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2014年7月31日 (木)

ガーナの武辺寛則さん

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昨晩遅く、原稿書きで遅くなり、そろそろ寝なければとおもいながら、ふとつけっぱなしのテレビに目をやると、画面には「ガーナ共和国 村の長老になり27歳で急逝 貧しい村を救った日本人」という文字が。見た瞬間に「武辺くんのことだ」と思いました。

番組はテレビ東京で7月1日に放送されたもののようで、なんと読むのかわかりませんが、「ありえへん∞世界」というもの。新潟では数週間遅れのこの遅い時間。思わず見てしまいました。とっても懐かしい人に出会い、そして30年近い昔のことを、いろいろと思い出してしまいました。

やはり番組は武辺寛則(たけべ・ひろのり)さんのことでした。私がガーナへ行ったちょうど同じ時期、青年海外協力隊(JOCV)の隊員として、ガーナで働いていた方です。私より二つくらい年下。村落開発普及員として、アチュア村で働き、その活躍と献身ぶりが村人に認められ、そこで「長老」に選ばれた話は、当時有名でした。ちょうど武辺さんがガーナにいた隊員たちの自治会長みたいな役であった時、私の教会の近くで教師として働いていた別の協力隊員からの紹介で、ガーナの協力隊の隊内ニュースのようなもの(たしか「トロトロ」と呼んでいたような記憶が)に一文を書く機会を頂き、それで彼の名前を知るようになりました。その後、ちょうど私がマラリアか腸チフスかどちらかで寝込んでいたところに、その近くの隊員と一緒にお見舞いに来てくださり、初めてお会いしました。すばらしい好青年でした。静かに燃える男でした。

テレビ番組はかなり良くできてましたが、ストーリーをちょっとスマートにしすぎかな。武辺さんの活躍は、その後の村の人たちの声を聞くにつけその通りですが、彼もアチュア村3代目の村落開発普及員で、それ以外に保健衛生の隊員や、米国のピースコーの隊員も駐在していたはずですので、みんなで支え合ってというところも大きかったと思います。しかし、パイナップル栽培と販売をビジネスベースにまで持って行った彼の才能は、すばらしいものがあると思います。

ちょうど私が腸チフス後の体調不良で日本に休暇帰国していた時期、89年の2月末に、武辺さんは手に入れたばかりのパイナップル輸送用のトラックの事故で亡くなりました。ガーナに戻ってきた時、近くに住んでいた隊員からそのことを聞かされ、驚いたことを記憶しています。その後、武辺さんが日本のご両親に向けて書いた手紙などをまとめた本が、日本で出版されています。上の写真がその本。なぜか女子パウロ会からの出版ですが、タイトルは「ガーナに賭けた青春」。1991年の2月が初版です。

私は、青年海外協力隊の隊員に対しては、いろいろな人がいるとは言え、その出会いの体験から、全般的に尊敬の念を抱いています。とりわけ「村落開発普及員」という職種の隊員には、重要な意味があると思っています。縁もゆかりもないアフリカの奥地の村で、そこに一緒になって住み、その村の人たちの生活を改善し、一緒に汗を流して生きていくと言うこと。その一緒に生きる姿勢こそが、一人ひとりの隊員が語らなくても、人に与えられた生命を、大切に守り育てていこうとする人間の基本的な姿勢を「あかし」しているのだと思います。もちろん個々人の生き方には様々な違いがある。しかし根本として、与えられた生命が、より幸福に、より安心して、より豊かに生きることができるようにする努力こそは、人間に与えられた心に刻み込まれた生き方の柱であると思います。必死になって、ガーナの村の人たちの幸福を願い、生き抜いた武辺さんの短い時間は、その何十倍もの大切なことを、私たちに教えているような気がします。私たちは何のために生きるのか。この、何のために生きるのかを探ろうとしない限り、様々な言辞を労して「いのちは大切だ」と強調しても、実りはないように思います。そしてそれは学校で教えられるものではなく、家庭で、社会全体で、国として、示していかなければならないものです。今の日本は、社会全体で、生命について何を示しているのか、あらためて考えてみたいと思いました。

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2014年7月27日 (日)

堅信式@新津教会、平和祈願ミサ@新潟教会

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今日の日曜日、午前9時半から、新潟市の新津教会で堅信式ミサを行いました。新津は以前は新津市でしたが、現在は新潟市との合併で新潟市秋葉区になり、住所からも「新津」という地名は消えていますがそのまま、新津教会と呼んでいます。新津という町は鉄道の町として有名で、JR東日本の電車を制作する工場があります。以前はJR東日本の直轄で新津車輌製作所でしたが、現在は他者と合併して子会社化され、総合車両製作所新津作業所になっています。首都圏を走る電車のかなりの部分は新津で制作されています。また街中には鉄道資料館も存在しています。

新津教会は神言会のリータース神父によって昭和30年代に創立され、その後現在の聖堂が1972年にミュラー神父の時に完成しました。現在は教区司祭の担当となり、主任司祭は新潟教区司祭の最年長、86歳の鎌田神父。杖はついているものの、まだまだお元気です。

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本日のミサでは、二名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。また今日のミサは2年に一度の司教による小教区訪問でもありました。併設されている幼稚園の先生方もミサに参加して下さり、ミサ後には信徒の方々と先生方も一緒に、お弁当で昼食会。昨日は新潟市内も真夏の暑さでしたが、今日は朝に雨が降り曇りでしたので、暑さもそれほどではなかったので、祭服を着込んでも何とか大丈夫でした。それに新津教会の聖堂には空調設備がありますから。

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さて新津教会訪問後、今度は午後1時半から新潟教会で、教区の平和旬間行事である講演会と平和祈願ミサ。講演会は東京教区から出向で、糸魚川教会の協力司祭として活躍中の伊藤幸史神父。平日に彼が共同生活をしながら農業研修を通じて障害を持った人も含めて様々な人たちと一緒に生きていく姿勢を学んでいる、糸魚川の近く、長野県の小谷村にある「共働学舎」での体験について、「平和を作り出し育む現場から活動報告」と題して話をしてくれました。50名近い人が参加。

その後3時半から、私が司式して、伊藤神父、大瀧神父、坂本神父の共同司式で、これまた50名近い方が参加して、平和祈願ミサを行いました。ミサの説教は、明日、ホームページに掲載します。

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2014年7月26日 (土)

聖地の平和のために2

パレスチナ暫定自治区ガザを巡るイスラエルとパレスチナの武力対立は混迷の度を深めていますが、米国国務長官の仲介で、人道支援を行うために12時間の停戦が実現したと今朝は報道されていました。26日午前8時(日本時間は午後2時)からの12時間。本当に停戦することを祈るばかりですし、これが長期の停戦と地域の安定につながる契機となることを祈るばかりです。

これまでのルワンダ内戦を初めとする様々な地域での紛争にかかわった経験から、私が確信を持って言えることはただ一つ。一般の市民と言われる人たちは、宗教が異なるからとか民族が異なるからというそのことだけで、互いに殺し合う必然性を感じることは決してあり得ないのです。『違う』という感覚はありこそすれ、それだけを原因として、殺意が芽生えることはありません。多くの場合こういった殺意は相手に対する恐怖を基盤として発生し、その恐怖は多くの場合、その人たちを支配する(または保護する)権力グループの『政治的意図』から生み出されるものです。したがっていわゆる一般市民は、徹底的に武力紛争の被害者でしかあり得ませんし、政治的意図を持ったグループの力によって、それを取り除くことも不可能ではありません。そしてそういった感情が自分を支配していることを見いだしたならば、一体何によって自分はそのようになって行ったのかを、冷静に客観的にふり返ってみることが平和を生み出すために不可欠です。

今般の対立に関して、7月24日付の国際カリタスのプレスリリースを翻訳しておきます。

国際カリタスは、ガザでの対立当事者の双方に対して、恒久的停戦を呼びかける。それは人道的援助が到達し、またパレスチナ人の人権が護られるためである。

カリタスはガザにおける活動を継続しているが、度重なる爆撃が、ガザの住人に必要な援助を運び込む努力を脅かしている。国連によれば、この紛争の2週間で、700名が殺害され、4,000人が負傷し、140,000人が家を失っている。

国際カリタスの事務局長Michel Roy氏は、『平和は対立ではもたらされない。対立は悲劇や、苦しみ、死者、人権の大いなる侵害しかもたらさず、巻き込まれた人たちに計り知れないダメージを与える』と語っている。

彼は『私たちはイスラエルとパレスチナに共通の未来があることを信じなくてはならないし、国際社会の一員として、人道、政治、外交、霊性というすべてのレベルで、聖地にその可能性があるようにと働き続けなくてはならない』という。

国際カリタスと「ドミニコ会正義と平和」が、7月23日の国連人権理事会『東エルサレムを含むパレスチナ占領地での人権状況』に関する特別会で共同で発表した声明で、国際カリタスは国際人道法と国際人権法に基づく義務を当事者たちが尊重することを求めた。声明では、イスラエルの治安部隊とパレスチナの武装集団が、市民を標的にすることを辞め、生命を守るようにと求めている。

声明は国際社会に対して、現存する和平合意を遵守させ、対立への解決を見いだすように呼びかけている。これに関しては、イスラエルがパレスチナの領域占領を停止する必要がある。

カリタスは先日、ガザでの活動を支援するための緊急アピールを発表した。1,130,855ユーロ(1億4千7百万円ほど)の援助要請は、ガザ地区において、食糧、医療品、毛布、衛生用品、病院の発電機用燃料の調達や、必要とする人々へのカウンセリングなどにあてられる。

今回のアピールを発表するにあたって、カリタスエルサレムの責任者Raed Abusahila神父は、「ガザの人々の必要は毎日のように増加し続けているので、素早く介入しようと考えました。ダメージや破壊はガザ地区のそこら中で目にすることができます。この人道的危機のために、私たちは素早く介入しなくてはなりません」

カリタスエルサレムのホームページ(英語)はこちらです

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2014年7月24日 (木)

聖地の平和のために

パレスチナ暫定自治区であるガザにおけるイスラエルとパレスチナの対立は日を追う毎に激化し、ロケット弾の打ち合いから地上戦への展開すら噂される状態となっています。イスラエルとパレスチナの両政府にはそれぞれの正義があり、立場があり、理由があって武力行使に踏み切っているのでしょうし、自らの生存を守るため、つまり自衛・防衛のために戦っているのだと正当化しているのでしょう。政治に直接タッチできない教会としては、直接政治的な解決の道を示すことはできませんが、両者の立場の違いを乗り越えて、最も大切なこと、つまり一般市民の生命が多数奪われていること、特にこどもたちの生命が奪われていることに目を背けることはできず、やはり対立を武力によってではなく対話で解決を見いだしてくれるようにと呼びかけるしかありません。

聖地での紛争の歴史でも明らかですし、第二次世界大戦後の様々な地域紛争を顧みれば、やはり政治的対立を武力で収めることは不可能であり、敵対する相手方をいかに圧倒的な武力を持っていたとしても完全に押さえ込むことはこれまた不可能であることを、私たちは学ぶべきだろうと思います。私たちの国も、自衛を遙かに超えて、他の地域での紛争を武力で押さえる活動に積極的に協力するような道を模索するのではなく、この70年ほどの体験から、逆の道、つまり武力ではなく話し合いで対立を押さえる道を促進する立場を明確にする方が、国際社会の中で独自の立場を確立することができると思われてなりません。

イスラエルとパレスチナの対立については、以前、家庭の友に掲載して記事から、一部を抜粋します。

パレスチナ人が生活していた地に、1948年、イスラエルという国が誕生しました。もちろん、ある日突然ユダヤ人がパレスチナに出現したわけではありません。すでに19世紀末頃からの「シオニズム(イスラエルの地にユダヤ人の故郷を再建する運動)」の広がりの中で、当初は3万人に満たなかったパレスチナのユダヤ人口は徐々に増加を続けました。ユダヤ人に土地を売り渡したパレスチナ人も、少なくないといわれます。1930年代には、パレスチナの総人口が103万人ほどで、そのうち17%がユダヤ人。さらにナチスによるユダヤ人迫害の影響もあり、移住人口は増加を続け、1943年には総人口167万人に対して32.2%、すなわち約54万人がユダヤ人であったといいます。(広河隆一著「パレスチナ」参照)それにしても、長年その地に住み続けてきたパレスチナ人が、住民の大多数であったことは否めません。ところが1947年11月29日、国連総会はパレスチナの分割を決議し、地域の57%をユダヤ人に割り当てることを決定しました。そして1948年のイスラエル建国、さらにはそれに引き続いた第一次中東戦争。その混乱の中で、当時70万人に及ぶパレスチナ人が住む家を失い難民となったと記録されています。現在、300万人とも400万人ともいわれるパレスチナ難民の始まりでした。・・・新しい国家が誕生し、その代償として長年住み慣れた土地と家を失った人々は、失ったものを取り戻さない限り平和は訪れないと主張します。

 イスラエルという国をゼロから生み出すにあたって、これだけの混乱が引き起こされた遠因は、20世紀初頭に影響力を持っていた英国の、いわば「二枚舌政策」にあるというのは有名な話です。オスマン帝国に対抗するためにアラブの独立を約束しておきながら、同時にパレスチナにユダヤ人の「ナショナル・ホーム」樹立を認めたことが、今に至るまでの両者の対立の発火点になっています。旧約聖書における約束の成就という考えは分からないではないものの、誕生した国家がユダヤ教という宗教を根幹に据えたきわめて限定的な民族国家であったことが、問題の解決を難しくしています。パレスチナにおける紛争の歴史を見ると、無理をして誕生した国家がその存在の脆弱性を守り、さらにはその宗教に自らの正当性を見いだすがためなのか、イスラエルは、常識の程度を越えた攻撃性を見せる事がしばしばあります。

7月23日にジュネーブで開催された国連の人権理事会では、国際カリタスも声明を発表しました。人道支援と医療支援を円滑に遂行するため、停戦と、ガザの封鎖の解除を呼びかけています。

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仙台支援会議など@仙台

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仙台での復興支援会議の日ですので、昨晩から仙台に来ています。今朝は10時から全ベース会議。仙台教区内8カ所のボランティアベースの代表と仙台のサポートセンター、福島デスク関係者などが参加して、情報交換をしたり、現場での様々な課題について話し合うこの会議も、今回で16回目です。午後からはサポート会議がありますが、こちらは各管区の担当者や司教が集まって全体的な方針を話し合う場ですが、そこに参加するものも、現場で起こっていることを聞かせて頂くため、午前中の全ベース会議にもオブザーバー参加を求められております。前回はヨルダンからの帰国が間に合わず欠席しましたが、今回は朝から参加。支援が長期に及んできて、現場では様々な課題が浮き彫りになってきています。

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2014年7月18日 (金)

平和旬間の行事@新潟

毎年8月6日から15日は、カトリック教会の平和旬間です。広島の原爆の日に始まり、長崎の原爆の日を経て、太平洋戦争が終結した日までの10日間を、特別に平和について考え祈る『時』としてきました。広島や長崎ではそれぞれ特別の行事が開催されますが、距離がありますので参加するのは容易ではありません。それぞれの教区で、様々な行事が予定されています。各教区のまとめについてはこちらの中央協ホームページをご覧ください。

また、平和旬間にあたり、司教協議会会長の談話も発表されています。ウクライナや中東、とりわけイスラエルとパレスチナの間で対立が激化し多くの生命が奪われています。またアジアでも、特に南アジアでは武力紛争が絶えていません。加えて、東アジアでは、お隣の中国の大国意識の発揚ともとれる挑発と、それへの対抗で緊張が高まり、日本もその雰囲気の中で、内向きな国防意識が高まっております。皆それぞれ自分の国を守ることは大切ですが、それにばかり集中すると、実は全体としての対立の火種が大きくなってしまうことは歴史が証明しています。地球レベル、いや神からの被造物としての人類全体のレベルからものを考えることが、いま必要ではないかと思います。

新潟教区では、正義と平和担当の佐藤勤神父が中心になって、毎年一日の行事を新潟教会で行っています。それ以外にも、秋田や山形、また長岡地区ではそれぞれ地域に応じた行事が行われてきました。(各地の予定は是非、教区本部にお知らせください。教区ホームページに掲載します。また行われたら写真と共に私のメールに報告いただけると、ここで紹介します)

新潟の平和旬間行事は、諸般の都合で7月に行います。以下の通りです。

    • 講演会と平和祈願ミサ
    • 【日時】 2014年7月27日(日曜) 13時30分より
    • 【会場】 カトリック新潟教会 信徒会館1階
    • 【講師】 伊藤幸史神父
    • 【講演】 「共働学舎」平和を作り出し育む現場から活動報告
    • 【平和祈願ミサ】
    • 15時30分、カトリック新潟教会 聖堂 司式 菊地功司教

講師の伊藤幸史神父は、ご存じのように東京教区から派遣されて、現在、糸魚川教会の協力司祭を務めてくださっておりますが、その前は、日本カトリック神学院の副院長として東京キャンパスで働いておりました。また当日、私は午前中が新津教会で堅信式の予定となっています。その後、新潟教会に戻って平和祈願ミサを司式いたします。どうぞご参加ください。

なお糸魚川教会つながりですが、同教会主任司祭のブルーノ・ファブリ師(フランシスコ会)は、6月始めに足の傷の化膿などを原因として高熱と共に体調を崩し、入院されております。治療の必要から当初は一週間ほど眠らされていたとかで、本人曰く、天国の近くまで行った夢を見たそうです。現在は回復に向かっておりますが、歩行のためのリハビリが必要で、しばらくは休養となります。ブルーノ神父の回復のためにお祈りください。

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2014年7月13日 (日)

北山原殉教祭@米沢

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山形県の米沢市にある北山原の殉教地で、本日11時から、福者殉教者を顕彰する殉教祭が開催されました。米沢の福者殉教者は53名。福者ペトロ岐部と187殉教者の一部をなす53名です。そのリーダーは福者ルイス甘粕右衛門。上杉家の家臣でありました。1629年の1月12日にこの地で殉教した53名です。

列福式以来、新潟教区の行事として毎年この殉教祭を行っていますが、教区全体に呼びかけるのは教区の広さを考えて、数年に一度にしています。7月1日が188殉教者の記念日ですから、その日に近い日曜日に開催しています。今年は、山形地区の信徒の方々と一緒にミサを捧げました。

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数日前の台風以降天気が心配でしたが、天気予報では土曜日と日曜日は晴れることになっておりました。しかもとても暑くなると予測されておりました。確かに昨日は天気も良く暑い一日でした。

ところが、ところが、今日の日曜日の米沢は一転して厚い雲に覆われ、朝から今にも雨が降り出しそうな様子。案の定、10時頃に殉教地に到着するとぽつぽつと降り始め、ミサが始まる頃にはしっかりと降り始めました。自信たっぷりだった天気予報を覆して、一体誰が雨を運んできたのか・・・?

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それでも会場には米沢教会の皆さんが用意してくれたテントが用意され、その下には参加を申し込んだ山形地区の皆さんの人数にぴったりの数のパイプイスが。用意されたテントは祭壇の上も含めて四張り。山形、新庄、米沢、長井、鶴岡、酒田の各教会から参加してくださった70名近い方々はすべてテントの下で雨を避けることができました。

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共同司式は私以外に、本間、伴、マルチネスの山形地区の司祭団。奉納の頃には雨も止み、その後、ミサが終わってみんなでお弁当を頂くときまで、雨は止んでくれました。暑さを心配していましたが、涼しくて過ごしやすい祈りの一時になりました。(ミサの写真は新潟教会高橋氏撮影)

殉教祭は過去の英雄をたたえるだけではなく、彼らがその時代の困難の中でいかに信仰を生きたのかを学び、未来の歴史を形作る基礎である今の時代を、私たちがどのように信仰に生きるのかを思い巡らすときでもあります。それぞれの時代時代には、信仰に忠実に生きるために大きな壁が常に立ちはだかっています。今の時代にも同じように大きな壁があり、信仰に忠実に生きようとするものを非現実的だと非難します。そのような壁に対峙して、どのように理想的であろうとも非現実的であろうとも、私たちは信仰に生きていきたいと思います。400年前に、周囲の人たちは殉教に向かうキリスト者たちを、なんと理想主義の非現実的な人々だとあざ笑ったことでしょう。信仰の内に生き続けたいと思います。

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2014年7月12日 (土)

カリタス香港の責任者、補佐司教に@香港

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教皇様は昨日、香港教区に3名の補佐司教を任命されました。現在の香港司教であるJohn Tong Hon枢機卿がまもなく75才になることから、後継者の任命があるかと期待されていましたが、今回は3名とも継承権を持たない補佐司教としての任命の発表でした。

そのうちの一人が、これまで長年にわたってカリタス香港の責任者を務めてきた香港教区のマイケル・ヤン神父(楊鳴章、Fr. Michael Yeung Ming-cheung)でした。ヤン被選司教は1946年に上海で生まれ、1978年に司祭叙階。2003年からはカリタス香港の責任者を務めてこられました。現在、私と一緒にカリタスアジアの地域委員会のメンバーを務め、またこれも同じく教皇庁の開発援助促進評議会(Cor Unum)のメンバーも務められています。(写真は2013年12月のカリタスの会議で話す被選司教)

中国本土との関係で香港の教会は重要な位置にあると共に、非常に難しい対応を迫られている教会でもあります。なにぶん本土内にはかなり多数のカトリック信徒がおり、教会組織があるのですから、その安全を考えて行動することが求められるからです。香港と中国の教会のためにお祈りください。

なお昨日の香港の聖座代表部(Study Mission)の発表では、教皇様はTong枢機卿に、75才を過ぎても教区長職を継続するようにと伝えたとのことです。

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2014年7月10日 (木)

東京教会管区会議@山形

東京教会管区会議が、新潟教区内で開催されました。7月8日と9日の二日間、会場は山形市の隣のかみのやま温泉。一日目は遠く蔵王まで見渡せる晴天でしたが、二日目は近づく台風に梅雨前線が刺激され、福島から山形そして新潟までが大雨の日となってしまいました。台風の被害を受けられた沖縄地方の方々、そしてそれに伴う豪雨被害を受けられた新潟や山形、そして長野の皆様にお見舞い申し上げます。

東京教会管区とは日本に三つある教会管区の一つです。教会は司教を責任者とする一つの地方の教会共同体が『教区』と呼ばれますが、その教区はそれぞれが独立した単位であると同時に、管区大司教を中心とした『教会管区』という単位で教会行政上区分されています。管区大司教(メトロポリタン)は、そのしるしとして教皇から頂いたパリウムを典礼の時に着用することが許されています。日本では、東京、大阪、長崎の三大司教が管区大司教で、それぞれの地域の教会を管轄して『教会管区』と呼ばれています。東京教会管区は東京の大司教を管区大司教としていただき、横浜、さいたま、新潟、仙台、札幌、そして東京の6教区によって構成されます。

東京教会管区では一年に一度、それぞれの司教と、総代理や事務局長を一堂に集めて、情報交換や共通する課題に取り組むための会議を開催してきました。四年に一度開催される管区司祭大会を企画するのもこの会議です。

この数年、東京教会管区では必ずどこかの教区が空位となっています。昨年までは札幌が空位でしたが、現在はさいたまが空位。なかなか司教全員が揃いません。今回の会議には16名が参加し、新潟教区からは私と大瀧事務局長、そして山形地区長の本間神父が参加しました。話し合った内容は多岐に及び、最終日は時間切れで終わらざるを得ないほど、熱を帯びた話し合いになりました。最後に開催地である新潟教区の私が司式して、ミサをささげ、9日の昼過ぎに会議は終了。激しく降る雨の中を、新潟へ戻りました。

ところで会議の間、パソコンもタブレットも持って行かなかったのですが、いろんな事が起こりました。ブラジルが大敗したのもそうですが、もう一つは、私の母校でもある南山学園が、神奈川県の藤沢にある聖園学院(みそのがくいん)と法人合併の協議に入ったというニュースが、一般紙で報じられていました。南山学園のプレスリリースもあります。聖園学院とは、藤沢に幼稚園や聖園女学院中学・高校を擁する学校法人で、聖心の布教姉妹会が経営母体です。もちろん南山も聖園もカトリックのミッションスクールであります。名古屋と神奈川では何かかけ離れたイメージもありますし、かたや男子修道会である神言会が経営母体で、もう一方が女子修道会で、これまたかけ離れています。

この二つの学校法人には、実は大きな共通点があります。それは神言会員であり、初代新潟教区長であった、ヨゼフ・ライネルス師の存在です。ライネルス教区長は、1920年秋田において聖心の布教姉妹会を創立した人物です。単に当時の教区長であったと言うだけではなく、その創立に大きく関わりました。22年から名古屋知牧区長を兼任し、その後名古屋に移ったライネルス師は1932年に名古屋において南山中学を創立するのです。つまり、二つの学校法人は、ライネルス神父という人物で結ばれていることから、必ずしも全く異質の学校法人が一つになると言うことではありません。

とはいえ、この合併は、少子高齢化のなかで存続をかけ、単に経営面での存続だけではなく、カトリック学校としての存続を模索し努力を続ける多くの学校に、少なからぬ影響を与えることでしょう。

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2014年7月 4日 (金)

神学院常任会議と常任司教委員会声明

今週は二つの『常任司教委員会』に出席してきました。そもそも今週は、その前の週の郡山での全国会議後に秋田の聖体奉仕会に行き、年に一度の会員の集いに参加して、日曜日はその締めくくりのミサでした。その後、車で秋田から新潟へ戻りました。

火曜日は主に新潟地区や新発田地区で働いている教区司祭が参加する月例の静修。現在は、教区と修道会との個別契約で教区司祭と一緒に働いていただいている4名の神言会員も参加してもらっています(鶴岡、長岡、新潟)。ちょうど7月1日でペトロ岐部と187福者殉教者の祝日。もちろん新潟教区の53名も含まれております。ちなみに今年は7月13日(日)の午前中、天気が良ければ米沢の北山原殉教地で記念ミサ。雨天は米沢教会の予定ですが、大丈夫でしょう。私が司式します。

そして2日の水曜は午後から東京で、HIV/AIDSデスク会議。啓発グッズを作成したり、啓発のための研修会を企画したりしております。

そして3日の木曜日は司教協議会の『常任司教委員会』でした。司教全員が集まる総会は年に2度または3度の開催ですが、常任は6名の委員と事務局担当司教の7名の司教が参加して8月以外は毎月開催されています。

その日の午後3時からは社会司教委員会。終了後に大塚司教さんと一緒に羽田へ向かい、そのまま一緒に福岡へ。福岡空港到着は夜9時半過ぎで、他社便で移動してきた梅村司教さんと合流し、神学院の白浜院長の出迎えを受けて、そのまま神学院へ。

4日、今朝は、神学生達と一緒に朝の6時15分から朝の祈り、その後、大分の浜口司教司式でミサ。そして二つ目の常任である『神学院常任司教委員会』に出席。ご存じのように日本の教区司祭を養成する神学院は現在一つですが、キャンパスが東京と福岡にあります。東京が哲学1年と2年、そして助祭。福岡が神学1年と2年と3年。全体の院長が白浜神父です。この常任司教委員会は長崎・大阪・東京の3教会管区からそれぞれ二人ずつ2司教が代表として参加し、神学院の運営に関する諸般の事柄を定期的に話し合っています。その中でも年に一度は、それぞれのキャンパスで神学生に実際にあって話をすることを目的に、福岡と東京で開催されてきました。今年は今回が福岡、12月が東京キャンパスです。現在神学生の養成は、司祭養成のスペシャリストでもあるスルピス会に委託すると共に、各管区から養成者として司祭を派遣することになっています。たくさんの教区司祭が、両キャンパスでの養成に協力してくださっております。そして司祭養成は、簡単な仕事ではありませんから、協力してくださっている司祭のご苦労に、感謝するばかりです。

会議は神学生と一緒の昼食で終了。その後福岡から新潟へ夕方の便で飛んできました。

さて、司教協議会の常任司教委員会は3日の会議で話し合った結果、政府の集団的自衛権行使容認の閣議決定をうけて、声明を出すことにいたしました。声明の本文はこちらからリンクをご覧ください。(中央協議会のホームページです)

いろいろな議論があることは承知していますが、少なくとも主にカリタスの仕事や修道会の仕事でこれまでいわゆる途上国を中心に50近い国を訪れた体験に基づいて考えますと、世界の多くの国が日本に期待しているのは、一番の同盟国である米国と一緒になって目に見える形での『力』を行使することではなく、まさしく人の手による『力』によって平和を構築することが可能であることを、まさしく米国を始めとした目に見える形での『力』を行使しようとする国々に見せつけ、いさめる立場をとることであるように思います。残念ながら『いさめる』ところまでは到達していませんが、少なくともこれまでも例えば『人間の安全保障』という概念を国際社会で推し進め、世界をリードして実行してきたのは日本政府でありました。

2005年4月20日に当時の町村外務大臣は、バンドン宣言50周年を記念してインドネシアで開催されたアジア・アフリカ閣僚会議における演説で、「我が国は『有言実行』の国です」と宣言した上で、人間の安全保障の視点から開発援助を推進し、アジアやアフリカにおける地域協力への積極的関与を確約しました。「人間の安全保障」とは、外務省の説明によれば、「人間の生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り、人々の豊かな可能性を実現するために、人間中心の視点を重視する取り組みを統合し強化しよう」とする考え方です。この考えに基づいて日本政府はすでに1999年当時、5億円を拠出して国連に「人間の安全保障基金」を創設したのです。「人間の安全保障」が外交政策の重要な柱となっているのです。イラク紛争を見るまでもなく、究極的には地域の不安定要素を軍事力で押さえ込むことによっての平和達成は、非常に難しいどころか大きな犠牲を伴います。それよりも平和の達成には貧困の撲滅が不可欠だとして、国際社会が2000年から2015年まで取り組んでいるミレニアム開発目標(MDGs)に見られるように、貧困対策に積極的に取り組む日本政府の姿勢は高く評価されていると思います。

貧困にあえぐ国々に援助を注ぐだけで、日本のためには何にもならないと思われる向きもあろうかと思いますが、しかし、そういったこれまでの日本政府の地道な努力と、問題解決に武力を持ち出さない姿勢に対して、高い評価があることは間違いありません。それは同時に、いわゆる途上国の奥地の現場で働く日本のNGO関係者が、日本のパスポートを持っていることで得られる『ある程度の』安心感にもつながっていたと私は思っています。

今般の閣議決定によって即座に日本が戦争をするなどとは思ってはいませんが、徐々にボディーブローのように時間をかけて日本の立場と日本への評価を変えていくであろうと思われます。私は日本政府は、目に見える形での『力』を行使する国々と同盟関係にあるとはいえ、その立場にべったりと寄り添うのではなく、もう少し中立的立場から、国際社会の中で果たしていく役割を模索していくべきだと思いますし、そのためには、今回の政府の決断はあまりにも日本の自己都合を前面に押し出したものとしか見られないだろうと思いますし、これまで特に自民党政府が長年にわたって国際社会で築きあげてきた日本の尊敬されるべき地位を、自ら捨て去る結果につながるような気がしてなりません。

そういった国際援助や貧困問題の立場以上に、宗教者としては、国民のみならず他の国々の方の、一人ひとりの生命の尊厳を考えた時、それを危うくするような可能性を生み出す国家の政策には、疑念の声を上げざるを得ません。それが今すぐの戦争につながらないとしても、少なくともその可能性をはらんでいるのであれば、やはり是正を求めていくのは宗教者の役割であろうと思います。

とりわけ、首相の閣議決定後の記者会見での言葉をそのままきけば、一体、現行の個別自衛権を行使できる状況とどのようにまた何が異なるのかが良く理解できません。まるで何も変更していないのですと言わんばかりの記者会見には驚きました。もし仮に仰る通りであるならば、それではここまで国論を分断して、しかも多くの方が指摘するように拙速に事を運んだ理由が想像できません。

加えてどこにも明文化されていないものを、「・・のようなことはない」とか「・・のようなことは考えていない」とか、そのときの首相がいくら言って下さったとしても、その後に続く人物が同じように考えるという保証は全くない。つまり明文化されていないそれ以上の内容は、裁量権を持った人物によっていくらでも変えることができるのだから、それは将来への安心の保証にはなりません。そもそも憲法9条の解釈がここまで変わってしまった事実がそのことを証明しているではないですか。

今こういう決定をせざるを得ない本当の理由は何なのでしょう。何度も言うようにたしかに政府が今すぐ戦争をしたいと思っているわけではないのでしょう。首相が説明してくださったケースが今すぐ発生するとも考えられません。なぜならばそれはまさしく日本外交の敗北を意味するからです。しかしそうであるならば、いったい何が政府をしてここまで突っ走らせているのでしょう。その背後にあるものの方が、よほど恐ろしい気がします。

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