いつくしみの扉開門ミサ@新潟教会
この12月8日から始まったいつくしみの特別聖年ですが、本日は世界中の司教座聖堂やそのほかの指定された聖堂で、いつくしみの扉の開門ミサが行われる日と定められています。新潟教区の司教座である新潟教会では、本日の午前9時半から開門ミサを行いました。また教区内のそれ以外の指定教会である高田、山形、秋田の各教会でも、特別の意向を持ってミサが捧げられました。
新潟教会は、昨日の土曜日の午後と本日のミサ前、小教区の待降節黙想会がすでに予定されていましたので、講師に仙台教区郡山教会の板垣神父様をお迎えしました。そこで今日のミサもわたしが司式しましたが、説教は黙想会の続きとして、板垣神父様にお願いいたしました。
今日のために聖座が用意した儀式書によれば、開門の式には次の三つの要素が反映されていると言います。
- 御父のいつくしみのみ顔(大勅書1)であるキリストのうちに現され、もたらされ、聖霊のたまものを通してたえず働く(ヨハネ20・22-23)、いつくしみとあわれみに満ちた(エフェソ2・4、ヤコブ5・11)神の神秘。
- わたしたちが救いに入るために通る唯一の扉であり(ヨハネ10・9)、御父へと導く唯一の道(ヨハネ14・6)であるキリストを認めること。
- 「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ13・8)イエス・キリストに至る、今も続く教会の巡礼の旅。
午前9時からの30分間の黙想講話が終わった後、全員でセンター一階ホールへ移動。受難の主日と同じように、ここからこの日の典礼は始まりました。待降節の第三主日は降誕が近づいていると言うことを実感させる喜びの主日でもあり、伝統的にバラ色の祭服が使われます。新潟教会にも以前からこのバラ色の祭服がありましたので、今日のミサで使用しました。
ホールでは挨拶の言葉と祈りの後、助任のナジ神父によってルカ福音の100匹の羊の話が朗読されました。その後、信徒代表によって特別聖年の告知である大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」の冒頭部分が朗読され、そして聖堂への行列に移ります。行列では、立派なカバーが取り付けられた福音書がナジ神父によって運ばれました。儀式書にはその理由がこう記されています。「これは自らの民の間を巡り歩くキリストと、弟子たちを導く光であるみことばを表す」
聖堂の正面玄関に到着すると、「 正義の門よ、とびらを開け。中に入って神に感謝しよう」という司教の言葉とともに、扉が開かれました。そして福音書が示す御言葉としてのキリストの現存を感じながら、入堂。
ミサの初めには通常の回心の祈りに代えて、洗礼を思い起こし、その約束を新たにするために灌水式を行いました。
ミサの終わりには、祝福の前に儀式書に従ってサルベ・レジナを歌い、荘厳な祝福でミサを締めくくりました。
教皇フランシスコは大勅書を次の言葉で始めています。
「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。キリスト者の信仰の神秘は、ひと言でいえばこの表現に尽きる気がします。いつくしみは生きたもの、見えるものとなり、ナザレのイエスのうちに頂点に達しました」
わたしたちの信仰の神秘は、「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔」という表現で、すべて表すことが出来るとまで断言される教皇は、わたしたち一人ひとりが、神の徹底的な愛における限りないいつくしみに包まれていることを、この一年を通じて実感することを求めておられます。すべては神の愛に始まっています。わたしたち一人ひとりは、それぞれまったく異なる人生を歩み、一人として同じものはおらず、それぞれが異なる意味での問題を抱え、異なる希望を抱いて生きています。いつくしみの特別聖年は、どんな人生であっても、それが神が絶大なる愛おしさをもって創造され与えられた生命によって生きられている限り、神はそのいつくしみによってそのすべてを包み込んでいるのであり、一人たりとも、そのいつくしみから忘れ去られる者はいないことを感じさせる一年です。そしてそのことを心に刻みながら、今度はそれをわたしたち一人ひとりの生きる姿勢として、具体的な他の人たちにしめし、あかしすること。いつくしみに包まれていることを心で感じ取り、それを具体的にあかしするための行動をとる。そのための聖年です。
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