スリランカは穏やかで笑顔に満ちた、自然の美しさにあふれた国でした。服装や町の光景は、すぐお隣のインドとそれほど変わらないものの、基本的に仏教国であるという宗教の違いがそうさせるのか、スリランカの人たちの控えめな優しさは、どちらかというと荒々しさの感じられるインドとは異なる印象がありました。
8月23日から30日までのカリタスジャパンの視察。最初に訪れたのは、北東部の港町トリンコマレー。首都コロンボから300キロほどの道のりです。6時間以上をかけて車で移動。ちょうど旅程の半分ほどまでは、きれいに舗装された道のりでしたが、半分をすぎたあたりから車の振動が激しくなります。そして道ばたに武装警察官や兵士の姿がやたらと目につくようになり、町の入り口などには検問所が。さらに道を進むと、なんと数百メートルおきに兵士が銃を手に歩哨に立っており、戦闘に備えた塹壕が道ばたにいくつも連なっているのです。この地域からインドとの国境となるジャフナに向けては、現在も継続している内戦の戦闘地域にあたります。(写真は検問所の一つ。バスの乗客は検問所までで降車し、徒歩で検問を渡ってから、反対側で再びバスに乗車する)
内戦は反政府組織LTTE(タミル・イーラム解放の虎)と政府軍との間で、25年以上も継続しているのです。もともとイギリスの植民地であった頃は、分断統治で多数派のシンハラ人を少数派のタミル人に支配させる英国植民地支配お得意の手法がとられました。シンハラ人とタミル人の対立感情は、1948年の独立以降も持ち越されます。独立以降は多数派のシンハラ人が政権を握り、シンハラ人優遇策をとったのですが、それに対抗してタミル人はインド南部のタミル人と結束して、自分たちの国家建設を目指して立ち上がったのです。この目的のためにタミル人によって結成された武装集団が、LTTEだったのです。政府とLTTEの対立は、1983年7月23日以降に発生した暴動を発端に本格的な内戦へと突入しました。この日、LTTE側の政府軍兵士へのゲリラ攻撃によりシンハラ人兵士に死者が出たことをきっかけとして、スリランカ全土でタミル人への襲撃事件が頻発し、暴動へと発展します。政府は250人程度のタミル人が犠牲になったと後に発表しますが、市民団体の中には死者は3,000人に達するとしているものもあるといいます。それ以降続いてきた内戦ですが、2002年にはノルウェー政府の仲介で停戦合意となりました。しかし現実にはいまに至るまで和平は完全に訪れておらず、それどころか和平合意破棄と戦闘の再激化も伝えられています。
カリタススリランカはこの地域で平和構築プログラムに取り組んできました。同時に、2004年12月26日のスマトラ沖地震に伴う津波で被災した方々の復興事業にも取り組んでいます。津波復興事業も、この地の状況を考慮に入れ、平和構築を念頭に置いたプログラムとなっていました。地域共同体においては女性を中心としたグループを構成し、お互いに生活の様々な問題を話し合うことによって平和の内に共生する姿勢を身につけていくことを目的としています。つまり、シンハラ人やタミル人が、民族だけでなく仏教・ヒンズー教・イスラムといった宗教の違いをも乗り越えて、互いに話し合い協力するということを、身をもって体験していくのです。そしてそういったグループの活動を通じて、地域共同体全体へ、対立ではなく平和のうちに共存することの価値を広めていこうという、息の長い計画です。こういったグループの一つを訪問しましたが、様々な文化と宗教伝統が入り交じった歓迎を受け、またグループメンバーの女性たちの前向きな話に触れ、こういった社会の基礎をなす共同体から国家全体の平和構築へつながる可能性を感じることができました。(訪問した平和構築プログラムを実施している村にて。踊りでのお出迎え)
津波の被災者は海岸を遙かに離れた丘の上に、新たに建設された住宅に住んでいました。訪れた先はカリタスが支援している103家族が住む地域。もっとも彼ら自身が恐怖のあまり海から離れたこの地を選んだというよりも、政府が場所を指定してカリタスに住居建設を委託したのだとか。きれいにできあがった住宅がいくつも整然と並んでいるすぐ隣には、せっかくできあがっているのにうち捨てられたような建物がいくつも目につきます。復興住宅のモデル(図面)は政府が提供したものですが、実際の建設にあたってカリタススリランカはしっかりとした建築の専門家を雇用し、十分長持ちする家を建てたのだそうです。しかし残念ながら、そうではない安普請の建物を建設して撤退していったところもあるのだとか。安普請の家は使われずに放置されてしまいました。カリタスはしっかりとした建設をすることで、政府からも高く評価されているとのこと。最初の約束では政府がここに電気と水道を引いてくるはずだったのですが、なかなかその約束も果たされず、近頃になってやっと目処がついたとのこと。ちょうど水道の配管工事が進められていました。それにしてもこの地は町から離れすぎているし、交通の便も良くない。カリタスでは、この地で人々が独立できるように様座な収入創出プログラムを用意して、トレーニングを行ってきており、何軒かの家では、玄関先を店にしてちょっとした食料品を販売していました。我々を歓迎するために集まってくれた人々は、困難ではあるけれど、毎日を希望を持って生きている姿をはっきりと示してくれたのでした。(写真はカリタスの建設した復興住宅)
日曜日にはトリンコマレーのカテドラルで、朝6時半にもかかわらず、聖堂にいっぱい、200人を超える信徒が集まったミサを司式させて頂きました。エレクトーンの演奏でビートに乗った歌もすばらしく、壮麗さの中にも力を感じる典礼でした。
月曜日に、トリンコマレーを出て行く時の方が検問が厳しい。戦闘地帯であるこの地域から首都方面に向かって武器類が持ち込まれるのを防ぐため、厳しくしているとのこと。我々も検問所で降車。車は徹底的な検査へ、我々も荷物検査を受けました。さすがに戦闘地帯。我々がトリンコマレーを離れた翌日、LTTEが小型飛行機で飛来しトリンコマレーの港を爆撃していったのだそうです。しばしばあることではないものの、政府軍の防空能力がほとんど無い模様で、以前にも小型機で同じように爆撃をされたことがあるのだとか。驚きでした。(写真は復興住宅でちょっとした食料品を販売している女性)