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2008年2月15日 (金)

存在の暴力性

会議の関係で、この数年の間に何度か沖縄へ出かける機会がありました。私は泳ぐことがそれほど好きではないので、沖縄の海岸には魅力を感じることはないとはいえ、やはり南の海はとても美しい。そしてなぜかゴーヤのあのちょっと苦い味が大好きなので、沖縄の食べ物は、ほぼすべてがおいしい。会議でなく、もし単に遊びに出かけて良いのであれば、国内で一番に出かけたい場所の一つが沖縄です。美しく楽しい観光スポットとは別に、第二次世界大戦に関係する様々な場所も訪れる機会がたびたびありました。沖縄は様々なことを考えさせてくれる島です。

そんな沖縄に、絶対的な存在感を持って、しかも人々の日常と決して融合することなく独自の存在感をもってそこにあるのが、合衆国の軍事施設の数々です。街を切り裂くかのようにど真ん中に滑走路のある基地があってみたり、日常生活のすぐ頭上ですさまじい爆音と共に戦闘機が急旋回をしていたり、そこここに実弾をも使いうる演習場が存在してみたり。南国情緒に溢れた風光明媚な観光地とはまったく相容れることのない軍事施設のすさまじいまでの存在感は、そこはかとなく暴力的です。軍隊という存在自体が、どこでもかしこでも常に暴力的だと主張しているのではありません。軍隊が様々な顔を持った組織であることは十分承知しています。そうではなくここで言いたいことは、沖縄という地におけるその存在の有り様自体が、はなはだ暴力的であるということだけです。

数日前に沖縄で、少女が合衆国の軍人に襲われるという事件がありました。まるで少女の側にも非があるかのような論調の文章が掲載された新聞もあると耳にしましたが、そのような倫理観の欠如した思考は論外としても、一事が万事で単に綱紀粛正を軍隊に求めても何も解決はしないでしょうし、合衆国軍がいなくなればそれですべて解決かというと、そんな単純なことではないようにも思います。沖縄という地が戦前から戦中戦後と、本土との関係でおかれてきた立場が生み出す様々で複雑な背景や、今現在の私たちの国の国際関係上の立場が生み出している合衆国との微妙な間柄などといった、多くの要因が生み出している矛盾を、あの小さくて美しい島の人たちに押しつけてしまっている本土に住む人間の無責任さを、まず第一に恥じ入りながら自覚しなければならないのだと思います。どういう立場にせよ、すぐに善悪白黒と単純に割り切って興奮することは、得策ではないように思います。

少女に襲いかかったのは確かにひとりの人間としての兵士であったのですが、しかしそれは沖縄の立場を思うとき、象徴として、その地に存在する軍隊の存在感の暴力性そのものが少女に襲いかかったのだと、私は感じました。そして沖縄に住む人たちは、その暴力的な存在と、共存する道を探らなければならない。それほどの存在を押しつけておいて、私たちの国の防衛のためにその存在が必要だなどと、本土にいる基地とあまり関係のない多数派の私たちが主張することは、これまた恥ずかしいことだと思います。

それにしても、戦後から今に至るまで、沖縄の地において、合衆国の軍人によるこういった犯罪はどれくらいの数に上るのでしょう。問題の根幹は、綱紀の粛正などと言う精神レベルにあるのではなく、もうすでに全体としての合衆国軍隊の沖縄における存在そのものにあるのではないでしょうか。

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