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2015年12月31日 (木)

新年あけましておめでとうございます

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みなさま、新年あけましておめでとうございます。

新しい年、2016年が皆様にとって祝福に満ちた年となりますようにお祈りいたします。昨年末は多忙を極め、クリスマスカードも年賀状も手をつけることが出来ませんでした。失礼いたしますこと、どうぞお許しください。これからの一年、あらためて、よろしくお願い申し上げます。

暖かな降誕祭と年末年始になりました。新潟市内では、まだ雪が降っておりません。県内のスキー場ではオープンが出来たところが多いようですが、普段から雪の少ない地域のスキー場では、まだ雪を待っているところもあると聞きました。寒くないことや雪が少ないことは、とくに毎冬の雪かきで苦労なさっている方々にはありがたいことであろうと思いますが、同時に、雪が少なければ、夏に向かって豊かな水が果たしていつも通りに存在するのか、心配にもなります。おいしい米と、お酒のために不可欠ですから。

年頭の司牧書簡を、すでに新潟教区の各小教区には配布してあります。どうぞ一部ずつ手にとってお持ち帰りになり、目を通していただけると幸いです。また司牧書簡はこちらのリンクから読んでいただくことも出来ますので、ご利用ください。2016年の項目の140番です。

昨年末からいつくしみの特別聖年が始まっています。神のいつくしみのテーマは、教皇フランシスコにとって個人的にも長年にわたり信仰の重要なテーマでありました。そして教皇就任以来、神の愛とゆるしをことあるごとに述べられた教皇にとって、この特別聖年を行うことは必然でもあったと思います。

しかし同時に、この数年の世界の状況を見るにつけ、まさしく私たちの生きる社会の状況は、いつくしみの欠如した社会となってしまいました。あまりにも不安な要素が多く、将来に対する確固たるイメージが見通せない状況で、私たちの心の許容範囲はどんどん狭くなり、ついには自分たちの周囲の安定によって、心を落ち着けようとするところまで来ているように感じます。単なる利己的という言葉ですますことの出来ないほどの、人間関係の破壊です。教皇フランシスコが事あるごとに「無関心のグローバル化」という言葉で言い表す現実です。

いつくしみの特別聖年は、私たち一人ひとりが神の豊かな愛に包まれ、そのいつくしみのうちに生かされていることを心に刻むだけではなく、教皇の大勅書にあるように、さらにそのいつくしみを自分の心に抱いて、それを多くの人、なかんずく周縁へと追いやられ、忘れられている人たちの心に届けることが求められています。

教会は、さまざまな政治的理由をもって、多くの人の尊い生命が、無残にも奪い去られる状況をよしとすることは出来ません。なぜならば、神はすべての生命を、区別することなくそのすべてを良いものとして創造され、そのすべてを愛するがあまり、人となられ苦しみを受けて死に、復活されたからです。

とはいえ、「平和」と唱えるだけで、現実の社会で平和が実現しないことも事実です。具体的な国際政治の政策における方策を提示することは教会の務めではないのですが、しかし同時に教会は、政策を実現しようとするリーダーたちに、より良い道筋を提示し続けたいと考えています。少しでも、ほんの少しでも、神の望まれる世界の実現に近づくために。

教皇フランシスコは、年頭の世界平和の日メッセージの最後に、次のように記して、リーダーたちに道を示しています。

「各国首脳もまた、自国の国境の先に目を向け、他国の人々との関係を刷新し、すべての人が国際社会の営みに含まれ、活発に参加できるようにしなければなりません。それは、諸国が構成する家庭の中でも、兄弟愛が実現するためです。
 こうした展望のもとに、わたしは三つのことを訴えたいと思います。他国の人々を紛争や戦争に巻き込まないでください。紛争と戦争は、人々の物的、文化的、社会的な財産を破壊するだけでなく、道徳的、精神的な一体性を長期にわたって傷つけます。また、最貧国の国際債務を帳消しにするか、持続可能な形で管理してください。さらに、協力の精神に基づく政策を採択してください。特定のイデオロギーによる独裁の前に屈しない政策、地元の人々の価値観を尊重する政策、そして胎児の基本的かつ不可侵な生存権をいかなる場合も侵害しない政策です」

すべての人のために生まれた幼子を見守る聖母マリアのいつくしみに満ちたまなざしは、その幼子が背負うすべての人の生命に向かって注がれてもいます。聖母のまなざしのぬくもりを感じるとき、私たちはあらためて、すべての生命を守りぬくことの大切さを心に刻みたいと思います。

なお教皇フランシスコの世界平和の日メッセージ、「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」全文は、こちらのリンクからご覧ください

どうぞ良い一年を過ごされますように。新潟教区のために、またわたしが司教職をよりふさわしく果たすことが出来ますように、皆様のお祈りをお願いいたします。

2016年1月1日

カトリック新潟教区司教

タルチシオ菊地功、svd

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2015年12月26日 (土)

暖かなクリスマスでした@新潟市内

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何となくクリスマスの雰囲気が感じられなくなるような、そんな暖かな(とはいえ、確かに寒くはありますが、例年と比べてはるかに暖かい)12月25日でした。心配された雨も降らず、多くの方が新潟教会の日中のミサに参加してくださいました。ミサ後にはセンター2階ホールで祝賀会も行われ、今年は子どもたちの声がたくさん聞かれる元気のあるクリスマスパーティーになりました。全員が参加して行ったじゃんけん大会では、最後に残ったのが数名の子どもたちと、最長老の一人でもある90歳に近い金澤先生。最終優勝者でした。

以下、日中のミサの説教全文です。(夜半のミサとともにあらためてホームページにも掲載します)

「言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」
 1995年に教皇ヨハネパウロ2世は、回勅「いのちの福音」を発表され、「死の文化」と「いのちの文化」という対比する二つの文化の存在を指摘されました。「文化」とは社会の価値観の柱とも言うべき存在です。そして、信仰に生きるわたしたちにどちらの文化を選択するのかと問いかけました。教皇はいのちの尊厳をないがしろにする現代社会の傾向をさまざま指摘した後に、このように記しています。
「現代世界には、いのちを脅かす重大な脅威が無数にあります。これらに直面するとき、人間はまったくなすすべがないと圧倒されてしまいます。善は、悪に勝利を収めることが出来るだけの力を持たないと感じるのです(29)」

 この回勅「いのちの福音」発表から20年を経た今、わたしたちはあらためて、現代社会がいのちを脅かすさまざまな脅威に満ちあふれていることを感じざるを得ません。わたしたちのいのちは、自らが創造された人間を愛して止まない神からの、かけがえのない贈り物、賜物です。神は自らが創造された人間を限りなく愛されたからこそ、その救いのために人となり、わたしたちにその愛に基づくいつくしみを直接、目に見える形で、また耳に聞くことの出来る言葉で示そうとされました。

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 今日わたしたちが誕生を祝っているイエスは、神のことばそのものです。神の知恵、神のおもい、神の愛、そしてそれに基づく神のいつくしみ。それらすべてを「神のことば」と言い表しているのです。そしてヨハネは、このことばにこそいのちがあると記しています。
 近年、日本に限らず多くの国で、寛容さとはほど遠い行動をとる人々と、それを賞賛する人々の姿が目につくようになりました。時にその不寛容さは、多くの人のいのちでさえも奪ってしまいます。

 ただでさえ技術や経済が発展している現代社会では、利己的な思想や生き方が広まりつつあり、互いに助け合うという人間関係における寛容さが薄らいでいます。その中にあって、民族間の対立や、国家間の対立、ひいてはテロの脅威といった、心の不安を増幅するような雰囲気をしばしば感じるようになっています。疑心暗鬼の相互不信には、対立を引き起こし増長する負の力があっても、寛容さを広める前向きの力はありません。そういう中で、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら、簡単に生み出されてしまう可能性があると感じます。極端に言うならそれは、自分たちを守るためなら、敵対するものを殲滅することは致し方がないという考え方です。異質なものは排除しても構わないという、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、寛容さを失い、相互不信にあえぐ社会は、「死の文化」に彩られた社会です。教会はあらためてこの社会の中で、「いのちの文化」を強調していかなければなりません。善が悪に勝利を収めるだけの力を持っていることを、証明していかなくてはなりません。

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 そのような中で、教皇フランシスコは神のいつくしみを改めて強調され、いつくしみの特別聖年を始められました。特別聖年の大勅書に、こういう言葉があります。
 「神はご自分の愛を約束なさるだけでなく、それを見えるもの、触れることの出来るものとなさいます。やはり愛は、決して抽象的な言葉ではありません」
 まさしく教皇が記すとおり、神は自ら人間となり、具体的に語り行動することによって、その愛を目に見える形でわたしたちに示されました。確かにその愛は、抽象的ではなく具体的な言葉としてわたしたちの間に存在されているのです。
 その上で教皇フランシスコは、こう書いています。
「神は責任を感じています。わたしたちの幸せを望み、わたしたちが幸福で、喜びと平和に満たされているのを見たいのです」
 わたしたち一人ひとりが、神に愛されたいのちを生きる者として、喜びのうちに「いのちの文化」を生きるようにと、神は望んでおられると教皇は指摘します。

 わたしたちはこの神のことばによっていのちを受け、その愛といつくしみのうちに生きるように招かれています。そしてそのいのちの言葉を、さらに多くの人たちに伝えていくようにと招かれています。「死の文化」に彩られた世界に住む多くの人々に、どれほど「いのちの文化」が重要であるか、どれほどの愛といつくしみにわたしたちが包まれているのか。それを伝えていかなくてはなりません。
 そうであるのに、なんと簡単にわたしたちはいつくしみを忘れ、互いを裁きあうことでしょうか。幾たびわたしたちは、同じ神の愛といつくしみに包まれているもの同士であることを忘れ、対立し続けてきたでしょうか。

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 神のいつくしみは、わたしたちに連帯のうちに生きることを求めます。なぜならば神ご自身がそうされたからです。天の高みから人間を見下ろし、折に触れて恵みを投げ与えるような類いのあわれみではなく、やむにやまれぬ愛の思いに駆られて、自ら人間となりわたしたちのうちに共に生きようとされたのが、わたしたちの主だからです。わたしたちも、やむにやまれぬ思いに駆られて、同じ神によっていのちを与えられたもの同士として、相互の信頼と連帯のうちに生きていかなくてはなりません。
 教皇フランシスコは、「教会の生命を支える柱は、いつくしみです。教会の司牧行為は、すべてが優しさに包まれていなければなりません」と呼びかけます。

 また教皇は、「わたしたちの文化で、ゆるしの体験がますます減っていることを知るのは悲しいことです。ゆるしということばさえ、失われたかのようなときもあります。しかし、ゆるしのあかしがなければ、砂漠で生活するような不毛で荒れた人生しかありません」とも指摘しています。(大勅書10)

 主イエスの降誕の祝日に当たり、わたしたちは人となられた神のみ言葉のうちにこそ真のいのちがあることを、そしてそのみ言葉こそが神の愛、神のいつくしみの具体的に見える姿であり、わたしたち一人ひとりがその愛といつくしみに与るよう招かれていることを、あらためて心に刻みましょう。その上で、その愛といつくしみを、勇気を持って生き、あかしし、伝えていくことが出来るように、主の助けを祈りましょう。

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2015年12月24日 (木)

主の降誕、おめでとうございます。

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新潟教区の皆様、主の降誕、おめでとうございます。

(本日、夜半のミサ説教)

主の降誕おめでとうございます。

 主イエスの降誕を祝うわたしたちは、毎年この日の夜に、教会に集まります。もちろん明日の朝、明るい中でもいま一度集まって祈りを捧げるのですが、しかしクリスマスにとって一番重要なのは、この夜のひとときにあります。教会だけではなく、日本の多くの方々にとっても12月24日の夜にクリスマスを祝うことが、いわば習慣となってきていますけれども、クリスマスの本当の意味を心で感じるためにこそ、このお祝いは夜に行われなければなりません。

 先ほど朗読された福音書には、イエスが誕生した次第が記されていました。そこには、確かにマリアがベトレヘムで初めての子を産んだときに、羊飼いたちが「夜通し羊の群れの番をしていた」と記されていますから、その出来事は夜だったに違いありません。
 でもクリスマスを夜に祝うのは、単に起こった出来事をなぞっているという、それだけが理由なのではありません。
 福音書の続きには、「すると主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」と記されています。それは暗闇に輝く光でした。羊飼いたちが恐れをなすほどに輝く光でした。
 同じようなことが第一の朗読にも記されていました。最初に朗読されたイザヤの預言にはこう記されています。
 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」

 「闇の中を歩む民」とは、いったいだれのことでしょうか。
 東日本大震災の津波が私の故郷である岩手県を含めた東北沿岸を襲ったあと、数ヶ月して沿岸部の被災地を訪れました。夜になると、それまで多くの人が生活する街であった地域には何もなくなっているのですから、当然家の明かりもなく、街灯もない。真っ暗闇がすべてを支配していました。この深い闇を目の当たりにするとき、大きな不安が心を支配していくのを感じました。その地で避難生活を続ける多くの方々にとっても、その暗闇は希望を奪う負の力となったのではなかろうかと思います。

 今わたしたちが生きている世界は、例えばテロの脅威にさらされて、いつ何時どこで何が起こるのかわからないという不安が確実に存在します。その中で、わたしたちの国では、かつてのような明るい未来を展望させる経済的繁栄ではなく、少子高齢化の激しく進む中で、困難な未来が待ち受けているのではないだろうかという、将来に対する漠然とした不安も深まっているように思います。加えて、世界的レベルで言えば、気候変動は多くの国に、とりわけ貧しい国々に目に見える形での影響を及ぼしはじめており、わたしたちの共通の家である地球の存続そのものにでさえ、行く手に暗雲が立ちこめているようにすら感じさせます。将来を見通せないことへの不安。はっきりと見えてこない進むべき道。まさしく、「闇の中を歩む民」とは、現代社会に生きているわたしたちのことなのではないでしょうか。わたしたちは、将来をはっきりと見通すことの出来ない暗闇の中で、不安に心を支配され、生きています。

 「死の陰の地に住むもの」とはだれでしょう。
 それは確かに生命の危険を感じるような状況のことでもありましょうが、聖書は「死の陰の地」という言葉で、人が生きる希望すら失ってしまうような「これ以上ない深い暗闇」の状態を表現しようとしています。まさしく、不信と不安にあえいでいる現代社会に生きるわたしたちこそ、「死の陰の地に住むもの」ではないでしょうか。

 さて震災発生から数ヶ月して、会議のために宮古市の近くの大槌町へ出かけました。津波の被害を免れて町中に残っていたビジネスホテルが会場です。会議が終わって外へ出ると、そこは他の津波被災地と同じように深い暗闇が支配していました。ただ一つだけ異なっていたのは、ボランティアセンターとなったそのホテルに明かりがともっていたことです。延々と広がる暗闇の中に、そこだけが煌々と光を放って輝いていました。災害の地ではない普通の町中にあれば、きっとだれ一人として気にも留めないような、そんな当たり前のホテルの明かりです。それが、真っ暗闇の中に唯一残された光として存在するとき、その普段であれば誰も気に留めないような小さな光は、多くの人の心の不安を吹き飛ばし、将来への希望を生み出す輝く大きな光となっていたのです。

 イエスの誕生は、まさしく深い暗闇の中で希望を失い不安と不信に駆られている人々への、希望の光でありました。イエスにこそ、不安を打ち破り、将来への希望を生み出す光があります。
 だからこそ教会は、クリスマスの一番重要なお祝いを、夜の暗闇の中で行うのです。
 だからこそ教会は、クリスマスの夜に聖堂の明かりを消して、小さなキャンドルに火をともして、小さな光の持つ力を感じようとするのです。なぜならば、暗闇のうちに誕生した光は、小さな幼子であったにもかかわらず、すべての闇を打ち払う力を持っていたからです。闇に輝くその光は、燦然と輝く巨大な光ではなく、今にも消え入りそうな、両親の保護がなければ長らえることのない、小さな命だったからです。

 わたしたちはこの一年、「いつくしみの特別聖年」を祝っています。
 暗闇の中で、不安に駆られている人間は、互いを十分に信用することすら出来ない相互不信に陥る可能性の中に生きています。すでにわたしたちの社会は、相互不信の塊になってはいないでしょうか。相互不信の世界は、互いを簡単に断罪する世界でもあります。良いか悪いか、味方か敵か。白なのか黒なのか。不安に駆られたわたしたちは、判断を急いで安心を得ようとします。ですからすぐに人を裁きます。寛容さを失ってしまいます。
 ネットやテレビで、心温まるお話を耳にする機会が増えました。どうしてでしょう。それは心温まるようなお話が、わたしたちの周りから消え去っていき、ぎすぎすした対立ばかりが目についてくるからではないでしょうか。結果、わたしたちは心温まる話に飢えている。

 不安と不信の暗闇に住むわたしたちに与えられた光であるイエスは、いつくしみの神そのものでもあります。あわれみといつくしみは、神の愛の別名であるとまでいわれます。慈愛という言葉がそれを表すに適しています。神は自らが創造された人間を愛し抜かれているからこそ、人間としてこの世に来られた。そのイエスは、御父のいつくしみそのものです。神はわたしたち一人ひとりを、そのいつくしみで包み込み、さらにはわたしたちがその受けたいつくしみを互いにわけ与えることを望んでおられます。

 神のいつくしみとあわれみは、今日の第二の朗読に「良い行いに熱心な民をご自分のもとして清めるため」と記されているように、わたしたちが神の方向に向き直ること、すなわち回心を求めています。いつくしみとあわれみを求めて神に向き直るわたしたちに、闇に輝く光である神は、その愛によって包み込み、将来に向かう命の希望を与えてくださるのです。

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クリスマス・年末年始も教会へ

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まもなく主の降誕、クリスマスのお祝いです。クリスマスには是非教会へ。神の一人子イエスは、闇に輝くいのちの希望の光です。ですからその誕生のお祝いは、夜に行われます。小さないのち、生まれたばかりに、両親の保護を必要とする小さないのちが、すべての人への喜びのしるしであることを実感するために、暗闇の中でロウソクの小さな光を灯すのです。太陽の下であれば、まったく役に立たないであろう小さなロウソクの灯火は、闇の中では力強い光と感じられます。そしてその小さなロウソクの火がいくつも集まるとき、輝かしい光を放つことも出来ます。喜びと希望は、一人ひとりが、心に小さな火を灯しているときに、初めて世界に実現するのです。

カトリック新潟教会(中央区東大畑通)では、12月24日午後8時からキャンドルサービスとミサが行われます。また深夜零時にもミサがあります。12月25日は午前10時から。信徒でなくとも参加できますが、信仰における荘厳な儀式ですので、その雰囲気を守るようにしてください。

また年末年始にも祈りの時があります。教会でも過ぎゆく一年に感謝し、新たな一年に神からの祝福をいただくために、祈りを捧げます。12月31日深夜零時(2016年1月1日零時)から、カトリック新潟教会でミサが行われます。どうぞご参加ください。

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2015年12月22日 (火)

クリスマスミサと集い@新潟清心女子中高

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毎年恒例となっている新潟清心女子中学高校のクリスマスミサと集いが、本日火曜日の午前9時からお昼まで、同校の体育館で開催されました。

朝にはまず各教室で宗教担当の奈切先生から、全校放送でクリスマスの意味についての講話があり、その後、体育館へ移動。9時から、保護者の方も数十名参加するなか、わたしが司式してミサを捧げました。生徒と教職員合わせても10名にも満たない信徒ですが、毎年恒例となっていることもあり、全校生が参加。ミサ中の歌もしっかり歌い、またこの年代の生徒たちの集まりにも関わらず、皆真剣に、そして静かに参加してくれました。

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ミサ後は同じ会場で、集い。ハンドベル部の演奏に始まり、高校生からの奉仕活動の報告。合唱部の歌に続いて中学生の奉仕活動報告。そしてキャンドルサービス。キャンドルサービスの間には、ダンス部が火の灯されたロウソクを手に、全員で歌う聖歌に合わせてステージ上でパフォーマンス。そして中学三年生によるタブローの披露。昨年もそうでしたが、従来の降誕劇にとどまらず、独自の視点を取り入れた三部構成で、聖コルベ神父、ゼノ修士、北原怜子の三人に焦点を当て、他者のために自らを犠牲にして奉仕する姿勢の大切さを説く物語になっていました。指導した宗教担当の奈切先生の指導のもと、中学三年生は良く準備したと思います。

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そして最後は、高校三年生全員によるハレルヤの合唱で幕を閉じました。

暗闇の中に輝く小さな光である幼子は、暗闇が深いほどなおさら輝きを増す生命の希望の光です。一人ひとりの掲げる光は小さくとも、闇が深いほど、その小さな光は力を持ちます。そして今わたしたちが生きている世界は、不信や不安、敵対心、裁き、嫉妬など、多くのネガティブな要素で闇の深さを増しています。だからこそわたしたち一人ひとりの力は小さくとも、その小さな希望の光を、一人ひとりが掲げるならば、同じように希望を掲げる人たちの小さな明かりを結集して。希望の光を暗闇に輝かすことが出来るのだと信じます。

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2015年12月13日 (日)

いつくしみの扉開門ミサ@新潟教会

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この12月8日から始まったいつくしみの特別聖年ですが、本日は世界中の司教座聖堂やそのほかの指定された聖堂で、いつくしみの扉の開門ミサが行われる日と定められています。新潟教区の司教座である新潟教会では、本日の午前9時半から開門ミサを行いました。また教区内のそれ以外の指定教会である高田、山形、秋田の各教会でも、特別の意向を持ってミサが捧げられました。

新潟教会は、昨日の土曜日の午後と本日のミサ前、小教区の待降節黙想会がすでに予定されていましたので、講師に仙台教区郡山教会の板垣神父様をお迎えしました。そこで今日のミサもわたしが司式しましたが、説教は黙想会の続きとして、板垣神父様にお願いいたしました。

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今日のために聖座が用意した儀式書によれば、開門の式には次の三つの要素が反映されていると言います。

  • 御父のいつくしみのみ顔(大勅書1)であるキリストのうちに現され、もたらされ、聖霊のたまものを通してたえず働く(ヨハネ20・22-23)、いつくしみとあわれみに満ちた(エフェソ2・4、ヤコブ5・11)神の神秘。
  • わたしたちが救いに入るために通る唯一の扉であり(ヨハネ10・9)、御父へと導く唯一の道(ヨハネ14・6)であるキリストを認めること。
  • 「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ13・8)イエス・キリストに至る、今も続く教会の巡礼の旅。

午前9時からの30分間の黙想講話が終わった後、全員でセンター一階ホールへ移動。受難の主日と同じように、ここからこの日の典礼は始まりました。待降節の第三主日は降誕が近づいていると言うことを実感させる喜びの主日でもあり、伝統的にバラ色の祭服が使われます。新潟教会にも以前からこのバラ色の祭服がありましたので、今日のミサで使用しました。

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ホールでは挨拶の言葉と祈りの後、助任のナジ神父によってルカ福音の100匹の羊の話が朗読されました。その後、信徒代表によって特別聖年の告知である大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」の冒頭部分が朗読され、そして聖堂への行列に移ります。行列では、立派なカバーが取り付けられた福音書がナジ神父によって運ばれました。儀式書にはその理由がこう記されています。「これは自らの民の間を巡り歩くキリストと、弟子たちを導く光であるみことばを表す」

聖堂の正面玄関に到着すると、「 正義の門よ、とびらを開け。中に入って神に感謝しよう」という司教の言葉とともに、扉が開かれました。そして福音書が示す御言葉としてのキリストの現存を感じながら、入堂。

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ミサの初めには通常の回心の祈りに代えて、洗礼を思い起こし、その約束を新たにするために灌水式を行いました。

ミサの終わりには、祝福の前に儀式書に従ってサルベ・レジナを歌い、荘厳な祝福でミサを締めくくりました。

教皇フランシスコは大勅書を次の言葉で始めています。

「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。キリスト者の信仰の神秘は、ひと言でいえばこの表現に尽きる気がします。いつくしみは生きたもの、見えるものとなり、ナザレのイエスのうちに頂点に達しました」

わたしたちの信仰の神秘は、「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔」という表現で、すべて表すことが出来るとまで断言される教皇は、わたしたち一人ひとりが、神の徹底的な愛における限りないいつくしみに包まれていることを、この一年を通じて実感することを求めておられます。すべては神の愛に始まっています。わたしたち一人ひとりは、それぞれまったく異なる人生を歩み、一人として同じものはおらず、それぞれが異なる意味での問題を抱え、異なる希望を抱いて生きています。いつくしみの特別聖年は、どんな人生であっても、それが神が絶大なる愛おしさをもって創造され与えられた生命によって生きられている限り、神はそのいつくしみによってそのすべてを包み込んでいるのであり、一人たりとも、そのいつくしみから忘れ去られる者はいないことを感じさせる一年です。そしてそのことを心に刻みながら、今度はそれをわたしたち一人ひとりの生きる姿勢として、具体的な他の人たちにしめし、あかしすること。いつくしみに包まれていることを心で感じ取り、それを具体的にあかしするための行動をとる。そのための聖年です。

 

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2015年12月 8日 (火)

いつくしみの特別聖年開幕ミサ@新潟教会

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教皇フランシスコが定められた「いつくしみの特別聖年」が、本日始まりました。新潟教会で本日11時から、特別聖年開幕のミサを捧げました。特別聖年は来年の11月20日まで続けられます。これまでいわゆる聖年の扉はローマのバジリカに限定されていましたが、今回は世界中のすべての教区で特別聖年を身近に体験してほしいという教皇様の願いで、各教区司教が、カテドラルなどの主な教会を、「いつくしみの扉」の教会と定めることになりました。新潟教区では、新潟教会、高田教会、山形教会、秋田教会が指定されています。これらの教会における「いつくしみの扉」開門のミサは、12月13日の日曜日に行われます。開門ミサの後、特別聖年中には、この門をくぐり、ゆるしの秘跡を受け、聖体を拝領し、教皇様の意向のために祈りを捧げることによって、全免償が与えられます。

なお「免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるし」であると、カトリック教会のカテキズム1471に記されています。

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昨日夕方から本日昼まで、新潟近隣で働いている司祭団の待降節静修(黙想)が、秋田教会の松本神父の指導で行われたこともあり、その終了に合わせて開幕ミサを捧げましたので、多数の司祭が共同司式をいたしました。平日で侍者が手配できませんから、その分、司祭が侍者役もしてくださいました。オルガンと聖歌隊は、平日の昼間にもかかわらず参加してくださいましたし、また近隣の小教区を初め鶴岡など遠いところも含めて、多数の信徒の方が参加してくださいました。荒れた天気の日でなくて良かったです。おいでくださった方々に感謝します。

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もちろんすでに気がつかれた方もおられるでしょうが、この「いつくしみの特別聖年」は、かつて教皇ヨハネパウロ2世が定められた復活祭第二主日の「神のいつくしみの主日」につながるもので、さらには聖ファウスティナに関する「神のいつくしみ」の信心にもつながるものです。ミゼリコルディアという言葉を「あわれみ」と訳すか「いつくしみ」と訳すかは議論が分かれるところですし、特別聖年にあたってしばしば引用されるルカ6章36節の部分は新共同訳では「あなたがたの父があわれみ深いように、あなた方もあわれみ深い者となりなさい」となっています。実はすでに、教皇ヨハネパウロ二世がこのミゼリコルディアについて教え、さらに「神のいつくしみ」の信心につながっていった回勅「Dives in Misericordia」は、1981年に澤田和夫神父様によって「いつくしみ深い神」として翻訳され、その後聖ファウスティナに関連する信心も「神のいつくしみ」と訳されてきました。このたびの聖年に合わせて、この回勅「いつくしみ深い神」はペトロ文庫版で再刊されます。その中には2000年に行われた聖ファウスティナの列聖ミサでの、教皇ヨハネパウロ2世の説教も収録されていますので、是非お読みください。

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2015年12月 7日 (月)

堅信式ミサ@長岡教会

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待降節第二主日の昨日、新潟県長岡市にある長岡教会で、堅信式を行いました。5名の方が、ミサ中に堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。堅信を受けた5名の大半はこれから学校などの行事が立て込み、日曜日は教会に来るのが難しくなってくる年代です。洗礼から始まって聖体、そして堅信と、キリスト教入信の秘跡を順に受けて、これでいわゆる「大人の信徒」として一歩を踏み出したところですから、さまざまな事情で教会に来るのが難しくなっても、この堅信の秘跡のミサを忘れずに、教会の皆さんと信仰においてつながっているのだと言うことを、心に刻みつけておいてください。そして、いつどこでも、神様と話をすることを忘れないでください。ミサ後にはホールで堅信のお祝いの茶話会もありました。

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長岡教会は、かつては線路を挟んであった福住と表町の二つの小教区が合併して誕生した教会です。戦後は長年フランシスコ会の担当でしたが、現在は神言会の上村勉師が主任司祭。また教区の滞日外国人信徒の司牧担当で同じ神言会のロレンゾ師が、協力司祭として一緒に居住しています。新潟県では規模の大きい都市でもある長岡市ですし、新潟教区にとっては、新潟教会、高田教会とともに規模の大きい宣教拠点です。ただ中期的には、駐車場がほとんどないという敷地の問題を解決しなくてはならないですし、長期的には教会の建物自体の更新も考えなくてはならなくなるでしょう。道路を挟んで向かいに建つカトリック幼稚園も、現在園舎を新築中です。(こちらの担当は見附の真壁師)

さて新しい月に入ってしまいましたので、今月の主な予定を掲載します。なお今月に予定されていた海外巡礼は、中止になりました。

  • 12月7日 月曜会ミサ (新潟)
  • 12月7日8日 教区司祭団待降節静修 (新潟)
  • 12月8日 いつくしみの特別聖年開幕ミサ (11時新潟教会)
  • 12月8日 (社福)新潟カリタス会理事会
  • 12月9日10日 社会司教研修会 (東京)
  • 12月10日 HIV/AIDSデスク会議 (東京)
  • 12月13日 いつくしみの扉開門ミサ (9時半新潟教会)
  • 12月17日~21日 カリタスアジア会議 (バンコク)
  • 12月22日 新潟清心中学高校クリスマス行事 (新潟)
  • 12月24日 主の降誕 夜半ミサ (20時新潟教会)
  • 12月25日 主の降誕 日中ミサ (10時新潟教会)

なお新潟教区内の各小教区でのクリスマスミサの時間一覧が、教区のホームページに掲載されていますので、ご参照ください。リンクはこちらです。(下の写真は、先日の福音宣教省総会後の謁見で)

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2015年12月 6日 (日)

福音宣教省総会@ローマから帰国

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11月30日から12月3日までローマで開催された、教皇庁福音宣教省の第19回総会に出席し、昨晩帰国しました。サンピエトロ広場は降誕祭に向けて巨大なクリスマスツリーとこれまた巨大な馬小屋を準備中で、夜には特別なライトアップも行われ、パリでのテロ後に観光客や巡礼者が減ったと言われ、確かに警備の姿がいつも以上に目につきましたが、それでもいつもの待降節の雰囲気でした。(写真上:最終日の教皇様謁見にて)

今回の総会は、1965年12月8日の第二バチカン公会議閉幕前日に、現代世界憲章とともに公布されたいわゆる「宣教教令・Ad Gentes」の50周年を記念してこの時期に行われたもので、テーマは「Ecclesial Awareness and Mission ad gentes (教会の意識と諸国民への宣教)」。福音宣教省が管轄するいわゆる「宣教地」にあって、福音宣教への意識を各地の教会共同体がどれほど持っているのか、また福音宣教省はそのためにどんな貢献やサービスが出来るのかが話し合われました。

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教皇庁の役所は、もちろんローマにある役所の本体のことでもありますが、同時にそれぞれに教皇様から任命されているメンバー(委員)で構成されています。福音宣教省の務めのなかで日本の教会に一番なじみがあるのは、日本を含む宣教地における司教任命のための選任手続きを教皇大使を通じて行う部署としてですが、これも毎月2回、ローマに居住するメンバーの枢機卿による会議によって、だれを司教候補として教皇様に推薦するのかを決定しています。(写真上:ウルバノ大学の総会議会場。談笑する左からタグレ(マニラ)、コヴィタワニット(バンコク)、ジュエ(ナイロビ)の各枢機卿とニコラス師)

今回は総会の日程が決まった後に教皇様のアフリカ訪問が入り、福音宣教省のフィローニ枢機卿はこれに同行したので、総会初日は欠席でしたが、同じく同行したタクソン枢機卿共々、二日目の朝から元気に参加されておられました。

現在の福音宣教省のメンバーは53名。そのうち、枢機卿のメンバーが31名。教皇庁のさまざまな役職を持つ大司教が9名。それ以外の各地の教区大司教・司教が、私を含めて6名。修道会代表や宣教地司祭育成会代表の司祭が6名。そしてシスターが一名。メンバーの中には、ソウル、マニラ、バンコク、香港の枢機卿さんなど以前から存じ上げている方々もおられましたし、また修道会代表にはイエズス会のニコラス総長もおられました。(修道会は他に、フランシスコ会とオブレート会の総長。シスターはカンボニ宣教女会の総長)

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会議は毎日朝9時から一人の方の講演があり、その後英語、イタリア語、フランス語の言語別グループに分かれての討議が午後1時まで。そしてイタリア特有の長い昼休みの後、全体会が午後4時半から7時まで。全体会は同時通訳(英、仏)があります。毎日の講演は、初日が前国務長官のベルトーネ枢機卿、二日目が正義と平和評議会のタクソン枢機卿、そして三日目が教皇庁教会アカデミーのグローダー大司教。私が参加した英語の小グループには、10月のシノドスでも発言が注目されていた南アはダーバンのナピエル枢機卿と財務事務局のペル枢機卿がおり、この二人の議論は、ちょっと興味深いものでした。(全体会で写真をミサながら教皇アフリカ訪問について語るフィローニ枢機卿。議長席左から次官のホン大司教、司会のランジット枢機卿(コロンボ)、フィローニ枢機卿、ゴローダー大司教)

討議された内容はまた福音宣教省から詳細なレポートが出ることだろうと思いますが、小教区における宣教意識をどう高めるのかとか、司祭養成の段階で宣教への意識を高める工夫が必要だとか、宣教地の教区の財政自立は重要だが、それだけにとらわれて福音宣教への熱意が失われては本末転倒だとか、それに関連して財政的また人的相互支援をどのように強めるのかなどの諸点が指摘されました。本日の日曜日に行われた宣教地司祭育成の献金などを取り扱う部門(宣教地司祭育成会)も、この福音宣教省が管轄していますので、その献金が減少傾向にあることへの懸念も表明されていました。

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会議最終日の12月3日は、午前10時から聖ペトロ大聖堂地下の聖ペトロ墓所前の小聖堂で、福音宣教省長官のフィローニ枢機卿が司式して感謝ミサ。その後12時半から教皇様との謁見。そして午後4時から総括全体会が行われ、閉幕となりました。(上の写真は、教皇謁見後、移動のバスを待つ枢機卿たち。一番左から二人目が、枢機卿団で一番若い54歳のトンガのマフィ枢機卿)

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