御復活の主日@新潟教会
雨模様の少し肌寒い日曜日となりました。新潟では桜もやっと咲き始め、満開まではまだ時間がかかるようで、やっと冬を抜け出して春に移り変わろうとしている時期です。
愚図ついた天気にもかかわらず、昨晩洗礼を受けられた3名とその御家族を始め、今日の新潟教会聖堂はミサに参加する方でいっぱいでした。皆さん、主の御復活本当におめでとうございます。
ミサの後には信徒会館ホールで復活の祝賀会。これまた、近年まれに見る大勢の参加者で、二階ホールもいっぱいになりました。いつも以上に子供さんの参加が多かったように感じます。なんと言っても普段は、子供の声をほとんど聞くことがないのが、新潟教会ですから。洗礼を受けられた方のご家族・ご親戚は、北海道、静岡、長崎などからも集まられ、本当に大勢で受洗の喜びを分かち合いました。
また今日は、これまた新潟教会では珍しく、シスターの姿が。受洗された方のご親戚のシスターと、それとは関係なく、たまたま要務のあとに立ち寄ってくださったイエスのカリタス会(昔の宮崎カリタス会)の3名の「若い」シスターたち。昨日は糸魚川教会で復活徹夜祭に参加されたそうで、東京から自動車を運転してこられたとか。3名は召命募集チームでもあり、元気に挨拶をし歌を披露してくれました。さすが上手でありました。
今日の第一朗読は、復活の体験を通して力強い福音宣教者に変えられた使徒ペトロの姿を描いています。私たちはこの数日の典礼を通じて、この同じペトロが、いかに情けない姿をさらしてしまったのかを耳にしてきました。もちろんそれはペトロに固有の『情けなさ』ではなく、人間の本質です。口では偉そうなことを言っていても、大きな恐怖に直面するとき、あれほど慕っていた先生のことでさえも『知らない』と裏切ってしまうペトロ。心の闇の中で、不安と悲しみにさいなまれていたことでしょう。
ところがそのペトロは、その後まもなく大きく変わります。ヨハネ福音は、まだ理解していないペトロの様子を描きますが、復活の朝にこの話をもってくることによって教会は、復活の出来事が、単に死人が息を吹き返したのではないのだということを強調します。イエスの復活は、私たちが想像もつかない全く新しい生命への蘇りであって、殺されたイエスが息を吹き返した話ではありません。その証左に、復活を表現するのに福音は、あえて『空(から)の墓』の話を用います。それまでのイエスとは全く異なる存在となったことを明確にするためです。
そのイエスと出会ったペトロは、恐れと悲しみの闇のうちから解き放たれて、喜びと希望に満ちあふれながら、光の福音を伝える宣教者となったのです。人間を180度大きく変える偉大な力。しかも悲しみの淵にある者を希望にあふれた者へと変革する力、それが復活の栄光です。
昨夜の復活徹夜祭で、3名の女性が洗礼を受ける姿を目の当たりにしました。新しく教会の一員として生きることになった3名の方は、私の目の前で、本当に喜びに満ちあふれる表情をしていました。もちろん典礼的な意味もありますが、復活祭に洗礼式を行うことの意味がここにもあると、そのとき感じました。それまでの自分に死んで、新しい生命に生きる喜びに満たされた人を目の当たりにすることで、福音の力、喜びと希望の力を目の当たりにし、自らもそれに与りたいと感じさせてくれる。そのためにこのとき、洗礼式が行われる意味があるのだなと、感じました。私たちも喜びに満たされ、希望を掲げて、福音をあかししていきたいと思います。
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