「自分で聞いて・・・わかったからです」
来る御復活祭に洗礼を受けるために、この四旬節を準備の時として過ごされている洗礼志願者の方も多くおられると思います。残念ながら、カテドラルの新潟教会では、今年復活祭の洗礼志願者はおられないと聞いていますが、新潟教区全体では、毎年数十名の方が洗礼を受けられます。
四旬節第三主日の今日、ミサの間に「洗礼志願者のための典礼」が行われた教会も多かったのではないでしょうか。洗礼志願者がいない場合も、共同祈願の終わりに司祭が唱える祈りは「解放を求める祈り」という特別な祈りでした。洗礼志願者が「罪の重荷と悪のきずなから解放」されるように、教会共同体は共に祈ります。
さて今日の福音は、サマリアの女性とイエスの対話を記したヨハネ福音でした。イエスが与える水は「永遠のいのちに至る水」の湧き出る「その人の内で泉」となると記されています。イエスにおける信仰を持つことで、私たちの心にはすでにその泉が与えられているのだろうと思います。私たちは心の中に湧き出る泉の水に満たされて生きていくはずなのに、残念ながらさまざまな私たちの思いが、その泉をふさいでしまっているのではないでしょうか。
進む道が自らの望んだものでないときに、イスラエルの民はモーセに不平を漏らします。不平どころか、モーセは身の危険さえ感じたようです。でもそれは結局、神への挑戦だった。私たちは、自らの進む道が、単に自分の求めているだけのものなのか、はたまた生命の泉に導く神の用意された道筋なのか、常に見極める必要があります。神によって用意された道のりは、時として私たち人間の常識からは不平の対象にしかならない道であるかもしれません。
ところで、洗礼を準備されている方々に一つ、今日の福音の最後に記されている言葉から、大切なことを申し上げたいと思います。
福音の最後に、イエスの直接触れて信じるようになった人々が、最初にイエスと出会ったサマリアの女にこう言います。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです」
イエス・キリストにおける信仰にあって、大切なことの一つは、自己決断です。誰かに言われた通りに生きるとか、書かれているとおりに信じるとか、誰かが決めてくれた通りに生きるとか、誰か任せの信仰生活はあり得ません。最初のきっかけは誰かを通じてでしょう。信仰の基礎は要理を教えてくれた司祭などから受けたものでしょう。でもその先は、ご自分とイエスとの出会いの中で、自ら決断していくものです。「もうあなたが話してくれたからではない」のです。自分が自分で選び取り、判断し、決断して、信仰生活を歩んで行かなくてはなりません。教会共同体は、信仰生活を与えてくれる存在ではなく、かえって自らの足で信仰生活を歩むときに、一緒になってそれを支え、歩みを共にする存在です。同じ道を歩む仲間たちが教会にはいるはずです。私たちの教会の強さはそこにあります。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ18:20)」と言われたように、教会共同体にこそ主ご自身がおられます。ですから私たちはその中で、主と出会うのです。私と主との個人的な出会いなしに信仰はなく、同時に主のおられる共同体なしに信仰はありません。共同体の皆さんと信仰の歩みを共にしながら、その中で、どうか自分の決断を持って自分と主との関係の中で進むべき道を見極めていってください。
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