
新潟教区本部は今日が仕事始めとなりました。新潟はこの数日。冷たい雨が降ったり止んだり、風が吹いたりと荒れ気味の天気ですが、例年に比べれば暖かい正月でした。
1月1日の新潟教会は、毎年、深夜零時(大晦日の真夜中)にわたしが司式してまず一年の最初のミサをささげ、そのあと11時から主任司祭の司式でもう一度ミサを捧げ、そのミサ後にセンター(信徒会館)で年賀交換をいたします。

このところクリスマスも新年も、零時の深夜ミサの参加者は少なくなっております。今回は、どちらも30名に届くか届かないかの程度。それでも、深夜ミサには意味があると思いますので、できる限り、続けていきたいと思っています。
新年最初のミサは、特に世界平和の日のために捧げています。クリスマスの頃から繰り返しているテーマで重複するないようもありますが、深夜ミサの説教の全文を掲載します。

新年明けましておめでとうございます。
神である御言葉が人となられ私たちのうちに住まわれた。主イエスの降誕を祝う教会は、それから一週間後にあたる1月1日を、神の母聖マリアの祝日と定めています。神が自ら人となられた神秘、そして人間として私たちと共に生きられたという神秘、その不思議な業は人間であるマリアによって実現したという事実によって、神ご自身が創造された人間の尊厳をあらためて私たちに示されました。神ご自身が人間となり、母マリアから生まれたことをあらためて黙想するこの日、ひとりひとりに神から与えられた賜物である「いのち」への尊厳をあらためて黙想し、またその恵みに感謝したいと思います。
また教会は、新年の第一日目を、世界平和の日とも定めています。1968年、東西冷戦のさなか、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、世界の平和をともに祈ろうと教皇パウロ六世が定められました。
一人ひとりに神から与えられた賜物である「いのち」の尊厳を考えるとき、私たちはその尊厳を打ち砕こうとする人間の仕業である戦争や、さまざまな武力紛争、そして社会における暴力行為に対して、神の望みにそれは反しているのだと毅然と告げなければなりません。
昨年2015年という年を振り返るとき、さまざまな出来事がありました。頻発するテロ事件や耳を疑うような残忍な殺人事件。そして国内外の政治の世界でもさまざまなことがありました。いろいろと衝撃的な出来事がありましたが、その中でもわたしにとって衝撃的な出来事として記憶に残っているのは、7月、岩手県で13才の少年が自ら命を絶つという痛ましい事件であります。いじめが原因だったといわれます。起こった出来事のその是非について語るつもりはありません。ただニュースのなかで、亡くなられた中学生のお祖父さんがインタビューでこう言っておられたのが、わたしには印象的であり衝撃的で、心に残っています。 『あの子は、心が優しい子だったからこうなったのだ』
心が優しい子どもが、いじめられ、自ら生命を絶つまで追い詰められてしまう社会とは、いったいどういう社会に私たちは生きているのでしょう。そう感じざるを得ない一言でした。心が優しい人は、他人を大切にし、生命を大切にしようとする人ではないでしょうか。その優しい心の持ち主がもう生きることが出来ないと思い詰めてしまう社会とは、いったい何を大切にし、何のために人が生きている社会なのでしょうか。そう思ってしまいました。
今わたしたちが生きている社会は、例えばテロの脅威にさらされて、いつ何時どこで何が起こるのかわからないという不安に包まれた社会です。または、少子高齢化の激しく進む中で、困難な未来が待ち受けているのではないだろうかという、将来に対する見通しがつかない漠然とした不安に包まれた社会です。
不安に包み込まれると私たちは、当然のように安心を求めようとします。しかしどうあがいても明るい希望を見いだすことが出来ない現実の中で、どうやって安心を得るのか。一番簡単な方法は、遠く先まで見通すことをあきらめて、見える世界を狭めて、自分の周りしか見ないことかもしれません。自分の周りの小さな範囲のことであれば、何とか見通しがつき、安心することが出来る。だから、不安に包まれるほどに人は、自分の身を守ろうとするがあまり、利己的な生き方を選択してしまうのではないでしょうか。不安にさいなまれ、利己的になる心は、余裕のない心です。そして余裕のない心は、他者への思いやりに欠けた心です。ですから自分のいのちの安全や尊厳には敏感でも、他者のそれには鈍感になるのです。
余裕のない心は、他者のいのちの尊厳を、人間としての尊厳を、慮る余裕がありません。ですから簡単にいのちを奪うことを容認したり、自分と異なる考えの人々を排除したりしてしまうのです。わたしの安心を脅かすからです。そしてそんな社会は、神の求められる世界ではありません。教会はそういう世界を、平和ではない世界といいます。神の平和とは、神が望まれる世界を実現することを意味しているからです。

今年の世界平和の日に当たり教皇フランシスコは平和メッセージを発表されています。今年のメッセージのタイトルは、「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」とされています。教皇フランシスコにとっては、人々の他者への無関心の広がりこそが、平和を構築するための大きな障壁となっていると常々強調されてきました。
教皇は現代社会の状況を次の言葉に集約します。
『昨年は、最初から最後まで戦争とテロ、そしてその悲惨な結果である監禁、人種的・宗教的迫害、汚職に見舞われました。世界の多くの地域でそれらが痛ましい形で拡大し、「散発的な第三次世界大戦」と呼べるほどです』
その上で教皇は、『「現代世界憲章」に記されているように、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安である」のですから、教会は連帯と尊敬と愛のしるしとして、世界の諸問題について人類家族と対話することを目指します』と、教会の社会に対する役割を改めて強調されています。「連帯と尊敬と愛」という言葉は、まさしく、自分の殻に閉じこもり、身近な安心を追い求める態度を捨てるようにと呼びかけるキーワードです。
また昨年12月からいつくしみの特別聖年であることも踏まえ、次のように呼びかけられます。
『わたしはいつくしみの聖年に際し、祈りをささげ活動するよう教会に呼びかけたいと思います。それは、すべてのキリスト者が謙虚で思いやりにあふれる心を深め、いつくしみを告げてあかしし、「許して与え」、また「自分とはまったく異なる周縁での生活――現代世界がしばしばその劇的な状態を引き起こしています――を送るすべての人」に心を開き、さらには「侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度」に陥らないようにするためです』
私たちが生きている社会の現実は、教皇フランシスコが強調するように、まさしく「いつくしみ」の欠けている社会であると思います。
この新しい一年に、神のことばに耳を傾け、真の平和を目指す人が一人でも増えるように、このミサの中で祈りましょう。