2022年7月 2日 (土)

週刊大司教第八十三回:年間第十四主日

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あっという間に梅雨が明け、6月末から猛暑となりました。どうか熱中症にはお気をつけください。

上の写真は、6月27日月曜日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、今年の司祭叙階ダイアモンド、金祝、銀祝のお祝いミサ後に撮影した参加司祭の集合写真です。記録のため、一瞬マスクを外しました。教皇大使も参加してくださいました。お祝いを迎えられた神父様方に、心からお慶びを申しあげます。

明日7月3日の午後2時から、大分教区の新しい司教、スルピス森山信三師の司教叙階式が執り行われます。森山司教様は1959年1月生まれですから、わたしとほぼ同い年です。森山司教様と大分教区のために、どうぞお祈りください。わたしも明日の朝早く、大分に向かい、叙階式に参加する予定です。なお、こちらのリンク先の大分教区ホームページに、司教叙階式の映像配信についての解説が掲載されています。明日、日曜日の午後2時です。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第八十三回、年間第十四主日のメッセージ原稿です。

年間第14主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第83回
2022年7月3日

パウロはガラテヤの教会への手紙に、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と記しています。同じパウロは十字架について、コリントの教会への手紙には、次のように記していました。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。(1コリント1章17節)」

福音を告げるものが「言葉の知恵に」頼っていては「キリストの十字架がむなしいもの」となると告げるパウロは、その十字架こそが、信仰者の唯一の誇りであるのだと強調しています。

信仰者の唯一の誇りである十字架とは一体なんでしょうか。それは、神ご自身が自ら創造されたいのちに対して、ご自分のいつくしみの心を、ご自身をいけにえとしてささげるという目に見える具体的な行動としてあらわした、主の愛の心そのものです。

ルカ福音には、イエスが72人を任命し、「ご自分が行くつもりの全ての町や村に2人ずつ遣わされた」と記されていました。福音を告げるようにと遣わされた宣教者は、神の支配の確立である平和を告げしらせ、その告知は病人のいやしという具体的な行動を伴っていたことが記されています。同時に福音を告げるようにと遣わされることはたやすいことではなくて、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と主ご自身が言われるように、いのちの危機をも意味する数多の困難を伴う生き方です。まさしく主ご自身が十字架を持って具体的にあかしをされたように、福音を告げしらせることも命懸けの具体的な愛のあかしの行動であります。

信仰者は、すべからく福音を告げるようにと派遣されています。わたしたちは全て、福音宣教者であります。イエスは「ご自分が行くつもりの全ての町や村」へと弟子たちを派遣されました。その町や村は一体どこでしょうか。もちろんすべてのいのちを創造され、この世界を創造された御父にとって、そのいつくしみはこの世界のすべてのいのちに対して向けられています。ですから、するべき事は山積しているのです。福音が伝わっていない町や村は、わたしたちの周囲を見ただけでも、いくらでもあるではありませんか。ですから、「収穫は多いが、働き手は少ない」とイエスは言われます。いま、その働き手が必要です。

働き手は誰でしょうか。誰か特別な人が司祭や修道者になれば、それで済むことなのでしょうか。召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。
「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

弟子を2人ずつ遣わされたイエスは、ともに歩む教会の姿をそこに明示します。互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに道を歩み続ける2人の弟子は、今共に道を歩む教会に変わろうとしているわたしたちへの模範です。福音をあかしする人生をともに歩みましょう。

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2022年6月28日 (火)

年間第13主日堅信式ミサ@麹町聖イグナチオ教会

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6月26日の日曜日は、午後3時半から、四ッ谷にある麹町聖イグナチオ教会で、堅信式を行いました。麹町教会ではいつも大勢の方が堅信を受けられますが、今回は91名だったと伺っています。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

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なお今回は、主任司祭が英神父様からオチョア神父様に交代になって、初めての堅信式ミサでした。感染対策で入堂制限をしているため、聖堂には受堅者と代父母、聖歌隊や関係者だけの参加でしたが、それでも100名近い受堅者ですから、聖堂は一杯でした。また教会の地下駐車場では、ベトナム出身の青年たちが、ダンスの練習中で、いつものように活気にあふれた麹町教会でした。

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以下、当日の録音から起こして少しだけ手直しした説教原稿です。そのあとに麹町教会のオンライン配信のビデオを貼り付けますので、そちらを聴いていただければと思います(説教はビデオ開始から20分くらいのところです)。説教の内容的には、いつも堅信式でお話ししていることです。

麹町教会堅信式ミサ
2022年6月26日

このミサの中で、堅信の秘跡を受けられる皆様に、心からお祝いを申し上げたいと思います。

洗礼に始まり、ご聖体、そしてこの堅信と、三つの秘跡を受けることによって、わたしたち一人一人がキリスト教に入信をする、入信の過程が完了します。完成したキリスト者に、この堅信の秘跡を受けることによってなっているはずです。昔は「キリストの兵士になる」なんて言い方もしましたけれども、完成した成熟した大人の信仰者が、堅信の秘跡を受けたときに出来上がっているはずなんですね。

大人の信仰者ですので、そこには様々な責任が伴ってきます。ま、社会の中でも、成人して大人になってゆくということに伴い、様々な義務が、務めが生じてきますね。それと同じように、入信の秘跡を完了し成熟した信仰者になった人には、とても大切な務めがそれぞれに与えられていると思います。

もちろん準備の段階で何度も聞いてきただろうと思いますけれども、信仰者、成熟した大人の信仰者にとって一番大切なこと、それはイエスキリストの福音を宣べ伝えてゆく、福音宣教者になってゆくという務めです。

イエスが、ご復活のあと御父のもとに帰られるとき、弟子たちに対して、全世界に行って福音を宣べ伝えなさいと、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさいと言われた、あの福音を告げ知らせる宣教の命令は、弟子たちを通じて、そこから連綿と今に至るまで続いています。それが、わたしたち一人一人の信仰者の務めです。

ですので、堅信を受けられる皆さんには、どうやったらこの福音を宣べ伝えられるのだろうかということを真剣に考えて頂ければと思います。
たぶん人生のその先は長いので、そのうち考えるわと、いいかと思われるかもしれないですけれども、早いうちに考えた方がいいと思います。あとになればなるほど難しくなってくるので、早いうちに、わたしはどうやって福音を告げ知らせようかと考えてくださったらいいなと思います。

でも、もちろん、人間の業では福音を伝えるなんてできないですよね。四ッ谷の駅前に立って旗でも立ててマイクを持って宣伝をしても、それでは福音は伝わらないです。この人は何なんだろう思われるだけで、福音は伝わらない。
どうやって福音を伝えてゆくかというのは、実はものすごく難しい問題なんですよ。

で、それをわたしたちはどうやってやって実行してゆくのか、それを助けてくれるものは二つあると思います。

一つは聖霊の助けです。今日の堅信の秘跡によって皆さんお一人お一人が受けることになる聖霊。聖霊は、あの使徒言行録に記されている通り、五旬祭の日、聖母と共に弟子たちが祈っているところに聖霊が降ってきて、様々な騒々しい物音を立てて……、騒々しかったんですよ、すごく。だから周りの人たちが何事かと見に来たわけです。

周りの人たちがやって来て見たら、自分が理解できる言葉で……、使徒言行録には、様々な国の言葉で話していたと書かれています。みんなが理解できる言葉で福音が告げ知らせられていたというあの出来事は、まさしく、聖霊が働くってそうゆうことなんだよということを、一番ふさわしく記している出来事ですよね。

聖霊が降って来ることによって、それまで隠れていた弟子たちは勇気付けられ、堂々と様々な人たちに通じる言葉で福音を宣べ伝え始めたと。つまり聖霊は、わたしたちを福音宣教者に変えてくれるんだということであると思います。

ですので、今日、聖霊を受けることでわたしたち一人一人に聖霊の力が働いて、わたしたちを、福音を宣教する者として行動するように……変えてくれればいいんですけれど、なかなかそうはいかないんですよ。変えてくれるといいですが、後押しをしてくれる、一番それがふさわしい言い方だと思います。

わたしがやるぞ!という思いを、やる気をもっているところに、後ろから神様の力がグーッと後押ししてくれる。ヤダヤダと思っているところに後押しはできないので、よし、わたしは何とかして福音を告げるぞ!と思ったところに、後ろから聖霊がグーッと押してくれるのです。その聖霊の助けが一つです。

でもやっぱり、一人でするのにはとても勇気が要ります。勇気も要るし、自分一人の知恵では足りないかもしれない。わたしが考えつくなんてことは、あまり大したことじゃないですから、わたしの頭で考えられるのはこれっぽっちしかないわけですけれども、それだけではなかなか追い付かないことなんだと思うんですね。

なので、二番目にそれを助けてくれるのは、それは教会共同体という存在だと思います。
教会は共同体です。弟子たちが聖母とともに、あの家の中で祈っていたように、教会は、ここに聖霊が降って来たように、教会は共同体です。

イエスは弟子たちを集めました。弟子たちとともに歩んで行こうと、道を一緒に歩み続けました。共同体が信仰の基本です。
わたしたちは一人で信仰を生きてゆくわけではないんです。わたしたちは共同体の中で一緒に助け合い、一緒に支え合いながら、信仰を生きていきます。

「教会はシノドスの道を歩んでいる」という言葉を、どこかで聞いたことがあるかもしれません。来年の2023年、ローマで会議がありますが、その会議のことだけでなくて、教皇様は、シノドスは教会の在り方そのものだよと。みんなで一緒に旅路を歩いてゆくんだよと。互いに助け合いながら、互いに支え合いながら、旅路を歩んでゆくんだ。それが教会共同体というものの在り方なんだということを強調されています。まさしく、わたしたちは福音を告げ知らせていく旅路を歩んでゆくわけですけれども、その旅路を一緒になって支え合いながら歩んでゆくんですね。

そして、互いに支え合い歩んでゆく中で、もう一つ重要な要素があります。それは、お互いに耳を傾け合うこと。それはものすごく大切なことです。

聖霊はそれぞれの人を通して様々なことを成し遂げてゆくのですけれども、その他の人たちを通してわたしたちに語られる神の声、聖霊の導きに耳を傾けることが、とても大切なのです。お互いの話をよく聞く、よく耳を傾ける、そしてお互いに理解を深めて、何が必要なんだろうと何が大切なんだろうということを理解しながら、支え合って歩んでゆく。。。そうすると、一緒に助け合う教会共同体がそこにできてゆくでしょ。

実は、それが福音宣教になるんです。

福音宣教って、道端に立って太鼓を叩いて、神の国は来ます!って大きい声で叫ぶことではないんです。教会共同体の交わりの中で、互いに支え合い、互いに愛し合い、ともに道を歩んでゆくその姿を、見せつけること。それが一番大きな福音宣教の始まりです。ここにこそ素晴らしい共同体があるんだと、ここにこそ一緒に助け合っている存在があるんだと、ここにこそ心の安らぎがあるんだと、ここにこそ不安を取り去って希望をもたらす仲間がいるんだということを、しっかりと周りに見せること。

それは福音宣教の第一歩ですよね。

教会に来ても、みんなが暗い顔をして、イヤそうに早く終わんないかなと、長い説教だなとブスッとしていても、誰もそこに安らぎや希望を見出さないですよね。みんなが互いに支え合って、困難を抱えている人たちを一所懸命助けて、そこに愛が満ち溢れているとき初めて、あぁ、わたしもここに行きたい、わたしもここに居て希望を自分の心に生み出したいと、そう思えるような共同体を作り上げてゆくというのは、とてもとても大切な福音宣教の第一歩だと思います。

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「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。さっき、とても厳しい言葉が、イエス様の言葉として福音の最後に記されていました。

後ろを振り返ってしまう一番大きな理由は、不安ですよね。将来を見通すことができない不安、これからいったいどうなるんだろう、この先どうなってゆくんだろうと思ったときに、思わず後ろを振り返ってしまう。

それは、神の国に向かって歩む姿勢じゃないんだよということを仰っているんですよね。じゃ、この不安を取り除くのはいったい何なんだろう。不安を取り除くのは、やっぱり希望ですよね。この2年半、新型コロナ感染症の状況の中で、なかなか難しい社会生活をわたしたちは歩んできたわけですけれども、まさしくこの2年半の体験は、分断と分裂だったと思います。

加えて戦争が始まったり、益々、社会全体で分断と分裂がどんどん深まっている。そうゆうときには、本当に希望がないです。希望を見出すのはとても難しい。希望を見出すことが難しいから不安になる。不安になるので、何でもかんでも躊躇してしまう。自分のことを守ろう。振り向いて自分のことを守ろう。新しいことを挑戦するのではなくて、今あるものを守ってゆこうと、すごく消極的な姿勢になってしまうんですね。

そうゆう中にあっても、神の国を求める者は常に希望をもって前に進んでゆきなさいと。希望はどこにある?この共同体の交わりの中に、希望は存在しています。

堅信を受けられる皆さま一人一人の上に聖霊が降り、一歩前に進もうとする皆さまを後押しして下さって、本当の希望をこの教会共同体の中に見出してゆくことができるように。ともに祈り合い、ともに耳を傾け合い、ともに歩んでゆきたいと思います。

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2022年6月27日 (月)

年間第13主日ミサ@関口教会

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昨日6月26日、年間第13主日は、久しぶりに関口教会の10時のミサを司式させていただきました。先日のコロナ感染で、聖霊降臨のミサを司教総代理の稲川神父様に交代していただいたこともあり、関口でのミサは5月15日以来です。教区の行事以外でも、できる限り月に一度は、関口教会の主日ミサを司式させていただけるように、できる範囲で予定を調整しています。

まだのどと声に自信がなかったので、一部だけの歌唱ミサとさせていただきましたが、声は80%は戻ってきました。

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以下、年間第13主日の関口教会でのミサの説教原稿です。なお説教でも触れていますが、シノドスに対する教区回答は締め切られ、16教区からの報告が出そろいました。7月の司教総会で全国の報告書を採択し、8月15日の締めきりまでにローマに送付します。個人やグループで、締めきりまでに寄せられた文書も、バチカンの事務局の指示通り、そのままローマに送付します。教区からの報告書送付へのお礼の言葉を、中央協議会のホームページにも掲載しました。ご一読いただければと思います。

なおこのあとですが、11月頃を目途に、バチカンの事務局が、世界中からの報告をまとめた文書を作成することになっています。そして今度はそれを基にして、各大陸別の話し合いが行われます。世界にある7つの司教協議会連盟で、何らかの話し合いが行われます。アジア司教協議会連盟(FABC)は、来年2月の末に開催予定の中央委員会に合わせて、行われる予定です。そしてこの大陸別の話し合いの結果に基づいて、準備文書が作成され、それに基づいて2023年10月に、本番のシノドスがローマで行われる予定になっています。

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以下、説教原稿です。

年間第13主日C(配信ミサ説教)
関口教会主日ミサ
2022年6月26日

ご存じのように、教会は今、シノドスの道をともに歩んでいます。6月初めが締めきりでしたが、各教区から提出された報告をもとに、司教協議会としての報告書を8月半ばまでにバチカンのシノドス事務局へ提出することになっています。

これまでのシノドスであれば、特定の課題について小教区などで話し合っていただき、その意見を集約して教区の回答を作成し、さらに集約して司教協議会の回答を作るという過程があり、小教区や教区レベルでは、その回答を作成した段階で、シノドスへの関わりは終わりでした。

しかし今回は、全く違います。シノドスの歩みは始まったばかりか、実はまだ始まってもいないかのどちらかであり、これからも続けられていきます。なぜならば、このシノドスで求められている課題は、教会が本来の教会であり続けることであり、すなわち教会とは一体何であるのかを、皆の共通認識としてあらためて共有することにあるからなのです。

教皇フランシスコは、「ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて「シノドス、共に歩む」ということばの中にすでに含まれています」と指摘されています(2015年10月17日)

その上で教皇様は、「教会の中の役目がどんなものであっても、また信仰の素養に差があっても、洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者なのです。だから資格のある者だけがそれを進め、残りの信者はこれを受け取るだけだと考える福音宣教の図式は適当ではありません」と指摘されています。

また今回のシノドス準備文書には、「教会のメンバーが皆ともに旅をし、集いに集まり、教会の福音化の使命に能動的に参加するとき、交わりとしての教会の存在を明らかにし、実体を与えます」と記され、ともに歩む共同体こそが聖霊に導かれた真の教会共同体の姿であることを明示しています。

ですから、教会が今求められているのは、何らかの設問に対して答えを出すことではなくて、わたしたち自身は旅する教会としてどうしたら歩みを共にできるのかという課題に、それぞれの場で取り組むことに他なりません。ですからこの歩みは、報告書の提出を持って終わるのではなく、これから先、長い期間、続いていくであろうわたしたちの歩みそのものであります。教会は、これまでの自らのあり方を振り返り、これからどのように歩むのかを共に見出していくために、互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、共に祈りあうことが不可欠です。

わたしたちに投げかけられている根本的な問いが、準備文書に記されています。

「シノドス的教会は、福音を告げながら、「ともに旅をする」のです。この「ともに旅をする」ということは、今日、みなさんの部分教会(教区)の中で、どのような形で起こっているでしょうか。わたしたちが「ともに旅をする」中で成長するために、霊は、わたしたちがどのような段階を踏むよう招いているでしょうか」

この問いに答えて続けていくために、わたしたちは、聖霊の導きに身を委ねていかなくてはなりません。教会は、聖霊によって生み出され、聖霊によって導かれ、聖霊によって生かされているからです。

列王記は、エリヤが主からの命令に従い、自らの後継者であるエリシャを召し出す様子を伝えています。エリヤとエリシャにとって、この出来事は人生の大きな転換点であるにもかかわらず、全てが粛々と、というよりも、淡々と進められていった様が記されています。それは神の聖霊の導きに対して、二人が完全な信頼を寄せているからにほかなりません。

ガラテヤ人への手紙でパウロは、キリストによって罪の枷から解き放たれ、自由の身となったのだから、奴隷のくびきに再び繋がれることのないようにと諭します。パウロは、そのために必要なことは、「霊の導きに従って歩」む事だと指摘します。

ルカ福音は、イエスの言葉に従って歩む者に、徹底的な決断を促す言葉を記します。
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」

そもそもわたしたちの人生は、すべからく選択の連続です。大なり小なり、わたしたちは常に選択に直面し、その都度、進むべき道を選びとるために決断を迫られます。もちろん自信を持って行う選択もあるでしょう。しかし、自信が持てない状況、例えば先を見通すことが難しい時には先立つのは不安です。不安は決断を鈍らせ、躊躇させてしまいます。まさしくそういったときに、わたしたちは「鋤に手をかけ」たは良いものの、不安に駆られて「後ろを顧み」てしまいます。

第二バチカン公会議の教会憲章は、「聖なる方から油を注がれた信者の総体は、信仰において誤ることができない」と記し、その特性は、「司教をはじめとして全ての信徒を含む信者の総体が信仰と道徳のことがらについて全面的に賛同するとき、神の民全体の超自然的な信仰の感覚を通して現れる」と記します(12)。

今教会がともに歩んでいるシノドスの道も、この信仰の感覚に教会共同体が信頼を寄せ、聖霊の導きに全幅の信頼を寄せながら、その導きに身を委ねることの重要性を強調します。その上で、シノドスの準備文書は、「霊の働きを通して、使徒たちに由来するこの聖伝は、……教会の中で進展し、それによって神の民は、伝えられた事物やことばの理解の中で成長できる」としるします。

わたしたちは、洗礼を受ける事によってキリストの身体に結ばれ、聖体をいただくことによって一致の交わりに招かれています。わたしたちが一致のうちに結ばれるキリストのからだである教会共同体は、聖霊によって導かれています。

わたしたちは、すでに鋤に手をかけています。特に東京教区は、数年をかけて多くの方の意見に耳を傾け、宣教司牧方針を策定する道を歩んできました。ですからシノドスの歩みはすでに始まっているはずなのです。すでにわたしたちは鋤に手をかけました。前に向かって歩んでいくしか道はありません。

教会共同体の信仰の感覚に信頼し、教会が示す誤りのない道を、勇気を持って、しかし淡々と、前に向かって歩み続けていきたいと思います。教会共同体は誰かの教会ではなくて、わたしたち一人ひとりの教会です。教会共同体は何かが起こるのを待つ教会ではなくて、何かを起こすために行動する教会です。教会共同体は自分の好き勝手を実現する教会ではなくて、耳を傾けあい、互いに心の思いを分かち合い、一緒になって支え合い歩みながら、導いてくださる聖霊に一緒に従う教会です。

全人類に対する神の愛といつくしみを象徴するのは、イエスのみこころです。その深い愛といつくしみのみこころでわたしたちを包み込み、まもり導いてくださる主の思いに信頼することで、聖霊の導きを、この世の価値観や自分自身の独善的なおもいと取り違えるような選択をすることのないように、共同体の絆の中で信仰を生きましょう。教会に働かれる聖霊の導きをわたしたちに感じさせる、教会に満ちあふれる信仰の感覚を大切にしたいと思います。一緒に歩み続けましょう。

このミサのビデオは、カトリック関口教会のyoutubeアカウントで、ご覧いただけます。

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2022年6月25日 (土)

週刊大司教第八十二回:年間第十三主日

2022_06_24_

梅雨になったかと思ったら、今日は真夏の陽気です。熱中症には気をつけましょう。

6月23日は沖縄慰霊の日でした。コロナ禍以前には、この日に那覇教区では平和行進が行われ、私も参加したことがありましたが、この三年間は他の機会を設けて平和のための祈りがささげられています。この日にあたって司教協議会の「正義と平和協議会」から、担当のウェイン司教様(那覇教区)とガクタン司教様(仙台教区)の連名のメッセージが出ています。

1945年6月23日に司令官であった牛島中将が自決したことで、組織的戦闘は終わったと言われますが、その日を境に戦争が終結したわけではなく、さらには戦後の歴史を振り返れば沖縄の方々の苦難は、今に至るまで終わっていません。沖縄の地で命を失った多くの方々の安息を祈り、また特に戦争が現実の存在として影響を及ぼしている今年は、平和のためにあらためて祈りたいと思います。

戦争があらためて現実の存在となりいのちを脅かしている状況を目の当たりにして、もちろん平和のために祈ることは最優先に必要ですが、同時にそこに至るまでの状況を振り返ってみることも、将来に対して必要だと思います。第二次世界大戦を経て、世界の平和と秩序の確立のために国際機関が設けられ、様々な外交努力の道筋が確立され、さらには東西の冷戦時代を乗り越えてきたにもかかわらず、それらが機能せず、今の事態に陥ったのはなぜなのか。時間的に先のことを考えるのも大切ですが、どうしてうまく機能していないのかを振り返ってみなければ、全てを暴走したリーダーの存在で片付けてしまう可能性があります。しかし暴走したリーダーの存在「だけ」が原因ではなかったことは、この十数年の体験から(例えばイラクやリビアなど)明らかであると思われます。歴史や政治の専門家による振り返りを期待しています。

世界の平和に関連して、世界宗教者平和会議(WCRP)と言う組織があります。そのホームページにはこう記されています。

「WCRPの歴史は、1970年に京都で開催された「第1回世界宗教者平和会議」に始まります。300名以上もの宗教者が一堂に会したこの会議では、宗教者の出会いと対話を促進し、平和のための宗教協力の原点を確立しました。そして、この会議の結実である京都宣言を具体化し、継続させていくための国際組織としてWCRPが設立されました。現在は世界最大級の諸宗教ネットワークとして活動しています」

WCRPの日本委員会は1984年に財団法人格を取得し、2012年には公益財団法人格を取得しています。創設の歴史から現在も立正佼成会の方々が中心になって活躍されていますが、多くの宗教団体がメンバーとして参加しております。現在の日本委員会会長は立正佼成会の庭野⽇鑛師、理事長は聖公会の植松誠主教が務めておられます。日本のカトリック教会も長年にわたって協力関係にあり、東京、大阪、長崎の大司教が役員として参加しています。このたび、高見大司教の教区司教引退に伴い、6月21日の評議員会での議決を経て、長崎の中村大司教が新しく理事に、私が理事から評議員に移り、高見大司教は参与となられることに決まりました。また前田枢機卿は顧問として継続です。国内の様々な宗教団体の方々と協力しながら、世界平和の実現のために取り組んでいきたいと思います。

以下、本日午後六時配信、週刊大司教第82回年間第13主日のメッセージ原稿です。

年間第13主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第82回
2022年6月26日

列王記は、エリヤが主からの命令に従い、自らの後継者であるエリシャを召し出す様子を伝えています。エリヤとエリシャにとって人生の大きな転換点であるにもかかわらず、全てが粛々と、というよりも、淡々と進められていった様が記されています。神の聖霊の導きに対して、二人が完全に信頼を寄せているからにほかなりません。

ガラテヤ人への手紙でパウロは、キリストによって罪の枷から解き放たれ、自由の身となったのだから、奴隷のくびきに再び繋がれることのないようにと諭します。パウロは、そのために必要なことは、「霊の導きに従って歩」む事だと指摘します。

ルカ福音は、イエスの言葉に従って歩む者に、徹底的な決断を促す言葉を記します。

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」

現実の社会で生きているわたしたちにとって、かなり厳しい言葉でもあります。

そもそもわたしたちの人生は、すべからく選択の連続です。大なり小なり、わたしたちは常に選択に直面し、その都度、進むべき道を選びとるために決断を迫られます。もちろん自信を持って行う選択もあるでしょう。しかし、先を見通すことが難しい状況にあっては、どうしても不安が先に立ち、決断にも躊躇してしまうことがしばしばあります。まさしくそういったときに、わたしたちは「鋤に手をかけ」たは良いものの、不安に駆られて「後ろを顧み」てしまいます。

第二バチカン公会議の教会憲章は、「聖なる方から油を注がれた信者の総体は、信仰において誤ることができない」と記し、その特性は、「司教をはじめとして全ての信徒を含む信者の総体が信仰と道徳のことがらについて全面的に賛同するとき、神の民全体の超自然的な信仰の感覚を通して現れる」と記します(12)。

いま教会がともに歩んでいるシノドスの道も、この信仰の感覚に教会共同体が信頼を寄せ、聖霊の導きに全幅の信頼を寄せながら、その導きに身を委ねることの重要性を強調します。その上で、シノドスの準備文書は、「霊の働きを通して、使徒たちに由来するこの聖伝は、……教会の中で進展し、それによって神の民は、伝えられた事物やことばの理解の中で成長できる」としるします。

わたしたちは、洗礼を受ける事によってキリストの身体に結ばれ、聖体をいただくことによって一致の交わりに招かれています。わたしたちが一致のうちに結ばれるキリストのからだである教会共同体は、聖霊によって導かれています。わたしたちは、すでに鋤に手をかけています。教会共同体の信仰の感覚に信頼し、教会が示す誤りのない道を、勇気を持って、しかし淡々と、前に向かって歩み続けていきたいと思います。

6月24日金曜日はイエスのみこころの祝日でした。6月はイエスのみこころの月でもあります。全人類に対する神の愛といつくしみを象徴するのは、イエスのみこころです。その深い愛といつくしみのみこころでわたしたちを包み込み、まもり導いてくださる主の思いに信頼することで、聖霊の導きを、この世の価値観や自分自身の独善的なおもいと比較するような誤った選択をすることのないようにしましょう。そのためにも、教会に働かれる聖霊の導きをわたしたちに感じさせる、教会に満ちあふれる信仰の感覚を大切にしたいと思います。

6月29日は、聖ペトロ聖パウロの祝日です。この偉大な2人の使徒の働きに思いを馳せると同時に、わたしたちを導かれるペトロの後継者である教皇様のためにお祈りいたしましょう。

 

 

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2022年6月18日 (土)

週刊大司教第八十一回:キリストの聖体の主日

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三位一体の主日が祝われた週の木曜日は、キリストの聖体の祭日です。キリスト教が生活の一部になっている国々では、大規模な聖体行列が行われたりします。こういった大きな祭日を週日に行うことが難しい国々では、直後の主日にシフトして、キリストの聖体の主日として祝われます。日本もその一つです。

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この上の写真は、昔主任司祭を務めていたガーナのオソンソン教会の聖体行列です。1989年頃でしょうか。一つ目の傘の下にわたしが、その後ろの二つ目の傘の下が聖体顕示台です。

教会の難民移住者の日は9月に行われますが、来る6月20日は国連の定める世界難民の日です。今年は「安全を求める権利」がテーマとなっています。国連難民高等弁務官事務所のサイトをご覧ください。今年発生したロシアによるウクライナ侵攻で、多くの方が居住地を離れ、安全を求めて避難生活を送らざるを得なくなりました。ヨーロッパで起こった出来事であり、スマホやネットの普及で現地からどんどん情報が発信されることもあり、避難される方々の存在が注目を浴び、実際に多くの援助の手が差し伸べられています。災害の被災者の方も同様ですが、援助が必要なのはその事由が発生したときだけではなくて、その後長期に渡っての関わりと支援が不可欠です。なぜならば、それは一人の人間の人生の歩みだからであり、いのちの旅路を守ることだからです。長期的な視点で、それこそ教会が今強調している「ともに歩む」事が不可欠だと思います。

同時に、これまでも、また今後も、世界のどこかでは必ず、紛争に巻き込まれていのちの危機に直面する人たちが常に存在され、誰かの助けを必要とする人たちがいるという状況は、変わらないでしょう。そのときの世界の政治状況や報道の度合いによって、注目を浴びる事もあれば、全くその存在を顧みられない人たちもいます。

それぞれの政府には政府の考えと方針があるので、それを一瞬にして大きく変更することは難しいのが現実です。大きな船の方向を変えるのに時間が必要なのと同じです。ですからそれぞれの国の政府に対しては、人々がいのちの危機に直面し、普段の生活を放棄せざるを得ないような状況を生み出すことのないように、辛抱強く働きかけ続けなくてはなりませんし、またそういう状況に追い込まれた人に、人道的な対応をするように求め続けたいと思います。公的な立場からの強制的解決は、時に暴力的になり、いのちの危機を解消するどころか、それを深めることにしかなりません。

同時に、小回りのきく小さなボートのようなわたしたちは、そこには無機質な名詞としての「難民」が存在しているのではなく、顔を持った、喜びや悲しみを持った一人の人間がそこにいて、人生をかけて助けを求めているという事実に思いを馳せ、助けましょう。助け合いましょう。愛といつくしみの心は、必ず希望を生み出し、希望はわたしたち全てを生かす力を生み出します。助け合うことのない世界は、希望を打ち砕き絶望をもたらし、わたし自身を含めたすべてのいのちを奪います。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、こう始まります。

「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々と全ての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものはなにもない」

わたしたちは、その「キリストの弟子たち」であります。

下の写真は、2005年、カリタスジャパンの視察で訪れたウガンダ北部の国内避難民キャンプで水くみの順番を待つ子どもたちです。

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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第八十一回、キリストの聖体の主日メッセージ原稿です。

キリストの聖体の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第81回
2022年6月19日

聖体は一致の秘跡です。

第二バチカン公会議の教会憲章には、「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され、実現される(3)」と記されています。

聖体は、わたしたちを分裂させ分断させるのではなく、キリストにおいて一致するようにと招く秘跡です。なぜならば、それこそがキリストご自身のわたしたちへの心であり、あふれ出る神のいつくしみそのものの具体化だからであります。

ルカ福音は、五つのパンと二匹の魚が、五千人を超える群衆の空腹を満たした奇跡物語を記します。この奇跡は驚くべき事ですが、この物語にはもう一つ重要な事柄が記されています。それは空腹を抱える多くの人を解散させようとする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と述べ、散らすことではなく一致へと結びつけるための業を行うように命じていることです。まさしくこの言葉にイエスの思いが記されています。自らにつながって一致していることこそが、救いへの道であることを、イエスはこの言葉を持って明確に示されました。

神の民としてともに旅をするわたしたちを一致させるのは、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じられた、主イエスのわたしたち一人ひとりへの思いです。それは聖体に凝縮されたイエスのみこころであり、まさしく聖体のうちに現存する主は、聖体を通じてわたしたちをその絆で結び、わたしたちと歩みをともにされます。

聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と教会憲章は指摘します(11)。

教皇ヨハネパウロ二世は、「教会にいのちを与える聖体」において、「罪の結果として、不和の根源が人間性のうちに深く根ざしていることは、日々の経験から明らかです。この不和の根源に対抗できるのは、キリストのからだがもたらす一致の力です(24)」と記します。

分裂と分断が支配する現代社会にあって、わたしたちは聖体の秘跡を通じて、罪のいやしと一致へと招かれています。

私事ですが、5月の末に体調を崩し、検査の結果、新型コロナ陽性と診断を受けました。のどの痛みと発熱の中、自宅療養で、全く誰とも会わずに十日間を過ごしました。現在は無事に回復しましたが、その間、皆様にいただいたお祈りとお見舞いの言葉に、心から感謝します。隔離生活をすごしながら、あらためてわたしたちは、他の方々によって生かされていることを実感させられました。直接に間接に、わたしたちは他者の力によって生かされています。私たちのいのちは、まさしく「互いに助けるもの」として生きるようにと与えられています。いのちを生かすのは分裂や分断や対立ではなく、一致であります。

一致のうちにともに歩む旅路を導くシノドスの準備文書には、その特徴がこう記されています。

「洗礼を受けたすべての人は、・・・それぞれのカリスマ、召命、奉仕職を実行することによって、キリストの祭司職、預言職、王職に参与し、個人としても神の民全体としても、福音化の能動的な主体となるのです」。

聖体の秘跡のうちに、多様性における一致を生きたいと思います。

 

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2022年6月16日 (木)

吉祥寺教会堅信式@三位一体の主日

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今年、2022年の三位一体の主日は、吉祥寺教会で24名の方の堅信式を行いました。

わたし自身の健康状態は、徐々に回復しているとは言え、まだ大きい声を出したり歌ったりすると咳が出てしまうため、吉祥寺教会でのミサも、わたしが唱える部分は全て歌わないことにいたしました。わたし自身のミサ司式における歌唱については、月末の26日の関口教会主日ミサから試してみようと思っています。

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吉祥寺教会のミサは、聖歌隊がしっかりと歌ってくださいました。ミサの始まる前には、聖霊の導きを願いながら、聖歌隊長ともう一人の聖歌隊員が、ラテン語でVeni Creator を歌ってくださいました。この歌は名古屋の神言会の神学院では、毎朝一番に歌う讃歌ですので、聖歌隊長はお手の物だと思います。

堅信を受けられた皆さんには、ミサ後に集まっていただき、それぞれの信仰の歩みを少しずつわかち合っていただきました。ありがとうございます。まだ今の状況で、祝賀会などができなかったのが残念ですが、受けた聖霊の恵みを十分に生かして、その聖霊の後押しを受けることができるように、積極的な信仰生活を歩んで行かれますように。皆さん、堅信、本当におめでとうございます。

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以下、当日の録音から書き起こして、内容を整理した、説教です。また、以下のリンクから、Youtubeで、当日のミサをご覧いただくこともできます。

Youtubeビデオ:吉祥寺教会の三位一体の主日ミサへのリンク

三位一体の主日
吉祥寺教会
2022年6月12日

堅信の秘跡を受けられる24名の方々に、心からお慶びを申し上げたいと思います。

5月の末に新型コロナに感染して陽性になり、10日間隔離状態にありました。熱が出て喉がかなり痛く、今もまだ声がちょっと戻っていないので、歌を歌うことができません。大きい声でお話をすることも難しいので、ボソボソとお話させて頂きます。

このコロナに感染して10日間自宅療養しろと言われて、あらためてですけれども、人間は独りでは生きてゆけないと、誰かによって支えられて生きているんだという、ごく当たり前のことを思い起こさせられました。

元気な時には自分の力で何でもできるので、一人で生きているような思いが募ってきて人間は傲慢になるものですが、実際には、人の命は誰かによって支えられ、生かされ、生きているんだという当たり前のことを、わたしたちは忘れてしまいがちであります。弱ったときやいのちの困難を抱えて生きているときに、はじめて自分の弱さを認めて、目の前に張り巡らしてきたバリアみたいなものが解かれて初めて、他の人が助けてくれているんだということがわかるということなのだろうと感じています。

そもそも、創世記の第2章に記されているように、いのちを創造された神様は、まず一人の人を創造し、彼に合う助けるものを作ろうと仰って、新たなものをさまざまと創造された。けれども、どれもこれも彼を助けるには充分ではなかった。そこで神様は、最初に創造した人からあばら骨を取って、もう一人の人を創造した。

だから人は、互いに助け合うためにいのちを与えられている。逆に言えば、人は独りで生きてゆくことはできないと言うことです。この2年以上にわたって続いているパンデミックの状況の中で、それをわたしたちは思い起こしたいと思います。

教皇様もパンデミックの最初の頃から、連帯することの必要性を仰っていました。この状況からよりよく抜け出すためには、互いに連帯し合わなければならないと強調してこられたわけです。けれども残念ながら、今まさにわたしたちの目の前で戦争が起きています。大国による他国への侵略という戦争が続けられ、連帯するどころか、排斥し排除し、互いに憎しみ合いいのちを奪い合うという状況が今、世界で続いているわけです。

だからこそ、あらためてわたしたちはいのちの大切さと、いのちを護り互いに支え合うことの大切さを、愚直に強調し続けていきたいと思います。

わたしたちはいのちを与えられたものとして、それを忠実に生きてゆく役割、務めが与えられています。それはまさしくいのちの大切さ、そしていのちを互いに支え合って生きてゆくことの大切さを、強調してゆくことに他なりません。

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聖霊降臨の日から、五旬祭の日に聖霊が弟子たちに降ったあの日から始まって今に至るまで、教会は聖霊によって満たされ、聖霊によって導かれ、聖霊によって生かされ、生きています。わたしたちはこの聖霊の働きに信頼をして、それに素直に身を委ねて、教会とともに歩みを続けて行きたいと思います。

今日この堅信の秘跡をもって聖霊を受けられる方たちが、聖香油で十字架の印をされたときに変身してですね、急に変身してスーパーマンみたいになれたら、それはそれでよいですけれども、そうはならない。今まで何人もの人に堅信を授けてきましたが、残念ながら、堅信の秘跡のときにスーパーマンに変わった人は、誰もいません。聖なる油を受けても、同じ人がそのままそこに立っているんです。

じゃ、聖霊の働きって、いったい何なんだろう。聖霊はわたしをガラッと変えてくれるものなんじゃないのか。もしもそういう期待をしているんであれば、そうではありません。

聖霊は後ろから、前に進んでいこうと、前に向かって歩んでいこうと思うこの気持ちを、後ろから支えてくれる存在です。教会は常にそうです。教会が聖霊に満たされ導かれているからといって、誰も何もしないでも、教会が自動的に歴史を刻んできたわけではないですよね。聖霊は、教会自身が聖霊の促す方向に向けて進もうとしているときに、後ろからぐっと押してくれるんです。そうやって教会は歴史を刻んできたのです。ところが教会は人間の集りなので、常に間違いを犯すんですよ。

歴史の中で様々な間違いを犯し、間違った方向に進んでいくとき、そこに聖霊は働かないんです。聖霊が働かないので、方向性を間違えた行いは潰えていくわけです。人間の時間的感覚からいえばその結果がでるには長い時間がかかるように見えるのかも知れません。でも、結局その進んでいる方向は間違っているので、聖霊が後押しをすることもなく、潰えていきます。

教会の歴史はそれを繰り返してきました。人間が聖霊の促しをしっかりと識別し、教会共同体がふさわしくく正しい選択をし、教会が全体として聖霊が促す方向に向かって進んでいるとき、聖霊はその動きを後押ししてくれていると思います。

1965年に終わったあの第二バチカン公会議から今に至るまで、教会は様々な選択を積み重ねてきたわけですけれども、その多くはやはり聖霊の働きによってしっかりと裏打ちをされていて、聖霊の導きに従う歩みであったというふうに思います。

教会は様々な変革を続けながら前に向かって進んできていますが、聖霊の導きがなければ、あっという間にそのような試みは潰えていたことでしょう。今わたしたちはその聖霊の導きに信頼をして、教会の歩みをともにしていこうとしています。教皇様が2023年の来年、シノドスを行うので一緒になって歩んでいこうと、聖霊に素直に身を委ね、聖霊が促す方向に皆で歩んでいこうと呼びかけておられます。特別なことをしようと言っているのではなく、それを教皇様は、伝統的な教会の表現で「信仰の感覚」という言葉を使っています。

信仰の感覚、教会が全体として聖霊に促され一緒になって歩んでゆくときに、教会は誤ることはないと第二バチカン公会議の教会憲章にそう書いてあります。

まさしく今、教会は聖霊の導きに促され一緒になって歩んでいる。誰かが教会の進む方向を勝手に決めて、誰かが一人で引っ張っているとか、教会はそういう組織じゃないんです。誰か凄いリーダーが先頭に立って『オレについて来い』と言って進んでいるわけじゃないんです。我々のリーダーは神様しかおられないので、三位一体の神しかおられないので、その聖霊の促しに皆で促されて、一緒に歩んでいる。それが教会のあるべき姿だと思います。

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今日、堅信の秘跡を受けられる方々もその歩みを共にする、私たちと一緒に聖霊に促されてより相応しい、神が望んでいる世界を生み出してゆくために、ともに歩んでゆく。そして命を大切にし、互いに助け合って生きてゆく。そのことを実践するために、前進するぞという意気込みを、聖霊が後ろからしっかりと支えて下さっている事を信じ、その聖霊の支えを信頼し、信仰生活を歩んで行って頂きたいと思います。

 

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2022年6月11日 (土)

週刊大司教第八十回:三位一体の主日


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三位一体の主日となりました。

わたしの健康のためにお祈りくださっている多くの方に、心から感謝します。この一週間は、徐々に仕事に復帰していますが、まだ少し声が不調なことと、大きい声を出すと咳が出てしまうため、いくつかの行事をキャンセルいたしました。

本来であれば、6月11日の土曜日午後には、碑文谷教会で青年の集いが久しぶりに開催されることになり、ミサを司式する予定でしたが、体調に不安があったため、メッセージだけとさせていただきました。申し訳ないです。将来の教会、ではなくて、まさしく今の教会を担う青年たちが(教皇フランシスコのシノドスでの言葉より)、しっかりと互いの絆で結ばれ、教会をさらに大きく発展させてくださることを期待しています。聖霊は、時に驚くような方法で働かれます。常識を破るような方法で働かれます。挑戦することを恐れず、力強く前進されることを、心から期待しています。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第80回、三位一体の主日メッセージ原稿です。

三位一体の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第80回
2022年6月12日

わたしたちは、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けます。したがってわたしたちキリスト者の「信仰は、三位一体に基づいて」いると、カテキズムは記しています(232)。

わたしたちを「導いて真理をことごとく悟らせる」聖霊は、「わたしのものを受けて、あなた方に告げる」と、ヨハネ福音は主の言葉を記します。その「わたしのもの」は、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」と主ご自身が言われるのですから、わたしたちは、信仰において、三位一体の神の交わりの中で、聖霊に導かれて御子に倣い、御父へと結びあわされています。

カテキズムはそれを、「御父の栄光をたたえる者は、御子によって聖霊のうちにそうするのであり、キリストに従う者は、その人を御父が引き寄せ、聖霊が動かされるので、そうするのです」と記します(259)。

東京教区では、2020年末に宣教司牧方針を定めました。この宣教司牧方針も、三位一体の神の交わりに基づいて三つの柱が定められています。宣教司牧方針には、こう記されています。

「東京大司教区の宣教司牧方針の三つの柱、①「宣教する共同体をめざして」、②「交わりの共同体をめざして」、③「すべてのいのちを大切にする共同体をめざして」は変動するこの世にあって、わたしたちがこころを合わせて向かっていく方向を示しています。そして、その三つの柱は互いに関連しあっています。「宣教する共同体」は「義人アベルから最後に選ばれた人に至るまで」ご自分のもとへと集めようとなさる天の御父の救いの想いを反映しています(『教会憲章』 2参照)。「交わりの共同体」は神と人、人と人の和解のために十字架へとつけられた御子の生きる姿を写し出します。「すべてのいのちを大切にする共同体」は「主であり、いのちの与え主」(『ニケア・コンスタンチノープル信条』参照)である聖霊の働きによって成立します。ですから、この宣教司牧方針は三位一体の神のお姿をこの世にあらわしていくものなのです」

わたしたちは共同体で生きる教会です。わたしたちの信仰が、父と子と聖霊の一致のうちにある共同体としての三位一体に基づくものであるからこそ、教会共同体も、三位一体の神をこの世に具体的に顕す共同体であるよう務めなくてはなりません。

またそれだからこそ、宣教する共同体も交わりの共同体もすべてのいのちを大切にする共同体も、それだけで独自の存在ではなく、互いを前提とし、互いに支えられて、一致していなくてはなりません。

そもそもわたしたちの信仰が三位一体に基づいているからこそ、わたしたちには教会共同体が必要であり、信仰を一人孤独のうちに生きることはできません。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた瞬間に、わたしたちは三位一体の神の交わりの中で、教会共同体の絆に結びあわされるのです。わたしたちの信仰は、本性的に共同体の信仰です。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「主イエスは、『わたしたちが一つであるように、・・・すべての人を一つにしてください』と父に祈ることによって、・・・神における三位の結びつきと、真理と愛における神の子らの結びつきとがいくらか似ていることを開示するものであった。この類似から明らかなとおり、・・・人間は、余すことなく自分自身を与えない限り、自分を完全に見出すことはできない」(24)と記します。主イエスご自身に倣い、御父の願いを具体的に実現するために、聖霊の導きに身を委ね、共同体の交わりの中で、信仰を生きていきましょう。 

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2022年6月 6日 (月)

堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます

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聖霊降臨の主日に、東京カテドラルで堅信の秘跡を受けられた多くの皆さん、おめでとうございます。

わたしが休んでいる間、5月29日に教皇様は、新しい枢機卿の任命を発表されています。二十一名の新しい枢機卿様たちのうち、十六名が八十歳未満で、教皇選挙の投票権を持つことになります。今回の任命は、まさしく聖霊に導かれた教皇様の決断であり、だからこそ常識では考えつかない驚きの任命でした。

その驚きの一番は、アジアから五名の新しい枢機卿が誕生することです。すでにいろいろな方が書いているので繰り返しませんが、ちょうどこの任命の直前に、様々な観測記事が欧米のカトリックメディアでは流れていて、その全てが、今回はアジアからの新しい枢機卿はないだろうと書いておられました。ですから、今回のアジアからの多くの枢機卿の任命は、まさしく聖霊に導かれた教皇様の驚きの決断です。聖霊の働きは、驚きと、居心地の悪さをもたらす、騒々しいものだからであります。五旬祭のあの日にも、騒々しい物音が響き渡ったから、皆が驚きのうちに集まってきました。あらためて、聖霊の働きに身を委ね、素直に導かれる教会でありたいと思います。

以下、堅信式に参加された皆さんに、当日、教区のミサでは総代理の稲川神父様に代読していただいたメッセージです。

聖霊降臨の主日に

カテドラルで堅信を受けられた皆さんへ

2022年6月5日

堅信の秘跡を受けられた皆さん、おめでとうございます。本当はわたしが司式して堅信を授けたかったのですが、残念なことに新型コロナに感染してしまい、十日間の自宅療養で、やっと熱やのどの痛みから解放されたところで、長時間のミサを司式するだけの体力が回復しておらず、司式を代わっていただくことになりました。

堅信の秘跡は聖霊の秘跡です。聖霊が皆さんの上にもくだり、これからのキリスト者としての人生をともに歩み導いてくださいます。堅信の秘跡を受けることによって、わたしたちは大人の信仰者になるとよく言います。昔は、キリストの兵士になると言いました。それは、神様が聖霊を通じて常にいてくださると約束なさっているのですから、わたしたちには、聖霊に導かれたものとして行動する責任があるからに他なりません。聖霊が共にいて導いてくださるのですから、その導きに応えて、語り行うのは、わたしたちの責任です。

イエス様の言葉と行いに倣い、神の福音を世界に告げるものとなってください。

聖霊が弟子たちにくだったときに、物音がして、皆がびっくりして見に来たと、使徒言行録に記されています。聖霊が働くとき、それは騒々しいのです。居心地が悪いのです。なにもなく、穏やかで、静かなところには、聖霊はもしかしたら働いていないかも知れません。ですから挑戦することを恐れずに、福音に忠実に生き、忠実に語り、忠実に行う人となってください。

あらためて、堅信の秘跡おめでとうございます。そして皆様のお祈りに感謝します。

 

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2022年6月 4日 (土)

週刊大司教第七十九回:聖霊降臨



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聖霊降臨の主日です。

5月23日夕方に発熱と喉の痛みで始まり、25日には新型コロナ陽性判定となり、十日間の自宅療養を続けていましたが、なんとか解熱剤なしで熱も平熱となり、喉の痛みも癒えてきました。少なくとも72時間、解熱剤なしで平熱を保ち、そのほかの症状もないことから、6月2日23時59分を持って自宅療養を解除との連絡が、東京都のフォローアップセンターからメールで送られてきました。

まだ少し咳が残っているのと、声が本調子ではないことに加え、体調が完全に戻っていないものですから、再稼働しましたが、ちょっとスローで前進することにします。

聖霊降臨の主日の午後に予定されていた韓人教会の堅信式と、その後に予定されていた教区の堅信式は、それぞれ韓人教会主任司祭と、司教総代理に司式を委任しましたこと、どうかご理解くださるようお願いいたします。

この期間、大勢の方にお祈りいただいたことを感謝いたします。また、のど飴やサプリメントなど、様々なものを送ってくださった方にも感謝します。あらためて一人で生きていけないことを痛感しています。私が療養している間、多くの方に支えられていることを、実感いたしました。教区事務局長から始まって、カテドラル構内の多くの方、医療関係者、また保健所などで対応にあたられる多くのスタッフ。皆さんに支えられていることを痛感しながら、過ごしておりました。あらためて感謝申し上げます。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第79回、聖霊降臨の主日メッセージ原稿です。なおビデオは5月18日に収録したものです。

聖霊降臨の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第79回
2022年6月5日

「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください」

聖霊降臨の主日に、福音の前に歌われる聖霊の続唱は、この言葉で始まります。共同体として何らかの行動を始めるときに、聖霊の導きを祈ることは、教会の伝統です。なぜならば、教会は聖霊によって誕生し、聖霊の働きによって育まれ、聖霊の導きによって歩み続けている存在だからです。

「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように」住んでいると指摘する第二バチカン公会議の「教会憲章」は、聖霊は「教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、種々の位階的たまものやカリスマ的たまものをもって教会を教え導き、霊の実りによって教会を飾る」と教えています。その上で、「聖霊は福音の力をもって教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」とも記し(4)、教会は、「キリストを全世界の救いの源泉と定めた神の計画を実現するために協力するよう」、聖霊から迫られているとまで記します(17)。

使徒言行録には、五旬祭の日に起こった聖霊降臨の模様が記されています。その出来事は、「激しい風」と「家中に響」く音と、人々が集まってくるような「物音」によって特徴付けられています。聖霊降臨の出来事は、静かに秘められるように進んでいったのではなく、皆が驚くほどの衝撃を与えるような、いわば騒々しい出来事であったと、使徒言行録はわざわざ記しています。すなわち、聖霊によってもたらされる業は、時に居心地の悪い驚きをもたらすものであり、皆が驚くような変革であります。

2021年9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇フランシスコは、シノドスのあゆみに関連して、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されました。会議で集まって何かを決めることよりも、皆で歩みをともにして識別する道を提示され、シノドスというシステムを大転換させようとしている教皇様は、これまでのやり方に固執することなく、勇気を持って新しいあり方を模索することを教会にしばしば求められます。

「福音の喜び」には、「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準をすてなければなりません(33)」と記されています。これまで歩んできた道を、大きく変えることは、居心地が悪く、心に不安を生み出し、成果を見通すことが難しいため、どうしても一歩を踏み出すことに躊躇してしまいます。そういうときにこそ、教会は聖霊によって導かれており、その聖霊は静かな改革ではなく、騒々しくて居心地の悪い改革を生み出すものだと言うことを、心に思い起こしたいと思います。

聖霊は、弟子たちを、福音を全世界に向けてあかしする宣教者と変えました。わたしたちは同じ聖霊に導かれている共同体です。ヨハネ福音に「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とあるように、わたしたちは主イエスを愛しているが故に、主の言葉に従って生き、主の言葉をあかし、福音を告げしらせます。聖霊は、「望むままに、望むときに、望む場所で働かれます(「福音の喜び」279)」。聖霊の導きに、心から信頼する共同体でありましょう。

 

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2022年6月 1日 (水)

瀬田・三軒茶屋教会堅信式@瀬田

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皆様のお祈りと励ましのメッセージに感謝いたします。

幸いなことに熱は下がり、喉の痛みも良くなりました。声がまだ本調子でないのと、咳が残っていますが、このまま推移すれば予定通り明日6月2日を自宅療養の最終日にできるかと思います。ご心配いただき、本当にありがとうございます。

ただ、声の戻りもそうですし、多少体力的にまた体調的に不安なところがあるので、完全に復帰できるまでは、今しばらくの猶予をいただければと思います。

さて、療養に入ったために掲載できなかった記事をひとつ。

5月22日、復活節第六主日は、瀬田教会のグラウンドで野外ミサを行い、瀬田教会と三軒茶屋教会の25名の方が堅信を受けられました。ちょっと暑くなりましたが、風も吹いて、さわやかな野外ミサとなりました。

遅くなりましたが、録音から起こして整理した、当日の説教です。

瀬田・三軒茶屋教会堅信式ミサ

復活節第六主日

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こうやって野外ミサをする機会は、なかなかありません。外でのミサですから、換気の必要はないですし、一緒に歌を歌うこともできます。人数も沢山でできるということ。今日、こうやって外でミサができるようになったことを、本当に感謝したいと思います。

こうしてミサを野外で祝いながら、昔のことを思い出していました。わたしは神父になってすぐに、アフリカのガーナという国に8年間派遣されて、小教区の主任司祭をしていました。そこでは3年に1回、司教さんを迎えて堅信式をしていました。

司教さんは一週間小教区に泊って、四回の堅信式をしてくださったのですが、一度のミサで200人くらいの人が堅信を受けました。つまり、800人の方が3年ごとに堅信を受けるくらい、沢山の信徒がおられる教会でした。その堅信式を、やはり野外ミサでしていました。それを思い出していました。ちょうど今日の蒸し暑さも、アフリカのガーナの蒸し暑さと一緒くらいです。大概が雨季の時期に行うことが多くて、午前中は晴れているのですが、午後2時くらいになると雨が降り出すので、それまでに野外ミサは終わらないといけない。それにも拘らず200人もいて、一人一人に司教さんは一人で堅信を授けているので、ものすごく時間がかかります。

今日はこの祭壇の後ろには何もないので後ろまで見えますけれども、ガーナではステージを作って、その後ろについたてのように布でカバーをするのです。

堅信の塗油に時間がかかるので、皆さん、だんだんと手持ちぶさたになるのか、その中でも教会の長老たちが、そのカバーの後ろで、皆から見えないだろうと、ちょっと一杯を始めるのです。

ある年の堅信式で、やにわに風が吹いて来て、その後ろの衝立にしていた布が見事に飛ばされたのです。そしたら当然、後ろに隠れていた方々は見えますよね。後ろで長老たちが酒盛りをしているのが全部見えて、あぁ、さすが聖霊は素晴らしいと。隠されたものであらわにならないものはないと。真実を明らかにする聖霊の力だと言って、ミサ後に皆で大笑いしたことを思い出していました。

それくらい、野外のミサでは、いろいろと想像しないことが起こりえます。今日もこうやって風が吹いているので、何が倒れるかわからないですし、急に強い風が吹いたとしたら、テントも吹き飛ぶかもしれません。まさしくそれが、聖霊が働いているということを、象徴していると思います。

風はいったいどこからやって来てどこへ行くのか、分からない。今は気象予報が発達したので、この方向の風がこれくらいの強さで吹きますということがわかりますけれども、それでも、明確にここから吹き始めて、ここまで行くんですよということは、はっきりとは分からない。風はいったいどこからやって来て、どれくらい強くてどこに向かって行くのだろうと、私たちはいつも不思議に思ってきたのです。そしてそれこそが、聖霊の働きを象徴しているというふうに、信仰の先達は考えた。それは今でもそうだと思います。

わたしたちが想像しないようなことを、風は成し遂げて吹き去って行ってしまう。

どこからともなくやって来て、いろんなものを吹き飛ばしたり、ひどいときにはその場をめちゃくちゃにしたり、そしてどこかに消え去ってしまう。それが、聖霊の働きだと思います。

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いま教皇様は、教会を改革しようと、新しい教会になっていこうと呼びかけて、共に歩んでいきましょうと、シノドスへの参加を呼びかけられています。一緒に歩んで行きましょう。それはまさしく、教会に聖霊が働いて、その聖霊の風のような力で、教会が変えられていくことを願っているんです。けれども、さっきも言ったように風は何をしでかすかわからない。だから吹き荒れる聖霊も、何をしでかすかわからないのです。

間もなく聖霊降臨の祝日が来ます。聖霊降臨の祝日に必ず朗読されるのは、使徒言行録の五旬祭の出来事です。弟子たちが集まって祈っていると、聖霊が降り、弟子たちがいろんな言葉で喋り始め、周囲の人たちみんながやって来て、これは驚いた、凄いと言ったという話であります。

その話を著わすのに使徒言行録を書いた人は、わざわざ「音がした」「激しい音がした」って書いたのです。みんな物音にびっくりしたって書いたのです。

つまり、聖霊が降って働くと、みんなびっくりするようなことになるのです。風が吹いて、予想もしないいろんなことが起こるので、みんなびっくりする。なので、びっくりしないところには聖霊は働いていません。びっくりすることが起こっているところにこそ、聖霊は働いているんです。

その聖霊降臨の日から教会は始まり、わたしたちは同じ聖霊によって今も導かれ、だからこそ教会は生きています。ですから、今私たちの教会が、何も起こっていない、静かで誰も喧嘩をしていない、にこやかで何も起こっていない、平穏無事な教会なのだとしたら、それはもしかしたら、聖霊が何も働いていない状態なのかもしれません。聖霊が働いているからこそ予期しないことが発生し、あそこで問題が起こり、こちらで問題が起こり、そちらで喧嘩が起こり、ゴタゴタゴタゴタして、みんなワイワイガヤガヤやって、そしてはじめて教会は聖霊によって導かれて前に進んでゆくんです。だから聖霊が働いている教会は、騒々しいです。聖霊が働いている教会は落ち着かないんです。

教会に聖霊が働いているから、みんなが心優しくにこやかに、諍いも何もない共同体になるかといったら、そんなことではありません。聖霊が働くとみんな騒々しくって落ち着かないんです。それが聖霊の働きです。

ですから、教皇様の導きのもとで教会が大きく動こうとしているいま、まさしく聖霊が働いて、騒々しく、ある人にとっては非常に居心地が悪い、またある人にとっては騒々しい、そういう状況になっている。でもそれこそが、聖霊の働きの証左なんだということを、教皇様がはっきりと打ち出して下さっているのだと思います。

2022seta03-2

今日この堅信の秘跡を通じて、お一人お一人も聖霊をいただきます。聖霊を受けることによって、洗礼と、ご聖体と、堅信という3つの秘跡を通じて、これで皆さんの入信の秘跡が完成するんです。つまり、完成するってことは、今日は皆さんは完成品なんです。キリスト者としての完成品なんです。

その完成品になった瞬間からどんどん古びてゆくんですけれども、でも、今日は完成品なんですよ。完成品なので、昔は「キリストの兵士」といって、これからキリストの福音のために戦うぞという意気込みを表したんですけれども、今の社会の中では、与えられている役割をしっかりと果たしてゆく、役割は何ですか、聖霊に導かれてこの社会の中でイエス・キリストの言葉を証しし生きるようにと、求められています。

さっき福音に何て書いてありましたか。「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と、イエス様の言葉が書いてありました。言葉って何ですか?

ヨハネの福音書の最初に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されています。イエス様は神の言葉そのものなのだということが、あのヨハネの福音の最初に書いてあるじゃないですか。イエスは、神の言葉です。つまりイエスを信じ、イエスがなさったことにしっかりと従って、そしてその語られたことをしっかりと守って行くならば、それはわたしたちがイエスを愛していることの証しなのです。

今日、堅信を受けるお一人お一人は、これからイエスの言葉を守るぞ、イエスご自身が語ったこと行ったことをしっかりと心に刻んで生きて行くぞと、その決意を明らかにして、わたしたちは主を愛している、神を愛していることを、この社会の中で証して頂きたいと思います。

福音を告げるもの、福音をあかしするもの、福音を多くの人たちに伝えるものとなってください。

 

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