確固たる柱
いわゆる「ホワイトカラー・エグゼンプション」とかいうすさまじい名称の制度を含んだ法案の提出が、見送りになりそうだという報道を目にしました。その理由も、なにやら「国民の理解を得られていない」からだとか。私は専門家ではないのでその法案の内容を論じたいのではありませんが、ただ気にかかるのは、政治家の方々は、どうやって国民の理解を得られたのか、はたまた得られていないのかを知るのだろうかという点であります。まさか世論調査の結果に基づいていちいち判断しているわけではあるまいし、そしてもし仮にそうであるならば、お蔵入りすべき法案は過去にいくつもあったでありましょうし。もちろん今夏の選挙対策であろうという憶測もあり、概ねそれが正しいのでしょうが、でも政治家はどこからどういう風に意見を言われると考えを変えたり思いとどまったりするのか、その仕組みが知りたいものだと思ったのでした。宗教の世界には、例えば福音のような確固たる柱があって、その領域における価値判断は当然その柱によってのみ行われるべきものです。それならば、政治の世界の確固たる柱、判断の規範は何なのかしらとおもったのでした。政治の世界とは、本当に不可解です。
教区司祭の新年のお祝いで新発田市方面へ出かけましたが、そのさいに寄った公園に、「反省の石」というものがありました。(写真)「明日はよいことがあるように」とこの手のところに手を当てて反省しなさいと言うことでありましたが、これがかなり離れていて両手がなかなか届かない。そう簡単に、明日の良いことは手に入らないぞと言うことなのかもしれません。教会の伝統には、寝る前の祈り(かつての終課、コンプレトーリウム)をする際に、良心の糾明があります。あれをしたかこれをしたかと「罪のリスト」をあら探しすることではなく、一日をふり返り、自らの生きる姿勢の方向性を見極めてみる一時であると思います。師かっりと「確固たる柱」に寄りかかりながら、良い方向を向いていきたいと思います。
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