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2007年5月30日 (水)

本音が見えない怖さ

珍しく国会では党首討論があるというので、中継を見ておりました。そのあと、インターネットで中継をしているので、衆議院厚生労働委員会を音声だけ流しながら他の仕事をしていました。別段討論の内容に興味があったわけではなく、この度もまた強行採決があると言われていましたから、その模様を実際に一部始終見てみたいものだと思ったからです。途中で夕食におり、戻ってくると、まさしくその強行採決の瞬間でありました。いやはや、すごいですねえ。どうしてあれが裁決になるのかよく分かりませんが、まあ最初からどういう結果になるかは分かっているのだから、結局は儀式にしか過ぎないのでしょうけれど、与党も野党もすさまじい。与党側で最初から結論が決まっているのなら、野党に発言をさせるのは形式に過ぎず、そんなことを相手にさせるなどということ自体が、人としてものすごい「すさまじい」と感じるのは、政治の素人だからでしょうか。もっとも無理だと分かっていながら、テレビに映ることを意識した野党の力づく阻止もすでにシナリオが決まったショーのようで、それはそれで「すさまじい」。

それにしても、たった一日で新しい法律案が委員会を通過して翌日には本会議を通過(たぶん)するというできごとが、(仮にその内容がどんなに良いものであったとしても)いま目の前で起こっているということを、何も不思議に感じないのであればそのこと自体が、私には恐ろしくあります。だって、ということは、実は、与党が通過させようと本気で思えば、どのような法律であっても、やろうと思えば一日二日で片をつけることが可能だということではないですか。これはすさまじい。

加えて、いやしくも社会保険庁という国家の機関が問題を起こしたのに、国家の責任者たちが、まるで人ごとのように、だから社会保険庁を解体するのだといってしまうことも奇妙に感じます。普通だったら、厚生労働大臣は、例えば不祥事に対して追求されて弁解する立場であって、まるで自分たちが被害者であるかのように、だからあの役所を解体しなくてはならないのだ、そうやって皆さんを救済するのだ、などと言ってる場合ではないような感じがするのです。しかも、素人目には、役所解体はそれだけで大変な作業となるでしょうから、いまはまず支払い漏れなどの諸問題を解決して、それから考えても遅くはないと思うのですが、どうしてこれを急ぐのかよく理解できていません。

この件では与党も野党もどっちもどっちで、ことさらにどちらかに引かれるということではないのですが、議論の裏に隠されている両者の本音が読めない分、なにやら空恐ろしくもあります。でもそれよりも何よりも、現在の与党は、やろうと思えば法律を数日で成立させちゃうことが可能だということの方が、空恐ろしくもあります。

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2007年5月29日 (火)

教区顧問会でした

Senami0701 昨日の午後から今日のお昼にかけて、新潟県内某所で、教区の顧問会を開催しました。通常は、新潟の司教館で週日の午後に2時間ほどで行う顧問会ですが、年に二回、各地へ出かけて一泊の会議を行うことにしています。そしてその場所も、出来るだけ教区内各県を、まんべんなく回れるように心がけ、機会があればその地域の小教区でミサも捧げるようにしています。

Bruno03 今回は、3月に右足を怪我され、しばしスローダウンを余儀なくされていた長岡のブルーノ神父が元気に復帰してきた顧問会でした。新潟からは、ブルーノ神父の新車(素敵なオレンジ色のワゴン車)に5名で便乗して、会場へ向かいました。会場は、写真のような日本海に沈む素敵な夕日が真正面に見えるところにありました。勿論、まじめに会議をいたしました。教区の顧問団は、総代理の川崎師、事務局長の大瀧師、秋田から飯野師、山形から本間師、新潟から鎌田師、高藪師、そしてブルーノ師にお願いしています。今回は特に、先に開催された教区宣教司牧評議会の討議結果を受けて、今後の方向性について意見を交わしました。(鎌田師はお休みでした)

私が長らく身を置いてきた修道会は、基本的に各レベルでの上長とその顧問による合議制で物事は決定されて行きます。ですから、管区長といえども、単独で判断することが許される範囲は非常に限定されています。また修道誓願を具体的に生きるという意味合いから、修道者には上長の許可を求めなければならない事項が数多く定められており、さらにその手続きについても細かな決まり事が山ほど存在します。ですから修道会の各レベルの顧問会議は、毎回山のような議題に取り組まなくてはなりません。(各レベルとは、管区顧問会、地区顧問会、修道院顧問会など、上長が任命されているところには必ず顧問会が存在します)

しかし教区の顧問会は、教会法を見る限り修道会の顧問会ほど細かい定めはなく、文字通り司教の顧問として、アドバイスをしたり、それからたぶん司教の暴走を防いだりする役割があるのだろうと理解しています。ですから会議の内容も、特段議論すべき懸案事項が無い場合でも、教区の全体的な方針についての意見交換という大切な役割があると、近頃特に実感しています。顧問団や司祭評議会や、宣教司牧評議会など、様々な教区の会議体の皆さんの助けを頂きながら、これからも教区運営にあたりたいと思います。

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2007年5月28日 (月)

ナビの神秘

Yokote0705274 週末は横手教会の公式訪問でしたが(下の記事)、新潟から横手へ出かけるというのが、なかなか楽ではありません。まず電車となると、いったん秋田まで行って、そこから奥羽本線を新庄方面へ戻るというのが手っ取り早いかもしれません。自動車ですと、前回は国道7号線をひたすら由利本荘(以前の本荘)まで走り、そこから東に向かって横手へ。そして前回の帰りは、横手から高速に乗って岩手県の北上に出て、東北高速を福島の郡山までおり、そこから磐越道で新潟へ。これが国道七号を使ってくるのとあまり所要時間が変わらない、ほぼ6時間。いずれにしろ6時間のドライブは覚悟しなくてはなりません(休憩込み)。

そしてこの週末。ナビに身を任せました。車に最初からついている、トヨタ純正ナビゲーションシステムであります。推奨ルートはやはり高速利用の大回りでしたが、さすがにお隣の教区を迂回していく気にはなれなかったので、「一般道優先」にいたしました。すると、国道7号で鶴岡まで行って(もちろん聖籠あたりから瀬波あたりまで、7号を離れて海岸を迂回)、そこから最上川方面へ抜け国道47号を新庄方面へ。なるほど、新庄を経由すれば、そのまままっすぐ北上して横手であります。

Yokote0705273 行きの土曜日は最上川も美しく、それなりに楽しいドライブでしたが、なんといっても黄砂の影響で、私の黒い車は真っ白となりました。さておき、鶴岡市内を抜けて最上川方面へ抜けるときと、さらに新庄へ向かう途中の、都合2回、ナビが私をして不思議な道へと誘う(いざなう)のでありました。鶴岡ではどう見ても主要道と思われるところを走っており、さらにまっすぐ行けばよいことが案内板から分かるのに、なぜが左へ折れろと言う。素直に入っていくと、どう見ても普通の住宅地。右に左に曲がれ曲がれの連続。速度制限は30キロまでのどう見ても生活道路。なんじゃらほい。

最上川沿いを新庄へ向かっているときも、山奥の細道へと私を誘う。いわゆる旧道なのでしょうか。つまり細くてセンターラインすら引かれていないような道の連続。カーブ・カーブ。親切なナビは二時間以上連続して走っていると、「お疲れ様でした」と休憩を促すのですが、どう見てもコンビニもない山奥で、すれ違いもやっとの道では止まって休むわけにも行かない。

興味深かったのは帰りの鶴岡市内抜けでした。前を走っていたトラックはそのまま主要道とおぼしき道を直進。私はナビの言うがままに細い道へ、「きっと近道なのだろう」と信じながら。そして数キロしてもとの主要道に合流してみますと、見よ、我が眼前に鎮座するは、先ほどまで私の前を走っていた同じトラックではないか。なんじゃらほい。きっとナビの使い方を、私が理解していないだけかもしれない、などと思ったドライブでした。

写真は、横手教会聖堂に溢れんばかりに集まった皆さんと、侍者の二人と香部屋で。

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2007年5月27日 (日)

横手で聖霊降臨

Yokote0705272 皆様、聖霊降臨の主日、おめでとうございます。今年の聖霊降臨は、秋田県の横手教会でした。神言会のマルティン・オマーン神父(インドネシア出身)が主任司祭を務めておられます。秋田県は、秋田教会と土崎教会以外は、かなり規模の小さな小教区共同体なのですが、横手もやはり同様に、信徒数の少ない小さな共同体です。以前訪れたときには、ミサに集まったのは20人程度だったでしょうか。教会に隣接して保育園がありますが、どちらかといえば地域では、教会よりも保育園の方が名が通っているのではないでしょうか。

そんなわけで、一体どれほどの人が集まるのかと不安に思いながらでかけたのですが、皆さん、本日の横手教会は、なんと聖堂に入りきれないほどの人が集まったのであります。ざっと数えただけでも70人です。聖堂には入りきれなくて、玄関にまで人が溢れている。すごい。

それというのも、マルティン神父が、横手でも英語ミサを始めたのですが、そこに集まってくる主にフィリピン人信徒に声をかけて、聖霊降臨の司教ミサに大集合となったのです。農家に花嫁さんとして入ったフィリピン人のお母さんたちが、今日は子どもたちを連れて、中には旦那さんも連れて来た人もいましたが、ミサに参加してくれました。ミサの朗読にも一部英語を交え、私の説教も英語と日本語の二本立てにしました。まさしく、聖霊降臨のあの日のできごとのように、異なる言葉で話す人たちが、異なる文化から集まった人たちが、異なる考え方や行動様式を持つ人たちが、まったく同じ目的、つまり同じ神を礼拝するために一つに集まると言うことには、深い意味があると感じました。

Yokote0705271_1 確かに文化が違えば考え方も違い、価値観も異なっていますから、簡単には一つになって仲良くとは行かないのが現実でしょう。考え方が違うので行き違いもあるでしょう。でも同じ地域に住んで、同じ信仰を持っているものなのですから、同じ神に向かって一緒に礼拝をすることは、大切なことであるし、そうできるように互いに努力を続けなくてはと思います。幸い、横手教会の共同体の方々もだんだんと理解を深めておられるようですし、またフィリピン人のグループにも、すでに地域で長年にわたって生活している両者をよく理解したリーダーもおられるので、これから徐々に両者で一つの共同体を作り上げていっていただきたいと思います。ただ単なる表面的な「同一性」を求める一致でなく、それぞれの特性を生かしながら、信仰において一致していただきたいと思います。

ミサ後に記念撮影をしたとき、両者の国民性の違いが露わになって、おもしろかったですよ。日本人はリーダーに声をかけられて一斉に行動するのは得意ですが、フィリピンの方々は、そういうまとまり方ではなく、それぞれが自分の好きなことをどんどんやってしまって、何となくまとまる。大騒ぎの記念撮影でした。

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2007年5月25日 (金)

聖体奉仕会へ巡礼

Junrei0701 今年もまた快晴に恵まれた中、水曜日から木曜日にかけて、秋田の聖体奉仕会への巡礼に出かけました。毎月一回新潟教会で集まり、ミサに与りロザリオを唱える「月曜会」のメンバーを中心に、25名ほどの参加がありました。昨年も同じ時期に出かけましたが、昨年同様、これ以上はないほどの晴天で、楽しく二日間の旅をすることができました。

水曜日は朝8時半の「いなほ」に乗って、三時間半の旅です。昨年は出かける前に、駅まで送ってくれたフェルディ師の車に、前の車が突然バックで追突するという考えられない事故があったことも忘れられず、今年は素直にタクシーをお願いして、無事に駅まで到着。晴れた日の羽越線の旅は、日本海沿いに走るものですから、景色も良く、それだけでもいやされます。秋田到着がお昼過ぎですから、とりあえず到着前に車内で駅弁を頂き、これまたおいしい。「鮭の焼きつけ弁当」と言いましたか、新潟県の村上あたりで有名な鮭を焼くのか薫製にするのか、なにやらよくわかりませんが、おいしく調理したものを中心にした、このあたりの名物駅弁であります。秋田駅でタクシーに分乗して一路聖体奉仕会へ。タクシーの運転手氏は、「聖体奉仕会」といったとたんに何もそれ以上聞くことなく車を出発させましたから、やはり普段から訪れる人が多いのでしょう。

Junrei0703 聖体奉仕会へ到着後、聖堂で聖体礼拝とロザリオを唱え、その後、参加者の自己紹介。そして夕方には聖体奉仕会の会員と共に、ミサを捧げました。ミサにはちょうどお祈りに訪れていた海外からのお客様も参加されたり、秋田市内からも数名の信徒の方が、司教が来ていると聞きつけてミサに参加してくださいました。

聖体奉仕会の修道院は、通常、週末だけの宿泊を受け付けていますが、この「月曜会」の巡礼だけは、その聖体奉仕会の上長ともいうべき司教の主催と言うことで、無理を言って平日に行っています。聖体奉仕会の会員もだんだんと高齢化していますし、人数が増えているわけでもないので、あまりに多くの巡礼者や黙想者の宿泊が重なると、少ない限られた人数ではどうしても食事の準備などをさばききれなくなってしまいます。そのため宿泊での巡礼や黙想会は週末だけに限定しているのです。もちろん宿泊をせずに訪れて祈ることは、平日でも可能です。是非一度どうぞ。

二日目は、新潟へ帰る「いなほ」の時間のこともありますから、朝食後9時過ぎから十字架の道行き(野外で雄大に)、その後、しばしの散策を経て、12時半頃の「いなほ」に乗るために参加者は秋田駅へ移動です。私は、本日、つまり金曜日に東京で会議があるために、そのまま夕方まで聖体奉仕会に残り、夕方の飛行機で東京へ。

Junrei0704 聖体奉仕会を訪れる方は、国内だけではなく海外からも数多くおられますが、言うまでもなく30年ほど前に起こったマリア像の落涙にまつわる神秘的な出来事に触れるためにこられるのだろうと思います。そのマリア像は現在も聖堂の左回廊に安置してあり、多くの方がその前で祈りを捧げています。奇跡や奇跡的出来事、または神秘的な出来事などは、それ自体が「神聖」であるということではなく、それを通じて神の神聖さと偉大さが表されたという「事実」が大切であると私は思います。そしてそのことは、神からの一方的な働きかけであって、人間の側の都合とは何も関係がないというところにも重要性があるのだと思います。すなわち、そこに介在する人間やものは、あくまでも神によって使われた手段であって、それを目の当たりにして祈る時に、それ自体を神聖とあがめる間違いを犯してはなりません。常に視線は、その出来事やものの先におられる偉大なる神に向けられていなくては意味がありません。神は「時と場所」を、ご自分が望むままに準備されます。そしてそれは、私たちの都合とは何も関係がないのです。

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2007年5月22日 (火)

記憶の片隅に

昔どこかで聴いたことがあって、何となくフレーズは憶えているけれど、何というタイトルで全体がどういう曲かは分からないけれど、がぁ、しかし、どうにも気になってたまらない歌ってありませんか。私にはそういう歌がひとつあったのです。しかも30年以上耳と記憶に残っていた歌が。

時は1975年。秋。名古屋の南山高校の文化祭で、私が当時所属していた音楽部(今では立派なブラスバンドになっていますが、当時は数名でジャズをしていました)は体育館の入り口横にある教室で、コンサートを催しました。私は当時、まだドラムを叩いてました。どういう理由であったかは定かではないのですが、ジャズの演奏の合間に、同級生が女子部の生徒とデュエットで、これまた何故かフォークを弾き語りでやったのであります。私は、はっきり言って、当時、フォークにはまったく興味がなかった。いまでこそジャズは相当に若者の間でも市民権を得ているメジャーな音楽ですが、どう見ても当時は「オジサンの音楽」でしかなかった。忘れもしない中学三年生の時、モダンジャズのレコードを買いに行ったら、店員さんに、「お父さんに頼まれたの?」なんて言われたものです。でもジャズの出自を思えば、そのマイナーなところがまさしく本領であって、マイナーだからこそ、生まれた音楽だったのですから、今のようにメジャーになるのもなんだかなと思ってしまうのです。ビ・バップの頃、後の帝王マイルスだって、警官に殴られながらクラブで吹きまくっていたのです。「負けるものか」という熱い思いが、ジャズを生んだのです。わたしはそういう、負けるものかという気概に溢れた時代のジャズが好きでたまらなかったのです。ですから、フォークにはあまり興味がなかった。

でもその日、耳にしたフォークのある曲が、そのまま記憶の片隅に引っかかるようにして残っていたのです。とてつもない名曲というわけではないが、ひびきが耳と心に残ってどうしようもない。忘れることが出来ない曲です。

「遊園地、ローラースケート。二人で乗るはずだったのに」で始まる歌であります。その切ない歌詞。切ないメロディー。切なさがびしびしと心に響いてくる歌でした。といいながら、それ以降、気にはなっていたもののとくに調べたりはしなかったのです。そして32年が過ぎました。

先日たまたま、全然関係ない検索で、この歌にたどり着いたときにはびっくりでした。NSPというグループの「ぼくの夏休み」でした。しかもNSPを調べてもっとびっくり。メンバーは天野滋さん(故人)で一関出身、中村貴之さんで宮古出身、平賀和人さんで花巻出身。岩手県の方々ではないですか。花巻の平賀さんなんて、仙台教区の平賀司教と親戚ではないでしょうね?30年も耳について離れなかったメロディーと詩が、同郷の方々のものだったと思うだけで、なにやらうれしくなったのでした。(実際の歌詞は、「二人で乗るはず」ではなくて「二人で行くはず」でした。いまは歌詞を検索できるサイトまであるのですね)

ただ、それだけの話です。

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ルワンダ問題の背景

Rwandaboy 先日、アルバムのところにルワンダ難民キャンプを加えたところ、多くの方々に閲覧いただきありがとうございます。ルワンダ問題は、「ホテル・ルワンダ」などの映画となったルワンダ虐殺問題と、その後に続いたルワンダ難民問題の二つに大きく分けて考える必要があります。勿論その前提となるルワンダの内戦問題や、さらには独立に伴う内紛、さらには植民地支配についても考えることはたくさんあります。掲載している写真は難民問題ですが、その後ルワンダ国内で遭遇した課題は、ホームページなどに掲載してありますし、もし興味がありましたら、拙著、「カリタスジャパンと世界」(サンパウロ刊、アマゾンなどでどうぞ)を読んでいただければと思います。いずれにしろ、94年に虐殺が発生してから13年が経ちましたが、その傷跡ははっきりとルワンダ社会に残されています。そしてその背景は、あまりにもどろどろしていて、考える度に背筋が凍るほど恐ろしくなるものです。

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2007年5月21日 (月)

山形地区信徒大会

Tsuruoka0705201_1  昨日、主の昇天の主日に、山形地区の信徒大会が鶴岡教会を会場に開催され、あいにくの雨模様のなか、150人を超える参加者がありました。山形地区は、山形教会、米沢教会、長井教会、新庄教会、酒田教会、鶴岡教会で構成されており、このうち酒田と長井は巡回、新庄は建物も存在しないため場所を借りての巡回となっています。また山形地区の司牧はイエズスマリアのみこころ会に委託されており、現在、四名の司祭が働いてくださっています。

山形地区としての信徒大会は2000年以来の7年ぶりの開催ということで、今回は私の司牧書簡の中からとられたという「神に与えられたいのち」をテーマに掲げ、準備が進められてきました。今回の信徒大会では午前中に、ノートルダム清心学園の理事長であるシスター渡辺和子を講師にお招きして、「時間の使い方は、命の使い方」と題して、講演を頂きました。そして皆で昼食をいただいたあと、午後から各教会からの報告と活動を始めたばかりの鶴岡ダルクの代表からの挨拶、そしてミサを捧げて終わりとなりました。準備してくださった鶴岡教会の皆様、地区長である本間神父様、ご苦労様でした。以下、プログラムに掲載された私の挨拶文を、ここに再掲しておきます。

山形地区信徒大会開催に向けて

 新潟教区の各地区ではこの時期に、若干の名称の違いはあるものの、恒例の行事として地区信徒の集いが開催されています。教会は、キリストの体を形づくるものとして一つの存在ですが、それはローマを中心とした一つの教会があって、その「支店」が各地域にあるというような意味合いではありません。各地域に、キリストの体のどこか一部分が、分かれて存在するなどということはあり得ないからです。キリストを信じる者の交わりがあるところには、それがどのような人数であっても、教会は同じように存在しているのです。ですから地区の大会は、普段は別々に活動している小教区の交流の場だけなのではなく、まさしくこうして集まることによって、山形地区という一つの教会共同体を目に見える形で具体化しているという意味があるのです。こうして集まる皆さんによって、ここにキリストの体が形づくられます。そして普遍教会は、この集まりの内にも存在しています。
 山形地区における宣教の歴史において、一つの輝かしい時代を作り上げたのは、かつて迫害の時代に米沢に存在したキリシタンの共同体です。またその信仰の先達の中からは、命を賭して信仰を守り抜いた殉教者も生まれました。私たちの教会は、その殉教者の信仰を受け継いで、現代社会の中で信仰を育んでいるのです。イエス・キリストご自身から始まって、多くの勇気ある人々の言葉と行いを通じて伝えられてきたこの信仰を、いま自分たちのものとして受け継ぎ、さらに次の世代に語り伝える努力をいたしましょう。列福の栄誉に与ることになっている米沢の53殉教者の模範に倣い、私たちもこの時代の中で信仰をより真摯に生き抜く道を模索し、またその信仰をより多くの人々に伝える努力を怠らないようにいたしましょう。
 普段は出会うことのない友人と出会う喜びは、信仰の喜びにつながっています。喜びのない信仰は生きた信仰ではありません。この地区大会での出会いの喜びを、信仰の喜びとして大切にして、またそれを分かち合うことが出来るように、主ご自身が私たちを強めてくださるように、願いましょう。(下の写真は、講演されるシスター渡辺和子と集まった信徒の方々)

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2007年5月17日 (木)

本の紹介

Img_0994_1 「現代、多くの人々が、とくに自分のアイデンティティに関する問いにおいて、確実性と不確実性の間を揺れ動いている」と指摘するのは、中央協議会から4月の末に発行された、「ニューエイジについてのキリスト教的考察」という本です。この本は、2003年に教皇庁の文化評議会と諸宗教対話評議会が出した報告書の翻訳です。「ニューエイジ(新しい時代)」とは、日本でいえばちょうど近頃大流行の「スピリチュアリティ」などと呼ばれる精神世界への関心の高まりの宗教・文化の側面での社会現象で、欧米を中心に80年代から盛んに見られるようになったのだといいます。同書によれば、「かつて社会の中心を占めていた要素が、今や信用できなくなったり、真の意味での権威を失いました。このことは、人々が自分の内面、すなわち自分自身の中に意味や力を求める傾向を造り出しました」と指摘しています。

先頃教皇様はブラジルを訪問されて、伝統的な教会から離れ、スピリチュアルな新興の教会に移っていく人が増えていることを指摘して、教会の信仰の土台を再確認することの大切さを説かれましたが、そういった傾向、すなわち伝統的な宗教よりもオカルト的な現象へ多くの人が興味を持つという点では、日本も同じような傾向のうちにあるといえるでしょう。また代替的な何かを求める傾向は、昔を懐かしんだり昔に戻ろうとする行きすぎた伝統主義をも生み出しているとの指摘もあります。確かに、そのようなことを主張するグループが、教会においても「境界線上」に位置しているのは知られたことです。そういった社会を目の前にして、同文書は、教会に二つのことを求めます。「自分たちの信仰の基盤にいっそう堅固に根ざすこと、そして、人々の心の中のしばしば声を発することのない叫び声を理解することです。」

現代社会の宗教的傾向を理解するために、是非一度、「ニューエイジについてのキリスト教的考察」をお読みになることを勧めます。(カトリック中央協議会発行、1,600円です)

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ヴィアンネ館改装

Renovation 新潟の司教館の裏には「ヴィアンネ館」と名付けられた二階建ての建物が建っています。昔、まだ異人池がこの地にあった頃の写真や絵にも「ヴィアンネ館」は双塔の聖堂と共に登場しますから、聖堂と同じく建築されてから80年は経っているのかもしれません。以前は伝道師の学校とか小神学校とかに利用されてきた歴史のある建物です。現在でも一階は会議室として、二階はその際の司祭の宿泊などに利用されております。また一階の一部は改装され、引退された三森神父様の居室ともなっています。

この数ヶ月、いろいろと検討してきたのですが、やはり今後のことを考えて、引退する司祭の居室を複数は用意しておく必要があると判断しました。予算の制約もあるので一度には改装が出来ないのですが、まず第一段階として新しい居室を3室と談話室と小聖堂を用意することにしました。工事が今週から始まり室内の陰の取り壊しなどが進んでいます。建物自体は頑丈ですから、内装を整備して今後も末永く利用していくつもりでおります。将来第二段階としては食堂と台所、風呂とトイレを改装する予定です。(写真は、壁の取り壊しが始まったヴィアンネ館内部)

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2007年5月16日 (水)

アルバムに追加

右側のサイドバーのところに、新しいフォトアルバムを一つ追加しました。上は前からある「ガーナ巡礼写真集」ですが、その下に、「ルワンダ難民キャンプ」というタイトルのアルバムが新設してあります。どうぞご覧下さい。

すでに私のホームページでも長年公開してきた写真も含まれていますが、カリタスジャパンがルワンダ難民問題に関わった初期の写真の一部です。94年4月のルワンダ虐殺事件はあまりにも有名ですが、その後7月に新政権が出来る頃には大規模な難民流出が始まり、タンザニアやザイール(コンゴ)を中心に200万を超える人たちが避難生活をしていました。カリタスジャパンはその中でもザイールはブカブ郊外のビラバというキャンプで働きました。詳しい話はホームページにあります。国際カリタスの指導の下、スペインのカリタスと共同する形で、クリニックなど様々なことを手掛けました。私自身も派遣の最後のグループとして、塩田神父、シスター道下、シスター柏瀬と4名で、95年3月末から5月末まで現地に駐在しました。その頃の写真の一部を掲載してあります。

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2007年5月15日 (火)

懐かしい写真が

Ghanamass2 先日66歳で心臓疾患のため突然亡くなられた神言会の吉田聖神父は、長年、海外宣教へ派遣された神言会の会員を支援したり、国内で宣教への意識を深めていただくような情報提供を主な職務とする、宣教事務局長の任にありました。私がガーナに派遣されているときも、こちらがリクエストするよりも前にあれこれと心配してくださり、募金を始められたりして、いろいろな形での支援をしていただきました。また当時、3ヶ月に一度の程度でガーナから日本へ送っていた「ガーナ便り」という通信は、吉田神父を通じて様々な人に届けていただいておりました。これはその後、当時まだ存在したカトリック移住協議会(解散)から、他の宣教者の手紙と共にまとめられて一冊の本になり、「こんにちは」のタイトルで出版されました。

亡くなった吉田神父の居室を整理していた会員から、私に関係するものが残されていたとの連絡を受け、新潟まで送っていただきました。当時ガーナから送っていた手紙や「ガーナ便り」の原稿が、吉田師一流の几帳面さで残されていました。また何枚かの写真パネルも含まれており、その中に、とても懐かしい一枚がありました。(冒頭の写真)私が担当していたオソンソン教会は20を超える巡回教会がありましたが、そのうちの一つでミサを捧げているところです。

中心教会のオソンソンと、隣村のセケスア、さらにちょっと離れたエヒアミンチリという三カ所の村には500を超える信徒がそれぞれ所属しており、しっかりとした聖堂が建っていました。それ以外の村ではそれぞれ100人程度の信徒だったと思います。聖堂が建っているところもあれば、この写真のように、仮の小屋がけの下でミサや礼拝を行うところも多くありました。大変だったのは雨期の間です。午前中早くに雨が降ることはあまりないものの、お昼近くから午後には必ず雨が降り出します。村の人たちは、朝まず畑に出かけてからミサにやってくるので、これが時間との闘いでした。もっとも、いらついていたのは私だけで、みんなのんびりとやって来る。ミサの途中で雨が降り出し、近くの民家の軒先にカリスなんかを抱えて避難して、そこでミサを続けたこともありました。ミサ後には必ず病人訪問がありましたが、何故か病人は聖堂からはるかに離れたところに住んでいることが多く、しかも車が入れない。歩きました。本当によく歩きました。おかげで、今とは比べものにならないくらい、引き締まった体でした。今にして思えば、まだ30歳前後でしたから、何とも思わずに毎日挑戦できたのだろうと思います。住んでいた司祭館には水道も電気もなかったのですから、夜もゆっくりするわけでもなく寝るしかない、という、何とも早寝早起きの毎日でした。

商社などの駐在員の方には、「ボランティアですか」と尋ねられたこともありました。確かにそういう風にしか見えなかったでしょうね。福音宣教の「使命」などということを、説明するのは難しかったですから。

Kolkata そういえば、そうやってボランティアをするために海外へ出かけていこうと考える人は増加しているようです。名古屋で私の知人が関わっている旅行代理店でも、今では普通の航空券手配などでは利益が出ないため、特色のある個人旅行の手配へ大きくシフトしているようですが、その中の一つに、海外でのボランティア体験旅行の手配があるというのです。早速そのホームページを見てみたら、なんとカルカッタ(コルカタ)のマザーテレサの修道会で、ボランティアに参加するという旅行まであるではないですか。こういう旅行形態も、これからは増えてくるのかもしれません。(ちょっと宣伝になってしまいました。写真はコルカタにあるマザーテレサの修道会、本部修道院聖堂の、マザーテレサが生前いつも座っていた場所におかれている像の前で。P.S. マザーテレサ修道院へのボランティア旅行手配があるので驚いたのは、この知人や旅行会社が、キリスト教とは何も関係のない方や会社だからです。)

海外へ出かけないまでも、未知の領域へ足を踏み入れる勇気はいつも忘れないで持っていたいと思います。イエスの福音を宣べ伝えることは、常に今の安定を捨てリスクを背負って未知の領域へと足を踏み入れることを伴っていると思うのです。

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2007年5月14日 (月)

歴史に残る日

たぶん、50年後くらいの歴史家は、2007年5月14日を、日本の歴史の一つの大きな転換点であると評価するのかもしれません。国民投票法が成立しました。すでにしばしば表明しているとおり、個人としては憲法を必要に応じて改正することに基本的には反対ではありません。ただ宗教者として現行憲法の9条の精神を変えることは望みませんし、信教の自由を守る20条を変更することも望みません。また憲法をまったく変えてしまい新しい憲法を作ろうなどと言うことは、現在の日本の政治体制の変革に他ならないのですから、賛成することは出来ません。

それにしても成立した国民投票を定めた法律にはよく理解できない点が数多あります。それを理解している人はそれでよいと信じておられるのでしょうからその是非を問うつもりはありませんが、しかし例えば最低投票率を定めなかったことに関しては、与党の方々の説明を何度聞いても、申し訳ないがその理由が理解できません。自民党の方々はご自分たちが常に政権を握っていることを前提にして考えておられるようですが、仮に他の政党が政権を握ったとしたらご自分の政党にとって今回法律で定めたことがどういう方向に働くかまでを考えられたのか不思議に思いました。どう見ても最低投票率を定めないのは発議するものに有利だとしか見えませんし、逆に有権者の意識が低ければ低いほど、実は反対派に有利に働くとしか思えません。加えて投票のボイコットを民意の反映としては否定するのもどうなのかと思います。どうしても他に選択肢がない場合、広くボイコットを呼びかけることは通常の意思表明手段であるのではないかと思います。

加えて、特に教育者の影響を、教育基本法の時もそうでしたが、過大に評価しすぎではないでしょうか。そんなに学校教育は思想形成に意味を持っているのでしょうか。仮にそうであれば、同じ教師に学んでいても、まったく正反対の思想を形成することがあるのはどうしてでしょう。同じ学校を出たものが、まったく同じ思想になるなどと考えられません。個々人の思想形成は、実は家庭環境に負うところが大きいのではないかと私は思っています。同一学校の卒業生の思想傾向と、同じ家族の兄弟姉妹の思想傾向を比較してみる事も考えてみてはどうでしょうか。同じ意味で、道徳を学校で教えることが出来るなんて幻想に過ぎないのではないですか。そもそも私たち自身が子どもの頃、学校の道徳や倫理の時間をどのように過ごしてきたでしょう。これが思想形成に意味があるとは思えません。国会議員の方々は子どもの頃、そんなに学校教育に影響を受けて思想を形成してきたのでしょうか。そんな柔な精神の方々ばかりがいる国会とは、ちょっと恐ろしくなります。

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教区司祭の静修

本日夕方から明日の昼にかけて、毎月恒例の教区司祭の集まりである「静修」が、司教館で行われます。今月の集まりは、テーマに基づく話し合いの番です。先月は復活のお祝い、来月が教区で働く全ての司祭(教区司祭と修道会司祭)が一堂に会する司祭大会ですので、教区司祭だけでの話し合いの場はないのですから、今月は貴重な機会となります。前回までは教区司祭の給与制についてが主な議題でしたが、これについてはこの4月から制度自体の改定が行われました。カトリック教会では、それぞれの小教区共同体が司祭を雇用するという形態はとっていませんから、司祭の給与は全体を統括する教区が支払わなければなりません。しかしこれまでの歴史的経緯もあり、修道会に委託されている地域では、その修道会の手法に任されているのが現実です。新潟教区はそれほど規模の大きくない組織ですから、できれば、教区司祭と修道会司祭をあわせた30人強の司祭を、同じく30程度の小教区共同体全体でそれぞれの経済力に応じた応分の負担を持って、全体で支えるというのが目指す理想です。その手始めとして、教区司祭が担当する新潟・新発田地区で、新しい方法を始めてみました。すでにこの地区の小教区の会計担当者には説明がなされましたが、今後は経済問題諮問委員会の方々などによって、これを将来的には教区全体でどう取り入れていくのかの検討が継続されることになっています。

さてそれで今晩の司祭の集まりですが、給与問題にめどがついたので、今回は、先の宣教司牧評議会に諮問された事項について意見を交換していただきたいと思っています。宣教司牧評議会については教区報などで詳細に報じられると思いますが、とりあえず評議会に諮問した事項は以下の点です。

  1. 新潟教区の福音宣教における最優先課題は何か。
  2. その課題に取り組むために、教区として具体的にどのような取り組みを、誰がするべきか。
  3. 新潟教区が、その地理的条件を乗り越えて、この地域における部分教会として、一つの共同体であることを一人ひとりが実感するために、どういう取り組みが必要か。そのために、教区の様々な分野における組織体制などを、どのように整えていくべきか。
  4. 新潟教区における司祭・修道者の召命を少しでも増やすために、これからどのような取り組みが考えられるのか。
  5. 教区の財政的自立をどう達成するか(経済問題諮問委員会の答申を基盤として)。
  6. 信徒の継続養成に、教区として今後どのように取り組むべきか。

そのなかでも、特に最優先の検討課題は1から3です。漠然とした課題ですが、私としては教区のあらゆるレベルでこの課題についての話し合いがもたれることを期待しています。宣教司牧評議会の各地区の代表の方がこれから地区での話し合いを進めていくと思いますが、様々な機会に、様々なレベルで、アイディアを出すために話し合いを持っていただければ幸いです。

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新発田地区信徒大会開催

Kamo070504 第22回となる新発田地区信徒大会が、昨日5月13日、加茂教会を会場に開催されました。新潟県の新発田地区には、新発田教会、新津教会、村松教会、三条教会、栃尾教会、見附教会、加茂教会、村上教会が含まれます。なお村上教会は建物が存在せず、新発田教会からの巡回として、月に一回、信徒家庭でミサが捧げられています。また先般の市町村合併により、新津教会は新潟市に、栃尾教会は長岡市に含まれることになりましたが、地区は変更せずこれまで通り、新発田地区の教会とすることにしております。この地区では地区長の佐藤允広師(三条・栃尾)、鎌田師(新津、村松)、佐藤勤師(加茂、新潟の白根)、石黒師(新発田、村上)、真壁師(見附)、高橋師(見附助任)と6名の教区司祭が司牧にあたっています。(写真は加茂教会聖堂に集まった参加者)

Kamo070501 さて今回の信徒大会は、「神の恵みの体験を語って、聴いて、実現して、喜ぶ」をテーマに、各教会からの参加者67名が集まりました。教会共同体が福音宣教をする共同体になるためにどうしたらよいのかを考えるために、まず昨年タイのチェンマイで開催されたアジア宣教大会の成果のわかちあいが行われました。私自身もミサの説教で触れましたが、それに加えて、同大会に信徒の代表として参加された寺尾教会の福島祥紘(まさひろ)氏が講演してくださいました。福島氏は非常に客観的な視点から常に鋭い指摘をしてくださる方ですが、今回も、ご自分の人生における体験をわかちあいながら、教会が現実社会にどう対応していくべきなのかについて、準備された豊富な資料と共に、豊かな指摘をしてくださいました。確かに世界的に見ても教会は守りの姿勢に入ってしまっている嫌いがあります。今あるものを衰退から守ろうとするとき、どうしても考えは内向きになって、結局はそれが負の方向への連鎖へと引きずり込んでしまいます。いわゆるメインストリームの宗教が現実への的確な回答を持ち合わせていないために、心の不安を抱える人は現実逃避的な回答を与える宗教現象へと足を向けてしまいます。それを見て、教会がそれと同じ事をしていても始まらない。やはり現実をしっかりと見据えて、本質的無い回答を提示していかなければ、今に生きる神のみことばをいただく私たちとしては、怠りの罪に問われても仕方がないかもしれません。新潟教区の諸現実の中でどう対応していくのか。宣教司牧評議会の発足を機会に、様々なレベルで、話し合いの機会を持っていただきたいと思います。(写真は講演する福島氏)

Kamo070505 その話し合いの一つの形が「わかちあい」であります。「わかちあい」にはいろいろな意見がありますし、私自身も神学生の頃はあまり好きではなかったのも事実です。しかし、この数年の体験を通じて、やはりそこには何かの力があると感じるようにもなりました。「わかちあい」が全てではありませんが、しかし話し合いを深めていくための強力な一つの手段でもあります。その「わかちあい」が、今回の信徒大会でも、2時間の時間をとって行われました。自らの信仰体験を語ったり、他の方の信仰体験に耳を傾けることを通じて、信仰の多様性と現実の多様性を知り、そこから何かのヒントを得ていただければと思います。(写真はわかちあいのグループの一つ)

今回の地区信徒大会を準備してくださった方々、特に加茂教会の皆様には感謝申し上げます。ご苦労様でした。(下の写真は会場となった加茂教会)

Kamo070503

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2007年5月11日 (金)

東京で

東京カトリック大神学院は練馬にあります。西武新宿線に乗って、上石神井か隣の武蔵関の駅で降り徒歩5分。潮見からの移動となると、京葉線で東京まで出て、中央線で新宿へ(新津車両製作所製の新型に乗って)、さらに山手線で高田馬場へ。そこで西武新宿線に乗り換えです。東京では近頃、JRも私鉄も地下鉄も、一枚のカードで相互に乗ることができるようになりましたから、昨日もスイカ一枚でとても便利であります。

ところで、その西武の車内。適度に込んでいましたが、ドアの近くに立っている私のすぐ目の前に女子中学生が二人。この二人がすさまじくプライベートな話を、すぐ目の前にどこかの訳のわからない格好をした(つまりローマンカラー)おじさんが立っているのに、平気でするのですね。こちらが恥ずかしくなって、徐々に体を回転させて横を向きましたが、これまた大きな声のお二人で、まるで彼女たちは自分の周りにはバリアーが張り巡らされていると勘違いしているのか、はたまた興味がない人間は存在していないと見なすのかわかりませんが、強制的にお話を聞かされたのでありました。

それで、お二人の本日の話題は「コクル」事でありました。「コクッタ」カ「コクラレタカ」だそうです。ご存じのように異性に対して思いを「告白」することであります。言葉はさすがに生き物です。進化し続けているのです。今に若い人のお話は、だんだん理解不可能になるのかもしれません。そのうち若い信者さんが司祭に近づいてきて、「神父さん、コクッテいいですか」なんて言って、ゆるしの秘跡に来たりして。マ・サ・カ。

それで、お二人は盛んに男子生徒の名前を持ちだしては、「ムリムリムリ」を連発いたします。どうも「ムリ」は私たちが普通に使う「無理」とは違っているようであります。しかも三連発であります。アフリカの現地の言語の一部には、「トゥ・トゥー・トゥ」とか「ペ・ペー・ペ」とか、同じ音を三回続けて、強調していることを表現する用法が広く見られますが、それに日本語も近づいてきたのかもしれません。コンテキストから判断するに、「ムリ」は「範疇にはいっていない」とか「対象となっていない」とか言う意味のようであります。先日どこかで、大学の先生が大学生を相手に、日本語の辞書の解説の言葉を、さらに解説しなければならないほど、若い世代の話し言葉は書き言葉から乖離しているという話がありました。信仰を伝える言葉も、私たちはわかっていても、もしかしたら若い世代にはちんぷんかんぷんなのか、または意味が全く違って理解されているのではないかと、思わず心配になりました。何とも興味深い、西武新宿線でありました。

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2007年5月 9日 (水)

連休も明けて

連休も明けて日本中がすでにフル稼働へと再突入しております。教会の活動も同じように、夏に向けて馬力が上がる季節でもあります。司教による小教区訪問も夏にかけて、いくつか予定されています。今年は主に、秋田と山形地区を訪問する予定でおります。現時点での、夏までの訪問などの予定は以下の通りです。

  • 5月13日 新発田地区信徒大会(加茂教会)
  • 5月20日 山形地区信徒大会(鶴岡教会)
  • 5月27日 聖霊降臨 横手教会
  • 6月24日 秋田教会
  • 7月8日  能代教会
  • 7月15日 本荘教会
  • 7月29日 酒田教会

なお6月10日は長岡地区信徒大会が柏崎で行われる予定ですが、その直前にローマで会議があり、帰国便の関係で、今年は出席が出来ません。申し訳ないです。合間合間に会議などが連続します。今日も夜6時から潮見でHIV/AIDSデスク会議。明日は午後から同じく潮見でカリタスジャパン委員会。そのまま金曜のお昼まで東京大神学院の会議。さらに午後にはカリタスの別の会議。そして土曜日午後は、以前から依頼を受けていた、神言修道会来日100周年記念行事の一つである聖書講座のお話のため名古屋です。

連休も明けてお隣の工事も再開です。昨日はその工事にあたるミサワホームさんから担当の方が来られ、司教館のそこここを写真にとって行かれました。地盤が緩く、ミキサー車がミキサーを回転させただけで、司教館二階の私の部屋は小刻みに揺れるほどですから、築80年の木造司教館に何かが起こったとき、そのときのために今の状態や今あるひび割れの状態などを、事前に撮影しておくのですね。その撮影には、今や主流のデジタルカメラではなく、普通のフィルム・カメラを使っておられる。何でもデジタルでは、画像を割と簡単に修正できてしまうこともあり、いざというときに信憑性が疑われる可能性もある。従ってフィルム・カメラなのだそうです。なるほど。たしかに素人でもフォトショップなんかで、簡単に写真の合成や手直しができる時代ですし、素人の私でさえも、カステルガンドルフォで教皇様と並んだ写真が出来ちゃうくらいですから。(勿論この下の写真は合成です)

Popeto

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2007年5月 6日 (日)

日曜の午前中のテレビ

今日の日曜日、どこへも出かける予定はなかったので、一人部屋におりました。お昼前にたまたまテレビをつけると、田原総一朗氏の司会する番組で中曽根氏が憲法について語っていました。全体を聞いたわけでもないのですが、ちょっとびっくりするようなことを中曽根氏が仰る。解釈改憲は限界どころか間違っているという論旨で、田原氏に乗せられるかのように中曽根氏は現状では様々なことが違憲だと言い切るのです。そして一番最初に挙げた例が私学助成。憲法解釈でこれまで乗り切ってきたことが、実は違憲であると断言するのに持ち出すいの一番の例が、私学助成であることに驚きましたが、それじゃあ戦後これまでの国のあり方の否定になってしまうではないですか。ここまでは大丈夫、憲法から逸脱してないからといって解釈の幅を広げに広げてきたのは、「ちょっと無理がある」というならまだしも「違憲」といいきってしまっては身も蓋もない。

私学助成が全てではもちろんない議論でしょうが、この件だけに関してもすでに1979年3月13日の参議院予算委員会で、当時の真田秀夫内閣法制局長官が、「公の支配に属する」とはどういう意味であるのかの解釈から、当然私学教育は政府の監督下におかれて公教育の一翼を担うのですからそれに対する助成は問題がないと答弁していることが知られています。「私はもういまや現行の法体制のもとにおいては私学に対して国が助成をすることは憲法上も是認されるのだという解釈がこれはもう肯定的に是認され、かつ確立したというふうに考える」と法制局長が断言し、それ以降も定着してきた問題であったと思います。

数日前にも書きましたが、私自身のアフリカでの生活体験から、憲法は絶対に変更してはいけない神聖な存在などと主張するつもりは全くないのですけれど、憲法をがらりと変えるということはその国の「体制」を変更するということです。いまの憲法ではどうしても出来ないことがあるのでそれをどうにかしたいのであれば、それはその「出来ないこと」を明確にして、どう変えれば何が出来るようになるのか、何が出来ないからどう変えたいのかをはっきりとさせて、少しずつ手直しをすればよいのではないでしょうか。首相は先日「日本国憲法施行60周年に当たっての内閣総理大臣談話」で、「現行憲法の基本原則を不変の価値として継承しつつ、戦後レジームを原点にさかのぼって大胆に見直し、新しい日本の姿の実現に向けて憲法について議論を深めることは、新しい時代を切り拓いていく精神へとつながるものであります」といわれました。そういわれたことがその通りなら、なおさらのこと、自主憲法制定などということにこだわって、まったく異なる憲法を作り出そうなどという「体制変更」のようなことをいわないで、まず改正ありきではなく、根本となる国のあり方についての議論を深めていくべきであろうと感じます。

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2007年5月 5日 (土)

教区の若者たち

Youth070505_1 「若者たち」なんていう呼び方自体が古くさいのかもしれませんが、新潟教区のその「若者たち」の十数名が、昨日から今日にかけて、新潟教会信徒会館で集まり(合宿)を行いました。教区の担当者は石黒神父と高橋神父ですが、今回は山形地区からもワルヨ神父が参加してくれました。集まって来たのは主に新潟在住の若者でしたが、秋田や山形からも参加者がありました。今回は主に、新学期も始まり秋田から新潟へ移ってきたリーダーもいたりして、まず親睦を深めることと、夏の集まりの計画を練ることだと聞きました。しっかりと自分たちでいろいろ計画しているようで、昨晩などは、なんと、夕食後に自分たちで「わかちあい」をしたり、今朝もしっかりと起きて朝6時半のミサに参加したり、たいしたものだと心から頼もしく思いました。昨年末にも新潟教会での合宿がありましたが、それぞれの小教区では同年代の仲間が減少している現実を考えると、こうやって折を見て、みんなで集まることはとても大切なのだと感じています。これからも是非、こういった集まりを続けていただきたいと思います。もっとも、細かいプログラムを決めることなく、なにげに集まるのが良いんでしょうし、今日などは、それぞれの都合で帰路につく仲間を、まずみんなで歌なんぞを唄って励まし、それからいちいち玄関まで出てみんなで見送るなど、なんというのでしょう、パワーに充ちた荒々しさはないものの、昔の体育会系クラブみたいな雰囲気があって、興味深くありました。いずれにしても、教会を中心にして、気張ることもなく何気なく、みんなが繋がっているというのは、一つの理想かもしれません。いろいろなタイプの人に、それぞれ「なにげ」に居場所がある、そういう集まり(共同体)に育って欲しいと願います。

Kusakari070505 5月は聖母の月で、日曜のミサ後にはルルド前でロザリオを唱えたりもいたします。ここ数日の暖かい天候で、ルルドの前の草も育ちました。今朝は助任のフェルディ神父が、早速、草刈りに励んでいましたので一枚。連休のすばらしい天候も今日までのようで、明日は雨になりそうです。(草刈り写真のルルドの左手奥に見えるのが、いまから解体されるお隣のビル。ルルドの右手が、映っていませんが司教館であります。左手奥に解体作業にあたる重機が見えます。私の二階の部屋があまり揺れるので、揺れない中心部へとコンピュータや机を移動したので、かなり腰に来ました。連休中は作業も休みだったので良かったのですけれど・・・)

今日はいろいろ気になる事故がありました。私も何度も利用したことのあるケニア航空の737型機がカメルーンで墜落したと報じられています。737-800だと言うことですから、私のHPにも写真があるケニア航空の誇る最新鋭機のはずですし、数年前からKLMと提携していてかなり整備も良くされているはずなのですが、どうしたのでしょう。大阪でのジェットコースターの事故も気になります。ぎりぎりで経済が成り立っていると、安全にかけるコストが削られていくのでしょうし、その代償はある時一気に押し寄せてきますから

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2007年5月 4日 (金)

連休中の初金

本日は5月の最初の金曜日、いわゆる「初金」です。(初金については以前も書いているので、そちらをご参照)新潟教会ではいつもの朝6時半のミサに加えて、10時からと夕方6時からミサがございます。連休中で皆様お休みですから、何か私も休まなくてはいけない気分になって、それなのにどこにも出かける気分にもならず、しかるに天気は抜群にすばらしくて、気ばかり焦るのですが、でも考えてみれば、世間が忙しいときに急にひまになったりすることもある仕事ですから、こう言うときこそ気を引き締めて、溜まっている原稿書きをするのです。

なお、書き忘れてしまいましたが、新潟教区の一粒会のためにお祈り下さりまた献金下さっている皆様のために、一昨日の水曜日の朝に、ミサを捧げました。今年は神学生が一人誕生したこともあり、皆様の献金から神学生の養成費用も支出されます。感謝のうちに。

それではよい連休をお過ごし下さい。

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2007年5月 1日 (火)

これほど敏感な体だったとは

新潟教会から始まって司教館、その裏のヴィアンネ館、さらにその裏にある保育園と、新潟教会関連の土地は表通りと並行でありながら、一つ裏へ入り込んだところに、細長く広がっています。この度、司教館やヴィアンネ館と表通りの間に立っているお隣さんのビルが解体されて、跡地に4階建てのマンションが建設されることになりました。お隣さんのビルの裏には、これまた教会の土地と並行になる形で細長くお隣さん所有の駐車場があるのですが、ここも現在の駐車場を解体して新しくなるとのこと。その手始めの解体工事が、数日前に始まりました。

いやはや、これほどこのあたりの土地が柔らかな土壌だったとは知りませんでした。まるで地震の如く、司教館は揺れまくりであります。重機が入って、駐車場のコンクリートを破壊しているようなのですが、これがまた小刻みに振動が伝わってくるのですね。最初はちょっとした地震のようで大したこともないと、高をくくっていました。それが今日の昼食に一階に下りていこうとしたら、目眩がするのであります。思いっきり気分が悪い。これはおかしい。何も思い当たる節もない。それで、夕方になって工事が終わり、振動もなくなったら、まったく平気に戻りました。二階の私の部屋のコンピュータがおいてあるあたりは、部屋の一番隅だったのですが、ここらあたりが共振するのか、小刻みに揺れ続けているのですね。これほど自分の体が敏感だったとは知りませんでしたが、参りました。これで本体の解体工事が始まったら、どうなるのでありましょうか。

ということは、将来、もし司教館や教区事務所をここに新築しようなどと言うことになったとしたら、反対に周囲にお住まいの皆様には、同様に振動の被害をもたらしてしまう側になるわけで、難しい土地であります。そしてということは、日本各地で様々な振動や騒音による被害に遭われている方々は、本当に苦しい毎日を送られているのだと言うこと、体で実際に知りました。

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