生命の重さを量るのはだれなのでしょうか。
パプアニューギニアから帰国した一昨日の夜、その日の早朝に、相模原市の障がいのある方々がともに暮らす施設で、19名が殺害され26名が怪我をされるという事件が発生したと聞き、心の底から驚き、大きな衝撃を受けました。加えて犯行に及んだ人物が、障がいのある方々を殺害することが「正しい」ことであると主張しているという報道に接し、さらに大きな衝撃を受けています。
亡くなられた方々の無念さと恐怖はいかばかりだったでしょう。永遠の安息を心から祈ります。また怪我をされた方々の一日も早い回復と、さらには恐怖の時を過ごし心に刃物を突きつけられてしまった多くの方に、いつくしみの神の御手が差しのべられ、癒やしがあるように心から祈ります。
今更あらためて言うまでもなく、キリスト教の信仰の立場にあっては、生命の重さを量ることがゆるされているのはいったいだれなのかといえば、それはわたしたち人間ではなく、人間に生命を与えられた生命の創造主である神でしかありません。だれが生存して良いのか、だれが生存する価値があるのか。それを判断しようとするのは人間にとって傲慢なことではないでしょうか。しかも神は、自らの似姿として生命を創造されたのですから、すべての生命にはすべからく神の似姿としての大切な価値があります。わたしたちはそれを人間の尊厳と言います。
社会的に弱い立場に置かれた人たちに対するこのような攻撃的な価値判断と行動に対して、すでに多くの方がその大きなあやまちを指摘しておられます。社会的に弱い立場は、単に目に見える形の障がいと共に生きている方々だけではなく、様々な意味で「異質」だなどと見なされている多くの方々や、経済的な困難、健康上の困難、制度上の困難、文化的困難等々様々な困難を抱えている人たちを包括し、言うならば、ほぼすべての人が何らかの困難を抱えているのですから、視点を変えさえすれば、だれでもいつでも社会的に弱い立場になる可能性をもっています。だからこそ、すべての人が互いに協力し助け合わなければ、わたしたちは生き延びることが出来ないでしょう。
あらためて、一つの共同体に生きるようにと生命を与えられているわたしたちが、なぜ生きているのかをよく考え、互いに支え合っていくことの大切さを、心に刻みたいと思います。
| 固定リンク | 0
「司教の日記」カテゴリの記事
- 四旬節メッセージ@灰の水曜日(2026.02.17)
- 謹賀新年(2026.01.01)
- 香港教区80周年記念行事@香港(2025.12.11)
- 2025年の復活祭にあたって(2025.04.19)
- 「平和のために、ともに希望の旅路を」(2025年年頭の司牧書簡、教区ニュース1/2月号掲載済み)(2025.01.01)
