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2008年8月20日 (水)

スリランカへ

あっという間に夏も終わっていきます。明日、8月21日は、午後から新潟清心女子高校の教職員の皆さんの研修会で、お話をさせて頂きます。カトリック学校の存在意義について、お話しできればと思います。なんといっても新潟県で唯一のカトリック高校ですから。

そしてあさって8月22日から30日まで、カリタスジャパンの海外視察に同行して、スリランカへ出かけて参ります。スリランカでは長年にわたる内戦の和平構築プログラムにカリタスが深く関わっており、カリタスジャパンも一部ですが、資金提供を続けてきました。コンピュータは持参しませんから、日記の更新もメールへのご返事も30日までできません。帰国してから、先日のタンザニア訪問の写真をアップしようと思います。

それではまた、30日以降に。

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2008年8月19日 (火)

教区保育者研修会

Hoikukenshu08 第38回目となる新潟教区カトリック保育者研修会が、154名の参加者を得て、昨日昼から本日のお昼まで、新潟市内の万代シルバーホテルを会場に開催されました。今年のテーマは「日々の保育から生まれるよろこび」。講師にはモンテッソーリ教師トレーニングセンター所長の松本静子先生をお迎えして、モンテッソーリ教育の神髄についてお話し頂きました。また聖アンナ子どもの家の野村緑先生も松本先生に同行されおいで頂きました。野村先生は私と同じく、「家庭の友」の連載執筆者です。毎月「分かりやすいモンテッソーリ教育」を連載をされておられます。今回初めてお会いできました。(昨年まで会場はスターホテルでしたが、現在スターホテルは取り壊され新築工事中ですので、今年と来年はすぐそばの万代シルバーホテルが会場です)

わたし自身は幼稚園に直接保育で関わったことがありませんが、しかしモンテッソーリ教育ということ、名称だけはしばしば耳にしていました。新潟県内でも、かつてモンテッソーリ教育に打ち込んだ神父様方がおられた関係で、亀田、白根、見附、栃尾の幼稚園で、モンテッソーリによる保育が行われています。よく名前は耳にするものの、その中身はまったく知りませんでしたから、今回のお話は、そういうことであったかと大変ためになるお話でありました。先生のお話の中でも、特に、モンテッソーリ教育で育てられた子どもたちが、しっかりと自己を確立して、自分で判断し自分の意見を持ち、社会の様々な出来事に広く興味を持つようになっていく場合が多いという指摘には興味を引かれました。松本先生はかなりのご高齢であるにもかかわらず、非常にお元気ではっきりとものを仰る方です。

二日目の今日は新潟は大雨でした。朝から小グループに分かれてのわかちあい。数年前にわかちあいをはじめた頃はいろいろと反対の声もあったのですが、この数年の繰り返しで何とかわかちあい自体に慣れたようです。今回はスムースにわかちあいが進みました。その後に私が「まとめの話」をして、参加された園長を務める神父様たちと共に感謝のミサを捧げ、お昼過ぎに終了となりました。

私としては9月頃をめどに、新潟教区の幼稚園に関する基本方針を文書で提示する予定で、現在調整を進めています。もちろん修道会が変わる複数の学校法人が存在しますから、教区の方針をそのまま押しつけるわけにはいかないのですが、基本的な考え方と方向性だけは知っておいて頂きたいと思いますし、また特に各学校法人の理事会が責任を持って職員の研修に取り組み、カトリック幼稚園としての性格付けを明確にし、それぞれの使命をはっきりと自覚していって頂きたいと願っています。

いろいろな行事が重なり、秋田と山形からはすべての施設に参加して頂けなかったのが残念ですが、それでも教区の大方の保育施設からは代表者を送って頂きました。ありがとうございます。(写真は語りかける松本先生)

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2008年8月17日 (日)

スーダン写真掲載

先日のスーダン訪問から、数枚の写真を掲載しました。右のサイドバーにある「スーダン08年」をクリックしてお進み下さい。現地ではいろいろと現実に圧倒されて、写真をしっかり撮れていませんでした。もう少し、現地の人々の生活が分かる写真があると良かったのですが。いずれにしろ、アフリカの現実に慣れているはずの私でも、その生活の大変さを感じるくらい、スーダン南部の生活には厳しいものがありました。

明日8月18日午後から19日お昼にかけて、新潟市の万代シルバーホテルを会場に、新潟教区カトリック保育者研修会が開催されます。教区全体から百五十人ほどの参加者が見込まれています。テーマは「日々の保育から生まれるよろこび」で、講師はモンテッソーリで有名な松本静子先生。私も明後日は、まとめの話をしなくてはなりません。

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2008年8月15日 (金)

真夏の洗礼、堅信、初聖体

08081502 8月15日、聖母被昇天の祭日、新潟教会では午前10時からのミサで、洗礼式、堅信式、初聖体が行われました。毎年、ミサの後には教会の前庭でバーベキューをするのですが、なんと今年の天気予報は雨。確かに朝7時頃には雨が降って曇り空でした。ところがミサの始まる10時が近づくにつれ、太陽が射して来るではないか。結局、少なくとも新潟教会周辺では天気予報は当たらず(というのも新潟県内では大雨で大変だった地域もありましたから)、加えて雨が早朝に降ったことや多少の曇り空であったため、例年ほどには気温も上がらず、バーベキューが終わった午後1時頃までほどよい日差しの夏日となりました。

洗礼を受けられたお嬢さんとそのお兄さんのお二人で堅信。そしてその後に6名の可愛い子どもたちが初聖体を受けるために前に進み出て、誓いの言葉を述べました。それぞれの秘跡を受けられた皆さん、本当におめでとうございます。

また本日はタルチシオのお祝い日でもあります。新潟教会の皆さんからも霊的花束を頂きましたが、それ以外にも各地の小教区から霊的花束を頂きました。感謝します。また多くの方々からお祝いのカードやお手紙を頂きました。本当にありがとうございます。命をかけて御聖体をまもり殉教した聖タルチシオに倣い、力強い確信を持って信仰をまもり、司教職を全うできるようにお祈り下さい。

8月15日は終戦の日に当たることもあり、ミサの中でも世界の平和のためにお祈りいたしました。世界中が熱狂しているオリンピックなど様々なことが起こっている日だと思います。その中の一つに、南米パラグアイでの新大統領就任もあるかもしれません。60年以上の一党支配を終わらせ、新しい風を吹き込むためにパラグアイの人々が選んだのはカトリックの司教でした。教皇様は7月の末に、歴史的にもあまり例がないと思われますが、新しい大統領フェルナンド・ルゴ氏が正式に聖職者から信徒へ戻ることを認めました。日系人の方も多くおられるパラグアイに、人々のためによい政治をする政府が誕生することを祈りたいと思います。

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2008年8月13日 (水)

夏の司牧書簡

新潟教区の皆様、8月15日付で司牧書簡をお届けいたします。教区のページではPDFファイルで見ることができますし、テキストは私のページにも掲載しておきました(こちらをクリックすると飛びます。2008年のところをご覧下さい)。また小教区でも15日、または17日以降、ミサの時にでも配布されることと思います。どうぞ一部お取り下さい。

二度にわたる宣教司牧評議会での話し合いを経て、今後、当面の間の新潟教区における宣教司牧の優先課題を絞り込んでご説明申し上げているつもりです。今後、この司牧書簡に沿ってそれぞれの地区や小教区で取り組んで頂き、その成果や問題指摘を次回以降の宣教司牧評議会の議題としていきます。宣教司牧評議会の今後の課題は、秋以降にまた評議員の方にお伝えする予定です。

8月15日には、新潟教会において、洗礼式、堅信式、初聖体が行われます。またその後で、例年の通りバーベキューなども行われる予定ですので、どうぞご参加下さい。ミサは10時からです。今のところ、ちょっとお天気が心配です。

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2008年8月12日 (火)

聖パウロ大聖堂へ

Paulo0802 先日のアフリカ旅行の後、ローマに数日おりました。真夏のローマは観光客ばかり。とはいえ、以前にも何度かこの時期にローマへ来たことがあるのですが、聖ペトロ大聖堂あたりでも、今年は日本人観光客の少ないこと。もしかしたらこれが原油高の影響なのでしょうか。

というわけで、パウロ年ですから、聖パウロ大聖堂へ巡礼に。神言会の総本部はローマの城壁のすぐ外、ピラミッドがあるあたり、鉄道のオスティエンセ駅の隣に位置しています。そこからは23番などのバスに乗ってさらに郊外方面へ10分ほどで聖パウロ大聖堂です。正式にはサン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂。つまり城壁の外にある聖パウロ大聖堂です。これまでも何度も訪れたことがありますが、さすがにパウロ年と言うこともあり、例年以上に巡礼団のバスが発着しておりました。

Paulo0801 聖堂入り口の回廊には、先日聖ペトロ・パウロ祝日前晩に教皇様が晩の祈りを唱えられ、その時から灯されている「パウロの炎」が静かに燃えていました(写真のパウロ像の後ろに小さく見える、台におかれケースに入ったランプのようなもの)。パウロ年の扉をくぐって聖堂内に入ると、主祭壇下では聖パウロの墓の前で、多くの人たちが跪き、祈りを捧げていました。加えて免償のため(その案内板もでていましたが)聖堂のあちらこちらでは、ゆるしの秘蹟のために司祭が待機しておりました。ゆるしの秘蹟は様々な言語で行うことができるようにと、告解ブースには使用できる言語名が明示されてます。残念ながら、ここでは日本語はありませんでした。

教皇様はその晩の祈りの講話で、次のように述べられています。

Paulo0803 『ガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロはわたしたちにきわめて個人的な信仰告白を行います。この告白によって、パウロはあらゆる時代の読者に自分の心を打ち明け、生涯において心の底から彼を動かしたものを明らかにします。「わたしが今・・・・生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2・20)。パウロのすべての行いはこの中心から発します。パウロの信仰とは、きわめて個人的な形でイエス・キリストによって愛されているという経験です。キリストは、誰かわからない人のためではなく、わたし――すなわち、パウロ――への愛のために死に向かいました。そして、復活したキリストは、今もわたしを愛してくださいます。いいかえれば、キリストはわたしのためにご自分をささげてくださいました。パウロの信仰とは、このことを知ることです。パウロの信仰とは、イエス・キリストの愛に打たれることです。この愛がパウロの心を揺り動かし、彼を造り変えたのです。パウロの信仰は理屈ではありません。神と世界についての見解ではありません。パウロの信仰は、神の愛が彼の心に与えた衝撃です。それゆえ、この信仰はイエス・キリストへの愛となりました』。(写真はパウロ年の扉の一部)

Paulo0804 教皇様は「きわめて個人的な形でイエス・キリストによって愛されているという経験」がパウロの信仰を基礎づけていると言います。そして「パウロの信仰は理屈ではありません」とも言います。神の存在をそこまでリアルに意識することが信仰の基礎であるならば、人間の勝手な思い込みとご都合主義で、神に成り代わって神の立場を判断し、自分の考えを正当化することが如何に傲慢であるか。パウロの墓の前に祈るとき、パウロほどの経験もない身で、傲慢に生きている自分に、思わず恥じ入ってしまうのでした。

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2008年8月11日 (月)

聖クララの祝日

8月11日は聖クララの祝日。新潟県の上越市(高田)にあるクララ会修道院で、本日11時からお祝いのミサを捧げました。兄弟であるフランシスコ会のつながりで、長岡地区の神父様方や長野県からもフランシスコ会の兄弟が駆けつけ、また長岡地区の在世フランシスコ会会員の皆さんも参加されて、小さなクララ会修道院の聖堂はいっぱいになりました。ミサ後には面会室をすべて開放して、一緒に食事を頂きました。クララ会のようにすべての生活を神にささげ尽くす観想修道会の生活に、これからも十分な召命が与えられるように、ミサの中で祈りました。シスター方の毎日の祈りが、私たちの足りないところを補って下さっていると思います。感謝します。

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2008年8月10日 (日)

しかしてタンザニア

Tanzania0802 7月28日(月)の早朝6時に、ナイロビのソウェト教会を佐藤神父と出発。すさまじいナイロビの朝の渋滞の中、都心を目指します。タンザニアのアルシャ行きのバスは8時出発。朝の通勤時間帯、バス停に到達するまで、優に一時間はかかります。渋滞がなければ20分ほどで到達できるはずの距離でしかありません。なかなかの渋滞です。まだ薄暗い路地を、制服に身を包んだ子どもたちが学校へと急いでいます。小学生も中学生も。子どもたちは恐ろしく早く登校してくるのだとか。最も街中で働く人たちも渋滞を見越してか、恐ろしく早い時間帯から、「歩き」はじめていました。(写真はシマンジロから出かける医療チームの診療に集まったマサイの人たち)

ナイロビでの都市観光通の主役は、ハイエースやキャラバンなど、日本のワゴン車を利用したミニバスです。マタトゥと呼ばれています。こういったミニバス系でもタンザニアに向かうことができるのですが、大概こういうミニバスは定員いっぱいかそれ以上のすし詰めのことが多く、ちょっと敬遠させて頂きました。その代わり今回は、コースターなどのマイクロバスを利用した一日2往復あるというシャトル便を利用。リバーサイドという会社。家族旅行と思わしきインド系の英国人大家族15人に囲まれて、6時間近い大旅行となりました。

ナイロビからタンザニアのアルシャに向かう道路は、中国の企業が担当して補修工事の真っ最中です。そのためバスは、周囲に設けられた仮設道路を通るのですが、これがまた未舗装で揺れること。砂煙を上げながら、バスは100キロ近いスピードで疾走です。ナイロビは標高の高いところにありますから、どちらかと言えば延々と下り坂の感じです。お昼前に国境に到着。

ケニア側のイミグレーションは簡単に通過。そこから歩いてフェンスで二重に仕切られた国境を通過。そしてタンザニアのイミグレーション事務所へ。これがすさまじいことになっているではありませんか。コンビニくらいの大きさの事務所は、たった今同じくらいの時間に国境に到達した制服姿の高校生とおぼしき団体で溢れかえっているのです。後から分かったのですが、3台の大型バスに分乗してナイロビから出かけてきた学生の一団でした。加えて、タンザニアのイミグレーションは、空港などでよく見る通過していくブース式ではなく、普通のお役所のカウンターのような作りです。しかも今年から、一人ひとりの顔写真を撮影することになったとか。よく見るあの丸いコンピュータ用のカメラがカウンターにおいてあるのです。これがなかなかうまく写らない。「近すぎる。もっと離れて。もっと近くに来て」と係官の叫ぶ声が響きます。入国ビザを取得する必要があったため、ここで一時間を費やしました。

Tanzania0803 国境を越え、タンザニアに入ると雰囲気ががらりと変わります。まさしく大平原。牛や羊の群れに混じってシマウマの群れが。そしてケニアでは見ることがなかったサボテンも自生しています。アルシャへ向かう道はひたすらまっすぐ。午後2時前にアルシャに到着しました。アルシャには現在、ルワンダ虐殺事件を裁く国際法廷が設けられており、街の中はこれまた国連関係のランド・クルーザーとサファリ用のランド・クルーザーで溢れかえっていました。ひとまず神言会の担当する小教区にお邪魔しました。この小教区は大司教館のお隣にあり、カテドラルではないものの、現在は「副」カテドラルとして教区の様々な行事が行われるのだとか。ここからマサイ族の居住地域の真っ直中にあるシマンジロ教会の車(これまたランドクルーザー)に便乗して3時間。火山灰が堆積した土地で、雨期になるとさしものランド・クルーザーでも走破することができなくなるとか。ひと山越えて、シマンジロの町へ到着しました。教会には診療所が併設されており、ドクターがひとり常駐しています。また教会が掘った井戸が近隣の水源となっており、早朝には、教会前に水汲みの人たちが列をなしていました。

Tanzania0805 翌朝9時過ぎ、診療所で入院患者の回診を済ませたドクターを乗せて、空飛ぶ医療チームのセスナは、シマンジロの教会グランドを飛び立ったのでした。この日は3つの村を巡回します。この空飛ぶ医療チームは男子宣教会の聖霊会(CSSp)が行っている事業で、神言会のポーランド人会員ジャック・ラジマン神父がパイロットの免許を取得して関わっているものです。医療チームを受け入れる各村は、セスナが離着陸できる滑走路を用意することが条件です。といってもよくもまあこんなところに着陸できるなあと思わせるような、まあ、ただのまっすぐな道です。着陸するとどこからともなく村の人たちが集まってきました。患者さんはほとんどが母親と子どもたち。一カ所では木から量りをつるして赤ちゃんの体重測定と予防接種。私はドクターについて、彼の命じるままに持参したスーツケースに並んだ薬ケースから、指示された数の錠剤を数えてプラスチックバックに入れるお手伝いをさせて頂きました。(写真は診療にあたるドクターと手伝うジャック神父)

子どもたちの下痢症、皮膚病、そしてマラリアが一番多く見られる症状です。お母さんたちにも皮膚病などの感染症が蔓延しています。水のあまりない地域なので、どうしても感染症が増えてしまうのでしょう。ドクターはてきぱきと診察していきます。三つ目の村に到着した時点で、午後3時頃。ここではまずセスナの羽の下にテーブルを置き、コーラとパンの昼食。水がないので、ジェル式のアルコールで手を消毒しました。三つ目の村が終わって帰路につこうとすると、ジャック神父が副操縦士席に座らないかと魅惑的なお誘い。フライトシミュレーターに最初に出てくるセスナそのものの操縦席です。彼にいろいろと説明を受けて、感動しながら、そして夕日を眺めながら、シマンジロへ戻りました。時には重病人も発生して、そういう場合には即刻アルシャなどの大病院まで飛行機で患者を移送するそうですが、今回はそこまでの重病人は居なかったものの、しかし集まってきた人たちの安心した表情を見るにつけ、大切な奉仕職であると感じ入りました。誰にでもできることではありませんが、そういう才能を恵まれた方々が、しっかりと果たすことができるように祈りたいと思います。

翌朝は4時半にシマンジロを出発。8時にアルシャからナイロビ行きのバスに乗り、午後2時頃ナイロビ到着。その晩、9時の飛行機で、ローマへ移動したのでありました。

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2008年8月 8日 (金)

そしてナイロビ

7月26日の午後、カリタス・スイスがチャーターしたMAF(宣教航空協会)のセスナ・キャラバンに乗ってケニアのロキ空港へ到着。そのまま今度は国境なき医師団の関係者や各種NGO関係者を満載した定期便でナイロビのウィルソン空港へ。ウィルソン空港はナイロビのもう一つの空港で、サファリなどに出かける小型機の発着場として有名ですが、同時にNGOなどの利用が多いことでも有名です。わたし自身も96年にチャーター機で旧ザイールのブカブへ飛んで以来のウィルソン空港の利用でした。旅客設備はその頃とまったく変わりなし。

Nairobi0801 佐藤新神父に迎えられて、そのまま彼の働くナイロビ市内のソウェト(Soweto)教会へ。ナイロビには世界的に有名なキベラというスラムがあり、その中には南アフリカのソウェトに因んで名付けられたソウェト地区が存在します。わたし自身もそのソウェト地区と勘違いしていたのですが、教会のあるのはキベラスラムの中ではありません。カイオーレ(Kayole)地区の中のソウェトでした。もっとも先進国の人間の目から見ればカイオーレ地区もスラムと感じるほど劣悪な住環境ですが、佐藤神父によればこの地区はいわゆる不法占拠でもなく、都市計画もしっかりと存在するので(実施されるかどうかは別として)、スラムとは考えられていないとのこと。しかし舗装された表通りから一歩中へ足を踏み入れれば、ぬかるんだ道の両側にありとあらゆる店が軒を連ね、以前何度か訪れたキベラとそれほど雰囲気は変わりません。加えて、この地域の道路網はまだまだ未整備で、表通りに出るためには一本の道にありとあらゆる方面からのバスや自動車が集中して大渋滞。さらに表通りに近くなると、しっかりとしたセキュリティーにまもられた高級住宅地まであり、今度はそこに出入りする高級車も加わって、細い道路は車でいっぱいです。ほんの少しの距離だろうに、車は遅々として進みません。(写真はソウェト教会の信徒に迎えられる、ナイロビ教区のカマウ補佐司教)

ソウェト教会のお隣は警察署。3年前に初めて訪れたときには電気がなかったのですが、近頃やっと電気がやってきたとのことで、教会や警察には夜になると明かりがあるのです。この違いは大きい。そして教会には井戸の水もある。その晩は、わざわざ訪ねて下さったマリアの宣教者フランシスコ会のシスター南雲らも加わり、「日本食のようなもの」での夕食会となりました。新潟教区出身のシスター南雲は、ケニアにもう二十年近くいるはず。大ベテラン宣教師です。

Nairobi0802 さて翌日、27日の日曜日はソウェト教会の堅信式。司式はナイロビ教区の補佐司教デビッド・カマウ師で、私も一緒に司式させて戴きました。なんと言っても堅信を受ける候補者は81名もおり、加えてカマウ司教は午後にもう一つの堅信式があるのため急いでいるという事で、私も半分の候補者に堅信を授けました。候補者がみんな名札をつけていたため、間違えずに授けることができました。ミサはスワヒリ語。ソウェト教会の聖堂は狭いため、聖堂と小教区小学校の間にあるサッカーグランドに特設した祭壇で行われました。その典礼のダイナミックなこと。歌の生き生きとしていること。朗読聖書の入場にしても、奉納行列にしても、ケニアらしい装いと動きと歌でしめられていました。奉納行列は様々な農作物を沢山の人が列をなして祭壇へ持ってきたため、まあ時間はかかること、そして祭壇は野菜で埋め尽くされました。(写真は入際で唄う聖歌隊と、祭壇を丸く囲んで踊る少女たち)

Nairobi0803 標高の高いナイロビは基本的に涼しい街ですが、この日も祭服を着ている私がちょうど良く感じるほどで、集まった人たちには少し肌寒い日だったかもしれません。ミサはほぼ二時間半ほどで終わり、昼食後にはカマウ司教も次の教会へ向かい、残された私は、カマウ司教に成り代わり、午後のエンターテインメントの部の主賓となりました。先日すでに行われたという聖歌隊のコンテストの入賞者の技の披露があったり、極真空手を習っている子どもたちの模範演技があったりと、楽しい時間でした。ソウェト教会にはキリスト者小共同体がいくつもあり、それぞれの小共同体で常日頃の祈りや聖書のわかちあいが行われています。そして日曜日には小共同体がそろって小教区のミサに集まってくるのです。その小共同体ごとに聖歌隊が組織され、そのコンテストが先日行われたと言うことでした。この日のエンターテインメントの最後は、前年の教会役員への感謝状の贈呈やコンテスト入賞者へのトロフィー授与が行われ、その役目を果たさせて戴きました。そして締めくくりは、なんと、「ケーキカット」。どうも近頃のナイロビの流行らしいです。しっかりとしたケーキに佐藤神父と信徒会長が手に手を取って(?)ナイフを入れ、まずゲストの皆さんへケーキを食べさせる。それからみんなで少しずつ分けて、これで集まりは終わりになります。(写真は奉納されるキャベツを受け取るカマウ司教)

久しぶりに、生き生きとした典礼の時を過ごすことができたナイロビでした。(下の写真は右が、ミサ後に贈り物の山羊を受け取る司教。私もこの後に、手作りの様々なアクセサリーをプレセントされました。左はケーキカットをする佐藤神父と教会委員長)

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2008年8月 7日 (木)

スーダン訪問

Sudan0804 7月23日から30日まで、駆け足でアフリカを訪問してきました。今回はまず、国際カリタスのアフリカデスクによるスーダン訪問に一部同行させて頂き、南部スーダンを訪問しました。そして神言会の佐藤新神父が働いているケニアのナイロビ・ソウェト教会での堅信式や小教区フェスティバルに参加。さらに、その佐藤神父と一緒にバスでナイロビから国境を越え、タンザニアのアルシャまで足を伸ばし、そこからは小教区の車に便乗させて頂いて、マサイ族の居住地のど真ん中にあるシマンジロ教会まで出かけました。そこで飛行機(セスナ)を使ってマサイの村を巡回している医療チームに、一日同行させて頂きました。スーダンに3日、ナイロビに1日、タンザニアに3日と、かなりの時間を移動に費やしましたが、貴重な体験をさせて頂きました。それでは、まずスーダンから。(写真はスーダン南部、トリートの郊外ロワイ村の小学校で)

スーダンと言えば西部のダルフールで今も続く紛争が有名ですし、それに伴ってバシル大統領の逮捕状が7月14日に国際刑事刑事裁判所から発行されたことでも話題になっている国です。大統領への逮捕状は、集団殺害や人道に対する罪に大統領の刑事責任があるためとされています(ダルフール紛争については、以前「家庭の友」に書いた原稿を参照ください。こちらをクリック)。それとは別に、1956年の独立前後から続いている南北の内戦の問題があります。そもそも南北に広大なスーダンは、首都ハルツームのある北部にアラブ系の民族、南部にはアフリカ系の民族が広く分布しており、それを一つの国にまとめようとすること自体が難しいのです。加えて豊かな石油資源は南部に集中しており、今さら北部が南部と分離して独立というわけにも行かなくなっているのです。1983年から続いた第二次の内戦は2005年1月の包括和平協定によって一応は終結し、2011年頃までには南部の独立も含めて見直しが行われることになっているという、未だ不安定な立ち直りの時期を過ごしています。現在の南部スーダンは、反政府闘争の主流派であったSPLA(スーダン民族解放軍)による南スーダン政府によって治められており、中央政府とは異なるシステムの中ですべてが動いています。和平協定によって、この南スーダン政府の大統領は、中央政府の副大統領に就任しています。

Sudan0805 今回ハルツームから南スーダン政府の首都である南部のジュバへとスーダンを縦断する国際カリタスのアフリカデスクチーム2名に、私は日程の都合で、後半の南部スーダン3日間だけの合流となりました。ナイロビからジュバへと向かったのですが、事前に渡されたのは南スーダン政府発行の旅行許可証。ハルツームの中央政府による査証ではありません。到着したジュバ「国際空港」は、それでもコンクリート平屋のこぢんまりとした、そしてそのために入国する人で大混乱の、熱気に充ちた空港でした。同じ飛行機に乗っていた故ジョン・ガラン南スーダン政府大統領の夫人らと一緒に、なぜかVIPルームへ。しばらくするとジュバ大司教区の関係者がいつの間にか入国手続きを済ませてくれて、そのまま裏口から外へ連れ出されました。確かに一人であそこに到着したら、すさまじい熱気でどうしたらよいか途方に暮れたことでしょう。空港から先は、南スーダンの首都と呼ぶにはあまりに貧しい広大な村が広がっていました。そもそも空港から街の中心へ向かう道(未舗装)は四輪駆動でなければとても通過できない。そういえば、これほど「トヨタ・ランドクルーザー」の台数が多い街も珍しいのではないかと思うくらい、道路はランクルで溢れていました。その多くは国連と数多のNGOの所有です。(写真はジュバの街の様子)

ジュバ教区のパウリーノ・ルクゥドゥ・ロロ大司教にお会いしました。スーダンは聖コンボニ(コンボニ宣教会の創立者)が司教として治めていた地域です。ロロ大司教も現地の方ですが、コンボニ宣教会の会員。内戦終結後の復興の難しさをいろいろと聞かせて頂きました。南北に分断されていたためか、スーダンにはジュバを中心とした南部のために地域司教協議会事務局(SCBRS)が設置されており、その事務局はこの1月までケニアのナイロビにあったとか。今回本拠をジュバに移すことになり、事務局長のアントニー・バンゴイェ神父が、事務局の建物を建設するために引っ越してきたものの、やはりナイロビ事務所は残す必要があると、ちょっと複雑な内部事情も教えてくださいました。スーダンのカリタスは「スーダン・エイド」と呼ばれており、現在の最大の課題は、復興事業のため国連と共にやってきた各国のカリタスとの協調だと言います。ちょうどこの日はスーダン・エイドジュバ事務所と、各国カリタスの現地代表との調整会議がありました。合衆国のCRSをはじめ英国のCAFODやカリタス・スイス、スコットランドのSCIAF、イエズス会のJRSなど、いやはやありとあらゆる団体が入り込んで事業を行っています。なかでも政府の資金を受けている団体は、自国政府の方針に左右されやすく、教区との連携ができていないなどの課題が指摘されていました。また現在は国際社会、特に欧米の関心がダルフールにばかり向いており、南部スーダン復興事業への資金提供が減少しているとの嘆きも聞かれました。

Sudan0803 故ジョン・ガラン大統領の墓にも足を運びました。銃を持って警備に当たっていたのは、どう見ても10代の少年でした。小さな街に突然押し寄せてきた大量の国連関係者やNGO関係者の存在が、現地の物価を押し上げているという話も聞きました。アフリカのどこにでもあるような普通のホテルが、一泊朝食付きで3万円以上もするところまであるとか。我々はCAFODの宿舎に泊めて頂きました。すぐそばを流れるナイル(白ナイル)の水を直接給水しているので、できればシャワーは使わない方が良いとアドバイスされ、なんとペットボトルのミネラル水で身体を洗いました。ナイルは水量も豊富ですが、ありとあらゆる排水や廃棄物が流れ込むため、徹底的に汚れているのだとか。それでもナイルでとれた魚料理は、おいしく戴きました。(写真は故ジョン・ガランの墓の前で)

Sudan0801 2日目には、ジュバからケニア方面に100キロほど車で移動して、カリタス・スイスが復興事業をしているトリートの街まで行きました。そこまでの道路の至る所には、「地雷・危険・立ち入り禁止」のサインが。そういえば、残された地雷のために、農業の復興が進まないという指摘を会議で聞きました。本当にそこら中です。難民生活から帰還した人たちの再定住事業や、学校の再建事業などを見学しましたが、いやはや、長期にわたる内戦の傷跡はあまりにも深い。本当に普通の生活が営めるようになるまで、どれほどかかるのか想像もつきません。しかもこの平和な状況も、必ずしも恒久的であるとも限らない。ですから、周辺国、特にケニアからの難民帰還も進んでいないとのこと。(写真は道ばたに張られた警戒線と地雷注意のサイン)

3日目の午後、カリタス・スイスの関係者がケニアから飛んできたチャーター機(セスナ)に乗って、トリートの街からケニアに戻りました。ここが滑走路と言われなければただの原っぱのまっすぐな道です。はるか上空から見るアフリカの大地は、魅力的でした。(下の写真、左がケニアへ戻るためのセスナ機に集まった近所の人たち。右が機上から見たトリートの街。後ほど写真をもう少し、別途掲載する予定です)

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2008年8月 6日 (水)

教皇様、オイエスへ

Stjosephf アフリカ日記を書こうとしているのですが、ちょっと疲れてその気力がまだでないので、それはまた明日へ。ローマにいる間に神言会の総会長から耳打ちされていたのですが、夏休み中の教皇様は本日、北イタリアのボルツァーノからさらに車で一時間以上アルプスの中に分け入ったオイエスという村を訪れました。オイエスは神言会の初めての宣教師、聖ヨゼフ・フライナーデメッツの生誕の地です。そして教皇様もこの聖人の生誕の地を、本日巡礼に訪れました。

なぜって?この時期のオリンピックにも関係がなきにしもあらず。中国へのメッセージであるのだろうと想像されています。つまり聖フライナーデメッツは中国への宣教師です。中国に派遣され、一度も帰国することなく、最後はチフスで中国で亡くなった聖人。殉教者ではありません。教皇様もオイエスのメッセージで盛んに中国への宣教について語りました。現在教皇様は、その聖フライナーデメッツが叙階された神学校に、休暇で滞在中です。写真はオイエスにある聖フライナーデメッツの生家。北イタリアのチロル地方。日本語でなんと呼ぶのか分かりませんが、ドロミテ地方、バイダ渓谷にあるすばらしく風光明媚な地域です。歴史的経緯から、イタリア語以外にもドイツ語が通用し、地元のラディンという言葉もあり、聖人はこの言葉を使っていたとか。

それではアフリカについては、また明日。

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2008年8月 5日 (火)

帰国しました

本日帰国しました。不在中はいろいろとご迷惑をおかけしました。

この数日は所用のためにローマにおりましたが、その前にどこに行っていたかを記しておきます。

アフリカのスーダン南部の都市ジュバとトリートに3日、ナイロビで堅信式のため一日、タンザニアのアルシャからさらに車で3時間入ったシマンジロに3日おりました。スーダンは国際カリタスのアフリカデスクの誘いに乗って、南スーダン政府の首都であるジュバなどを訪れて南部スーダンでの難民帰還や再開発問題について、視察団に同行しました。タンザニアでは、マサイ族の村を飛行機で巡回する医療チームに、丸一日同行しました。詳しくは明日以降、写真と共に報告します。

それではまた明日。

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