まもなく四十代ともおさらばです
あと数時間で40代ともさようなら。11月1日で50才になります。あっという間の10年間でした。思い返せばこの10年は、激しい移り変わりの時でもありました。めまぐるしい変化というよりも、立場が大きく移り変わった10年でした。それは同時に、ひたすら管理職としてすごした10年でもありました。
司祭に叙階されてから、最初の8年はアフリカのガーナの山奥で、小教区で働いていました。日本に戻ってからは神学院での養成に携わり、同時にルワンダ難民キャンプに関わったことからカリタスジャパンのお手伝いもはじめました。立場が大きく変わったのが、39才も終わろうとしていた98年の10月。自分の修道会の管区長に任命され、それが管理職の始まりでした。もちろんその後も、ありがたいことにカリタスジャパンの仕事は続けることができたし、短大や大学で非常勤で教えることもでき、おかげで最終的には授業の内容を本にまとめることも出来ました。でも正直言って、120名近い会員を抱える管区の管区長は楽ではありませんでした。傍目にはどのように見えていたのか知りませんが、なかなか眠れずに苦しんだ夜がどれほどあったことか。それでも管区長は顧問会との合議制で決めることができるので、そういう意味での共同体性があり、顧問の皆様に支えて頂きました。全国の修道会の管区長さんたちの精神的ご苦労は、容易に想像がつきます。教会法や会憲の縛りの中で、そんなに簡単に決断は下せず、外から中から様々な声を耳にしながら、日夜苦しむのです。管区長を努めておられる男女の修道者の皆様、本当にご苦労様です。
そして管区長の二期目の任期も終わろうとしていた04年5月。ちょうど来日中の自分の修道会の副総会長を乗せて車を運転していたときのこと。渋滞で止まっている最中に携帯電話が鳴り響き、それが教皇大使から、新潟司教への任命宣告でした。青天の霹靂とはこういうことをいうのでしょう。教会の内部事情を知らない方がどう思われるのか知りませんが、司教の任命は本人がまったく知らないところで数ヶ月にわたって継続されます(時には数年にわたって)。調査書類には、厳しく口外禁止が記してあります。ですから一体どれほどの人数の人が(司教、司祭、修道者、信徒)、司教候補者についての意見聴取の対象となったのかは、教皇大使しかご存じないでしょう。福音宣教省での司教選出の会議をよく知る関係者によれば、各地の教皇大使から提出される候補者の資料は微に入り細に入り、かなり厖大なものなのだとか。しかも枢機卿会議でちょっとでも疑問が出されれば採決は保留となり、教皇大使に再調査が命じられるとか。そしてもちろん最終的には、教皇様ご自身が書類に目を通して、複数いる候補者の中から、司教を選ぶのだそうです。とはいえ、すべてのプロセスは人間の業であると同時に、聖霊の働きでもあります。聖霊の働きであることを考えるならば、その選択に従わないわけにもいきません。教会の業は聖霊の業であることを信じないわけにはいきません。そしていま、新潟におります。
司教と管区長は、どちらも日本の法律上はそれぞれ宗教法人の代表役員ですが、教会的には役割がまったく違いますし、仕事の進め方もまったく違います。しばしばRoma locuta, causa finitaなんて冗談めかしていいますけれど、何となくそういう雰囲気の、司教としての仕事の進め方に、やっと慣れてきたところであります。新潟教区の皆様、どうぞ今後とも、足りないわたしのためにお祈り下さい。教区司祭団と協力して、皆様とともに少しでも福音的な新潟教区共同体を築いていくことができるように、これからも努力していきたいと思います。
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