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2016年4月30日 (土)

新潟教区宣教司牧評議会@新潟司教館

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昨日、4月29日。定例の新潟教区宣教司牧評議会が新潟司教館で開催されました。新潟教区には秋田、山形、新発田、新潟、長岡の5地区がありますが、それぞれから司祭と信徒の代表、そして修道者の代表など、わたしも含めて21名が参加。

昨年からはじめたことですが、それ以前の教区優先課題についての報告が中心だった会議をあらため、報告は文書で配布するにとどめて、それよりもテーマを定めて意見を交換することを中心に評議会を開催しています。とはいえ、突然に話し合えと言っても難しいので、まずはじめにわたしが一時間ほど話をし、それに基づいて小グループでの話し合いを行うことにしました。

今年の宣教司牧評議会の大きなテーマは「福音宣教」です。まず午前10時から45分ほど、「教会の本質である福音宣教」と大きく掲げて、まず教会憲章と宣教教令に基づいて、教会共同体がこの社会の中で果たしていかなくてはならない使命を、第二バチカン公会議がどのように教えているのかのお話をさせていただきました。またその使命の中にあって、信徒が果たすべき役割として何が期待されているのかについてもお話しいたしました。

その後、参加者は三つのグループに分かれて、新潟教区における福音宣教への障壁は何か、またその障壁を打ち破るにはどうしたらよいのか、などについてお昼まで意見交換。

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昼食後は、各グループからの報告に続いて、そのほかの課題についても意見交換を行いました。中でも、この数年の間検討を続けている小教区規約については、いろいろな意見をいただきました。教区の中でそれぞれの小教区を運営していくための規約を、これまでの例えば信徒会とか信徒使徒職協議会などの規約とどのように整合性をとるのかが一つの課題です。教区で一つの規約を定めることは、それぞれの小教区の事情があるのでいたしませんが、一応のサンプルと指針を用意しようと思いますので、今回の評議会の意見も参考にもう少し検討を続けます。

先般のJRダイヤ改正で、秋田へ戻る「最終」の特急電車の発車時間が30分以上早まり、なんと午後3時に新潟駅発になってしまったので、評議会は午後2時半で終了。秋田の参加者は、タクシーで慌ただしく新潟駅に向かわれました。

なお熊本の大地震への新潟教区の対応について、教区内での文書を発表しています。新潟教区のホームページに掲載されていますので、こちらのリンクからご覧ください

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先日、ネパールに出かける直前の4月21日に、福岡教区事務局で、熊本地震被災者支援室の調整会議が開かれましたので、カリタスジャパンの代表として職員と共に参加してきました。(写真すぐ上)会議は宮原司教の主宰です。その場で熊本近辺にボランティアの拠点を開設することが決まりましたが、教会関係で被害を受けているところもあり、なかなか場所を定めることが出来ませんでした。またカリタスジャパンとしても、もともと本体の職員は5名程度ですので、東日本大震災対対応プログラムでも、様々なボランティアの方々に現場で取り組んでいただいています。そのため即座にもう一つのボランティアベースに差し向ける人材の確保が出来なかったため、この連休中、5月のはじめに東北から数名の方に九州へ一時移動していただき、拠点開設と初期の運営を軌道に乗せて、数週間以内に福岡教区中心の拠点運営へ引き継いでいくことを考えています。数日以内に、福岡教区、またはカリタスジャパンから、正式に発表されることになります。

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2016年4月29日 (金)

ネパール地震から一年

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ネパールでマグニチュード7を超える大きな地震が発生し、八千人超が亡くなった悲劇の出来事から、この4月25日で一年が経ちました。ネパールでは政府関係などの公式な慰霊祭なども行われましたが、地震発生直後から被災者救援のために活動してきたカリタスネパールでも、25日から27日まで、国内外の関係者を招いて、共に祈り、また支援活動から何を学ぶことが出来るのかを考え合う連帯会議を開催しました。

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参集した司教関連では、全体の活動を支えた国際カリタスからは総裁であるタグレ枢機卿が。またアジアのカリタス全体の代表としてカリタスアジアのわたしが参加。教皇大使(インドと兼任)のペナッキオ大司教、ネパール使徒座管理区長のシミック司教、さらに今回の活動を統括して支えた海外カリタスの代表であるカリタスオーストラリアのスタシウク司教、イギリスのカリタスであるCAFODのロウストーン司教が参加。

それ以外にもカリタスオーストラリア、CAFOD、カリタスフィリピンからは責任者が参加し、そのほか多くの団体から関係者が参加しました。カリタスネパールの現在の責任者は、数少ないネパール人司祭でもあり、ネパール教区の司教総代理も務めるシラス・ボガティ神父。数ヶ月前に交代したばかりですが、以前にもカリタスネパール代表を務めていた時期があり、わたしも良く知った相手です。ネパールの教会は、新潟教区と同じく七千人ほどの信徒の小さな共同体です。

初日に行われた慰霊のための式典では。ネパール政府の文化・観光・民間航空担当大臣であるポカレル氏も参加され、政府を代表して、カリタスの活動に感謝の言葉を述べられました。

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会議の二日目めには、参加者を三つのグループに分け、車で2時間ほどをかけて、震源地に近い村へ視察に出かけ、村落の再建のために努力を宇津蹴る方々の話を伺うことも出来ました。わたしたちが訪れたのはバルタリという村。195軒の家庭が、細く広がる丘の峰筋に点在する集落です。(一番上とすぐ上の写真)

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なんといっても谷あり山ありの厳しい地形です。村へ行き着くのも崖っぷちの道で容易ではありません。完全に崩れた家や、ひびが入って仕えなくなった家が、そこら中にそのまま残っていました。もともと日干しの煉瓦などで作った家が大半ですから、地震には耐えることが出来ません。カリタスを初めとしたNGOが配布したトタンの板で作った仮の小屋で、すでに一年間生活をしています。政府からの援助は、様々な事情があって実施が遅れているとのこと。

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政府からの支援を受けるための登録センター(上の写真左側の建物。平らなのは道の部分のみで、あとは左右に崖)にも出かけましたが、一年経ってやっと登録にたどり着いた人までいて、再建には長時間が必要だと感じました。カリタスを初めとしたNGOでは、こういった登録センター沿いにセンターを開設し、登録の手助けをしたり、地震に強い家の設計図を配布して、地元の工事関係者を支えるなどの活動も行っています。

ネパールはこの時期、日中は30度を越える暑さですが、朝晩には10度以下まで冷え込むなど、体調管理も厳しい環境です。アクセスの悪さ。手続きの遅延。様々な要因が絡んでいますが、ネパール地震からの復興には、まだまだかなりの時間が必要だと感じさせられました。

なおカリタスジャパンも、日本で行った募金を、長期にわたるカリタスネパールの復興支援活動のために支出しています。

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2016年4月19日 (火)

カリタスジャパン全国教区担当者会議@東京

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昨日の昼から今日の昼にかけて、日本カトリック会館(中央協議会)を会場に、カリタスジャパンの全国教区担当者会議が開催されました。

この会議は、以前からこの日程で予定されていたもので、今回の熊本の地震の対応で緊急に招集されたものではないのですが、大地震直後の開催となったため、教区の担当者間での熊本大地震対応活動の情報共有の場ともなりました。

カリタスジャパンの教区担当者と言っても、カリタスジャパンが任命をしている方々ではなく、全国16教区においてそれぞれの教区司教から、各々の教区内での社会福祉や慈善、または援助などの活動を担当するために任命されている方々です。そういった方々に、全国的なカリタスジャパンの活動や募金・献金のため、教区の窓口として協力いただいています。また四旬節キャンペーンを日本ではカリタスジャパンが担当していますが、その実施にあたっても、各教区で重要な役割を果たしていただいています。(四旬節キャンペーン自体は司教協議会が全国の教会に向けて行うもので、その実施はそれぞれの国の事情に応じて、様々な組織が担っています。もっとも多くの国では、その国のカリタスが担当しており、日本ではカリタスジャパンが担当すると共に、四旬節の犠牲のわざの一つでもある「愛の献金」を活用する役割も、カリタスジャパンが担っています)

熊本の地震に関しては、福岡教区の宮原司教様を中心にして、現在、福岡教区が様々な対応を考えておられます。手始めに、すでにご存じのように、宮原司教様から募金の呼びかけがありましたし、カリタスジャパンでも募金を受け付けをはじめました。(こちらのリンクから中央協議会のお知らせをご覧ください

なお前回の記事にも記しましたが、被災者支援活動だけではなく教会の様々な必要のための援助は教区が受け付ける募金が利用されます。カリタスジャパンがお受けする募金は、教会に限定されず、広く一般の被災者支援活動のために利用されます。また基本的にカリタスジャパンがお受けする募金は、直接被災者に配布される「義援金」ではありません。被災者支援活動のために募金です。

カリタスジャパンとしては、今後、福岡教区が中心になって実施する被災者支援活動に全面的に協力し、その側面支援に当たりますが、そういった活動の情報共有と調整のため、木曜日にわたしと事務局スタッフが福岡に出かけて、教区と打ち合わせをする予定です。

カリタスジャパンの支援活動は、災害直後の集中的な緊急対応よりも、その後の長期的な復興支援が中心になります。もちろん現場の必要に呼応して緊急な対応もできる限り行います。しかし、東北の大震災復興支援でもそうなのですが、教会の組織を活用しての活動は、長期的な対応に、より適しています。そのため募金を具体的に何に使うのかは、今後現場のニーズを見極めながら計画を策定し、またそれについてはカリタスジャパンが定期的にお知らせをしていくことになります。

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2016年4月16日 (土)

熊本での大地震をうけて

2011年の東北での大地震からの復興もまだ完了していない中、以前からどこかでまた大きな地震が発生してもおかしくはないと言われていた中で、その大きな地震があまり発生することがなかった九州で、巨大な地震が発生してしまいました。

14日の夜から今に至るまでの、地震に関する詳細は、報道で皆様すでによくご存じの通りです。現時点で20人を遙かに超える方がその生命を奪われてしまいました。また多くの方が怪我をされ、その中には重傷を負われている方も少なくないと報道されています。建物の倒壊や様々なインフラの崩壊も、時間を経るにつれ明らかになってきています。

当初は、益城町周辺の地域にのみ被害が集中した災害と判断していましたが、本日未明のさらなる大きな地震が、広い範囲に大きな被害をもたらしてしまいました。

まず第一に、特に新潟教区の皆様にお願いしたいことは、明日の日曜日、それぞれの主日ミサにおいて、今回の大地震で亡くなられた方のために祈り、また一日も早く平穏な日々が取り戻され、復興の道筋が明確になるように、共に祈ってください。お願いいたします。

新潟も、わたしが司教になった年、2004年に中越地震という大きな災害に見舞われ、さらには2007年に中越沖地震でさらに被害を被りました。そのときに全国のたくさんの方から、祈りをいただき、また支援もいただきました。そのことに心を留めながら、熊本の被災者の方々のためにお祈りいたしましょう。

第二に、福岡教区やカリタスジャパンの対応などについてです。

現時点では、対応は最終的に決まっていません。決まり次第カリタスジャパンのホームページや、わたしのこの場でお知らせいたします。災害が広範囲に及んだことから、どのように対応するか、また教会への被害はどの程度か、福岡教区(熊本県は福岡教区です)において、本日午後、関係者の会議が行われていると伺っています。その会議の結果を待って、募金や、活動方針などが決まって参ります。お待ちください。

カリタスジャパンが集める募金は、広く一般の方にも呼びかけますので、その使途は広く一般の災害救援活動の支援であって、教会への援助金ではありません。またカリタスジャパンのお願いする募金は、広く災害救援や復興支援の活動のために活用されますので、被災者の方々に直接お配りする「義援金」ではありません。

しかしながら、復興支援などの活動を通じて、被災者の方々に支援が間接的に、またはときに物資の配布などもありますので直接的に、様々な方法で行われますので、当然ですが、カリタスジャパンがお願いした募金は被災者の方々のために役立てられるものに違いありません。

また被災した教区が直接呼びかける募金は、教区の独自の必要のために使われるもので、それは教会の修復であったり、そのほか教区の判断によって活用される募金です。

なお、災害発生初期の緊急時は、日本のような災害が頻繁に発生する国においては、これまでの経験の積み重ねから、法律などによる制度が明確に確立しており、自衛隊や、警察、消防の方々が中心になって行われます。いくつかの専門職をもったNGOが、これまでの経験の積み重ねから現場に入っていますが、緊急時はプロの対応が必要な時間です。そのほかの一般のNGO等によるボランティア活動は、緊急時のプロの対応との関係の中で時期を判断してはじめられます。従って、今回の被害の規模を見れば、今後、数日を経た段階で、様々な形のボランティア活動がはじめられ、「ある程度の長期」にわたって必要とされると推測しています。

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2016年4月11日 (月)

使徒的勧告「愛のよろこび」

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教皇フランシスコによる新しい使徒的勧告「Amoris Laetitia」が、4月8日に公表されました。この文書は、2014年と2015年に開催された「家庭」に関する世界代表司教会議(シノドス)での討議と提案を受けて、教皇フランシスコが家庭や結婚に関する現代の諸問題について考察を加えています。

日本語のタイトルは、「愛のよろこび」とし、副題を「家庭のよろこび、教会のよろこび」となっています。今後、翻訳が進められますが、まだ昨年6月の「ラウダト・シ」の翻訳も完成していませんから、もう少し時間がかかるものと思われます。早く読みたい方は、このリンクからバチカンのサイトに飛びます。ここにすでにバチカンが用意した、アラビア語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポーランド語、ポルトガル語、スペイン語の翻訳版が掲載されています。ご参照ください。(なお、バチカンのサイトは、到達するのに少し時間がかかります)

さて、内容的には、すでに様々な論評が出ていますが、家庭の抱える現代的な課題や、それに関する結婚、離婚、再婚などの諸課題。そして同性婚の問題。こういった課題に関して、法規定や教義は変更しないことが明確にされています。

その上で、世界各国にはそれぞれ固有の歴史や文化や慣習があり、それぞれ固有の現実があるのだから、それに対して上から一つの規則を押しつけることはしたくはない。それぞれの地域に固有の現実から議論をスタートさせることの重要性を説いています。教会としての一つの原則を保持しながらも、それを一律に当てはめるのではなく、それぞれの個々の現実に応じて司牧的な対応を考えるようにと招いておられます。

またいつくしみの心をもって、様々な事情を抱えた人を共同体から排除するのではなく、すべての人に開かれた共同体を形成するようにとも招いておられます。異なる立場の人に対する排除や差別や攻撃に対して、教皇は厳しい態度で批判をされています。

また実際に生活を共にしている家族を超えて、もっと広い範囲での人間関係の見直しによる、家族の新たな定義づけをも求めておられます。

まだすべて読み込むには時間が必要ですので、またあらためて、内容の解説出来ればと思います。

新潟もだんだんと春になりました。桜は先週末に満開となり、今が見頃です。今日の月曜は11時から、月例の月曜会のミサとロザリオの祈りがありました。今日の夕方から明日にかけては、新潟教区司祭団の復活のお祝いです。上の写真、わたしの背後、向かって左に新潟教会がかすかに見えます。司教館の前に咲く桜です。

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2016年4月 6日 (水)

新潟清心女子中学高校の入学式

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新潟にも桜前線は到達し、今週末頃には満開になるものと思われます。司教館の裏手は小高い丘になっていますが、その道路との境あたり、かつて保育園があった頃の通用門(現在は閉鎖しています)あたりに、桜が二本植えられており、徐々に美しい花を咲かせ始めています。

そんな暖かな春の陽気に恵まれた本日午後、新潟清心女子中学と高等学校の入学式が行われました。新潟教区にはこの学校の他に、高校では秋田に聖霊が、短大では同じく秋田に聖霊と聖園があるだけで、数少ないカトリック学校の一つが新潟清心であり、現在では新潟県内唯一のカトリック学校であるだけではなく、唯一の女子校でもあります。

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数年前に、それまで経営に携わっていたナミュール・ノートルダム修道女会が撤退され、地元の財界の方々を中心とした学校法人が立ち上がり、独自の運営が始まりました。現在はわたしも理事会に加わらせていただいておりますし、法人の方針でカトリック学校として存続することになっていますので、この春からは教区司祭からチャプレン(非常勤)も任命させていただきました。現在の理事長さんは信徒の方ではありませんが、懸命にカトリック学校を守ろうとしておられるので、教区としてもできる限りの協力をさせていただいております。

この春からは校長先生が交代になり、新潟清心の卒業生でもある新保先生が校長に就任。これからの展開が期待されます。

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本日の入学は、中学が26名。高校が60名。小さい学年共同体ですが、その分、一人ひとりへの教育での関わりが深まるのではないかと期待されます。またこの学校には寄宿舎もあり、これも一つの特色として、活用されることが期待されます。

ミッション(使命)スクールとして、神様から「使命」を与えられている学校です。全体には神からの賜物である生命を大切にするという清心を身につけ、それを知らせていくことは大切な使命であると思います。しかし「一つの身体の部分」というコリント人への手紙のたとえ話にあるように、一人ひとりには全体を生かすためのそれぞれ異なる使命が与えられているのだと思います。互いに、使命を与えられたものとして、互いを大切にし、助け合いながら、自らの使命を学校生活の中で探求されることを期待しています。

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2016年4月 3日 (日)

神のいつくしみの主日@新潟教会

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復活節第二の主日は、教皇聖ヨハネパウロ2世によって、2000年の大聖年に、「神のいつくしみの主日」と定められ、2003年の典礼暦から正式に実施されてきました。今年はいつくしみの特別聖年ですから、特にこの主日にあたって神のあわれみといつくしみについて黙想することはふさわしいことであると思います。新潟教会では、聖週間と御復活の主日に続いて、三週連続で司教ミサの日曜となりました。

2000年の大聖年、復活節第二主日には、聖ファウスティナ修道女の列聖式が執り行われました。ポーランドの聖人です。神のいつくしみの信心には、この聖ファウスティナ修道女の存在が欠かせません。

主イエスから二筋の光が発している有名な絵がありますが、聖人は1931年にこの絵の啓示を受けたと言われます。聖人の受けたイメージを基にして書き上げられた絵の前ではじめてミサが捧げられ、神のいつくしみについて説教がなされたのが、1935年4月28日、復活節第二主日であったと言われています。(この項、回勅「いつくしみ深い神」の後書き参照)

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聖ヨハネパウロ2世は2005年になくなる直前、その年の神のいつくしみの主日のためにメッセージを用意しておられました。そこに次のように記されています。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。この愛が、回心をもたらし、平和を与えます。どれほど世界は、神のいつくしみを理解し、受け入れる必要があることでしょうか」

教皇就任からまもなく、1980年に聖ヨハネパウロ2世は回勅「Dives in Misericordia」を発表されました。当時この回勅は、東京教区の大先輩司祭でもある澤田和夫神父様によって翻訳され、そのタイトルは「いつくしみ深い神」とされました。

現在わたしたちが使っているミサ典礼書でもそうですが、「いつくしみ」という言葉は「Misericordia」の翻訳として、祈りなどにしばしば用いられてきました。ところが、この回勅翻訳の冒頭は「あわれみ豊かな神」とはじまっているのです。

「あわれみ」も「Misericordia」の翻訳としてしばしば使われています。回勅翻訳の冒頭がタイトルと異なっているのは、それが聖書の引用だからなのですが、回勅の翻訳全体を通じてみると、「いつくしみ」と「あわれみ」が、同じ「Misericordia」の翻訳として両方とも幾度も用いられて登場します。

それはいったいどうしてなのかという疑問への回答は、回勅の中にそのヒントが記してありました。とても長い脚注なのですべてを引用することは出来ませんが、回勅の脚注52番に、おおむね次のようなことが記してあります。

まず、旧約聖書は「Misericordia」を描くとき、「主に二つの表現を用いる」と記されています。ここは先日の東京カテドラルでの高見大司教の説教にうまくまとめられているので、それを引用します。

「『いつくしみ』と訳されている聖書のことば(ヘセド)は、『いとおしむ、大切にする』ことと『忠実さ』を意味しています。つまり、神のいつくしみは、人間の反抗や無関心などに左右されることなく、常に変わらず徹底して、すべての人をいとおしむということです。
 また聖書では、『いつくしみ』と一緒に『あわれみ』という言葉がよく使われています。この『あわれみ』と訳されているヘブライ語(ラハミーム)は、子どもを宿す『母胎』や『腸(はらわた)』を指すことばで、母親が自分のおなかを痛めた子どもをいとおしむ情愛を意味し、そこから、苦しむ人や悲しむ人を見て、深く心を動かされる、れんびんの情を意味します」

そして教会はこの旧約における二つの意味合いを、一つの言葉、「Misericordia」に込めているというのが、この回勅の脚注に記されていることでした。従って、おなじ「Misericordia」であっても、そのときの文脈によって、「いつくしみ」と「あわれみ」という二つの翻訳が使われているのです。それほど、「Misericordia」という言葉は、広い意味をもっていると言うことではないでしょうか。そして、この回勅を翻訳するにあたって、タイトルの訳として澤田神父様が選択されたのは、「いつくしみ」でありました。

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大切なことは、「Misericordia」にはそれほど様々な側面の広い意味が込められているのだと言うことであって、単に優しくするとか、赦すとかという意味合いにとどまらず、さらに深く多くの意味合いが込められているのだと言うことを、意識しておくことであろうと思います。その意味するところを、この特別聖年の間に、知ろうと努力することも大切ではないでしょうか。その意味で、あらためて教皇フランシスコの特別聖年開催の大勅書を読み返してみたいと思います。教皇がわたしたちに求めている、「Misericordia」に生きる姿勢は、どれほど幅が広く深い意味をもっていることか、わたしたちの信仰における理解を新たにしたいと思います。

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