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2008年2月25日 (月)

弟子をとる

それほど入れ込んでいるわけではありませんが、ときにテレビの連続ドラマに気が引かれてしまうことがあります。ちなみに、夜に放送されるドラマを、連続して真剣に見るということはほとんどありません。夜のテレビは、ほとんどザッピング状態でしか見ませんから、最初から最後まで落ち着いてみることはほとんどありません。近頃、始めから終わりまで全部を見通すことができたのはNHK山口放送局制作の「GOTAISETSU/ゴタイセツ」くらいですね。さすがイエズス会司祭が監修しただけあって、かなりにリアルな教会生活が描かれており、ボクサーとシスターが出てくるドラマとはかなり趣が違っておりました(あれはあれで、漫画の世界ですからおもしろいですけれど)。ゆるしの秘蹟の場面、涙無しには見られません。一緒になって泣いておりました。(もっとも、ドラマの中の司祭の会話にあったように、そこまでゆるしの秘蹟を受ける人が少ない、珍しい、ということはないでしょう。少なくとも私が知っている教会では、そこまでゆるしの秘蹟が珍しい現象にはなってませんから)

その私でも、何となく朝の連続テレビ小説は気になってしまうことがしばしばございます。どちらかというと大阪局が制作する話の方がおもしろい気がするのですが、今放送されている「ちりとてちん」も、なにやら気になって、朝の時間が許せば、見てしまっております。以前の「芋たこなんきん」もそうでしたが、中途半端にコメディーなところが、そこはかとなくおもしろい。その中途半端さが演技に見えてくるところがおもしろいと思うのです。

さて先日の「ちりとてちん」で、徒然亭草々と若狭ご夫妻が初めて弟子をとるという話がありました。もっと大混乱の話になるのかと思ったのですが、(あと残り少ないので、たぶんこれ以上混乱はしないのでしょうが)それほどではなかったのでしたが、この新弟子の青年がいかにも怪しい。仕事は完璧にこなし、落語もよく知ってはる。しかしどこかが違う。で、実はなかなか「嘘」が上手な人間で、両親が亡くなった話も嘘などいろいろと出てくるのですが、それにつけても弟子をとり、それを一人前に育てていくことは、難儀なことであると感じさせられる話でした。人間は見た目では分からない。器用に物事をこなすから、知識が豊富だから、それですべて良しとは限らない。そんな当たり前のことを、しかし忘れがちなことを、思い起こさせてくれたのでした。

アフリカから戻ってきた当時、管区長になるまでの4年間ほど、名古屋の神学校で司祭志願者の養成に携わったことがありますが、これほど難しい仕事はありません。ただでさえ志願してくる人は激減しているのですから、やっと見つけた司祭志願者は金の卵であります。そのためちょっとくらい無理をしてでも司祭にしてしまいたいという誘惑に駆られます。駆られるのです。その誘惑を振り切りながら、じゃあどうやってその人物を見極めていくのか。弟子を育てるのと同様、外に表れる行動や言葉や知識では、分からないのです。以前にも書いたことですが、信仰の根本をしっかりと見据えている人なのかどうかが問題であって、それはお付き合いをする中で、何気ない言動に、本当に何気なく表れてくるのです。それを見つけ出す養成担当者の苦労たるや。司祭養成も、修道者の養成も、基本的には弟子をとって育てることと変わりはありませんから。

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