司教総会が終わりました
日本のカトリック司教団は、年に2回総会を開催しています。通常、2月と6月に、月曜の午後から金曜の午前中まで泊まり込みで会議を行います。近年はさらにもう一度、一日だけですが、10月に臨時の総会を開催するようになりました。
会議には日本のすべての教区司教と補佐司教が参加します。現在、さいたま、広島が空位ですから、現役の司教は二人の補佐司教を含めて16名。全員が、2月23日から27日まで東京のカトリック会館に集まり、2014年度の3回目となる司教総会を開催しました。会議は順調に議題をこなし、途中、教皇大使を招待しての夕食会も催されたりして、木曜日の午後に終了しました。
司教協議会というものが何ものかは、こちらの解説をご一読ください(リンク先はカトリック中央協議会HP)。よく、各教区の上部組織だとか、日本のカトリックの総本山だとか言われていますが、そういう存在ではありません。それぞれの教区は独立しており、教区司教は司教協議会(司教団とも呼ばれたりします)から命令を受けることはなく、その意味では教皇様に直結しています。司教協議会は、たとえば日本であれば同じ言葉や文化圏ですので、そこで使う典礼書や法規や諸手続やカテキズムなどといった、翻訳が必要な事柄を、新潟教区単独で処理しろ言われても不可能ですから、そういったことを一括して行います。また全国的な様々な課題に、全国レベルで一括して取り組むための諸委員会が設けられています。カリタスジャパンもその一つで、各教区のレベルでは対応できない全国的な規模の募金献金や、海外への一括した援助に取り組むための16教区へのサービス部門でもあります。ただし、各司教は勝手に独立して存在しているのではなく、ペトロの後継者である教皇を中心に、使徒の後継者として司教は、12弟子の使徒団と同様に司教団を形成しています。その一部分として、日本の司教団は存在しています。
さて今回の司教総会では、様々な課題が話し合われましたが、今年はアジア太平洋戦争が終わってから70年にあたることもあり、50年、60年につづいて、10年ぶりに司教団としての平和メッセージを発表することになりました。
平和メッセージ、「平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」はこちらのリンクでお読みください。
なお申し添えますが、司教団メッセージは、司教全員の賛成に基づいて作成されるメッセージですから、委員会などの発表するメッセージなどと比較をすればその重みは異なり、教会にとって重要なメッセージです。しかしながら、同時に、それはいわゆる「教え」ではないので、信徒ひとり一人の行動や判断を拘束する性質のものではありません。つまり司教団メッセージを、教会指導層から信徒への命令のように考えるのは間違いです。このメッセージは、信仰と倫理に基づく宗教者の立場から、現時点での日本における平和構築を、司教団がどのような方向性で考えているかを明示しているもので、信徒にはその方向性を見極めて、信仰と照らし合わせて自らの判断をそれぞれにすることが必要です。
また教会で語る「平和」とは、あらためて言うまでもなく、単に戦争がない状態のことではなく、神の望まれる善なる世界が実現している状態のことです。カトリック教会のカテキズム要約には次のように記されています。
481:世界の平和は、人のいのちが尊重され、成長するために断固要求されるものですが、それは単に戦争がないということでも、対立する勢力の力の均衡でもなく、「秩序の静けさ」(聖アウグスチヌス)であり、「正義が造り出すもの」(イザヤ32:17)、愛の結果です。
どう見ても現在の世界において、神がよしとされる秩序が完成しているとはいえません。そうである限り、善の実現を妨げる事象に対しては、常にそれを指摘していくのは、宗教者のつとめでしょう。宗教者は自ら政権を握ったり政党を操ったりして、直接的に政治を動かすべきではないと思いますし、それは政治家のつとめであろうと思いますが、社会全体が進むべき方向性を指摘するのは、倫理的立場から事象を見つめる宗教者の役割です。
パウロ6世教皇が1970年世界平和の日メッセージに、次のように書いています。
平和は、単に受 け取って楽しむものではない。平和は、創造されるものである。平和は、現に到達してしまった水準ではない。平和は、私たち一人ひとりが例外なくつねに熱望しなけれ ばならない。より高度の水準である。平和は、私たちの心をだまして安眠をむさぼらせるような哲学ではなく、私たちすべてに共通善に対する責任を負わせる行動の哲学 であり、平和の大儀 ― つまり人類の真の大儀に向かって私たちの全努力を傾注するよう私たちに義務を負わせる行動の哲学なのである
これ以外の総会決定事項は、カトリック新聞をご覧ください。
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