自身が宣言された主イエスの言葉に導かれながら歩む旅路です。

四旬節にあたり教皇フランシスコはメッセージを発表されています。今年のテーマは、マタイ福音20章18節からとられた、「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく」とされています。

教皇は、歩み続ける姿勢を、いま見直すようにと呼びかけ、こう記します。

「四旬節は信じる時、つまり神をわたしたちの人生に迎え入れ、わたしたちと一緒に『住んで』いただく時です。・・・四旬節の間、わたしたちは『人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう』、いっそう気をつけなければなりません」

その上で教皇は、「愛は、一人ひとりを気づかい思いやりながら、キリストの足取りをたどって生きることであり、わたしたちの信仰と希望の至高の表現です」と指摘します。

四旬節に信仰を見直すよう、わたしたちは求められています。原点に立ち返ることが求められています。イエスと歩みを共にしているのか、その言葉に耳を傾け、共に旅路を歩んでいるのか、見直すことが求められています。

今年は、1981年2月23日から26日に、教皇ヨハネ・パウロ二世が教皇としてはじめて日本を訪問されてから40年となります。広島や長崎で平和を求める姿勢を力強く表明された教皇は、東京のミサでも平和を語りました。

「平和は人間の心の貴重な宝です。平和は正義の実りです。平和はまた愛の実りです。・・・キリストが私たちに人々との平和を保つ力を与えてくださいますように」

イエスに倣って、愛の実りである平和を実現することが出来るように、主とともに挑戦し続ける旅路を歩みましょう。

 

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2021年2月20日 (土)

週刊大司教第十六回:四旬節第一主日

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2月17日は灰の水曜日でしたから、四旬節が始まりました。第一主日のメッセージです。

四旬節には、祈り、節制、愛の業が勧められています。その三つを具体的に行動で現すのが、四旬節愛の献金です。カリタスジャパンが毎年とりまとめていますが、これは通常のカリタスがお願いする募金とは異なり、「祈り、節制、愛の業」を具体的に生きる行為であることを心にとめてください。四旬節献金は、世界各地で必要とされている方々のいのちを守り育むための活動に活用されていきます。教皇様のメッセージと併せて、詳細はこちらのカリタスジャパンのホームページをご覧ください

なお、教皇庁典礼秘跡省から、昨年に引き続き、聖週間の典礼について指示が送付されてきました。すでに東京教区の典礼担当でまとめた内容と同じでしたので、小教区の主任司祭にはガイドラインを配布してあります。昨年は聖週間の典礼は非公開でした。今年は、現状であれば、感染対策の上で入場制限を行って典礼を行うことは可能であろうと判断しています。もちろん、状況が悪化した場合は別途判断いたします。

行政の緊急事態宣言が解除となった時点で、あらためてその時点以降の感染対策についてお知らせしますが、聖週間の典礼は、バチカンの指示に準拠して、かなり例年とは異なる形になります。特に行列を行う場面はすべて中止となり、また洗足式なども行いません。またやはり全員での一斉の歌唱は難しいと思いますが、聖歌隊など少人数での歌唱が可能となる状況であるように期待しています。

2月28日の日曜日には、ヨハネパウロ二世の訪日40年の記念ミサを、ポーランド大使館の主催で、カテドラルで行う予定でした。残念ながら、これもまた延期となりました。40年前、わたし自身はまだ神言修道会の修練士(ノビス)でしたが、東京カテドラルで行われた聖職者の集いに、他の修練士と一緒に参加することが出来ました。その時点では、まさかその同じ教皇様に、20数年後に新潟の司教に任命されるとは思ってもみませんでした。今のように携帯電話などない時代でしたので、集会後の大混乱の中で、一緒にマイクロバスで名古屋から来ていた修道会の仲間と落ち合うのに、難儀したことを記憶しています。聖ヨハネパウロ二世の訪日については、中央協議会のこちらをご覧ください。また同じ中央協のページで、当時の写真はこちらです

なお、東京教区の人事異動の第一次を発表してあります。今年は、これまでも感染症の状況のため、小教区活動がほとんど滞っている現状を考慮して、教区に関しては、通常の御復活での人事異動を最低限といたしました。今後、状況に応じて9月頃にもう一度小規模な人事異動を考えております。ただし教区内で働かれる修道会関係では動きがありますので、これも随時、公示いたします。

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以下、本日夕方公開の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

四旬節第一主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第16回
2021年2月21日

イエスは聖霊によって、荒れ野へと送り出されました。普通に生活を営むことが難しい場であるからこその荒れ野です。そこにはいのちを危機に陥れるありとあらゆる困難が待ち構えていると、容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身をゆだねました。

イエスは40日にわたって荒れ野に留まり、サタンの誘惑を受けられました。逃げ出すことも出来たのかも知れません。しかし聖霊の導きに信頼するイエスは、御父への信頼のうちに希望を見いだしていました。

イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれていながら、天使たちに仕えられていたと記されています。すなわち神の愛に基づく配慮に包み込まれることによって、命の危険から守られていました。

福音を宣べ伝えるための「時」が満ちるのを待ち続けたイエスは、信仰の内に真理を受け入れ、神の導きに身をゆだね、その導きの内に希望を見いだし、それが故に神の愛に包まれていました。荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、神に対する信仰、希望、愛を確認し、それを確信し、それによって力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見いだしたとき、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見いだしました。

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この一年、わたしたちは命の危機に直面する中で、信仰の危機にも直面しています。今この時点でも、命を守るために取り組んでおられる医療関係者の皆さんに感謝し、また病床にある多くの方のためにお祈りいたします。わたしたちの信仰生活の頂点には、感謝の祭儀があります。

「聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されていますから、ミサにあずかることと、聖体を拝領することは、わたしたちの信仰生活にとって欠くべからざる重要なことであります。共に集う共同体のない信仰は、考えられません。

いま、集うことや共に聖体祭儀に与ることが難しい状態にあります。自分自身の感染を避け、また隣人の命を守るための選択ですが、共同体を解散したわけではありません。互いの信仰の絆が消え去ることはありません。困難な試練の時にあっても、聖霊の正しい導きを共に識別し、それに信頼し、その正しい導きに身をゆだねましょう。さまざまな甘言を弄する誘惑に惑わされないようにしましょう。聖霊の導きの内に、命の希望を見いだしましょう。互いの信仰の絆の内に、御父の愛を見いだしましょう。信仰、希望、愛に信頼を置き、勇気を持って福音を告げてまいりましょう。

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四旬節の始まりに当たり、教会は第一主日に洗礼志願式を行うように勧めています。それは、キリスト者として生きることを望み、そのための学びと祈りの時を過ごしてきた方々が、洗礼への最後の準備をするために最もふさわしいのが、四旬節だからです。

四旬節にわたしたちは信仰の根本に立ち返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどのように生きるのかを見つめ直すよう招かれています。

したがって、洗礼を望まれる方々が信仰における決断を下そうと最終的な準備をするとき、教会共同体も洗礼志願者と一緒になって信仰を振り返る道を歩むことは、わたしたちの教会が徹頭徹尾「共同体」であることを考えたとき、ふさわしいことです。それぞれの教会共同体で洗礼の準備をされている洗礼志願者の方々のために、特に祈りをささげましょう。

 

 

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2021年2月18日 (木)

灰の水曜日ミサ@東京カテドラル

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2月17日は灰の水曜日。東京カテドラルでは関口教会と韓人教会の二つの共同体で、朝7時、午前10時、午後7時の三回のミサが行われ、わたしは夕方午後7時のミサを司式させていただきました。ミサの模様は、関口教会のYoutubeアカウントで配信されています。

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教皇様は四旬節にあたりメッセージを発表されています。中央協議会のこちらからご一読ください

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以下、午後7時のミサの説教原稿です。

灰の水曜日
2021年2月17日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」

東京教区は、戦後にケルン教区から大きな援助をいただきましたが、その友好関係の25周年を祝った1979年以降、今度はケルン教区と共にミャンマーの教会を支援する活動を始めました。これまで主に、ミャンマーの神学校の支援などを行ってきました。自分たちが受けた善意をさらに隣人へとひろげていく心は、感謝され褒められることによる満足のためではなく、隣人の思いに心をあわせ、共に生きていく姿勢、すなわち常に共にいてくださる主ご自身に倣う生き方の具体化です。そのミャンマーでは今月に入ってから軍によるクーデターがあり、非常に不安定な状況が続いています。ヤンゴンのボ枢機卿も、非暴力の内に対話を呼びかけていますが、長期的な混乱も予想されます。この四旬節の間、ミャンマーの兄弟姉妹のためにお祈りください。同時に、わたしたちの近隣には、国家の政策によって、人々や教会が厳しい状況に置かれている国もあります。暴力的な政治や軍の力で、信仰の自由が奪われたり、賜物であるいのちが危機にさらされてはなりません。

さて一年前、先行きの見えない状況の中で四旬節を始めたことを記憶しています。一年前の灰の水曜日の説教で、わたしは、「こういった状況の中では、どうしても自分や自分の近しい人たちの安全と安心だけを追い求める結果、思わず利己的な判断をとってしまうことも少なくありません。暗闇を不安のうちにさまようときにこそ、わたしたちはお互いを思いやり支え合うことの大切さを思い起こしたいと思います」と申し上げました。一年が経過した今も、状況はそれほど変化しておらず、やはり同じ言葉を繰り返さざるを得ません。

こういう状況にあって、いったいどのような道を歩んでいけば良いのか。いったいどのような生き方を選択すれば良いのか。

悩むわたしたちに、今日、預言者ヨエルは、「あなたたちの神、主に立ち帰れ」と呼びかけます。四旬節は、まさしく、わたしたちの信仰の原点を見つめ直すときです。この困難な時期のただ中で、わたしたちは信仰の原点に立ち返りたいと思います。

わたしたちが立ち帰るのは、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいる主であると、ヨエルは記しています。信仰に生きているわたしたちは、主に倣って、憐れみ深いものでありたいと思います。忍耐強い者でありたいと思います。慈しみに富んだ者でありたいと思います。

マタイ福音は、人々からの賞賛を得るために善行を行う偽善者について記します。わたしたち自身が現在の状況のなかで、人々の賞賛を得るために善行を行うということはあまりないのかも知れません。しかしここでのイエスのポイントは、自分は心の眼をどこに向けているのかの問題です。賞賛を得たいと願う心は、心の眼を自分の心の内に留めておこうとする多分に利己的な思いであります。イエスは、「右の手のすることを左の手に知らせるな」と述べることで、心の思いを自分のもとに留めておくのではなく、助けを必要としている隣人のもとへと心を馳せる必要を説きます。なぜならば、わたしたちが倣って生きようとする主は、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいるからであります。わたしたちの信仰は、自己実現の信仰ではありません。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前でわたしたちが誠実な僕であるのかどうかを振り返るよう呼びかけます。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているのでしょうか。

この困難な状況の中で、感染症の治療のため、孤独の内に闘病生活を送る人、医療関係者であるがために、いわれのない差別を受ける人、また経済の悪化によって職を失った人、住む場所を失った人、人間関係を失った人。多くの人が、孤独と孤立の鎖の中で、助けを必要としています。

教会はこの一年の大きな困難の中でもがき苦しみました。いま四旬節となり、信仰の根本を振り返り、見直し、原点に返る時を迎えました。わたしたちがどう生きるのか、あらためて振り返りましょう。主に立ち帰るとき、そこには必ず希望が生まれます。

四旬節にあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。

今年のテーマは、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く……」というマタイ福音の20章18節の言葉が選ばれ、副題に「四旬節――信仰、希望、愛を新たにする時」と記されています。

教皇はメッセージで次のように呼びかけます。

「信仰は、神とすべての兄弟姉妹の前で、真理を受け入れ、そのあかし人となるよう、わたしたちに呼びかけています」

その上で教皇は、「断食する人は、貧しさを受け入れるという経験を通して、貧しい人々とともに自ら貧しくなり、受けた愛、分かち合われた愛という富を「蓄えます」。このように理解され実践されることで、断食は、神と隣人を愛する助けとなります。聖トマス・アクィナスが教えているように、愛とは、他者を自分と一体の存在であるとみなして他者に思いを寄せる行動なのです」と指摘します。

教皇は四旬節の節制のつとめが、愛の奉仕に直接つながっていることを述べ、「四旬節は信じる時、つまり神をわたしたちの人生に迎え入れ、わたしたちと一緒に「住んで」いただく(ヨハネ14・23参照)時です」と記しています。愛の奉仕とは、わたしの善行のことではなく、わたしのもとに神を迎え入れる業であるとの指摘です。

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この説教の後、今年は方法が例年と異なりますが、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きるべきかを、心で感じたいと思います。司祭は灰を頭や額にかける前に、皆さんに向かって、「回心して福音を信じなさい」と唱えます。

この言葉は、四旬節の持っている意味、つまりあらためて自分たちの信仰の原点を見つめ直し、神に向かってまっすぐに進めるように軌道修正をするということを明示する呼びかけです。

この四旬節の間、神のいつくしみに包まれながら、わたしたちの信仰の根本を見つめ直しましょう。

 

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2021年2月16日 (火)

四旬節のはじめにあたり

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明日2月17日は灰の水曜日です。四旬節が始まります。

今年はコロナ禍に対応して、灰の式の実施方法について、バチカンの典礼秘跡省から指示が出されています。すでに各小教区の主任司祭には伝えましたが、その指示の中でも特に次の点にご留意ください。通常であれば、灰を配る時、通常は聖体拝領のように列に並んでいただき、司祭はお一人お一人の額に、定められた二種類の言葉の内の一つを唱えながら、灰を指で塗布します。

しかしながら今年は、典礼秘跡省の指示で、司祭は定められた言葉を、一度だけ、全員に向けて唱え、そのあとで灰を直接ではなく、頭の上から振りかける形で塗布をおこないます。いつものように、額に十字のしるしが残りませんが、ご理解ください。

四旬節のはじめにあたり、1分ほどの短いビデオメッセージを作成し、教区ホームページにて公開しています。

またそれとは別に、「四旬節のはじめにあたり」という呼びかけ文を書きましたので、以下に掲載します。教区ホームページにも掲載されています。また教区ホームページには、英語版も掲載されています。(English version of my message at the beginning of Lent)

カトリック東京大司教区の皆様

四旬節のはじめにあたり

一年前、わたしたちは先行きの見えない状況の中で四旬節を迎えました。その日からわたしたちは、いのちを守るため、とりわけ隣人のいのちを危険に直面させることのないようにと、さまざまな制約の下で教会活動を続けてきました。

暗闇の中を不安のうちにさまようわたしたちは、お互いを思いやり支え合うことの大切さを痛感させられています。

一年が経過し、再び灰の水曜日を迎えました。四旬節が始まります。

四旬節を始めるにあたり預言者ヨエルは、「あなたたちの神、主に立ち帰れ」と呼びかけます。四旬節は、まさしく、わたしたちの信仰の原点を見つめ直すときです。信仰生活に諸々の困難を感じるいまですが、信仰の原点への立ち返りを忘れてはなりません。

わたしたちが立ち帰るのは、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいる主であると、ヨエルは記しています。信仰に生きているわたしたちは、主に倣って、憐れみ深いものでありたいと思います。忍耐強い者でありたいと思います。慈しみに富んだ者でありたいと思います。

わたしたちの信仰は、いま、危機に直面しています。集まることが難しい中、これまで当然であった教会生活は様変わりしました。その中で、一人ひとりがどのようにして信仰を守り、実践し、育んでいくのかが問われています。

もちろん典礼や活動に制限があるからといって、教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。わたしたちは信仰によって互いに結ばれている共同体なのだという意識を、この危機に直面する中で、あらためて心に留めていただければと思います。祈りの内に結ばれて、キリストの体をともに作り上げる兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます。(マタイ28章20節)

教会の伝統は私たちに、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すように求めています。四旬節の献金は、通常のミサ献金とは異なり、節制の実りとして献げる犠牲であり、教会の愛の業への参加に他なりません。この四十日の間、犠牲の心をもって献金にご協力ください。

また聖書にあるとおり「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたら」すと、わたしたちは信じています(ヤコブの手紙5章16節)。わたしたちは祈りを止めることはありません。感染に対応する様々な手段を講じる中には、わたしたちの霊的な戦いをも含めていなければ、この世界にわたしたちが教会として存在する意味がありません。ですから、祈り続けましょう。特に今年の四旬節にあたっては、長年支え合ってきたミャンマーの教会の友人たちを思い起こし、ミャンマーの平和と安定のために、祈りを献げるようお願いいたします。

また四旬節は洗礼志願者と歩みをともにするときでもあります。共に信仰の原点を見つめ直しながら、困難のなかにも互いを励まし、信仰の道を力強く歩み続けましょう。
 
2021年2月17日 灰の水曜日
カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

 

 

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2021年2月13日 (土)

週刊大司教第十五回:年間第六主日

日本のカトリック司教団は、一年に三回、総会を開催しています。そのうち、12月に開催される臨時総会は一日だけで、基本的には翌年の予算の承認を目的としていますが、それ以外の二回は、月曜から金曜までの日程を組んであり、さまざまな議題が話し合われます。現在は2月を定例、7月を臨時と呼んでいます。司教団と言えば、何か年中集まっていろいろと話し合っているように思われているのかも知れませんが、全員が集まって議論するのは年にこの三回だけです。「司教団」の名前で発表するメッセージなどは、すべての司教の賛同が必要ですから、つまりはこういった年に三回の総会の機会にしか決議されません。

今年は2月15日からの5日間、定例司教総会が開催されます。司教たちの集まりの上に、聖霊の働きをお祈り下さい。なお今年の総会は、現状に鑑み、オンラインで行われることになりました。

なお、2月17日は灰の水曜日で、四旬節が始まります。例年の通り、カリタスジャパンによって教皇メッセージを含めたカレンダーや、四旬節愛の献金の封筒などが準備されています(リンクはカリタスジャパンです)。灰の水曜日は、関口教会のミサが朝7時、午前10時、午後7時と三回行われますが、夕方午後7時のミサは大司教司式ミサといたします。また灰の水曜日は、大斎と小斎の日です。大斎と小斎の解説については、こちらのリンクを。そこに記されているとおり、大斎に関しては、「満18歳以上満60歳未満の信者が守ります」と定められたいます。

以下、週刊大司教第十五回のメッセージ原稿です。

年間第六主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第15回
2021年2月14日

マルコ福音は、重い皮膚病を患っている人の、イエスによる奇跡的な治癒の物語を記しています。

主イエスによる病者のいやしは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その出来事が神の栄光を現していることは忘れてはなりません。しかし、同時に、さまざまな苦しみから救い出された人の立場になってみれば、それは人と人との繋がりから排除されてしまったいのちを、いやし、慰め、絆を回復し、生きる希望を生み出した業であります。孤独の中に取り残され孤立し、暗闇の中で不安におののくいのちに、歩むべき道を見いだす光を照らし、そのいのちの尊厳を回復する業であります。パウロはコリントの教会への手紙で、「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と勧めていますが、イエスによる病気のいやしという業こそ、その業の偉大さの故に、そして神が与えられた最高の賜物であるいのちの尊厳を明らかにしているが故に、まさしく「神の栄光を現す」わざと言えるでしょう。

本日の朗読にある創世記は、いのちという賜物を最初に与えられた二人の人間の関係性について語っていますが、その前提は同じ創世記2章18節に記されている、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という創造主の言葉であります。

すなわち創造主から与えられたいのちは、互いに支え合い、助け合って生きることこそが、本来のあり方であります。いのちは関係を絶たれて孤立のうちに忘れ去られるべき存在ではないが故に、失われた関係性を回復し、排除された者を本来のいのちのあり方へと引き戻すことが、いのちの与え主である神が病のいやしを通じてなさったことでありました。

ちょうど数日前、2月11日は世界病者の日でありました。この日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた奇跡的出来事を記念する日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。わき出る水は、ルルドの地で、また世界各地で病気の治癒の奇跡を起こすことがありますが、それ以上に、病気によって希望を失った多くの人たちに、いのちを生きる希望と勇気を生み出す源となっています。その希望と勇気は、この世のいのちを生きる力ともなり、また同時に、永遠のいのちの約束の内に、いのちの与え主である神との繋がりを再確認させる招きともなっています。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に2月11日を世界病者の日と定められました。教皇は、病気で苦しんでいる人たちのために祈りをささげるように招くと共に、医療を通じて社会に貢献しようとする多くの医療関係者や病院スタッフ、介護の職員など、いのちを守るために尽くすかたがたの働きに感謝し、彼らのためにも祈る日とすることを呼びかけました。特に今年は、感染症が続いている中で、それに起因する不安のために、感染者や医療関係者への差別的言動が見られるとも聞いています。いのちを守る立場からは、決してあってはならないことです。

わたしたちは、日頃から主の祈りの中で、「みこころが天に行われるように、地にも行われますように」と唱えています。福音でイエスを前にした病人が、「御心ならば」と治癒を願ったように、わたしたちも心と体を束縛しふさわしい関係性を断ち切ろうとする鎖から解放してくださるように願いたいと思います。賜物であるいのちが、御心のままに生かされますように。

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2021年2月11日 (木)

世界病者の日メッセージ

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例年2月11日には、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、午前中にスカウトのBP祭ミサ、そして午後には世界病者の日のミサを大司教司式ミサとして行っています。残念ながら今年は、感染症の現状から、どちらのミサも中止となりました。

病者のために祈る日に、病気のために肝心のそのためのミサが出来ないことは無念です。祈りのひとときを共にしていただくために、ビデオメッセージを作成しました。東京教区のホームページにも掲載されていますが、ビデオのリンクはこちらです。(写真は三枚ともフランスのルルドの聖地)

以下、そのビデオメッセージの原稿です。

世界病者の日メッセージ
2021年2月11日

神からの賜物であるわたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、ありとあらゆる脅威にさらされています。それは、暴力や武力による脅威であったり、人間の悪意に基づく脅威であったり、排除や差別による脅威であったり、政治的意図や政治的支配欲による脅威であったり、政治思想に基づく圧政による脅威であったり、貧困や疾病による脅威であります。

そしてこの一年、わたしたちは未知の感染症によるいのちへの脅威にさらされています。この一年ほど、互いのいのちへの思いやりと支え合いが重要であることを思い知らされた一年はありません。そしてこの一年ほど、いのちの尊厳について考えさせられた一年はありません。

今現在も、新型コロナ感染症のために病床にある多くの方々、特にいのちの危機に直面して闘っておられる多くの方々のために、心からお祈りいたします。

またいのちを守るために、日夜懸命に努力を続けている医療スタッフ、介護職にある方々、また未知の感染症の解明のために日夜研究を続けている専門家の方々。その懸命な働きに、心から感謝すると共に、皆さんの健康が守られるようにお祈りいたします。

今回の感染症は、軽い風邪のようでもありながら、同時に急速に重篤化していのちを奪われるケースも多くあり、どうしても疑心暗鬼にとらわれてしまう状況を生み出しています。加えて、この感染症に対抗するためには、基本的に手洗い、うがい、マスクに社会的な距離を保つことがあげられ、いきおい、人と人との繋がりが断絶されてしまう状況も生み出しています。

感染した場合の隔離の状況や、重篤化した場合の完全な孤立は言うに及ばず、今回の感染症はさまざまな場で、孤立を生み出し、孤独のうちに多くの人を追いやっています。また疑心暗鬼が深まるにつれて、感染した人やその家族への排除の動きや差別的な言動の事例も聞かれ、さらには必死になって治療に専念する医療スタッフへの差別的な言動もあると聞いています。

利己的な思想や価値観の広まりは、この数年の世界的風潮でもあり、助け合うことや支え合うことが意味を失い、孤独や孤立のうちに取り残される人が多く見られるようになっていました。異質な存在を排除し、自己の価値観を守ることに専念する社会は、寛容さを失います。教皇フランシスコは、しばしば誰も排除しない社会の実現を呼びかけ、隔てる壁を打ち壊し、広がる溝に橋を架けるようにと諭してきました。

そういった社会の風潮に、この一年は新型コロナ感染症による不安が加わりました。心の不安を増幅するような事態の頻発は、疑心暗鬼の闇をひろげてしまいます。疑心暗鬼が生み出す相互不信には、対立を引き起こす負の力があり、残念ながら寛容さを生み出すような前向きの力はありません。

そういう闇の中に取り残されるとき、自らを守るために利己的となるわたしたちは、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら生み出してしまいます。自分を守るためならば、異質な存在は排除しても構わないという考えは、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、寛容さを失い、相互不信にあえぐ社会は、ヨハネパウロ二世が指摘した「死の文化」に彩られた社会です。闇の中を歩んでいる今だからこそ、教会はあらためてこの社会の中で、「死の文化」に対抗する「いのちの文化」を強調して行きたいと思います。善が悪に勝利を収めるだけの力を持っていることを、証明していかなくてはなりません。

主イエスによる病者のいやしは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その事実が神の栄光を示していることは忘れてはなりませんが、同時に、人と人との繋がりから排除されてしまったいのちを、いやし、慰め、絆を回復し、生きる希望を生み出すところにも大切な意味合いがあります。孤独の中で孤立し、暗闇の中で不安におののくいのちに、歩むべき道を見いだす光を照らし、そのいのちの尊厳を回復するところにも大切な意味合いがあります。

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世界病者の日と定められた2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。わき出る水は、病気の治癒の奇跡を起こすこともありますが、それ以上に多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

ルルドの泉がもたらす奇跡的治癒は、キリストのいつくしみの深さとすべてを超える偉大な力を示していますが、同時に、ルルドという聖地自体が、そこを訪れる多くの人に心の安らぎを与えていることも重要です。すなわち、聖地自体が、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっているからです。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、希望を失った人の心に希望を回復し、互いへの思いやりの心を思い起こさせる力があります。わたしたちすべての教会共同体が、おなじように生み出したい、霊的な安らぎの雰囲気の模範であります。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められ、病気で苦しんでいる人たちのために祈り、同時に医療を通じて社会に貢献しようと働く多くの方々のために祈りを捧げる日とされました。今年ほど、この日の持つ意味が切実に感じられる年は、近年ありませんでした。

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教皇様は、今年の世界病者の日のメッセージで、この一年の感染症の緊急事態に触れながら、こう述べています。
「病には必ず顔がありますが、それは一つだけではありません。病者一人ひとりの顔、無視され、疎外されていると感じている人、基本的人権を認めない社会的不正義の犠牲者の顔もあります(回勅『Fratelli tutti』22参照)。このパンデミックは、医療体制の多くの不備と、病者へのケアの不足を露わにしました。・・・病者のケアと看護に資源を投じることは、健康を主要な共通善と捉える原則に結びついた優先事項です」

その上で教皇は、病で苦しみ人に寄り添うことの重要性を強調し、「わたしたちは個人としてだけでなく、共同体としても、寄り添い続けます。キリストにおける兄弟愛はまさに、いやすことのできる共同体を生み出します。だれも見捨てない共同体、もっとも弱い人を真っ先に受け入れ、歓迎する共同体です」と、いつくしみを体現する共同体であるようにと呼びかけます。

東京ドームミサで呼びかけた、「傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と言う言葉を思い起こします。

世界病者の日は、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感する日でもあります。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、野戦病院となる決意を新たにする日でもあります。その安らぎの中に、いのちを生きていく希望を見いだす日でもあります。

神のいやしの泉へとベルナデッタを招いたルルドの聖母マリアが、わたしたちを希望の源である御子イエスのいつくしみへと導いてくださいますように。

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2021年2月 7日 (日)

世界人身取引に反対する祈りと啓発の日(2月8日)

Bakhita

女子修道会の国際総長会議(UISG)は、2月8日を「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と定めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としています。教皇フランシスコも、2015年2月8日のお告げの祈りの時に、この活動に触れ、積極的に行動するように呼びかけました。

この日、2月8日は聖ジョゼッピーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれました。

聖人はカノッサ修道会の会員でした。同会のホームページにはこう記されています。(写真はカノッサ修道会ホームページより)

「バキータは男3人、女3人の6人兄弟でした。お姉さんは1874年、奴隷商人たちにさらわれました。バキータは7歳のころ2人のアラビア人にさらわれました。1ヵ月間監禁され、その後、奴隷商人に売り飛ばされます。ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまり、間もなく、冷酷な顔立ちのアラビア人に売り払われます。その後、奴隷商人に売り払われます」

その後、様々な過酷な体験を経て、イタリアにおいて1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。同修道会のホームページに聖バキータの次の言葉が紹介されていました。

「人々は私の過去の話を聞くと、「かわいそう!かわいそう!」と言います。でも、もっとかわいそうなのは神を知らない人です。私を誘拐し、ひどく苦しめた人に出会ったら、跪いて接吻するでしょう。あのことがなかったら、私は今、キリスト者でも修道女でもないからです

聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間的な尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために、教皇様は祈ること、その事実を知ること、そして行動するようにと、2015年の世界平和の日のメッセージで呼びかけられました。

2015年のメッセージで、教皇様はこう述べておられます。

「国際社会があらゆる形の奴隷制を終わらせるために数々の条約を採択し、その問題に対するさまざまな政策を行っているにもかかわらず、何百万もの人々、子どもやあらゆる年代の男女が、現在でも自由を奪われ、奴隷のような状態で生きるよう強いられています」

その上で教皇様は、こう指摘します。

「過去と同様、現在においても、奴隷状態の根本には、人を物のように扱うことが許されるという人間の考えがあります。罪が人の心を堕落させ、創造主や隣人から遠ざけるとき、隣人は、もはや同じ尊厳をもつ人、人間性を共有する兄弟姉妹としてではなく、物として考えられてしまいます。神の似姿として神にかたどって造られた人間が、抑圧、裏切り、または身体的・心理的な拘束によって、自由を奪われ、売られ、他の人の所有物にされます。彼らは目的のための手段として扱われているのです」

人身売買・人身取引や奴隷などという言葉を聞くと、現代の日本社会とは関係の無い話のように感じてしまうのかもしれません。実際は,そうなのではありません。一般に「人身取引議定書」と呼ばれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性および児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には,次のような定義が掲載されています。

「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a))

すなわち、売春を強制されたり、安価な労働力として,自己の意思に反して、人間の尊厳が守られないような状況下で労働に服させられている人たちの存在は、わたしたちの国でも無関係なことではありません。

今年はタリタクムの主催で、国際的な祈りの行事がオンラインで企画されているとのこと。こちらの頁に案内が掲載されていますので、ご参照ください

なお『タリタクム』とは、同活動のホームページに次のように記されています。

「タリタクム(Talita Kum)は、修道会総長会議と連携し国際総長会議のプログラムのひとつで、人身取引の撲滅に取り組む奉献生活者の国際ネットワークです。日本では、日本女子修道会総長管区長会、日本カトリック管区長協議会との連携により、日本カトリック難民移住移動者委員会内に「人身取引に取り組む部会(略称「タリタクム日本」)が、2017年6月に発足しました」

 

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2021年2月 6日 (土)

週刊大司教第十四回:年間第五主日

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あっという間に今年も2月となりました。東京教区の管轄する東京都と千葉県に発出されていた緊急事態宣言は、3月7日まで延長となりました。

報道によれば『首相は衆参両院の議院運営委員会で、延長に関し「全国の新規感染者数は減少傾向にあるが、今後もこの傾向を継続させ、入院者数や重症者数を減少させる必要がある」と説明』したとのことです。(東京新聞2月2日)

確かに毎日報道される新規の感染者数は減少していますが、この数週間、亡くなられる方、特に高齢の方が増えているのが気になります。教会はこれまで通り、できる限りの感染対策を続けますし、対策に困難がある場合は、それぞれの小教区の判断でミサの公開を中止にします。

2月の初めは、大切な祝日が続きました。

2月2日は主イエス誕生40日目に神殿に奉献されたことを記念する「主の奉献」の祝日です。福音朗読にはシメオン讃歌が記されていますが、この中に「異邦人を照らすまことの光」と幼子がいったい誰なのかを明確に示す言葉あります。このことから伝統的に、この祝日にはロウソクの祝別が行われてきました。またキャンドルサービスの原型ともいわれるロウソク行列が行われる伝統のある国もあります。典礼書の規範版には祝福とロウソク行列の式文が掲載されていますが、翻訳されていないため行われることが少ないのですが、新しい翻訳が出来るときには含まれている予定です。

その翌日2月3日は聖ブラジオの祝日ですが、この日に伝統的に喉の祝福をする国もあります。ちょうど冬で風邪がはやる時期でもあるので、日本でもやってみたらどうだろうと思います。女子パウロ会のホームページに聖人カレンダーがあり、簡略な聖人伝が記されていますが、そこには聖ブラジオの逸話が次のように記されています。

「あるとき、幼い息子を持つ母親が現れ、子どもの喉に引っかかった魚の骨を取り除いてくれるように、ブラジオに願った。ブラジオの祈りによって、子どもは咳をし、喉から骨が出てきた」

ただし、現在この日は日本では、福者ユスト高山右近の記念日となりました。そして2月5日は日本26聖人の記念日です。1597年2月5日に、長崎の西坂で殉教した26名の聖人は、迫害のなかにあっても勇気を持って信仰を守りました。現代に生きるわたしたちに、信仰に生きるとはどういうことなのかを、問いかけています。

例年であれば、その日に近い日曜日は、本所教会で殉教祭が行われ、わたしも出かけていってミサを捧げるのですが、残念ながら今年はこの状況で、中止となりました。一番上の写真は昨年の26聖人殉教祭で撮影した、本所教会です。下の写真は、ローマ郊外、チビタベッキアにある日本26聖人記念聖堂。壁画は長谷川路可によるものです。

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以下、本日夕方に配信した週刊大司教十四回目のメッセージ原稿です。

年間第五主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第14回
2021年2月7日

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」

先週のマルコ福音は、神の真理に裏打ちされた権威ある言葉を語るイエスを伝えていました。今週のマルコ福音はその続きです。先週と同じようにイエスは「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」と記されていますから、権威を持って言葉を語り、人々が驚くような業を行っています。弟子となったシモンのしゅうとめの熱をさらせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取り憑かれた人をいやしていったと記されています。

マルコ福音がこの話を通じて描こうとするイエスの姿は何でしょうか。もちろん先週と同様、権威あるイエスの姿であるとも言えますが、それ以上に、イエスの愛といつくしみをこの行いは象徴しています。マルコ福音が「病人や悪霊に取り憑かれた者」と記す人たちは、さまざまな困難を抱え、人生を、いのちを生きることに希望を見いだすことが出来ずにいる人たちです。神の愛といつくしみそのものであるイエスは、そういった人々を目の前にしたとき、放置しておくことは出来なかった。いのちをより良く生きることを阻んでいる悪にとらわれている人たちを、解放しました。

イエスは真理に裏付けられた権威ある言葉を語る強い存在であると同時に、あふれんばかりの神の愛といつくしみを体現する存在でもあることを、マルコ福音は伝えています。

パウロはコリントの教会への手紙で、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。なんとかして何人かでも救うためです」と記し、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と宣言しています。

イエスや、それに倣うパウロの姿勢は、高いところから教え導くのではなく、困難を抱え希望を失っている人たちのところへ出向いていき、なんとしてでも神の救いの希望に与ることが出来るようにと手を差し伸べる姿勢です。教皇フランシスコは、そのことを、「出向いていく教会」という言葉で表しています。だからこそイエスは、一つのところに留まって、褒め称えられるのではなく、ひとりでも多くの人に生きる希望を生み出すために、村々を巡って「出向いていく」のです。

教皇フランシスコは使徒的勧告「愛のよろこび」にこう記しています。
「大切に思っている人それぞれを、神のまなざしをもってじっくりと見つめ、その人の中におられるキリストに気づくことは、深い霊的体験です。・・・イエスは模範でした。誰かが話そうとして近づくと、イエスはその人にまなざしを据え、愛をもってじっとご覧になったのです。イエスの前でないがしろにされていると感じる人はいません」(323)

昨年来、感染症の困難の中で、さまざまな側面での生きづらさを抱えておられる方が少なくありません。病気だけでなく、経済や職業や法的身分など、さまざまな側面で困難を抱え、人生を、いのちを生きることに希望を見いだすことが出来ずにいる方、不安の内に生きておられる方がおられます。わたしたちは、イエスのまなざしで「じっくりと見つめ、その人の中におられるキリストに気づく」者でありたいと思います。いのちの希望を生み出すため、ひとりでも多くの人に救いをもたらすため、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と宣言したパウロに倣って、わたしたちも必死になって福音に生き、福音をあかしし、福音を伝えてまいりましょう。

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奉献生活者の日ミサ@麹町教会

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2月2日は主の奉献の祝日でありました。教皇ヨハネパウロ2世は、1997年に、この祝日を奉献生活者のための祈りの日と定められました。日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2011年に教皇大使故ジョゼフ・チェノットゥ大司教の呼びかけを受け、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることをはじめ、今年の奉献生活者のためのミサは、1月30日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

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感染症対策のため、例年のように大勢の修道者が集まることは出来ませんでしたが、聖堂には10数名の代表の修道者が集まり、ミサは麹町教会からオンライン配信されました。

今年はわたしが司式・説教を担当し、山野内司教様も司式に参加してくださいました。なおミサの終わりに、誓願10年の修道者への特別な祝福が行われました。また教皇庁大使館からはトゥミル臨時代理大使も参加してくださいました。

以下、当日の説教の原稿です

奉献生活者のミサ
2021年1月30日
麹町教会

一年前の奉献生活者のミサのことを思い起こしていました。この聖堂で行われたミサは、聖堂に一杯の男女修道者が集い、聖歌隊が高らかに歌い、男子の修道会の上長たちが大勢一緒に共同司式していました。なによりも、主司式はジョゼフ・チェノットゥ教皇大使でありました。

わたしたちは忍び寄る生命の危機に多少は気がつきながらも、しかし、いつものような日常が続いていくのだろうという根拠のない安心感に身をゆだねておりました。

わたし自身もその直後に、東京教区の司祭たちと一緒にミャンマーに出かけ、教区として援助している神学院などを訪問してきました。それ以降、今日まで、海外はおろか、飛行機にも乗ることのない一年でありました。

皆さんお一人お一人にとって、この一年は、いったいどういう時であったでしょうか。

確かに、欧米の国々に比べれば、感染した方の数や亡くなられた方の数は少ないものの、その理由は判然としません。特に欧米の国々での厳しい現実を目の当たりにするとき、被害が小さいからと言って安心できるものではないことだけは理解できます。また、手を洗ったり、うがいをしたり、マスクをしたり、対面での会話を避けたりと、いくつかの最低限守るべき基本が見えては来ました。しかし、危機が完全に去ったわけではありません。例えば、教会にとっても、当初は多くの司祭や修道者が各地で亡くなられましたが、年が明けたこのひと月の間だけでも、世界各地で10名を超える司教が新型コロナ感染症のために亡くなられました。日本でも、相対的に少ない人数ではあるものの、例えば東京教区内でも、カトリック教会を起源とする集団感染などは発生していませんが、感染した信徒の方がおられるという報告は少なからずあり、亡くなられた方もおられます。

昨年、このミサを共に捧げたときに、わたしは、東北の震災発生から9年となることに関連して説教をいたしました。本来であれば、今年は震災発生から10年となるのですから、この10年の日本の教会の復興支援活動を振り返ってお話ししたいところですが、現在の状況ではそうも行きません。

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昨年わたしは、教皇フランシスコの、被災者との集いでのこのことばを引用しました。
「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません」

すなわち、人間がいのちをつないでいくためには、もちろん「衣食住」が充分に保障されていることが不可欠であることを、教皇様は大前提とした上で、しかし人間は、物質的充足それだけでは生きていけないことを指摘されました。そこでわたしは昨年、次のように申し上げました。

「人間が人間らしく生きていくためには、いのちを生きるための希望が不可欠です。そしていのちを生きるための希望は、誰かが外から持ってきて与えることができるものではなく、希望を必要としている人自身の心の奥底から生み出されるものです」

この昨年の自分の言葉が、重くのしかかってきます。

この一年ほど、そして今ほど、いのちを生きるための希望が必要なときはありません。いのちの危機という漠然とした不安だけではなく、具体的な問題として、職を失ったり、人間関係を失ったり、差別や排除の犠牲となったり、孤立を深め助けを得られずにいたり、さまざまな側面からいのちの危機に直面し、いのちを生きるための希望を奪い去られた人たちがこれほど多くおられる今、希望はどこにあるのでしょうか。

教皇様は回勅「フラテリ・トゥッティ」において、こう指摘されています。
「確かに、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックのような世界規模の悲劇は、わたしたちがグローバルな共同体であって、同じ船に乗船していて、そこでは一人の問題は皆の問題であると言う感覚を、つかの間ですが復活させた。今一度わたしたちは、一人で救われる人は誰もいないこと、わたしたちは一緒にしか救われないことに、気がつかさせられた。(32)」

しかしこの兄弟愛的な感覚は、利己主義に魅入られた世界では、長続きすることはありません。異質な存在を排除し、自分たちだけの安全を確保しようとする欲求は、ワクチン接種が始まろうとしている今、国家のエゴとして顕在化しようとしています。すでに教皇様は、国家間の貧富の格差がいのちの格差になることのないようにと、繰り返し呼びかけておられます。

そして教皇様は、「フラテリ・トゥッテイ」で、「華麗で壮大な夢を口にした」現代人は、結局のところ、孤独へと誘われ、仮想現実の中で真の「友愛」を忘れたのだと指摘して、次のように述べています。

「このパンデミックによってもたらされた、痛み、不安、恐れ、自分の限界の認識は、これまでの生活様式や人間関係、社会の仕組み、そして何よりもわたしたち自身の生存の意味を緊急に考え直す必要を明確にした。(33)」

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教会はこの10年間、東北の被災地で、いのちを生きる希望を生み出す活動を行ってきました。日本の教会の歴史に残る挑戦であったと思います。以前は考えられなかった修道会の枠を越えた活動も、各地で行われました。教区との契約の枠を越えて、会員を派遣し続けたことで、仙台教区の教会共同体と歩みをともにすること、いのちの希望を生み出すことを優先することの大切さを、具体的に示してきました。常識や慣習を打ち破る決断が、それこそいくつもあったと思います。この10年で、日本の教会は、大きく変わる機会をいただきました。

建物を建てたとか、物資を配布したとか、そういう「衣食住」に関わることも大切ですけれど、やはり、人と人との関わりの中で、そしてともに人生の道を歩むことによって、そして現場で共に生きることによって、わたしたちはいのちを生きる希望を生み出すための種まきをしてきたのだと思っています。

その種を蒔いたところに、新型コロナ感染症がやってきました。すべてのいのちを守ることを最優先とし、無自覚のうちに隣人のいのちを危機にさらすような無責任な行動をすることのないように、さまざまな制約を教会にあっても取り入れました。感染対策を徹底すればするほど、集まったり、共に歌ったり、兄弟姉妹との親交を深めることが難しくなりました。感染拡大期には、わたしたちの信仰にとって最も大切な聖体祭儀に与ることが難しくなりました。教会は、今まで当然として行ってきた活動を、一旦停止せざるを得なくなりました。多くの方が協力してくださっています。なかには、苦しい決断をもってご自分の思いを犠牲にしてまで協力してくださっている方も多くおられます。さまざまな制約が課せられている今、それぞれが信仰における優先事項をどこに定めているのかが明らかになってきています。

困難な状況による制約は、わたしたちに新たな道を模索する機会を提供しています。教会にとってのこのピンチを、前向きにとらえたいと思います。既成概念の枷から強制的に解き放たれたわたしたちは、いま、教会がどのようにあるべきか、何を優先するべきか、徹底的に見直す最高の機会を与えられています。見直しましょう。日本の教会が、主イエスの呼びかけに本当に徹底的に従って生きる共同体であるために、わたしたち自身を見つめ直すときは、いまです。

 

 

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