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2016年3月27日 (日)

復活の主日@新潟教会

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そして一夜明けて復活の主日。午前9時半からの新潟教会のミサは160名近い人が参加し、聖堂はいっぱいになりました。

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昨晩来られなかった方も大勢おられるので、信仰宣言の後には復活徹夜祭と同様、洗礼の水を受けて受洗の誓いを新たにしていただきました。また聖体拝領後には、いつものように、復活の卵を祝福。

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ミサ後には多くの方が残って参加してくださいましたが、カトリックセンター(信徒会館)二階ホールで祝賀会。昨晩受洗され、また堅信を受けられた方々に、小教区から聖書などのお祝いが贈られました。またこの祝賀会は、転任となるナジ神父の送別会、さらには明日から神学院へ移る岡神学生の壮行会にもなりました。歌を披露してくださった多くの皆さん、特に子どもたちに感謝します。

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以下、本日の説教です。

復活の主日
新潟教会
2016年3月27日

「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」

皆様、御復活おめでとうございます。

 あの主イエスとの最後の日、囚われの身となった主イエスを目前にして恐怖におそわれ、人間としての弱さの故に「その人のことは知らない」と三度も裏切ってしまった一番弟子のペトロ。そのペトロが対照的に力強く、イエスについてあかしをする場面が、第一朗読の使徒言行録に記されています。自分の言動に対する後悔の念もあったことでしょう。信頼する先生を殺害された怒りもあったことでしょう。そこには人間として、迫害するものに対する憎しみすらあったのかもしれません。しかしペトロのその力強い宣言は、「この方を信じるものはだれでもその名によって罪のゆるしが受けられる」と結ばれています。憎しみや恐怖や復讐の心ではなく、ゆるし合う心をペトロは説いていました。

 昨晩も触れましたが、わたしたちが聖週間を祝っている最中に、ベルギーでテロ事件が勃発し、多くの方が生命を失い、怪我をされました。またその地で生活をされる人たちが心に抱く恐怖はいかばかりかと想像いたします。同時にわたしたちは、同じような暴力的な人間の行動で、世界の各地で毎日のように多くの生命が奪い取られ、多くの人が恐怖に引きずり込まれていることにも思いをはせなくてはなりません。わたしたちの受け取る情報には限界があり、まったく知らないところでそういった暴力的な事態が発生していることも少なくありません。

 暴力によって引き起こされる悲しみや恐怖は、怒りと復讐の心を引きずり出します。結局、暴力の連鎖がいつまでも続き、生命の危機が増すだけで、そのような状況はどこであれ、神の御心に適うことでは決してありません。
 いま世界に必要なのは、まさしく新しい生命に復活された勝利の主が人類にもたらした恵み、すなわち神の愛に基づくゆるしなのではないでしょうか。主の受難を目の当たりにした弟子たちが体験したであろう、恐怖、悲しみ、苦しみ、そして憎しみといった感情を遙かに超え、すべて信じるものにゆるしに生きるようにと、復活の主は招いておられます。

 さて、皆様ご存じのように、教皇フランシスコは昨年6月、「ラウダト・シ」というタイトルの回勅を発表されました。「ラウダト・シ」とは「環境回勅」だというイメージがつきまとっているように感じます。確かに、「ラウダト・シ」の冒頭部分は、気候変動についてのどのように考えるのかがはっきりと記されており、教皇は地球温暖化が人類の活動によって放出された温室効果ガスの蓄積によって引き起こされたと指摘しています。

 しかしながら、「ラウダト・シ」は、単なる環境回勅ではありません。この回勅は、「人間は何のために生きるのか」という問題について語っている回勅です。そしてわたしたちに、これまでの生き方を捨てて、新しい生き方を選択するようにと迫る回勅でもあります。

 教皇は、創世記の天地創造物語の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」という部分を引用しながら、次のように述べます。
 「キリスト教徒は、時に聖書を正しくない方法で解釈しましたが、今日、わたしたちは人間が神の似姿に創られ、地を支配せよとの命令を受けたからといって、無制限に他の被造物を支配できるという考え方は強く拒否すべきです。」(ラウダト・シ67)
 その上で教皇は、「何のためにわたしたちはこの世に生まれてきたのだろうか。また、何のために働き、苦労するのだろうか。なぜこの世界はわたしたちを必要としているのか。これらの根本的な問いかけなしには、わたしたちの環境問題への関心は、有意義な結果をもたらすことはないでしょう」(ラウダト・シ160)と述べています。

 さらに教皇は、問題は単に気候変動の原因追及だとか、単なるエコロジーの問題だとかに留まらないと強調されています。確かにそういった一つ一つの分野について真剣に取り組むことは不可欠だけれども、しかしもっと大事なことがあるのだと指摘されているのです。それを教皇は、「全人的エコロジー」という言葉で表しています。こう書いておられます。
 「すべての事象は密接に結びついており、現代社会の諸課題は地球が直面する危機の様々な側面を視野に入れることを必要としているので、わたしはここで、人間的そして社会的側面を尊重する全人的エコロジー(Integral Ecology)のいくつかの要素について考察することにしたい。」(ラウダト・シ137)

 人間を取り巻くすべてのことは密接に結びあわされていて、それらの相互作用によって人間がどのように生きていくことが出来るのかが限定されてくるのだから、人間に関わるすべてのことに等しく向き合う必要がある。それは環境問題であり、政治の問題であり、経済の問題であり、科学の問題であり、そして究極的にはそれらを総合する「人は何のために生きるのか」という宗教の問題でもある、というのが教皇の考えです。

 わたしたちは専ら、対症療法を施すことで歴史を刻んできました。経済状況を改善するための策を弄し、平和工作をし、敵をたたきつぶし、病気への対策に取り組み等々、一つ一つの問題にそれぞれ立ち向かってきた。そしてそれが当然だの生き方だと思ってきました。

 しかし教皇はそれに対して、新しい生き方を模索するように呼びかけているのです。その新しい生き方の模索は、人間の尊い生命がないがしろにされている今の時代にあって、まさしく「わたしたちは何のために生きるのか、どのように生きるのか、そして将来にむけて何を残していくのか」などといった問いかけによって始まるのだと、教会は世界に示していきたいと考えているのです。

 「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と第二朗読でパウロは語っています。古い生き方を捨て去り、まったく新しい生き方を選択する。それこそが復活の主にあって生きる道ではないでしょうか。
 暴力の連鎖によって、憎しみと復讐の道を歩み続けるのではなく、まったく新しいゆるしの道を選択すること。一つ一つの問題に個別に対応して、何とか今の生活を維持していく道ではなくて、「わたしたちなんのために生きているのか」という総合的な問いかけに応える道を選び取ること。すべて新しい生き方の選択をわたしたちに求める、復活された主の呼びかけです。

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復活徹夜祭@新潟教会

昨晩の新潟教会における復活徹夜祭から、写真を数枚ご紹介します。

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新潟教会の正面玄関を閉め切り(別に左右に二つの入り口がありますので)玄関で炭火をおこし、新しい火の祝福、ロウソクの祝福をおこない、復活のロウソクに新しい火を灯したところです。ちなみにこの正面玄関が、新潟教会のいつくしみの扉です。

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復活讃歌を歌う助任のナジ神父。ナジ神父は復活祭後に見附教会に転任となるので、今回が新潟教会で最後の復活讃歌。

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洗礼水の祝福。祈りの最後の部分で、復活のロウソクを洗礼の水につけて祈っているところです。

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そして洗礼。四名の方が洗礼を受けられました。

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他の教会から新たにカトリックに移られた二人も含め、六名が堅信を受けられました。皆さん、おめでとうございます。

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2016年3月26日 (土)

主の復活、おめでとうございます

皆様、主の復活、おめでとうございます。

先ほど新潟教会の復活徹夜祭ミサが終わりました。今夜は四名の方の洗礼と、二人の転会、そしてその六名の堅信もあり、二時間を超えるミサとなりました。洗礼と堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

聖金曜日も含めて写真は明日にでもアップします。明日の新潟教会の復活の主日ミサは、午前9時半です。(朝7時と夜6時も通常通り行われます)

今夜の説教を掲載しておきます。

復活徹夜祭
新潟教会
2016年3月26日

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」

 先日イエメンで、マザーテレサの修道会、神の愛の宣教者会のシスター4名を含む16名が何者かに襲撃されて殺害されるという事件がありました。一体誰がそのような蛮行に及んだのか、今ひとつ明確ではありませんが、中東のその地域一帯の現状から、他宗教の過激派による犯行ではないかとまでいわれています。そして、数日前にはブリュッセルで爆弾テロ事件が発生し、多くの方が生命を失いまた負傷されました。これもまた、宗教がその暴力の背景にあるように伝えられています。

 あらためて言うまでもなく、現代社会にあって宗教が人間の生命を奪うようなことを肯定してよいという理由はどこにもありません。かつてその歴史的背景やその時代の一般的価値観を反映して、キリスト教も他宗教の方々を殺害することを良しとした、愚かな間違いを犯した時代もありました。しかし、互いの対話が進み、世界の価値観が変わる中で、あらためて宗教は、生命の尊厳を護ることこそ、それぞれがこの世界に存在する究極的目的の一つであることを自覚するようになりました。ですから、仮に、そのような殺害が、宗教を理由に行われているのだとしたら、それは厳しく批判されなければなりません。

 とりわけ私たちにとって、神は生命を奪うことを好まれる神ではなく、徹底的にそれを護り、生命を救うことを目指す神であります。私たちの神は、生命を創造し、賜物として私たちに与え、それだからこそ人間の生命の尊厳を説いて止まない神であります。

 しかしながら私たちが生きている時代の現実を見るにつけ、私たちは一体人間の生命をどう考えているのか、疑問に感じてしまうことすらあります。教皇フランシスコは2013年3月に教皇に就任して以来、しばしば「無関心のグローバル化」について語ってこられました。「無関心のグローバル化」こそが、人の生命を奪うのだと警告してこられました。

 残念ながら私たちは、世界で起こっているすべての事柄を把握する能力を持っていません。これほど通信技術が進化して、世界は狭くなったといわれている時代にあっても、私たちが受け入れることができる情報には限度があります。限度があるからこそ、私たちは無意識のうちに、膨大な量の情報からそれぞれの尺度に従って、情報を取捨選択しています。ですから問題は、私たちの取捨選択の基準、取捨選択の枠組みであります。

 本来、私たちは神がすべての生命を、分け隔てることなく等しい愛を注いで創造されたと信じているにもかかわらず、それぞれが生きている国や地域の状況に左右されて、私たちは無意識のうちに、本当は等しいはずの生命に差をつけてしまっています。ですから、身近に起こっている出来事には敏感に反応しても、遙か彼方の地域で起こっている事柄には、全く無関心でいることも、珍しくはありません。

 教皇フランシスコは、就任直後に最初のローマ教区外の司牧訪問先として、ランペドゥーザ島を選びました。アフリカから様々な理由で海を渡って逃れてくる難民が、最初に到達するヨーロッパの島です。教皇様がそこに出かけるまで、遙か彼方の日本に生きている私たちは、そんな島にそれほど多くの難民が押し寄せてきたことなど全く知らなかったし、多くの人が海上で生命を失っていたことも知りませんでした。

 教皇様はそこで、「きれいなシャボン玉の中で自分たちの安楽ばかりを考えている」と、世界の人々に、広く世界に心を向けるようにと呼びかけられました。そしてそれ以降も、先日のメキシコ訪問の際に米国との国境地帯を訪れたこともそうですが、多くの人々の関心が向けられず忘れ去られた人々のところへ出かけていっては、警告を発してこられました。

 残念ながら、世界の現実は、日を追う毎に、関心の網を狭めていっているように感じます。自分たちの国のことばかりに、自分たちの地域のことばかりに、関心を寄せ、地理的に離れているところに生きる人々は、心理的にも離れている、それどころかまるで存在しないもののように扱われているのではないでしょうか。

 私たちはいつくしみの特別聖年を過ごしております。いつくしみそのものである御父に倣って、生きるようにと招かれています。御父のいつくしみは誰に向けられているでしょう。それは、御父が愛を込めて創造されたすべての生命に向けられています。いつくしみはすべての人に届けられなければなりません。そうであるのに、現実はどうでしょう。

 一体何人の人が、今日、世界のどこかで暴力的な状況の中で生命の危機に直面させられていることでしょう。実際、何人の人が今日その生命を奪われていることでしょう。御父のいつくしみを暴力的に奪い去られているでしょう。

 十字架の上で壮絶な最期を遂げた師イエスを慕う女性たちは、週の初めの日の明け方早く、イエスが葬られた墓に到着しました。そこで彼女たちは天使から、驚くべき言葉を聞かされます。
 「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」
 すべての希望は暴力的に奪い去られたと絶望にうちひしがれていた彼女たちは、その絶望を打ち砕かれる希望の言葉を告げられたのです。主は死ぬことはない。奪い去られることはない。いまこの瞬間も、生きておられる。
 救い主は過去の存在ではなく、過去の思い出ではなく、今私たちと共に、時間を刻んでおられる。その救い主は、御父のいつくしみの顔であると、教皇フランシスコはいわれました。神のいつくしみは、まさしく今生きているのです。

 私たちは、神のいつくしみの中に生きています。そしてそのいつくしみに包み込まれています。そしてさらに、そのいつくしみが今まさに私たちと共にあるのだということを知っています。そしてだからこそ、その今生きているいつくしみを、世界に告げていかなくてはなりません。それが私たちの宣教使命です。

 ではどうやって告げるのでしょう。それは私たちひとりひとりが、そのいつくしみに生きることによって、それを証ししながら告げ知らせていくのです。ひとりたりとも、忘れ去られて良い存在はない。神のいつくしみはすべての人に向けられていて、すべての人は神の前に、愛されるべき大切な存在であることを、私たちひとりひとりの言葉と行いで証ししていかなくてはなりません。

 神のいつくしみを告げ知らせる勇気と信仰を、復活された主イエスに願いましょう。
 

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2016年3月25日 (金)

聖木曜日「主の晩餐」@新潟教会

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昨日、3月24日は復活祭に向けて聖なる三日間の始まりである聖木曜日でした。夜7時から、新潟教会において主の晩餐のミサを捧げました。

昼間には雪がちらつく寒い日で、夜になってますます冷え込みどうなることかと心配でしたが、やはりそれなりの参加者。40名ほどの方が参加し、祈りのひとときを持ちました。

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教皇様のご意向で、先日から、主の晩餐のミサの典礼注記において一つの変更が加えられました。これは、主の晩餐のミサに行われる洗足式において、これまでは男性に限定されていたのが、この限定が取り除かれています。すでにご存じのように教皇様は、これまで少年刑務所などをこの日に訪れて、女性も含む方々の洗足式を行っておいでです。今年も難民センターで同じようにされたと伺っています。その教皇様のご意向で、先般、典礼の注記があらためられています。とはいえ、女性にも参加を呼びかけてもなかなかすぐには応じていただけないので、今回は例年通り、男性が6名前に出てくださいました。時間をかけて教皇様の意図やその意義についてお話をして、皆でよく理解がいったのであれば、来年以降は女性も含む方々に参加していただければと思います。

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聖体拝領後には小聖堂まで御聖体を運び墓所のように整えられた聖櫃に安置。ミサ後はしばらくの間、この小聖堂で祈りのひとときを持ちました。

以下、主の晩餐ミサの説教です。

聖木曜日主の晩餐ミサ
新潟教会
2016年3月24日

 東日本大震災発生から5年が経ちました。あらためて言うまでもなく、復興の歩みはゆっくりとしたものです。遅すぎるという印象を受けることもあります。復興庁の統計によれば、今年の1月末の段階で避難生活を送っている方々の総数は、多少減少しているものの、いまだに17万人を超えるといいます。先日の報道によれば、プレハブの仮設住宅も、すべてが解消されるのは2021年以降のことなのだそうです。加えて、具体的に目に見える形で復興が進むことと、心に大きな衝撃を受け恐怖と不安を味わった方々が、その心の平安を取り戻すことが出来るかどうかはまったく次元の異なる話であり、その意味で、これからも復興には長い時間が必要であることは明白です。

 時間が経つにつれ、被災地に直接には関わっていない大多数の人々の心には、変化が現れているような気がします。確かに知識としては、大震災があり被災した方々がまだ多く残されていると知っているものの、しかし現場のその事実が心を揺り動かすことがない。すなわち、被災したその地に暮らしていないわたしたち大多数には、被災地の痛みを自らの心の痛みとして感じることが少なくなってきている。そうではないでしょうか。あの大震災直後の心を揺り動かされるような衝撃は、時間の経過と地理的な距離に歩調を合わせるかのように、直接心に響く衝撃ではなくなっている。そういった雰囲気を感じます。

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 本日の第一朗読では、「過ぎこし」を定められた神のことばが語られています。その終わりにこう記されています。
 「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」
 さらに第二朗読には、イエスご自身が最後の晩餐において、聖体祭儀を制定された言葉が記されています。その終わりにこうあります。
 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」
 そして福音の朗読は、最後の晩餐の席上、主ご自身が弟子の足を洗ったという出来事が記されています。弟子たちにとっては衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。
 「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

 これら三つの聖書に記された「言葉」、そのすべてに共通する神の思いとはいったいなんでしょうか。それは神がわたしたちに対して行ったわざを、わたしたちがいつまでも記憶にとどめ、それを決して忘れてはならない。しかもわたしたちはそれを忘れないだけではなく、自らも同じように実践し続けなければならない。そうして欲しいという神の思いです。
 神のその思いを現すために、旧約でも新約でも、「記念」という言葉が使われています。この「記念」は、単に「記念日」のように、暦に残しておく過去の出来事ではなく、「わたしがしたことを決して忘れずに、子々孫々まで実行していけ」という非常に具体的な命令を現す言葉です。わたしたちの神は、決して忘れることのない神です。そしてその記憶は、知識としての記憶ではなく、心が揺り動かされたその衝撃を、刻み込んでおく記憶です。

 今年わたしたちは「いつくしみの特別聖年」を祝っております。教皇フランシスコは、特別聖年開催を告げる大勅書の中で、次のように述べておられます。
「いつくしみは、わたしたちの救いに不可欠です。・・・いつくしみ、それは神がそれゆえにわたしたちに会いに来られる、究極の最高の行為です。いつくしみ、それは人生の旅路で出会う兄弟と真摯に向き合うとき、それぞれの心で働く、基本となる法です。いつくしみ、それはわたしたちの罪という限界にもかかわらず、いつも愛されているという希望を心にもたらすもので、神と人が一つになる道です」

 神のいつくしみとは、単なる神の優しさのことではありません。教皇フランシスコは特別聖年の大勅書にこう書いています。

「神のいつくしみとは抽象的な概念ではなく、わが子のことでからだの奥からわき起こる親の愛のように、神がご自分の愛を明かす具体的な現実なのです。実に「はらわたがちぎれるほどの」愛ということです」

 神は身を切られるような苦しみとあえぎをもって、自らが創造された生命に対して、その愛を差しだそうとされた。その愛する思いを「憐れみ」だとか「いつくしみ」という言葉で表現しています。それは人間の常識を遙かに超えた感覚です。その常識を遙かに超えた感覚は、常識を遙かに超えた行動を求めるのです。ですからイエスは、当時の常識からは考えられないような行動をとって、弟子の足を洗うのです。弟子たちに対して、その行動を見せつけることによって、自らの心にある衝撃的な愛の思いを表現し、さらにはその行動を弟子たちが自ら継続することで、衝撃を心に刻み込み伝えていくようにと願われたのです。

 教皇フランシスコは、「いつくしみ、それは人生の旅路で出会う兄弟と真摯に向き合うとき、それぞれの心で働く、基本となる法です」といいます。それは単に、優しく他人に接しなさいなどという、表面的な倫理のすすめなのではなく、まさしく心が引きちぎられんばかりの痛みをもって、衝撃的な行動をとれという勧めに他なりません。そして教皇様は、自らそうしてこられました。そのことをわたしたちは皆知っています。
 その上で教皇フランシスコは、次のように呼びかけておられます。

 「わたしたちは、いつくしみを生きるよう招かれています。それは、わたしたちがまずいつくしみを受けたからです。自分を傷つけた相手をゆるすことは、いつくしみの愛をもっとも明白に示す表現となり、わたしたちキリスト者にとっては無視できない命令です。ゆるせないと思うことが幾度もあることでしょう。けれどもゆるしとは、心の平安を得るために、わたしたちの弱い手に与えられた道具なのです。恨み、怒り、暴力、復讐を手放すことが、幸せに生きるための必要条件です」

 「恨み、怒り、暴力、復讐を手放すこと」を呼びかけられる教皇は、まさしく「恨み、怒り、暴力、復讐」が、現代社会の様々な問題を生み出していることを良く知っておられます。そしてそれらをわたしたちは、様々な理由をつけて手放すことが出来ずにいるのです。
 旧約の時代から始まって、今に至るまで、神は決してわたしたちに対するいつくしみを忘れられません。神は忘れることのない神です。同時にわたしたちにもそのいつくしみを同じように生きるよう招いておられます。

 今宵、最後の晩餐の出来事をあらためて思い起こすとき、その日に主の心にあったはらわたがちぎれるほどの愛の思いにわたしたちの心を向け、それを自分のものとしてこれからも伝え実践していくことが出来るように、神の導きを願いましょう。

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2016年3月23日 (水)

聖香油ミサ@新潟教会

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年度末のこの時期は、新潟教区の司祭評議会が開催される時期でもあります。今年は聖週間がちょうどこの年度末に重なったため、司祭評議会も聖週間中に開催することに。昨日、火曜日の午後、各地区からの地区長と代表の司祭が集まって、教区司祭評議会が開催され、昨年の決算を含め(新潟教区は1月から12月が会計年度です)いくつかの教区の課題について意見の交換が行われました。

そして秋田や山形など遠隔地から来られた司祭たちはそのまま新潟に宿泊し、今朝、水曜日の午前10時から、新潟教会で聖香油ミサが行われました。わたしを含めて21名の共同司式。信徒の方々も各地の小教区から大勢参加してくださいました。

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聖香油ミサは、もちろん秘跡の執行に必要な三つの油を祝別するためのミサでもありますが、同時に、日頃は秋田、山形、新潟の各地でそれぞれの任地で働いていることから、目に見える形で共同体を形成しているわけではない新潟教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。加えて、ミサの最中に司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、司教の招きに続いて沈黙の内にその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、共同体における一致を確認しながら、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こし、初心に立ち返ることによって、主イエスから与えられた使命の根本を再確認するのです。

今日の聖香油ミサでは、聖変化の後、奉献文の最後の栄唱の前に病者の油が、そして聖体拝領祈願の後に洗礼志願者の油、そして司祭団一同も聖霊の働きを願って手をさしのべながら、聖香油の祝別が行われました。

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聖香油の祝別に先立って、香料を混ぜ合わせ、さらに司教はその容器に口を近づけて息を吹きかけて、聖霊が注ぎ込まれることを象徴的に表現します。

教皇フランシスコは、ご自分がキリスト者として福音に生きようとされるにあたり、二つの柱をもっておられるように感じます。一つは「福音の喜びをあかしする」という柱で、もう一つが「神のいつくしみをあかしする」という柱です。それは2013年3月の教皇就任以来、教皇フランシスコの言動すべてを通じてはっきりと理解される柱です。

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「福音の喜び」という文書を表すことによって、すでに一つ目の柱、すなわち福音宣教とは喜びをあかしすることだという教会のあるべき姿勢を、教皇フランシスコは明確にされています。

そしていま、いつくしみの特別聖年を開催することによって、もう一つの柱、すなわち、「神のいつくしみをあかしする」ことの重要性をわたしたち一人ひとりが直接感じることが出来るようにと配慮されています。その配慮の中で、司祭は重要な役割を担っています。

教皇は、特別聖年の大勅書の中で、「教会のあるところでは、御父のいつくしみを現さなければなりません」と指摘しておられます。まさしくわたしたち司祭は、果たして自らが福音宣教の場として遣わされている教会が、それぞれ御父のいつくしみを現す場となっているかどうか、常に振り返ってみなければならないのです。

「裁き」は、もう何年も前から指摘されていることですが、わたしたちが生きている社会の一つの特徴であるように思います。一度も会ったことも話をしたこともない人を、ちょっと耳にしただけの情報に基づいて、あっという間に裁いてしまっていないでしょうか。例えば、それは、朝のテレビを見ながらでも。人間を最終的に裁くのは、わたしたちに生命を与えてくださった神に他ならないのですが、いつの間にやらその座を自分のものとしていないでしょうか。よくよく自分の言動を客観的に見つめ直してみると、いつのまにか自分中心の世界を築いていないでしょうか。そのようなわたしたちに、受難を黙想するこの一週間、主イエスご自身が、その苦しみのうちからわたしたちに、裁くのではなく許し合うことを、呼びかけておられます。まず教会は裁き合う場ではなく、神のいつくしみを感じることの出来る場へ育っていく義務があります。そしてそのいつくしみとゆるしを、世界に向かってあかしする責務があります。そして司祭は、その責務を真っ先に果たしていかなくてはなりません。楽ではない、簡単ではない務めです。神の力、そして多くの方の祈りによる支えがなければ、なしえないことです。

司祭たちが叙階の誓いを新たにしたこの日、どうぞ、わたしを含めて、新潟教区の司祭団のために、お祈りくださいますようにお願いいたします。

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2016年3月20日 (日)

聖週間始まる@受難の主日

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本日は受難の主日、枝の主日でありました。新潟は曇り空の肌寒い日曜日でしたが、多くの方が朝のミサに集まってくださいました。

この日のミサはいつものように、聖堂前のカトリックセンター(信徒会館)一階のホールで始まり、枝を祝福し、エルサレム入城の福音に耳を傾けました。このあと聖堂に向かって、短い距離ですけれど、聖堂前の前庭を行列。そのあとはいつものようにミサが続きました。また福音朗読は、今日と聖金曜日が、主の受難の朗読であり、3名の方によって朗読が行われます。

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新潟教会では、水曜日23日午前10時から聖香油ミサ、24日聖木曜日は夜7時から主の晩餐のミサ、25日聖金曜日は夜7時から主の受難の聖式、そして26日聖土曜日夜7時から、復活徹夜祭です。どうぞご参加ください。

以下本日の説教です。

受難の主日
新潟教会
2016年3月20日

 この数年間、世界を包み込んでいるのは、どちらかといえば安心よりも不安なのではないかと感じます。そこには様々な問題があるとは思いますが、その一つが日本でも問題となりつつある貧困や格差の問題でしょう。
 この貧困問題を考えるとき、「絶対的貧困」と「相対的貧困」という言葉が用いられることがあります。かつて1970年代にこの言葉が用いられ始めた頃、こういう風に述べた専門家がいました。
 「相対的な貧困とは、ある人が他の人よりも少なく持っているというような、いつでもどこにでもあるような事だ。しかし絶対的な貧困とは、病気や読み書きが出来ないことや、栄養失調や、犠牲者から基本的な人間としての必要でさえも奪ってしまうような卑劣さによって、卑しめられている人間の状態のことだ」

 相対的とはいうならば、自分を中心として世界を眺め、自分との比較の中で価値判断をしていくことです。それに対して、世の中には、もっと大局的な見地から行うべき価値判断があると、この貧困の問題は教えているように思います。
 「絶対的貧困」という言葉が示そうとしているのは、一人ひとりの人間の尊厳が欠如させられている状態のことです。それが、「卑劣さによって、卑しめられている人間の状態」という表現に込めているのです。

 わたしたちが生きている現代社会は、以前にも増して情報が激しく飛び交い、テレビや新聞は言うに及ばず、インターネットなどを通じて、ありとあらゆる情報が毎日のように押し寄せてくる世界になりました。豊かに情報が与えられている今の世界で、わたしたちは何ものにも左右されない客観的な判断が出来る存在となっているのか。そう問いかけるならば、残念ながらそうは断言できる状況ではないように感じます。
 それは、インターネットが普及し始めた当時から指摘されていたことですが、結局は人間の処理できる情報量には限りがあり、あまりに大量の情報を目の前にして取捨選択すら出来ず、途方に暮れてしまっているのがわたしたちの現実ではなかろうかと思うのです。いきおい、誰かにその取捨選択をゆだねてしまう。ニュースのまとめサイトが氾濫し、短い言葉でやりとりをするツイッターのような手段が、世論を形作るにあたって大きな力を発揮しているのが現実です。その分、わたしたちは社会を広く把握できるようになったのかといえば、必ずしもそうは言えない。実は断片的な現実しか把握することが出来ずに、世界全体はいったいどこに向かって進んでいるのかを客観的に把握することがますます難しくなってしまった。自分を中心とした狭い範囲のことしか分からない。

 全体がはっきりとしない中で生じるのは、疑いの心とそのための不安です。疑いの心と不安は、大局的な見地からものを判断するのではなく、その場その場の状況に応じた、いわば場当たり的な選択の道へとわたしたちを招き入れます。はっきりとした全体像が見えていないのですから、その場で最善だと思う選択を重ねていくことしか出来なくなります。そうすると、先ほどの貧困の話ではありませんが、自分の周囲のことしか見えておらず、そこにおける相対的な判断基準でしか物事を考えられなくなっていく。わたしたちはいま、相対的な価値判断が主流をなす世界に生きているのではないでしょうか

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 わたしたちにとって神は絶対的な存在であり、絶対的な価値判断の基準であります。そのような大局的な見地から、つまり神の見地から、根本的に大事なことを判断し尊重するような価値基準は、入り込む余地がなくなってしまう。いま世界はそういう状態にあって、お互いに自分の狭い周囲のことばかりに目を奪われて、大局的な見地、すなわち神の立場から世界を見ることが出来なくなっているのではないかと思います。

 だから、このところ、教皇様は、例えば難民の受け入れの問題であったり、国境封鎖の問題であったり、環境問題であったり、世界経済の問題であったり、様々な個々の問題に、教会としての立場を明確に示されることが増えているのです。大局的な見地から、神の価値観を具体的に示そうとされています。抽象的な価値観ではなく、具体的な個々の課題に直接、判断の基準を示すことで、そこには譲れない絶対的な価値基準があることを示そうとされています。
 それは時には、政治や経済のリーダーたちから、非現実的だと批判をもされる立場です。例えば、教皇様は先日、いつくしみの特別聖年にあたって、まず死刑の廃止を呼びかけ、さらに世界のリーダーたちに、せめてこの特別聖年の間には死刑執行を停止して欲しいと呼びかけられました。日本を含めて死刑を残している国のリーダーのどれほどが、この教皇様の呼びかけに真摯に耳を傾けるのか、それはわかりません。同時にどういった教皇様の、現実社会への呼びかけや警告に、批判の声が出ているのも事実です。

 本日の第一朗読、イザヤの預言にこう記されています。
 「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」
 「弟子としての舌」とは、神が教え導く舌であるということです。つまりその舌が語るのは、弟子の自分のことなのではなく、神の与えた言葉そのものである。つまり弟子の舌を通じて語るのは主であるということでしょう。ですから「疲れた人を励ます」のは弟子がそうするのではなくて、弟子の語る言葉を通じて神ご自身がそうされるということです。
 わたしたち神に従うものには、「弟子としての舌」が与えられているのではないでしょうか。わたしたちが語るのは、わたしたちの思いや、わたしたちの信念や、わたしたちの考えや、わたしたちの教えではなく、弟子として先生である神が与えてくださったそのことば、神の思い、神の考え、神の教えであります。わたしたちが語るのは、神が善しとされるこの世への基準であります。神の価値観であります。わたしたちの舌は、絶対的な価値観を語る舌です。

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 自らの思いを、自らの考えを、自らの教えを述べようとするものに対して、神はなんといわれるのか。それは今日の福音に記されていました。
 「おまえがユダヤ人の王なのか」と問いかけるピラトに対して、主イエスはなんと応えられたのか。「それはあなたが言っていることです」
 すなわち、その「舌」は、「弟子の舌」ではなく、「自分の舌」にすぎないというイエスの指摘ではないでしょうか。自らの思いを語るところに、神の真理はないのです。

 疑いと不安にさいなまれ、大局的な見地、神の価値観を見失っている現代社会にあって、キリスト者は「弟子としての舌」をいただいたものとして、神の善しとされることを、神の価値観を、すなわち絶対的で揺らぐことのない唯一の価値観を、勇気を持って語り続けなければなりません。

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2016年3月18日 (金)

そしてバンコク

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秋田での一連の卒業式関連行事が終わり、先週の金曜日の夜には一度新潟へ電車で戻りました。そして翌日、土曜日の午後には再び電車に乗って東京へ。夕方5時半頃に成田空港を出発する全日空の便で、一路バンコクへ。

この時間の成田発の全日空バンコク便は、同じスターアライアンスのユナイテッド航空で米国各地からやってきた便と接続するので、日本発の全日空なのに、乗客の大半は外国の方々。そしてエコノミーはいつもほぼ満席。押さえていた通路側の席を、一緒に旅行しているという女性二人組に頼まれて譲ったので、久しぶりに窓際。とはいえ、夜なので何も見えませんでしたが。その場で変更を頼まれることは滅多にないのですが、それでも頼まれると無下には出来ない。なんとも断りにくい。そういう性格ですから。

深夜11時過ぎにバンコクのスワンナプーム空港に到着。入国審査で手間取ったので電車をあきらめ、一階までおりてタクシーに。数年前に日本人の方がブログで厳しく指摘して以来、タクシーの運転手さんたちは気をつけていて、深夜でもメーターを使うようになったので、少し安心です。真夜中過ぎに会議のあるホテルに到着。(2時間時差があるので、日本時間ではすでに午前2時過ぎ)

翌朝は日曜ですから、8時半から会議場で主日のミサ。ミサが終わって始まったのは、カリタスアジアの地域委員会、すなわちカリタスアジアの理事会です。

参加者はアジアのそれぞれの地域の代表たち。南アジアがパキスタン、東南アジアがミャンマー、東アジアがマカオ、そして昨年から設置された中央アジアがモンゴル。これに事務局長(フィリピン)と責任者のわたし(日本)、さらに国際カリタスのアジア担当デスク(フランス)。しかもモンゴルの代表はコンゴの神父。非常にバラエティーに富んだメンバーでの会議です。(一番上の写真。左側から向こうの列。ミャンマー、フィリピン、パキスタン。手前の列、左から。マカオ、モンゴル、国際カリタス、一番奥の中央はわたし)

今回は特に、昨年から行われていた国際カリタスの運営基準に従ったカリタスアジアの第三者評価についてと、カリタスアジアが以前から行ってきた、反人身売買、持続可能な農業、危機対応、能力開発の四つのプログラムへの外部評価を受けて、今後どのように対応するかが二日間の会議の主な議題でした。手渡された外部評価書はA4で65ページの英語。読み込むだけで一苦労。

国際カリタスの運営基準に基づく評価は、国際カリタス自体がEU等の基準に従ってバチカンの諸部署と共に公明正大な運営が求められているのに合わせて、世界中のカリタスについても同じようにどれだけ運営基準を満たしているかを客観的に判断しようとして、現在世界レベルで取り組んでいるものの一環です。

カリタスアジアの事務局は、フィリピン出身の事務局長他、タイ人スタッフ2名とカンボジア人スタッフ1名の4名体制で、フルタイムとはいえ国際カリタスの運営基準をしっかり満たすには人員不足であることが指摘されました。特に実施しているプログラムを独立して担当するスタッフを早急に一名増やすようにと指摘がありました。

実施している四つのプログラムへの評価もなかなか厳しいものがありました。会計監査のあり方を含めて、今後、指摘を踏まえて、さらに実りのあるプログラムへ育てていくつもりです。わたしのカリタスアジア責任者の任期は、2019年5月までですので、もう少し取り組みへの時間があります。

月曜日(火曜の早朝0時半発)の全日空深夜便で成田へ向け出発。行きは7時間弱のフライトですが、帰りは風の影響で5時間強。朝8時過ぎに成田に到着しましたが、あまり寝ていないので、ボーッとした頭のままで司教協議会へ。

その日の夜には、アムネスティの知り合いの紹介で認定NPO法人難民支援協会の代表理事である石川さん他のスタッフと面談。わたしより20近く若い方ですが、難民支援へのすさまじいまでの熱意を感じさせられました。またお話から、その行動力にも驚かされました。シリア難民への対応に関して、日本のカトリック教会が教皇フランシスコの呼びかけにどう応えようとしているか、鋭い質問をいただきました。

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ところで先日の秋田訪問では、新潟教区の岡神学生を一緒に聖体奉仕会へ連れて行きました。写真は聖体奉仕会の会員の撮影です。岡神学生は復活祭の翌日には東京の神学院へ移ります。どうぞ岡神学生のために、教区の皆様のさらなるお祈りをお願いいたします。

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2016年3月10日 (木)

新潟で司祭の静修、そしてまた秋田

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今週の月曜日と火曜日は、新潟近隣で働く司祭団の四旬節静修でした。毎月の司祭団(教区司祭と修道会司祭で、主に新潟、新発田地区で働く司祭と、距離的に参加することができる司祭が集まります)の集まりの他に、待降節と四旬節は外部の講師をお願いして、黙想の機会としています。

今回は東京のイグナチオ教会におられる英(はなぶさ)神父に指導をお願いしました。英師はイエズス会員で、黙想指導でもよく知られた司祭です。月曜日の夕方と火曜日の午前中、そして昼前のミサで、聖書に基づいて、特に今回は「いつくしみ」の持つ意味についてお話を頂きました。

火曜日の静修の昼食後、午後3時半に新潟駅を出る特急「いなほ」に乗って、一路秋田へ移動。今回は新潟教区の神学生である岡君も同行。時刻通り夜7時過ぎに秋田駅に到着して、即座に聖体奉仕会へ。

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そして水曜日は聖体奉仕会で朝のミサを済ませ、秋田教会へ移動して午前10時から聖園短期大学の卒業感謝ミサ。118名の方が卒業されます。数年前から男子学生も入るようになったので、今回の卒業生にも数名でしたが男子学生が。もともと女子短大でしたが、幼児教育や保育士の現場では男子も歓迎なので、数年前に男子学生受け入れを決め、それに合わせて男子用設備もある校舎を新築。しかしそれでも全体としてはまだまだ男子は少数派です。

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岡神学生が侍者を務めたミサでは、聖体拝領は学長のシスターともうひとりの職員の方だけ。この学校で心に学んだキリスト教の理念が、いつの日か誰かの心の中で花咲くことを願ってます。ミサ後には卒業生全員に、ひとりひとり祝福をいたしました。皆さんおめでとう。

今日は午後から秋田カトリック学園の理事会です。明日3月11日は、朝の聖体奉仕会のミサで、東日本大震災の被災者の方々のために、また復興のためにお祈りをいたします。その後、秋田聖霊短期大学の卒業式です。

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2016年3月 5日 (土)

高松、新潟、鶴岡

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昨日の金曜日のお昼から、高松市のセレモニーホールを会場に、前高松教区司教溝部脩名誉司教の葬儀ミサが行われました。前日木曜に東京で会議があったので、当日の朝、羽田から高松へ飛びましたが、早朝7時台の全日空と日本航空の両社の高松便には、複数名の司教を含め、葬儀に参加される方が多数搭乗されておりました。

400名を超える方が参加された葬儀ミサは、高松教区の諏訪司教が司式し、全国から諏訪司教も含めて16名の司教と、50名を超える司祭が共同司式に加わりました。参列された方々は、まさしく溝部司教の司牧者としての人生を象徴する方々でした。サレジオ会員、仙台と高松の信徒や司祭、関わってきた青年たち、指導を受けたシスター方などなど。告別式では高松教区の二人の青年が弔辞を読まれました。どちらの弔辞からも、青年たちの人生に深く関わった溝部司教の姿が感じ取られるものでした。溝部司教と言えば、青年たちとの深い関わりとキリシタンの歴史の研究が記憶に深く残っていますが、日本の教会はその意味で、素晴らしいカリスマと偉大な知性を失いました。

わたしが葬儀で新潟を不在にしていたため、昨日の夕方、新潟教会を会場に、教皇様が世界の教会に呼びかけられた「主とともに過ごす二四時間」の新潟における企画の一つであった共同回心式は、大瀧神父に司式をお願いしました。40名ほどの方の参加を得て、大瀧神父にラウル神父、ナジ神父、三崎神父、町田神父も加わり、共同回心式が行われました。

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他の教区では二四時間の礼拝が行われたところもあるようですが、新潟では信徒の年齢や人数を考えて、金曜日の夜の共同回心式だけといたしました。

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そして土曜日の今日は、午前10時半から、山形県の鶴岡で、山形県内のカトリックの2幼稚園を包括する双葉学園の理事会が開催されたので、大瀧神父と一緒に出かけてきました。晴天に恵まれ、北へ向かう高速道路の真上を、これまた北に向かって帰って行く白鳥が列をなして、そこここに飛んでおりました。

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2016年3月 2日 (水)

卒業式の季節

すでにお聞き及びのこととは思いますが、前高松教区長、前仙台教区長であられたフランシスコ・ザビエル溝部脩名誉司教が、2月29日夜に、病気のため帰天されました。1935年生まれの80歳でした。高松教区での通夜は3月3日夜7時、葬儀ミサは3月4日昼12時から、どちらも高松市内の公益会館西館で行われます。

溝部司教はサレジオ会の会員で、日本管区長も務められたあと、2000年に仙台教区司教に、そして2004年に高松教区司教に任命され、2011年に引退されました。教区司教引退後は京都に望洋庵を開設し、青年たちと共に、聖書を学んだり召命について考えたりという活動をしておられました。

溝部司教が仙台から高松に移ることが教皇庁から発表された同じ日、2004年5月14日、わたしの新潟司教任命も一緒に発表されました。溝部司教の永遠の安息のために、どうぞお祈りください。

3月は卒業式の季節です。3月1日は秋田聖霊高等学校の卒業式。そして今日、3月2日は新潟清心女子高等学校の卒業式。どちらにも参加して参りました。3月の初めとは思えないような雪と寒さと強風の二日間でしたが、移動の電車も止まることなく、無事に卒業生の皆さんにお祝いの言葉を届けることが出来ました。おめでとうございます。

3月になりましたので、今月の主な予定を記しておきます。

  • 3月3日 常任司教委員会他 (潮見)
  • 3月4日 溝部司教ご葬儀 (高松)
  • 3月5日 双葉学園理事会 (鶴岡)
  • 3月7/8日 新潟教区司祭静修 (新潟)
  • 3月9日 聖園短期大学卒業ミサ (秋田)
  • 3月10日 秋田カトリック学園理事会 (秋田)
  • 3月11日 秋田聖霊短期大学卒業式 (秋田)
  • 3月13/14日 カリタスアジア地域委員会 (バンコク)
  • 3月16日 カリタスジャパン会議 (潮見)
  • 3月19日 新潟天使園落成式 (新潟)
  • 3月20日 受難の主日ミサ (新潟教会)
  • 3月22日 教区顧問会・司祭評議会 (新潟)
  • 3月23日 聖香油ミサ (新潟教会)
  • 3月24日 聖木曜日主の晩餐ミサ (新潟教会)
  • 3月26日 聖土曜日復活徹夜祭 (新潟教会)
  • 3月27日 復活祭 (新潟教会)
  • 3月30日 ゲマインダハウス理事会 (名古屋)

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