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2016年1月30日 (土)

定例仙台教区サポート会議@元寺小路教会

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昨日、1月29日(金)は、東日本大震災復興支援活動に関する定例の、仙台教区サポート会議の日でしたので、仙台のカテドラルである元寺小路教会へ。仙台は朝から軽い雪模様で、寒い一日でした。2011年3月以降の活動初期には、調整するべきことが多々あったので、毎月のように会議を行い、仙台教区の平賀司教のもとで、全国から駆けつけた教会関係者が調整する必要がありました。現在は、すでに5年近くが経過し、それぞれの活動拠点も独自に計画をもって進めていることもあり、情報交換と今後の見通しについて、またカリタスジャパンと資金的な調整をすることが主な内容となっていますので、年に4回ほどの開催となっています。

これらの全国の教会を挙げての復興支援活動は、それぞれ勝手に行っているわけではなくて、仙台教区の大きな方針、つまり平賀司教の名前で発表されている『新しい創造計画』の実現のために、それぞれの現場で取り組んでいます。現在は第3期ですが、この『新しい創造計画』は、今年の春には第四期が発表されることが期待されています。たぶん、第四期が、これから先当分の間、すなわち、震災10年くらいまでの大きな方向性を示す指針となるのではないかと思います。

午後からの仙台教区、各教会管区代表司教、カリタスジャパンなどとのサポート会議に先立ち、午前10時からは、ボランティアベースの代表者による調整や情報交換の会議も行われました。やはり、活動が長期化しているので、ボランティアの減少と、現場の責任者の疲労の蓄積が大きな課題としてのしかかります。

さて、まもなく2月となりますので、主な予定を記しておきます。予定にあるとおり、これからマニラに出かけますので、次の更新は来週の木曜日以降になります。

  • 2月1日~3日 国際カリタス中国社会司牧フォーラム (マニラ)
  • 2月4日 常任司教委員会、HIV/AIDSデスク、神学院常任 (東京)
  • 2月7日 新庄教会ミサ (山形県舟形町)
  • 2月8日 聖母学園理事会・園長会 (新潟)
  • 2月10日 灰の水曜日ミサ (新潟教会午前10時)
  • 2月13日 長岡・幼稚園園舎祝福式 (長岡)
  • 2月14日 共同洗礼志願式 (新潟教会午前9時半)
  • 2月15日~19日 司教総会 (東京)
  • 2月22日 月曜会ミサ
  • 2月25日 新潟カリタス会理事会 (新潟)
  • 2月26日 カリタスジャパン委員会 (東京)
  • 2月26・27日 カリタスジャパン四旬節黙想会 (広島、幟町教会)

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2016年1月26日 (火)

高山右近の列福が承認されました

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すでに一般紙などでも報道されていますのでご存じのこととは思いますが、かねてより教皇庁に申請をしていましたユスト高山右近の列福が、1月22日に教皇様によって裁可され、承認となりました。

キリシタン迫害の中、信仰をもまりぬく道を選び、大名としての地位を奪われ、そのすべての栄誉を剥奪された上に、国外追放となってマニラの地で客死していった高山右近は、そのすべてをなげうって信仰を守りぬいた生き方から、殉教者としての列福が認められました。

その場しのぎの価値判断、今さえ良ければ後はどうでも良いとでもいわんばかりの生きる姿勢が普通になり、絶対的な価値判断はあまり顧みられなくなる相対的で流動的な現代社会に対して、あくまでも守りぬくべき真理はどんな代償を払っても捨て去ることは出来ないという姿勢を貫いた高山右近は、単に信仰者としてだけではなく、一人の人間の尊厳ある生き方を示す模範として、その存在には重要な意味があると思います。

すでに、1615年にマニラで亡くなった当時から、現地での顕彰が始まり、キリスト者の模範として大きな尊敬を集めていたといわれます。それから400年が経った現在、日本においてキリスト教を取り巻く環境は大きく変わり、当時のような迫害は存在していません。大きく変化した社会状況の中で、今、人間は一体何のために生きているのかという根本的な課題に、わたしたちはふさわしい回答をもっているでしょうか。高山右近の生涯は、常に自分の側からの判断ではなく、自分が常に向かい合って生きる神の立ち位置からの判断を優先させていった生涯であったと思います。そこには今良ければなどという刹那的な判断はあり得ず、神が望まれる人の有り様を常に模索するへりくだった生き方があったように思います。

カトリック中央協議会のこちらのページに、特集が組まれています。またその中に、今回の列福承認にあたっての、司教協議会会長岡田大司教の談話へのリンクもございます。是非ご一読ください。

なお列副式の会場や日時は、教皇庁との調整をしなくてはならないため、現時点では未定です。しかしながら準備に時間がかかるであろうことを想像しますと、一年後くらい、すなわち2017年初旬になるのではなかろうかと想像いたします。これは正式な発表をお待ちください。

また高山右近の列福調査自体は、亡くなられた直後、マニラ教区で開始されました。これは通常、聖人への道のりである列福と列聖の調査は、亡くなられた地元や出身地などの、特定の「教区」または「修道会」によって始められ、申請も「教区」や「修道会」が行うことになるからです。その調査に基づいて、教皇庁の列聖省が判断を下していきます。殉教者にしても証聖者にしても、その歴史的背景や事実関係を最終的に判断するのは、教皇庁の列聖省です。高山右近の調査は、歴史的な流れもあり、その後日本に移管されて現在に至っています。かなりの時間がかかりました。また証聖者と殉教者の間を何度も行き来しました。その経緯については、是非、以下の「こころのともしび」のビデオ番組をご覧ください。長年にわたり司教団の列福列聖委員会の責任者として関わってこられた、溝部司教のお話です。そこにどうして時間がこれだけかかったのかなどについて、また歴史的背景はどうやって調査したのかなどについて、詳しく述べられています。第一部から第四部まであります。それぞれ10分ずつのお話です。以下のリンクからユーチューブに飛びます。

https://youtu.be/exBY5HbadAY?list=PL12z5ETpOGHlNzHTPvONQYy7o7UR9lq6Q

https://youtu.be/SrwM_ue7p-4?list=PL12z5ETpOGHlNzHTPvONQYy7o7UR9lq6Q

https://youtu.be/-mCleCFsLls?list=PL12z5ETpOGHlNzHTPvONQYy7o7UR9lq6Q

https://youtu.be/FE28T3DZG-U?list=PL12z5ETpOGHlNzHTPvONQYy7o7UR9lq6Q

写真(一番上と下)は日曜日の新潟市内の様子です。この冬初めての大雪で、なんといつもはそんなこともないのですが高速道路は閉鎖。長岡あたりの国道8号線では立ち往生の車のために10キロ以上も渋滞が数日続いているとのこと。暖冬が続いていましたが、急に本格的な冬になりました。

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2016年1月25日 (月)

リスボンで研修会

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先週は、ポルトガルのリスボンで開催された研修会に参加してきました。講師は教皇庁の正義と平和評議会議長ピーター・タクソン枢機卿他で、主に先般教皇様が出された回勅「ラウダート・シ」について学びながら、グローバル化が進む世界の現実の中で、教会の役割は何かについて、いろいろな方の講義が二日間ありました。世界各地から100名ほどの司教が参加。

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研修会参加者の中には8名の神言会員の司教が。上の写真がそのうちの7名です。写真の向かって左から、Bishop Zeferino Zeca(アンゴラはルアンダの補佐司教)、Bishop Jorge Vega Velasco (チリはイヤペルの司教), Bishop Frank Nubuasah,(ボツワナはフランシスタウンの司教)、わたし、Bishop Gabriel Kumordji,(ガーナはドンコクロムの司教)、Bishop Estanislau Chindekasse,(アンゴラはドゥンドの司教)、Bishop António Francisco Jaca,(アンゴラはカヒトの司教)。

ガーナのGabriel Kumordji司教とは、長いつきあいです。30年前にわたしがガーナで働き始めたとき、同じAsesewa教会でポーランド人主任司祭のもとで、一緒に助任司祭をしていました。その後わたしが神言会の日本管区長であった頃に、彼もガーナの管区長でした。

またFrank Nubuasah司教は、ガーナ出身で、もともとボツワナに派遣されていましたが、わたしがガーナで働いていた頃は、ガーナ管区の修練長として戻ってきていました。

さらにこの写真撮影時には不在だったので入っていませんが、もうひとり、チリのチリアンの司教、Bishop Carlos Pellegrínも研修会に参加していましたが、かれとは同じ年にガーナに派遣され、ほぼ同じ期間、彼は北部で、わたしは南部で働いていました。

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さて、リスボンから車で1時間半ほど移動すると、ファティマがあります。二日間の研修に先立って、参加者はバスでファティマへ巡礼に出かけました。聖母出現の100周年を2017年に控え、ファティマは大改修工事中でしたので、大聖堂には入ることが出来ませんでした。しかし、聖母が現れた場所に後に建てられた小聖堂のところで祈り(写真下)、大聖堂後部にあるルチア、ヤシンタとフランシスコの墓で祈り、さらには大聖堂の広場手前にある新しい大聖堂の「いつくしみの扉」を通り、その地下にある小聖堂で皆でロザリオを祈ってくることが出来ました。

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山に囲まれたルルドとはまた異なる雰囲気を持った、なだらかな丘の続く聖母の聖地でありました。

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2016年1月17日 (日)

キリスト教一致祈祷週間@新潟市

1995年1月17日に阪神淡路の大震災が発生してから、21年となりました。あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を祈るとともに、復興の歩みにこれからも神の祝福があるように祈ります。

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毎年この時期は、キリスト教一致祈祷週間が行われています。今年も1月18日から25日まで、「主の力あるわざを、広く伝えるために招かれて」をテーマに、開催されます。以前はこの祈祷週間の間、新潟市内では毎晩、祈祷会が開催されていました。順番に近隣の教会を廻り、そこで祈祷会後に交流の時間も設けられてきました。

残念ながら、数年前から、参加する多くの信徒の方の高齢化もあり、新潟では天気が荒れることの多いこの時期に、夜の行事は難しいということで、祈祷週間の間の数日間を選んで、昼間に祈祷会を行うようになりました。

今年は、以下の日程で、新潟市内の一致祈祷会が開催されます。

  • 1月19日(火)10時半、カトリック新潟教会
  • 1月21日(木)10時半、日本キリスト教団東中通教会
  • 1月24日(日)14時、聖公会新潟聖パウロ教会

14日の日曜日が、全体の中の中心集会と位置づけられていますので、どうぞご参加ください。

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先日、米国のカリタスであるCatholic Relief Service (CRS) の事業責任者であるショーン・カラハン氏(上の写真真ん中の白いシャツ)が、東日本大震災被災地での復興支援活動視察のため来日されました。宮城県や福島県を、仙台教区の小松神父の案内で視察されました。東日本大震災の復興支援活動のために、カリタスジャパンは世界中のカリタスから援助をいただきました。それを基にして、また国内での募金と合わせて、これまで5年間の仙台教区における活動を資金的に支えてきました。現場では10年間は復興支援として、その地に住まわれる方々と歩みをともにするという意志が固まっており、カリタスジャパンもできる限り力を尽くしていきたいと思います。ただ残念ながら、各国からの支援はそろそろ終わりに近づいているのですが、現時点で、またこれからも10年目を目指して、一番多い支援をくださるのが米国カリタスです。その意味で、米国カリタスの世界中の活動の責任者でもあるカラハン氏に、現場をみていただくことは、責任ある活動を継続するためにも重要でした。

カラハン氏は、若い頃にインドに駐在していたこともあり、アジアを良く知っている人物ですが、日本に来るのは初めてとのこと。今回は、現在のアジアの活動責任者であり、カリタスジャパンにとって頼りになる助言者でもあるグレッグ・アウベリー氏も同行され、細かいところまでみて行かれました。最終日にはカリタスジャパンの事務局も訪れられ、わたしや秘書の瀬戸神父も合流して、意見の交換を行いました。

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2016年1月12日 (火)

この冬、初めての積雪@新潟市内

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このところ暖かい冬が続いていましたが、この数日は冷え込み(というか平年並みになったということでしょう)雪もちらつきました。そして今日は朝から雪が降り続き、新潟市内中心部でもこの冬初めての積雪となりました。「新潟市内中心部でも」と書いたのは、新潟県は豪雪地帯ですが、海に面し、さらに沖合には佐渡島がある新潟市内中心部は、雪が積もること自体があまりないのです。それでも前回の冬(2014年から15年にかけて)は12月の初め、ちょうど巡礼に出かけようとしたその日に、すさまじい大雪が降り、空港が閉鎖されたほどでした。しかし今冬はまったく雪が降らず、いつもよりはほぼ一ヶ月遅れで、初めての積雪となりました。

この雪の中、今日は新潟教区の司祭団の新年祝賀会でした。天候のことなどもあり司祭団全員が参加というわけにはなかなか行きませんが、教区司祭と修道会(神言会)の司祭で20人ほどが集合しました。鶴岡の伴神父さんも参加されました。

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11時からカテドラルの小聖堂で新年の感謝ミサ。いつものように、寺尾教会の町田神父様がオルガンを弾いてくださいました。その後、司教館会議室で昼食会。仕出しのお弁当プラスアルファで、楽しいひとときを過ごしました。

特に、1月10日に88才の誕生日を迎えた、新津教会主任司祭の鎌田神父様の米寿を祝って、誕生ケーキが用意され、鎌田神父様には元気に「88」をかたどったローソクの火を吹き消し、そしていろいろと思うところを語っていただきました。鎌田神父様、おめでとうございます。

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年頭の司牧書簡にも記しましたが、わたしたちは長いスパンで先を見通すことの出来ない時代を生きています。経済の見通しは決して明るくなく、少子高齢化が進み、過疎で消える共同体もあるなどといわれる中、将来への見通しは明確ではありません。加えて、世界各地で相次ぐ暴力的な事件と、近隣の国々との不安定な関係。とりわけ正月のこのときに、お隣の北朝鮮は、何を考えているのかまったく理解できませんが、水爆実験をしたと主張している。脅しをかけて相手方から譲歩を引き出そうとする外交戦術は、結局のところ成功することはなく、地域一帯にさらに不安定な状況を生み出すとしか思えないのですが。あの国では国内の状況を顧みれば、国民のためにするべきことはもっと他にあるのではないかと思いますが、それが見えない指導者。司教や司教団は、自らの領域外の問題に関して、勝手に公式な発言が出来ないことになっているので(特に、それを決めるべき地元の司教団が存在しない中国や北朝鮮は、バチカンマターとなっているため)、あまり公式に他国の問題を批判することは慎むべきですが、しかし地域の不安定化を招く今回の行為は強く非難されるべきです。

まったくこういった先行き不透明な中で、わたしたちは漠然とした不安を抱えて生きております。その中で、人間はどうしても安定を求めるがために、見える世界の範囲をどんどん狭めて、自分の周りのわかり得る範囲で安定を求めようとする。それが教皇フランシスコがしばしば指摘する、「無関心」を生み出すのではないのだろうかと思います。世界的な規模で無関心が広がり、多くの人が自分の世界の中での安定を模索し、他者へ手を差し伸べることを忘れていると、教皇はしばしば指摘されてきました。しかし現実は、年の初めから不安定さを増しつつあり、将来への不透明さは、なおいっそうこの「無関心」を深めてきているのではなかろうかと思います。人間は何のために生きるのか、どう生きるべきなのか。それを信仰の視点から語り続けているのが教皇フランシスコですが、この新しい年の始まりにあたり、あらためて、生きる姿勢の中でその信仰の真理をあかししていく決意を固めたいと思います。

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また今日1月12日は、1629年に米沢でルイス甘粕右衛門ら53名の福者殉教者が処刑された日でもあります(典礼暦の祝日は7月1日です)。米沢教会では記念のミサも捧げられたと聞いています。生命を賭して信仰の真理をあかしした殉教者に倣う勇気を、祈り求めたいと思います。

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2016年1月 4日 (月)

今日は仕事始め@新潟教区本部

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新潟教区本部は今日が仕事始めとなりました。新潟はこの数日。冷たい雨が降ったり止んだり、風が吹いたりと荒れ気味の天気ですが、例年に比べれば暖かい正月でした。

1月1日の新潟教会は、毎年、深夜零時(大晦日の真夜中)にわたしが司式してまず一年の最初のミサをささげ、そのあと11時から主任司祭の司式でもう一度ミサを捧げ、そのミサ後にセンター(信徒会館)で年賀交換をいたします。

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このところクリスマスも新年も、零時の深夜ミサの参加者は少なくなっております。今回は、どちらも30名に届くか届かないかの程度。それでも、深夜ミサには意味があると思いますので、できる限り、続けていきたいと思っています。

新年最初のミサは、特に世界平和の日のために捧げています。クリスマスの頃から繰り返しているテーマで重複するないようもありますが、深夜ミサの説教の全文を掲載します。

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新年明けましておめでとうございます。

 神である御言葉が人となられ私たちのうちに住まわれた。主イエスの降誕を祝う教会は、それから一週間後にあたる1月1日を、神の母聖マリアの祝日と定めています。神が自ら人となられた神秘、そして人間として私たちと共に生きられたという神秘、その不思議な業は人間であるマリアによって実現したという事実によって、神ご自身が創造された人間の尊厳をあらためて私たちに示されました。神ご自身が人間となり、母マリアから生まれたことをあらためて黙想するこの日、ひとりひとりに神から与えられた賜物である「いのち」への尊厳をあらためて黙想し、またその恵みに感謝したいと思います。

 また教会は、新年の第一日目を、世界平和の日とも定めています。1968年、東西冷戦のさなか、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、世界の平和をともに祈ろうと教皇パウロ六世が定められました。
 一人ひとりに神から与えられた賜物である「いのち」の尊厳を考えるとき、私たちはその尊厳を打ち砕こうとする人間の仕業である戦争や、さまざまな武力紛争、そして社会における暴力行為に対して、神の望みにそれは反しているのだと毅然と告げなければなりません。

 昨年2015年という年を振り返るとき、さまざまな出来事がありました。頻発するテロ事件や耳を疑うような残忍な殺人事件。そして国内外の政治の世界でもさまざまなことがありました。いろいろと衝撃的な出来事がありましたが、その中でもわたしにとって衝撃的な出来事として記憶に残っているのは、7月、岩手県で13才の少年が自ら命を絶つという痛ましい事件であります。いじめが原因だったといわれます。起こった出来事のその是非について語るつもりはありません。ただニュースのなかで、亡くなられた中学生のお祖父さんがインタビューでこう言っておられたのが、わたしには印象的であり衝撃的で、心に残っています。 『あの子は、心が優しい子だったからこうなったのだ』

 心が優しい子どもが、いじめられ、自ら生命を絶つまで追い詰められてしまう社会とは、いったいどういう社会に私たちは生きているのでしょう。そう感じざるを得ない一言でした。心が優しい人は、他人を大切にし、生命を大切にしようとする人ではないでしょうか。その優しい心の持ち主がもう生きることが出来ないと思い詰めてしまう社会とは、いったい何を大切にし、何のために人が生きている社会なのでしょうか。そう思ってしまいました。

 今わたしたちが生きている社会は、例えばテロの脅威にさらされて、いつ何時どこで何が起こるのかわからないという不安に包まれた社会です。または、少子高齢化の激しく進む中で、困難な未来が待ち受けているのではないだろうかという、将来に対する見通しがつかない漠然とした不安に包まれた社会です。
 不安に包み込まれると私たちは、当然のように安心を求めようとします。しかしどうあがいても明るい希望を見いだすことが出来ない現実の中で、どうやって安心を得るのか。一番簡単な方法は、遠く先まで見通すことをあきらめて、見える世界を狭めて、自分の周りしか見ないことかもしれません。自分の周りの小さな範囲のことであれば、何とか見通しがつき、安心することが出来る。だから、不安に包まれるほどに人は、自分の身を守ろうとするがあまり、利己的な生き方を選択してしまうのではないでしょうか。不安にさいなまれ、利己的になる心は、余裕のない心です。そして余裕のない心は、他者への思いやりに欠けた心です。ですから自分のいのちの安全や尊厳には敏感でも、他者のそれには鈍感になるのです。

 余裕のない心は、他者のいのちの尊厳を、人間としての尊厳を、慮る余裕がありません。ですから簡単にいのちを奪うことを容認したり、自分と異なる考えの人々を排除したりしてしまうのです。わたしの安心を脅かすからです。そしてそんな社会は、神の求められる世界ではありません。教会はそういう世界を、平和ではない世界といいます。神の平和とは、神が望まれる世界を実現することを意味しているからです。

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 今年の世界平和の日に当たり教皇フランシスコは平和メッセージを発表されています。今年のメッセージのタイトルは、「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」とされています。教皇フランシスコにとっては、人々の他者への無関心の広がりこそが、平和を構築するための大きな障壁となっていると常々強調されてきました。

 教皇は現代社会の状況を次の言葉に集約します。
 『昨年は、最初から最後まで戦争とテロ、そしてその悲惨な結果である監禁、人種的・宗教的迫害、汚職に見舞われました。世界の多くの地域でそれらが痛ましい形で拡大し、「散発的な第三次世界大戦」と呼べるほどです』
 その上で教皇は、『「現代世界憲章」に記されているように、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安である」のですから、教会は連帯と尊敬と愛のしるしとして、世界の諸問題について人類家族と対話することを目指します』と、教会の社会に対する役割を改めて強調されています。「連帯と尊敬と愛」という言葉は、まさしく、自分の殻に閉じこもり、身近な安心を追い求める態度を捨てるようにと呼びかけるキーワードです。

 また昨年12月からいつくしみの特別聖年であることも踏まえ、次のように呼びかけられます。
 『わたしはいつくしみの聖年に際し、祈りをささげ活動するよう教会に呼びかけたいと思います。それは、すべてのキリスト者が謙虚で思いやりにあふれる心を深め、いつくしみを告げてあかしし、「許して与え」、また「自分とはまったく異なる周縁での生活――現代世界がしばしばその劇的な状態を引き起こしています――を送るすべての人」に心を開き、さらには「侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度」に陥らないようにするためです』

 私たちが生きている社会の現実は、教皇フランシスコが強調するように、まさしく「いつくしみ」の欠けている社会であると思います。
 この新しい一年に、神のことばに耳を傾け、真の平和を目指す人が一人でも増えるように、このミサの中で祈りましょう。

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