2021年5月17日 (月)

5月にロザリオを祈る:配信第三週目

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教皇様の呼びかけに応えて、5月中に祈りを続けるロザリオの祈りの第三週目です。教皇様は昨年5月24日に、回勅「ラウダート・シ」発表から5年となることを記念して、5月16日から24日までを「ラウダート・シ」週間とし、さらに今年の2021年5月24日までを「ラウダート・シ」特別年と定めて、総合的エコロジーの観点からともに住む家である地球を守ることの大切さを自覚するようにと呼びかけられています。

間もなく5月24日でその特別年が終わるにあたり、この一週間をあらためて「ラウダート・シ」週間とするようにと、タークソン枢機卿が責任者である教皇庁の人間開発促進の部署から呼びかけられています。これには国際カリタスも協力しております。

今週特別に行われる行事については、残念ながら日本語はなくて英語のサイトですが、このリンクから一覧を見ることが出来ます。

日本の教会では9月を環境を考えるための特別な一ヶ月と定め、「すべてのいのちを守る月間」と名付けています。現在、司教団に特別なチームを設けて、「ラウダート・シ」の精神を日本の教会でどのように生かしていくことが出来るのか、検討をしています。

本日のロザリオの祈りの中で、この「ラーダート・シ」週間のことを心に留め、わたしたちの共通の家をどのように守っていくのか、考えていただければと思います。

2021年5月の第三週

恐れはわたしたちの心を束縛します。イエスの受難と十字架上での死の後、弟子たちは恐れに束縛されて、部屋に閉じこもりました。五旬祭の日、イエスはその部屋に入り、聖霊を与え、弟子たちの心を恐れの束縛から解放します。

「死」という最大の束縛から解放された復活の主は、「あなた方に平和があるように」と、弟子たちに言葉をかけます。この言葉は、恐れに束縛される心には、神の平和が欠如しているという事実を明確に指摘しています。

神の平和とは、神の秩序の実現です。神が望まれる世界の実現です。

神の平和の欠如とは、神が望まれる世界とは正反対にある現実であります。自分の殻に閉じこもり、他者への配慮を忘れた世界には、神の平和がありません。

創世記には、神が人を創造されたときに、互いに助けるものとして共に生きるようにと、二人の人を創造していのちを与えられた事が記されています。わたしたちは互いに助け合うようにいのちを与えられました。いのちを守らず、他者への配慮を忘れた世界には、神の平和がありません。

回勅「ラウダート・シ」で教皇フランシスコは、神が創造されたものは、一つとして他者と関係なく勝手に存在するものはなく、すべてが密接につながっていることを指摘し、こう記しています。

「密接に絡み合う根本的な三つのかかわり、すなわち、神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆しています。聖書によれば、いのちに関わるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」(66)

福音を告げしらせるようにと遣わされているわたしたちには、この世界において、三つのかかわりが引き裂かれている状態を修復させる務めがあります。神が望まれる世界は、「創造主と人間と全被造界との関係」が修復され、調和が実現している世界であるはずだからです。教皇様が、総合的エコロジーの課題を強調する由縁です。

複雑に絡み合った現実は、時として、三つの関係の修復を困難にさせてしまいます。不可能とも思える現実の課題を目の当たりにして心が怖じ気づくとき、復活のいのちに生きておられる主は、聖霊を送り、神の平和をこの世界に実現するように、神の平和を心に取り戻すようにと呼びかけられます。

聖母の取り次ぎを求めながら、この5月の間、みなで共に祈りましょう。

一日も早く、人類が直面しているこの困難な事態が終息するように、また病床にある人たちにいやしが与えられるように、医療関係者の健康が守られるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、さまざまな事情によりいのちを守るために助けを必要としている人たち、特に海外から来られた兄弟姉妹に必要な助けが与えられるように、さらに政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい判断をすることができるように。

そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、わたしたち自身が御子イエスに倣って行動する勇気を持つことが出来るように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

栄えの神秘(日曜日・水曜日)
第三の黙想
聖霊、使徒たちにくだる

主の約束のとおり、マリアとともに祈っていた使徒たちのうえに聖霊がくだります。
聖霊が弟子たちに下ったとき、そこには聖母マリアも共におられ、弟子たちと祈っていました。聖母は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使ガブリエルに応えたときから、常に心に浮かぶ恐れと闘い、聖霊に導かれて、神の秩序を回復するために闘ってこられました。平和を実現する福音宣教の模範を示しているのは、聖母マリアです。

この一連をささげて、わたしたちが聖霊に満たされ、いつも勇気をもって救いの福音をのべ伝える者となるよう聖母の取り次ぎによって願いましょう。

終わりの祈り(教皇フランシスコ)

聖マリア、
あなたは救いと希望のしるしとして、
いつもわたしたちの歩みを照らしておられます。

病人の希望であるあなたに信頼して祈ります。
あなたは十字架の下で、揺るぎない信仰をもって、
イエスと苦しみをともにされました。

「ローマ市民の救い」*であるマリア、
あなたはわたしたちに必要なものをご存じです。
わたしたちはあなたがそれを与えてくださると信じています。
ガリラヤのカナでなさったように、
この試練の後に喜び祝う時が再び訪れますように。

愛である神の母マリア、わたしたちを助けてください。
わたしたちが御父のみ心にこたえ、
イエスのことばに従って生きることができますように。
イエスはわたしたちの苦しみをその身に負い、
わたしたちの悲しみを引き受け、
十字架を通して、
わたしたちを復活の喜びに導いてくださいます。
アーメン。

神の母聖マリア、
あなたのご保護により頼みます。
苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。
栄光に輝く幸いなおとめよ、
あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。
 

 

 

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2021年5月16日 (日)

高幡教会50周年、そして西千葉教会の新司祭館・信徒会館

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5月15日の土曜日には、日野市にある高幡教会の創立50周年の感謝ミサが行われました。1969年に創立された教会ですから50年は2019年で、もともとは一年かけ記念の年を昨年感謝ミサで締めくくるはずでした。それが昨年の公開ミサ中止で延期に。今年は、感染対策を徹底し、参加者を限定し、さらに同じ感謝ミサを午前10時と午後1時半の二回行い、限定した参加者をさらに二つに分ける工夫をされました。加えて、聖歌の歌唱は答唱や拝領で独唱。ミサの応答も司会者のみと徹底しておりました。(写真上、高幡教会。すぐ近くには多摩動物公園がある、緑に囲まれた教会です)

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入り口で受付や消毒、検温にあたったスタッフの皆さん、典礼を準備した皆さん、ありがとうございます。主任司祭は、ミラノ宣教会のベロッティ・ジャンルーカ神父様です。(上の写真は、間隔を開け、番号指定で離れて着席をお願いする準備が整った高幡教会聖堂)

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5月9日の日曜午後には、西千葉教会で、閉園となった教会隣接の旧聖マリア幼稚園を改築した信徒ホール兼司祭館をカリタス館と命名し、その祝別式ミサを行いました。千葉県は緊急事態宣言の対象ではなく、まん延防止等重点措置の対象地域です。(上の写真は、人数制限をした西千葉教会聖堂。下の写真は、西千葉教会カリタス館一階で、祝福の祈りを唱える)

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ミサには千葉中央宣教協力体から、茂原のルイス神父様、東金の小沢神父様、そして西千葉と千葉寺の福島神父様、パル神父様が共同司式。西千葉と茂原の数名の方に堅信も授けました。このミサも、感染対策を徹底して行いました。堅信はバチカンの指示に従って、コットンパッドで一人ひとり塗油し、按手も触れないように行われました。もちろん一緒に歌うこともなく、粛々とミサを行いました。

高幡教会の皆さん、そして西千葉教会の皆さん、おめでとうございます。(下の写真は、高幡教会の聖母子像)

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以下、高幡教会でのミサの説教原稿です。

高幡教会50周年ミサ
2021年5月15日

カトリック高幡教会が誕生して50年の節目にあたり、皆様にお祝いを申し上げます。

わたしもまだ東京教区のすべての教会の歴史を把握していないので申し訳ないのですが、1969年にベリス・メルセス会の修道院が創立され、その地に司祭が派遣されたことで、教会共同体がはじまったとうかがいました。そして、ベリス・メルセス会の好意により、修道会敷地内に現在の聖堂が献堂されたのが1982年12月5日ですから、間もなく聖堂も献堂40周年となります。

新型コロナ感染症の影響で本日の記念ミサは、たびたび延期となっていましたが、高幡教会の皆さんは、この2年間、これまでの歴史を振り返り、次の節目である100年を目指して進むべき道を模索するときを、十分に過ごされてきたと思います。 

これまでこの教会において、宣教と司牧に献身的に取り組んでこられた司祭の皆様に心から感謝します。また、この50年の間、宣教師や教区の司祭とともに教会共同体を育て上げてきた高幡教会の信徒・修道者の方々にも、心から感謝申し上げます。

「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」
先ほど朗読されたヨハネ福音は、有名なカナの婚姻の場面でしたが、そこに記された聖母マリアの言葉であります。

教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」で、祈りをとおしてマリアとともにキリストを黙想することの重要性を指摘され、それを通じて、マリアとともにキリストを思い起こし、キリストを学び、キリストの姿に似たものとなり、キリストに願い、キリストを伝えていかなくてはならないと記しています。

教皇はカナの婚姻での聖母のこの言葉を取り上げ、「イエスが行った最初の「しるし」において、マリアは、召し使いにイエスのいいつけ通りにするよう促す教師の姿」を示し、わたしたちを「マリアの学びや」に招いていると指摘します(14)。

その上で、「キリストと聖霊がわたしたちの心に湧き上がらせてくださる祈りを支えるために、マリアは間に立って執り成してくださいます。・・・カナの婚礼において、福音書はマリアのこの執りなしの力をはっきりと述べています。マリアは人が必要としているものをイエスに知らせているのです」(16)と記しています。

カナの婚姻の物語は、聖母とともにキリストを学ぶようにわたしたちを招き、同時に聖母の執りなしの力強さを教え、特に困難にあるときに、聖母に祈ることの大切さを思い起こさせます。

わたしたちは今、歴史に残る困難に直面しております。

新型コロナ感染症の蔓延は、未知の感染症であるが故に、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込みます。わたしたちはすでに1年以上にわたって、出口が見えないまま、まるで闇の中を光を求めて彷徨い続けているかのようであります。徐々に感染症の全貌が明らかになり、ワクチンの接種が始まったとは言え、確実に安心できるまではまだ時間が必要なようですし、わたしたちが直面しているいのちの危機は継続しています。

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教会も、さまざまに対応してきました。なんといっても、当初から、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードでありますし、ましてやミサなどになれば一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。

大げさなようですが教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。この教会という場所に集まることが、共同体なのだと思っていました。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功だと思っていました。

それが物理的に集まることが難しくなった今、集まってもなるべく離ればなれになり言葉も交わさないようにしている今、教会共同体というのは、そもそもいったい何のことだろうかと自問させられています。

もちろんわたしたちは、以前から教会というのは単に聖堂という建物のことだけではないと学んできました。第二バチカン公会議は教会憲章において、教会はまず第一に「神の民」であると指摘し、その上で教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)と教えます。教会は神の民という共同体のことであり、その共同体は、「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」として、この地域に存在しています。

教会に集まることが難しい今だからこそ、わたしたちは自分の生活の場へと「出向いていく教会」として、「神との親密な交わりと一致」をあかしする神の民でありたいと思います。

教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。闇雲に出向いていくのではなく、助けを必要としている人のもとへと出向いていく教会であります。孤立しいのちの危機に直面している人のもとへと、出向いていく教会であります。

コロナ禍のもたらす疑心暗鬼の暗闇の中で、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、教皇様は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する神の民であるようにと呼びかけておられます。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけ、東京ドームのミサでも、「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と力強く呼びかけられました。

疑心暗鬼の暗闇の中で不安に苛まれる心は、寛容さを失っています。助けを必要としているいのちを、特に法的に弱い立場にある人たちを、いのちの危機に追い込むほどの負の力を発揮しています。わたしたちは神からの賜物であるいのちを守る、野戦病院でありたいと思います。

教会共同体は、その体の一部である一人ひとりが、それぞれの生活の場で神のいつくしみをあかしする言葉と行いに忠実であることによって、出向いていく教会となります。わたしたちのあかしするいつくしみの言葉と行いは、個人の業ではなく、共同体の業です。わたしたちは、共同体で受けた神の愛といつくしみを心にいただき、それをそれぞれが生きる場で分かち合うのです。

聖母マリアは、 深い祈りと霊性に支えられながらも、つねに行動することをいとわず、困難に直面する人のために手を貸すためであれば待つことなく即座にそのもとへ出かけていく、まさしく出向いていく教会の母であります。対立と分断、差別と排除、孤立と孤独のうちに危機に直面する命を守るため、積極的に行動する教会の母であります。

困難な今だからこそ、教皇様がこの5月に呼びかけられているように、聖母の執りなしの力に信頼して祈り続けましょう。そしてわたしたち自身も、社会のさまざまな場にあって、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独がいのちの危機をもたらすことのないように、言葉と行いを持って教会の信仰をあかしして参りましょう。

 

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2021年5月15日 (土)

週刊大司教第二十六回:主の昇天

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復活節第七主日は、主の昇天です。(写真は西千葉教会のヨセフ像)

この一週間は、月曜の東京教区の司祭評議会に始まって、水曜日の司教協議会のHIV/AIDSデスク事務局会議、そして社会司教委員会、木曜日には司教協議会の常任司教委員会と東京カトリック神学院の常任司教委員会などと、すべてオンラインでの会議が続きました。どの会議でも、今後の年間予定をどうするのかが重要な議題のひとつとなり、秋以降に予定されているさまざまな行事は、状況が見通せないことや準備の時間も考えて、軒並み、中止やオンライン化が決まっていきました。オンラインでの行事は、全国どこにいても参加できるメリットがある反面、やはり実際に出会って交わるという部分に、まだ欠けているように感じます。慣れるのかもしれません。またオンラインの会議は、移動する時間と経費が節約できますが、移動時間がないぶん、立て続けに会議が続くことがあり、モニター画面の前に座りっぱなしになったり、海外との会議ですと時差を考慮に入れて、とんでもない時間に始まったりと、それはそれで大変です。

中止になった行事といえば、5月21日から26日まで、有楽町で、カトリック美術協会の毎年の美術展が開催される予定でした。これも、昨年同様、中止となってしまいました。わたし自身はカトリック美術協会の顧問司教を務めていますが、わたしの父親も絵描きですので出品されることがあります。信徒の美術家の方々の渾身の作品が展示され、広く一般の方にも鑑賞いただく機会でしたので、残念です。来年は、安心して開催されますように。

ワクチン接種が少しずつ進んでいるようです。司祭や修道者の方でも、高齢者が多いですから、順番に接種の予約が取れたかたが出ているようです。わたしはまだ65歳前ですので、ワクチン接種はかなり先のことになるのではないかと思われます。まだまだ気を抜くことは出来ません。

以下、本日土曜日午後6時に配信された、週刊大司教第二十六回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

復活節第七主日B・主の昇天(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第26回
2021年5月16日

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」

復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちとともにおられ、神の国について教え、ご自分が新しい命に生きていることを数多くの証拠を持って示されたと、使徒言行録の冒頭に記されています。

十字架上での死によって主を失った弟子たちには、大きな絶望があったことでしょう。神の国の実現という、将来に向けての具体的な目的が潰えてしまったからです。復活された主に出会った弟子たちの、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけに、弟子たちの心に再び芽生えた希望が表現されています。

残念ながら、弟子たちの心に再燃したその希望は、主が示す新たないのちへの道とは異なりました。マルコ福音には、天に上げられ、神の右の座につかれたイエスが、弟子たちに残した言葉が記されています。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

これこそが、主イエスが示される新たな命への希望の道であります。

福音を伝えることによって、多くの人が神の救いにあずかること。多くの人が神の愛に包まれて生きること。そこに本当の命の希望があるのだと、主は進むべき道を示されます。

わたしたちには、福音を告げしらせ、命の希望の灯火をともしていく務めがあります。教会に与えられた、福音宣教の命令です。わたしたちの使命です。

昨年から一年以上、わたしたちは困難な状況の中にあります。希望の光であるワクチン接種も徐々に始まってはいますが、しかし、緊急事態宣言やそのほかの措置が繰り返され、まだまだ油断することはできません。気を緩めることはまだ出来ませんが、かすかながら光が見えつつあり、希望を感じ取ることができます。希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、守りに入って自分のことだけを心配する目を、助けを必要とする他者へと開きます。希望は、わたしたちが一歩前へと足を踏み出す力を生み出します。

この希望への道を切り開いてくださっている医療関係者の努力に、あらためて感謝すると共に、病床にある方々の一日も早い回復を心から祈ります。

「教会の使命は、キリストの命令に従い、聖霊の恵みと愛に動かされて、すべての人と民族の前に完全に現存するものとなるとき、初めて遂行される」と記している第二バチカン公会議の『教会の宣教活動に関する教令』は、愛のあかしによる福音宣教についてこう記します。

「キリストが神の国の到来のしるしとして、あらゆる病気や患いをいやしながら町や村を残らず巡ったように、教会もまた、その子らを通して、どのような状況にあるとしても、人々とくに貧しい人や苦しんでいる人と結ばれ、彼らのために喜んで自分を差し出す」(12)

イエスは苦しみの意味を問うわたしたちに、抽象的に意味を説明するのではなく、ただ、「わたしに従って来なさい」と招き、ご自分の愛の業に参加するように呼ばれるのだと記したのは、ヨハネパウロ二世でありました。(「サルヴフィチ・ドローリス」26)

いまこの状況の中で、わたしたちには、福音を、愛の業によるあかしを持って告げしらせる務めがあります。希望の光を届け、主が示される新しい命への真の希望の道を歩みましょう。

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2021年5月13日 (木)

ファティマの聖母記念日

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5月は聖母の月で、毎年ロザリオの祈りが呼びかけられています。昨年に続き今年も、感染症による困難な状況の終息を願い、教皇様は特別に祈るようにと呼びかけられています。今年は、毎日、世界各地の聖母巡礼所を結んでのロザリオマラソンが行われ、また東京教区では、毎週月曜日の昼に、一連ずつをメッセ-ジとともに配信をしております。

その5月の中で、本日5月13日は、ファティマの聖母の記念日です。聖母マリアが、ポルトガルの三人の子どもたちに御出現なさったのが、1917年5月13日のことです。6回にわたり聖母の出現をうけ、またメッセージを受けた三人のうち、幼くして亡くなった二人、フランシスコ・マルトとジャシンタ・マルトの列聖式は、2017年に教皇フランシスコがファティマを巡礼し行われました。三人のうちもう一人のルシア・ドスサントスは、その後修道生活に入り、2005年に亡くなられましたので、現在列福調査が進められています。

昨年は、翌5月14日が教皇様の特別な呼びかけによる祈願日であったことから、東京カテドラル聖マリア大聖堂でもロザリオの夕べを行いました。昨年の映像は、こちらのリンクからまだご覧いただけます。今年もロザリオの祈りにご活用ください。また以下にビデオをアップしておきます。

またはこちらのリンクから、東京大司教区の、今年の毎週一連の配信もご利用ください。現在、一連と二連が配信されています。

聖母の取り次ぎを求めながら、この5月の間、みなで共に祈りましょう。

一日も早く、人類が直面しているこの困難な事態が終息するように、また病床にある人たちにいやしが与えられるように、医療関係者の健康が守られるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、さまざまな事情によりいのちを守るために助けを必要としている人たち、特に海外から来られた兄弟姉妹に必要な助けが与えられるように、さらに政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい判断をすることができるように。

そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、わたしたち自身が御子イエスに倣って行動する勇気を持つことが出来るように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

さて、教皇様は5月11日に、新しい奉仕職として、「信徒によるカテキスタ」を正式に制定されました。同日発表された自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」において、これまでの教会の歴史を振り返り、「カテキスタ」の役割の重要性と、それも召命の一つであることを強調され、同時にこの制定が、新たな「聖職者主義」を生み出すのではなく、教会共同体を豊かにするための奉仕職であることを指摘されています。

バチカンユースによれば、「信仰の証人・師・同伴者として、カテキスタは、洗礼の秘跡の準備から、生涯の育成にいたるまで、司牧に奉仕するよう招かれている、と教皇は説明」され、「信徒カテキスタは「深い信仰を持ち、人間的に成熟し」、キリスト教共同体の生活に積極的に参加している男女でなくてはならない」」とも指摘されています。

今後、典礼秘跡省から、認定式などの儀式が定められることと、各地の司教協議会はそれぞれの地域の事情に応じて、信徒によるカテキスタの制度を整備することを、教皇様は求めておられます。

ご存じのように、東京大司教区では「教区カテキスタ」の制度を定め、猪熊神父様を委員長としてカテキスタ養成コースを行ってきました(今年は感染症の状況に鑑み、中断中です)。今後、教皇様の今回の制定にあわせ、また示唆と励ましを頂き、東京における教区カテキスタの制度をさらに充実させていきたいと思います。

 

 

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2021年5月10日 (月)

5月にロザリオを祈る:配信第二週目

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教皇様のロザリオマラソンの呼びかけに応え。困難な状況が一日も早く終息するように、またいのちが守られるように、ロザリオの祈りを唱え続けています。東京大司教区では、栄えの神秘を、メッセージとともに、五月中の毎月曜日、一連ずつですが、ロザリオの祈りを配信しています。

以下、5月10日月曜日のお昼に配信した、ロザリオの祈り第二週目のメッセージ原稿と祈りの意向です。ビデオは、youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントからご覧いただけます。

2021年5月の第二週

教皇フランシスコは、昨年の5月に信徒に手紙を送り、そこにこう記しておられます。

「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、わたしたちはこの『家庭で祈る』という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました。・・・だれかと一緒に唱えることも、独りで唱えることも、どちらの機会も最大限に活用して、状況に応じて決めることができます。」

世界が困難な状況に直面するとき、ロザリオを祈るように呼びかけるのは、教会の伝統です。例えば1965年に、世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと呼びかけた回勅「メンセ・マイオ」で、教皇パウロ六世はこう述べています。

「五月は、・・・わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」(3)

パウロ六世は、ロザリオの重要な要素として「賛美と祈願」に加えて、「観想」が重要であることを説いておられます。使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」には、「観想という要素がないならば、ロザリオは魂の抜けた体にすぎません。・・・主にもっとも近かったマリアの目を通して主の生涯における神秘を黙想できるように役立つべき」と記されています(47)。

わたしたちはこの困難な状況のただ中にいて、いのちの危機に直面しながら、暗闇から抜け出す光を求めて祈ります。同時にその祈りは、助けを願い求めるだけでなく、キリストに倣ってわたしたちがどのように生きるべきなのか、キリストのみ顔を聖母とともに探し求める観想の祈りの道でもあります。

教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」の終わりにこう記しています。

「イエスを大切になさった母マリアは、今、傷ついたこの世界を、母としての愛情と痛みを持って心にかけてくださいます。・・・マリアは、イエスの全生涯を『心に納めて』おられたばかりか、今や、すべての物事の意味を理解しておられます。ですからわたしたちは、この世界を知恵の眼(まなこ)で見られるようにしてください、と彼女に願うことが出来るのです。(241)」

困難を取り除いてくださるように願うとともに、この現実の中で、神の御旨を実現していく道はどこにあるのか、祈りのうちに聖母とともに探ってまいりましょう。

東京教区では五月中の毎週一回、月曜日に、栄えの神秘の一連を、メッセージとともにインターネットで配信します。聖母の取り次ぎを求めながら、この5月の間、みなで共に祈りましょう。

一日も早く、人類が直面しているこの困難な事態が終息するように、また病床にある人たちにいやしが与えられるように、医療関係者の健康が守られるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、さまざまな事情によりいのちを守るために助けを必要としている人たち、特に海外から来られた兄弟姉妹に必要な助けが与えられるように、さらに政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい判断をすることができるように。

そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、わたしたち自身が御子イエスに倣って行動する勇気を持つことが出来るように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

栄えの神秘(日曜日・水曜日)
第二の黙想
イエス、天にあげられる

復活された主イエスは、弟子たちの前で天に上げられ、御父の右の座にお着きになります。

復活のいのちに生き、天に上げられた主イエスは、その栄光の座にあって、すべてを支配しておられます。わたしたちは、主に従う者として、王であるキリストの支配が完成するように務めなくてはなりません。神が求められる秩序が、この世界に実現するように務めることは、すなわち平和を求めることです。それは人間のいのちが、その尊厳を完全に守られる世界を実現することでもあります。被造界が神の望まれる秩序のうちにあるように努力をすることです。

この一連をささげて、わたしたちが主の復活の証人として生きることができるよう、神の望まれる世界の実現のために働く勇気と知恵が与えられるよう、聖母の取り次ぎによって願いましょう。

教皇フランシスコの祈り

聖マリア、

あなたは救いと希望のしるしとして、

いつもわたしたちの歩みを照らしておられます。

病人の希望であるあなたに信頼して祈ります。

あなたは十字架の下で、揺るぎない信仰をもって、

イエスと苦しみをともにされました。

「ローマ市民の救い」*であるマリア、

あなたはわたしたちに必要なものをご存じです。

わたしたちはあなたがそれを与えてくださると信じています。

ガリラヤのカナでなさったように、

この試練の後に喜び祝う時が再び訪れますように。

愛である神の母マリア、わたしたちを助けてください。

わたしたちが御父のみ心にこたえ、

イエスのことばに従って生きることができますように。

イエスはわたしたちの苦しみをその身に負い、

わたしたちの悲しみを引き受け、

十字架を通して、

わたしたちを復活の喜びに導いてくださいます。

アーメン。

神の母聖マリア、

あなたのご保護により頼みます。

苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。

栄光に輝く幸いなおとめよ、

あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。

 

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2021年5月 8日 (土)

週刊大司教第二十五回:復活節第六主日

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復活節もすでに第六主日となりました。

残念なことに、緊急事態宣言は当初の5月11日は解除とならず、東京都に関しては月末まで延長されることが発表されています。千葉県のまん延防止等重点措置も、月末まで継続です。従って、東京大司教区では、現時点で行っている感染対策などを、そのまま継続します。現時点での教区の対策は、東京大司教区のホームページの一番トップに、常に掲示されていますので、ご参照ください。『現在の東京教区における感染症への対応」と記されたバナーがありますので、クリックされてください。

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5月8日土曜日の午前11時から、ごく一部の方々に参加者を限定して、昨年12月に帰天されたペトロ岡田武夫大司教と、昨年9月に帰天されたフランシスコ・ザベリオ岸忠雄神父の納骨式を、府中カトリック墓地で行いました。晴天に恵まれ、暑いほどの陽気でしたが、両師のご親族代表ほか10名ほどで、教区司祭団の共同納骨墓にお二人の御遺骨を納めさせていただきました。府中墓地の聖堂の目の前にあるのが教区司祭団の共同墓です。府中墓地にお出での節には、是非お祈りをお願いいたします。

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以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第二十五回目の、メッセージ原稿です。

復活節第六主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第25回
2021年5月9日

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と呼びかける使徒ヨハネは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに」なったことにこそ、神の愛が示されていると強調します。すなわち、神からわたしたちへ向けられた愛は、御子が十字架の上でその身をささげられたほどの愛であり、まさしく命がけの愛であります。その愛によって生かされているのだから、わたしたちも、口先ではなく、「命がけ」で愛に生きるようにという、実のところきわめて激しい呼びかけの言葉であります。

使徒ヨハネの言葉は、イエスご自身のさらに激しい呼びかけ、すなわち、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉に根ざしています。

「隣人を愛する。友を愛する」と口にするのはたやすいことです。もしかしたら「互いに愛し合いなさい」と言う呼びかけも、簡単なことだと思ってしまうこともあるやも知れません。でもそれは思い違いです。それは、単に優しくあることを意味しているからではありません。

イエスが語る「愛」は、ご自身がそうされたように、命がけの愛であります。神の愛を具体化するために、イエスは受難の道を歩まれ、十字架の苦しみの中に、ご自身を贖いのいけにえとしてささげられました。それが神の愛です。

この言葉を耳にするとき、わたしはどうしても、ルワンダ難民キャンプでの体験を思い起こしてしまいます。25年ほど前、当時の旧ザイールにあったルワンダ難民キャンプで、襲撃事件に遭遇しました。キャンプに二時間にわたって銃弾が撃ち込まれる中で、隣に一緒にいたはずのルワンダ人の神父が、外国人のわたしたちが襲撃されないようにと、建物の外に立ち、襲撃してきた一団の注意を引こうとしていたのでした。幸い彼が襲撃してきた一団に遭遇することがなかったのですが、その直後、「君たちを守るために、注意を引こうとしていたのだ」と口にした彼の言葉を耳にしたとき、自分がそれまで「友のためにいのちを捨てる」という言葉を、いかに軽々しく口にしてきたことかと思い知りました。

そしてイエスの言葉がどれほど命がけの行動を促しているのかを、思い知りました。愛は簡単に口に出来ますが、神の愛に生きることは、命がけであります。

5月は聖母月ですが、聖母マリアは命がけの愛に生きる模範を示されています。教皇フランシスコはそのことを「福音の喜び」で、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)と記して、聖母の愛が、単なる優しさにあるのではなく、「革命的な力」という表現で、命をかけた生き方によってあかしされていること示唆します。

さて教会は、復活節第六主日を、世界広報の日と定めています。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどの広報媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考え、振り返り、祈り、献金をささげる日です。この日にあたり教皇フランシスコは、『「来て、見なさい」(ヨハネ1・46)人々と、彼らのいる場で、そのままの彼らと会って、伝えなさい』というメッセージを発表されています。教皇は、「ことばは、それが「見てもらえる」ときにのみ、あなたを経験の中に、対話の中に、巻き込むときにのみ力を得ます」と記して、イエスと出会った者がその体験を、実際の出会いの中で具体的に言葉と行いを持ってあかしするように招かれます。

わたしたちは主イエスに倣い、命がけの愛に生きている姿を、具体的にあかしするように、努めていきたいと思います。

 

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2021年5月 6日 (木)

訃報:地主敏夫司教様

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前札幌教区司教(教区長)のペトロ地主敏夫司教様が、5月4日に入院先の札幌厚生病院にて肺炎のために帰天されました。90歳でした。(上の写真は、2012年9月に月寒教会献堂50年のお祝いで挨拶される、地主司教様)

地主司教様の葬儀などは、現在の感染状況ですので、ご親族や司祭団だけで、5月8日(土)午前10時から札幌北一条教会で執り行われます。お祈りください。

わたしも、札幌教区と縁がないわけではありません。2009年11月に地主司教様が引退されてから、後任として勝谷司教様が叙階された2013年10月まで、新潟教区の司教と兼任しながら、4年間ほど札幌教区の使徒座管理者を務めておりました。ですから、できれば札幌まで行って葬儀に参加したいところですが、緊急事態宣言下でもあり、当日は東京からお祈りさせて頂きます。

教区司教は75歳になると、教皇様に引退願いを出すことになりますが、それに対して通常は、1:即座に引退が認められる、2:当面続けるように命じられる、3:後任が決まるまでその座に留まるように命じられる、の三つの選択肢があります。もちろんそれ以外にも、多くは自らの願いで協働司教を引退より数年前に任命して頂いて、協働司教は司教座の継承権を付与されるので、引退と共に即座に司教座を引き継ぐ場合などもあります。

地主司教様の場合がどうであったかは、わたしは知る立場にありませんが(基本的には教皇様とご本人、そして宣教地の司教任命に関わる福音宣教省長官程度が知るのみでしょうか)、最終的に地主司教様は79歳まで札幌司教を続けられました。今でこそ、ほかの教区の司教が空位の司教座の管理者となることは普通となりましたが、当時の札幌のケースのように、ほかの教区司教が使徒座管理者となるのは日本では久しぶりのことで、当時はわたしが新潟から北海道へ転勤となったと勘違いをされたこともありました。

いずれにしろ引退された当時、79歳の地主司教様はまだまだお元気で、その後も幼稚園の園長などを続けられ、冬にはご自分で車を運転して、スキーにも行かれていました。わたしも、4年間、毎月一週間ほどは札幌に通っていたので、札幌司教館で一緒に食卓を囲みながら、いろいろと昔話を聞かせて頂きました。話題は北海道の教会に留まらず、日本の教会や世界の教会の話題もしばしば飛び出し、文字通り「勉強」させていただきました。(下の写真、引退後も元気に司教館前の雪かきをする、地主司教様)

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大げさなお祝いなどがお好きではなかったと感じましたが、一番印象に残っているのは、引退が発表された2009年11月17日の夜のことです。その週は、大阪方面で、日本と韓国の司教団の交流会が行われていましたが、夕食後の懇談中、ローマ時間のお昼になった瞬間に立ち上がり、「じゃあ、わたしは引退したからこれでさよなら」と、手を振って部屋を後にされました。残されたものは、わたし以外、その事情を知らなかったので、唖然としていた、その雰囲気と皆の表情と、さわやかに別れを告げる地主司教様の颯爽とした姿が忘れられません。このたびも、唖然とする周囲を尻目に、「じゃあ、さよなら」とばかりに、颯爽と御父のもとへと旅立たれたことでしょう。

司教様の様々なお働きに、そして生涯を通じた献身に、いのちのあたえ主である神が、豊かに報いてくださいますように。永遠の安息を祈ります。

略歴(札幌教区の通知より)


1930年9月20日    北海道札幌市に生まれる
1934年9月16日    北一条教会で受洗
1960年3月20日    カトリック北一条教会で司祭叙階。北二六条教会助任。
1961年~1969年   司教館付司教秘書、教区事務局長
1969年~1978年   ローマ留学
1978年~1987年   円山教会主任、さゆり幼稚園園長
1987年10月3日    札幌教区長(司教)に任命される
1988年1月15日    司教に叙階される
2009年11月17日    司教の辞任が受理される
2021年3月19日    治療のため札幌厚生病院に入院
2021年5月4日      帰天

生前、多くの役職を担われましたが、主だったものとして、司教協議会における教会行政法制委員長、典礼委員長、カトリック新聞や多くの各役職を歴任。その他にも社会福祉法人雪の聖母園、医療法人天使病院の他、多くの学校法人の幼稚園園長や理事、理事長も歴任されました。

 

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2021年5月 5日 (水)

5月にあたり、ロザリオをともに祈る

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5月は聖母月です。

中央協議会のホームページにはこう記されています。

 「聖母月の信心は近世からのもので、18世紀のイタリアで盛んとなりました。この5月は、四季折々の中で春の訪れとともに自然界の実りをもっとも感じさせてくれ、また主の復活の喜びと希望に満ちた月でもあります。そのような思いをもってこの月をマリアにささげ、マリア崇敬のために祈り続ける信心が伝統としてなされてきたことは当然のように考えられます」

主キリストのあがないの業の第1の協力者は、十字架の傍らに立ち、イエスの苦しみを共にされた聖母マリアです。それだからこそ、聖母の取り次ぎには力があります。マリア様を通じて私たちが主イエスに達することが出来るように、その取り次ぎのうちに、あがない主への信仰を深めるときにしたいと思います。特に、現在のように、人類的規模でいのちが危機に直面するような事態にあっては、一日も早い終息と平安を求めて、聖母の取り次ぎを祈ることは、教会の伝統でもあります。

教皇様は、新福音化推進評議会を通じて、今回の事態にあたり、終息を願って、世界30の聖母巡礼所と連携し、五月中の「ロザリオ・マラソン」を呼びかけておられます。ロザリオの祈りのポイントは、そういった行事(中継は日本の深夜1時ですし)に参加すること自体にあるのではなく、地道に祈ることであり、また心をあわせて祈ることでもあります。祈りの一助として、東京教区では、毎週月曜の昼に、ビデオを配信します。いつでも見ていただけるので、ご利用いただければと思いますが、ビデオでは栄えの神秘を一連のみ唱えています。最初に、メッセージを入れます。終わりに教皇フランシスコの祈りを唱えます。一緒に一連でも構いませんし、その後一環までご自分で唱えていただいても構いません。心をあわせて、ともに祈りましょう。

5月3日、10日、17日、24日、31日の各月曜日お昼に、カトリック東京大司教区のyoutubeチャンネルで配信です。

以下、5月3日のロザリオの祈りのメッセージ原稿と祈りの意向、教皇様の祈りです。

ロザリオの祈りは、聖母マリアとともにキリストを観想する祈りです。ルカ福音には、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。教皇ヨハネパウロ二世は、「おとめマリアのロザリオ」に、「キリスト者の共同体は、ロザリオを唱えることによって、マリアの思い出と観想のまなざしに心をあわせる」と記します(11)。

わたしたちはロザリオの祈りを通じて、聖母マリアとともにキリストを思い起こし、聖母マリアからキリストを学び、聖母マリアとともにキリストの姿に似たものとなります。加えてわたしたちは、聖母マリアとともにキリストに願い求め、聖母マリアとともに、福音を告げしらせるものとなります。

昨年初めからすでに一年以上、世界は歴史に残る事態に直面し、多くの人がいのちの危機に直面しています。日本においても、他国と比較すれば状況はまだ穏やかとは言え、実際に亡くなられた方や、現在もいのちの危機に直面し、病床にある方も少なくありません。感染対策のため、社会活動は度重なる自粛を余儀なくされ、経済的にも大きな打撃を受けています。

教会も、感染しないだけではなく、感染をひろげて他者のいのちを危機にさらすことのないように、対策を徹底してその活動を制限してきました。

わたしたちは、教会に集まれないからといって、祈りを止めることはありません。いまこそ、祈りの力が必要です。いのちを守るために、わたしたちは祈らなくてはなりません。

昨年、教皇フランシスコは、感染症が拡大し多くの方がいのちの危機に直面している中で、五月中にロザリオの祈りを唱えるようにと招かれました。

同時に教皇様は、昨年5月17日のアレルヤの祈りで、「感染症が蔓延しているここ数カ月、わたしたちの共通の家を大切にすることの重要性がひとしお切実に感じられます」と述べられ、発表から五年となる回勅「ラウダート・シ」をたびたび引用しながら、将来に向けて、世界的な連帯の絆の中で、この共通の家をどうしたら神が望む姿にしていくことが出来るのかという視点を持つことの重要性を強調されています。

まだ終息への道筋が見えない中、教皇様は今年の五月に、世界中の30を越える聖母の巡礼所と連携しながら、この困難を祈りの力で乗り越えることが出来るように、「ロザリオ・マラソン」を行うようにと、新福音化推進評議会を通じて呼びかけられました。

東京教区では五月中の毎週一回、月曜日に、栄えの神秘の一連を、メッセージとともにインターネットで配信します。聖母の取り次ぎを求めながら、この5月の間、みなで共に祈りましょう。

一日も早く、人類が直面しているこの困難な事態が終息するように、また病床にある人たちにいやしが与えられるように、医療関係者の健康が守られるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、さまざまな事情によりいのちを守るために助けを必要としている人たち、特に海外から来られた兄弟姉妹に必要な助けが与えられるように、さらに政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい判断をすることができるように。

そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、わたしたち自身が御子イエスに倣って行動する勇気を持つことが出来るように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

栄えの神秘(日曜日・水曜日)
第一の黙想
イエス、復活する

イエスは死に打ち勝って復活し、新しいいのちをお与えになります。
マルコ福音書には、イエスの墓が空であった事に加え、天使がマグダラのマリアたちにこう語ったと記されています。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16章6~7節)

復活の主の新しい命にあずかることは、わたしたちが古い自分を捨て、新しい生き方へと旅立つことを求めています。この困難な状況の中で、これまでの常識にとらわれることなく、主が求められる生き方へと勇気を持って一歩を踏み出すようにと、わたしたちは求められています。

この一連をささげて、わたしたちが主とともに死んで、その復活にもあずかることができるよう聖母の取り次ぎによって願いましょう。

教皇フランシスコの祈り

聖マリア、

あなたは救いと希望のしるしとして、

いつもわたしたちの歩みを照らしておられます。

病人の希望であるあなたに信頼して祈ります。

あなたは十字架の下で、揺るぎない信仰をもって、

イエスと苦しみをともにされました。

「ローマ市民の救い」*であるマリア、

あなたはわたしたちに必要なものをご存じです。

わたしたちはあなたがそれを与えてくださると信じています。

ガリラヤのカナでなさったように、

この試練の後に喜び祝う時が再び訪れますように。

愛である神の母マリア、わたしたちを助けてください。

わたしたちが御父のみ心にこたえ、

イエスのことばに従って生きることができますように。

イエスはわたしたちの苦しみをその身に負い、

わたしたちの悲しみを引き受け、

十字架を通して、

わたしたちを復活の喜びに導いてくださいます。

アーメン。

 

神の母聖マリア、

あなたのご保護により頼みます。

苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。

栄光に輝く幸いなおとめよ、

あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。

 

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2021年5月 1日 (土)

週刊大司教第二十四回:復活節第五主日

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復活節も第五主日となりました。東京教区でも東京都は緊急事態宣言の対象となっておりますし、都県境をまたいで千葉県などで隣接する教会も多いことから、それぞれの小教区の事情に応じて、ミサの公開を一時中止としているところもあること、報告をいただいています。

4月29日には、上の写真にあるとおり、小田神父様、古市神父様の司祭叙階式を、参加者を限定して執り行うことが出来ました。それ以外は、多くの予定されていた行事が中止や延期となっています。この主日、5月2日は五井教会で堅信式の予定でしたが中止。5月5日は豊四季教会の五十周年ミサを司式する予定でしたが、これもプライベートなミサに変更。昨年から一年延期となり、連休中に予定されていた全国のカトリック青年の集まりも再度の延期。などなど、それ以外にも、特にこの連休中に予定されていた諸行事が、延期や中止となっているものと思います。

一日も早くこの困難な状況が終息し、再び笑顔で教会に集える日が戻るように、病床にある方々に回復を、医療関係者の健康が守られるように、五月中は特に聖母の取り次ぎを願って、祈り続けましょう。祈りの力で、霊的に結ばれていることを、再確認いたしましょう。

教皇様の、五月中にロザリオ・マラソンを行うという呼びかけに応え、急遽、東京教区でもロザリオのビデオを作成しています。5月3日から5月31日の、五月中の毎週月曜日昼に、東京教区のyoutubeアカウントから、週刊大司教と同じように配信します。準備するにはとても短い時間ですが、担当者がオーバータイムで必死に作成してくれていますので、これが皆様のお祈りの一助となれば、幸いです。

配信内容としては、ロザリオの前にわたしのメッセージがあり、そのあと、月曜ですが復活節でもあるので「栄えの神秘」を、毎回一連ずつ唱えましょう。(毎月曜に一連で、今年の5月は5回月曜があるので、一ヶ月でちょうど一環となります)最後に、昨年の信徒への手紙に記されていた、教皇フランシスコの祈りを唱えて終わります。もちろんその後で、それぞれの場で、一環、またはそれ以上、祈り続けてくださって構いません。

いわゆる入管法(出入国管理及び難民認定法)などの一部を改正する案が国会で審議され、先般の名古屋入管におけるウィシュマ・サンダマリさんの死亡の事案などもあり、改正に反対する声が上がっています。こういったことに関する教会の態度は明確です。

教会は、その旅路がどのような理由で始められようとも、そのどこにあっても、どのような状況にあっても、神の似姿である人間のいのちの尊厳は、常に守られなくてはならないと主張します。

申命記10章19節には、「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と記されていました。困難に直面する人々に、救いの手を差し伸べることは、そもそもの神の民の務めです。

わたしたちが最優先するべきなのは、移住者の現在の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳であると、教会は長年にわたり主張してきました。例えば1996年世界移住の日のメッセージで、教皇ヨハネパウロ二世はこう指摘しています。

「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません。・・・違法状態にある移住者が滞在許可を得ることができるように、手続きに必要な書類をそろえるために協力することはとても大切なことです。・・・特に、長年その国に滞在し地域社会に深く根をおろして、出身国への帰還が逆の意味で移住の形になるような人々のために、この種の努力をしなければなりません。」

教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮を、いのちの尊厳に基づいて強調されています。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されている人たちが世界に多く存在する。教皇フランシスコは、危機に直面するそのようないのちの現実を前にして、法律的議論はさておいて、人間のいのちをいかにして護るのかを最優先にするよう呼びかけています。従って、現在の法律の改正論議にあっても、人間のいのちの尊厳が守られることをまず優先してくださることを希望してやみません。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第二十四回目のメッセージ原稿です。

復活節第五主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第24回
2021年5月2日

使徒言行録は、回心したパウロが、当初は彼を迫害の手先として恐れていた弟子たちから受け入れられ、その出来事を通じて教会が、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」言った様を記しています。

神の救いの計画は、人知をはるかに超えた方法をとりながら、成就する道をたどることを、あらためてわたしたちに認識させます。同時にわたしたちは、その人知をはるかに超える道は、聖霊によって導かれていることも知っています。

教会は、聖霊によって導かれています。第二バチカン公会議の教会憲章は、五旬祭の日に遣わされた聖霊が教会を導き続けていることを明確に指摘し、「聖霊は福音の力を持って教会を若返らせ、絶えず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」と記しています。(4)

ヨハネも手紙の中で、「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります」と記すことで、教会に働き、教会を導き続ける聖霊の働きを明確にします。

ヨハネ福音は、主ご自身がぶどうの木であり、わたしたちは枝として連なっているのだという話を記します。主イエスは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と指摘されます。

枝は、ぶどうの木である主イエスにつながっている限り、「豊かに実を結ぶ」ものの、どのような実を結ぶのかは、枝の自由にはなりません。すなわち、わたしたちが幹である主に枝としてつながると言うことは、自分が生み出したい実りを生み出すためではなく、主が望まれる実りを、主に与えられるがままに実らせることであります。

わたしたちはこのことを理解しているでしょうか。信仰を深めたとき、自分自身がよしとする理想を、真の実りと取り違えてしまうことはないでしょうか。豊かな実りは、主の実りであって、わたしたちの実りではありません。しかもその実りは、教会を導く聖霊による実りでもあります。聖霊は人知をはるかに超える方法で、教会に実りをもたらします。仮に、自分の理想を実りだと思い違いをするならば、それは教会に働く聖霊の導きを否定することにもなりかねません。

聖霊の導きに全幅の信頼を寄せ、自らの理想に固執することなく、神の御手にすべてをゆだねたのは、聖母マリアでありました。

教会は5月を聖母の月として、ロザリオの祈りをささげるよう勧めています。パウロ6世は第二バチカン公会議後の典礼改革のなかにあって、聖母への信心の重要性を説いた「マリアーリス・クルトゥス」に、「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつとおとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています」と記し、聖母が「お言葉通りにこの身になりますように」と神の御手にご自身をすべてゆだねた態度に倣うように勧めています。また教会は伝統的に、人類が危機に直面するとき、聖母の取り次ぎを求めて、祈りをささげてきました。コロナ禍の今、わたしたちはこれまで以上に祈らなくてはなりません。

わたしたちは、聖母に倣い、聖霊の導きに勇気を持って身を任せましょう。自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありましょう。

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2021年4月30日 (金)

続:東京第司教区司祭叙階式

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4月29日の司祭叙階式の記事の続きです。

叙階されたお二人については、また、教区ニュースなどでプロフィールも紹介されたりすることでしょうからそちらに譲ります。

この二人に続く東京教区の神学生は、今の時点では、神学課程に2名、哲学課程に1名、予科に1名と、総勢4名です。予科から司祭叙階まで、最低でも7年半がかかります。司祭養成には時間がかかります。大切な役割なので、それだけの時間をかける必要があるからです。しかし、例えば来年2022年春に入学したとしても、実際に司祭として働けるのは2030年頃です。いまの東京教区の司祭団の年齢構成を考えるならば、やはり、あと数名は神学生がいないことには、近い将来、いくつかの小教区には、派遣できるだけの人数の司祭がいない事になるものと想定します。しかもそれは遠い将来ではなく、ごく近い将来です。

どうか召命のために祈り、また小教区に召命を感じている方がおられたら、励ましてください。ピンポイントで祈ってください。お願いします。召命は人間が勝手に作り出すことは出来ません。神からの呼びかけです。わたしたちが出来るのは、呼びかけられた人が、その呼びかけに気がつくように、さらにそれに応える勇気を持つことができるように、祈りを通じて励ますことです。

ところで、昨日の東京カテドラルでの司祭叙階式は、youtubeの関口教会のアカウントで繰り返し見ていただけますが、叙階式にはいつものミサと違って、いくつもの典礼上の「儀式行為」が行われます。司祭に叙階される人(受階者)は何度も司教の前に進み出て、なにやらしております。

叙階の儀式行為の中で、どこが一番重要だと思いますか。一番大事なところはあまり目立たないので、よく、叙階式に参加された方は写真を撮るタイミングを逃してしまったりします。(なお、カテドラルでの教区の典礼儀式では、撮影は担当の係が行います)

一番重要なのは、「按手」と「叙階(聖別)の祈り」です。特に「按手」は忘れてはいけません。

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名前を呼ばれて前に出て、司教と推薦する司祭との問答があり、司教の説教が続きます。説教に続いて、司教といくつかの問答があります。もちろんこの問答も重要で、司祭の生涯にわたる生き方を明確に約束する部分です。司祭の務めを受け入れる決意の表明です。そして受階者は床に伏して諸聖人の連願が歌われます。その後、受階者は司教の前に進み出て、ここで司教は何も言わずに按手します。司教の按手に、列席する司祭の按手が続きます。

按手が終わると、司教は叙階の祈りを唱えます。この按手と叙階の祈りを欠いてしまうと、叙階の秘跡は秘跡としてなりたちません。ですからここが一番重要です。

この後受階者は司祭の祭服を身につけ、司教の前に進み出て聖香油を塗油されます。そして最後に、カリスとパテナを授与されて、平和のあいさつで司祭叙階のための典礼の儀式は終わりです。

按手は、儀式書にもさらりと書いてあるだけなので、見落としそうになることもあります。(儀式書には、唱える部分と、ト書きのように、動作などを指示する部分が記されています。そのト書きの部分は、本来は赤字で書いてあるのでルブリカと呼ばれますが、いかんせん、唱える部分は黒でフォントが大きく、ルブリカはそれとなくしか記されません。按手は祈りをなにも唱えずに行い、その直後の叙階の祈りは黒くはっきりと印刷されているので、見落とすのです)

その昔、とある修道会で行われた助祭叙階式で、司式されていた司教様が熱を出されていてぼーっとしておられ、按手を忘れると言うことがありました。司祭叙階であれば、その後に参列している司祭団による按手に続くので、司教さんが按手を忘れることはありませんが、助祭叙階は、司教だけによる按手なので、そのまま気がつかれない可能性があります。そして見事に忘れられました。

誰も気がつかなければそのままでした。でも独りだけ、そのことに気がついた司祭がいて、ミサ後に指摘したため、もちろん叙階は無効です。そのため受階者はその週明けに司教館へ出向いて、司教さんから叙階の儀をもう一度やり直してもらったということです。

叙階式は、按手が肝心です。

 

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