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2007年1月29日 (月)

福神父

Canoniz_freinademetz_small 本日1月29日は、神言修道会のもう一人の聖人、聖ヨゼフ・フライナデメッツの記念日です。聖ヨゼフ・フライナデメッツは1852年、4月15日に、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の村オイエスで生まれました。現在はイタリアのチロル地方の山の中だそうです。1875年7月25日、教区の司祭に叙階され、自宅近くの小教区に任命されましたが、宣教師になりたいという思いが強く、1878年に聖アーノルド・ヤンセンの創立した宣教神学院に入学しました。翌年、宣教の十字架を授けられ、もう一人の神言会司祭ジョン・バプティスト・アンツァー神父(後に司教)と共に中国に向けて出発しました。香港滞在後、1881年、山東省で宣教を始めました。義和団事件の時には命の危険にもさらされながら現地に踏みとどまりましたが、その後発疹チフスの流行に倒れ、1908年1月28日に亡くなりました。現地の人たちは「福神父」と呼んでいたそうです。中国本土においては殉教者ではないいわゆる証聖者としての聖人は福神父が始めてであり、一時は「シャントンの聖ヨゼフ」という呼び名が広がりそうになりましたが、政治的配慮からこの呼称の使用は自粛されています。第二次世界大戦に至るまでの近代の宣教は、どうしても欧米の国々の政治的思惑と表裏一体になる傾向があり、その意味で、ドイツ政府の意向にも配慮しながらの宣教であって、現地ではとても苦労されたようです。福神父の肖像画はいつも中国的な服装をしていることで有名で、宣教地の文化を大切にすることを一番大切にしておられてということです。(写真は列聖式に掲げられた肖像画より)

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2007年1月28日 (日)

盛岡にて

Img_0740 昨日の土曜日27日は、岩手県の盛岡にいました。盛岡は幼稚園の一年と、小学校の4年間を過ごした地で、懐かしいところです。父親の仕事の関係で当初は四ツ家カトリック教会に住んでいましたが、小学校(仁王小学校)の4年生の時に、父親の転職で教会を出て、黒石野に半年ほど仮住まいをしました。その後静岡に一家で引っ越しが決まっていたこともあり、両親がどういう交渉をしてくれたのか知りませんが、引っ越し先の小学校に転校することもなくバスで通学するという、当時の私にとってはかなりエキサイティングな体験をさせてもらいました。今にして思えば20分くらいのバス通学だったのでしょうが、当時はとてもとても学校が遠くに感じたのを憶えています。その頃本当に山奥だった黒石野という地域はそのさらに奥にニュータウンが出来て、街の真ん中になりました。いまでも母の姉がその地に住んでおります。

さて昨日の朝は、そのさらに奥にあるドミニコ会ロザリオの聖母修道院へミサをしに行ってきました。女子の観想修道院です。この修道院は昔私がこの黒石野という地に一時住んだ頃、それよりも盛岡の中心により近い地に建っていたのですから、そしてその地はむかし蝦夷森と呼ばれていたらしいのですけれど、そのことからもいかに黒石野が奥まったところであったかが分かります。当時の修道院跡地の前は4車線道路が通り跡地にはデパートが建っています。(写真はシスター方の一部と、私の横は母の姉)

20名ほどのシスター方の中には、私が小学生の頃、侍者として神父さんにくっついて修道院へ来たことを憶えておいでの方がおられました。お恥ずかしい限りです。当時は訳も分からず、カタカナで書いてもらった階段祈祷のラテン語を一生懸命、唱えておりました。とにかくラテン語のミサは、何がなにやら子どもにはちんぷんかんぷんでしたし、実際当時の祈祷書なんかを見るとミサの間のどこそこで唱える祈りなんてのがたくさんあるのですから、神父さんは神父さんでラテン語のミサをたてつつ、信徒は信徒で祈祷書の祈りを日本語でしていたのかもしれません。良く憶えておりませんけれど。だからこそ聖変化の時の鈴が必要になるのですから。

シスター方には教区のために、また日本の教会のために、いつもお祈りをしていただいており、その祈りによって私たちは支えられています。心から感謝すると共に、これからも一層のお力添えをお願いしたいと思います。シスター方にも高齢化の波は押し寄せているようで、かつてこの修道院はガレットを製造していたのですが、先頃その製造を県内の製菓業者に譲ったとか聞きました。観想修道会への召命のためにもお祈りしたいと思います。

さて昨日盛岡まで出かけた一番の理由は、講演を頼まれたからでした。岩手県立病院と日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団の主催で行われた、緩和ケア実践セミナーで、「精神ケア」についての話をしてまいりました。もちろん私は医療の現場で働いているわけではないのですが、様々な道筋を伝って私のところに話が来たようです。実際にホスピスで働いている信徒の方とかいるのに、そちらの方がよいのでは等とも思いまして非常に心配して出かけました。私に声をかけて下さったドクターが、私の書いた本「カリタスジャパンと世界」(サンパウロ)を読んでいて下さり、その中に書いたボランティアについての話が良かったということで声をかけてくださったようで、ありがたいことでした。私の前には県立中央病院のドクターによる、パワーポイントを使っての「痛み」のコントロールについての講演でした。様々な薬の名前が出てきてちんぷんかんぷん。そのあとに出てきた私は医療の素人ですから、知ったかぶりの話はもちろん出来ません。宗教者として他者との関わりについてキリスト教の立場からの話をさせていただきました。会場な500人以上が岩手県下かうちから集まり、そのうち20人ほどがドクター、あとは看護師の方々で、入りきれない人が他の部屋でモニター聴講までしているという盛況ぶりで、ホスピスや緩和ケアについての医療者の関心の高さと取り組みへの熱意が感じられました。午後にはさらに3名の講師の方を招いて、ワークショップが行われたようですが、わたしは午後には新潟へ戻って参りました。

ホスピスのような場所では、どうしても宗教的要素が不可欠であろうと思います。しかし公立の病院では直接宗教者が関わることが難しいために、その実施は、例えば精神科のドクターやカウンセラーの方々に任せられるのでしょうが、やはり何らかの形で、宗教的というか超自然的領域への理解を深める道が必要なのだろうと思います。痛みを取り除くことと同時に心の不安や怒りを取り除くことも、どうしても必要になるのですから。

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2007年1月25日 (木)

写真を加えました

このブログには写真を公開する機能がついていましたので、ためしに昨年12月にアフリカまで出かけたときの写真を写真集として公開しました。サイドバーの中程、「最近の記事」の下あたりにありますので、暇で暇で仕方がないときにでも、クリックしてご覧下さい。お知らせでした。

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2007年1月24日 (水)

サレジオの霊名

1月24日は聖フランシスコ・サレジオの記念日です。新潟教区司祭の最長老、大大先輩である三森泰三神父様の霊名のお祝い日でもあります。今朝のミサで三森神父様と一緒にお祝いをさせていただきましたし、21日の日曜日には新潟教会の信徒の方々から霊的花束等のお祝いも頂いたそうです。三森神父様は1917年のお生まれですから、今年の誕生日(8月)には90歳になられます。ローマ留学中の1944年に司祭に叙階されたというのですから司祭生活はすでに63年目ということになります。現在はヴィアンネ館で隠退生活を送られていますが、毎朝一番に聖堂へ来られるなどとてもお元気に生活されています。霊名の祝日に当たり、どうぞ三森神父様に神様の豊かな祝福があるようにお祈り下さい。

聖フランシスコ・サレジオは16世紀末のフランスの司祭で、後にジュネーブの司教となられました。青少年司牧や教育活動で世界的に有名なサレジオ会は、聖フランシスコ・サレジオの名前にちなんでいますが、聖人が創立者というわけではありません。創立者はこれまた有名なイタリアの司祭ドン・ボスコで、修道会は19世紀の創立ですが、ドン・ボスコがサレジオの精神に強い影響を受けてこの名前を選択したと言われています。青少年司牧には本当に強い修道会で、現在日本で小神学校をもっているのは神言会とサレジオ会だけだと思いますが、苦戦している神言会を尻目にサレジオ会の小神学校は拡大を続けていると伺っています。

かつては(70年代末頃まで)司祭の召命といえば、小神学校から始まって大神学校へ進んでくる神学生が中心でした。小神学校は中学一年生からの共同生活です。私が名古屋の神言会小神学校へ入学した1971年には、神言会は名古屋と長崎の両方に小神学校をもっており、名古屋には26名ほど、長崎には40名以上が在籍していたと思います。その頃は名古屋教区も布池に小神学校を開設しており(現在の教区センター)、そこには京都教区の小神学生も在籍していました。ちなみに京都教区の小神学生のなかには、大塚司教様もおりました。(私が南山男子部の中一の時、大塚司教様は男子部の高二だったと記憶しています)。神言会は今では長崎の小神学院のみを運営していますが、この数年神学生は一桁代となっています。お隣の長崎教区の小神学校も、それでもかなりの人数が在籍しているようですが、以前のようなマンモス小神学院とはいかないようです。とここまで書いて気がついたのですが、長崎の小神(神言会と教区)は中学高校を長崎南山へ、名古屋の小神は名古屋の南山へ通っていたわけですから、現役の日本の司教さんたちの中に、そういう意味では「南山ボーイズ」が結構いるではありませんか。ちなみに名古屋の野村司教様も、名古屋の南山中高の卒業生です。

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2007年1月23日 (火)

経済問題諮問委員会

新潟教区経済問題諮問委員会が、今夜7時から開催されました。経済問題諮問委員会は、2005年9月20日の司牧書簡で設立を表明した教区の財政問題についての懸案事項について、司教への答申をお願いした委員会で、昨年5月に信徒の方4名と教区事務局長、委員長を教区会計として任命いたしました。信徒委員は顧問会での推薦を経て、短期集中で仕事をしていただく必要を勘案して、新潟・新発田地区から2名、長岡地区から2名の方に委嘱いたしました。昨年6月以来すでに5回の会議を重ねていただき、11月末には中間答申を頂いておりました。今夜はその中間答申に対して、私から今後の取り組みについての方向性をお話しさせていただきました。

2005年9月20日の司牧書簡に記したことを引用します。

「教区の財政については佐藤司教様が20年ほど前に出された教書の段階から、何ら改善されてはいません。現在教区では、修道会が担当してくださる地区に関して、司祭の生活費などをそれぞれの修道会に対応をお任せしています。しかし本来であれば、教区で働いてくださる司祭の生活は教区が保証すべきものでしょう。従って将来的には、教区司祭・修道会司祭、また修道者を含めて教区の宣教司牧事業に従事してくださる方々に、教区が給与を支払える体制を整えたいと考えます。また教区レベルで行われる様々な活動にも、充分な資金的配慮をすることによって、一層の活性化を図りたいと思います。そのためにも教区の財政基盤を充実させることは急務です。
 教区の財政は、ひとり司祭団の問題ではありません。広く信徒の方々の意見も取り入れて財政問題に取り組むために、教会法492条から494条の規定に準じて、来年度をめどに、教区財政委員会の設置を検討します。」

新潟教区は地理的な距離もありますし歴史的背景もあり、どうしても全体で教区が一つという意識が持ち難い教区です。教区という地域教会を誰が作り上げるのかと言うことを考えるに、それは決して司教だけでもなく司祭だけでもありません。すべてのキリスト者がその地域教会を作り上げていくのですから、今後、4月にとうとう始まる宣教司牧評議会などを通じて、一緒にどういう教区にしていくのかを考えて参りましょう。今後諮問委員会からの答申をもとにして様々な方針を決める作業に入っていきたいと思います。宣教司牧評議会などを通じて、決まったことを実施に移していきたいと思います。

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2007年1月21日 (日)

一致祈祷週間中心集会

Img_0728 1月18日から25日まで、「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(マルコ7・37)をテーマに行われている今年のキリスト教一致祈祷週間ですが、新潟市における一連の祈祷会の中心となる祈りの会が、花園カトリック教会で本日午後2時から開催されました。新潟市内のカトリック各教会を始めキリスト教団や聖公会、救世軍など、各派の信徒の代表の方々70名ほどが集まり、花園教会助任司祭のフェルナンド師の司式によって、祈りが捧げられました。

Img_0735_1 もともと初代新潟司教であった故伊藤司教様が、司教団のエキュメニズム担当でもあったことから、自ら音頭をとって新潟市内の各派に呼びかけ、新潟市内における祈祷会が始まったと言うことです。新潟市には各派の司祭・牧師・教師が参加する連合教師会が存在し、市民クリスマスや一致祈祷週間を企画運営しています。今年度は救世軍の方が会長を務められており、カトリックでは新潟教会助任の高橋師が書記として連絡調整にあたっています。カトリックでは、初日に青山教会、そして中心集会となった本日の花園教会と二カ所が今年の担当となりました。祈祷集会が終わった後は、花園教会のホールで皆でテーブルを囲んで、お茶とお菓子を頂き、普段お会いする機会の少ない他の教派の方々と、交流を深めることが出来たのではないでしょうか。なお、最終日はいつものように、大学病院の前にある聖公会の教会です。

それにしても、昨年は吹雪のような雪の中を必死になって出かけていったことを憶えていますが、今年は本当に暖かくて雪もない。今日なんて新潟市は、春を思わせるような陽気でありました。大丈夫なのでしょうか。

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2007年1月20日 (土)

知らざるを知らずとなす。これ知るなり

新しい年が始まってまだ三週間だというのに、昨年末からの十数日間の間に、私たちの国では空恐ろしい事件がいくつか起こりました。昨年を象徴する漢字一字は「命」でしたけれど、まさしくその命が様々な出来事で奪われていきました。かなり以前から天然ガスへの転換が進んでいる今のこの国で、都市ガスが漏れたために複数の人たちが突然その命を奪われるなどという、21世紀の日本とはとても思えないような事故もありました。もっとも今の日本という国が、人と富を都市部へどんどん集中させる方向に流れていることを考えれば、21世紀の日本だからこそそのような事故が起こるのかもしれません。

 命を奪う出来事の中には、その尊厳をおとしめるような残忍な仕方で実行された殺人事件も複数ありました。その事件そのものは本当に悲しい出来事ですし、それによって大きな悲しみを心に抱くことになってしまった親族や友人の方々の苦しみを思うとき、同じような事件がまた起こらないようにと祈らずにはおられません。

 事件そのものの背景を深く探ることは、再発防止のために不可欠であろうと思います。あの夫婦の間での殺人事件では、DVが背景にあったのではないかとも言われています。もしそうであるならDVの被害者を保護するシステムが、果たして十分であり、また機能しているのか、ふり返る必要があるでしょう。ただ背景を探るといいながら、その範囲をはるかに逸脱して、犯人として逮捕された人物を、特別な極悪人というイメージへ出来る限り近づけようとする作業はやめにならないものでしょうか。

 数日前に富山で、強姦の罪で逮捕され有罪となり服役した人物が、実は無実であったことが分かったという話がありました。この人物が逮捕された時に、どのような報道がなされたのかは知るよしもありませんが、もしその時に他の大きな事件がなければ、いかに極悪人であったのかというイメージづくりの作業が行われたのかもしれません。でも、実際には無実だった。しかも捜査側は、十分に自信があって逮捕起訴に持ち込んだわけではなく、捜査が不十分であったとまで認めている。仮にこの人物のイメージが、つまり人としての尊厳が、逮捕された時点で粉々にされていたのなら、それを取り戻すことは至難の業ではないかと思ったのです。まわりでそのイメージを「楽しむ」マスは、単に一過性の情報としてそれを忘れてしまうのでしょうが、その対象となった本人は、簡単にそのことを忘れることはできないのではないかと思うのです。

 今回も、電話での会話のテープまで出現して、イメージが創られていく。もしかしたら本当のイメージかもしれないし、もしかしたらそうではないかもしれない。そもそも一度も出会ったこともない、話したこともない人物が、極悪非道な人間なのかどうか、私が知っていること自体があり得ないはずなのに、いつの間にか知っているような気分になっている。そのこと自体がおかしいことに、気がついておくことは大切だと思います。

 自分で探し出したり体験した確実な情報がないにもかかわらず、誰かが語るさらに誰かについての情報を元に、あれこれと大騒ぎする様をしばしば目にするとき、その嵐にさらされる本人の人間としての尊厳が、ずたずたにされる様を見ている思いがして、とても悲しくなるのです。自分は、知らないことを知るわけがないと言うことを認めることは、大切だと思います。「知らざるを知らずとなす。これ知るなり」。孔子の言葉でした。聖書にも、「主を畏れることは知恵の始め(箴言1:7)」とあります。自分の知恵なぞはるかに超えた神の掌の中に、小さな存在として自分はあるのだという謙遜さを持ちたいと思います。

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2007年1月18日 (木)

一致祈祷週間

教会は本日1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間として定めております。同じ神を信じ同じ主に仕え同じ福音を信じているはずのキリスト者が、実際にはいくつもの派に分かれてしまっている現実を見るとき、実際には幾多の困難がそこには横たわっているとはいえ、出来るところから力を合わせていきたいと思います。

今年のテーマは、「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(マルコ7・37)となっています。詳しくはカトリック中央協議会のホームページをご覧下さい。

新潟市内では、恒例になっております各派持ち回りでの祈祷集会が、今夜から連日開催されます。初日の今日は午後7時から、青山カトリック教会にて。また21日の日曜日は午後2時から花園カトリック教会で、中心集会が開かれます。どうぞご参加下さい。

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2007年1月17日 (水)

確固たる柱

いわゆる「ホワイトカラー・エグゼンプション」とかいうすさまじい名称の制度を含んだ法案の提出が、見送りになりそうだという報道を目にしました。その理由も、なにやら「国民の理解を得られていない」からだとか。私は専門家ではないのでその法案の内容を論じたいのではありませんが、ただ気にかかるのは、政治家の方々は、どうやって国民の理解を得られたのか、はたまた得られていないのかを知るのだろうかという点であります。まさか世論調査の結果に基づいていちいち判断しているわけではあるまいし、そしてもし仮にそうであるならば、お蔵入りすべき法案は過去にいくつもあったでありましょうし。もちろん今夏の選挙対策であろうという憶測もあり、概ねそれが正しいのでしょうが、でも政治家はどこからどういう風に意見を言われると考えを変えたり思いとどまったりするのか、その仕組みが知りたいものだと思ったのでした。宗教の世界には、例えば福音のような確固たる柱があって、その領域における価値判断は当然その柱によってのみ行われるべきものです。それならば、政治の世界の確固たる柱、判断の規範は何なのかしらとおもったのでした。政治の世界とは、本当に不可解です。

Img_0713 教区司祭の新年のお祝いで新発田市方面へ出かけましたが、そのさいに寄った公園に、「反省の石」というものがありました。(写真)「明日はよいことがあるように」とこの手のところに手を当てて反省しなさいと言うことでありましたが、これがかなり離れていて両手がなかなか届かない。そう簡単に、明日の良いことは手に入らないぞと言うことなのかもしれません。教会の伝統には、寝る前の祈り(かつての終課、コンプレトーリウム)をする際に、良心の糾明があります。あれをしたかこれをしたかと「罪のリスト」をあら探しすることではなく、一日をふり返り、自らの生きる姿勢の方向性を見極めてみる一時であると思います。師かっりと「確固たる柱」に寄りかかりながら、良い方向を向いていきたいと思います。

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2007年1月15日 (月)

聖アーノルド・ヤンセン

Canonizjanssennew4 1月15日は、聖アーノルド・ヤンセンの記念日です。聖アーノルド・ヤンセンといっても、日本の典礼の暦には乗っておらずなじみのない聖人ですが、先日、カトリック新聞では紹介されておりました。神言会、聖霊会、そして日本にはありませんが永久礼拝の聖霊会と、三つの修道会を創立したドイツ人司祭です。もともと教区司祭として高校教師であったヤンセン師は、海外宣教への熱意止みがたく、ドイツ発の宣教の会を創立しようと努力をしました。当時は相談した司教達からは、まずとにかく修道会ではなく宣教会(修道誓願を宣立しない会)を創ったらどうかと勧められたようですが、本人は修道会にこだわりつづけ、とうとう変人扱いされたこともあるようです。しかしそこはさすがに頑固なドイツ人だけのことはあり、とうとう1875年に、隣国オランダのシュタイルで宣教神学院の創立にこぎつけたのでした。ドイツ国内では当時、政治的理由からそのような活動が不可能であったため、最初の神学院はオランダに創設されたのです。その後1879年には最初の二人を中国に派遣し、日本に宣教師が送られたのは1907年、その後1909年1月15日にヤンセン師は亡くなりました。創立当初は大多数の会員がドイツ出身者でしたが、各宣教地での会員育成に努めた結果、現在全世界に六千人ほどいる会員のうち、半数はアジア出身者であり、さらにその半分がインドネシア出身の会員です。

日本に送られた宣教師は、秋田の地で宣教を始め、1912年には神言会員のライネルス師が新潟知牧区長に任命されて、現在の新潟教区へと歴史は繋がっています。日本では名古屋の南山学園が一番大きな事業となっているため、教育修道会としてのイメージが持たれていますが、修道会全体としては小教区で働く会員の割合が高く、あくまでも初期宣教に取り組む宣教修道会の性格を今でも保っています(はずです)。

当初から海外宣教を目的として創立された修道会ですから、その意味では修道生活をまず第一義として出来上がった会とは性格が異なっているのかもしれません。ヤンセン師は、単に頑固であっただけでなく(とても頑固であったのは事実のようですが)、聖霊の導きに完全な信頼を置いていたようです。神の御旨であると確信することは必ず聖霊の助力によって達成されるという堅い信仰があったようです。ヤンセン師は「みこころ」への信心でも有名でしたが、それ以上に聖霊への信心も強く、とうとう会服であるスータン(もともと教区司祭が集まって出来た修道会でしたので、当時の教区司祭のスータンと同じスタイルだったようです)を聖霊の色である赤にしようとしたという話が残っています。さすがにそれは許されなかったようですが、そのかわり、スータンの帯の裏を真っ赤にしてしまいました。

現代社会に生きている私たちは、聖霊の働きへの信頼が薄れているのではないかと思います。今生きている現実の中で、聖霊の働きなどというものは、なにやらオカルト的な現象と同一視されてしまう危険もあります。しかし教会は、聖霊降臨のその日から聖霊によって導かれているのであり、私たち信仰者の生活の様々なところに聖霊は働いているのは間違いありません。日常の常識で出来事に対する価値判断を下すだけでなく、信仰の目をもって聖霊の働きを識別する努力もしたいと思います。そして人間の理解をはるかに超えた神の意思の表れである聖霊の働きを、信じたいと思います。(写真は列聖式に使われた公式の肖像がより)

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2007年1月14日 (日)

新潟教会で新年の祝い

Img_0704 新潟教会では、本日、ヨセフ会とマリア会主催で新年のお祝いが開かれました。ヨセフ会とマリア会はそれぞれ他の小教区では壮年会とか女性の会とか呼ばれているのでしょうか。名前はどうあれ、教会の中核をなしている男性と女性のそれぞれの集まりで、本日は9時半のミサが終わった後、それぞれの会の総会を開いて、会長と副会長が決められました。その後12時頃から信徒会館二階のホールで、司祭団や私も参加しての食事会でした。良くできたお弁当を頂き、お酒も少々。近頃なにやらこういう催し物では定番になりつつありますが、エンターテインメントもございまして、信徒の斎藤さんのマジックやら高橋師の科学ショーやら、歌を歌うかと思いきや本日は見事に怪しいマジックを見せたフェルディ師やら(写真はその怪しいマジックを遂行するフェルディ師)、そして私が歌を歌うことになっているようです。これまでは誰も知らないアフリカの歌でごまかしましたが、今日は一応、ちょっと練習しておいたので、「涙そうそう」をピアノで弾き語りをいたしました。私はギターがまったく弾けないので、歌を一人で披露すると言えばピアノを自分で弾くしかありません。でも実は、ピアノを弾きながら歌うというのは、結構難しくて、鍵盤に気をやれば歌がしどろもどろになりますし、必死で歌えば指があやふや。まあ、完全に記憶するくらい、練習しておけばよいだけの話ですよね。

先ほどの夕方のニュースで気象予報士の方が、12月の平均気温は世界的に高かったという話をしていました。何年からのグラフか見落としましたが、このところ12月の世界の平均気温は徐々に上昇を続けているのだとか。私が中学生か高校生の頃、まもなく氷河期がやってくるなんて言う説が、どこかにあったような気もするのですが、現実は逆のようであります。そういえば小学生の頃良く目にした21世紀の世界の姿なんて言うのも、ほとんど違ってますし。ということは、将来の予測というものは、あまり本気に出来るものではないということなのでしょうか。いろいろな科学が発達しているからもちろん予測の精度が上がっている事柄は多くあるのでしょうが、基本的に人間には今の現実とこれまでの経験しかないのですから、それに基づいて将来を語ることは非常に困難であると言うことを肝に銘じておく必要がある気がします。「絶対にこうなる」とも言えないし、逆に「絶対にそんなことはあり得ない」とも言えない。言えるのは「そうなる可能性が存在する」と言うことだけだと思います。しかし、このまま本当に暖冬傾向が続いていくのでしょうか。

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祈り倒す

「祈り倒す」というのも何となく不謹慎な響きがあるけれど、そういえば近頃「祈り倒す」ほどの迫力を忘れているのではなかろうか。今朝の福音、「カナの婚姻」を読んでいて、ふとそう感じました。あの婚姻の宴の会場で、マリア様の迫力は、「私の時は来ていません」というイエスをも、いわば「祈り倒し」てしまったのだなと思ったのです。

先日、青少年の集いがあったときに、毎日の信仰生活でしたか何かについての質問があったとき、「常にイエスの存在を身近に実感すること」と答えたと憶えています。だから、常日頃、決められた様々なお祈りをすることも大切なのでしょうが、それ以上に、常に身近にいる主に話しかけまたその声を聞く努力を重ねることはもっと大切な気がします。そのなかで、時には迫力を持ってイエスに迫ることもやはり忘れるべきではないでしょう。もっとも、そのときに、イエスの語られる言葉に耳を傾けることも忘れてはなりません。祈りは私の独白ではないですから。

今日は新潟教会で、マリア会とヨセフ会の主催で、新年の集いが開かれます。その報告はまた後で。

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2007年1月11日 (木)

本質を見抜く目が

毎日利用しているわけでもなく、月に二・三度の頻度にしか過ぎないにもかかわらず、この4ヶ月の間に同じ場所で二回も目撃したからには、それが結構頻繁に行われていることだということなのでしょう。初めて目の前でそれが起こったのは昨年の9月27日、そして二回目が今日。場所はJR東京駅の丸の内中央口と八重洲中央口を結ぶコンコースです。

いや別に犯罪を目撃したとかそういうドラマチックなことではないのです。そうではなくて、私服の警察官とおぼしき人物が、道行く人に声をかける瞬間です。一回目はお一人、今朝はお二人。どう見たって警察官には見えない私よりはるかに年上のおじさまたち。もっとも今まで直接出会った私服の警察官の方々で、テレビに出るような「寄らばぶった切るぞ」みたいないかにも警察官風貌(どういう風貌か?)だった人は、愛知県警の要人警護担当の警察官のお二人だけで、あとの方々は、そういわれなければ分からないような風貌の皆様でしたから、風貌で判断するわけにはいきません。

一回目は私の目の前を歩いていた初老の男性が声をかけられて、肩を抱かれて端へ連れ込まれながら、正確に聞こえたわけではないですが、「私ね、警察官なんだけど」と、例の警察手帳を開いて見せている。そんなシーン本当に見たことがないですし、凝視するわけにも行きませんので、そのまま通り過ぎました。

そして今朝は、20代の女性が二人私の目の前を歩いていて、そこへ初老のおじさまが二人近づいてきて、「お嬢さんたちどこへ行くの」と声をかけたわけでした。私の目の前の二人が立ち止まったので、真後ろにいた私も立ち止まって、こんな朝からおじさんたち、若い女性に声をかけるとは何事かぁ、とおもって思わず凝視すると、やはりお二人はコートの内ポケットから例の警察手帳を出すのでした。急に見知らぬおじさんたちに声をかけられたお二人の若い女性は、非常に戸惑っておられたのですが、その後に警察手帳がでてきて、そうですね、いうならば「まーじぃ?」という現代的な表情でありました。

もちろん私は安全な社会を守るために、私服の警察官諸氏が雑踏の中で犯罪防止のための職務執行することは必要だと思いますし、感謝こそすれ批判するものではありません。しかし、ああやって、突然声をかけられて、テレビでしか見たことのない警察手帳を見せられて、「私、警察なんだけど」といわれて、肩でも抱かれて端の方へと導かれたら、一瞬、「ほんもの?」と思いませんか。というのも「ほんもの?」みたいな例は、さすがに日本ではそんなにありえないのでしょうが、外国にいるとこれがあったりするのですから。特に何も知らないよその国から来た観光客などがこれでうまくだまされて身ぐるみはがれるなんて事もあるではないですか。私は海外にいるときには、基本的に知らない人はすべてまず疑ってかかることで、これまで身を守ってきたつもりでした。そして日本でも、制服マニアみたいな人が、すべてそっくりの模造品を(警察手帳も含めて)もっていたなんて話もありましたでしょう。さすがに東京駅のど真ん中でニセ警察官が制服着て立ってたらすぐばれちゃうでしょうが、私服は分からないですよね。

ちょっと怖くなった私は、新幹線に乗る前に、雑踏警備をしていた若い警察官に尋ねてみたのでした。そしたらこの実直そうな若い警察官氏は、「本物はこれですよ」と警察手帳を見せてくれたのでした。すると、あの私服の皆さんが見せていた手帳と同じでありました。疑った私が悪かった。皆様、職務執行、ご苦労様です。出来れば、外側に惑わされずに、中身を見抜く心の眼力が欲しいと思ったのでした。

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2007年1月 7日 (日)

C.M.B.

G.C.M.B.といえば、ガーナ・カカオ・販売公社のことですが、C.M.B.という表記に見覚えがある方はいませんか。主の公現の主日と切っても切れない関係にある略語です。確証は手元にないのですが、たぶんドイツ系の宣教師が働いていた地方では、必ず行われていたことだと思います。玄関などの戸口の上に、白いチョークで、C.M.B.と記され、十字架と年号(例えば2007とか)が記されているのを見たことありませんか。主の公現の主日の頃には、家の祝別があったのですね。そしてこのC.M.B.とは、三人の博士の頭文字。カスパー、メルキオール、バルタザールであります。この伝承はどこから来たのでしょうか。個人的には、年の初めのこの頃、司祭を家に招いて祝福をしてもらうという習慣は、悪いものではないように思います。もっとも家族全員が信徒でないと難しいかもしれませんが。家庭が教会の基礎となる共同体であるという考えからすれば、家庭ミサをお願いするとか、家を祝福してもらうとか、かなり大事なことであるように思います。

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柏崎教会堅信式

Kashiwazaki0701 主の公現の主日である本日は、新潟の柏崎教会で堅信式を行いました。堅信は十六人の方が受けられ、さらに二人の方の初聖体も行われました。(写真、祭壇の後ろに並んだのが受堅者。祭壇の前が初聖体の二人です)。全国的に荒れた天気の日曜でしたが柏崎でも雪にはならないものの大風が吹くとんでもない天気でしたが、柏崎教会の聖堂は信徒の方々で一杯でした。中でも本日はフィリッピン人の方々も多く参加され、第二朗読は英語で、また主の祈りはタガログで歌われました。また幼稚園の先生方による聖歌隊も美しかったです。堅信を受けられた方々、初聖体を受けたお二人、本当におめでとうございました。降誕節のお祝いはこれで終わりです。クリスマスの飾りはそろそろ片付ける時期となりました。来週の日曜は「年間第二主日」です。

Kashiwazaki0702 まったくもって風の強い日でした。夕方の今の時点でも新潟では大風が吹いています。帰りの高速道路も、さすがに皆さんゆっくりと安全運転でした。右に左にと揺さぶられると、やはり怖いですよね。そういえばゆっくり走りながらよく観察したせいか気がつきましたが、近頃北陸道にはコンピュータのモニターくらいの大きさの液晶表示板が設置されるようになりました。「注意」とか言う文字が黄色に光って現れる表示板です。「注意」という文字が現れた後に、何か他の情報が横に流れながら表示されるんですね。でもどうみても、全文が表示される前に、車はその横を通過してしまいます。何気なく見ているつもりでも、流れて表示される文章は、続きが何か気になるものです。思わず流れる文章を見つめてしまいませんか?あれは脇見運転を誘発しないですかしら?もっと大きな表示板なら一度に読める程度の情報なのでしょうが、小さい画面に大きな字でゆっくり流れているので、どうしても見てしまうのじゃないかなと、老婆心の如く心配になりました。

さて昨日は悪天候の中、秋田空港で大韓航空機が滑走路ではなくて誘導路に着陸するなんて出来事もありました。あの幅の狭い誘導路に有視界飛行でしっかり着陸できてしまうなんて、パイロットの腕はさすがでした。しかし珍しいなんて感心してられないですね、実際は。誘導路の上に他の飛行機でも居たら大惨事でした。誘導路への着陸なんて、確か昔、名古屋空港(小牧)で、南側(海側)からの侵入で、滑走路右に斜めに自衛隊基地に向かって走る誘導路に管制官が「機転」で降ろしたことがあったという話を聞いたことがあるような気がします。確か滑走路上で他機が立ち往生したところに燃料切れ間近の戦闘機が降りてきたとか言う話ではなかったでしょうか。うろ覚えです。何かの本に書いてあった気がします。

今夜から明日にかけて、日本海側はまだまだ荒れた天気になるようです。皆様どうぞ、お出かけの際にはお気をつけ下さい。

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2007年1月 1日 (月)

おめでとうございます

新潟教区の皆様 新年あけましておめでとうございます。

2007年が皆様にとって、またすべての人にとって、神からの祝福に満たされたすばらしい一年となりますように。

新潟市はすばらしい快晴の元旦となりました。この時期にこれだけ暖かく、また日が照るのは、珍しいことのようです。私の部屋はちょうどカテドラルに面した窓から朝の日差しが射し込むのですが、今日は特に切れ味さわやかな(?)新春の朝日をこの身に受けることが出来ました。身が引き締まります。この美しい元旦のように、穏やかでかつ引き締まった一年となることを心から願っています。

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