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2008年9月30日 (火)

10月5日は全国で列福祈念ミサ

11月24日の百八十八殉教者列福式を間近にひかえ、司教団は10月5日から列福式の週までを「列福をひかえ、ともに祈る7週間」と定めました。その初日にあたる10月5日の日曜日には、全国の教会で「列福祈念ミサ」を捧げることとしています。当日の聖書と典礼には、表紙にロゴマークとともに記載がありますし、裏表紙には解説も記してあります。また共同祈願にもこの意向を一つ加えてあります。次の日曜日は、全国の信徒の方々と心を合わせて、殉教者たちの信仰の証しに思いを馳せ、私たちもその勇気に倣うことができるようにともにお祈り下さい。また信教の自由を保障されたこの国に住んでいるとその実態を想像することすら難しくなるのかもしれませんが、この時代にあってなお世界各地では、政治や経済の諸問題から派生して、宗教対立や宗教弾圧が横行しています。現代の迫害ともいうべきそのような状況下にあって、キリストを信じ、また神を信じる多くの善意の人々が、苦難の道を歩んでいます。その方々の苦しみも心に留めて、お祈り頂ければと思います。

「ともに祈る7週間」には、毎週のテーマが次のように定められています。

テーマ1 みことばと確かな信仰
テーマ2 信仰のきずなと教会
テーマ3 ゆずれないものとまことの自由
テーマ4 弱い立場の中に輝く希望
テーマ5 復活の福音を担う女性たち
テーマ6 父である神の思いを生きる親たち
テーマ7 慈しみの秘跡に仕える司祭
テーマ8 教会・いのちの秘跡

これらのテーマに基づいた祈りの手引きが、すでに中央協議会から発行されております。各小教区ではすでに準備をされていることと思います(詳しくはこちらをクリック)。手引きをよく活用され、お一人お一人の霊性を深める黙想のときとして下されば幸いです。

なお私は、10月5日のミサを高田教会で捧げます。

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2008年9月29日 (月)

地震の爪痕

Kosokuhoshu08 先日黙想会へ出かけるため北陸高速道を上越方面へと走っていたとき。長岡ジャンクションを過ぎ柏崎が近くなると、先の中越沖地震被害からの復興工事区間が始まります。現在は工事も進み、片側一車線通行にして最終的な舗装工事が行われているようです。そこで何度も目にしたのが、この写真のような光景。つまり車が走っている路面と、補修のため新しく舗装している路面のこの段差(ちなみに写真は助手席から撮っていますので、念のため)。少し先に進むとこのとても厚い舗装の意味が理解できます。そこかしこに架かっている橋と路面に大きな開きができている。橋が隆起したのか、はたまた路面が沈んだのかは存じ上げませんが、いずれにしろ橋がかなり高いところに残り、応急修理で橋の出入り口だけはスロープ状にしてあったのですが、これに路面全体をあわせていくと、こんなに舗装を積み重ねなくてはならないということです。このあたりの高速道路は都会と違って高架橋になっていない分、地震などで倒壊することはなさそうですが、盛り土ですから端から崩落したり、またはこのように地盤が沈下したりするのですね。

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2008年9月28日 (日)

花園教会で堅信式

Hanazono0801_2 世界難民移住移動者の日でもある今日の主日、新潟市内、新潟駅のすぐそばにある花園教会で、7名の方の堅信式を行いました。今年度は新潟県内の教会の公式訪問の年にもあたっていますから、2年ぶりの花園教会公式訪問でもありました。花園の分教会でもある鳥屋野教会の方々も参加して、聖堂はいっぱいでした。いろいろな教会を訪問して感じることですが、同じカトリック教会であり同じ典礼書に従ってミサをしていても、教会によってそれぞれ雰囲気が異なります。主任司祭の性格もあるでしょうし、信徒共同体の雰囲気もあるでしょう。あっちはどうだ、こっちはこうだとは書きませんが、花園教会は高藪神父様の指導ものと、荘厳で落ち着いた雰囲気の典礼でした。侍者もよく訓練されていて、香炉も使った荘厳な堅信式となりました。花園教会はどちらかといえば女性陣の多い共同体です。ミサ後の祝賀会でも、テーブルを囲んだ女性陣のパワーに圧倒されましたが、駅に近いという利便性もありますから、これからもメンバーが増えていくことが期待されます。(写真は本日の受堅者と一緒に)

本日の福音で主は、「考え直して出かけた」兄を評価します。考え直すことによって、自分の生きる枠組みを抜け出し、主が望まれる生き方の枠組みへと立ち位置を移したことを評価されているのです。そしてこのたとえが、まさしく毎日繰り返されるであろうぶどう園での働きへの呼びかけという状況を描くことで、「考え直す」ための呼びかけが私たちに対して、同じように日々繰り返されることを教えています。私たちは、ここで描かれる弟のように上の空で主の言葉を聞き流すのではなく、最終的には「考え直して」、主の望まれる生き方を選ぶことを日々求められているのです。弱い人間である私たちは、どうしても自分の安心できる今の立ち位置に安住して、都合の良いように主の言葉を解釈して生きる道を選択してしまいます。その弱い私たちを主は断罪するのではなく、毎日毎日繰り返すように、そして忍耐強く、「考え直す」ようにと呼びかけられるのです。

本日の世界難民移住移動者の日にあたり、教皇様はメッセージを発表されています。(全文はこちらをクリック)とりわけ新潟教区の私たちにとっては、8月にお届けした司牧書簡でも触れたように、国籍を超えた共同体づくりを大切にしていきたいと思います。教皇様は次のように呼びかけています。

「教会は移住者の世界にとくに注目しています。そして、母国でキリスト教の信仰を育んできた人々が、異なる生活環境の中でもたえずあかしをするために、その信仰の遺産と福音的価値観を実らせることを教会は望んでいます。まさにこのような観点から、わたしは受け入れ国の教会共同体にお願いします。若者や子どもとその両親を思いやりをもって受け入れ、彼らの生活の変化を理解しようと努め、彼らが溶け込むための助けとなるようにと」。

福音の理解に関しては、自分こそが正しいと思うときこそ、本当はイエスから限りなく離れていることが多いのです。自分こそが正しいなどと感じたら、それこそが「考え直す」ための主からの呼びかけだと思い直して、日々自分の立ち位置が主のもとにあるのかどうか、謙虚にふり返ってみたいと思います。

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2008年9月26日 (金)

黙想会終了

Karuizawa0801 伊藤司教様の時代から伝統になっている、新潟教区とさいたま教区(当時は浦和教区)の教区司祭合同黙想会が、本日無事終了しました。それぞれの教区には修道会や宣教会の司祭も働いているわけですが、この黙想会は教区司祭団の黙想会です。隔年でそれぞれの教区が持ち回りで担当していますが、新潟教区担当の今回の黙想会は、中軽井沢の宣教クララ会黙想の家で月曜日から行われました。以前は表通りに面した交差点にジャスコがあったのですが、ジャスコも軽井沢から数年前に撤退し、跡地にはすてきなリゾートマンションが建っていました。おかげで交差点の風景が変わり、危うく道を見失うところでした。総勢で30名ほどが参加した黙想会の指導は、東京教区本部事務局のチェレスティーノ神父様。イタリア人の神父様は、来日された頃から禅に親しまれ、今回の黙想でも、ご自身の禅の体験や瞑想などについて、さらには自然との一体感を祈りのうちに感じるためにと、ご自分が撮りためておられる風景写真を音楽と共に鑑賞する一時も設けられ、新しい発見と静けさと休息の数日間となりました。それにしても私が知らない禅のことや仏教のことを、本当によく知っておられる。驚きました。(写真は、黙想の家聖堂)

Karuizawa0802 宣教クララ会のシスター方には毎日おいしい食事を用意して頂きました。感謝。写真にあるとおり、食事後には当番を決めて皆で皿洗いです。初日から一番率先して皿を洗っていたのは、さいたま教区の谷司教様でした。今回は幸いに、司教団関係の会議や行事が重ならなかったため、私も谷司教様も最初から最後まで司祭団と一緒に過ごすことができました。教区司祭団ですから、基本的には修道者のような共同生活を基本とする生き方ではないのですが、しかし黙想会のような機会に、朝晩の祈りをともにし、一緒にミサを捧げて祈りまた聖歌を歌うとき、「共同体性」の重要性を実感します。イエスご自身が弟子たちを集めて共同体となさったように、私たちも同じくイエスのもとに集められているという自覚を持つことができます。もちろん私たちはあの弟子たちの足元にもおよばない未熟な弟子たちに過ぎませんが、それでも司祭としての召命をこの地で受けた共同体としてのつながりを、互いに実感した数日となったのではないかと思います。ご指導下さったチェレスティーノ神父様に感謝します。(というわけで、この一週間は日記の更新はありませんでした)

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2008年9月21日 (日)

新潟教会では敬老ミサ

Keiro08 本日の主日9時半のミサ、新潟教会では敬老ミサを捧げました。昨日が司教叙階4周年でもありましたので、その感謝の意味も込めて、このミサは私が司式させて頂きました。あいにくの雨模様でしたが、大勢の人生の大先輩たちが集まって下さり、聖体拝領後に長寿を祝うお祈りと祝福をいたしました。名簿によれば、新潟教会に75才以上の方は78名おられるとのこと。参加することが難しかった方も含めて、お祈りさせて頂きました。またミサ後には信徒会館で茶話会も開かれ、新舞踊の披露もあり、楽しい一時でした。(写真はミサの聖体拝領祈願の後に、ミサに出席しておられた75才以上の方々に前に出てきて頂き、祝福の祈りの後、聖水で祝福しているところです)

ミサの説教でも申し上げましたが、本日の福音はぶどう園の主人と労働者のたとえ話でした。神が大切に思っていることを、この世の現実の中で暮らしている人間は理解できないことがしばしばであることを教えてくれるたとえ話であろうと思います。すなわち、この世の現実の中で命をつないでいくことが大切な人間は、働いた時間や量に応じた報いを受けることが大切なのですが、この場合神にとって大切なのは時間や量ではなく、ぶどう園で働くということそれ自体であるのです。声をかける神に応えて、神の働き場所へ足を運びその使命を果たす心づもりがあるのか無いのかの方が、大切であるということです。イエスが弟子たちを最初から「複数」で集められ、「複数」で派遣されたように、イエスを信じる者にとって共同体の存在は不可欠です。

ともすれば共同体の存在は自由を束縛するので、信仰はひとりだけで守っていくのがよいと感じるものですが、それは身勝手な信仰への誘いともなり得ます。私たちは神が望まれていることを、共同体における交わりのうちに知ることができるのです。

先に新潟教区でも設置した宣教司牧評議会は、そういった神の望みを知るための一つの手段です。新潟教区において、福音宣教という究極の目的のために、実際に何をすればよいのか、何が求められているのか。神の望みを知るために、神によって集められた共同体が共に識別をするための組織です。二回の会合を通じて少しだけ見えてきたことをまとめたのが、8月15日に発表した司牧書簡です。問題は、何を成し遂げたのかではなく、呼びかけに応える思いがあるのか無いのかです。まずそこから始まって、初めて何かを成し遂げることができるのだろうと思います。小さな努力を結集して、共同体として力強く、福音を告げ知らせて参りましょう。

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2008年9月20日 (土)

4年が経ちました。感謝。

本日9月20日をもって、司教に叙階され新潟教区長として着座して4年が経ちました。祈りをもって支えて下さった多くの方々への感謝を込めて、明日、21日の主日には、新潟教会で9時半のミサを捧げる予定です。様々な方法で、また様々な地域から、支えて下さるお一人お一人に、心から感謝申し上げます。

Oridination040920 あっという間の4年であった気がします。なにぶん右も左も分からない新潟という地でしたし、そもそも教会の事情も知らず人脈もないところで、これまで続いてきていたことを引き受けて継続していくこと自体が、なかなかの挑戦でした。加えて、12才の頃から修道会という世界の中で生きてきた身にとっては、教区司祭の世界は未知の世界でしたし、修道会の意志決定プロセスと教区の意志決定プロセスが異なっていることにも戸惑いました。同じカトリック教会の組織の中で生きていても、教区と修道会とでは互いに知らないことが多々あるものだと、今でも驚くことがあります。また一口で新潟教区といっても、秋田・山形・新潟の現実には大きな違いがあり、何度も訪れてきたのですが、未だに知らないことが多くて愕然とすることもあります。多くの方々のご協力で宣教司牧評議会を立ち上げることもできました。その話し合いに基づいて、まず第一回目の司牧方針を記した司牧書簡を出すこともできました。これからまた時間をかけて、少しずつ実現していきたいと思います。一人でも多くの人に、イエスの福音を伝えていくことができるように、まず一人ひとりが福音の価値観を自分のものとし、祈りのうちにイエスとの出会いを求めながら、それを基礎として福音的価値観をあかしする共同体づくりを進めていきたいと思います。残念ながら、社会全体をみるならば、神の意志とはかけ離れた、そしてイエスの福音とはまったく異なる価値観が、日々の生活を支配しているようにしか見えません。教会の中にでさえ、イエスの福音を理解し切れていない現実が、残念ながらあります。そういった中で、少しずつ、近し着実に、イエスご自身のまなざしを求めながら、神の国の実現のために努力していきたいと思います。どうぞ今後とも、教区の皆様のお祈りとご協力・協働を、なにとぞよろしくお願い申し上げます。(写真は、4年前の9月20日、司教叙階式で故佐藤敬一司教様から按手を頂く)

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2008年9月18日 (木)

「神の名」

9月21日付のカトリック新聞に掲載されていますが、教皇庁の典礼秘跡省は夏前に各国の司教協議会に書簡を送り、「神の名」について、しばしば「ヤーウェ」などと翻訳されている「神聖四字」を、直接に発音したり使ったりしないようにと指示をされました。個人的に普段祈る時には、この「神の名」を口にすることはほとんど無いと思いますので問題は無かろうと想像いたしますが、特に教会の祈りなどに用いられている詩編の翻訳で「ヤーウェ」とされている箇所が多くあります。東京の大神学校では、すでに長いこと、教会の祈りを唱えるにあたって、「ヤーウェ」と記されているところを「主」と読み替えていました。先日の常任司教委員会で指示通り読替を行うことを決定したのですが、一覧表を作成したところ、まず数が多いことと、翻訳の関係上単純に「主」と置き換えることが難しい箇所が判明し、これについては具体的に読替の指示を作成することになりました。この読替指示の具体的な通知が司教協議会から正式に教区へ届き次第、新潟教区内でもお知らせしようと思います。典礼秘跡省の指示通り、確かに旧約聖書の朗読で神聖四字は発音されなかったのですし、その後のブルガタの翻訳などでも「主」が用いられてきたのですから、その意味では伝統に沿った読み方となるでしょう。

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2008年9月16日 (火)

新潟教区大会無事終了

08kyokutaikai01 第17回目となる新潟教区大会が、9月14日と15日、秋田市の聖霊短期大学を会場に開催されました。「殉教者を学ぶ」をテーマに、秋田県内各教会をはじめ、山形や新潟からも多くの参加者があり、司祭・修道者も含めて300名ほどが集まりました。3年ごとに開催される新潟教区大会は、以前は主に新潟で開催されてきましたが、前回から各県で持ち回りとなり、前回は山形県の鶴岡で開催されていました。そして今回は初めての秋田での開催です。準備をして下さった秋田地区の方々に、心から感謝申し上げます。また会場を提供して下さった聖霊短期大学にも感謝します。県外からはバスで一緒に移動したグループがいくつかあり、初日の晩の宿の関係もあり、夜の交流会に秋田以外の参加者が少なかったのがちょっと残念でした。(写真は初日夜の交流会の模様)

08kyokutaikai02 今回の大会は、新潟教区殉教者特別年に因んで、しっかりとした殉教者の勉強会となりました。今回の列福のために長い間尽力されてきた溝部司教様を講師に招き、米沢の殉教者を中心に歴史的事実とそこから学ぶ現代への適用を、二日間にわたり詳しくお話し頂きました。午後2時から始まった初日、溝部司教様の講話とミサが終わり、その夕方には、お弁当と豚汁を囲んで、聖霊短期大学の学食を会場に交流会が行われました。秋田県自体も広いですし、教区の一番端同士(新潟の糸魚川と秋田の鹿角)の間では、車での移動に10時間近く要するのですから、お互いになかなか出会う機会もありません。初めて、または久しぶりに出会う貴重な機会となりました。交流会では尺八演奏や民謡の披露、飛び入りの歌の披露もあり、和やかな時間を共に過ごしました。また同時刻に、聖霊短大の教室を会場に青年たちの交流会も行われ、二グループに分かれて殉教者についての熱心なわかちあいが行われました。青年たちの活動も、段々と本格化してきているようで頼もしい限りです。今後に期待します。(写真は語る溝部司教様)

08kyokutaikai03 二日目の講話の後、10時半から私の司式でミサを捧げました。説教では、先月発表した、宣教司牧評議会を受けての新潟教区の司牧方針について記した司牧書簡に関連して、お話をさせて頂きました。次回、3年後は、新潟県内のどこかでの開催となります。場所はお楽しみに。新潟教区はやはり地理的にお互いが遠く離れていますので、こういった持ち回りの大会開催を大切にしたいと思います。やはり実際に顔を見て互いに知っていることは、教区として物を考えるときにとても大切なことだと思います。司祭にしても教区内には30名ほどしかいないのですが、それでも名前は知っていても顔を知らないと言うこともあるかもしれません。こういう物理的な交わりのときを、これからも大切にしたいと思います。私は土曜日から今朝まで、聖体奉仕会に宿泊しましたが、教区大会においでになった方々も大勢が聖体奉仕会を訪問して下さいました。感謝します。(写真は、講演とミサを行った会場の様子)

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2008年9月13日 (土)

明日・明後日は新潟教区大会 in 秋田

明日9月14日午後2時から、秋田市の聖霊短期大学を会場に、新潟教区大会が開催されます。今回は殉教者特別年を祝っている新潟教区として、殉教者についてさらに学ぶため、今回の列福に関して司教になる前から特別委員会のメンバーとして中心的役割を果たしてこられた溝部司教様をお迎えして、二回にわたりお話し頂きます。日曜の夕方のミサは溝部司教様、そして月曜の午前中のミサは私が司式します。月曜日のお昼には終了の予定となっています。新潟や山形からも多くの方が参加されるようです。秋田の皆様、教区大会でお会いしましょう。

私は今から秋田へ車で出かけます。6時間ほどのドライブであります。明日以降お出かけになる方も、無事で楽しい旅行となりますように。

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2008年9月 9日 (火)

この数日は・・・

先週はフランシスコ会北関東地区会員の黙想会で、話をしてきました。主にさいたま教区で働く13名の会員が参加されました。私は黙想指導の専門家ではないので、毎日のミサでの説教と毎日午前と午後の二回の講話は、楽ではありませんでした。

昨日と今日は教区の顧問会。毎年二回は新潟以外の各地区で顧問会を開催しているのですが、今回は長岡地区の担当。長岡のブルーノ神父様が手配して下さった川口にある温泉施設へ。そして会議が終わった今日は、長岡の表町教会で11時からミサを捧げ、昼食をいただいて戻ってきました。

明日は朝から東京へ。明日がカリタスの会議で明後日は常任司教委員会と社会司教委員会。そして土曜日には秋田へ移動です。14日の午後から15日まで、秋田市内にある聖霊短大を会場に、新潟教区大会です。今回は殉教がテーマなので、溝部司教様においで頂き講話をお願いしています。また14日の夕方には、土崎教会で若者たちの交流会も予定されています。14日のミサは溝部司教様、15日は私が司式します。新潟へ戻るのは16日。18日と19日は再びカリタスの会議で東京。22日から26日までは新潟教区とさいたま教区の教区司祭合同黙想会。28日の日曜日は新潟の花園教会で堅信式です。そしてあっという間に9月も終わるのです。

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スリランカ訪問記その3

Srilanka0811 古都キャンディを後にして、スリランカの南部の町ゴール(Galle)に向かいました。そう、あの、ゴキブリに噛まれた町です。この町はかつてヨーロッパとアジアを結ぶ交易の拠点港の一つとして栄えた町で、旧市街と要塞群はこれまた世界遺産に登録されています。南部の一帯は2004年12月の津波で大きな被害を受けました。私たちがニュースなどでもしばしば目にしたバスなどが流されていく光景。たまたまバスターミナルのある町の中心部で、ホテルの上の階から撮影されたのだそうですが、そのビデオの全体を今回カリタスゴールの事務所で見せて頂きました。津波が押し寄せ、バスやしがみつく人々を引きはがして流していく様が、克明に記録されていました。ほんの一部を切り取って流されたニュース映像ではわかり得ない津波の威力の恐ろしさを感じました。もっともゴールの旧市街は、世界遺産ともなっている要塞群の城壁が盾になって、大きな被害を免れたのだといいます。カリタスの事務所もカテドラルも、そして司教館も、この城壁の中にありました。(写真はカテドラル)

ゴールの町へ向かう主要道は美しい海岸線に沿って走ります。津波で破壊された家々が、今でもそのまま残されています。その脇を鉄道が併走しているところがありました。道路脇に大きな記念碑が建っていました。あの津波の日、押し寄せる波に驚いて、通りがかった列車に地元の人も避難したといいます。ところが列車は無残にも波に飲み込まれ、分かっているだけで(つまり遺体が発見されただけで)列車からは1270人、村の人が249人犠牲になったのだというのです。犠牲者を悼んで建立されて記念碑でした。

Srilanka0810 ゴールでは諸宗教の代表との会合に参加しました。ゴール教区のハロルド・ペレーラ司教をはじめ、仏教やヒンズー教、イスラムのリーダーたちが定期的に集まり、和平構築のための相互信頼醸成に努めていたのですが、これが津波の被災者支援のためにも役に立ったのだとか。カリタスが支援して建て直された教室のあるイスラムの学校にも、その日の朝に出かけました。こうやって宗教の壁を乗り越えてお互いに協力しながら復興にあたったことが、互いの信頼醸成には大いに役に立ったのだそうです。そしてすでにコロンボでの宗教者の会合の記事でも触れましたが、全国的な和平構築にこういった相互信頼と協力が大いに寄与するのです。ところでこの学校の外壁に「5S」としてこう記してありました。「SEIRI, SEITON, SEISO, SEIKETSU, SHITSUKE」。そう日本語の「整理、整頓、清掃、清潔、しつけ」です。どこから引いてきたのか知りませんが非常に興味深く拝見させて頂きました。

さあ、あとはゴキブリに噛まれてコロンボに戻っただけです。ちなみにその傷もそろそろ良くなりました。すでに書いたのですが、近頃は段々と先進国ではない海外での生活の勘が鈍ってきており、先日のアフリカ行きではパスポートの次に大事なイエローカードを忘れていくし、今回の噛まれた原因も、以前なら寝る前に気をつけて肌の露出部分に虫除けを塗ってから就寝していたのを忘れてしまったのでした。だんだんと現場向きではなくなってきているのが寂しい限りであります。

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2008年9月 8日 (月)

スリランカ訪問記その2

Srilanka0807 「20周年を記念してスリランカの人々に感謝」
スリランカの茶畑に突然現れた、英語に日本語が併記された看板にはびっくりしました。「キリンの午後の紅茶」が発売20年になるのを記念して、感謝を込めて掲示したのだそうです。スリランカ中央部の高地にあるキャンディを3日目に訪問しました。キャンディはスリランカ仏教の聖地であり、16世紀後半のシンハラ朝の最後の首都として、町全体が1988年に世界遺産に登録された文化遺産の町でもあります。町の中心には巨大な寺院と美しい湖があり、風光明媚な町でした。(写真はキャンディの町を見下ろす山に据えられた仏像)

 このキャンディの郊外には至る所に「エステート」と呼ばれるお茶のプランテーションが広がります。200年ほど前に、英国がセイロンで茶の栽培を広めるために、すでに実績のあったインドから労働者を移住させてはじまったのだといいます。聞くところでは、運ばれてきた労働者は北東部の港に「陸揚げ」され、そこからキャンディまで、道無き道を200キロ以上も歩くことを強制され、多くの人が命を失ったというのです。その子孫たちが、いまも十分に国家から権利を保護されることなしに、過酷な労働に従事しているのだといいます。

 結局、プランテーションでの労働で家族を支えることが難しいため、女性たちは海外への出稼ぎに出かけるのです。多くの場合、ブローカーに仲介され、中東諸国へ家政婦として出かけていきます。ところがこの働き場所が楽ではない。性的暴行や暴力など、醜いまでの人権侵害があるのだといいます。

Srilanka0809   カリタスキャンディは、この人権侵害に立ち向かうプログラムを実施しています。プログラムでは、パンフレットや日本のワイドショーの再現ドラマ張りのDVDを作成して、何とか海外へ出かけることを思いとどまらせる活動をしたり、人権侵害にあたっては救済の手助けをしたり、帰国後にトラウマを抱えた人たちのリハビリにあたったりしています。当事者の何人かが集まって話を聞かせてくれました。これが同じ人間に対してすることなのかと驚くような虐待と暴力の内容です。実際に体に傷を負って帰国した女性が、しみじみとその体験を語った時の悲しい目。それでもその体験をここまで語ることができるほどに回復したのは、カリタスのトラウマカウンセリングの効果だといいます。カリタスのこのプログラムではプランテーションの共同体への働きかけも積極的に行い、生活改善や家畜の飼育などを通じて収入増加を図るなどして、海外への労働流出を食い止めようと努力しています。(写真はエステート労働者の住宅にて)

 一つの「エステート」を訪問しました。夕方、仕事が終わった人たちが教会に集まって歓迎してくれました。いろいろと話を聞いたあとに、お茶が出てきました。私には、とってもおいしい紅茶に感じました。普段日本で飲むことのある紅茶は遙かに及ばない、こくのあるおいしさです。ところがあとで近くの工場で聞いたところでは、従業員たちは工場で最後の最後に床にこぼれた紅茶をやっと手に入れることができるだけなのだとか。それでも心を込めて入れてくださった紅茶と、レモンクリームのビスケットのおいしかったこと。

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2008年9月 6日 (土)

スリランカ訪問記その1

スリランカは穏やかで笑顔に満ちた、自然の美しさにあふれた国でした。服装や町の光景は、すぐお隣のインドとそれほど変わらないものの、基本的に仏教国であるという宗教の違いがそうさせるのか、スリランカの人たちの控えめな優しさは、どちらかというと荒々しさの感じられるインドとは異なる印象がありました。

Srilanka0804_3 8月23日から30日までのカリタスジャパンの視察。最初に訪れたのは、北東部の港町トリンコマレー。首都コロンボから300キロほどの道のりです。6時間以上をかけて車で移動。ちょうど旅程の半分ほどまでは、きれいに舗装された道のりでしたが、半分をすぎたあたりから車の振動が激しくなります。そして道ばたに武装警察官や兵士の姿がやたらと目につくようになり、町の入り口などには検問所が。さらに道を進むと、なんと数百メートルおきに兵士が銃を手に歩哨に立っており、戦闘に備えた塹壕が道ばたにいくつも連なっているのです。この地域からインドとの国境となるジャフナに向けては、現在も継続している内戦の戦闘地域にあたります。(写真は検問所の一つ。バスの乗客は検問所までで降車し、徒歩で検問を渡ってから、反対側で再びバスに乗車する)

 内戦は反政府組織LTTE(タミル・イーラム解放の虎)と政府軍との間で、25年以上も継続しているのです。もともとイギリスの植民地であった頃は、分断統治で多数派のシンハラ人を少数派のタミル人に支配させる英国植民地支配お得意の手法がとられました。シンハラ人とタミル人の対立感情は、1948年の独立以降も持ち越されます。独立以降は多数派のシンハラ人が政権を握り、シンハラ人優遇策をとったのですが、それに対抗してタミル人はインド南部のタミル人と結束して、自分たちの国家建設を目指して立ち上がったのです。この目的のためにタミル人によって結成された武装集団が、LTTEだったのです。政府とLTTEの対立は、1983年7月23日以降に発生した暴動を発端に本格的な内戦へと突入しました。この日、LTTE側の政府軍兵士へのゲリラ攻撃によりシンハラ人兵士に死者が出たことをきっかけとして、スリランカ全土でタミル人への襲撃事件が頻発し、暴動へと発展します。政府は250人程度のタミル人が犠牲になったと後に発表しますが、市民団体の中には死者は3,000人に達するとしているものもあるといいます。それ以降続いてきた内戦ですが、2002年にはノルウェー政府の仲介で停戦合意となりました。しかし現実にはいまに至るまで和平は完全に訪れておらず、それどころか和平合意破棄と戦闘の再激化も伝えられています。

Srilanka0803_2 カリタススリランカはこの地域で平和構築プログラムに取り組んできました。同時に、2004年12月26日のスマトラ沖地震に伴う津波で被災した方々の復興事業にも取り組んでいます。津波復興事業も、この地の状況を考慮に入れ、平和構築を念頭に置いたプログラムとなっていました。地域共同体においては女性を中心としたグループを構成し、お互いに生活の様々な問題を話し合うことによって平和の内に共生する姿勢を身につけていくことを目的としています。つまり、シンハラ人やタミル人が、民族だけでなく仏教・ヒンズー教・イスラムといった宗教の違いをも乗り越えて、互いに話し合い協力するということを、身をもって体験していくのです。そしてそういったグループの活動を通じて、地域共同体全体へ、対立ではなく平和のうちに共存することの価値を広めていこうという、息の長い計画です。こういったグループの一つを訪問しましたが、様々な文化と宗教伝統が入り交じった歓迎を受け、またグループメンバーの女性たちの前向きな話に触れ、こういった社会の基礎をなす共同体から国家全体の平和構築へつながる可能性を感じることができました。(訪問した平和構築プログラムを実施している村にて。踊りでのお出迎え)

Srilanka0805_4 津波の被災者は海岸を遙かに離れた丘の上に、新たに建設された住宅に住んでいました。訪れた先はカリタスが支援している103家族が住む地域。もっとも彼ら自身が恐怖のあまり海から離れたこの地を選んだというよりも、政府が場所を指定してカリタスに住居建設を委託したのだとか。きれいにできあがった住宅がいくつも整然と並んでいるすぐ隣には、せっかくできあがっているのにうち捨てられたような建物がいくつも目につきます。復興住宅のモデル(図面)は政府が提供したものですが、実際の建設にあたってカリタススリランカはしっかりとした建築の専門家を雇用し、十分長持ちする家を建てたのだそうです。しかし残念ながら、そうではない安普請の建物を建設して撤退していったところもあるのだとか。安普請の家は使われずに放置されてしまいました。カリタスはしっかりとした建設をすることで、政府からも高く評価されているとのこと。最初の約束では政府がここに電気と水道を引いてくるはずだったのですが、なかなかその約束も果たされず、近頃になってやっと目処がついたとのこと。ちょうど水道の配管工事が進められていました。それにしてもこの地は町から離れすぎているし、交通の便も良くない。カリタスでは、この地で人々が独立できるように様座な収入創出プログラムを用意して、トレーニングを行ってきており、何軒かの家では、玄関先を店にしてちょっとした食料品を販売していました。我々を歓迎するために集まってくれた人々は、困難ではあるけれど、毎日を希望を持って生きている姿をはっきりと示してくれたのでした。(写真はカリタスの建設した復興住宅)

Srilanka0806  日曜日にはトリンコマレーのカテドラルで、朝6時半にもかかわらず、聖堂にいっぱい、200人を超える信徒が集まったミサを司式させて頂きました。エレクトーンの演奏でビートに乗った歌もすばらしく、壮麗さの中にも力を感じる典礼でした。

 月曜日に、トリンコマレーを出て行く時の方が検問が厳しい。戦闘地帯であるこの地域から首都方面に向かって武器類が持ち込まれるのを防ぐため、厳しくしているとのこと。我々も検問所で降車。車は徹底的な検査へ、我々も荷物検査を受けました。さすがに戦闘地帯。我々がトリンコマレーを離れた翌日、LTTEが小型飛行機で飛来しトリンコマレーの港を爆撃していったのだそうです。しばしばあることではないものの、政府軍の防空能力がほとんど無い模様で、以前にも小型機で同じように爆撃をされたことがあるのだとか。驚きでした。(写真は復興住宅でちょっとした食料品を販売している女性)

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2008年9月 1日 (月)

スリランカは痛かった

Srilanka0801 どうも私は「ゴキブリ」に噛まれてしまったようです。「ゴキブリ?」。そんなばかな。美しい海と山のスリランカから、土曜日の夕方に帰国しました。カリタスジャパンが支援してきた津波復興プログラムと和平構築プログラムの視察団、国際デスクの稲江さんと秘書の成井神父に同行しました。七月末のアフリカ旅行でも感じましたが、30代後半や40代前半頃のどれほど強行軍でも大丈夫という体力はそろそろ衰えはじめ、ちょっとは休憩がないと、現場での活動がこの身には厳しくなってきているのでありました。

木曜日の朝にスリランカ南部のゴール(Galle)市内の宿で目が覚めると、右上腕部になにやら傷みが。鏡で見てみますと、何かに刺されたのか噛まれたのか、上下に数センチの傷跡が。とりあえず携帯しているテラマイシンの軟膏をぬって様子を見ることに。翌日にかけて真っ赤になって腫れ上がり熱っぽくもある。そこで金曜日にコロンボへ出ていたので、病院へ連れて行ってくれるようにカリタススリランカの方にお願いしました。そうしたら何とも巨大で立派な、高級ホテルと見まごうばかりの病院へ。スリランカでは基本的に公立病院では国民は無料で診てもらえるのだとか。そのため公立病院はいつでも満員。そこで民間病院の出番です。私が連れられていったアポロ病院はインド系のグループ企業だとか。救急部へはいり、即座にドクターに診てもらいました。「昨日も同じ症状で外国人が来た」とドクター。一緒に出かけたカリタス職員の「ゴキブリじゃあないでしょうかね」の問いかけに、ドクターのうなずくこと。スリランカのゴキブリはそんなに凶暴なのか。抗生物質やらいろいろともらってきました。

Srilanka0802スリランカでは、04年12月26日のスマトラ沖地震による津波被災者の復興事業と、1978年頃から継続しているタミル・イーラム解放の虎(LTTE)と政府との間での内戦状態を打開するために実施されている和平構築プログラム、さらに中部キャンディで行われている移住労働者の人権擁護プログラムなどの視察を行いました。なかでも、和平構築は、国際カリタスのネットワークの支援を受けてカリタススリランカが中心となりながら、スリランカの宗教各派のリーダーをとりまとめ、宗教者として一致して政府に働きかけている姿を見せつけられました。特にコロンボにおいてテレビ説法で大人気という仏教(スリランカは仏教国)のリーダーや、ヒンズー教、イスラム教、アングリカンなどのリーダーたちとの会合がセットされており、その場で仏教のリーダーから、「日本は平和の国なのだから、もっとリーダーシップをとってスリランカの和平のためにも働きかけて欲しい」という要望もありました。 さて、スリランカで見たこと聞いたことは徐々に書いていくとして、本日の夕方から土曜の昼まで、フランシスコ会の北関東ブロックが主催する会員の黙想会でお話をするために不在にします。従って次の更新は、黙想会から戻った後の土曜日以降です。あしからず。メールは携帯でチェックできると思いますが、お返事は来週の土曜以降になろうかと思います。ご了承下さい。(写真、上は津波被災者のためにカリタスによって建設された住宅を訪問した際。北東部トリンコマリー付近。下は、中部キャンディ郊外のお茶プランテーションで見かけた「キリン午後の紅茶」の感謝看板)

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