王であるキリスト@新潟教会

本日の日曜日は、王であるキリストの主日です。教会の典礼の暦では、年間最後の日曜日。来週からは待降節が始まります。
新潟教区のカテドラルである新潟教会は、王であるキリストにささげられた教会ですから、毎年この主日が小教区のお祝い日です。そして、毎年この日が、司教による公式司牧訪問日となっています。いつも住んでいる敷地内の教会で公式訪問も妙な響きですが、王であるキリストの主日には必ず司教ミサを行うことにしています。なお本日のミサの説教は、こちらのページに掲載してあります。

王であるキリストの主日は、わたしたちに本当の権威とはどういうものであるのかを考えさせてくれます。今日の福音では、この世の権威にあるもの(ピラト)と、真の権威を帯びているもの(イエス)とでは、話がまったくかみ合わない様子が描かれています。この世の権威は従属するものを支配し君臨することによって成立していますが、イエスは、「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と語ることによって、神の国においては、この世の権威のありようとはまったく異なる支配が実現していることを示唆します。
神の支配は、従属するものの上に君臨し支配するような権威ではなく、まったくその逆で、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった」とヨハネの黙示にあるように、自らの生命をもってすべての人のために苦しみに身を投じるという、現世の価値観とはまったく相容れない価値観がそこにあることが語られています。最高の位にあるものが、自らすべての人のために生命をなげうつという、君臨する支配者とはまったく正反対のありようです。
そしてその神の支配は、「諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」とダニエル書にあるとおり、地域や時間に縛られていない、それを超越し、すべてに対して永遠に及ぶ支配であることが明示されています。
どのように人間がもがいていようと、結局のところは神の掌の中にあるのだという現実を知るとき、わたしたちは現実の世界を支配する価値観の多くが、神の支配とは相容れないものであることを、謙虚に学ぶことが必要であろうと思います。もちろん現実の世界は複雑怪奇ですから、神の望まれる世界の支配が即座に実現することは難しいでしょうし、教会が常々語る世界の理想的なありようも、単なる理想論として退けられてしまうこともたびたびでしょう。しかしその中にあっても、神が望まれる世界の有り様をつねに探求し続け、少しずつでもその理想に近づけることが出来るように、小さな努力を信仰のうちに続けていきたいと思います。

ミサ後にはセンターの二階ホールを会場に、茶話会が催され、聖歌隊の皆さんの歌の披露などもありました。
明日の月曜日は、高田教会で、フーベルト神父の司祭叙階金祝感謝ミサです。
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