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2014年4月30日 (水)

第八回新潟教区宣教司牧評議会@新潟司教館

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毎年恒例で4月29日に開催されている新潟教区宣教司牧評議会が、昨日、新しい司教館の会議室で開催されました。秋田から長岡までの五地区から、それぞれ地区長の司祭と二名の信徒代表、さらに奉献生活者の代表、女性の会の代表と17名の評議員に、私と総代理の川崎師、事務教区長の大瀧師、記録係をしてくださった坂口氏、総務を担当する事務局の鎌田氏など22名の参加となりました。宣教司牧評議会も、今年で8回目となりましたが、まだまだ定着したとは言い難いかなとも感じております。
 
宣教司牧評議会は教区の信徒、奉献生活者、司祭の代表が一堂に会して、教区が直面する宣教司牧の課題について意見を交換する場です。主に司教が諮問する課題について、それぞれの地区の現状などを報告していただいてきました。何かを議決するための会議ではありませんが、ここでの話し合いに基づいて、これまで教区の優先課題などを定めてまいりました。
 
 
今回の会議は現在の教区の優先課題について、それぞれの地区などの取り組みについて、その課題も含めて報告を頂きました。どちらかというと、何をしてきたかの報告となり、それに伴う課題は何なのかというところまで踏み込んでいただけなかったのが残念でしたが、それでもいくらかの課題が見えてきたように思います。
 
 
なお現在の新潟教区の優先課題を、あらためて記しておきます。
 
A: 世代、国籍、文化の違いを乗り越え、喜びと思いやりにあふれた「私たちの教会」を育てる。
B: 教区、地区、小教区において、お互いの情報を共有し交わりを深めることで、社会における教会の役割を自覚する。
C: 継続した信仰養成を充実させ、社会の現実のうちで言葉と行いを通じて福音を証しする信仰者へと脱皮する。
 
また、今回は、教区100周年以降一年にわたって行われた「信仰年」の取り組みについてや、各小教区の組織運営形態についての報告もしていただきました。特に「信仰年」の取り組みに関しては、報告に基づいて今後、教区の報告書を作成し、司教協議会に新たに設置された新福音化委員会に提出いたします。
 
 
今回の話し合いから見えてきた課題について、少しだけ触れておきます。
 
 
まず、外国籍の信徒の方々とどのようにして共同体を一緒に育てていくかの課題が大きいと感じます。国や文化によって、教会を維持していくシステムへの理解が異なることや、同時に文化の違いをどのように乗り越えるか、また子どもたちの信仰教育をどのようにしていくのかなどが、今後考えて行かなくてはならない課題です。
 
 
さらに、教会共同体間の交流をどのように進め、維持していくか。教区内全般の共同体の協力関係や交流をどのように進め、維持していくのか。典礼における役割の学びをどう深めていくのか。
 
 
そして教会から離れている方々と、どのようにコンタクトをとっていくのか。
 
 
新潟教区は小さな共同体ばかりですので、始めてこられる方にとっても、久しぶりに来られる方にとっても、安心でき心の安まる共同体を育てていくことが大切であると思います。まさしく教皇フランシスコが強調されている「いつくしみ」にあふれた共同体を生み出すように、司祭を筆頭に教会共同体皆で取り組んでいきたいと思います。

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2014年4月26日 (土)

二人の教皇の列聖式@バチカン

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ご存じのように、明日の日曜日、復活節第二主日はヨハネパウロ2世によって「神のいつくしみの主日」と定められています。中央協のホームページには次のような解説が掲載されています。

教皇ヨハネ・パウロ2世は2000年から、ご復活の主日の次の日曜日(復活節第二主日)を「神のいつくしみの主日」と定め、この主日に神のいつくしみに対する特別の信心を行うよう望まれました。それは信者たちが聖霊の慰めの賜物を豊かに受け、神への愛と隣人への愛を強め、成長させることが出来るためです。この信心によって、信者たちはそれぞれ自分を反省して、罪の赦しを得た後、兄弟姉妹をすぐに赦すよう促されます。

そしてヨハネパウロ二世が生前用意されていた2005年の神のいつくしみの主日のための最後のメッセージには、次のような一文があります。

人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。この愛が、回心をもたらし、平和を与えます。どれほど世界は、神のいつくしみを理解し、受け入れる必要があることでしょうか。

私は、2000年に神言会の総会議がローマで行われた際、会議の参加者全員と一緒にヨハネパウロ二世に謁見することができました。冒頭の写真はそのときのものです。すでにかなり体は不自由になり、言葉もままなりませんでしたが、200人を超える会議参加者一人ひとりとしっかりと握手をし、祝福をくださいました。その後、2004年に、同じヨハネパウロ二世から新潟司教に任命を頂きました。ヨハネパウロ二世が来日された時は、私はまだ神言会の修練者でした。到着してすぐ直後、東京のカテドラルで、男女修道者との集いに、修練者全員で出かけた記憶があります。大聖堂内は、ありとあらゆる修道服のオンパレードでした。その際に、男子修道者を代表して教皇様に挨拶の言葉を述べたのが、その後私の前任新潟司教となる佐藤敬一師でありました。様々な意味で私の人生にもいろいろな思いでのある、教皇様です。

そして、お会いしたことはありませんが、ヨハネ23世は、もちろん第二バチカン公会議を招集された教皇様です。聖霊に導かれたヨハネ23世の英断がなければ、教会の今の姿はなかったことでしょう。もちろん聖なる教会は連綿と連続して存在しているのであって、第二バチカン公会議前と公会議後の教会が、全く異なる教会であることはあり得ません。そうではなくて、柱とする信仰の真理は全く変わることなく、それを時代に合わせてどのように生きるのかを真摯に追求して見いだそうとしたのが第二バチカン公会議であったと思います。教会が信仰を生きるにあたって、その姿勢があまりにも現実の世界とかけ離れ、過去に生きているとしたら、今生きている御言葉は、教会を置いてきぼりにしてしまうことすら考えられます。今生きている御言葉と歩みを共にするために、重要な役割を果たした公会議であったと思います。

教皇ヨハネ23世は1961年12月25日に使徒憲章「フマーネ・サル-ティス」を発表され、公会議を招集されました。「フマーネ・サル-ティス」に記された、次の言葉が心に響きます。

「現在、教会は人類社会が危機に直面していること、大きく変動していることを知っている。人類が新時代への転機に立っている現在、これまでの転換期にそうであったように、教会の任務は重い。教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送りこまなければならない」

これについては以前にも日記に記しました。このリンクを参照ください。この言葉を私たちは忠実に生きているのかふり返らなくてはなりません。

この二人の福者教皇は、明日、4月27日にバチカンで聖人の位に上げられます。偉大な二人の聖なる教皇の取り次ぎによって、父である神が教会をより強固な福音宣教者としてくださるように、明日のミサで祈りましょう。

なお列聖式の模様はバチカンから中継されます。インターネットの様々なサイトで見られますが、こちらのリンクはYoutube上のバチカンのリンクです。日本時間の午後3時頃から中継が始まるようです。

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2014年4月25日 (金)

司教館玄関ホールにステンドグラス

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新潟教区の新しい司教館(教区本部事務局)はまもなく、5月10日に竣工式を迎えます。建物本体工事は昨年暮れ頃までには終了し、その後、旧司教館の取り壊し、その跡地の整備、以前からある二階建てのヴィアンネ館の改修、中庭の整備、新潟教会関係の工事などが順次行われてきました。冬の間は雪や悪天候で一時工事がストップしましたが、この冬は雪も少なく、ほぼ予定通りに工事は進みました。

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そして一番最後に残されていた部分が、本日完成しました。教区事務局側の玄関(正面玄関)のエントランスホールに、ステンドグラスが入りました。

当初の設計段階では予定されていなかったのですが、その後、ステンドグラスを指定しての寄付をいただき、設置することになりました。設置場所は、もともと壁の予定であったところを、明かりを採るために設計変更して窓としたところでしたが、背後には中庭に面した回廊的部分が見渡せる場所で、午後には西側から光が射し込む絶好の設置場所となりました。

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ステンドグラスは、その道の専門家で、全国各地に作品が設置されている志田政人さんによって作成されました。タイトルを「聖なる生命の樹」として、全体は一本の樹をイメージしています。

そこに、下から「お告げ」、「エリザベト訪問」、「降誕」、「三博士の礼拝」が描かれ、一番上に「十字架上での死」が描かれています。

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今年の定例の教区宣教司牧評議会は、これまでの新潟教会センター二階ではなく、新しい司教館内の会議室で行われます。今回の改修では、ヴィアンネ館二階にも、6名ほどに対応した小会議室も設置しました。司教館と合わせ、今後は教区の様々な活動のために、集まりの場として活用していただければと思います。

新潟教区内の皆さんには資金的にご協力をいただいていることに、感謝申し上げます。建設のための特別献金は竣工式まで継続しております。詳しい会計の報告は、竣工式後には皆様にお知らせできるように準備しております。

また東京教区、横浜教区、さいたま教区、仙台教区、札幌教区からなる東京教会管区の皆様にも、本当に多額の寄付をいただきました.心より感謝申し上げます。さらには様々な修道会からも寄付をいただきました。感謝します。

そしてお名前はあげませんが、個人で本当に大きな寄付をしてくださった方が複数名おられます。ありがとうございます。竣工式の日のミサには、東京教会管区のすべての司教様方が参加してくださる予定となっております。ご協力いただいたすべての方々、お一人おひとりに神様の豊かな祝福がありますように、お祈りさせていただきます。

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2014年4月20日 (日)

復活の主日@新潟教会

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皆様、あらためまして復活おめでとうございます!

司教座の新潟教会では、昨晩夜7時から復活徹夜祭、そして本日朝9時半から日中のミサが行われ、ミサ後には信徒会館で復活のお祝いが行われました。

残念ながら今年の新潟教会の復活徹夜祭は洗礼がありませんでした。来年は期待できるようですけれど。新潟教区内の各教会で洗礼を受けられた方々、また全国、世界の教会で洗礼を受けられた方々、おめでとうございます。教会共同体における歩みが始まったばかりですから、どうぞこれからも一緒に歩みを続け、また信仰を知識でもまた霊的にもさらに深め、育てて行かれますように。

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それでも新潟教会の復活徹夜祭と日中のミサには、いつも以上に大勢の方が参加してくださり、聖堂は一杯でした。とりわけ、小さなお子さんを連れた家族連れがたくさんいてくださったことには、大きな希望を感じました。子どもがミサ中に騒いで心配なさっているご両親もおられるでしょうが、少なくとも私は、その叫び声や泣き声が、共同体の未来への希望の声に聞こえるので、気にはならないどころか、喜んでいるのでご心配なく。

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日中のミサには外国籍の信徒の方も多く参加してくださいました。ありがとうございます。なかなか言葉の壁があって、共同体のみなと意思の疎通が難しいのかも知れません。でも同じ信仰を持つ仲間として違いを超えて歩んでいきましょう。

For todays Mass of the Day, quite a number of sisters and brothers who are originally from other countries were present to celebrate with us. Probably because of language barrier, it would be quite challenging for both Japanese and non-Japanese to communicate each other. But we are family in one and same faith. So let us continue to walk together to overcome our differences.

日中のミサ後には、これまた信徒会館の二階が一杯になるほどの参加を得て、復活のお祝いのひとときを過ごすことができました。子どもたちや青年たちによる歌、私もピアノを弾いて歌いましたが、最後に皆で合唱して終わりました。どうぞ皆さん良い復活節をお過ごしください。

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2014年4月19日 (土)

ご復活、おめでとうございます。

皆様、ご復活おめでとうございます。

復活祭にあたり、ビデオメッセージを作成いたしましたのでご覧いただければと思います。なお復活徹夜祭の新潟教会での説教は.こちらのリンクからご覧いただけます

洗礼を受け新しく教会共同体の一員となられた皆様、おめでとうございます。神様からいただいた今日の祝福をいつも心に抱き、これからも継続して、信仰を育てて行かれますように。

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糸魚川市のユニークな取り組み@飢餓撲滅の小さな一歩になるか?

カリタスジャパンでは、国際カリタスの主導のもと、2025年までに世界から飢餓を撲滅しようと、現在キャンペーンを行っています。日本では「五つのパンと二匹の魚」と題して展開中です。(リンク先の昨年12月の日記でも紹介しました)現在世界では8億4200万人が飢餓で苦しんでいるにもかかわらず、世界で生産される食糧の三分の一は、廃棄されているという現実。国際カリタスは、まず多くの人がこの現状を知ることをめざしています。そのうえで、各国政府がすべての人の食糧への権利を尊重する法整備をすることや、慈善活動ではなくそれぞれの地域で必要な食糧を生産できるようなシステム構築などを提案していますが、さらにその前提として、一人ひとりが食糧を無駄にしないように意識を変えていくことも重要だと思います。日本でも大量の食糧を輸入しているにもかかわらず、かなりの量を廃棄していることはよく知られています。

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そんな中、日本酒で乾杯をなどを呼びかけている新潟県の糸魚川市が、これまたユニークな取り組みを呼びかけています。先日、糸魚川カトリック天使幼稚園50周年の祝賀会の席上、同じテーブルで隣に座られた糸魚川市の米田市長さんが、盛んにこのことを話しておられました。そして今朝の地元紙、新潟日報のコラムに紹介されていたことから、祝賀会での市長の熱弁を思い出しましたので、紹介いたします。(後列、むかって右から二人目が米田市長)

この呼びかけは、「20・10・0(にーまる・いちまる・ぜろ)運動」と名付けられています。糸魚川市のホームページには、次のようにその概要が記されています

1 乾杯後の20(にーまる)分間は、自席でおいしい料理を楽しみましょう
2 万歳前の10(いちまる)分間は、席に戻ってもう一度料理を楽しみましょう
3 帰るときには、食べ残し「(ぜろ)」 

 歓送迎会や忘年会・新年会等、宴会等の際には、ぜひ幹事さんから一言お声掛けいただき、参加者みなさんで取り組みにご協力ください。

市長さんは、宴会や会合で、いかに食品が無駄にされているか厳しく話しておられました。もちろん、せっかくの地元のおいしい食事がテーブルに並んでいるのだから、それを堪能して欲しいという願いもあるでしょう。それは日本酒で乾杯を、という呼びかけにもつながります。しかし同時に、廃棄される食料をなくしていこうという運動にもつながります。

糸魚川市の同ページには、幹事さん向けの案内書のダウンロードがありますが、宴会でどのように案内するかのシナリオも記してありますが、それ以上に冒頭に、「参加者に見合った量の注文をしましょう」と記されています。無駄が多いからといって、一朝一夕に宴会を辞めることは非現実的ですが、すくなくとも「20・10・0運動」なら、広めることができるような気がします。

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2014年4月18日 (金)

聖木曜日、主の晩餐@新潟教会

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昨日は聖木曜日。聖なる三日間の典礼が始まりました。主の晩餐のミサにはいつもの、「行きましょう主の平和のうちに」という最後の派遣の言葉がありません。典礼は沈黙のうちに終わる、というよりもそのまま金曜日から土曜日まで連続するのです。ですから本日、聖金曜日の聖式は、初めの挨拶もなく終わりの祝福もなく、沈黙のうちに始まり沈黙のうちに終わるのです。.そして明日の復活徹夜祭は、暗やみの中で、その闇と沈黙を打ち破る光の儀式から始められます。

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新潟教会はやはり信徒の方の平均年齢が高くなっていることを反映して、夜の典礼への参加は年々少なくなっているように感じます。特に平日の夜は難しくなっているのでしょう。聖木曜日にはミサの間に洗足式を行いますが、数年前から12名が揃わず、6名の方の洗足式となっています。

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ミサ後には御聖体を小聖堂まで運び、そこでしばらく聖体礼拝の時間が設けられています。これもやはり夜遅くなることもあって、多くの方には参加が難しいのだと思います。それでも青年たちが結構ミサに参加していたのには勇気づけられました。

主の晩餐のミサの説教をこちらに掲載してありますので、ご参照ください。本日、聖金曜日は大斎と小斎の日です。詳しくはこちらを参照ください。新潟教会では午後3時から十字架の道行き、午後7時から聖式が行われます。

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2014年4月17日 (木)

聖香油ミサ@新潟教会

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昨日、4月16日の受難の水曜日に、新潟教区の聖香油ミサがカテドラルである新潟教会で行われました。新潟教区には秋田、山形、新発田、新潟、長岡の五地区がありますが、秋田地区だけは距離や交通の便のこともあり代表の司祭一名が参加でしたが、それ以外の地区からは病気などの理由がある方をのぞいてすべての司祭が参加しました。「すべて」といっても、それでほぼ20名ほどの司祭です。また平日の昼間10時からにもかかわらず、新潟市内を中心にいくつかの小教区から50名ほどの信徒の方が参加してくださいました。

聖香油ミサは本来、聖週間の木曜日の昼間に行われるものですが、集まってくる司祭達はその日の晩には聖木曜日主の晩餐のミサをささげなくてはならないので、交通移動のことを考えて他の日に移すことが許されています。昨年までの4年間は、私が札幌と新潟を兼任していたため、火曜日と水曜日に連続して二つの聖香油ミサを新潟と札幌で行っていましたが、今年からはその責から解放され、落ち着いて新潟にいることができました。

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聖香油ミサの中では、秘跡の執行に不可欠な三つの油が祝別されます。三つの油は植物性の油(特にオリーブオイル)とされていますが、ミサの奉納の時に三人の司祭によって祭壇に運ばれてきます。一つは洗礼や堅信、そして叙階に不可欠な聖香油。そして一番なじみのあるかも知れない病者の油。さらに洗礼志願者の油。

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ミサ中の奉献文の終わりに病者の油が司祭によって祭壇に運ばれ、司教が祝福します。そして聖体拝領の後に洗礼志願者の油を祭壇前に設けられたテーブルのところで司教が祝福。そして司祭団一同も聖霊の働きを願って手をさしのべながら、聖香油の祝別です。聖香油にはその場でオリーブオイルに香料を混ぜ合わせ、その次に司教は口を近づけて息を吹き込みます。そのあとに、祝別の祈りを唱え、途中から司祭団が右手を差し伸べて祝別に加わります。

加えて、説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、司教の招きに続いて沈黙の内にその決意を新たにいたします。この決意を新たにする典文には問答形式と沈黙のうちに祈る形式がありますが、現在の日本語の式文では、司教の呼びかけにこたえて沈黙のうちに祈る形式が選択されています。

聖香油ミサの説教はこちらに掲載されています。どうぞ皆様、教区で働く司祭のために、よりいっそうのお祈りをお願いいたします。またこの司祭達の後を継いで主のぶどう畑で働くものが輩出されるよう、召命のためにもさらにお祈りをお願いいたします。

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2014年4月13日 (日)

受難の主日(枝の主日)@新潟教会

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聖週間が始まりました。今日の日曜日は受難の主日(枝の主日)で世界青年の日でもあります。新潟にはやっと春が来ました。今日はすばらしい快晴に恵まれ、暖かな日曜日。町の至る所で、桜が満開となっています。

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そんな中、大勢の方が受難の主日のミサに集まりました。新潟教会の受難の主日の9時半のミサは、いつもセンター(信徒会館)の一階ホールから始まります。枝を手に集まった方々と、ここから聖堂まで行列します。十字架につけられた枝を先頭に進む行列は、枝の祝福のあとに朗読される福音に記された、イエスを歓喜のうちに迎えたあの出来事を追体験するだけではありません。同時に、目に見える形で、そして体で感じる形で行列して進むことによって、あらためて現代社会の中にあってイエスにしたがって歩んでいくのだという決意を新たにするのです。

本日のミサの説教はこちらのリンクに掲載してあります。聖週間の説教は順次このリンク先に掲載します。

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なお今回で二九回目となる世界青年の日に当たり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。メッセージの全文はこちらです。教皇様は、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3) をテーマに掲げ、この箇所、つまり真福八端に基づいてメッセージを書かれています。説教でも触れましたが、その中にこういう一節があります。

「イエスの真福八端は革新的です。それは、メディアや一般常識で通常、伝えられるものとは正反対の幸福の模範を示しています。世間一般の考え方によれば、神がわたしたちのような人となるために来られ、十字架につけられて死ぬなど考えられないことです。イエスが幸いであると告げた人は、世間の論理では「敗者」、弱者とみなされます。その一方で、手段を選ばぬ成功、快適さ、権力の強さ、人を踏み台にした自己肯定がもてはやされています」

そして、青年たちに対して具体的にどうしたらよいかという三つのすすめをしています(ちなみに教皇フランシスコは三つのすすめなど三つのポイントをしばしば呈示されます)。

まず第一に「物的なことがらに束縛されないよう」にして、生活様式を変えるほどの勇気を持つこと。第二に、「貧しい人を気遣い、彼らの霊的、物的ニーズに敏感に」なる必要を説き、貧し人へと心を向け、さらには連帯の必要性を説かれます。そして第三に「貧しい人は、謙遜と神への信頼についても多くのことを教えて」くれるのだとして、彼らの知恵に学ぶことを勧めます。

また「貧しい人」という時に、教皇フランシスコがどんな人たちを考えているかを、次のように述べています。

「失業、移住、さまざまな依存症といった新旧多様な貧しさに対して注意と配慮を傾け、それらに無関心でいようとする誘惑を退ける必要があります。愛されていないと感じる人、将来に希望がもてない人、失望や幻滅や恐れのために人生をあきらめてしまった人のことも考えるべきです」

さて、ご復活に向けて特別な毎日が始まりました。水曜日には午前10時から司教座聖堂で聖香油ミサがあり、秘跡で使う聖なる油を祝別し、また司祭団は叙階の誓いを新たにします。どうぞ一緒にミサに参加して、司祭のためにお祈りください。

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2014年4月10日 (木)

聖週間の典礼の予定

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次の日曜日は受難の主日(枝の主日)です。復活祭までの聖週間が始まります。新潟教会(司教座聖堂)での典礼の予定をお知らせします。どうぞご参加ください。

  • 4月13日(日) 9時半 受難の主日ミサ(枝の主日)
  • 4月16日(水) 10時 聖香油ミサ
  • 4月17日(木) 19時 聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ
  • 4月18日(金) 19時 聖金曜日・主の受難
  • 4月19日(土) 19時 復活の聖なる徹夜祭
  • 4月20日(日) 9時半 復活の主日/日中のミサ

なお、聖金曜日の司式はナジ神父。そのほかの司式は私がいたします。

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2014年4月 8日 (火)

その後のルワンダとカリタスジャパン

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虐殺事件から20年を迎えたルワンダ。当時から疑問に思っていたことがあり、それをしばしば講演などでも口にしていました。その後、現在の教皇庁正義と平和評議会議長タ-クソン枢機卿が、同様の内容をどこかの講演で触れてくださり、ガーナ人という少なくともアフリカの方の口からそのポイントが出たことを心強く思いました。

そのポイントとは、もちろんルワンダはキリスト教国であり、しかも人口の6割以上はカトリックであった事実。なぜ信仰は虐殺を止めることができなかったのか。微妙なポイントなのですが、誰が悪かったという犯人探しをするつもりは全くありません。問題は、洗礼者は増えたけど福音はどこまで浸透していたか。つまり、教会に来る人が増えたとしても、そこで満足をせずに、さらにしつこいくらいにさらに、福音をその人の心にしみこませる努力をしない限り、人間の性に基づく集団の行動を抑制することは不可能だということです。洗礼後のカテケージスの継続が如何に大切かということでもあります。

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さてカリタスジャパンはその後、96年秋にキャンプが閉鎖されたこともあり、97年からルワンダ国内での子どもたちの支援を始めました。もちろん日本からは遠い地ですので、カリタスルワンダとの連携で行ってきました。この連携支援プログラムは現在も続いています。しかし、カリタスジャパンの募金枠の制約などから、まもなく終わりを迎えようとしております。何らかの形で、せっかく始まったカリタスジャパンとカリタスルワンダの連携関係が継続することを願っています。

以下、1997年8月にルワンダへ出かけたあとに、カトリック新聞に掲載した記事を、再掲します。

 早朝六時半の聖堂はいっぱいだった。赤い煉瓦づくりの立派な大聖堂は、二千人を軽く収容できるという。週日の早朝ミサだというのに、キガリ市中心部にある聖家族教会は、熱心に祈るルワンダの人たちの熱気に満ちあふれていた。さすがにカトリック信者が、全国民の八割以上を占めている国だけのことはある。この日、ミサの間に何度も繰り返された司式司祭のメッセージは、「和解と平和的共存」だった。
 「和解と平和的共存」。これは、ほんの数日間のルワンダ滞在中に、何度も繰り返し耳にした、あたかも国家的スローガンの様な言葉だ。まるで、人々の心に染み込ませようとするかのように、至る所で何度でも繰り返されていた。そしてこの言葉を繰り返し耳にした聖家族教会も、九四年五月に虐殺事件現場の一つになったという。愛と奉仕が、そして癒しと赦しが語られてきた神聖な場が、虐殺の現場となったのだ。
 

 国際カリタス(本部ローマ)の要請に応えて、カリタスジャパンがルワンダ難民問題と初めて関わったのは九四年一〇月のことだった。以来昨年の夏まで二年以上に渡って、コンゴ(旧ザイール)で避難生活を続けていたフツ族難民の救援に力を注いできた。ところが、昨年の一〇月以降、旧ザイールでの政変をきっかけに、予想もしていなかった難民のルワンダ本国への帰還が始まった。難民キャンプは次々と閉鎖され、コンゴとルワンダの国境地帯は再び大混乱に陥った。
 祖国への帰還が問題を全て解決してくれたわけではなかった。帰還の途中で命を失った多くの人たちがいる。家族を失った子供たちがいる。だがなによりも、戦火を逃れて二年以上も故郷を離れていた人たちの心は、深く傷ついていた。

 カリタスジャパンが今夏、初めてルワンダへ送った調査団の一員として私は、八月一六日の夕刻、首都キガリの空港に降り立った。空港ビルの天井を見上げると、そこかしこに銃撃の跡が残っている。宿舎へ向かう途中の路上には、テレビなどの報道で何度も目にしてきた黒ベレーの愛国戦線(RPF)の兵士たちが、検問に立っている。緊張感がみなぎった雰囲気が感じられた。やはり平和を維持するためには、まだ「武器の力」が必要なのだろう。

 カリタスルワンダ事務局長補佐を務めるドイツ人女性ジークリッドさんに案内されて、キガリ市内で行われている難民孤児救済の事業を見て回った。キガリという町は起伏の激しい山間部にある町で、坂が多い。車を降り坂道を歩いて登った丘の中腹に、その施設があった。といっても、見た目はふつうの一軒家と変わらない。ジークリッドさんが説明してくれた。
「孤児となった子供たちは、精神的に深い傷を負っています。彼らが立ち直るためには大きな施設に収容するのではなく、こういった小さな家での家庭的雰囲気の中で育てることが必要なんです。」

 現在ルワンダ国内には九〇年から続いた内戦と虐殺事件、そして難民の帰還という一連の出来事の結果として、十万人以上の孤児がいるという。しかも彼らは単なる孤児ではない。その多くが目の前で虐殺を目撃したり、死と隣り合わせの極限の逃避行を経験してきた子供たちだ。心理学の知識がない素人にも、この子どもたちが精神的痛手を負っていることは容易に想像がつく。ただその傷の深さを想像することができないだけだ。

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 カリタスルワンダはキガリ市内で一軒家を一〇カ所ほど借り上げ、一カ所に二〇人から三〇人ほどの子供たちを収容している。世話に当たるのは、元難民の婦人たちだ。彼女たちの境遇も厳しい。その多くが逃避行のうちに夫や家族を失っていたり、また虐殺事件に関連したとして、夫が刑務所に囚われている婦人も少なくない。「裁判もなにも、なかなか先へ進まないんです」と、ある婦人が不安げに語ってくれた。
 訪れた子供たちの家では、小学生から中学生くらいまでの二十四人の子供たちが、集まって歌と踊りを披露してくれた。楽しそうな歌。楽しそうな踊り。そして手拍子。でも何かが違う。一年前にコンゴの難民キャンプで出会った子供たちの雰囲気と、何かが違っていた。部屋の壁際に寄り添うようにして座ったこの子どもたちから、子供特有の活気が感じられないのだ。いちいち促されなければ、笑顔がこぼれてこないのだ。単なる無表情とも違う、独特の違和感を感じた。ジークリッドさんが言う。
「子供たちの精神的な傷をいやすための専門家が、この国には全くいないんです。素人が手探りでやって行くしかないんです。」
 戦争が終わった直後には、衣食住の最低限の必要を満たすことが急務だった。しかしこれからは精神的に痛手を負っている多くの子供たちのために、何かをして行かねばならないだろう。そしてその努力は、派手な救援事業とは無縁な、目に付かない地道な、そして息の長い援助を必要としている。

 あるルワンダ人シスターが運営している、元難民救済事業を見せてもらった。丘の上の小さな家には、ミシンが所狭しと並べてあった。ここでは少女たちに裁縫を教え、将来ドレスメーキングで生計を立てられるようにと、小さな職業訓練所が開設されていた。外に立って話を聞いていると、マウンテンバイクにまたがった少年が元気よく近づいてきた。少年とシスターとの楽しそうな語らいを眺めながら、ふと何気なく少年の姿を見て驚いた。左手首を失い、頭部には深い切り傷の跡が残っている。彼も九四年四月の虐殺事件の犠牲者だった。はにかんだような表情と素敵な笑顔が印象的だった。この街には、手首を失ったり足を失った子供たちが数多く見られる。いったい何人の子供たちが、戦争や虐殺事件の犠牲になったのだろうか。内戦も虐殺も全てが大人たちの政治的野望に端を発していることを考えると、最大の犠牲者はこの子どもたちではないだろうか。
 ミシン教室の隣では四人ほどの子どもたちが、カード作りをしていた。乾燥させたバナナの葉っぱを上手に使い、馬小屋の聖家族の場面などをカードの上に表現していく。カメラを向けると、それぞれが自分の自信作をかざして見せてくれた。

 シスターたちはこのほかにも、帰還難民たちの所有権回復支援もしている。九四年七月の愛国戦線による現政権樹立後に、ウガンダから二百万人に上るツチ族の人たちが、大挙してルワンダに戻ってきた。五九年に迫害を逃れてウガンダへ亡命していた人たちだ。彼らは、難民となってコンゴへ逃げていったフツ族の人たちの家を、当面の住まいと定めて定住した。そこへ今回、かつての所有者であるフツ族の人たちが戻ってきたのだ。政府が定めた原則に従った、所有権の返還が進んでいないとシスターは言う。シスターたちは特に、男手を失って弱い立場に置かれている家族の支援に重点を置いている。

 カリタスルワンダ事務局長のインシマタタ神父は、国家が安定し世界から注目される事件の起きていない今こそ、未来のルワンダの建設のために様々な救援事業を手がけなければならないと言う。その彼も日曜のミサを捧げたとき、説教の中で盛んに「和解と平和的共存」を説いていた。彼に本当に和解はできるのかと尋ねてみた。「もちろん。でも時間がかかるだろうけれど。」

 そう。表面的にはルワンダは安定した。難民も帰還した。人々には普通の生活が戻った。なによりも身分証明書から、「フツ」とか「ツチ」という民族の区別が姿を消した。しかし何気ない街角の会話の中で、「それでも誰が誰かはみんな知っているよ」という言葉を耳にしたりすると、本当の和解にはまだまだ時間がかかるだろう事を実感する。虐殺事件に関わった人たちの問題や、破壊された村や町の共同体の再建、そして失われたお互いの信頼の回復など、問題は山積している。しかし、何にもましてルワンダの将来を考えるとき、心に深い傷を負った子供たちのために手を貸すことが急務だろう。この醜い戦いに全く責任のない子どもたちが、一番の被害者なのだから。

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2014年4月 6日 (日)

ルワンダ虐殺事件から20年

Rwanda10th021994年4月6日、アフリカ中央部にある小さな国ルワンダの首都キガリにある空港へ着陸態勢に入っていた飛行機が、何者かによって撃墜されました。この飛行機には、当時のルワンダと、隣国のブルンジの大統領が搭乗しておりました。当時のルワンダ大統領ハビャリマナ氏とブルンジの大統領ヌタリャミラ氏は亡くなります。この事件が、世に言う「ルワンダ虐殺事件」の引き金となったのです。(掲載した写真はすべて、難民キャンプでの撮影です)

この地域で起こった事件は大まかに次の四つに分けて考える必要があります。

  1. 1990年10月1日にはじまった「ルワンダ内戦」
  2. 1994年4月6日、ルワンダ大統領ハビャリマナ氏(Juvenal Habyarimana)の暗殺に端を発する「ルワンダ虐殺事件」
  3. 1994年7月4日、ツチ族中心の新政権が誕生。旧軍を中心にフツ族が国外避難した「ルワンダ難民問題」
  4. 1996年10月、難民が身を寄せていた旧ザイール(現在のコンゴ)で発生した「コンゴ内戦問題」とその後、今にまで継続している大湖地方の混乱

もちろんそれぞれは関連性がありますが、それぞれの中心人物は異なり、個別の問題ととらえた方が理解しやすいからです。

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私は1995年の3月に、カリタスジャパンからの依頼で初めてルワンダ問題と関わりました。当時ザイール(現在のコンゴ)のブカブ市郊外のビラバ村にあった難民キャンプにカリタスジャパンはボランティアを派遣しており、その調整員をするようにと依頼されたのです。結局私は3月の末から5月の半ば過ぎまで、二ヶ月強をキャンプで過ごし、その後何度もキャンプを、そしてルワンダを訪れることになりました。最後に訪れたのは司教になる前年、2003年でした。

長く書くことはできませんが、虐殺に至った経緯などは、かつてサンパウロから出版した「カリタスジャパンと世界」という本に記しました。まだカトリック系の書店には在庫があると思いますので、是非一度ご覧いただけると幸いです。

さて問題の核心は、一般に多数派のフツ族が少数派のツチ族を虐殺した民族対立による事件だといわれているのですが、事はそれほど単純ではなく、そこには様々な国の利害が絡み合い、さらにはルワンダ国内の政治権力闘争も絡み合って、非常に複雑な事象が発生していたということです。どうして虐殺した方がほんの数ヶ月で国を追われる立場になったのか。どうしてそこにいた国連は何もできなかったのか。そもそもどうして民族対立が発生したのか。そして一番大事なことは、何が多くの普通の人を虐殺に駆り立てたのか。

考えてみれば、理解に苦しむことばかりです。民族が違うというだけの理由で、普通に暮らしている人たちが、そして家族の中でさえ、鎌やナタで、はたまた釘を打ち付けた棍棒で、長年生活を共にしてきた人を、隣人を、殺してしまうものなのか。何がそこまで人を駆り立てたのか。

国際社会は、ルワンダの悲劇を、「アフリカのことだから」などと特殊な事例と片付けることなく、そこから人間の性に根ざした感情を政治が利用することによる悲劇発生のメカニズムを学び取り、同じ間違いを犯さないように努めるべきではないでしょうか。同じ事は、日本でもどこでも、同じようにおこる可能性があります。

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ひとつだけ。そもそも生物学的な違いで、民族を定義することは、すでに不可能になっています。現代の私たちは、それほど簡単に白黒をつけて分類できるほどに隔離されて生活をしてきたわけではないからです。ジャングルの中で、外界から長年隔絶された中で生きてきたなら、その可能性はあるのかも知れませんけれど。ルワンダでも、確かに生物学的に異なる民族がそこにはあったものの、長年にわたり同じ地域で生活するうちに、そのボーダーは曖昧になっていました。

アフリカの分割を決定した1884年のベルリン会議以降に植民地化されたルワンダは、ドイツの手を経て第一次世界大戦後ベルギーの手に渡りました。ベルギーは植民地経営の一手段として、現地傀儡(かいらい)政権を設置。そのときに目を付けたのが、ツチ族王政システムです。1923年にベルギー政府は、ツチ族傀儡政権による植民地経営を決定づけるための手段として、ツチ族とフツ族をはっきりと区別することにします。そのために民族名を明記した身分証明書を導入したのです。この身分証明書が、その後94年の虐殺事件の時に大きな役割を果たすことになってしまいます。しかも、すでにツチとフツが長年にわたって共存していたこの地では、ツチとフツを単純に区別することができなくなっていたため、かなり非科学的な手法も用いられたという話も伝わっています。民族意識を明確にすることで対立関係を演出し、植民地経営を進めようとしたのです。

そして第二次大戦後の独立期には、多数を占めていたフツ族が力を持つようになり、1962年に独立後の政権を握ることになります。そして1973年にハビャリマナ氏がクーデターを起こします。そのご同大統領は、自らの部族であるフツ族こそ勝っているのだという運動を開始して、さらに民族対立感情をあおっていくのです。その行き着く先が、内戦であり、虐殺事件なのです。

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虐殺事件が始まった94年4月6日の時点で真っ先にねらわれたのは、実は「ツチ族」ではなく、「フツ族」の穏健派だったという証言もあります。その筆頭でもあったウィリンジマナ首相(女性フツ族)と3人の穏健派閣僚が、真っ先に殺害されてしまいました。大統領の民族対立を激化させる政策に反対していたからです。当時キガリに国連の一部として駐屯していたガーナ軍が、いかにウィリンジマナ首相を保護しようと努力したかの生々しい物語が、ウガンダで出版されています("Guns over Kigali", Henry Kwami Anyidoho、1998、Fountain Publishers, Uganda)。大統領がすでに政敵を抹殺するための暗殺リストを作成し準備していたところに、それを阻止しようとした何ものかが当の大統領を暗殺したために、暗殺リストが暴走して虐殺が始まったと、私は思っています。

いずれにしろ、ルワンダ虐殺事件はあそこだけで起こった特殊な事象ではなく、どこでも、とりわけ、国家主義的意識が高まっている世界の各地で、今後も同様に発生しうる出来事であると思います。あの事件で亡くなられた80万とも100万ともいわれる人たち。その方方の永遠の安息を祈ると共に、同じ間違いを繰り返さないように、祈りたいと思います。

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2014年4月 5日 (土)

春は名のみの・・・新潟清心入学式

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つい数日前、定例の会議で東京へ出た時は、まさしく春爛漫。桜が咲き誇っており、しばしお花見気分を味わいました。もっとも東京へ出る上越新幹線の車窓からは、下の写真のような雪景色がまだ見られましたけれど(浦佐駅付近)。新潟の春はまだ先です。桜のつぼみがやっと膨らんできた様子。開花は来週半ば頃になろうかと思います。そうするとちょうど復活祭が満開となるか。

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さて寒さがぶり返した今日の土曜日、午後1時半から、新潟清心女子中学と新潟清心女子高校の入学式が行われました。式直前には小雨模様からアラレに変わる荒れた冬の天気。それでも入学式が始まる頃には日が射してきました。

今年の入学者は、中学校が42名、そして高校が80名です。加賀田校長が式辞で触れた通り、新潟では珍しい私立の女子校。しかも寮制度もあり、さらには国際的視野をもって活躍できる人材の育成を目指しています。さらに中学から始めれば6年間の一貫教育となります。3年間の中学生活にも、さらに年長の高校生の先輩が存在する学校生活は、他では味わえない魅力があります。私自身、男子校でしたが名古屋の南山中学高校で、6年間の一貫教育を受けました。長いスパンで計画し、様々な体験ができましたし、すでに中学で高校の先取りのような授業もありました。本日入学した方々が、これから6年間、または3年間、キリスト教の精神に基づいた教育を通じて、生命を大切にし、友人を、出会うすべての人を大切にし、またより良い社会を生み出すために貢献できる立派な大人を目指して、心を育てていってくださることを祈っています。

入学式ではこの地域の小教区である寺尾教会の町田神父様が、開式のお祈りをいたしました。また私が、校長式辞に続いて、祝辞を述べさせて頂きました。数年前から入学式や卒業式には司教のスータン姿で行くことにしています。というのも、以前であれば、シスター方が結構目に見える形で学校の中におられたことが、ミッションスクールであることの一つの目に見える「しるし」となっていました。もちろんシスターの存在でミッションスクールの意味がすべて担保されると考えるのは間違いですが、少なくとも目に見える形でのシンボルではありました。しかし現在はシスター方が一人もおらず、目に見える形のシンボルがありません。そこで、保護者の方々も来られるこういった式典では、少なくとも私がスータンなんぞを着用して出かけ、舞台上にいることで、ちょっとはミッションスクールのシンボルになろうかと心掛けております。もっとも到着してから着替えるわけにも行かないので、スータンを来て車を運転していくのですが、これがなかなか面倒なのです。信号で止まると、前の車の運転手さんが、しきりにバックミラーでこちらをのぞき込んでいることもしばしば。

なお本日は、新潟教区内の秋田にある秋田聖霊女子高校でも入学式が行われています。

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