2021年10月17日 (日)

シノドス開始ミサ@東京カテドラル

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本日10月17日、教皇様は世界中のすべての教区で、2023年秋のシノドスに向けた歩みを始めるようにと指示をされました。東京教区では、カテドラルである関口教会の午前10時のミサを、大司教司式ミサとして、シノドス開始のミサとしました。

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神の民としてともに歩みこの道程は、教会のあり方を見つめ直し、新たなあり方を模索する道ですから、教会にとっての回心の道でもあります。関口教会のミサでは、本来は聖堂の外でシノドスの祈りを唱え、回心を象徴して灌水した後に、皆で入堂する予定でしたが、あいにくの雨模様となり、皆さんには席に着いたままで、侍者と司祭団が大扉から入道しながら灌水して始めることといたしました。

シノドス事務局が準備した文書(リンクは日本語訳です)には、今回のシノドスの目的がこう記されています。

「次の基本となる質問がわたしたちを促し、導いてくれます。今日、さまざまなレベル(地方レベルから全世界レベルまで)で行われているこの「ともに旅をする」ことは、教会がゆだねられた使命に従って福音を宣べ伝えることを可能にするでしょうか。また、シノドス的な教会として成長するために、聖霊はどのような段階を踏むようにわたしたちを招いているでしょうか」

この準備文書に記されている10の「探求すべきテーマ」については、今後順に説明してまいりますし、教区のホームページの特設コーナーでは、今週以降、順次、共通理解のためのビデオを公開します。一緒に歩みましょう。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

年間第29主日B
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年10月17日

教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

その上で教皇様は、教会全体にとって、シノドスがまさしくその意味するところである「ともに歩む」プロセスの具現化となることを望まれて、これまでとは異なるシノドスのあり方を定められました。それは、シノドスがローマで行われる2023年の司教たちによる会議だけに終わらず、世界中すべての教区のすべての人と歩みをともにするプロセスとなることであります。

これまでは、テーマに基づいた準備文書がバチカンの事務局で作成され、それに対して各国の司教団が回答を送り、さらにその回答に基づいて具体的な討議資料が作成されて本番の会議に臨むというプロセスでした。これでは確かに、司教たちの考えは集約されますが、教会全体の識別を反映しているとは言い難い。そこで今回は、2021年10月からシノドスの歩みを始めることになり、まず最初の半年ほどで各教区での振り返りと識別が行われ、そこからアジアやアフリカなどの地域別に繋がり、あらゆる声に耳を傾けた上でのローマでの会議という、2年間にわたるプロセスが開始されることになりました。

すでに先週、教皇様は、今回のシノドスのプロセスの開始を、ローマから告知されていますが、世界中の教区は10月17日の主日を持って、それぞれの教区におけるシノドスの歩みを始めるようにと指示をされています。東京教区では本日のこのミサを持って、また各小教区で同様の意向で捧げられているミサを持って、シノドスの歩みを開始いたします。

9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されています。これまでのやり方に固執することなく、勇気を持って新しいあり方を模索することは、教皇フランシスコが教会にしばしば求められる道です。

2015年にシノドス創設50周年の式典が行われたとき、教皇様はこう述べておられます。

「まさに『シノドス性』の歩みとは、神が第三千年期の教会に期待しておられる歩みなのです。ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて『シノドス』(ともに歩む)ということばの中にすでに含まれています。信徒と司牧者とローマの司教がともに歩むこと、それをことばでいうのは簡単ですが、実行に移すことは、それほど容易ではありません。」

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会が個人の信心の積み重ねと言うよりも、全体として一つの神の民であることを強調しました。教会憲章には、「しかし神は、人々を個別的に、まったく相互の関わりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ」(教会憲章9)と記されています。

さらに教会憲章は、洗礼によって一つの民に結びあわされたわたしたちは、「ある人々はキリストのみ心によって他の人々のための教師、神秘の分配者、牧者として立てられているが、キリストのからだの建設に関する、すべての信者に共通の尊厳と働きについては、真実に平等」(教会憲章32)であると記しています。

ともに旅を続ける神の民にあって、わたしたち一人ひとりには固有の役割が与えられています。共同体の交わりの中で、一人ひとりがその役割を十全に果たすとき、神の民全体はこの世にあって、福音をあかしする存在となり得ます。

わたしたちの信仰は、神の民という共同体の信仰です。一つのキリストの体に結ばれた、共同体の信仰です。わたしたちの信仰は、その共同体における「交わり」のうちにある信仰です。

「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。パウロのコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記されていました。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。

信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の姿を反映しています。「交わり」は、わたしたちの共同体で行われる典礼や祈りによって生み出され豊かにされていきます。

交わりによって深められたわたしたちの信仰は、わたしたち一人ひとりを共同体のうちにあってふさわしい役割を果たすようにと招きます。交わりは参加を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます。ここにシノドスのテーマである「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」の意味があります。

今回のシノドスの歩みを通じてわたしたちは、共同体における信仰の感覚をとおして、神の民であるという自覚を深めるように招かれています。社会の現実、特に今般のパンデミックによる痛みへの共感を持つように招かれています。社会にあって今を一生懸命に生きている人たち、すなわち貧しい人々との対話や連帯へと招かれています。いのちを生きる道や文化の多様性を尊重するように招かれています。信仰において、互いに裁くものではなく許し合うようにと招かれています。

シノドスの準備文書の冒頭にこう記されています。
「ともに旅をし、これまでの旅をともに振り返ることで、教会はその経験を通して、どのようなプロセスが、交わりを生き、参加を実現し、宣教に自らを開くのに役立つかを学ぶことができるのです」

東京教区では、折しも宣教司牧方針を、今回と同様に多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切出来ずにおりました。

今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。シノドスの歩みをともにすることで、わたしたちは今の東京教区の現実の中で、神の民であるとはどういう意味があるのかを理解し深めようとしています。そのプロセスの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

本日からシノドスの道をともに歩み、ともに振り返り、ともに理解を深め、ともに祈りながら、わたしたちが交わり、参加し、宣教する神の民となるように、教区の宣教司牧方針を深めながら、旅路へと招かれる主の声に耳を傾けてまいりましょう。

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2021年10月16日 (土)

週刊大司教第四十八回:年間第29主日

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10月17日は、先頃からお知らせしているように、2023年秋に開催される世界代表シノドスの、それぞれの教区ので「歩み」の始まりです。設問を出して、大きな会議を開いて、結論を議決することは、手間がかかりますが、明白な答えが出てすっきりします。しかし今回教皇様は、そのような手法ではなくて、皆で一緒に識別をして現状に対する共通理解を持ち、ともに旅する神の民として歩んでいこうと呼びかけます。

言葉でそういうのは簡単ですが、これを具体的に実施していくのは難しいことです。大きな会議を開いた方が簡単です。しかし教皇様は、面倒なことをしなければ、現状は変わらないと言われます。来年二月末に司教団へ教区としての回答を提出するまで時間が限られているのですが、やり方はそれぞれの教区に任されていますので、東京教区では、まず皆で共通の理解を持つことから始めたいと思います。教区のホームページで順次情報を提供していきますので、どうかご覧ください。

教皇様は、10月9日のシノドス開始を告げる考察の集いで、こう述べておられます。(バチカンニュースから)

「教皇は、シノドスは司牧的回心のための大きな機会を与える一方で、いくつかの「リスク」も抱えている、と指摘。そのリスクとして、シノドスを中身のない表面上のものにしてしまう「形式主義」、高尚だが概念的で世界の教会の現実から離れた「主知主義」、今までどおりでよいと考え何も変える意志がない「現状維持主義」の3つに注意するよう促された」

衆議院が解散され選挙が行われます。国政にとって大切な選挙ですから、より良い方向へ進むよう聖霊の導きがあるよう祈りましょう。また今回の選挙で選ばれる方々の上にも、聖霊の祝福と導きがあるように祈りましょう。特に今はロザリオの月である10月ですので、ロザリオの祈りをとおして、わたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、現代世界における神の平和の実現をめざしてわたしたちが行動する神の知恵を与えられるよう、祈り続けましょう。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第四十八回目のメッセージ原稿です。

年間第29主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第48回
2021年10月17日

神ご自身による苦しみは、いのちへの希望を生み出しました。イザヤは、「自らを償いの捧げ物とした」事を通じて、「子孫が末永く続くのを見る」と記し、さらに「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」と記すことで、イエスご自身による受難の道程と、それによってもたらされた栄光への希望を預言します。

ヘブライ人への手紙は、選ばれた民を代表して神の前に立つ存在である大祭司を持ち出し、すでに御父のもとにあられるその大祭司である主イエスが、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」、人類の罪を背負ってくださったのだから、神とわたしたちとの結びつきは揺るぎないことを強調します。その上で、わたしたちの弱さに心をよせてくださる主イエスのいつくしみを記すことで、神の憐れみが豊かに与えられていることを確信するように促します。

マルコ福音は、再び、奉仕するリーダーについて語るイエスの姿が記されています。イエスご自身が、「仕えるために来た」と言われたように、そしてまさしくご自身がすべての人の罪を背負って、すべての人に仕える者として、その身をあがないのいけにえとしてささげてくださったように、わたしたちも、君臨するものではなく、互いに仕え合う者となることが求められています。

教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

その上で教皇様は、教会全体にとって、シノドスがまさしくその意味するところである「ともに歩む」プロセスである事を望まれて、ローマでの2023年の会議だけでなく、世界中すべての教区を巻き込んで、2021年10月から始められるようにと指示をされました。

すでに先週、教皇様は、今回のシノドスのプロセスの開始を、ローマから告知されていますが、世界中の教区は10月17日の主日を持って、それぞれのシノドスのプロセスを始めるようにと指示をされています。

9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されています。

2015年にシノドス創設50周年の式典が行われたとき、教皇様はこう述べておられます。

「まさに『シノドス性』の歩みとは、神が第三千年期の教会に期待しておられる歩みなのです。ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて『シノドス』(ともに歩む)ということばの中にすでに含まれています。信徒と司牧者とローマの司教がともに歩むこと、それをことばでいうのは簡単ですが、実行に移すことは、それほど容易ではありません。」

教皇様は、例えば教会がこの世の団体であるかのように、民主的に運営される仲良しの共同体であろうとはされていません。そうではなくて、地上を旅する神の民として、司教も司祭も修道者も信徒も、ともに手を携えて、互いに奉仕し合い、互いに支え合い、歩みをともにする共同体となることです。交わりの共同体は、福音を生きる共同体です。参加する共同体は、責任を共有する共同体です。宣教する共同体は、福音をあかしする共同体です。神ご自身が人となり、へりくだりのうちにわたしたちと歩まれたように、わたしたちも互いに仕え合う者として歩みましょう。

 

 

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2021年10月14日 (木)

シノドスの歩み、開始です

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2023年秋に開催される第16回通常シノドス(世界代表司教会議)は、これまでとは異なるシノドスです。

これまでは、バチカンの事務局から世界中の司教団に課題が示され、それに対する各国司教団の回答をもとに作業文書が作成されて、本番の会議には集まった代表の司教による討議なされ、教皇様に対して提言が出て、最終的には教皇様が使徒的勧告で答えらるというプロセスでした。

今回は、シノドスの準備と言うよりも、シノドス自体が、もう始まりました。

10月10日のローマでのミサを持って、教皇様は23年秋まで続くシノドスを始められました。もっともそのシノドスは、教会全体を巻き込んだともに歩むプロセスであると教皇様は言われます。神の民全体で歩みをともにしながら識別をするのだというのです。そのために、まずは各教区で、理解を深め、ともに歩みながら識別をすることが求められ、世界中の教区では、来る10月17日にその開幕を告げることになっています。

東京教区でも、10月17日午前10時の関口教会主日ミサをわたしが司式し、教区におけるシノドスを始めることを宣言します。

ただしこの教区でのシノドスは、特別な会議を行うことではありません。まずは一緒になって理解を深めるところから始めたいと思います。東京教区のシノドス担当者である小西神父様がまとめてくださった招きの文書にはこう記されています。(招きの文書はこちらのリンク

「ここでは、三つの動詞が大切となります。「参加する」、「聴く」、「識別する」。教会は人々に「参加する」ようにとうながさなければなりません。そのうながしに応えて人は、信者であれ未信者であれ、積極的に「歩み」に「参加」するのです。教会は人々の声に耳を傾けて「聴く」ようにと神から招かれています。また人は隣人の声なき声に真摯に耳を傾けなければならないのです。耳を傾けあうところに「交わり」が生まれるからです。そして教会は、自らがどこに向かっているかを反省的に「識別する」必要があります。混迷する現代社会にあって、教会の果たす役割と務めを知らなければなりません。そして、数々の情報に翻弄され真実を得ることが難しくなっている現代社会を生きる人々もまた生きる方向をしっかりと見極めて行かなければならないのです」

バチカンの事務局からは、10の設問が送付されていますが、同時に今回は、その設問に直接「回答」することではなくて、それを道しるべとして、教会のあり方を振り返り、同じ共同体で信仰を生きているお互いの理解を深める事が求められています。(なお10の設問は、中央協議会のこちらの特設ページにリンクがあります)

シノドスという言葉の意味も、小西神父様の招きの文書にわかりやすく記されていますので、ご参照ください。なおこの招きの文書の内容は、別途ビデオとして作成され公開される予定です。また今後順次、今回のシノドスが求めている方向性を理解するために、解説のビデオが、順次作成されて、公開されます。教区のホームページの、シノドス特設サイトをご覧ください

以下、本日公示した、教区におけるシノドスの道程の開始に関する文書です。

2023年世界代表司教会議(シノドス)に向けた歩みの開始について

教皇フランシスコは2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)の第十六回通常総会を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

教皇は、今回のシノドスが、その意味するところである「ともに歩む」プロセスを教会が具体的に生きる存在となることを望まれ、新たなシノドスのあり方を定められました。教皇は、今回のシノドスが、ローマで開催される2023年10月の代表司教たちによる会議だけに終わるのでなく、世界中のすべての教区が、ともに識別の時を過ごし、神の民を構成するすべての人が、その歩みに加わるようにと呼びかけられています。

今回のシノドスのプロセスの開始は、すでに10月10日の教皇ミサを持って告知されていますが、同時に教皇は、世界中の教区が10月17日の主日を持って、それぞれのシノドスの歩みを始めるようにと指示をされています。

東京教区では、10月17日に関口教会の主日10時ミサを大司教司式ミサとし、それを持って教区のプロセスを開始しますが、同時にこの主日の小教区主日ミサでも、シノドスの歩みに聖霊の導きがあるようにともにお祈りください。

なお今回のシノドスの歩みに取り組むために、東京教区の担当者として小西広志神父様を任命して準備を進めております。今回の歩みは、イベントや多数決で何かを議決する会議を開催することが主眼ではなく、神の民のすべての部分が、共通の信仰の理解を持ち、交わりを深め、福音を宣教する共同体へと変わる回心の歩みであります。それは東京教区の宣教司牧方針の具体化とともにある歩みでもあります。来年の2月までの期間、教区の皆様と歩みをともにし、ともに識別することが出来るように、さまざまな材料を今後提供してまいります。その後も、2023年のローマでの会議が終了するまで、関連する情報を、教区ホームページや教区ニュースで随時提供してまいります。

どうか一緒になって、交わりと参加の歩みをともにしてくださいますようにお願いいたします。

 

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2021年10月 9日 (土)

週刊大司教第四十七回:年間第28主日

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10月10日は年間第28主日です。週刊大司教も、本日の配信で第47回目となりました。ご視聴いただいている皆様に感謝申し上げるとともに、現在の状況の中でまだまだ教会に出かけることに困難がある方々に、週刊大司教をおすすめいただければと思います。パソコンからだけでなくスマートフォンからもYoutubeでビデオをご覧いただくことが出来ますし、過去の動画もそのまま保存してあります。ご活用ください。

教皇様は本日と明日の典礼を持って、シノドスの歩みを開始されます。シノドスの歩みは世界のすべての教区を巻き込んで始まり、2023年秋にローマで開催される世界代表司教会議まで継続します。各教区では来週、10月17日に教区での歩みを始めるようにと指示をされております。現在の状況ですから特別な典礼儀式は行いませんが、カテドラルの関口教会で、10月17日の午前10時のミサを大司教司式ミサとして、これを持ってシノドスの歩みを開始といたします。

今回のシノドスは、設問に対する回答を見いだすための会議ではなくて、神の民としての教会が、聖霊に導かれてともに歩む方向性を識別するために、できる限り多くの人の声に耳を傾けたいという教皇様の願いを実行に移すプロセスです。

すでにバチカンの事務局からは、このプロセスを始めるために各教区に対して10の設問が送られてきています。これらについては、この数日中に、これからどのように取り組むのかを含めて、お知らせをいたしますが、バチカンの事務局もこの10の設問への正解を求めているのではなく、それに基づいて各自が、また教区内のさまざまなレベルの共同体が、振り返り、深め、道を見いだす時をともにすることを求められています。従って、教区として何か会議を行ったり、または宣教司牧方針の時のように10の設問への回答を募集するような形ではなく、教皇様が望まれている教会のあり方について、ともに理解を深める時をまず持ちたいと考えています。そのために、シノドスが目指すところなどを解説する連続ビデオを作成して、教区のホームページで公開する準備をしています。

シノドスについての情報は、随時、教区ホームページに特設ページを設け掲載していきますので、どうぞご活用ください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第47回目のメッセージ原稿です。

年間第28主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第47回
2021年10月10日

「善い先生」と呼びかけ、イエスのもとにひざまずいた人物は、忠実に掟を守る正しい生き方をする人だったのでしょう。マルコ福音は、イエスから基本となる掟を教示されたこの人が、「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と応えた様を記し、彼の正しさを強調します。イエスもその事実自体を否定はせず、しかしそこには欠けていることがあると指摘しています。

この正しい人に欠けていたのは、一体何だったのでしょうか。イエスは、二つのことを問いかけ、求められます。まず第一に、たくさんの財産を持っていたこの人に、すべてを売り払い、貧しい人たちに施しをすることを求め、さらに加えて第二に、「わたしに従いなさい」と、イエスとともに歩むことを求めます。そしてこの二つこそ、掟を守る正しいこの人に欠けている事柄であります。

すなわち、第一に彼の正しさは、神の掟を忠実に守っているところにあるのですが、そもそも掟は何のために守るのか。掟とは、神が求められるいのちの生き方に、わたしたちが忠実であるために与えられた道しるべです。掟は、それを守ることを目的として与えられているのではなく、守ることによって具体的にどのような生き方が実現するのかが問題です。

仮に掟を完璧に守っているのであれば、それを実際の行動として具体的に生きているのかどうかが問われることになります。イエスがここで指摘する、「貧しい人々に施す」行為は、神の求める生き方であり、具体的には助けを必要としている人、一人ひとりのうちにおられる神を見いだし、ともに歩もうとする愛の具現化です。神に喜ばれるその生き方は、天に宝を積むことでもあります。

さらにイエスは、神に従うという決断が欠けていることを指摘します。掟を守ることが神が求める生き方をすることであるならば、それはすなわち全身全霊を持って神に従う決断をすることへとつながります。中途半端な信仰ではなく、すべてを賭けた決断をイエスは求めます。

知恵の書は、どのような財宝よりも優れている知恵について語ります。知恵と賢明さは、わたしたちを神の求める生き方へと導く手立てであり、加えて知恵は「すべての善」とともにあると知恵の書は記します。神に従うという徹底的な決断をするためには、善とともにある知恵と賢明さが必要です。

ヘブライ人の手紙も、同様に、生きている「神の言葉」は、「心の思いや考えを見分けることが出来」る力があると記します。わたしたちの善に従う決断のために必要なのは、神の知恵、そして賢明さ、それをもたらす神の言葉であって、この世の成功や富ではありません。

ところで2023年秋に開催される世界代表司教会議(シノドス)は、世界中の教区に属するすべての人をともに、本日その歩みを始めます。それぞれの教区での歩みは来週から始まりますが、教皇様は10月9日と10日に、シノドスのプロセス開始を告げられます。

テーマは、「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」と定められています。前回の通常シノドス閉幕にあたり、教皇様は、「傾聴というこの基本的な手だてを通して、わたしたちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、みことばと聖霊の光のもとに、「共同体としての識別」が行われました」と述べておられます。今こそわたしたちに、教会全体に、知恵と賢明さが必要です。生きている神の言葉に促されて、教会共同体の識別が賢明に行われるように祈るとともに、神の呼びかけに全身全霊を持って徹底的に従うことが出来るように、知恵と賢明さと信仰における勇気を願いましょう。

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町田教会で堅信式、年間第27主日

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緊急事態宣言が解除となり、ミサの公開が再開しましたが、その直後の最初の堅信式が、10月3日に町田教会(主任司祭は林神父様)で行われ、17名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。感染症の状況の中、堅信式も何度も延期になり、皆さんよくぞ待ってくださいました。その忍耐と犠牲に、御父の豊かな報いと聖霊の祝福がありますように。

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またこのミサの中では、教区の神学生である熊坂さんが、朗読奉仕者の選任を受けられました。司祭養成の過程では、まず哲学課程が終わったところで司祭助祭の候補者として認定を受けます。その後、朗読奉仕者と祭壇奉仕者の選任をそれぞれ受けて、助祭叙階に至ります。助祭叙階後は、短くても半年以上の助祭としての務めを経て、司祭に叙階されることになります。

現在東京教区には4名の神学生がおり、東京カトリック神学院に在籍しています。熊坂さん、冨田さん、田町さん、今井さんの四名です。ご存じのように司祭になるためには、現在の養成課程では、最低でも7年間必要です。例えば、今日、志願者が現れたとしても、まず教区の中で、教区養成担当者による見極めの期間があり、その後神学院の入学試験を経て7年です。加えて今現在の新しい養成の課程では、神学院での勉学と養成をすべて修了してから初めて助祭叙階となり、そ助祭としての奉仕を半年以上経験してから司祭叙階ですので、実際には8年近くがかかることになります。

ひとりでも多くの青年が、教区の教会共同体を導く牧者として生きていく決断をし、司祭の道を歩んでくださるように、皆様のお祈りをお願いいたします。また司祭への道を進むべきかどうか悩んでいる青年がおられましたら、より良い識別が出来るようにと励まし、またともに歩んでくださいますように。

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準備いただいた町田教会の皆様、ありがとうございます。また当日の映像配信も準備が大変だったと思います。ありがとうございます。町田教会の皆様には、感染対策のため、多くの方には参加いただけませんでした。また次回、皆さんとお会いできればと思います。

以下、町田教会での当日のミサ説教を録音してテープ起こしをした原稿を掲載します。

年間第27主日

町田教会堅信式ミサ

新型コロナの感染症が私たちの社会に大きな影響を与えて、すでに1年半が過ぎてしまいました。教会も様々な影響を受けています。信徒の方々の中には、感染して亡くなられた方もおられますし、入院されている方もおられます。

幸い、他の多くの国々と比較するとまだその影響は少ない、小さい方だと思います。

でも新しいウイルス感染症ですので、実体が解明されていない。はっきりとわからない中で慎重に行動して行かざるを得ないので、他の国の様々な事例を参考にしながら、東京教区でも昨年は1度、政府の緊急事態宣言に合わせてミサの公開を中止しました。3月から6月まで、その後はできる限りミサに与ることができるようにしています。  

私たちの信仰生活の中心はやはり聖体祭儀です。ご聖体におけるイエス様の現存とともに、私たちは信仰を深めていく。そして、共同体のつながりを確認する、絆を確認する、実感する。そういう意味でも、この聖体祭儀はとても大切な秘蹟ですし、これなしには考えられないわけですから、なるべくご聖体に与っていただく、聖体祭儀に与っていただくということで、緊急事態宣言が何回か出ても、感染対策を続けながらミサを続けてきたわけです。

教会に集まっていただいて、感染対策を取りながらミサを続けることは楽なことではないです。司祭だけではなく、特に教会の役員の方、ボランティアで関わってくださる多くの方々に、本当に感謝申し上げたいと思います。お一人お一人の助けがなければ、こうやって教会の活動を続けていくことはできませんでした。感謝申し上げたいと思います。

4回目となる緊急事態宣言が出た時にはどうしようかと考えたのですけれど、ちょうど夏ですね、オリンピックの前です。1年以上過ぎ、感染対策を同じように取ってきても、どうしても緩みが出てきてしまっている。70近くある小教区の中で、危険な兆候が見られたという報告がありました。今回は8月の半ば、新規陽性者の方が5千人くらいになり、どんどん数が上がっていった段階で、カトリックの医師会のドクターなどの方々に相談をしながら、今回のミサの公開を自粛することにいたしました。

幸い9月の半ば過ぎくらいから新規の陽性者の方の数が減っていき、入院されている方々の数も減っていきましたので、9月30日の政府の緊急事態宣言解除に合わせて教会の活動を再開し、今日こうやって自粛期間を過ぎた後の最初のミサをこの町田教会で、共にお祝いすることができることを感謝したいと思います。

さらにはこのミサの中で聖体祭儀だけではなくて、堅信の秘蹟もあるという素晴らしい機会を与えていただいたことを、本当に感謝したいと思います。

医療関係者の方々には心から感謝申し上げるとともに、まだ、病床におられる方々が多くおられますので、その方々の一日も早い回復と健康をお祈りし続けたいと思います。

今回の感染症は、私たちに世界的な規模で起こっている出来事ですから、世界的な規模で手を取り合わなければならない。連帯をしなければならないということを、改めて思い起こさせてくれました。

今このグローバルな繋がりの中で、自分の国だけ鎖国をし、自分の国は大丈夫だから他の国と関係がないんだ、というような形では生きていくことができない世界ですので、私たちは今現在こうやって目に見えない小さなウイルスとの戦いの中にいる中で、世界中の国々と連帯をし、ともに命を守っていかなければならないということを、ひしひしと思い知らされています。

教皇様ご自身も何度も何度も、連帯することの大切さ、私たちは互いに助け合っていかなければ命を守ることができないということを、いくたびも呼びかけておられます。

ところが一年くらいたったくらい、今年のご復活祭でしたけれども、教皇様はご復活祭のメッセージで、「これだけ連帯の必要性を多くの人たちが口にしているにもかかわらず、実際にそれが成し遂げられていない。それどころか自分の国のことばかり考えて、あまつさえ、この感染症の中で戦争をしようと、武力でなにか物を解決しようというような動きさえある。または、この感染症対策の中で経済状況が悪化して職を失い、非常に困窮した状態の中で、別な意味で命の危機に直面している多くの人たちが忘れ去られようとしている。この1年間私たちはいったい何をしてきたんだ」ということを、繰り返しおっしゃられました。私たちは、連帯が必要だ、連帯が必要だと言っているけれど、実際に連帯するということはなかなか難しいという現実に直面しています。


Machida21e

連帯……。教皇様が、何度も何度も繰り返し言われる、-連帯しなければならない―というのはどこから出てくる考え方なんだろうという事を振り返ってみると、今日の第一朗読の創世記の2章に記されている物語から出てくるんですね。
創世記というのは、第1章の最初の所で、六日間で神様は世界を作って七日目に休まれましたよという、一週間で世界天地が創造された物語が

そこには記されているわけですが、その時にはいろんな物を造って最後に人間を造るわけです。

ところが章が変わって2章に入ると、今度は全く違う話がそこに書いてあるのです。

今日の第一の朗読でその一部が語られています。何をしたかというと、神様は最初に人間を造った。一人の人を造って、そしてその後に、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言うんです。そして神は、様々なものを創造して様子を見るんですね。いろんなものを創造していって人に与えて、それが人を助ける者となるかどうか見ていくわけですけど、残念ながらみんな良いものなんですが、満足なものではないわけです。人間にとって助ける者とはならない。

そこで神は何をしたかというと、もう一人の人を造った。もう一人の人を造った。つまり人間は何のために命を与えられているのか。命を与えられている意味はいったいなんなのか。それは互いに助ける者となるために、私たちは命を与えられているんだ。

その一番根本の例が、男性と女性が一緒になって家庭を造っていくということ。それが一番のスタートなのですけれども、男性と女性だけでなくすべての命、人と人は助け合うために、その命を与えられているんだということを、この創世記の物語は、私たちに教えているんです。

今日の福音も、結婚離婚はどうするんだという掟の話をイエスはしていますが、あらためて創世記の物語を引用することでイエスは、人の命はお互いに助け合うため、一緒になって生きていくために与えられているんだということを、強調されています。

ここから、「私たちは互いに連帯して、この地上で命を生きていかなければならない」と教皇様が繰り返しおっしゃられる言葉の、この根本的な考え方が出てくるんですね。

私たちはこの命を、互いに助け合うために、互いに支え合うために、互いに手を取り合って歩んでいくために、命を与えられているんだと。
だからけっして、クリスチャンは、キリスト者は、優しい人だから他人を助けるわけではないですよね。私たちは何か、優しい性格をもった人たちだから他の人に手を差し伸べたり愛の業を行うのではないのです。私たちは互いに、優しくない人がたくさんいるのをよく知ってますよね。教会に行っても、けっしてみんな良い人ではないのです。でも私たちは助け合うのです。何故ならば、それが、私たちが命を与えられている理由だからです。それが意味だからです。そうしなければ命を生きている意味はないからです。

神は私たちに互いに助け合う者となれといって命を与えてくださったので、私たちは性格が良かろうが悪かろうが、他人を助けるんです。人に優しくするんです。それが、私たちが命を生きる意味であると思います。

そしてこの新型コロナ感染症の只中にいるときに、まさしく私たちは今、互いに助け合うというのはいったい何なんだろうと、改めて考えさせられていると思います。それには色々な道がありますよね。直接的に貧しい人たちを助ける、職がない人に手を差しのべて職を提供するとか、食べるものがない人たちに食を提供するとか、いろんな具体的な行いがありますし、それ以外にも感染対策をすることも、自分の命を守るだけではなくて他人の命を守るために、積極的な愛の行動です。

互いに支え合っていくというのは、いろんな方法があるんですね。みんなが同じ事をすれば良いということではなくて、それぞれが互いにできることを忠実に果たしていくことによって、互いに命を守り、互いに支え合って、助け合ってこの命を生きていく。
それが、神が私たちに命を与えられた理由なんだということを、あらためて心に刻んでいきたいと思います。

Machidaconf21a

今日堅信を受けられる方々は、洗礼から始まってご聖体、そして堅信、この3つの秘蹟を受けることによって、キリスト教の入信の秘蹟が完成します。洗礼を受け、ご聖体を受け、そして堅信を受ける、この3つで、完成した成熟したキリスト者として完成するんですね、ここで。
ですのでこれからは、堅信を受けてから成熟した大人の、年齢は関係なく、大人のキリスト者として生きていくということが求められています。それは福音に記されている、イエスが求められている、様々な生き方を忠実に果たしていく責任が生じるということだと思います。

でももちろん、私たちはそんな簡単に完璧な、今日の堅信の秘蹟を受けた途端にスーパーマンに変わるわけではないです。堅信式の後で立派な人に生まれ変わるわけではないのです。残念ながら。弱い人間ですから、必ずしもイエス様が言う通りなんてできないですよね。できないからこそ、堅信の秘跡の時に聖霊をいただくのです。

聖霊は私たちを変えてくださるのではなく、聖霊は、私たちの弱さを補って、私たちを後ろから支えてくださる神の息吹(いぶき)です。神の力です。神様は堅信の秘蹟を通じてこれから日々、後ろから一生懸命息を「ふーっ」と吹きかけて、あっちへ行きこっちへ行き、倒れそうになる私たちを、まっすぐ進むように支えてくださっているんですね。

この神様の息吹、神様の支え、神様の思いを、信頼して、大人の信仰者として、これからの日々の生活を歩んでいっていただきたいと思います。

 

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2021年10月 2日 (土)

週刊大司教第四十六回:年間第27主日

Kojimachibvm

時間は本当に飛ぶように過ぎ去ってしまいます。とりわけ、現在のように不確定要素のただ中で翻弄され、対応に追われるとき、心はどうしても落ち着きを失い、気がつくと、あっという間に時間だけが過ぎていたと言うことなのでしょうか。10月となり、今年も年末に向けての3ヶ月となりました。

10月はロザリオの月です。(聖母子像の写真は麹町教会)

教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そしてわたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そしてわたしたちの心と体に、神の平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みをともにしながら、命の与え主である御父に祈り続けましょう。

東京教区では、すでに教区ホームページなどで公示したように、10月1日から、感染対策を取りながら教会活動を再開しています。今後状況がどのように変化するのかまだ見通せませんが、互いの命を守るための積極的な愛の行動として、感染対策にご協力ください。

なお昨日付で人事の公示をいたしましたが、これまで10年以上にわたって東京教区の司牧のために貢献してくださった李 宗安師(現青梅・あきる野教会主任司祭)は、李神父様の所属するソウル教区と東京教区との契約が満了し、10月末をもって帰国されることになりました。ソウル教区からは、すでに後任の神父様が任命され、派遣の手続きが進んでいますが、残念ながら現在の感染症の状況で日本政府から宗教ヴィザが発給されず、入国できずに待機されている状態です。李神父様のこれまでの東京での司牧に対する貢献に感謝するとともに、帰国されてからのソウル教区でのご活躍をお祈りいたします。(なお、フランス語共同体の新しい担当司祭もフランス司教団から任命されていますが、同様の理由で、入国できず、待機中です)

以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第四十六回のメッセージ原稿です。

年間第27主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第46回
2021年10月3日

創世記は、冒頭で神による天地創造の業を記していますが、二章においては創造物語の視点を変え、人が賜物であるいのちを与えられた理由を記しています。

二人の人が創造された理由がそこに記されているように、わたしたちは互いに「彼に合う助ける者」となるように、そのいのちを与えられている。そう記す創世記は、わたしたちが互いに助け合い、支え合うことこそが、いのちを生きる本質であると強調します。

マルコ福音も、ファリサイ派の人たちとイエスの、離縁に関する議論について記しながら、二人の人が一体となることの根本にある、いのちに与えられた使命、すなわち、互いに助け合い、支え合うことこそがわたしたちがいのちを生きる意味であることを明確にします。

ヘブライ人への手紙は、救いの創始者、すなわち天地を形作られた神ご自身が、数々の苦しみを通じて完全な者となったことで、「多くの子らを栄光へと導いた」と記します。

教皇ベネディクト16世は回勅『希望による救い』の中で、「人間は単なる経済条件の生産物ではありません。有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできないのです(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

教会が常に顕彰してやまない殉教者たちは、その人生における苦しみを通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確に表現した存在です。殉教者たちは信仰を生き抜くことで苦しみ抜きながらも、賜物としていのちを与えられた人間の生きる意味を明確にした存在です。主ご自身が苦しみを通じて多くの人を救いへと導いたように、苦しみを通じて人間の本質を明確に示した殉教者たちは、そのいのちは、自分のためではなく、互いに助け合うため、支え合うためにこそ与えられていることをはっきりと示されました。

わたしたちには、苦しみのうちにあっても連帯のうちに、互いのいのちを支え合って生きることが求められています。

教皇フランシスコは、一般謁見を昨年9月2日に一時中断後再開した時、こう話されました。
「このパンデミックは、わたしたちが頼りあっていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。独力ではなく、協力するのです。独りでは決してできないからです。一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。」

感染症の状況の中で、わたしたちはいのちの危機を肌で感じました。この不安と苦しみのなかにあって、わたしたちの心はどうしても自分の方へと向かってしまいます。自分のいのちを守ろうとして、利己的になってしまいます。分断と分裂、そして孤立と孤独は、この数年、世界各地で社会の課題となって顕在化してきましたが、このパンデミックによって、さらに明確な社会の課題として、いや、いのちの危機をもたらす要因として、わたしたちの目前に立ちはだかっています。わたしたちは、互いに助け合う者としていのちを与えられていることを思い起こし、殉教者の勇気に倣い、いのちを生きる本当の意味を、広くあかしし、伝えてまいりましょう。

 

 

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2021年9月26日 (日)

教会活動の再開について

東京都は7月12日から、四回目となる緊急事態宣言下にありました。東京教区では、昨年の初めての公開ミサの自粛以降、できる限り小教区でのミサを継続することをめざし、さまざまな感染対策を厳密に適応することで、緊急事態宣言下にあっても教会活動を継続してきました。しかし、徐々に慣れや長期に及んだことでの緩みが出ていたことや、実際に対応にあたってくださる小教区の方々の負担の増加、さらには急激的な検査陽性者の増加と重症者の増加などの要因を考慮して、8月16日から二回目となる教会活動の停止を選択し、ミサの公開を自粛してきました。

今般のような困難な状況の中で、心のよりどころとなるべき教会の活動を停止するという判断は、簡単なことではありません。また教会の中にも、もっと厳しい制限を早期に求める声と、全くそういった制限の必要性を否定する声の両者があり、教区本部でも、日々、そういった声を、メールや手紙や電話でいただき、対応に追われました。

難しい状況の中、教区の判断を信頼してくださり、積極的な愛のわざとして、皆で集まることを自粛し、それぞれの場での祈りを持って霊的につながることを選択してくださった多くの方には、心から感謝いたします。その霊的な犠牲に、必ずや主が豊かに報いてくださることを、わたしは信じています。

いまのところ9月末をもって緊急事態宣言は解除となる模様ですし、毎日報告される新規検査陽性者も減少しています。10月1日をもって、感染対策をとりながら、教会の活動を再開いたします。以下、教区で公示した文書の本文です。公示に添付されている現在の具体的な対応については、こちらの、教区ホームページをご覧ください

なお公示文書の二段目にある項目を、どうか遵守されますようにお願いいたします。小教区などで定められた感染対策に従うことが不可能な場合は、行事の実施をしばらく延期されるように強く勧めます。

公示文書

カトリック東京大司教区の皆さんへ

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

四回目となる緊急事態宣言解除を受けて

四回目となる緊急事態宣言は、現時点では9月末日をもって解除となる見込みです。そこで、東京教区においては、10月1日からミサの公開と教会活動を再開いたします。現状に適応させたステージ3の感染対策といたしますので、添付の一覧をご参照の上、小教区などにおける感染対策にあたってください。

なお10月1日以降、小教区の主日ミサとは別に、教区内で土曜日などにミサを伴う行事がいくつか予定されていますが、それぞれの主催者にあっては、必ず聖堂を管理する主任司祭・責任者と相談し、その小教区などの定めている感染対策を遵守されるようにお願いいたします。

教会においては、感染後に亡くなられた信徒の方が少なからずおられることや、司祭や信徒で感染された方もおられるとの報告は受けていますが、教会活動を起源とした感染拡大は、現時点でも報告されていません。

ワクチン接種に関しては、「隣人愛の行為」として接種を勧める教皇様の言葉もあり、受けることをお勧めします。しかし、体調やアレルギーを含めさまざまな事情で受けないことを選択される方もおられますので、教区として接種を義務化するような判断はしていません。現時点で接種の義務を求めていませんから、ワクチン接種の有無で、教会活動参加の可否を判断することもしていません。

この困難の中で、感染症への対策にご協力いただいている皆様に、心から感謝いたします。「感染しない、感染させない」ことを念頭に、自分の身を守るだけではなく他の方々への十分な配慮をもってお互いのいのちを守るための積極的な行動であることを、どうか心に留めてください。

あらためて申し上げますが、困難なときだからこそ、教会共同体の見えない絆で、互いが強く結びあわされていることを思い起こしましょう。教会共同体の中心には、世の終わりまで、主イエスご自身が必ずともにおられ、わたしたちと歩みをともにしながら導いてくださいます。この困難な時を一日も早く乗り越えることが出来るように、聖霊の導きを、父である神に、ともに祈り求め続けましょう。

以上

 

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年間第26主日:世界難民移住移動者の日(配信ミサ)

Rwanda95c

週刊大司教でも触れていますが、9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。本来であれば、教会の大切な活動である難民や移住者への支えの活動のために、全世界の教会は献金をする日となっているのですが、残念ながら今年はミサの非公開の時期と重なってしまいました。様々な事由から困難な旅路につき、いまその途上にある人たちのために、お祈りくださいますようにお願いします。

教会は従前から、旅路にある人への配慮の必要性を強調してきましたし、特にその命を危機にさらすようなことのないように、特段の配慮をするように教えてきました。また教会のそういった配慮を具体的に表現するため、国際カリタスを通じた全世界での難民支援活動を行い、また教皇庁の人間開発促進の部署に難民セクションを設けて、教皇様が直接関与する形で、支援活動を強めてきました。

移動の途上にあって命を落とされる事案は、増えることはあっても減少してはいません。教皇様が就任直後にアピールをされた、アフリカから地中海へ乗り出して命を落とされる多くの人の存在を始め、アフリカや中東、そしてアジアでも、紛争地域にあっていのちの危機に直面する多くの人たちは後を絶ちません。さらには経済的困難から移住することを選択し、新たな居住地で命の危機に直面する方もおられます。日本でもそういった残念な例がありますが、公的な保護が十分ではなく逆にその尊厳を奪われて、中には命を落とす方もおられるような事案があることも事実です。人間のいのちの尊厳を奪い去る暴言や暴行は、誰であっても、とりわけ保護する立場にある公的機関である場合にはなおさら、それを正当化することは、命が神からの賜物であると主張する限り、出来ることではありません。互いに支え合い助け合うという、賜物である命に与えられたわたしたちの存在の意味を、今一度、心に刻みたいと思います。

Hamao95

以下、本日午前10時から、カトリック関口教会のYoutubeアカウントから配信された主日ミサの、説教原稿です。

年間第26主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月26日

9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。

旧約聖書のレビ記19章34節には、「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」と記されています。

教会にとって、移住者への司牧的配慮は、その形態や理由の如何を問わず、長年にわたって優先課題とされています。それは旧約時代から続く、寄留者への配慮の定めに基づいています。

現在は人間開発促進の部署として統合されましたが、かつて浜尾枢機卿様が議長を務めておられた教皇庁の移住移動者評議会が2004年に発表した文書、「移住者へのキリストの愛」には、御父によるこの命令を前提としながら、次のように記されています。

「移住者を思うとき、教会は、『わたしが旅をしていたときに宿を貸してくれた』と語られたキリストをいつも観想します。したがって、移住の問題は、信じる者の愛と信仰へのチャレンジでもあります」(12)

その上で同文書は、「今日の移住現象は重要な『時のしるし』であり、また、人類を刷新し、平和の福音を宣言するわたしたちの働きのうちに見いだされ、役立てられる者とするためのチャレンジです」(14)と記し、難民、移住、移動者へのかかわりは、単に教会の慈善事業なのではなく、信仰を生きる上で欠かすことのできない回心への呼びかけであることを明確にします。

教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたりメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“わたしたち”へと向かって」とされました。

教皇様は、「わたしたち」という言葉を、「あの人たち」という言葉への対比として使っておられます。つまり、難民や移住者の抱える困難は、自分とは関係のない他人である「あの人たち」の問題なのではなく、「わたしたち」の問題であることに思いを馳せ、「わたしたち」と言う言葉の包摂する範囲を、自分の知り合いの者たちに限定するのではなく、さらにひろげて、困難に直面するすべての人へとひろげていくことを呼びかけておられます。

同時に教皇様は、この手を差し伸べる業を、単なる慈善のわざとは見なしておられません。教皇庁の人間開発促進の部署には難民セクションがあり、その難民セクションの関係者は直接教皇様に報告をするようにと定められております。その関係者によると、難民や移住者の課題への取り組みについて報告をするとき、教皇様は会話の中でしばしば、「わたしの家は、あなたの家だ」というフレーズを口にされると言います。

「わたしの家は、あなたの家」という言葉は、困難を抱える人をわたしのところへ迎え入れる優しさに満ちあふれた言葉として響きます。しかしそれは単に、自らの家に困窮する人を迎え入れなさいと言う、慈善行為の勧めに留まってはいません。

教皇様のこの言葉の意味は、「わたしの家」と言うことで、自分自身がその家における責任をもった居住者であることを表明するように、迎え入れた「あなた」も、「わたし」と同じように「この家」の責任ある居住者となることを意味しているのだと言います。つまり援助の手を差し伸べ、迎え入れた人は、単なるわたしの家のゲストではないということであります。迎え入れた人は、そのときからわたしと同じ責任ある居住者であることを意味します。もちろん教皇様は「わたしの家」という言葉で、「国家」を意味しておられます。

教皇様はメッセージで、「神が望まれたその“わたしたち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘されます。その上で教皇様は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“わたしたち”をばらばらにしたり分裂させたりします。そしてもっとも大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たちです」と記され、ともに「共通の家」に住まう兄弟姉妹とともに、「家族」を修復するようにと呼びかけておられます。

民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがあるときに限り預言を語る力が授けられたことを記します。モーセにだけ与えられていた特権を奪われたという思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。やめさせるべきだと進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たして、互いに支え合いながらともに共同体を育てていくことだと指摘します。

使徒ヤコブは、この世の富は、永遠のいのちを保証するものではないことを明確に指摘し、さらにはその富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくることを指摘します。

さらに使徒ヤコブは、「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」と記し、弱い立場に置かれた人たちへの正義にもとる行いを咎めています。まさしく多くの移住者が、とりわけ法的に弱い立場にある人たちが、人間の尊厳をないがしろにされ、排除される事例は、現代社会でもしばしば聞かれます。

マルコ福音は、神の国に入る者となるためには、中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる必要があることを、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないことを明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方」と述べ、弱い立場にいる人へのいつくしみに徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であることを示します。

賜物であるいのちをいただいたわたしたちは、国籍や文化の違いを乗り越えて、神から愛される兄弟姉妹として生かされています。わたしたちがするべき事は、そのいのちがすべて一つの体につながれ、永遠の命を受けるように、いつくしみの手を差し伸べて助け合うことであります。異なる存在を排除して、いのちを危機に直面させることではありません。

福音に徹底的に従おうとするわたしたちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへのいつくしみに徹底的に生きる者でありたいと思います。助けを求める人たちに対して、「あの人たち」と見なして背を向けるのではなく、同じいのちを賜物として与えられている「わたしたち」として、創造主である神の懐にともに抱かれ、互いに支え合い助け合いながら、それぞれの役割を果たしていく者となりましょう。

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2021年9月25日 (土)

週刊大司教第四十五回:年間第26主日

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年間第26主日となりました。教会は9月最後の主日を、世界難民移住移動者の日と定めています。旧約の時代から、「寄留者」への配慮は、イスラエルの民自身がエジプトで「寄留者」であった記憶から、大切に教え伝えられ、実践されてきました。また主ご自身が、「わたしが旅をしていたとき宿を貸してくれた」と、すべての人の中に、特に助けを必要とする人のうちにおられるご自分の存在を明確にされたように、様々な事由でこの地上を旅する人への配慮は、主ご自身への配慮と考えられています。教皇様にとっても、特に難民への特別な配慮は、司牧の優先課題の一つです。(上の写真は、95年5月、ルワンダと旧ザイール国境のブカブで撮影した、ルワンダから逃れてきた人たち)

今のところの予定では、9月末日をもって緊急事態宣言は解除となる模様です。10月1日からは、以前のように感染対策をとりながら、ミサの公開や教会活動を再開させたいと思います。これについては別途公示いたしましたので、教区ホームページをご参照ください。

検査の新規陽性者数が減少しているという明るい数字もありますが、この後どのように推移するかは不確定ですから、しばらくは慎重な対応を続けたいと思います。(下の写真は95年5月に撮影した旧ザイールのブカブ市郊外にあった難民キャンプで)

Rwanda95a

以下、本日午後6時にカトリック東京大司教区のYoutubeアカウントから配信された、週刊大司教第45回目のメッセージ原稿です。

年間第26主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第45回
2021年9月26日

民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがあるときに限り預言を語る力を授けたことを記します。モーセにだけ与えられていた特権を奪われたという思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。やめさせるべきだと進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たして、互いに支え合いながらともに共同体を育てていくことだと指摘します。

使徒ヤコブは、この世の富は、永遠のいのちを保証するものではないことを明確に指摘し、さらにはその富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくることを指摘します。

マルコ福音は、神の国に入る者となるためには、中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる者となる必要があることを、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないことを明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方」と述べ、弱い立場にいる人へのいつくしみに徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であることを示します。

9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日であります。
レビ記19章34節に、こう記されています。「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」

教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたりメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“わたしたち”へと向かって」とされました。これは、「わたしたち」という言葉を使うときにイメージする範囲を、自分の知り合いの者たちだけに限定するのではなく、さらにひろげて、困難に直面するすべての人を包括するようにという呼びかけです。

同時に教皇は、それを単なる慈善のわざとは見なしていません。聖座の難民セクションの関係者によると、教皇はしばしば会話の中で、「わたしの家は、あなたの家だ」と述べると言います。それは単に、わたしの家に困窮する人を迎え入れよと言う慈善の進めに留まるのではありません。「わたしの家」と言うことで、自分がその家における責任ある居住者であることを表明するように、迎え入れた人も同じように責任ある居住者となることを意味しているのだと言います。つまり援助の手を差し伸べた相手は、単なるゲストではないということであります。

教皇はメッセージで、「神が望まれたその“わたしたち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘します。その上で教皇は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“わたしたち”をばらばらにしたり分裂させたりします。そしてもっとも大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たちです」と記し、「人類家族」を修復するようにと呼びかけています。福音に徹底的に従おうとするわたしたちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへのいつくしみに徹底的に生きる者でありたいと思います。

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2021年9月19日 (日)

年間第25主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

210912cathedralmass

年間第25主日の9月19日、午前10時から、非公開でささげられ配信された主日ミサの説教の原稿です。

新規陽性者数が減少を続けていることが事態が好転している兆しだと信じていますが、このまま9月末日で緊急事態宣言が解除されるのであれば、10月1日からは、以前のステージ3に戻して、ミサを公開するようにしたいと思います。

なお10月以降、小教区の主日ミサとは別に、教区内で土曜日などにミサを伴う行事がいくつか予定されていますが、それぞれの主催者にあっては、必ず聖堂を管理する主任司祭・責任者と相談し、その小教区などの定めている感染対策を遵守されるようにお願いいたします。

以下、本日午前10時に関口教会のYoutubeチャンネルで配信されたミサの、説教原稿です。

年間第25主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月19日

公開ミサを自粛しているために教会活動が立ち止まってしまい、そのためどうしても忘れられがちなのが残念ですが、世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで、すなわちただいまの時期に過ごしております。

人類は常になんらかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、より共通善に近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。残念なことに、教皇が回勅「ラウダート・シ」の冒頭で指摘するように、その努力の過程でわたしたち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い支配者や所有者と見なすように」なり、「神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり乱用し」てきました。その結果、共通の家である地球を深く傷つけてしまったと指摘する教皇は、さらにこう述べています。

「わたしたちが神にかたどって創造された大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません。」(67)

その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、密接に結びあわされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点が不可欠であることを強調されます。

わたしたちの心には、競争の原理が刻み込まれているのでしょうか。競争に打ち勝って、より良い人生を手に入れたい。そう願って、世界的な規模で続けられたさまざまな競争は、結果として、共通の家である地球を傷つけてしまった。それは、わたしたちの願いが、神の御心に適う願いではなかったためではないでしょうか。

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に逆らう者にとっては、神による永遠の救いではなく、この世での救いこそが現実であって、それは、神のいつくしみとは対立する利己的な欲望の実現でしかありません。しかし神に従い真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

教皇は、わたしたちにいのちを与えられた創造主が、人類にどのような使命を与えたのかを記す創世記の話を引いて、「ラウダート・シ」にこう記します。

「聖書が世界という園を『耕し守る』よう告げていることを念頭に置いたうえで、・・・『耕す』は培うこと、鋤くこと、働きかけることを、『守る』は世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

すなわちわたしたちは、被造物の上に君臨して支配し浪費する存在ではなく、被造物を管理し守り育てるようにと命じられた、奉仕する支配者でなければならないことが記されています。

心に刻み込まれた競争の原理は、利己的欲望と相まって、わたしたちを君臨する支配者にしてしまいました。しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、わたしたちに奉仕する支配者となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自ら示された生き方であります。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ10章45節)」と、マルコ福音の続きに記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の平和は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。

使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだと教皇は指摘します。

受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛といつくしみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛のあかしであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛のあかしです。神の常識は、救いへの希望は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

主イエスは、その受難と死を通じて、わたしたちに君臨する支配者ではなく、奉仕する支配者としての生き方を明確に示し、わたしたちがその生き方をあかしするようにと求められます。

繰り返しわたしたちを襲う大規模な災害は、そのたび事にわたしたちに価値観と発想の転換を求めます。わたしたちの徹底的な回心を求めます。そしていま、感染症のただ中で、わたしたちは価値観と発想の転換を求められ、回心を求められています。

9月7日、教皇フランシスコは、正教会と英国国教会のそれぞれの代表とともに、環境に関するメッセージを発表されました。その中で、環境をめぐる持続可能性を具体化することが急務の課題であると指摘し、さらには環境問題が、特に貧しい人々に与える影響を考慮することや、こういった課題に取り組むための世界的な協力構築の必要性を真摯に考えるようにと求めておられます。その上で、このパンデミックの状況は、わたしたちが短期的視点から目先の利益に捕らわれて行動するのか、はたまた回心と改革の時とするのかの選択肢を与えているのだと呼びかけます。

いまは視点を転換し、常識を打ち破り、神の呼びかけに耳を傾け、その知恵に倣って生きる道を選び取るときであります。

日本では明日9月20日が、敬老の日とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。何歳からを高齢者と呼ぶのかについては、さまざま議論があることでしょうが、人生の経験を積み重ね、いのちの時を刻んでこられた多くの方々のために、神様のさらなる豊かな祝福をお祈りいたします。教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音をあかしする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしするために、神の呼びかけに応える道を選択し、たゆむことのない回心の道を歩みましょう。

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