2025年5月17日 (土)

週刊大司教第209回:復活節第五主日C

Leo14

復活節も第五週となりました。

教皇レオ14世の公式写真が公開されています。バチカンメディアのサイトからダウンロード可能で、個人的に、または教会内で使うことができますが、営利目的、商用には許可が必要です。

教皇選挙後にも、新しい教皇様と枢機卿団のミサや集まりが開催されたこともあり、また帰りの便の席を確保する関係から(いつ終わるか不明で、帰りの便を事前に予約ができなかったので)、やっと水曜夜にローマを出る便の席が確保できましたので、帰国しました。ただ、教皇フランシスコの帰天から教皇選挙という一連の出来事が起こる前から、国際カリタスの行事と会議でメキシコなどへ出かけることが決まっており、その前半はキャンセルしましたが、後半の国際カリタス理事会は出席できますので、数日後にはまた一週間、不在となります。

そのため、残念ながら明日の主日の教皇様の就任ミサには参加できませんが、昨晩、5月16日の夜6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教皇大使にもおいでいただき、教皇レオ14世のためのミサを捧げました。400人を超える方に参加いただきました。ありがとうございます。なおこのミサのビデオは公開されていますので、一番下にリンクを張っておきます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第209回、復活節第5主日のメッセージです。

復活節第五主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第209回
2025年5月18日

5月は、教会の伝統において聖母の月とされています。1917年5月13日に、ポルトガルのファティマで、聖母マリアが、ルチア、フランシスコ、ヤシンタと言う三人の子どもに出現され、自らを「ロザリオの元后」と名乗られた奇跡的御出現に基づき、5月13日はファティマの聖母の記念日です。そして、5月31日には聖母マリアの訪問の祝日も定められています。

教皇フランシスコは聖なる年、聖年を告知する大勅書「希望は欺かない」の終わりに、聖母について次のように記しています。

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です。この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります。・・・無実のイエスが苦しみ死ぬのを見ている間、すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、はいと言い続けたのです(24)」

その上で教皇様は、「海の星(ステラ・マリス)・・この称号は、人生の荒波に中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼を持って希望し続けるように招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しています。

人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないようにしっかりと支えてくださっています。その人生の荒波にあって、希望の光を照らし続ける海の星、ステラ・マリスは、神の母マリアであります。聖母はわたしたちの希望の星です。この困難な時代にあって、神からの賜物であるいのちが、暴力から守られ、その尊厳が確立されますように、わたしたちのいのちの希望の道を照らす星、聖母の取り次ぎを祈りましょう

ヨハネ福音は、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という、イエスが最後の晩餐の席で弟子たちに与えた「新しい掟」を記しています。 イエスの愛とは、永遠のいのちへの道を切り開いた、十字架の上での受難と死を通じて示された愛であります。徹底的な自己譲与の愛だからこそ、永遠のいのちへの希望を与えることができました。聖母マリアも十字架の傍らにたたずみ、イエスの苦しみをともにしながら、それでもすべてを捧げて、最初の日に天使ガブリエルに応えたように、「お言葉通りこの身になりますように」と徹底的に捧げ尽くした人生でした。

愛し合うためには、互いの存在を受け入れることが必要です。いのちの危機の中で、自己防衛の思いは、どうしても人間を利己的にしてしまいます。異質なものへの拒否感と排除の感情を強めます。今の時代だからこそ、「互いに愛し合いなさい」という言葉が必要です。

互いに心を開き、耳を傾けあい、支え合い、祈り合う信仰の絆こそがこの絶望的な状況から抜け出すための希望を生み出すのだと、シノドスの道はわたしたちに教えています。

なお次週の週間大司教は一回お休みさせていただきます。6月1日の主の昇天から再開します。

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2025年5月11日 (日)

教皇選挙を終えて

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多くの皆様のお祈りを頂いた教皇選挙が終わりました。前記事でも所感を記しましたが、これまで12年間にわたり導いてくださった教皇フランシスコに別れを告げ、その直後に今度は新しい牧者としてレオ14世を選出した枢機卿団の一員として関わらせて頂いたのは、多分、生涯に一度のことであろうと思います。このような場に立ち会うことを許してくださった、いのちの与え主である神様に、感謝しかありません。また教皇フランシスコの永遠の安息のため、そして新しい教皇の誕生のため、世界の多くの方が祈りを捧げてくださいました。教皇選挙に参加した133名の枢機卿は、皆、その祈りの力を感じながら、一連の行事に臨みました。皆様に感謝いたします。

さて、教皇選挙の具体的な内容については、書き記すことはできません。システィーナ聖堂(礼拝堂)に枢機卿団が選挙のために入堂する映像が、バチカン放送がそこまでは撮影しましたので、それがいろいろなメディアに上がっていますが、最初に、全員が、一人一人ラテン語で祈りを唱えて誓いを立てます。その中で、選挙に関連した内容や起こったことについて、一切口外しないという誓いを立てます。そのため、内容を具体的にお話しすることはできませんし、写真もありません。

映像によく出てくる、(例えばこのリンク先の日テレ)手を置いて一人一人が誓う部分は「わたしは、それらを約束し、誓います。いま手を置いている福音と神が助けてくださいますように」と言っているだけで、その前にある様々なことを誓う具体的な内容は、首席枢機卿(代理のパロリン枢機卿)が代表してラテン語で唱えています。映像に写っている部分はまだ秘密とされていない部分で、その後に、教皇儀典室長のラヴェリ大司教様が「エクストラ・オムネス」と宣言して、投票権者以外を聖堂から出して扉を閉めるところから、新しい教皇が、「投票結果を受諾します」と首席枢機卿に応えるまでが、教皇選挙の秘密部分です。ですから、この間はカメラも外へ出されますので、映像もありません。

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同時に、大勢の枢機卿がいますから、なんとなく雰囲気的な情報が様々なメディアに漏れ伝わるのでしょう。イタリアメディアを中心に、世界各国のメディアでは、様々な情報が飛び交っています。なかには正確に、誰が何票得たのに、それがそのあとで大きく変わったのは、これこれこういう裏事情があったのだと、かなり断定的に書いているメディアがありましたが、わたしもそれを見ましたけれど、わたしが目の当たりにした事実とはかけ離れた数字だったので、何らかのストーリーを作るための推測の結果なのだろうと思います。

事実は一つしかありません。システィーナ聖堂に集まった133名の枢機卿団は、祈りのうちに投票を繰り返し、主イエス御自身がすでに選ばれているに違いないペトロの後継者を見いだすために投票を続け、プレボスト枢機卿が3分の2以上の票を得て、教皇に選出された。それだけです。

枢機卿団は、教皇フランシスコが、第二バチカン公会議から始まって、歴代の教皇が進めてきた教会の改革を、さらに完遂しようとされた方向性を継続し、同時に明確な教えを持って教会の一致を確立する牧者を見いだすことに努めました。それは類い希な才能と霊性を持った教皇フランシスコを引き継ぐ第二のフランシスコの誕生ではなくて、それは不可能なので、主イエスが託された務めを忠実に果たす使徒ペトロの後継者を見いだすことに努めました。その結果です。

「教皇選挙」という映画があります。わたしも、3月にカリタスの所用でローマに来たときに、ANAの飛行機の中で見ました。ストーリーはちょっと荒唐無稽だなと思いますし、明らかに現実的ではないフィクションですし、実際にバチカンで撮影しているのでもないので、いろいろと実際とは異なるところがありますが、よくできた映像だと思います。映画の公開を通じて、日本でも、本当の教皇選挙に注目して頂けた部分も多くあろうと思います。

とはいえ、映画にあるように、あからさまな票のとりまとめとか、「これは戦争だ」と意気込んでみたり、いろいろと画策したり、皆の面前で、おまえはもうだめだみたいな指摘をしたりという、生臭い話は、残念ながらフィクションです。ああいったことは全く起こらず、食事の席では、互いに知らない人が多いので、自分の国の教会について互いに教え合ったり、非常に和気あいあいとしていました。この下の写真は、サンタマルタの廊下ですが、楽しくお話をして仲良しになった、バーク枢機卿(米国出身)の後ろ姿です。もちろんこの写真の撮影は、教皇選挙が終わって、スマホが警備から戻ってきてからのことです。

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サンタマルタに皆が到着したのは、選挙の前日です。そこで生活しているバチカンで働く聖職者はすでに他の施設に一時避難して、部屋をすべて教皇選挙投票者のために空けています。特設の入口には、空港と同じ保安検査の台が設置され、携帯やパソコンを始め、充電器など、すべての電子製品を没収され、特別な密封封筒に入れられます。皆、空港の検査以上だと驚いておいましたが、あれほど時間をかけて完全に検査されるとは思いませんでした。電子的な腕時計をしていた枢機卿も多く、すべて取り上げでしたので、部屋には時計がありませんから、多くの枢機卿から時間が分からないとの声が上がり、サンタマルタの職員の方が、慌てて電池式の目覚まし時計を大量にそろえたほどです。

部屋は、下の写真のように、窓ガラスには布が張られ、外のブラインドは開けないように、バチカン警察の封印がされていました。わたし達の泊まった部屋も、その前日までにバチカン警察のセキュリティー検査が行われ、わたしたちが入室する直前まで、扉が封印されていました。

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すでにスマホは持っていないし、パソコンもないのですが、サンタマルタの全館に特別な装置が設置してあって、携帯の電波は一切届かず、館内電話も外線に繋がりません。こうなると、やることがなくなります。厳格な黙想会にいるようなものです。本を読むか、祈りをするかしかありません。サンタマルタには一階に、教皇フランシスコが毎日ミサを捧げていた聖堂がありますが、今回はいつ足を運んでも、何名もの枢機卿さんたちが祈っている姿がありました。スマホやパソコン禁止も、もちろん外部からの情報で左右されないようにという独立性の理由もありますが、現代社会ではそれ以上に、祈る時間をしっかりと持つことにも繋がると実感しました。

バチカンニュースの映像や、日本では日テレのまとめ映像にもシスティーナ聖堂での選挙準備の様子が公開されていますが、各自の指定席の前に、名簿一覧などと併せて、緑色の結構分厚い本が全員の席に置かれています。一度映像をお探しください。この本は、教皇選挙の具体的なやり方や祈りの言葉や所作などをすべて記したもので、左側のページがイタリア語、右側のページがラテン語で、実際にはラテン語ですべて唱えますが、具体的な指示は、イタリア語を読んで行われていました。とにかくこの選挙は長い伝統の上に成り立つ儀式ですから、しっかりと定められたとおりにしないと無効になりますので、皆一生懸命、これを読み込みました。

またシスティーナ聖堂は、数年前に日本の企業のおかげで修復が進みきれいになっていますが、皆が投票する間は、ただひたすら待つだけですので、すべての素晴らしい芸術を、ゆっくりと眺める贅沢な時間を頂きました。

教皇選挙がよりよく行われるようにお祈りくださった多くの方には感謝ですが、それ以上に、投票権者の枢機卿団を外界から隔離して生活を維持させ、不測の事態に備えて待機し、食事を用意し、厳重な警備をし、また諸々の行事を行ってくださるために、枢機卿たちと同じように、バチカンに泊まり込みで働き支えてくださったバチカンの職員の方々には、感謝しかありません。選挙が二日で終わったとき、教会のみなさんもお喜びになられたことでしょうし、枢機卿たちも喜びましたが、一番喜ばれたのは、家庭に戻ることができる職員の方々であったと思います。職員の方々は、あの晩、投票を終えてサンタマルタに戻ってきた枢機卿たちを、玄関ホールに皆で列を作り、拍手で迎えてくださいました。わたしたちの方こそ、職員の方々に感謝しなくてはなりません。

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というわけで、お話しできる内容はこれくらいです。教皇レオ14世が、これからどのような言葉を語るのか、どのような行いをするのか、どのような方向へ歩もうとするのか、期待のうちに待ちたいと思います。教皇様のために祈り続けましょう。

 

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教皇レオ14世の誕生にあたり

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教皇レオ14世の誕生にあたって

5月8日夕刻、バチカンのシスティーナ聖堂に集まったわたしたち133名の枢機卿団は、前日7日の夕刻に始まった教皇選挙における第4回目の投票で、兄弟であるロバート・フランシス・プレヴォスト枢機卿を、第267代目の教皇に選出しました。

同枢機卿は枢機卿団の前で、首席枢機卿代理のピエトロ・パロリン枢機卿からの問いかけに答えて選挙の結果を受諾し、「レオ」と名乗ることを宣言されました。教皇レオ14世の誕生です。

レオ14世は、アウグスチノ修道会に属する修道者であり、また米国出身者として初めての教皇となられましたが、アウグスチノ修道会の総長を務めた経験や、ペルーにおける豊富な宣教師としての体験、さらにはペルーで教区司教として務めておられたこともあり、福音宣教の現場に精通しておられる教皇様です。また直近ではバチカンの司教省長官を務められ、司教の役割についても精通しておられます。その意味で、教会の司牧の現場と行政の現場の両方に深い知識と経験を持つ、力強い牧者の誕生であります。

教皇選挙の直前、フランシスコ教皇が帰天された翌日から教皇選挙の前日まで、日曜と5月1日を除いて毎日開催された枢機卿団の総会には、毎回、180名近い枢機卿が参加し、日本から参加したわたしや前田枢機卿様を含め、ほぼ全員が発言する機会を与えられました。その中で繰り返し強調されたのは、教皇フランシスコの類い希な深い霊性に基づく決断力と行動力への感謝の言葉であり、同時に教皇フランシスコが残された道を継続して歩み続けることの必要性でありました。しかしながら枢機卿団は、教皇フランシスコの後継者を探しているのではなくて、使徒ペトロの後継者を捜し求めているのだということを、皆が心に深く留めていました。枢機卿団が祈りのうちに求めたのは第二の教皇フランシスコの誕生ではなく、主ご自身から牧者となるように委ねられた教会を忠実に導く使徒ペトロの後継者でありました。多くの枢機卿が、多様性を尊重しつつも、信仰における明白性を持って、教会が一致することの重要性を強調されました。

これから教皇レオ14世がどのような司牧の道を進まれるのかは未知数です。教皇フランシスコとは異なる道を歩まれるかもしれません。引き継がれることも多くあるでしょう。そういった教会の現実の中で、ペトロの後継者に聖霊の豊かな祝福と、護りと、導きがあるように、教皇様のために日々お祈りいたしましょう。

サンピエトロ広場での第一声で、教皇レオ14世は、キリストの平和を確立することの重要性を説かれました。また対話と出会いの重要性を説かれました。共に道を歩むことの大切さも強調されました。現代の教会における社会教説の基礎となった回勅「レールム・ノヴァールム」を1891年に発表されたのは、レオ13世でした。レオの名前を継がれた教皇様には、社会に対する教会の働きかけについての強い思いがあるものと思います。

教皇様の声に耳を傾けながら、これからともに歩んで参りましょう。

また教皇を支え歩みを共にする枢機卿団のためにも、どうかお祈りくださいますようにお願いいたします。

2025年5月9日

カトリック東京大司教区 大司教
枢機卿 菊地功

(なお冒頭の写真は、2025年5月10日、午前10時からシノドスホールで開催された、教皇レオ14世と枢機卿団との最初の集まりで.。また下の写真は、同じ集まりで、バティスタ・レ首席枢機卿からのお祝いと励ましの言葉に耳を傾ける教皇レオ14世。レ枢機卿は壇の下におり、画面に映し出されています)

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2025年5月10日 (土)

週刊大司教第208回:復活節第四主日C

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復活節第四主日です。

教皇選挙については、できる範囲で別途記します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第208回、復活節第四主日メッセージです。

復活節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第208回
2025年5月11日

ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえを記しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と主は言われます。

復活の命への希望へと招いてくださる羊飼いである主イエスは、わたしたち羊をよく知っておられます。先頭に立って常に旅路をともに歩んでくださいます。そして常に呼びかけておられます。

問題は、先頭に立ってわたしたちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を、果たしてわたしたちがしっかりと聞き分けているのかどうかでしょう。

現代社会はありとあらゆる情報に満ちあふれ、人生の成功の鍵という魅力的な誘惑で満ちあふれています。選択肢があればあれほど、決断が難しくなり、多くの人がその波間を漂いながら時を刻んでいます。その中で、希望の道へと招いてくださる牧者の声に耳を傾けることは、容易ではありません。それだからこそ、教皇様はいま進められているシノドスの歩みを最優先事項としているのであり、教会は2028年の予定されている教会総会に向けて、シノドスの道をともに歩みながら、互いに支え合い、耳を傾け合い、祈りのうちにその導きを識別しようと努めています。羊飼いの声を聴き分ける羊となろうとしています。

復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。元来は司祭・修道者の召命のために祈る日ですが、同時に、シノドス的な歩みを続ける教会にあっては、すべてのキリスト者の固有の召命についても黙想し祈る日でもあります。牧者の声を識別する役割は、すべてのキリスト者の務めであるというのが、シノドス的な教会の一つの特徴です。

今年の祈願日のメッセージで教皇フランシスコは、「召命とは、神が心に授けてくださる尊いたまものであり、愛と奉仕の道に踏み出すべく自分自身の殻から出るようにという呼びかけです。そして、信徒であれ、叙階された奉仕者であれ、奉献生活者であれ、教会におけるすべての召命は、神が、世に、そしてご自分の子ら一人ひとりに、糧として与えてくださる希望のしるしなのです」と記しておられます。

その上で教皇様は、世界がめまぐるしく変わる中で翻弄されて道を見失っている若者たちに特に呼びかけて、こう記しています。

「立ち止まる勇気を出して、自らの内面に聞き、神があなたに思い描くものを尋ねてください。祈りの沈黙は、自分自身の人生においての神からの呼びかけを「読み取る」ために、そして自由意志と自覚をもってこたえるために、不可欠なものです。」

第二バチカン公会議の教会憲章に、信徒の召命について、「信徒に固有の召命は、・・・自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである(31)」と記されています。

牧者であるキリストの声は、わたしたちだけでなくすべての人に向けられています。それを正しく識別するために、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

ビデオを添付すると欧州内ではFBにお知らせした場合に警告が出ることがありますので、youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントをご覧ください。

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2025年5月 3日 (土)

週刊大司教第207回:復活節第三主日

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復活節第三主日になりました。

現在進行中の教皇選挙コンクラーベについては別途後刻にできる範囲で記します。秘密保持の宣誓をしますので、投票の内容についてお話しすることはできません。また事前に行われている枢機卿総会(投票権を持つ枢機卿と80歳を超えている枢機卿のすべてが参加)の内容も、一部マスコミに漏れていますが、秘密保持の宣誓をしていますので、詳らかにすることはできません。基本的には、教会の現状を見つめ直し、財政について報告を受け、次の教皇に必要な情報を分かち合う場になっています。

投票の開始は5月7日となりました。この日は、午前中に投票権を持った枢機卿団でミサを捧げ、夕方から全員が聖歌を歌いながらシスティナ礼拝堂に入堂し、一人ずつ宣誓を行った上で、最初の投票が行われます。投票権者の三分の二の得票が必要ですので、この一回目で決まることはないと言われています。その後、翌日からは、一日に四回の投票が行われます。現時点で、135名の有権枢機卿のうち、2名が病気のために欠席、そしてまだお二人の枢機卿がローマに到着していません。

どうか、教会の進むべき道を見いだすよりふさわしい牧者が選ばれますように、聖霊の導きをお祈りください。お願いいたします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第207回、復活節第三主日のメッセージです。

復活節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第207回
2025年5月4日

復活されたイエスは、自らの言葉と行いで、弟子たちの記憶を呼び覚まし、ご自分が復活の主であると証ししていきます。

漁に出たものの何もとれずに一晩を過ごした弟子たちに、網が破れんばかりの大漁という驚くべき出来事と、食事を一緒にしパンと魚を分け与えることを通じて、十字架の上での死を迎える前に、弟子たちが主イエスと共にいる中で体験した記憶を呼び覚まします。復活の主における永遠のいのちへの希望を確信した弟子たちは、勇気を持ってイエスと同じように、言葉と行いで、希望への道を証しする旅路を歩み始めました。

イエスが捕らえられたあと、三度にわたってイエスを知らないと否んだのはペトロでした。復活されたイエスは、同じく三度にわたって、「私を愛しているか」と尋ねたことをヨハネ福音は記します。ペトロは三度、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えます。

イエスは、自分を捨てて、自分の十字架を背負って従うことを求めていました。いざというときに三度にわたって逃げようとしたペトロに対して、イエスは三度にわたって命を賭けてまで神を愛するのかと問いかけます。三度目の問いかけでペトロは始めてイエスのその切々たる思いを心に感じ、「主よあなたは何もかもご存じです」と応えています。このときペトロはイエスに身を委ねることで、初めてイエスに生かされて希望のいのちの中に生きることが可能となりました。

わたしたちはイエスに従うものでありたいと願っています。それは書かれた教えや規則に忠実であることだけでは到達できません。もちろん知識は重要です。約束事も重要です。しかしそれだけでは足りないのです。

生きるか死ぬかのいざというときに、知識はあまり役に立ちません。わたし自身も、ちょうど30年前のルワンダ難民キャンプで体験しました。武装集団が難民キャンプを襲撃した銃撃戦の中で、「友のために命を捨てる、それ以上の愛はない」と言うイエスの言葉を知識で知っていても、恐怖は積極的な行動を抑制しました。そのときに力を発揮するのは、何に身を委ねているのかであると、そのときにつくづく感じました。

ペトロがそうであったように、イエスご自身に完全に身を委ねることができたとき、つまりわたしたちが自分の弱さを認めたときに、初めて福音があかしされるのです。わたしがその道具となることができるのです。伝えるのは私の思いではありません。わたしたちが伝えるのは、希望のうちにわたしたちを生かしてくださる主の言葉と行いです。

ビデオリンクは後日記載しますが、Youtubeの、カトリック東京大司教区のアカウントをご覧ください。

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2025年5月 1日 (木)

この過ぎた一週間について

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教皇フランシスコが復活の月曜日早朝、4月21日に帰天されてから10日が過ぎました。あらためて、教皇フランシスコの果たされた普遍教会の牧者としての務めに感謝すると共に、その永遠の安息をお祈りいたします。

さて、教皇帰天の日の日本時間の夜、首席枢機卿からメールが来ました。首席枢機卿はジョバンニ・バチスタ・レ枢機卿で、御年91歳。お元気です。かつてヨハネパウロ二世の時代には国務次官、その後司教省長官を務めた方です。教皇様の葬儀の司式をされて、ビデオをご覧になった方はご存じでしょうが、とても力強い声で説教をされてました。

メールはすべての枢機卿に宛てられた通知で、翌火曜日の朝9時から枢機卿総会(General Congregation)を行うというものです。会場はバチカンのシノドスホール。もちろん行けるわけがありません。首席枢機卿事務局に問い合わせると、可能な限り早くローマに来てくださいとのこと。チケットの手配をするのですが、この時期、日本に来る方も多ければ逆の人も多い。しかも即座に東京での仕事を中断することもできない。というわけで、やっと手配できたのが、木曜日に関空から出るターキッシュ(トルコ航空)でした。その晩の関空発のターキッシュはほぼ満席。これでよく一席とれたものだと感心しながら機内に入ると、大阪万博に来られたトルコ政府をはじめとした関係者の方々で、機材も普段より大型化していました。おかげで一席取れたものだと思います。

出かける直前までいくつものメディアの方の取材が続き、ギリギリで、NHKの一時間ほどのラジオの収録もできました。お聞き頂いた方もおられることかと思います。「宗教の時間」という番組です。また、事前に約束していたオリエンス宗教研究所の講座向けの一時間のビデオ収録も済ませました。

さて、金曜日の午前中にローマに到着し、その日の夕方4時くらいに、国際カリタスの事務局長他スタッフと一緒に、教皇フランシスコのご遺体が安置されている聖ペトロ大聖堂まで向かい、お祈りをしてくることができました。

翌土曜日朝、バチカン周辺はすさまじい警戒で、道路はすべて封鎖。なんとか聖ペトロ大聖堂までたどり着いて、葬儀ミサに出席しました。枢機卿たちの着替えは大聖堂の三分の一を仕切って行われましたが、いつも以上に高いカーテンで仕切られていたのは、その向こうを各国の首脳が通られるからで、またトランプ大統領とゼレンスキー大統領の会談も、その向こうの遙か彼方の片隅で行われたと後で伺いました。そのときは、全く気がつきませんでしたが。

広場で行われた葬儀ミサですが、祭壇を挟んで向かって右が各国首脳、左が枢機卿団です。わたしはたまたま一番前の列でしたが、祭壇向こうに、各国首脳が間近に見える場所でありました。

ミサ後に外へ出るにもかなりの時間を要しましたが、その間に教皇様の棺は各国訪問でも使われたパパモービルに乗せられ、埋葬場所と指定されたサンタマリアマジョーレ大聖堂に向かい、沿道に集まった多くの方々が、別れを惜しんで拍手で教皇様を送りました。

その日から9日間は喪に服すミサが行われることになっており、その二日目のミサは、本来はカルロ・アクティスの列聖式が予定されていた復活第二主日であり、列聖式は教皇様がいないとできませんから延期されましたが、多くの若者がイタリア中から集まり、パロリン枢機卿が司式して追悼ミサが捧げられました。現代の若者である聖人の誕生が少し先延ばしになりましたが、教皇様を偲んで、多くの若者たちが祈りを捧げました。


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翌月曜日から、わたしはやっと枢機卿総会に参加できることになりました。パウロ六世ホールの上にあるシノドスホールが会場で、イタリアの休日である5月1日と、日曜日の5月4日を除いて、毎日、5月5日まで、朝9時から午後1時まで、会議が行われます。月曜日には枢機卿団でバスに分乗し、サンタマリアマジョーレ大聖堂まで出かけ、教皇フランシスコの墓前で祈りを捧げました。

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遅れて到着した枢機卿たちは、まずラテン語で秘密保持の宣誓を行い、宣誓書に署名します。したがって、メディアに対してもそうですが、枢機卿総会で話されたことを口外することはできないはずなのですが、メディアでの報道を見ると、なぜか少しづつ漏れています。確かに毎日、会場入口付近には各国のメディアが待ち構えており、すさまじいまでの取材合戦になっています。

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また5月5日までは、連日夕方5時から追悼の九日間のミサが捧げられており、それに参加しますから、結局、どこかで昼食をとってこなくてはならず(会場で食事は出ませんので)、またミサには一時間前に集合なので、ほぼ丸一日かけて、様々な行事が進められています。

ご存じのように、わたしが最初に参加できた月曜日の総会で、教皇選挙は5月7日に開始と決まりました。それ以外の内容は、毎日、教皇庁の広報省からプレスリリースが出ています。これについては、中央協議会のホームページで特集が組まれ、記者発表も翻訳が随時掲載されていますので、ご覧ください。また同ページにも掲載されていますが、枢機卿団は二つの声明を採択し、公表していますので、ご覧頂ければと思います。

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火曜日の総会のはじめには、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ修道院長のドナート・オグリアリ師による講話があり、祈りの雰囲気のうちに会議は進んでいます。火曜日の段階で、投票権を持った枢機卿のうち124名がローマに到着しています。お二人が健康上の問題で参加できないと通知しています。あと数名の枢機卿の到着を待っているところです。

あらためて、どうか、教皇選挙のために、皆様のお祈りをお願いいたします。聖霊の導きによって、よりふさわしい牧者を、わたしたち枢機卿が選ぶことができるように、賢明な判断をする子ができるように、お祈りくださるようにお願いいたします。

 

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2025年4月26日 (土)

週刊大司教第206回:復活節第二主日C

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復活節第二主日です。

本日は教皇フランシスコの葬儀ですが、時差もありますので、これは後ほど記事を書きます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第206回、復活節第二主日メッセージです。

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週刊大司教第206回
2025年4月27日

「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのメッセージに基づいて、復活節第二主日を「神のいつくしみの主日」と定められたのは、教皇聖ヨハネパウロ二世であります。この主日にわたし達は、「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と、信じることのできなかったトマスを見放すのではなく、改めてその平和のうちに招こうとされる主のいつくしみに信頼し、そのあふれんばかりの愛のおもいに身をゆだねる用に招かれています。同時に、わたし達を包み込まれる神のいつくしみを、今度は他の人たちに積極的に分かち合うことを決意する主日でもあります。

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。

「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

わたし達が生きているいまの世界は、果たしていつくしみに満ちあふれている世界でしょうか。いつくしみに満ちあふれることは、決してただただ優しくなることではなく、根本的には神からの賜物であるいのちの、それぞれの尊厳を守ることを最優先にすることを意味しています。ですから、他者を排除したり、切り捨てたりすることはできません。

復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。「平和があるように」という挨拶の言葉は、「恐れるな、安心せよ」と言う励ましの言葉にも聞こえます。同時にここでいう「へいわ」すなわち神の平和とは、神の支配の秩序の確立、つまり神が望まれる世界が実現している状態です。そのためには「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」というイエスの言葉が実現しなくてはなりません。わたし達は何のために遣わされているのでしょうか。

イエスは弟子たちに聖霊を送り、罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。排除ではなく、交わりへの招きです。断罪ではなく、人間の尊厳への限りない敬意のあかしであります。

交わりの絆は、わたし達の心に希望を生み出します。わたし達の信仰は、いつくしみ深い主における希望の信仰です。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちの尊厳に敬意を払い生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみは、わたし達の希望の源です

 

 

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2025年4月22日 (火)

教皇フランシスコの帰天にあたり、東京大司教よりみなさまへ

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カトリック東京大司教区の皆様

教皇フランシスコの逝去に際して

わたしたちをシノドスの道へと力強く導いてくださった教皇フランシスコは、ローマ現地時間4月21日7時35分(日本時間4月21日14時35分)、88年にわたる人生の旅路を終え、御父のもとへと旅立たれました。

1936年12月にホルヘ・マリオ・ベルゴリオとしてアルゼンチンで誕生された教皇フランシスコは、イエズス会員として、1969年に司祭に叙階され、1973年から6年間は、イエズス会アルゼンチン管区長を務められました。1992年5月20日、教皇ヨハネ・パウロ二世からブエノスアイレス補佐司教に任命され、同年6月27日に司教叙階、1997年6月3日にブエノスアイレス協働大司教となり、1998年2月28日から同教区大司教となりました。2001年2月21日には教皇ヨハネパウロ二世から枢機卿に叙任され、2005年から2011年までの6年間は、アルゼンチン司教協議会会長も務められました。

ベネディクト16世の引退を受けて行われたコンクラーベ(教皇選挙)において第266代教皇に選出された教皇フランシスコは、七十六歳という年齢でしたが、力強く明確なリーダーシップをもって、教会が進むべき方向性と現代社会にあって教会があかしするべき姿勢を明確に示してくださいました。

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わたしは2013年5月、国際カリタスの理事会の際に初めて教皇フランシスコに会いました。これまでの伝統を破り、教皇宮殿には住まないと決められた教皇様は、宿舎の聖堂にわたしたちを招き入れ、集まった理事全員と直接に話をされました。皆を集めてそれぞれの声に耳を傾ける姿勢は、その後のシノドスの道に繋がっている教皇フランシスコの基本姿勢です。その基本姿勢は、最初の使徒的勧告「福音の喜び」において明確に示され、回勅「ラウダート・シ」で具体化され、第16回世界代表司教会議(シノドス)の運営において確固たるものとなりました。教会は今、シノドスの道を、すなわち互いに耳を傾け合い、互いに支え合い、互いに祈りのうちに聖霊の導きを識別する道を当たり前の姿にしようとしています。

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わたし自身も参加した二度にわたる今回のシノドス総会において、教皇フランシスコはしばしば、「聖霊が主役です」と言う言葉を繰り返されました。今教会に必要なのは、聖霊の導きに素直に耳を傾けることです。

教皇フランシスコは2019年11月、コロナの感染症ですべてが停止する直前に、日本を訪れてくださいました。わたしは東京の大司教として、東京でのプログラムで教皇様の先導役を務めましたが、特に東京ドームの中を一緒にオープンカーに乗って回ったとき、本当に心から喜びの笑顔で、集まった皆さんに手を振り、子どもたちに祝福を与えられる姿に、愛といつくしみに満ちあふれた牧者の姿を見ました。少しでもその姿に倣いたいと思いました。

2020年以降の世界的な感染症によるいのちの危機や、頻発する戦争や武力紛争は、人々から寛容さを奪い去り、排除と暴力と絶望が力を持つ世界を生み出してしまいました。その現実に対して教皇フランシスコは、2025年聖年のテーマとして「希望の巡礼者」を掲げ、ともに助け合いながら歩むことで教会が世界に対して、キリストにおける希望をあかしする存在となるように求められました。シノドス的な教会は、キリストの希望をあかしする宣教する教会です。

まさしく聖年の歩みを続けているこのときに、力強い牧者を失うことは、教会にとって大きな痛手です。

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教皇フランシスコは昨年12月7日にわたしを枢機卿に叙任してくださいました。枢機卿としてどのような形で教皇様を支えることができるのか、まだそれも明確にお聞きしていないうちにこのような別れの時が来るとは予想もしていませんでした。教皇様の期待されている役割を見いだしながら、その姿勢に倣って共に歩む者であり続けたいと思います。

教皇フランシスコの逝去にあたり、これまでの長年にわたる教会への貢献と牧者としての導きに感謝し、御父の懐にあって豊かな報いをうけられますように、永遠の安息を共にお祈りいたしましょう。

2025年4月21日
カトリック東京大司教区大司教
枢機卿 菊地功

 

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2025年4月21日 (月)

2025年復活の主日@東京カテドラル

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主イエスの復活、おめでとうございます。

雨も心配された東京の復活の主日でしたが、風が強かったものの、天気はなんとか持ちました。多くの方が東京カテドラル聖マリア大聖堂の午前10時のミサに参加してくださいました。いつもの席では足りずに、予備の折りたたみ椅子がかなり使われましたので、五百から六百人以上がミサで祈りを共にされたかと思います。

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ミサ後には、昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられて方へのお祝いも兼ねて、ケルンホールで祝賀会が催されました。おめでとうございます。感染症の影響でこの数年はこういった集まりが困難でしたが、久しぶりに、新しく洗礼を受けた方々を迎えて祝賀会となりました。

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以下、本日のミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月20日

御復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた皆さんには、特にお祝いを申し上げます。

洗礼を受けられたことで、ひとり一人はイエスの弟子としての旅路を始められました。それはただ単にイエスと一緒に歩き始めたということ以上に、キリストの身体を造り上げる一つの部分となったということをも意味しています。

今年教会は25年に一度の聖なる年、聖年の道を歩んでいます。そのテーマは「希望の巡礼者」であります。

聖年の大勅書「希望は欺かない」で教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の現代世界憲章を引用して、「神という基礎と永遠のいのちに対する希望が欠けるとき、・・・人間の尊厳はひどく傷つけられ」、それが絶望を生み出すのだと指摘されました。

人間のいのちは、完全な存在である神の似姿として創造されたことによって、はじめから尊厳が与えられています。いのちを賜物として与えられているわたしたちキリスト者には、その尊厳を守る務めが託されています。そこに例外はありません。

教皇様は、絶望に満ちあふれた世界に生きているとは言え、「わたしたちは、自分を救ってくれた希望のおかげで、過ぎ去る時を見て、人類の歴史とひとり一人の人生は、行き止まりや暗黒の深淵に向かっているのではなく、栄光の主にお会いすることに向かって進んでいるという確信を得ています」と記しています。

わたしたちは洗礼を受けることでイエスの死と復活に与り、永遠のいのちの希望を与えられました。わたしたちは復活された主に向かって、常に歩み続けている「希望の巡礼者」であることを心に刻みましょう。

教会はこの巡礼の旅路を、みなで一緒になって歩む共同体です。もちろんひとり一人のキリスト者にはそれぞれ独自の生活がありわたしたちは共同生活をしているわけではないので、みなが同じような仕方で、共同体に関わるのではありません。共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、どのような形であれ、共同体の一員となるということは、日曜日に教会へ来るときだけでのことではなく、洗礼を受けたことで、信仰において共同体にいつでもどこにいても結ばれていることを、心に留めておくことであると思います。

洗礼の恵みによって、さらにはご聖体と堅信の恵みによって、わたしたちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきをわたしたちが消し去ることはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で努めていただくことを期待しています。そしてこれからも一緒に希望をあかしする巡礼者として歩んで参りましょう。

本日の第一朗読である使徒言行録は、弟子たちのリーダーであるペトロが、力強く主イエスについてあかしをしながら語る姿と、その言葉を記しています。

「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と高らかに宣言するペトロは、ヨハネ福音の中では全くの別人のように描かれています。

あの最後の晩、三度にわたってイエスを知らないと宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、大いなる喪失感と絶望の中で、主の復活という希望をまだ理解できていません。今日のヨハネ福音には復活された主ご自身は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を目の当たりにしながら、しかし理解できずに困惑するペトロや弟子たちの姿です。

その弱々しく絶望に打ちひしがれたペトロを、使徒言行録が記しているような力強くイエスについて宣言するペトロに変えたのは一体何だったのでしょうか。

そこには復活された主ご自身との出会いによって、ペトロや弟子たちが永遠のいのちへの確信を与えられたことと、その確信が生み出す希望がありました。

洗礼によってわたしたちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との出会いがあります。わたしたちはこの共同体の交わりの中で、様々な形で主と出会います。共に祈る中で、主の導きをいただきます。共に与る聖体祭儀で共に主と一致し、信仰における兄弟姉妹と一致します。わたしたちの共同体は交わりの共同体であり、その交わりは信仰における永遠のいのちへの確信を深め、人生の旅路を歩み続ける希望を生み出します。

わたしたちが受けた福音は、わたしたちがいただく信仰は、単なる知識や情報の蓄積ではなくて、具体的にわたしたちが行動するように促し、具体的にそれを多くの人に証しし、世界に希望を生み出すように前進するようにと促す力であります。

2020年に直面した世界的ないのちの危機以来、わたし達は混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した、例えばウクライナやガザをはじめ世界各地の戦争や紛争はやむことなく、今日もまた、いのちの危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。クーデター以降不安定な政治状況が続き、平和と民族融和を唱える教会への攻撃まであるミャンマーでは、先日発生した大地震によって、さらに多くの人のいのちが、いま、危機に直面しています。いのちが暴力から守られるように、神の平和が確立するように祈り続けましょう。

このような状況のただ中に取り残されることで、多くの人の心には不安が生み出され、世界全体が身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、それを暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。

人はそのいのちを、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、わたし達のいのちの否定に繋がります。いのちの否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定に繋がります。

互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、希望を打ち砕き絶望を生み出す世界です。神に背を向ける世界であります。

いのちを生きる希望を、すべての人の心に生み出すことが、いま、必要です。わたし達は、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けましょう。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望は、永遠のいのちへと復活された主のうちにあり、ともに歩む教会共同体の中で豊かに育てられます。勇気を持って、この社会に対して、希望の源である復活の主イエス・キリストをあかしして参りましょう。

 

 

 

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2025年4月19日 (土)

2025年復活徹夜祭@東京カテドラル

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御復活おめでとうございます。

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本日の復活徹夜祭で、多くの方が洗礼を受け、新たに教会共同体に迎え入れられた方が多くおられると思います。洗礼、聖体、堅信の秘跡を受けられた皆さんも、おめでとうございます。

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関口教会でも、今晩のミサの中で13名の方が洗礼を受けられました。新しい兄弟姉妹を迎えて、教会は新たにされ常にいのちに満ちあふれていることを実感します。一人でも多くの人に、この希望の喜びを伝えることができるように、復活の主の導きを願いましょう。

以下、本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭での説教です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月19日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

わたしたちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、わたしたちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

この旅路をわたしたちは、一人孤独に歩んでいるわけではありません。先行きが見通せない旅路を、一人孤独に歩むことほど不安なことはありません。わたしたちの旅路は、まずもって主イエスとともに歩む旅路であり、信仰を同じくする兄弟姉妹とともに、支え合いながらともに歩む旅路であります。

この数年間、わたしたちは世界のすべての人たちとともに様々な形でのいのちの危機に直面してきました。感染症の蔓延に始まって、その中で起こった戦争。東京教区の長年のパートナーであるミャンマーで起こったクーデターとその後の混乱。ウクライナでの戦争。ガザでの紛争の激化。中東シリアやアフリカ各地でも紛争は深まっています。多くのいのちが暴力的に奪われ、先行きが見えない不安の中で暗闇だけが深まりました。いのちを暴力的に奪われているのは、わたしと等しく御父から賜物としていのちをいただいている兄弟姉妹です。

暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延であり、異質な存在に不安を感じることによる排除であり、蔓延する不安は絶望を深め、わたしたちから希望を奪い去りました。

いま世界を支配しているのは暴力と、不安と絶望です。あまりにも暴力的な状況が蔓延しているがために、世界には暴力に対抗するためには暴力を用いることが当たり前であるかのような雰囲気さえ漂っています。

御父がいつくしみと愛のうちにわたしたちに与えてくださった賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく、守られなくてはなりません。神の似姿として創造されたすべてのいのちは尊厳が刻み込まれており、その人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。いのちを奪う暴力は、どのような形であれ許されてはなりません。

絶望の闇の中で必要なのは、互いに助け合い支え合いながら、人生の旅路をともに歩むことです。ともに歩む兄弟姉妹の存在こそは、わたしたちの心の支えであり、絶望を希望に変える力を持っています。加えて旅路を歩むわたしたちのその真ん中には、復活された主イエスがおられます。

復活のいのちに生きる主イエスこそは、わたしたちが永遠のいのちを生きる約束であり、真の希望です。わたしたちの信仰者としての人生は、イエスにおける希望に満ちあふれた、希望の巡礼者の旅路であります。

教皇様は、「希望の巡礼者」をテーマとする聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。そしてわたしたちは教会共同体の中で生かされ、その中で主イエスと「生き生きとした個人的な出会い」を持ち、永遠のいのちの希望に力づけられ、その希望を掲げながら、ともに人生の旅路を歩み続けます。

週の初めの日の明け方早く、十字架上で亡くなられたイエスの遺体を納めた墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたあのときの衝撃に支配されていたのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。そこに天使が出現し、イエスは生きていると告げます。道を見失い途方に暮れていた婦人たちに、天使は進むべき道を示します。その道はすでにイエスによって示されていたのです。天使はガリラヤを思い起こすようにと告げます。

ガリラヤは、イエスとイエスにしたがった人たちが、最初に出会った地であります。信仰に生きることの意味を、イエス自身がその言葉と行いを持って直接に教えた地です。それは単に過去の思い出ではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える希望に生きるための指針であります。

弟子たちも、頼りにしていた先生を暴力的に奪われ、途方に暮れていたことを福音は記します。実際にイエスの体が墓にはないことを目の当たりにしたペトロは、ただただ「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。ペトロはそれまでいた家に立ち帰ったのであって、旅路を前進したわけではありません。主イエスは立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。

信仰は旅路です。闇雲に歩いているのではなく、主ご自身がともに歩みながら示される指針を心に刻みながら、主とともに、そして兄弟姉妹とともに歩みを続ける、希望の旅路です。

わたしたちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。旅路の希望は、主が示される旅路にしかあり得ません。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点です。

今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。皆さんは一人孤独のうちに歩むのではなく、わたしたち教会共同体の皆と一緒に、互いに助け合い、支え合いながら、祈りのうちともに歩み続けます。そこには必ず主がともにおられます。

復活の主への信仰のうちに、ともに希望を掲げ巡礼の旅路を一緒に歩んで参りましょう。
 

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