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2013年4月 7日 (日)

新しい始まりの一歩

Seitai130407
今年は御復活と共に新年度が始まりました。4月1日の午後には、私が理事長を務めている社会福祉法人新潟カリタス会の辞令交付式でした。見附の聖母愛児園で今年異動になる方や新規採用の方々にお話をさせて頂きました。新潟カリタス会では見附と新潟の青山に施設を設けていますが、今年のその中で、見附の乳児院と愛児園の責任者が交代となりました。

乳児院には、これまで日赤病院の小児科で働いておられた鳥越先生に責任者としておいでいただきました。またこれまで乳児院の責任者を務めていた平原さんが愛児園の責任者となりました。新潟教区の真壁神父はこれまで愛児園の責任者を務めておりましたが、今後は法人の常務理事として、運営に携わることになります。行政はもちろんのこと、多くの方々の善意に支えられて福祉事業は成り立っています。昨今は家庭内の幼児や児童の虐待の事例も増加しているといわれます。こどもたちが幸せな人生をはぐくみ、生命の大切さを感じ生きる喜びと将来への希望を持つことができるよう法人の一同取り組んで参ります。

4月5日の金曜日午後1時半からは、新潟清心女子中学高校で入学式でした。新潟はこの日、すばらしい晴天に恵まれました。中学には40名ほど、高校には70名ほどが入学し、新しい始まりの一歩を踏み出しました。今年も生徒たちの力強い歌声が心に響きました。

その翌日、4月6日の土曜日午前10時からは、今度は秋田聖霊高校で入学式。秋田の聖霊は今年度から中学の募集を停止したため、高校生だけの入学です。今年は200名ほどの新入生でした。式が行われた体育館では一番後ろにハンドベル部とブラスバンドが控え、両者の絶妙な演奏で式を盛り上げ、また静粛のうちに黙して祈る一時を演出していました。

新潟清心では、卒業式でも入学式でも、在校生と卒業生または新入生のそれぞれのスピーチが良くできていて、いつも感心させられます。秋田聖霊では、新入生代表が校長からろうそくの火を受け取り、それを手に誓いの言葉を述べるところが、象徴的だと感じます。

さすがに秋田も4月に入り雪は消えました。3月はじめに卒業式に来たときはまだ大雪でしたが、今回は日陰に少し残るのみ。宿泊はいつものように聖体奉仕会ですが、山の上の雪も見事に消えていました。

今日の日曜日は復活節第二主日で、同時にヨハネパウロ二世によって定められた神のいつくしみの主日です。聖ファウスティーナが受けたメッセージに基づいたいつくしみの信心ですが、イエスの御心からいつくしみの光があふれている御絵が有名です。

神の限りないいつくしみに寄りすがると言うとき、すぐに歎異抄の親鸞の言葉、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」が頭に浮かびます。善人でさえも往生できるのだから悪人は言うまでもない」という逆説的な教えです。すがるものに与えられる慈悲の心の限りなさを感じさせます。

もっとも私たちの信仰は、実はすべてがあちら側にあるという信仰です。つまり、許すも許さないも神の領域の問題であって、私たちは善人も何も、自分たちのあり方に対して判断を下すべき存在ではないのです。そしてその神は、限りないいつくしみをもって私たちを包み込もうとされる。今日の福音はトマスの話でしたが、信じないトマスをばっさりと切って捨てるのではなく、信じるものとなるように根気強く招かれる主。あの話は、信じるかどうかの問題ではなく、共同体の一致のうちにあるかどうかの問題であろうと思います。主は、すべての人が御自らが「真ん中にたつ」主の共同体に招きたくて仕方がないのです。「信じるものとなれ」は共同体の一致のうちの交わりへの招きです。従って善人や悪人がということではなく、すべて賜物としての生命を頂いている被造物を、神はそのいつくしみをもって包み込みたい、その共同体の一員としたいのです。その神の強い思いと主のあわれみの聖心に信頼したいと思います。

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