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2006年1月31日 (火)

「主は水辺に立った」

 日曜日に鹿児島で行われた郡山司教様の叙階式でも、聖体拝領のあとに管楽器の伴奏付きで、「主は水辺に立った」が聖歌隊によって歌われました。各地で歌われるようになったこの歌、耳にするたびに「よくぞここまで来た」という思いを新たにすると共に、「いいものだけが残る」といういつもの私の聖歌に対する確信を再確認させられます。

 書かれたものが何処にも残っていないので、ここまで有名になった歌の誕生について記しておきます。現在日本語では同じメロディーのあの歌に二つのバージョンが存在します。もともとの歌はスペイン語であったようです。いま私が取り上げているのは、「主は水辺に立った。私に声をかけた。みことばで漁に出た」と始まるバージョンです。

 翻訳者名は譜面に記されていますが、「ゲネク」となっています。現在名古屋で司牧をしている神言会のエウゲニウス・ジェブーラ神父です。彼がまだ神学生だった1982年頃のことです。当時名古屋の神学校では「ゴスペルフォークバンド」と銘打って、バンド活動をしていました。行く先々の教会のサイズやそのときのニーズ(例えばバザーの余興とか)に対応するために、管楽器からドラム等まで入った大編成と、ギター1・2本と歌だけの小編成の二本立てでしたが、ジェブーラ師はその小編成のギター弾きでした。歌っていたのは私です。

 ある日彼が一枚の譜面を持って神学校の私の部屋にやってきました。「ポーランドで歌っている良い歌があるので、翻訳した」というのです。それが「主は水辺に立った」でした。当時彼は日本語を習い始めてから4年ほどしか経っていなかったと思いますが、最初に手書きで持ってきた翻訳詩は、現在のものとほぼ変わりません。早速ギターで彼が聞かせてくれました。素朴でいい歌だと思いました。でも歌詞の手直しの必要も感じたので、私と松風師(故人)の二人で、とにかく最初の翻訳の素朴な感じを残すために、最低限の手直しだけをすることにしました。

 大きく手を入れたのは二つの言葉です。最初は「主は海岸に立った」となっていました。これを松風師(故人)が、「主は水辺に立った」としました。「ご一緒に釣りに」とあったところを、私が「みことばで漁に」としました。残りは多少の細かい手直しを除いて、ほぼ最初の翻訳通りです。いま唄ってみても、ジェブーラ師の翻訳は、あの日イエスとペトロの間に起こった出来事が、ダイレクトに伝わる良い歌詞だと思います。

 即座に譜面を書いて神学院のミサで歌いました。当時私が書いた譜面がそのままコピーされて、いまでも思っても見なかったような場所で目にすることがあって、そのたびにうれしくなります。いかにも手書きのト音記号と、和文タイプでスペースを調整しながら打った歌詞の、譜面からのちょっとしたずれが、すぐにオリジナル譜面だと分かる代物です。最初に当時神学院で使っていた簡易版の「SVD歌集」に掲載され、その後、1984年11月1日の改訂版、そして現在も神言神学院の典礼で使われている「SVD歌集」に掲載されてきました。ちなみに当時の簡易版「SVD歌集」には、これまた現在も随所で歌われている「Walk in the Light」も掲載されています。これも神言神学院のオリジナル翻訳です。ジェブーラ師が日本に来る前に英語を学んでいたイギリスで出会った曲を私たちに紹介し、当時神学生だった久松氏が翻訳しました。

 これからも歌い継がれて行くことを願いながら。

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鹿児島・郡山司教叙階式

IMG_0146  鹿児島教区長に任命された郡山健次郎司教様の司教叙階式が、昨日、1月29日午後2時から、鹿児島純心高校体育館で行われました。体育館ではステージ前にさらに特設ステージを設けて祭壇を置き、司教団は特設ステージに、そして共同司式司祭団はその背後のステージ上に並びました。日本全国の現役の司教のほぼ全員と、引退された司教様たちも何名か、また教皇大使も参加されました。司式は引退される糸永司教様でした。会場に何名いたのかは数えきれませんでしたが、たぶん次号あたりのカトリック新聞に載ることでしょう。

 叙階式後は会場を市内のサンロイヤルホテルに移し、祝賀会が催されました。郡山司教様はマリッジエンカウンター(ME)に長く関わっていたと言うことで、会場には全国のME関係者も大勢来られていたようです。私も、鹿児島と関係のない知り合いのご夫婦がそこにおられてびっくりでしたが、そのご夫婦もMEつながりでした。祝賀会のはじめには「新司教の入場です」のアナウンスと共に中央の入り口のドアが開き、スポットライトがさっと照らされて、糸永司教様と郡山司教様が並んで入場され、なにやら結婚披露宴みたいでした。若者たちの歌あり、郡山司教様の生い立ちについての「芝居」があり、またご兄弟からの感動的なプレゼントあり(亡くなられたお父様が郡山司教の司祭叙階にあたって送られた詩の額)、すてきな一時でした。写真は奄美出身の3司教。左から前那覇教区長の石神司教様、郡山司教様、那覇教区長の押川司教様。IMG_0159

 叙階式の前日は、鹿児島の谷山にあるレデンプトール会修道院に泊めていただきました。管区長を務める頭島師や谷山で働く大松師は、南山で共に学んだ仲で、私の司祭叙階式の日にお二人は一緒に助祭に叙階されました。私には司祭叙階の同級生がいないので、お二人はいわば同級生みたいなものです。久しぶりにゆっくりと話が出来ましたし、当時名古屋におられ、いまは奄美の島々での宣教に取り組んでおられるドイツ人の神父様にも久しぶりにお会いできて、懐かしいまた酒もおいしい一時でした。

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2006年1月27日 (金)

明日は鹿児島へ

明後日、日曜の午後2時から鹿児島純心で郡山被選司教の司教叙階式が行われます。新潟からは直行便の飛行機はないので伊丹乗り換えで明日から出かけて参ります。どうぞ新しい司教様のために、そして鹿児島教区のために、日曜日のミサでお祈りをお願いいたします。

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2006年1月26日 (木)

奇妙なことばかり

このごろ、怒濤のように様々な事件が起こっているのか発覚しているのか、ワイドショーなんかも、どれをメインに取り上げるかで困っているのではないかと想像します。インターネットで様々な書き込みが出来る時代ですので、ひとつの事件が起こると、それに関連した「情報」が、本当に山のように流れ飛んでおります。どれもこれも本当のような、見てきたような情報で、よくこれだけいろいろと調べている人がいるものだなと、感心というか驚かさせられます。当たり前のことですが、すべてがすべて真実かどうかは分からないのです。テレビなどでのコメントも含めて、提供される情報は、単に憶測なのか、本当に知っているのか、興奮して口走っているのか、よく見極める方法を会得したいものだと思います。

奇妙なニュースといえば、東京で女性10人と共同生活をしている男性が今朝方逮捕されたという話がありました。何か一昔前の事件を彷彿とさせる共同生活です。倫理的問題のことはさておいて、共同生活自体は別に悪いことではないにもかかわらず、今回、脅迫の容疑でこれだけ大きな捜査が入り、だから大きな話題になり、というのは、まさか本当にそれだけのことではないのでしょうね。つまり脅迫の訴えは捜査のきっかけであって、なにか他に情報提供なり苦情なり何かがあって、ある程度内偵をしていたのでしょうね。そうでないと、ちょっと大袈裟というか、いや確かにワイドショー的には物珍しい人たちではありますけど、そんなに大騒ぎすることではないような気もしまして。多くの人の好奇心をくすぐるようなこういう事件が頻発すると、じっくり追っていかなければならない問題が、いつのまにか「興味のお蔵入り」になってしまいますでしょう。耐震偽装問題は、あれですべてが解明されつつあると信じるには説得力がないままですし、お隣の国との関係や新潟で言えば拉致問題はどうなってしまったのか。そしてつい先週までワイドショーをにぎわせていた、豪雪地帯の人たちへの思いやりの姿勢はどうなったのか。いつまでも同じレベルですべてのことに興味を持ち続けるのは、それは無理であるのは当然ですけど、でもあんまり素早く変わってしまうのも、寂しく思います。

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2006年1月25日 (水)

一致週間最終日

本日はキリスト教一致祈祷週間の最終日です。最終日はパウロの回心の日に当たっているため、新潟市内の持ち回り祈祷集会最終日は、必ず聖公会の聖パウロ教会で行われることになっています。今夜7時から。祈祷集会のあとには、恒例の豚汁サービスがあるであろうと想像いたします。聖公会では聖歌集の改訂を進められており、今年には「改訂古今聖歌集」が発行される予定と聞いています。その前段階として2001年に「改訂古今聖歌集試用版」が発行されているのですが、この中に私が神学生時代に作曲した「主と共に」が2116番として収録されております。何十も曲を作って、どんどんと淘汰されていくのですが、それでもこうやってひとつくらいが残るというのは、ありがたいことです。将来に本当によい日本語の聖歌が残っていくためには、もっとたくさんの作曲者が挑戦しなければならないのだろうと思います。カトリックで言えば、決して乗り越えることの出来ないグレゴリアンという壁がそびえているものの、何とかそれに近づいた美しい日本語の歌が確立されていくためには、まだまだたくさんの挑戦が必要だと感じます。

 DSCF1826 写真は先日の新潟教会での一致祈祷集会の模様です。新潟市内ではこの冬一番の荒れた天候の日で、朝方には吹雪いていたほどの日でしたが、40名ほどの方々が集まってくださいました。

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2006年1月22日 (日)

キリスト教一致祈祷週間

 毎年1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間です。第二バチカン公会議以降、日本の教会でもよく耳にするエキュメニズムという言葉で進められている一致運動です。様々な取り組みがなされており、教義の側面や神学的な対話は進んでいるのですが、実際的側面では、やはり長年にわたって異なるやり方で信仰を守っていますから、具体的な一致は難しいと感じられます。でも教皇ヨハネパウロ二世も、回勅「キリスト者の一致」のなかで、「キリスト教一致のための運動は、付録のようなものではありません。・・・エキュメニズムはもともと教会の生活と活動の一部であり、そのすべてに浸透していなければなりません(20)」と記しています。同じ福音に生きる者が、キリストという一本のぶどうの幹に繋がっているのは当然であり、共同体の一致は福音に生きるためには不可欠だからです。出来ることから、歩みを共にしていきたいと思います。

新潟市内では、伊藤司教様の頃から、市内のキリスト教会が合同で、この週間の間に祈祷集会を毎日開催しています。今年は、新潟市が合併して広くなったため、かつては市外であった新津や亀田、豊栄にある教会も会場として選ばれています。カトリックでは亀田と新津教会がこの一致祈祷週間の間に祈祷会を催しました。終日は夜の7時から行われますが、本日は日曜日ということで、中心集会と銘打って、日本キリスト教団新潟教会で50人以上の各教会信徒が集まって、祈祷集会が行われました。

 IMG_0143 なお明日、1月23日(月)は、午後7時から、新潟カトリック教会で祈祷集会が行われ、私が説教する予定です。

 それにしても、同じ主イエスを信じているとはいえ、礼拝のやり方や、礼拝における言葉遣いには、それぞれの伝統があり、初めて出かけていくと何となく違和感があるものです。私たちはカトリックのやり方に慣れていますから何ともなしにミサをしているのでしょうが、たぶんそこにプロテスタントの方が来られたら、妙なことをしているなと感じるのかもしれません。

もちろんどちらが良いとか悪いの問題ではないのですが、やはり、自分の言葉で祈るという点では、プロテスタントの方々の方が、慣れておられると感じます。例えば病人を訪ねても、どちらかといえば私たちは本に書かれた祈りをしたり、主の祈りなど決まった祈りをするだけのことがありますが、ご自分の言葉ですばらしい祈りをされるプロテスタントの方などに出会うとびっくりすることもあります。

 もっともこれは慣れの問題です。かつて働いていたガーナの教会は、もともと奥地の村での識字率が低いことや、文字文化の発達が遅かったことなどからも、例えばミサ中の共同祈願も自由祈祷のようになることがしばしばありました。これがまた、皆さんお上手でした。中には延々と長い共同祈願で、そのうち共同ではなく個人祈願になったりして、カテキスタがあわてて肩をたたきに行って止めたりする楽しいハプニングもしばしばありましたが、いずれにしろ、もともと語る文化ですから、自由祈祷はお手の物でした。私もそれにつられて、病人訪問では長々と祈りをしたものです。長い祈りをして、たくさん聖水を撒かないと、皆さんに納得していただけないからです。で、日本に戻った折に、病人訪問でガーナの調子でお祈りを始めたら、あとで諫められました。「神父さん、大きい声で、延々と、妙に思われるからやめて。」難しいものです。

美しく作り上げられた祈りももちろん大切ですし、伝統的な祈りやラテン語の祈りには、とても美しいものがあります。そうであることを前提にしながらも、やはり自分の文化の言葉で、自分の思うことを素直に、神様に言い表す術を習得しておくことは、とても大切だと思います。だらだらと神様に対しておしゃべりを垂れ流す事とは違う何かが、祈りにはあり、それはやはり場数を踏まないと分からないからです。

新潟市内の一致祈祷週間。最終日(25日)は毎年、聖公会の聖パウロ教会です。寒くて雪も降って大変ですが、参加できない方も、どうか少しだけ家で、キリスト教一致のために、お祈りをお捧げ下さい。

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2006年1月20日 (金)

ホテル・ルワンダ

いろいろな方面から噂は聞いていたのですが、映画「ホテル・ルワンダ」を見る機会にやっと恵まれました。なかなか強烈な映画でした。

映画の大半は南アフリカでロケが行われたようですが、随所に本物のキガリの町が映し出されています。見ながらも妙な懐かしさを感じていました。故郷が映画に出てくるような感覚。「そうそう、そのビルを通り過ぎて奥へはいると、いつも泊まるホテルがあるんだよね」などと感じていました。本物のサベナホテル「ミル・コリン」は、無粋なコンクリートの建物ですが、映画ではすてきなコロニアル風になってました。描かれている内容は、まさしくあの通りというか、あれ以上だったと思います。あのホテルは当時ルワンダで国連が如何に厳しい立場に立たされていたかを象徴的に表す場所でした。ニューヨークから様々な制限を課せられ、まともに武器も使えず、必死に耐えた当時の国連ルワンダ支援団(UNAMIR)の姿が、よく描かれていました。あのとき安保理では、とにかく「虐殺」という言葉を巧みに避けながら、長々と訳のわからない議論が続いていたと記録されています。もっとも映画で言われたように、ルワンダに価値がないから見捨てられたのではなく、実はそれ以上の価値があるから国家が崩壊するに任せられたのであり、合衆国やフランスは、「事態後」の立場を考えて、あの人たちを見殺しにしたのです。映画では、RPF(反乱軍と呼ばれていました)を救世主のようにちょっとかっこよく描きすぎですが、それは仕方がないでしょう。

ちなみに事態は単純な部族対立ではないというのは、映画の中でもかすかに描かれていましたが、これを単なるツチとフツの抗争劇などと理解していては、いけません。単純な地域紛争ではなくて、国際社会を巻き込んだ権益確保抗争に巻き込まれて発生しているのですから。映画の中でも描かれていたベルギー軍10名が殺害された話。これでベルギーは外国人だけを連れて撤退を決意するのですが、彼らが守りきれずインタハムェに殺された首相は、ツチではなく「穏健和平派」のフツの女性でした。ツチを守ったホテル支配人のようなフツもいれば、真っ先に殺されていったフツもたくさんいたのです。部族抗争の引き金を引いた政治闘争がありました。

波のようになって避難をする人たちの群れは、難民キャンプで実際に見たそのままですし、夜空を花火のように弾が飛び交う銃撃戦のシーンでは、思わず記憶がよみがえり、体に緊張が走りました。やはり忘れません。ロケット弾の音はあのままですが、銃撃の音はもっと乾いていたような気がします。ああやって助かった人たちもいれば、なすすべもなく死んでいった人たちの多く、身内を殺させられたトラウマを抱えて生きている人たちも多くいます。いろいろと考えさせられる、そして思い出させられる映画でした。

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2006年1月17日 (火)

1月17日

1月17日です。阪神淡路の大震災から11年となりました。目に見える復興にも様々な問題があると報じられていましたし、心の問題も深く横たわっているとも報じられていました。しかし11年しか経っていないのに、報道の取り上げはこの日だけに限定された寂しいもでした。

それにしても今年の1月17日は騒がしい一日でしたね。前の晩からライブドアに強制捜査が入ってみたり、ヒューザー社長の証人喚問があったり、大震災の追悼行事があったり、宮崎被告の死刑判決が確定したり。それぞれが本来は単独で大きく取り上げられるであろう事件ですが、同時多発状態であったため、関心も分散された嫌いがあります。ちょっと不思議な気もします。

IMG_0136 所用で長岡から山古志の近くまで足を伸ばしました。地震復興に伴う道路の修復も完全にすんではいないところにあの大雪です。除雪に当たっている方々には本当に頭が下がります。住宅の屋根からの雪おろしは、本当に危険が伴う作業であり、熟練の業が必要であることが感じられました。どうか豪雪地帯の住民の皆様には負けないで、故郷の地を守られますように。そしてどうか怪我をされませんように。

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1月15日に

IMG_0095 1月15日は新潟教会のヨゼフ会、マリア会合同の新年会でした。ヨゼフ会とマリア会とはつまり、他の教会で壮年会と婦人会とか、男子部女子部など、いろいろな名前があるとは思いますが、いわゆる成年男子と女子の信徒の会です。以前は別々に新年会を行っていたようですが、やはり一緒にするのがいいですね。新潟教会では若干、平均年齢が高くなりつつあるのかと感じます。一緒に食事をし、謡があったり手品があったり、コーラスがあったりと楽しい一時を過ごしました。やはり最高潮になったのはビンゴでしたね。もう少し商品がたくさんあったら、さらに盛り上がったかもしれません。合衆国などではビンゴといえば日曜日のミサゴの教会で必ず行われる重要行事です。IMG_0113

 皆さんの小教区では、何かお正月の行事はありましたか?ちなみに1月15日は私の所属する神言修道会の創立者、聖アーノルド・ヤンセンの祝日でした。どうか良い一年となりますように。

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2006年1月13日 (金)

この一週間は

Hitachi  友部という町に初めて出かけました。「フレッシュひたち」という常磐線の特急にも初めて乗りました。例の485系(いなほ等)の後継として開発され、グリーン車なしでJR東日本としてはかなり斬新なカラーとデザインのE653系で、乗ってみたかったのも事実です。485系と同様交直両用でで、確かに藤代の駅の手前で、車内に一瞬の静寂が訪れ、デッドセクション通過が実感されました。でもそんなことのために、友部へ出かけたわけでは、もちろんありません。友部にはイエズスマリアの聖心会の日本管区本部があります。新潟教区では山形県の宣教を担当してくださっています。日本で働く20名ほどの会員が集まってくださり、これからの山形県での宣教について意見交換をいたしました。アメリカやアイルランドからの宣教師の方々の高齢化も進み、日本人会員もそれほど多くはない中、近頃はインドネシアからの司祭と神学生が加わったことで、これからへの希望が感じられました。8日の午後から9日までご一緒させていただきました。

その後、京都へ移動して、ノートルダム女学院高校で丸二日間の修養会で話をしてきました。私は10年ほど前から、高校1年生の担当をさせていただいております。新潟へ引っ越したことで、昨年で最後にして欲しいとお願いしたのですが、丸二日も女子高生に話をしてくれる司祭を見つけるのは容易ではないようで、今年も出かけることになりました。私以外に大阪教区や京都教区、そしてフランシスコ会から、総勢5人、つまり中学一年から高校二年までが一斉に二日間の修養会です。

女子高生に話をすることは容易ではありません。そりゃ考えてみれば、自分が高校生の頃に宗教の授業をまじめに聞いたためしがないのですから、二日間も朝から夕方まで宗教の話では、聞いてもらえなくて当たり前かもしれません。講師は皆、ビデオを見せたりいろいろと工夫しているようです。私はもっぱらアフリカの写真をプロジェクターで見せて、援助の話をしています。今回は紙に書いてもらう質問に加えて直接マイクで質問を求めたところ、とっても核心をつく、厳しい質問をいただきました。うれしかったですね。しっかり聞いていてくれる人もいるのが分かりました。今年の京都はぽかぽかと暖かく、いつもはコートがないと凍えるほど寒い銀閣寺の近くの鹿ヶ谷にある高校も、眠気を誘うほどの陽気でした。二日間の話が終わったら、本当にどっぷりと疲れてしまい、帰りの新幹線は、ずーっと眠りっぱなしでした。少しは年齢を感じるようになりました。

今週末は新潟で、15日は9時半のミサを新潟教会で捧げ、その後新潟教会で新年の集いです。いつもは雪の少ない新潟市内でも、このところよく降りました。明日からは全般的に暖かくなり雨も降るとのこと。豪雪地帯の方々に、雪崩などの被害がないことを祈ります。

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この数日に

本田竹広が亡くなった。まだ60歳だからちょっとショックだった。10年くらい前に病気で倒れてリハビリ生活だとは聞いていたが、あこがれのジャズピアニストだ。

1975年の夏、渡辺貞夫カルテットはスイスのモントルージャズフェスティバルで、「すごい」演奏をした。その日の演奏は、倒産する前のスイス航空DC10がアルプス上空を駆け抜ける絵に、サックスケースを抱えた「ナベサダ」が笑顔を振りまくジャケットで、その名も「SWISS AIR」として発売された。発売初日に買ったのを憶えている。私が高校2年生の時だ。カルテットはリーダーの渡辺貞夫、ベースの河上修、ドラムが守新治、そしてピアノが本田竹広だった。岩手出身の自分としては、世界のナベサダのバックを務める面々が、すべて東北人だったことを、それがどうしたといわれるような事だが、誇らしく思った。いま青木誠さんが当時書いたライナーノーツを読み返して確認したら、確かに、河上が秋田、守が仙台、そして本田が岩手県の宮古生まれだ。そう、本田竹広は、これまたそれがどうしたといわれそうだが、私と同郷だ。

残念ながら本人との面識は全くない。宮古の教会で伝道師をしていた私の父親が、本田のこれまた父親(宮古で宮古高校の教師をしていたという)に、オルガンを習った事があると聞いて、なおさら親しみがわいた事だけは憶えている。

その伝説とも言うべきスイスエアーの演奏の一月ほど前、渡辺貞夫カルテットは名古屋の勤労会館でライブを行った。しかも無料。当時土曜の深夜に放送されていた渡辺貞夫マイディアライフの公開録音だった。大学生の先輩が入場整理券を手に入れてきてくれた。第一部はこのカルテット、第二部にはなんと憶えている限りで、粉川忠範(Tb)、渡辺香津美(Gt)、富樫雅彦(Perc)、峰厚介(Tsx)が加わった大セッションだった。そこで初めて富樫雅彦という人のすさまじさを知ったし、小林克也の軽妙な語りに触れた。

高一の時に同級生たちとジャズバンドを始めてドラムをたたいていたとはいえ、日課の厳しい小神学校で生活していたこともあり、レコード以外での演奏を聴いたことがなかった。つまり生まれて初めて「生」でプロの演奏を聴いたのがこの日だった。当時の小神学校は就寝が10時だったし、個人でラジオを持つことも禁止されていたので、マイディアライフでさえもリアルタイムで聞いたことがなかった。バンド仲間の友人たちの録音で聞いただけだ。正直言って自分は太鼓たたきだったので、その日までピアノには興味がなかった。それがこの日、名古屋の勤労会館で、本田はソロで聞かせた。誰かの台詞ではないが、「感動した。」あとで思い返せば、その数週間後にモントルーで演奏した「スウェイ」か「パガモヨ」だったに違いない。ナベサダたちが演奏に入ってくるまでの一時、本田が切々と弾き続けたソロは圧巻だった。初めてピアノはすごいと思った。

その後、夏の子供たちの合宿で見せる映画を探しに、愛知県教育センターへ出かけたときのことだった。映画のカタログを見ていると、「音楽:渡辺貞夫」と書いてある。合宿には関係なかったのだが、早速その映画を借りてきて、そして見た。「アサンテサーナ」だ。青年協力隊の宣伝映画だ。八千草薫がマライカを唄っている。初めて「アフリカ」に入れ込んでいるナベサダを知った。そして買ってきたのが1974年の郵便貯金会館でのコンサートを録音した「ムバリアフリカ」だ。

「ムバリアフリカ」の中で、ナベサダのソロではじまり、富樫が絡んできて、そしてリズムが全員入ってくる「ハバリ・ヤコ」で、後半の本田のソロは圧巻である。これは聴かなければならない、絶対に。さらに1976年、ナベサダが始めて文化庁の芸術祭に参加した郵便貯金会館での録音、「サダオ・ワタナベ・リサイタル」での最後の曲(メンバー紹介がある)「マライカ」での本田のソロは、何度聞いても身震いがする。どちらもはっきり言ってうるさい曲だ。ソロでテクニックを聞かせる曲ではない。がんがんと弾きまくって、リズムに負けないようにとがんばる曲だ。でもそこにこそ本田竹広の本領がある。後に峰厚介らと一緒にネイティブサンを結成したときには、これが本田の心の音楽なのだろうと納得させる音楽だった。

あまりたいした理由ではないから、これまであまり人に言ったことはないが、渡辺貞夫と本田竹広がいなかったら、私はアフリカへ行こうとは思わなかった。 R.I.P.

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2006年1月 6日 (金)

年の初めに

日本海側では相変わらず大雪が続いています。新潟市内はそれほどでもありませんが、それでも昨年と比較すれば数倍の雪です。ニュースなどで報道される地域では、本当に大変なことになっています。雪の少ない太平洋側で生きてきた私には分からなかったのですが、雪を下ろすことも大変ですが、その雪を捨てるのも大変なのだと知りました。ここ数年は雪が少なかった秋田市内も、大変な雪になっているようです。教区の皆様、ご自宅は大丈夫ですか?Shizuokastation

正月に静岡に住む母親を訪ねました。もともと静岡は暖かいのですが、やはりこの正月も新潟からは考えられないくらい暖かい。うらやましい限りです。しかも今年の富士山には雪がほとんどないのです。正月の青空に黒い富士山というのも、不思議な光景でした。雪はすべて日本海側で落ちている、ということなのでしょうか?Shizuokahotel(写真は見事に指定席が満席の静岡駅ディスプレイ)

静岡といえば私が小学生の頃から、東海大地震の可能性が叫ばれ、様々な対策がなされてきたところで有名ですが、その静岡に、なんと耐震偽装の建物が建っていました。町のど真ん中、官庁街や繁華街に近い交差点に、昨年7月に開業したばかりのビジネスホテルがそびえていましたが、一階のコンビニ、食堂、玄関すべてが閉じられて、休業中の張り紙がありました。普通以上に地震に敏感なこの地で、建設した業者の方も、なにかおかしいと気がつかなかったのでしょうか。(写真はホテル前の張り紙から)

雪の状況を知るために夕方、テレビのニュースを見ていたら、東京で日赤と東京女学館の間で、日赤の赤煉瓦塀の取り壊し問題で、女学館側の猛抗議が続いているという話題がありました。存じ上げませんでしたが、昨年末より大きな話題になっていたようです。テレビの報道では、歩道の保護柵前に立つ警備員に向かって叫び声を上げながら突進していく女性の姿が何度か流されました。前後の脈絡を知らなかった私には、それが何とも奇妙に映りました。何も知らずにその画面と報道だけを見れば、どうしても片一方のエゴみたいにしか見えません。他人の(日赤)古い塀を壊そうが何しようが、向かいの女学館には関係ないのだから、景観が壊されるとか何とか言う理由での抗議。しかしそれにしてはおかしいと思ってさっき調べてみれば、やはり背後にはもっと複雑な問題が横たわっていました。単純にどちらが悪いとか言うことではなく、双方に言い分がしっかりあり、よく読んでいくと、日赤側にあまり説得力がない感じもします。いずれにしろ、ここではその事態の是非を語ろうと思っているのではありません。そうではなくて、ごく当たり前ですが、世の中で起こっている様々な事象には、複雑な背後関係があり、それが絡み合ってその事象が成立しているのですから、どこか一面だけを単純に捉えて、一足飛びに白黒をつけることなんかできないと言うことを、再確認したいだけです。時に、一面だけを取り上げて、是非を決めつけてしまう傾向が、私たちにはありますから。いろいろな方面から、物事は見つめていきたいと思います。

スペルマン病院で、赤ちゃんの誘拐が起きました。仙台教区が経営に携わる病院です。無事にお母さんのもとへ赤ちゃんが戻されることを、心から祈ります。

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2006年1月 2日 (月)

あけましておめでとうございます

新潟教区の皆様、新年あけましておめでとうございます。

元旦の新潟は穏やかな天候でしたが、皆様はいかがでしたか?新潟教会では元旦0時(すなわち大晦日の深夜)に私の司式で平和祈願ミサを、また午前11時からは主任司祭司式で神の母聖マリアの祭日のミサを捧げました。深夜ミサには40名ほどの方が参加してくださいました。昨年同様、新年のメッセージとして司牧書簡を用意いたしました。ただ12月にいろいろとあったがために、印刷に回すのが大幅に遅れてしまい、各小教区への配布には間に合いませんでした。申し訳ありません。1月上旬には印刷した年頭司牧書簡を配布できるようにいたします。

今年は教皇様も本格的に活動される年になりそうです。待望されていた教皇様の最初の回勅は、1月中には内容が明らかになりそうです。すでにタイトルはDeus Caritas Est(神は愛である:邦訳題は未定)となることが分かっていますが、内容は不明です。

新潟教区でも、1月末頃に発行される教区ニュースでも詳報されることでしょうが、今年は教区の今後の活動(宣教や司牧)の方針を総体的に話し合う宣教司牧評議会の創設に向けての動きが始まります。

また皆様にはどうか今年も、司祭・修道者の召命のためにお祈りをお願いいたします。

それでは今年も一年、共に主の福音に生きながら、歩みを共にしてくださるように、よろしくお願いいたします。

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