黙想会もあと一日@豊中
先週末土曜日の夜から始まった善き牧者会のシスター15名の黙想会も、明日の朝のミサで終了です。朝のミサの説教と、午前と午後に40分くらいずつ、一日三度のお話をさせて頂いたり、シスター方と面談してお話を聞かせて頂いたりしております。今日はすでに午前中の講話が終わりましたから、残すところは午後の講話と、数名の方の面談と、そして明日の朝の派遣のミサです。シスター方のご好意で「気圧」という指圧のような施術の先生に来て頂いて、何度かもみほぐして頂いたので、普段より好調かもしれません。
もちろん司祭として養成されたので説教や講話は当然の務めですが、しかしこういった機会に「黙想指導」などと称してまとまったお話をさせて頂く毎に、自分が如何にたいしたものではないかを思い知らされます。教会の歴史には、霊的指導者として名声を博した聖人たちが大勢おりますが、その足下にも及ばない浅はかな自分の姿が、講話などをしている最中にはっきりと目に見えてしまい、思わず嘆息してしまいます。特に私の場合はアフリカでの生活やカリタスジャパンでの活動での実際の経験に基づいてお話しさせて頂くことが多いし、そもそも私の「蔵」にはその程度のものしか入ってませんから、何か霊的に深い聖なる話を求められても、お応えすることができずに恥じ入るばかりです。きっと神様ご自身の計らいのうちに、私のつたない話からも、神様ご自身が聞いている人の心に語りかけるであろうことを信じています。
私の特技はたぶん、頭では全然別のことを考えながらも、何とか口を動かして話を継いでいくことだと、こういった話をしながら感じます。原稿はいつも目の前にあります。30代や40代の頃は、本当に要点だけのメモ書きでした。50代になったあるとき、メモ書きで話に詰まったことがあり、その頃から原稿を書くようになってしまいました。でも講演中に原稿を目で追うのが、これまた不得意で、見失うのです。また原稿を読んでいると、自分がどういう構成で話をどんな結論に持って行くのかがわからなくなるときがあり、そういうときに頭が真っ白になります。未だに何が一番の準備なのか見いだしていないのですが、やはり結論に至る話の筋を一目見てわかるような図が、原稿とともに必要なのかもしれないと感じています。その意味で、かもしれませんが、パワーポイントを利用して、その画面を見ながら話をするのは結構得意とするところです。
写真は上は善き牧者会の本部修道院の聖堂です。写真下は玄関から聖堂へ至る廊下上部に掲げてある和紙の作品。
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