2020年7月11日 (土)

年間第15主日@東京カテドラル

20200711c

この数日の豪雨によって、大きな被害を受けられたみなさまに、心からお見舞い申し上げます。被害の大きかった福岡教区では、すでに被災地支援のための募金が始まっています。(東京教区ホームページでのリンクはこちらです)。被災地では復旧のために人手が足りないことが報告されておりますが、このたびの感染症対策のため、ボランティアは県内の方だけに限られているようです。従って、全国に向けてのボランティア受付のようなことは難しいかと思います。まずは現地からの情報に耳を傾け、できることでの支援を、そして祈りをしていきたいと思います。

この数日、東京都では新型コロナ感染者が100名を超え、さらにこの三日間は200名を超えています。いまの時点では、重症者が少ないことや、亡くなられる方が6月24日から出ていないことを踏まえて、即座に教会活動を停止するようなことはしておりません。現時点での感染対策をしっかりと守りながら、慎重に教会運営を続けてまいります。

しかし今後は、仮に感染者数がこのまま増加し続け、重症者が増加した場合などには、現在の対応を一段厳しいものに戻すことも念頭に、日々刻々と変化する状況を見つめております。これからかなり長期にわたって、現在のように社会の現実として新型コロナウイルスがあるということを前提として、その中で教会活動を続けていく方策を慎重に模索して行かざるを得ないものと思われます。

あらめて申し上げますが、教区の基本方針は三つです。(詳しくは、教区ホームページに掲載しているビデオを、是非一度ごらんください)

1: 教区内地域で新規感染者がいる限り、教会活動では「密接・密集・密閉」を避ける
2: 感染しない、感染させない
3: 秘跡にあずかる機会を提供し、霊的な一致を促す

教会活動を停止するという歴史に残るような事態に、東京教区だけではなく世界中の教会が直面しているのですが、その中で東京教区は6月21日に活動を再開して、まだまだ4回目の日曜日です。教区としての大枠はありますが、それぞれの小教区では事情が異なりますので、感染対策への対応もそれぞれ異なっています。なにぶん誰ひとり経験したことのない事態なのですから、当然どの対応も完璧ではあり得ず、当分は試行錯誤の繰り返しにならざるを得ないでしょう。これからさらに何回かの日曜日の経験を通じて、徐々に改善していくしかありません。なんと言っても、感染症の事態が即座に終息するとは思われず、わたしたちは長期戦を心しなければなりません。

現時点での対応にはまだまだ不備もあることでしょう。大変申し訳ありませんが、しばらくはこの事態を一緒になって乗り越えるため、耐え忍んでくださるようにお願いいたします。教会内での意見の交換は歓迎しますが、あたかも教会がすべて変わってしまったかのように喧伝するような行為は慎まれるよう心されることを希望します。

20200711a

以下、年間第15主日、7月11日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信された公開ミサの説教原稿です。

年間第15主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年7月12日

 

神の言葉は、受肉の神秘によって人となられたそのときから、今に至るまで、わたしたちとともに現存しています。人となられた神の言葉である主イエスを通じて直接語られたその言葉は、日々の聖書の朗読を通じて、教会の教えを通じて、典礼を通じて、祈りを通じて、繰り返しわたしたちに伝えられてきました。

第二バチカン公会議の啓示憲章にこう記されています。
「教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである(啓示憲章21)」

すなわち、様々な出来事が時の流れの中で刻まれ歴史は形作られてきたのですが、その間常に神の言葉は時の流れの中に現存していました。しかし世界の現実は、神の言葉に耳を傾けてこようとはしませんでした。時には耳を傾けようとしたこともあったのでしょうが、それは例外です。少なくとも今に至るまで、神が望まれる世界は実現しておらず、神が愛を込めて創造されたいのちは危機にさらされ、人間の尊厳はないがしろにされ、神の似姿がその尊厳を暴力的に奪い取られる事例は、世界に数多く見られます。

わたしたちの国にあっても、近年、数多くのいのちが孤独と孤立のうちに危機に直面しており、とりわけ今般の感染症が拡大し経済が混乱する中で、雇用の不安定さが増大し、いのちをつなぐために十分な助けを得られることなく孤立している人も少なくありません。

もちろん社会には、教会の信徒をはじめとして多くの善意の方々が、積極的に助けの手を差し伸べており、そういったボランティア活動の団体も多く存在しています。東京教区の災害対応チームでも、そういった支援を提供する団体などの情報を集めて、インターネット上で提供していますが、数多くの善意の方々が存在しているという心強い現実を、そういった情報収集から垣間見ることができます。善意の多くの方の存在を知り、その心配りに感謝するとともに、それでもまだ取り残されているいのちがたくさんあることを思わざるを得ません。

また今般の事態にあって、特に医療関係者の皆さんには、常日頃心にかけておられることであろうと思いますが、たまものであるいのちを守るために、日夜尽力されておられることに、心から感謝申し上げたいと思います。

神の十戒の第五の掟は、「殺してはならない」と定めています。

この掟はすなわち、わたしたちに「人間の生命が神聖である」ことを教え、いのちを守ることの重要性を認識することも求めています。カトリック教会のカテキズムには、第五の掟の箇所に、「道徳律は、重大な理由もなく誰かを死の危険にさらさせること、さらに、危険な状態にある人を見捨てることさえも禁じています(2269)」と記されています。

今般の感染拡大の事態にあたって教会が取り入れている感染症対策は、「感染しない」ことだけではなく「感染させない」ことも重要視していると、常々申し上げてきた背景は、そこにあります。「殺してはならない」と神から命じられているわたしたちは、他者をいのちの危険にさらすことも、危険な状態にある人を見捨てることも、禁じられているからです。

神の言葉は、この世界の現実のなかにあって、様々な方法を通じて幾たびも幾たびも繰り返され響き渡っているにもかかわらず、世界全体には浸透していません。

ヨハネ福音の冒頭に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおりであります。

耳を傾けようとする人の心に蒔かれた神の言葉の種は豊かに実を結び、善意の人を駆り立てて、助けを必要としているいのちへ、危険な状態にあるいのちへと、その思いを向かわせます。残念ながら、神の言葉の種は、まだ多くの人の心のうちで、豊かな実を結んではいません。

この危機的な状況の中で、これから今以上に孤立を深めながら危機に直面するいのちは増えていくことが想定されます。ですから、わたしたちは、いただいている神のいのちのことばの種を、蒔き続けなくてはなりません。さらには、蒔かれた種が豊かに実を結ぶようにと、その土壌を良いものとしておく努力も必要です。ただただひたすらに種を蒔き続けるだけではなく、まずは最初に種が蒔かれる土壌を良いものに変えて行く努力も必要です。種を蒔く前に、しなければならない準備もあります。

その準備、すなわち土壌改良を成し遂げるのは、わたしたち一人ひとりの日々の生活における、言葉と行いによる神の愛といつくしみのあかしであります。人とのかかわりの中で、わたしたちの言葉と行いは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

語られる言葉は、わたしたちの口から出る実際の言葉であると共に、わたしたちが、例えばインターネットなどに残していく言葉でもあります。時にクリスチャンを標榜しながら、他者のいのちを守ることをないがしろにするような、きわめて利己的な主張や攻撃的な主張を目にするとき、いったいどのような土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのかと思い、悲しくなることがあります。わたしたちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の言葉が、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためなのだと、常に心しておきたいと思います。

20200711b

「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」

神は自らの言葉が、その使命を果たさないままに、むなしく戻ってくることはないと宣言されています。人となられた神の言葉である主イエスによって、神の言葉はわたしたちの間に現存されています。現存されているのですから、どのような困難にあっても、必ずその使命を果たされます。

この神の約束に信頼し勇気をいただきながら、小さな歩みではありますが、わたしたちの言葉と行いを通じて、多くの人の心の土壌を改良し、そこに蒔かれる神の言葉の種が豊かに実を結び、それを通じて神が愛されるすべてのいのちが大切にされ、守られ、その尊厳が尊重される世界が実現するように、努力を続けてまいりましょう。

 

 

 

 

|

2020年7月 5日 (日)

年間第十四主日@東京カテドラル

14pa1

年間第十四主日のミサ、インターネット配信用に、前晩土曜日の18時に、カテドラルで捧げたミサの説教原稿です。

この数日、東京では100人を超える感染者が相次いで報告されています。公開ミサをこのまま続けるべきか検討しましたが、感染者が重篤化することの少ない若年層に多いことと、この数日間重症者が少なく、亡くなられる方も出ていないことから、現時点での感染症対策(社会的距離、手指消毒、マスク着用、一斉に歌わない、高齢の方にお待ちいただく)を継続することで、お一人お一人のいのちを守りながら、もっとも大切な秘跡である聖体祭儀を続けることが可能だろうと判断しています。ただ、このまま状況を見守りますが、本日の日曜日も東京都の感染者は100名を超えていますし、今後数日間の感染者、重症者、死者、実効再生産数などに注意を払いながら、判断していきたいと思います。また、現在も主日のミサにあずかる義務は東京教区のすべての方を対象に免除していますので、少しでも不安がある方には、ご自宅でお祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

以下、説教原稿です。

年間第14主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月5日前晩

 

今年の初め頃から今にいたるまで、感染症が拡大し、この数日は東京で感染者が増大傾向にあるものの、この混乱の中で、教会はどのように動いてきたのでしょうか。

もちろん、当初から感染予防を心掛け、2月末からはミサも非公開となり、緊急事態宣言が出てからは、すべての活動が停止しました。ですから、教会は今回の事態の中で、全く動いていなかったと、表面的には見えてしまいます。

今回の事態は、多くの人がいのちの危機に直面するということから、大災害の緊急事態に匹敵しています。わたし自身が担当している教会の援助団体カリタスジャパンでも、今の事態は災害の緊急事態と同等と見なして、緊急募金と支援活動を行っています。

とはいえ、まずもって密接、密集、密閉を避けなければならない状況にあって、従来の大災害への対応のように、ボランティアを集めて一緒に行動することには、制約があります。実際、2011年以来、仙台教区において日本の教会が設置しているいくつかのボランティアベースでは、一時的に人を集めることを中止にせざるを得ませんでした。その意味で、従来のような活動には、感染症の下では、限界があります。

しかし、同時に、社会全体で自粛が続く中で、雇用環境も悪化し、また病院に出かけることもままならない人が出たり、住居を失ったり、職を失ったりと、助けを必要とする人は増加しました。

教皇様は、教皇庁にCovid19委員会を設置され、今回の事態に教会がどのように対応できるのか、統合的人間開発の部署や国際カリタスが協力して取り組むようにと定められました。

その発足を報告する記者会見で、責任者のタークソン枢機卿は、「最初は単に健康問題だったが、経済、雇用、生活スタイル、食料安全保障、AIやインターネットのセキュリティ、政治、政府、政策、研究など、新型コロナ感染症が影響を与えなかった人間の生活の側面は何一つない。教皇フランシスコが教えるように、『あらゆるものはつながりあっている』を象徴している」と述べています。

わたしたちの人生のすべての側面が影響を受け、常日頃から生活に困難を抱えている人たちが、さらに大きな困難に直面し、また国によっては、感染症のためだけではなく、そのようにして生じた様々な側面の困難によって、いのちの危機に直面する人も多数おられます。

そのような中で、活動に困難を抱えながらも、従来のような大きな活動としてではなく、小さな単位で、時には個人的に、時には隣近所で、助けを求めている人に手を差し伸べようとする活動が、水面下で広がっています。カリタスジャパンの緊急支援の対象も、従来のような組織的な活動もありますが、その多くは個人的な支援を中心とした小規模なものが増えています。

すなわち、わたしたちは、この困難な状況の中にあって、隣人と互いに助け合うことの大切さをあらためて認識しています。

冒頭に触れたように、教会も、確かにすべての活動が停止していたものの、信徒の皆さんの個人レベルでは、様々な活動に取り組まれる人が多くいると聞いています。教区でも、食料支援や学習支援など、地道な支援活動を支えたり、従来から行っているCTICを通じた外国籍の方々への支援を継続しています。

14pa2

わたしたち教会の役割は、人と人との出会いのなかにあって安らぎを与えることです。福音に「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されています。教会は、重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場です。そしてそれは、教会という建物が安らぎの場であるということに留まらず、わたしたち自身が安らぎを与える存在であるという意味でもあります。なぜならば、いつも繰り返しているように、教会とはこの建物のことではなくて、共同体を形作り主イエスの体を形作っている、わたしたち一人ひとりのことだからです。わたしたち一人ひとりが、社会にあって、安らぎを与える存在でありたいと思います。

残念ながら、教会にあっても、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。それは否定できない事実であります。教会に集まっているのは天使のような人ばかりではなく、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。ですから、集まっているだけで、どうしてもそこには対立や争い、無理解や排除が生じてしまいます。

しばしばわたしたちの思い、すなわち人間の知恵や賢さは、自己中心の世界を生み出し、まるで自分の周りに防御壁を築き上げるようにして、そこに近づいてくる人を傷つけている。ですから、わたしたちは常に、自分たちに与えられている使命を思い起こさなくてはなりません。

教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。そして教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心には神の霊が宿ります。そのときわたしたちは、どのような生きる道を選ぶのでしょうか。キリストに属する者として、わたしたちに与えられている務めは、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。力の限り(典礼聖歌390)」ではないでしょうか。

父である神が与えられた最高のたまものであるいのちを守ることは、最も大切な愛徳の業であります。残念ながら、この困難な時期にあって、教会の中でも、教会の外でも、その最も大切な愛徳の業を二の次に考えるような言動が見られました。愛徳の業のうちに、互いに支え合うことこそが、安らぎを与える教会として、今必要な態度です。

教皇フランシスコは、昨年訪日されて東北の被災者と会われたとき、次のように話されました。
「わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決策を総合的に引き受けることのできる唯一のものである、きずなという知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。わたしたちは、互いに互いの一部なのです。」

わたしたちはたまものであるいのちを守ることを大切にする教会でありたいと思います。教皇の呼びかけに応え、力をあわせ、互いの交わりの中で支え合い、重荷を負わせることなく、安らぎを提供する教会であることを目指しましょう。

 

 

|

2020年6月30日 (火)

聖香油ミサ@東京カテドラル

Chrism2001

本来ならば聖週間中に行われるはずの聖香油ミサですが、今年は新型コロナウイルスの影響で、聖木曜日に行うことができず、延期となっていました。例年6月29日に近い月曜日には、司祭団が集まり、その年の金祝や銀祝のお祝いをしております。今年はその6月29日月曜日の午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを行いました。

Chrism2002

残念ながら、司祭が大勢参加するミサですから、大聖堂内のそれぞれの距離を保つため、共同司式の司祭にも会衆席にひろがって座っていただきましたので、基本的に一般の方々には非公開といたしました。

Chrism2003

またミサのはじめには、大聖堂入り口に新しく設置された、教皇フランシスコ訪問の記念プレートを祝福いたしました。1981年の教皇ヨハネパウロ二世訪問記念プレートの反対側の壁面にあります。

以下、聖香油ミサの説教原稿と、一番下に、当日のビデオへのリンクです。

聖香油ミサ(非公開)
2020年6月29日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

 

わたしたちは、必ずや後世の歴史に残るであろう出来事のただ中におります。今年は、わたしたちの信仰生活にとって重要な意味を持つ復活祭を共に祝うことができなかったばかりでなく、教会共同体の皆さんと、四旬節も復活節も、共に過ごすことができませんでした。

あらためて言うまでもなく、新型コロナウイルス感染症は、わたしたちの生活から多くの出来事を奪い去りましたが、信仰生活も大きな打撃を受けてしまいました。

同時に、わたしたちは奪い去られたことで、これまで当然だと思っていたことが、それほど重要ではなかったことにも気がつく機会を与えられたように思います。社会の中で優先するべき価値観は何であるのかを、もう一度考える機会を与えられました。

教会にあっても、日曜日に集まることができなくなって、教会共同体とはいったい何であるのかをあらためて考える機会を与えられたと思っています。日曜日にミサのために信徒が集まってくることで、教会は教会であると実感することができていたのですが、今回の出来事は、教会であるということの意味をあらためて考える時を、わたしたちに与えてくれたように思います。

また、わたしたちは福音を告げしらせる教会ですが、今回の事態が、積極的にメッセージを届けるための方法を考える機会をも提供してくれたと思います。大げさに言えば、待ちの姿勢の教会から、積極的に打って出る教会へと変わっていく機会が、このたびの出来事を通じて、わたしたちには与えられていると感じております。

さて、人類のいのちの危機は、ほんの小さな、弱々しい、ウイルスによってもたらされました。まだまだ予防法や治療法が確立されたわけではありませんし、東京では連日感染者の報告があります。ですから、長い自粛期間からの解放感の中で、すべてが解決したようなムードが漂っていますが、当分の間は慎重に行動しなければなりません。

感染が発覚した当初は、まるでちょっとした風邪のようだという楽観論が主流でした。しかし、それほど時間を必要としないうちに、そういった楽観論は打ち砕かれてしまいました。今や、歴史に残る人類のいのちの危機に直面していることは明白です。

感染がある程度落ち着いた現在は、今度は「新しい生活様式」などと政府も音頭をとって、これまでとは異なる社会のあり方が模索されています。

わたしたちは今、価値観の転換を求められています。感染拡大以前の世界に戻ろうとする力は、強く存在するでしょう。しかし今回の事態は、いのちを守るために、わたしたちは何を大切に生きるのかを問いかけ、今までのような社会のあり方を、そのままで続けていくことを許さないでしょう。「新しい生活様式」とは、単に物理的な行動の変革で感染を防止すると言う視点に留まらず、いのちを守るために人類が何を優先するべきなのかを今一度考え直し、新たな生きるスタイルを確立するように求めているように、私は感じています。

いのちを守ることは、わたしたちの信仰にとって重要な視点です。あらためて、昨年の教皇訪日のテーマを持ち出すまでもなく、わたしたちは、神が賜物として与えられたいのちを、徹底的に守り抜くことを主張してきました。いのちは、例外なく、その始まりから終わりまで、その尊厳が守られなくてはならないと主張してきました。

教会は、これまでの歴史の中で、しばしばいのちを守る立場から離れてしまったことを反省しなくてはなりません。特に、わたしたちの人間関係の中で、一人ひとりの尊厳を大切にすることなく、例えばハラスメントのような形で人間の尊厳を傷つけてきたことを、世界中の教会、そして日本の教会は反省し、それを正していく強い決意がいま必要だと思います。

また、すべてのいのちを守ろうとすることは、教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、誰ひとりとして排除されない世界を実現しようとすることでもあります。常にいつくしみの手を差し伸べる教会でありたいと思います。

そしてすべてのいのちを守ることは、同時に神が与えられた被造物を大切に護っていくことにも繋がります。教皇フランシスコは、2020年5月24日からの一年間を、「ラウダート・シ」に基づいて考察を深める年とされました。

感染症の拡大で自粛が続く中、言葉のやりとりでも、人間関係でも、社会の雰囲気でも、殺伐とした雰囲気が世界に広がっているように感じます。いわば心の荒れ野が広がったように思います。同時に、心の荒れ野は、これまで理性が覆い隠していた、排除の思いや差別の思い、暴力的な思いをあからさまにしてしまいました。教会は、人間の尊厳を傷つけるそのような言動を、容認することはできません。いま回心が必要です。

「ラウダート・シ」には、こういう記述がありました。
「『内的な意味での荒れ野があまりにも広大であるがゆえに、外的な意味での世の荒れ野が広がっています。』こうした理由で、生態学的危機は、心からの回心への召喚状でもあります。」(217)

その上で、教皇フランシスコは、「必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりの中であかしさせます。(217)・・・永続的な変化をもたらすために必要とされるエコロジカルな回心はまた、共同体の回心でもあるのです」(219)と指摘されています。

いのちの危機が叫ばれる今こそ、わたしたちは視点を変え、優先事項を見つめ直し、いのちを守ることを前面に出し、共同体としてイエスとのかかわりをあらためて見つめ直す回心が求められています。

さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。

そして、司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司祭団は司教と共にこのミサの中で祝福いたします。

加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、そしてインターネットを通じてご覧の皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、お祈りくださるよう、お願いいたします。

 

 

 

|

2020年6月27日 (土)

年間第十三主日ミサ@東京カテドラル

Nenkan12d

年間第十三主日です。前晩の6月27日土曜日夜6時から行われた、配信ミサの説教原稿を掲載します。

東京では連日五十人ほどの感染者の報告があります。まだまだ感染症の終息からはほど遠いと感じております。ミサの再開と言っておりますが、実際には、まだまだ教会の活動を全面的に再開するにはほど遠い状況であり、慎重に対応しなければなりません。教会はまだ普通の状態に戻っているわけではありません。

先週よりミサを再開しましたが、これはミサの再開と言うよりも、再開に向けた段階的な試みであるとご理解ください。2月27日以降、ミサはまだ完全には再開されておらず、いまは完全な再開を目指して、様々な条件を定めて、教会のメンバーの安全を優先しながら、限定的にミサを行っている段階です。ですから、様々な制約があり、みなさまにはご迷惑をおかけしております。

「ミサが再開されたのに、自分は参加できない」という声があることも承知しております。申し訳ありません。それぞれの小教区で状況が異なりますから、全体の大枠方針に沿って、それぞれの対応をお願いしています、現在の状況や条件が、未来永劫続く制度改革なのではありませんから、状況に応じて制約の条件は変更されますので、いましばらくは、お互いのためにご協力いただきますようにお願いいたします。宣言自体は解除されていますが、現実にはいまだ緊急事態は継続していると考え、緊急避難的な制約にご協力いただけますようにお願いいたします。

Nenkan12b

以下、説教原稿です(写真は先週のミサです)。

年間第十三主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開収録ミサ)
2020年6月28日の前晩

 

教会活動の段階的な再開を始めてから一週間が過ぎました。ご存じのように、未だ感染者は毎日のように報告されており、以前のような完全な状態で安心してミサなどを再開できる状況ではありません。まず第一に、まだ安全な状況ではないのだということを念頭に置いていただければと思います。

その状況下でも、なんとかひとりでも多くの方に秘跡にあずかっていただきたいと考えて、様々な制約の中で、ミサなどを再開いたしました。とりわけ、感染した場合に重篤化し、いのちのリスクがある高齢のみなさまには、まだ今しばらく自宅に留まってくださるようにお願いしており、大変申し訳なく思っています。歴史に残る事態の荒波の中を、先へと進んでいるわたしたちは、互いにいのちを守るために、耐え忍びながら、支えあっていきたいと思います。

本日の、マタイ福音は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という、主イエスの言葉を記しています。

「十字架を担って生きていく」と耳にすると、どのような状況を想像されるでしょう。苦しみを背負って耐え忍びながら、ひっそりと生きていくようなイメージでしょうか。感染症が終息しない中で、様々な困難に直面し、教会でも様々な制約を課されてしまった。十字架を背負って耐えて生きていこうと呼びかけている言葉でありましょうか。
そうではないように、わたしは思います。

そもそも、十字架とはいったいなんでしょう。重荷のことでしょうか。苦しみのことでしょうか。十字架が重荷や苦しみだけであるならば、それはどう見てもマイナスのイメージでしかありません。しかしここでイエスが語る十字架は、主にふさわしいものとされるための十字架であり、すなわち神に良いものとして認められるための、前向きな存在であります。十字架とはいったいなんでしょう。

コリントの信徒への第一の手紙の一章十七節に、パウロの言葉が記されています。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

コリントの教会にあって、誰から洗礼を受けたのかということで派閥争いが起きたとき、パウロは、自らに与えられた使命は、「洗礼を授けるためではなく、福音を告げしらせる」ことなのだと宣言します。

もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、洗礼よりも前に、まず大切なことがある。それはイエス・キリストの福音を告げることなのだと、パウロは宣言します。

加えてパウロは、「しかも」と続けます。「しかも、キリストの十字架がむなしいものとなってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げしらせるためだからです」

福音を、言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなるというのです。ここではじめて、パウロが語る十字架の意味が明らかになります。すなわち、言葉の知恵によらずに福音を告げしらせているのが、キリストの十字架そのものであります。

言葉の知恵によらないとは、具体的に目に見える行動をもってのあかしが、十字架だということであります。十字架は、自らが創造された人間の救いのために、神ご自身がその愛といつくしみの充満として、積極的に行動した愛のあかしであります。神ご自身の行いによる愛のあかしそのものが、十字架です。十字架は、重荷や苦しみの象徴ではなく、積極的な愛の行動の象徴です。神の満ちあふれる愛といつくしみが、目に見える形となった時、イエスは十字架に自らかかり、そのいのちをいけにえとして御父にささげられました。これほど前向きで、積極的な、愛のあかしはありません。

Nenkan12

教会は、神がその似姿として創造された人間のいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく尊重され護られなくてはならないと、繰り返し主張してきました。

いま、いのちを守るために世界が連帯しようとするとき、政治体制の違いや経済的利益の追求などの壁を乗り越えて、優先するべき価値を見直すときに来ていると感じます。

教皇フランシスコは、人間のいのちの尊厳を守るために、そのいのちが生きている地球全体を守ることの大切さを強調されています。

教皇フランシスコは、5月24日のアレルヤの祈りの際に、このように宣言されました。
「5月24日から来年(すなわち2021年)の5月24日までのこの一年間は、この回勅(「ラウダート・シ」)について考える特別な年となります。わたしたちがともに暮らす家である地球と、もっとも弱い立場にある兄弟姉妹を大切にするために力を合わせるよう、わたしはすべての善意の人に呼びかけます」

教皇はこの回勅「ラウダート・シ」の中で、現代社会についてこう指摘しています。
「現在の世界情勢は、『不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床』となります。人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。」(204)

教皇は、世界に広がりつつある個人主義や利己主義を克服するために、新しいライフスタイルを生み出し、社会を変えていかなくてはならないと呼びかけています。世界中で自粛生活が続いた今、わたしたちはライフスタイルを見直すチャンスを与えられているようにも思います。

「神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとっての任意の、あるいは副次的な要素ではありません」(217)と教皇は呼びかけます。

愛のあかしである十字架を、わたしたちは自らの生き方で、言葉で、行いであかししていきたいと思います。あかしして生きることこそ、十字架を担って生きていくことです。そうすることで、神のふさわしいものとされることができます。神にふさわしいものは、当然、神が愛を込めて創造されたこの世界を大切にするものでもあります。

いま、わたしたちにとって必要な生きる道は、どこに向かって開かれているのかを、信仰の目をもって見極めてまいりましょう

 

 

|

2020年6月20日 (土)

年間第12主日ミサ@東京カテドラル

長い自粛期間を経て、公開ミサが再開されます。年間第12主日にあたる6月21日からの再開です。前晩のミサを捧げたところも多くあったと思います。関口教会では、日曜日の午前10時は主任司祭がささげますので、わたしの配信ミサは前晩土曜日の午後6時からといたします。当分は継続いたします。

早速、先ほど、最初の公開ミサを捧げました。聖歌はいつもの通りイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。カテドラルの大聖堂は、他の教会と比べても空間が広いため、互いの距離を十分にとって、シスター方に歌っていただいています。

しばらくは状況を見極めますので、ミサの公開に制約があり、申し訳ありません。この状況下では、いのちをリスクにさらさないことが最も重要かと思います。教会にとっても、互いに、感染しない、感染させないためにも、そして神のたまものであるいのちを守ることを最優先にするためにも、慎重な行動をとってくださるようにお願いいたします。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

年間第12主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年6月21日

四旬節から復活節に至る長い自粛期間を経て、やっとミサを公開で行うことができる状況になりました。ただ、感染には波があるとも指摘され、完全に終息したわけではありませんから、しばらくの間、ミサを捧げることにも制約が伴います。その一つが、時間の短縮です。多くの聖堂は、どうしても密接・密集・密閉の状態を生み出しやすいものですから、なるべく集まっている時間を短くしようということで、例えば説教も、通常よりも短くと言うことにしております。

さて、いのちを守るためとはいえ、普段の活動が制限され、自粛ばかりを求められていると、どうしても思考が内向きになってしまいます。内向きになった思いは、自分の心の世界を中心に展開しますから、ともすればとても利己的になり、さらには、普段であれば心の奥底に秘めているような思いや、社会常識が盾となって表に出さない感情までも、あらわにしてしまいます。

自分とは異なる存在との差異を強調して、自らの立場を有利にし、自尊心を保とうとする行為は、差別を生み出す可能性があります。残念ながら人間の心には、自分と他者との相違をことさらに意識して、差別をする誘惑が存在しています。普段は理性や常識がそれをカバーしているのでしょうが、心が内向きになるとき、そういった誘惑が顔を覗かせてしまいます。

米国では、警察官の暴行が黒人男性の死を招き、人種差別への怒りが爆発してしまいました。日本でも、感染症が拡大してからインターネット上では、いつも以上に攻撃的な会話が展開されたり、具体的な差別的言動も耳にいたします。

今更ですが、第二バチカン公会議の現代世界憲章から、次の言葉を引用します。
「すべての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として造られ、同じ本性と同じ根源をもち、さらにキリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。したがって、すべての人が基本的に平等であることは、よりいっそう認められなければならない(29)」

わたしたちキリスト者にとっての人間の尊厳の根源は、創世記の記述にありますが、それを明確に記している公会議の言葉です。

さらに現代世界憲章は、差別についてこう語ります。
「社会的差別であれ、文化的差別であれ、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づく差別であれ、基本的人権に関するすべての差別は神の意図に反するものであり、克服され、排除されなければならない。・・・人々の間に差異があるのは当然のこととはいえ、人格の尊厳は平等であり、このことから、より人間らしい公正な生活条件に届くことが要求される」(29)

北半球での感染にようやく出口の希望が見え始めた今、今度は南半球で、特に南米やアフリカでの感染拡大が心配されています。とりわけ、もともと医療資源に乏しく経済的にも厳しい状況のアフリカ諸国では、現地の司教たちが、感染症後の世界のあり方について、国際社会に向かってのアピールを出しています。日本を含めた先進諸国でさえも、経済に大きな打撃を被ることは確かでありますから、アフリカ諸国の状況はさらに厳しくなることが想定され、感染症以上に、経済危機によって、多くのいのちが危機に直面することが予測されています。

いのちの危機という不安の中に長期間を過ごし、活動の自由が制限される中で、殺伐とした雰囲気に包まれている世界は、いま、連帯とはほど遠い状況に立ち位置を定めようとしています。

ですから教会は、この世界に対して、ひるむことなく福音を告げしらせる義務があります。経済を優先して、あらためて以前のような世界に戻ろうとする流れに抗って、一人ひとりのいのちを大切にし、誰ひとりとして排除されない世界を、連帯のなかで実現しようと、明るみで、そして屋根の上で、ひるむことなく、大きな声で告げなくてはなりません。

教皇フランシスコの呼びかけを思い起こします。
「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(福音の喜び20)

あらためて教会に集うことを始めようとしているわたしたちは、快適な場所を見つけて留まることなく、常に勇気を持って出かけなくてはなりません。それは、流れに逆らうことでもあるので、容易な挑戦ではありません。

現代における宣教について教えるパウロ六世の使徒的勧告「福音宣教」には、次のような興味深い指摘があります。
「人間は、たとえ私たちが福音をのべなくとも、神の憐れみによって、何らかの方法で救われうるのでしょう。しかし、もし私たちが、怠りや恐れ、または恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、はたして私たちは救われうるのでしょうか。

なぜなら、もし宣教しないならば、福音の種が宣教者の声をとおして実を結ぶことを望まれる神の呼びかけに背くことになるからです。種が木となり実を付けるかどうかはわたしたち次第なのです』(使徒的勧告「福音宣教」80)

愛するすべてのいのちが救われるようにと、福音の種が、わたしたちの「声をとおして実を結ぶこと」を神は望まれる。常に困難に向かって立ち向かうようにと、わたしたちは呼ばれています。

世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主に力づけられ、あらためて勇気をいただきながら、福音の種を蒔き続ける宣教者として、神が愛されるいのちの尊厳を、言葉と行いで告げしらせてまいりましょう。

 

|

2020年6月19日 (金)

今後の聖体礼拝@東京カテドラル

Adration0619a

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴って公開ミサが中止となった直後から、連日、大聖堂の主祭壇に御聖体を顕示して、聖体礼拝を行ってきました。

カテドラル構内の師イエズス修道女会のシスター方の協力を得て、顕示する時間は様々な事情から変動しましたが、できる限り毎日継続してきました。感染症の拡大という困難な時期にあって、御聖体に現存される主とともに時間を過ごしながら困難を乗り越えるための祈りをささげ、また東京教区に主ご自身の祝福を願いながら、聖体礼拝を行っています。キリスト教国にあっては、御聖体への理解がある程度期待できるため、今回の事態にあっても、街中に聖体顕示台をもって繰り出すこともされたという話を聞いていますし、あるアジアの非キリスト教国では、信徒が集中して住んでいる地区でそのような聖体顕示が行われたと承知していますが、やはり日本ではそうはいきません。御聖体への理解が全くない中、信徒もいない街中で御聖体を顕示することはできません。そのため、カテドラルで、できる限り聖体を顕示して、聖体礼拝を続けてきました。

Adration0619b

6月21日以降は、公開ミサが再開されますので、毎日というわけには行きませんが、(日中もミサが行われたりするため)、しかしせっかく始めた聖体顕示と聖体礼拝ですから、続けたいと思います。幸い、関口教会主任の天本神父様が配慮してくださり、毎週木曜日の午後1時から4時まで、大聖堂の主祭壇で、聖体顕示と聖体礼拝を行うことになりました。

Adration0619c

本日はイエスのみこころの祭日です。6月はみこころの月と呼ばれます。あふれんばかりの神のいつくしみは、イエスのみこころからあふれ出てきています。そのいつくしみに信頼しながら、困難の暗闇の中にも光を求めて祈りをささげましょう。

もし日中お時間があれば、木曜日の午後1時から4時、聖体礼拝においでください。静かな大聖堂で、御聖体のうちに現存される主イエスを前に、イエスのみこころの思いに触れながら、そのいつくしみが、わたしたちすべてを包んでくださるように、祈りましょう。

当分の間、この形で継続します。

|

久しぶりの現実の会議@聖書協会

Seishorijikai02

これまで多くの会議が中止になったり、ネットを利用した遠隔会議になったりしています。先日もカリタスジャパンの会議は、最初の日がZoomで、そして二日目はスカイプで行われたりしました。

それでもやはり実際に集まる会議は不可欠ということで、今週あたりから、現実の会議が再開し始めています。昨日は潮見で、常任司教委員会が、三ヶ月ぶりで、実際に集まって開催されましたが、互いの距離を十分にとるのが難しいことから、机にはアクリル板の仕切りが設置されていました。アクリル板の仕切りに囲まれて、その中でマスクを着けて話すので、なにかみな発言がもごもごして、聞き取りにくい会議ではありました。でも当分の間はしかたがありません。また教区などでも、当分の間は、遠隔の会議を取り入れるようにしたいと思います。

で、本日金曜日は、朝からずーっと、日本聖書協会の理事会と評議員会でした。日本聖書協会は、銀座のど真ん中、教文館の裏手の同じ建物の中にあります。

聖書協会自体は、もちろんプロテスタント諸派の方々が中心になって運営されている世界的な団体ですが、カトリックも様々一緒に活動をしており、特に日本では、新共同訳聖書や、新しく出た聖書協会共同訳などで一緒に取り組んできました。また実際に働いている方々の中にも、複数のカトリック信徒がおられますし、何を隠そう、私は副理事長であります。

Seishorijikai01

このところは、カトリック教会からは、一名が理事に、そしてもう一名が評議員に加わることになっており、理事に私が、評議員に中央協議会の大水事務局長が任命をいただいております。今年からマネージメントの態勢が変わっており、事務局の責任者である総主事も、これまで長く務められた渡部さん(現NCC議長)から具志堅さんに交代となって、フレッシュなスタートを切ったのですが、早々に今回の新型コロナ感染症ですべてがストップし、聖書の売り上げにも支障が出ているとうかがいました。

Seishorijikai03

新しい聖書協会共同訳は、様々な版が次々に出版されていますし、点字版も40巻すべてが完成したそうです。(上は創世記とトビト記。下の写真で、他の聖書との比較で、点字版聖書のそれぞれの大きさがわかるかと思います)

これまで青山に会ったバイブルハウスは、現在は実店舗を閉鎖し、オンライン販売になっています。是非ご利用ください。

Tenjiseisho

久しぶりに銀座まで行きましたが、確かに人通りが少なくなりました。それでも雨の中、距離をとって、たくさんの人が並んでいる店が。聖書協会のすぐ隣のアップルストアでありました。

なおカトリック教会の典礼では、現在も新共同訳聖書を主に使用しています。新しい訳に変更するためには、カトリックの典礼で使用するために言葉を調整しなければならないところなどもあり、簡単には進まないと、関係者から聞いています。

|

2020年6月14日 (日)

キリストの聖体@東京カテドラル

梅雨入りして最初の日曜日がキリストの聖体の主日となりました。元来は木曜日とされていますが、多くの国で現在は、その次の主日に移動して祝われています。

今日の配信ミサは、公開ミサの自粛を2月27日以降継続してきた中で、今のところは最後の「非公開ミサ」となります。四旬節から復活節と続いた「非公開」ミサにあって、配信ミサの作成のために協力してくださった、師イエズス修道女会、宣教ドミニコ会、女子パウロ会、ノートルダム・ド・ヴィのそれぞれの会員、毎回のミサで聖歌を選び歌ってくださったイエスのカリタス会の志願者と会員のみなさまに心から感謝申し上げます。また、映像を作成し配信してくださる田村さんを初め、関口教会の信徒のボランティアの方々に、感謝申し上げます。

次の日曜日以降は、それぞれの小教区でも、限定的とはいえ公開ミサを徐々に始めますので、関口教会でも同様に公開ミサが始まります。そのため、日曜日午前10時のミサの映像配信はいたしません。その代わり、当分の間は、前晩、土曜日の午後6時から、東京カテドラルの主日ミサを配信します。司式はわたしです。土曜の午後6時が中継です。それ以降はこれまで同様、同じ関口教会のチャンネルから、録画された映像を見ていただくことができます。(少なくとも、現時点では、7月中は配信ミサを土曜日晩に続ける予定ですが、8月以降は未定です。)

公開ミサが再開されるといっても、感染が終息したわけではなく、新規の感染者の報告は続いています。経済活動を優先させるために、社会の中の様々な制約が緩和され続けていますので、すでにすべては解決したような気分にされますが、まだまだ慎重であるべきかと思います。

緊急時代のただ中にいまでもまだいると判断していますから、ミサの再開には様々な制約を設けました。いのちを守るための責任ある選択はどれであるかを、最優先でお考えいただきますように、あらためてお願いいたします。

もちろん、現在は緊急事態であり、様々な緊急避難的な判断をしていますが、それを固定化することのないように、できる限る早く、感染の状況に応じて通常に戻す努力をしたいと思います。緊急事態に対応した制限が固定化されることを懸念する声もありますが、そのような不信を払拭できないわたしの力不足を自覚させられております。

本日のミサの説教の原稿です。

キリストの聖体
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年6月14日

東京教区では、緊急事態宣言の解除後、状況を見守ってきましたが、次の日曜日から、小教区における活動を段階的に再開することにしました。もちろん感染が終息したわけではありませんから、慎重に行動しなければなりませんので、当初の間は、感染対策をしたり、距離を保ったり、重篤化のリスクが高い高齢の方にはしばらくは我慢をお願いしたり、いろいろな制約の中での再開となります。

四旬節第一主日に始まって三ヶ月半に及ぶ長い期間、小教区でのミサや活動を中止してきました。霊的な渇きのうちにあっても、お互いのいのちを守るために耐え忍び、協力してくださった皆さんには、心から感謝申し上げます。

今日もまたこのミサの中で、治療のために全力を尽くしておられる医療関係者と、病床にある皆さんのために、心からお祈りいたします。

この長い自粛の期間を、キリストの聖体の主日で終わりとすることは、意義深いことです。なんといってもこの自粛は、共に教会に集い、祈りの時を一緒にできなかったと言うだけではなく、聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致するという、信仰にとって一番大切な秘跡から、わたしたちを遠ざけてしまいました。

教会憲章において、聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘されています(11)。

また教皇ヨハネパウロ二世は、「教会にいのちを与える聖体」において、ご聖体の重要性をこう述べています。
「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見えるかたちで表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます。(3)」

実際にミサにあずかることができず、教会共同体にとって一番大切なこの聖体の秘跡に共にあずかることができなかったことは、教会にとって大きな苦しみであり、悲しみでありました。

お一人お一人の霊的な渇きを癒やすという、個人の信仰の充足という側面ももちろん大事ですが、それ以上に、ご聖体は共同体の秘跡です。そもそもミサそれ自体が、共同体の祭儀です。聖体は一人で受けたとしても、霊的聖体拝領を一人でしたとしても、共同体の交わりのうちにわたしたちはご聖体をいただきます。

それは司祭がひとりでミサを捧げても、個人の信心のためではなく、共同体の交わりのうちにミサを捧げるのと同じであります。

「教会にいのちを与える聖体」には、次のように記されています。

「(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら『たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです』」(31)

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調されます。

「聖体は交わりを造り出し、交わりを育みます」と指摘する教皇ヨハネパウロ二世は、聖アウグスチヌスの言葉を引いて、「主なるキリストは・・・ご自分の食卓にわたしたちの平和と一致の神秘をささげます。一致のきずなを保つことなしにこの一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

わたしたちの信仰は、共同体の信仰です。わたしたちの信仰は、「交わり」のうちにある信仰です。「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。パウロのコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記されていました。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。

これから段階的に公開ミサが再開されて、制約があるとはいえ、ご聖体をいただく機会があることでしょう。三ヶ月間、あずかれない状態が強制されていたのですから、そのときの喜びには大きいものがあることだと思います。でもその霊的渇きの期間を過ごしたわたしたちは、ご聖体を受ける意味をあらためて理解してから、拝領したいと思います。自分がキリストと信仰において一致するという個人的な喜びと同時に、拝領は共同体の交わりのうちに、兄弟姉妹と共に一つの体にあずかるのであり、だからこそ、一緒にあずかることのできない方々へ思いを馳せ、様々な思いを心に抱いている兄弟姉妹に思いを馳せ、配慮と心配りの時としていただきたいのです。

同時に、わたしたちはご聖体をいただくことで、「世の終わりまで、あなた方と共にいる」といわれた主イエスの約束を思い起こします。共にいてくださる主イエスは、その福音を世の終わりまで、世界の果てまで告げ知らせよと命じられた主です。ですから、ご聖体の秘跡にあずかるわたしたちは、福音を告げしらせないわけには行きません。

「教会にいのちを与える聖体」で、教皇ヨハネパウロ二世はこう記します。
「キリストとのこの一致によって、新しい契約の民は、自分たちだけで固まるのではなくて、人類一致のための「秘跡」となります。すなわち、すべての人のあがないのために、キリストによってもたらされる救いのしるしと道具、世の光、地の塩となるのです。教会の使命とキリストの使命は連続しています。・・・感謝の祭儀はあらゆる福音宣教の源泉であると同時に頂点でもあるのです。」(22)

申命記に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と記されていました。

ご聖体を受けるわたしたちは、人となられた神のみ言葉をわたしたちのうちにいただくのですから、聖書に記された神の言葉に耳を傾け、それを通じて、イエスと日々出会うことも欠かせません。

公開ミサがなかったことで、ご聖体を実際にいただくことに思いが集中しますが、ミサを形作っている言葉の祭儀において、まず神のみ言葉に耳を傾けることも、忘れてはなりません。

共同体の交わりと一致のなかで、ご聖体と御言葉のうちに現存される主イエスと出会い、心のうちに一致し、愛の分かち合いから力をいただき、宣教への熱意を受け、聖霊に導かれながら、社会のただ中にあって、福音をあかしし、告げてまいりましょう。

 

|

2020年6月10日 (水)

カトリック東京大司教区:6月21日からの、教会活動再開について

カトリック東京大司教区のみなさまへ

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功
2020年6月10日

教会活動の再開に向けて

緊急事態宣言が5月25日に解除されて以降、東京都や千葉県でも公立学校が再開され、小規模な集会も感染対策の上で実施が可能となる見通しが立ってきました。

灰の水曜日翌日以降、ミサの公開を控えておりましたが、霊的渇きの中、いのちを守るために耐え忍びながらご協力いただいたみなさまに、感謝申し上げます。これからもウイルスと共生する中で、新しい教会のあり方を模索しなくてはなりません。さらなるご理解と協力を、お願いいたします。

6月21日から、教会活動を段階的に再開します。

感染には波があり再び感染が拡大する可能性も指摘されています。慎重かつ柔軟な対応が必要です。そこで別添のように、状況に応じた四つのステージ(段階)で対応します。

現在は「ステージ4」ですが、6月21日から、「ステージ3」に移行します。

各ステージの条件は別添の通りです。ただしこれは原則であり、地域や小教区で状況は異なりますので、実状に応じて柔軟でふさわしい対応をお願いいたします。
 
なお、「ステージ3」において次の二点は、「最低限必要な条件」です。

1:聖堂内で、互いに1.5から2メートルほどの距離を保つため、入堂人数の制限をします。それが不可能な場合は、聖堂を典礼に使うことはできません。

2:高齢の方・持病(基礎疾患)のある方には、大変申し訳ないのですが、いのちを守ることを優先して、このステージ3の期間は、どうか自宅でお祈りくださるようお願いします。

こういった条件や以下に掲げるお願いに協力頂くことが難しい場合には、当該小教区の教会活動再開を、当分の間、断念せざるを得ない場合も出てまいります。お互いのいのちを守るために必要な行動です。どうかご理解と、ご協力をお願いします。

次ページに、ステージ3の主な条件をまとめました。本文書の3ページ目が、四段階すべてをまとめた資料です。その後に、参考が二項目あります。

<2ページ目>

6月21日以降しばらくの間、教会活動の主な条件(ステージ3)

1: 聖堂内で、互いに1.5から2メートルほどの距離を保つため、入堂人数の制限をします。それが不可能な場合は、聖堂を典礼に使うことはできません。

聖堂内で距離を確保するための具体的な方法について、主任司祭の指示に従ってください。人数制限をお守りください。また、ミサのある教会を求めて、移動することをお控えください。ご自分の所属教会、または共同体の一員となっている教会の指示に従ってください。

2: 高齢の方・持病(基礎疾患)のある方には、大変申し訳ないのですが、いのちを守ることを優先して、このステージ3の期間は、どうか自宅にとどまってくださるようお願いします。

 法的に高齢者とは、65歳(前期高齢者)以上のかたです。今の段階ステージ3では、特に75歳以上の方にあっては、持病がないとしても、もうしばらくの間は、自宅でお祈りください。これから暑くなりますから、熱中症対策のことも念頭に置かれますようにお願いします。

65歳以上の方にあっては、互いのリスクを考えてご判断をお願いします。

 なお、主日ミサにあずかる義務は、教区内のすべての方を対象に免除します。

3: 1月31日以降の当初から行われてきた手指消毒など感染症対策を充分に行い、換気を保ち、しばらくの間は全員マスクを着用してください。

4: しばらくの間、ミサや集会などで、聖歌を「全員で一緒に歌う」ことを控えてください。オルガン独奏や、距離をあけての独唱などは可能です。

5: しばらくの間、ミサでの奉納も行いません。またしばらくの間、口(舌)での聖体拝領を控えてください。

6: ミサ以外の会議などは、20名程度までであれば、上記3のような対策をした上で、互いの距離をとり、時間をなるべく短くして行ってください。

付記:75歳以上の司祭にあっては、ミサの司式にあたり、感染を避けるため、聖体授与に携わらないよう指示をしました。信徒の方に「聖体授与の臨時の奉仕者」をお願いすることになります。信徒のみなさまの感染防止と共に、司祭の感染防止のための、通常とは異なる典礼での措置にも、ご理解ください

<3ページ目>

別添資料:教会活動の四つの段階(ステージ)(2020年6月版)

ステージ1: 通常のミサ(公開ミサ)と教会活動
新型コロナウイルス感染症が発生する以前に行なっていた、平常どおりのミサと活動。

ステージ2: 感染対策をとった上での公開ミサと活動
対策: 咳エチケット・手洗いの徹底・施設入口の消毒用アルコールの設置
施設(聖堂を含む)のドアの開放・聖水盤使用の中止・十分な換気
ミサ: 必要に応じて人数制限・奉納(パンとぶどう酒)なし・接触なしの平和のあいさつ・手での聖体拝領
体調不良の人のミサ参加の自粛・マスク着用許可(会衆・奉仕者・司祭)
健康に不安のある人の主日ミサに与る義務の免除
秘跡: 感染対策をとった上で行う(洗礼・結婚・ゆるし・病者の塗油)
活動: 密閉、密集、密接を避け、なるべく短時間で行う

ステージ3: 条件付きでの公開ミサと活動
ミサ: 人数制限をする・十分な換気・手指の消毒・聖歌なし・短い説教あり
奉納(献金含む)なし・接触なしの平和のあいさつ・手での聖体拝領
参加者全員マスク着用(会衆・奉仕者・司祭)
時間短縮に配慮したミサ(可能であれば複数回)
状況に応じて、基礎疾患を有する信徒と高齢の信徒の参加は不可
東京教区のすべての信徒に主日のミサに与る義務の免除
秘跡: 洗礼・少人数の「洗礼のための個別のミサ」の中で行う
結婚・基本的に延期(感染対策をとった上で行うこともできる)
ゆるし・感染対策をとって、距離をとって行う
病者の塗油・十分な感染対策をとった上で行う
葬儀: 遺族と話し合い、十分な感染対策をとった上で行う
活動: 小規模で、密閉、密集、密接を避けて短時間で行う

ステージ4: 公開ミサと活動の中止
ミサ: 公開ミサは行わない(非公開ミサは行うことができる)
東京教区すべての信徒に主日のミサに与る義務の免除
秘跡: 洗礼・延期
結婚・延期
ゆるし・延期
病者の塗油・十分な感染対策をとった上で行う
葬儀: 遺族と話し合い、十分な感染対策をとった上で行うことができる
※火葬を済ませ、後日に葬儀ミサという可能性もあり
活動: いかなるものも行わない

<4ページ目>

(参考1) 高齢の方々に、しばらく自宅でお祈りいただく理由

緊急事態宣言が解除されて、教会も、四旬節から続いた公開ミサの中止を解除し、段階的に通常の典礼に戻していこうとしています。

その中で当初の段階にあっては、いわゆる高齢の方、また基礎疾患のある方には、ミサへの参加をご遠慮いただくことにしています。

ご自分は健康なので、大丈夫だろうというご意見をいただいていますが、以下に、特に高齢の方にしばらくご遠慮いただく理由を記します。

なお判断の基準は、選択肢がある場合、どちらがより「いのちを守るため」という基準に近いかどうかです。また社会にある組織として、共通善のために果たすべき責任も考慮しなければなりません。

1:厚生労働省の専門家会議の見解に以下のようにあります。

「罹患しても約8割の方は軽症で経過し、治癒する例も多いことが報告されています。一方、重症度は、季節性インフルエンザと比べて死亡リスクが高いことが報告されています。特に、高齢者や基礎疾患のある方では重症化するリスクが高いことも報告されています。」

2:同じく見解には、感染について次のように記されています。

「一般的には飛沫感染、接触感染で感染します。閉鎖した空間で、近距離で多くの人と会話するなどの環境では、咳やくしゃみなどの症状がなくても感染を拡大させるリスクがあるとされています。」

3:政府の基本的対処方針にも次のように指摘されています。

「新型コロナウイルス感染症における致死率及び肺炎の割合は、季節性インフルエンザに比べて、相当程度高いと考えられる。また、特に、高齢者・基礎疾患を有する者では重症化するリスクが高いことも報告されており、医療機関や介護施設等での院内感染対策、施設内感染対策が重要となる。上記の中国における報告では、年齢ごとの死亡者の割合は、60歳以上の者では6%であったのに対して、30歳未満の者では0.2%であったとされている。

また、日本における報告(令和2年4月30日公表)では、症例の大部分は20歳以上、重症化の割合は7.7%、致死率は2.5%であり、60歳以上の者及び男性における重症化する割合及び致死率が高いと報告されている。」

上記のような公的機関の情報と医療専門家の意見を勘案して、公開ミサを再開した場合には、当初の数週間は、高齢の方々と基礎疾患のある方には、ご自分が感染するリスクと、知らないうちに他者を感染させるリスクの両方を避けるため、しばらく待っていただくことのほうが良いと判断しました。

いつまでもこの状態が続くわけではありません。地域社会全体の感染状況や、行政の対応を見極めながら、徐々に、すべての方々に参加していただけるように、段階を進めてまいりますので、ここは状況をご理解の上、しばらくご辛抱いただければと思います。

まず最初は、小さな規模からはじめて、徐々に参加者を増やす方向ですので、ご理解とご協力をお願いいたします。

<5ページ目>

(参考2)これまでの手指消毒など感染症対策のまとめ

1:一般的な衛生対策として、咳エチケットに配慮し、手洗いを心がけましょう。聖堂や信徒会館の入り口に、手指消毒用のアルコールを設置しましょう。

2:ドアノブを介した接触感染を防ぐため、入り口が自動ドアではない場合、ミサ開始前の適切な時からミサ開始までと、ミサ終了後に信徒が退去するまでの時間は、教会の入口から聖堂内までの通路のドアは開放することを勧めます。

3:聖堂入り口などに用意された聖水盤は、接触感染を防ぐため、使用を控えます。

4:司祭や臨時の聖体奉仕者をはじめ、信徒の方も、必ずミサ前に充分に手を洗ってください。

5:ミサ中のホスチアや葡萄酒と水の奉納を、当分の間取りやめます。ミサのためのホスチアは、ミサ前に別途用意し、祭壇近くに備えておくようにします。

6:献金も、ミサ中には行わず、他の場所を設けて、随時行うようにします。

7:濃厚な身体的接触を避けるため、平和の挨拶などで握手や、抱擁を取り入れている場合は、それらを避けるようにいたします。

 

 

 

|

2020年6月 7日 (日)

助祭叙階式@東京カテドラル

Deacon2003

6月6日土曜日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、東京教区の小田武直神学生と宮崎翔太郎神学生の助祭叙階式を執り行いました。

本来は4月に、豊四季教会で行う予定でありました。豊四季教会の皆さんには、いろいろと準備をしていただいたのですが、今般の状況のために、公開ミサを行うことができません。同時に、神学生は司祭になるためには、必ず助祭に叙階されなくてはならないのですが、その助祭職を、少なくとも半年は過ごさなければなりません。そういったこともあって、6月6日に、非公開ミサで、教区や神学院の関係者だけが参加して、叙階式を執り行いました。今回も、いつもの配信ミサと同様、イエスのカリタス会のシスター方が、聖歌を歌ってくださいました。また、叙階式には必ずつきものの諸聖人の連願は、教区式典長のひとりである高田神父が独唱しました。これらは、ビデオをご覧ください。

Deacon2001

現在、東京大司教区には、司祭へ向けて養成中の神学生が、助祭を含めると七名おります。すでに関口で働いているホルヘ助祭を初め、今回叙階された二人。そして助祭叙階準備中の神学生がひとり。さらに哲学の段階に三名がおります。神学生たちの召命のために、お祈りくださいますように、お願いいたします。

Deacon2002

以下、助祭叙階式の儀式書には説教が記されているのですが、その前部分に付け加えた説教の原稿です。

  宮崎神学生・小田神学生助祭叙階式
2020年6月6日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

 

今年の東京教区助祭叙階式は、歴史に残るような状況下で行うことになってしまいました。新型コロナウィルスの感染が広がり緊急事態宣言まで発令されたり、様々な活動の自粛が呼びかけられています。教会も灰の水曜日以降、公開のミサを中止する措置をとらざるを得なくなりました。この数日は、暗闇の中にもやっと出口の光が見えるようになってきたと感じますが、まだまだ完全に終息したわけではなく、慎重な行動が必要です。そのようなわけで、今日の助祭叙階式も、本来は小教区の共同体の方々と喜びを共にしながら行うところ、非公開で行っています。

当初は軽い風邪のようだと言われていたものの、感染経路が定かではないことや治療法が確立されていないため、わたしたちは暗闇の中に光を持たないまま放り出されたような気分になっています。先行きに希望が持てず不安が増すときに、守りに入るわたしたちの心は利己的になり、社会全体に殺伐とした雰囲気が漂い始めます。

「わたしの喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである」と福音に記されています。

わたしたちの信仰は、暗闇の中に輝く一筋の光のように、不安をぬぐい去り、生きる希望を生み出すものです。信仰は希望そのものです。そして将来に対する確固たる希望が生まれるとき、そこには喜びが生まれます。わたしたちが心の壁を築いて利己的になり、自分の内にこもるとき、暗闇が支配し、希望は生まれず、喜びもありません。

「出かけていって実を結び、その実が残るように」と選ばれて呼ばれているわたしたち奉仕者は、暗闇に勇気を持って踏み出し、人との交わりの中で心の壁を打ち砕き、光を輝かせて希望を生み出し、多くの人の心に喜びを分かち合いたいと思います。

光が失われ、希望が失せ、喜びが消え去るとき、暗闇が支配する社会にあって、人間のいのちは危機に直面します。時に殺伐とした言葉の投げ合いが、いのちを奪うこともあります。助けを必要としている人が、忘れ去られ、排除されてしまいます。神からの賜物であるいのちが、感染症のためではなく、分断されたきずなのために、危機に直面しています。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語るイエスは、十字架での死をもって、それをあかししました。教会で奉仕するように呼ばれたわたしたちは、その十字架の愛のあかしに倣って生きることが求められています。疑心暗鬼の中で彷徨う世界のただ中にあって、心に築かれた守りの壁を打ち砕き、助けを必要としている人たちに目を向け、常に希望の光を掲げる気概を持つ奉仕者を目指して、助祭の務めを果たしてください。(以下:儀式書本文に続く。「皆さん、皆さんのご親族、あるいは友人であるこの方々は、間もなく助祭団に・・・」)

 

 

|

«三位一体の主日@東京カテドラル