司牧訪問@糸魚川
本日の日曜日は、新潟教区の一番南の端に位置する新潟県の糸魚川教会を訪問しました。主任司祭は、数年前まで30年以上にわたって長岡の表町と福住教会の主任を務めておられたフランシスコ会のブルーノ神父。地域にはフィリピン出身の信徒も多く、今日のミサに集まった40名近い信徒の中にもお子さんと一緒にフィリピン出身信徒が大勢おられました。
新潟の司教館から糸魚川までは、北陸自動車道を経由して2時間半ほど。今日は9時半からのミサに間に合うように、朝6時半過ぎには司教館を出発。朝は快晴で、上越に近い大潟のパーキングでは雪をいただいた妙高方面の山並みがはっきりと見えました。
ミサではいつもそうなのかどうかは定かではありませんが、4名の侍者もつき、しっかりとそして頼もしく、若者の存在をアピールしておりました。
ミサ後は1時間にわたって質疑応答。私からは信仰年のことや100周年のお祝いのふり返りと感謝、そして新司教館建設についてお話しさせていただきました。信徒の方からは、若者が減少している中でどのように取り組むのかなど、教区の方向性についてのいくつかの質問や、先頃帰国したフィリピンからのシスター方が戻る可能性の質問などをいただきました。(なおシスターたちは、修道会の体制が整えば、また戻ってくると聞いております。私もそれを期待していますが、時期は未定です)
その中で、家族の中で一人だけが信徒である状況の厳しさについての分かち合いがありました。確かにそういった中で、たとえば信仰を証しすることの困難や、それを伝えることの困難を感じて、無力さに絶望を感じるということは、その通りだと感じます。しかし必ずしもそれらがすべて無駄なことではなく、やはり神のはからいの中にすべては起きていると、新潟に来てからつくづく考えるようになりました。それは、仮にそういった状況にならなければ、その家族の方々はキリストの事を耳にすることもなかったのに、結婚を通じて一人とはいえ家族の中に信徒がいることで、それが前向きであろうと後ろ向きであろうと、皆がキリストに触れる機会が与えられた。そのことは海外から来られて結婚している信徒の方も同じです。まさしく、神から宣教者として派遣されそこにおかれたのであって、孤独のうちに放置されているのではなく、神から派遣されたものとしてつながって召命を共に生きているのだと思うのです。
1時間の分かち合いのあとは、二階の聖堂から一階に下りて、皆で用意していただいた豚汁をいただきながら昼食会。みなさんありがとう。(二階に聖堂があるので、エレベーターが必要だと感じました)
帰りは西山インターチェンジで高速をおり、出雲崎方面に回り、海岸線を走って新潟へ戻りました。珍しく佐渡島がはっきりくっきりと見えておりました。
| 固定リンク | 0
「司教の日記」カテゴリの記事
- 八王子方面から二つの慶事(2024.06.04)
- 先週末から今日にかけて:カノッサ修道会、そして国際カリタス(2024.05.17)
- 教皇様にお会いしました(2024.03.19)
- 新年明けましておめでとうございます(2024.01.01)
- 2023年平和旬間、東京教区呼びかけ(2023.08.04)