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2008年2月13日 (水)

捕らわれる心

今朝のミサの福音から。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる(ルカ福音11章29節以下)」

まさしく、今を生きている私たちに向けられた言葉です。人間が欲しがるしるし、すなわち私たちの勝手な思い込みであり、私たちの勝手な希望であり、極論すれば勝手に作り上げた神の姿と業へのイメージでもあります。「つなぐ」の冒頭にも記したように、四旬節は「信仰の原点を見つめ直す」ために与えられた「時」であろうと思います。何を信じているのか、なぜ信じているのか。それを自分に問い直す「時」が四旬節です。自分が好ましいと思っている結果を想定して、それにあわせて神が、そして教会が動いてくれることを期待するという尊大な間違いを犯していないでしょうか。結局、そういう思い込みが、イエスの現実に対する失望を生み出し、イエスを十字架へと追いやったのです。そうしてみれば、自分の思い描く世界に固執して、神をそれに従わせようとする尊大に人間の心は、限りない罪の源のひとつとも言えるのでしょう。

同時にこの「時」は、信仰をどう生きているのかを、私たちに問いかけてもいます。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだもの(ヤコブ2章17節)」とも記されています。信仰は残念なことに、いくら見栄えを良くして飾っても、表面的なことだけでは深まりません。一体自分は何を信じているのか。本質的な部分を抜きにしては、いくら表向きを整えても意味がありません。自分の信仰の本質を見つめ直してみたいと思います。結局私たちは、神に対して応答責任を負っているのですから。

先日、積極的に教会を生かしていく仙台の信徒の姿について触れました。キリスト者であることはどういう事なのかをしっかりと理解しなければ、本来の働きはできないでしょう。たぶん仙台では、そういった信仰教育と養成が進んでいるのだろうと想像します。そこで四旬節の一つの読書として、教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的勧告「信徒の召命と使命」を読み、また学ぶことをお勧めしたいと思います。結構厚い書簡ですが、そこには信徒としてよりふさわしく生きるための様々な指針が記されています。示唆に富む書簡であると思います。

本日午後、秋田ダルクの平原さんたちが来訪されました。ダルク(DARC)とは、ドラッグ(薬物)のD、アディクション(病的依存)のA、リハビリテーション(回復)のR、センターのCを組み合わせた薬物依存症からのリハビリを目指すグループと施設の名称です。現代社会では、多くの人が気がつかないだけで、実際には様々な薬物による依存症がじわじわと浸透しているといわれます。マックやAAなどと同じく、自ら回復するために、仲間たちとの連帯の中で、12ステップを利用して回復を図る場を提供するグループです。新潟教区内では現在、秋田と鶴岡にダルクが存在しています。新潟でもダルクを創設したいと言うことで、本日は相談にこられました。すでに新潟でも理解し賛同する人たちがおられるとのことで、今後、具体化していくことになろうかと思います。全国的にこういった活動にはカトリック教会としてできる限りの協力をしてきました。秋田と鶴岡のダルクにも教会のメンバーが深く関わっています。新潟でも、今後できる範囲で協力していきたいとおもいます。

また先日は、長岡にある新潟マック(アルコール依存症からの回復を目指すグループ)の北原さんも来訪され、こちらは今度は秋田にマックを創立したいとのこと。実は新潟マックは、先代の佐藤司教様の跡を継いで私がNPO法人の代表となっております。こちらもダルク同様に、現代社会に必要な存在となっていますから、教会として応援していきたいと思います。

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