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2016年12月29日 (木)

2017年の司牧訪問予定@新潟教区

まもなく年が改まりますと、1月1日付でわたしの年頭司牧書簡が小教区でも配布されることになります。ホームページでも読んでいただけるよう、1月1日以降に掲載の予定です。

その中でも触れていますが、2017年は奇数年ですので、新潟教区内のわたしの司牧訪問は、秋田地区と山形地区の小教区の年になります。すでにいくつかの教会からは問い合わせをいただいております。以下に、現時点で決まっている主日の訪問の一覧を画像で掲載します。またその末尾には、主日以外ですでに決まっている、そのほかの教区関連行事もいくつか掲載してあります。それ以外にも、もちろん毎年行われる宣教司牧評議会などもあります。(画像はクリックすると拡大します)

ご参照の上、秋田地区と山形地区の小教区にあっては、主任司祭をはじめ皆様でご相談くださり、お早めに教区事務局長までお問い合わせくださいますようにお願いいたします。なお掲載してある期間は、2017年の3月5日(日)から2018年の3月4日(日)までです。

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2016年12月28日 (水)

糸魚川へ

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糸魚川へ出かけてきました。クリスマス直前の先日12月22日の午前10時頃に出火し、その後翌日まで30時間以上にわたって燃え、120棟の全焼を含めて140以上の家屋に被害の出た、糸魚川大火の現場です。(煙突は被災した加賀の井酒造のあったあたり)

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糸魚川の中心市街地は海岸と平行に走っている北陸新幹線とえちごトキめき鉄道がほぼ東西に走り、それによって南北に分けられています。駅前広場から北の海側は商店街です。今回の大火の被災地はこの海側の地域。(上の写真、中央右手のアーチは海と平行に走る国道8号線沿いの施設。そのすぐ先は日本海)

糸魚川には教会と幼稚園があります。教会とカトリック天使幼稚園は、鉄道を挟んで南側の山側にあり、今回の大火の影響は受けずにすんでいます。ただ、幼稚園の職員がお一人家を焼失し、また園児の中にも被災した家族が数軒おられるとうかがいました。

岡神学生と一緒に、朝8時前に新潟の司教館を車で出て、北陸自動車道をひた走り、10時頃に糸魚川教会に到着。新潟市から糸魚川市までは、だいたい180キロ近い距離です。

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園庭に車をおいて、園長先生をはじめ職員の方に案内されて、被災した地域に徒歩で移動。教会と幼稚園のすぐ裏にある糸魚川小学校の前を過ぎると、すぐに新幹線の高架と在来線の踏切があります。それを渡ると目の前はもうすぐに火災の現場です。出火元となったあたりから海に向かって町が焼け落ちていました。細い路地ですが、道路を挟んで向かい側には火の手が及んでおらず無傷のまま。火事当日の風の強さがうかがわれます。(上の写真は、火事が始まったあたり。道を挟んで左側には被害なし)

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コンクリートで焼け残った第四銀行と北越銀行は、それぞれ一階だけを使い営業を再開。町中は各所で、瓦礫の撤去に向けた準備や、電気などの復旧作業が行われていました。(上の写真の中央のコンクリートの建物が第四銀行糸魚川支店)

被災された幼稚園の職員の方の家にも足を運びました。庭の松の木だけが、ぽつんと残されていました。

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確かに東日本大震災のような大きな災害と比較をすれば、今回の大火は地域も限定されていますし、すでに避難所も閉鎖されています。多くの方が一時的には避難する場所を確保しているとのことです。しかし、この年の瀬に、すべてを失った心の痛手は大きいですし、これからの復興再建にも心を砕かなくてはなりません。糸魚川市も昨日から被災された方々への説明会を始めたようですが、町が立ち直るには時間と資金が必要なのは明白です。

新潟教区としては(教区へのお知らせはこちらを参照)、いまの時点で直接被災された方にお手伝いが出来ないとしても、今後いろいろな形でお手伝いが出来るだろうと考えていますが、基本的に糸魚川教会を中心に考えていきたいと思います。糸魚川教会の方々と相談の上、出来ることを見いだしていきたいと思います。

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2016年12月25日 (日)

主の降誕、日中のミサ@新潟教会

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主の降誕の祭日の今日、午前9時半から新潟教会でミサをささげ、ミサの後にはカトリックセンターの二階ホールで、クリスマスのお祝いが開かれました。

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昨晩の8時のミサは聖堂が一杯でした。深夜ミサにも30人を超える人が参加したそうです(ラウル師司式)。今日の日中のミサも、聖堂がほぼ一杯にあるくらいの大勢の方が参加されました。今年は比較的暖かな冬になっていますし、新潟市内はまだ本格的な雪が降ってはいません。それでも今日は雨模様の肌寒いクリスマスでした。

ミサ後の祝賀会にはテーブルが一杯になるほどの多くの方が参加してくださり、英語ミサグループや青年たちの歌の披露もあって、和やかな時間を過ごすことが出来ました。

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なお12月31日の深夜、年が明けて1月1日の零時にも新年一番最初のミサが、新潟教会で行われます。わたしの司教司式ミサです。引き続いて同日、1月1日午前11時から、同じく新潟教会で新年のミサが行われます(ラウル師司式)。新しい年を、教会で迎えられてはいかがでしょう。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

主の降誕(日中)ミサ
2016年12月25日

この数ヶ月の間、カリタスアジアやカリタスジャパンでは、戦略計画の策定という作業を続けています。

戦略計画というと何か軍事用語みたいで響きが悪いのですが、元々の英語の単語を日本語に訳そうとするとこうなってしまうので仕方がないのですが、要は、過去の振り返りに基づいてよりふさわしい将来への道筋を明らかにする作業です。戦略計画を策定した後に、それに基づいて中期的な活動計画を定めていきます。それによって、過去の失敗を繰り返さずに、さらにより良い活動が出来るようにするというものです。ビジネスの世界では普通に行われているようでもありますが、NGOなどの世界でも広く取り入れられてきました。

その作業の中で、一番最初にしなければならないのが、SWOT分析。それは計画を策定する組織における「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」を見つけ出し、そこから、組織の目的を効率よく達成するためには何が欠けているのか、より目的に近づくための優先事項は何なのかを明確にしていこうとする作業です。

教会も、御言葉を一人でも多くの人に告げ知らせることを使命として与えられた組織体であります。ですからそこには、同じように、「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」が存在し、それを分析することで、より良くその使命を果たすことが出来るようになるのではないかと思いました。

いまわたしたちが生きているこの地域での教会の福音宣教の現実を考えるとき、わたしたちにとっての「強み」、「弱み」、「機会」そして「脅威」は何でしょうか。主の降誕を祝うこの日にあたり、その出来事に思いをはせながら、思いつくことを掲げてみたいと思います。

先ほど朗読されたヨハネの福音に、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と記されていました。わたしたちが告げ知らせるよう使命を受けている神の御言葉は、人間を照らす光であり、そこにこそ命があるのです。わたしたちは、その命が、神の望まれるあり方でより良く生きられるようにと、この世界の中で神の言葉を告げ知らせていかなくてはならないのです。そういう使命が、教会には与えられています。

そして、教会にはというとき、誰かの組織ではなく、それは、イエス・キリストを信じるすべての人、すなわちわたしたち一人ひとりのことを指しているのです。わたしたち一人ひとりの使命であります。

さて、「強み」から見てみましょう。わたしたちには、かけがえのない「強み」があります。それはすべての創り主であり生命の与え主である神ご自身が、人間に対する愛のあふれとして、人となり、その罪を担い、死と復活を通して自ら示された、神の愛の力の絶対的な強さそのものであります。わたしたちには、自信をもって告げるべきメッセージがあります。自信をもって倣うべき、人生の生き方の最高の模範があります。

その夜、聖母マリアには神の言葉である御子が人として宿られている。ですからこの聖なる家族は、神ご自身を運ぶ家族であります。新しい生命の誕生を待ち望む人間の愛が、その家族を満たしています。人間の愛を通じて、神の絶対的な愛を多くの人に運んでいこう、もたらそうとする聖なる家族は、わたしたち信仰者にとって最大の強みは何であるのかを教えています。何も恐れるものがない、神の愛のあふれである御子イエスの存在そのものであります。

では、「弱み」は何でしょう。聖なる家族は、ナザレからベトレヘムまで長い旅を続けてきました。その夜、宿を求めてベトレヘムの町をさまよった聖なる家族を、多くの人々は拒絶します。神の愛そのものである言葉は、人として誕生したその瞬間から、多くの人に拒絶される存在だったのです。

わたしたちの住む日本において、キリスト者は徹底的に少数派です。そのために、わたしたちが信仰において当たり前だと思っていることは、日本社会全体の常識とはかけ離れているのかもしれません。あまりにも小さな集まりであるがために、勇気をもって福音をあかしすることを躊躇している現実が、わたしたちの弱みかもしれません。その夜の聖なる家族のように、わたしたちは、誰かに受け入れてもらえる場を求めて、闇の中をさまよっているのかもしれません。

「機会」とは何でしょう。聖家族は最終的に、彼らを受け入れてくれる人々に出会います。それは立派な宿屋ではなかったものの、少なくとも幼子を守るに十分な飼い葉桶であり、また誕生を祝うために集まった町の多くの人々なのではなく、野宿する羊飼いたちでありました。その出会いによって、場所を提供してくれた人たちに、そして羊飼いたちに、その人々の内に神を迎え入れる機会が与えられました。

そうすると、わたしたちの社会の様々な動きの中で示される、神の愛に基づいた奉仕の可能性は、わたしたちにとって大きな「機会」ではないでしょうか。

いま多くの人が迎え入れられることなく、拒絶されています。教皇様の繰り返されるシリアでの和平への呼びかけと、難民受け入れの呼びかけにもかかわらず、未だに和平は実現せず、難民の人たちへの受け入れは困難を極めています。それははるかヨーロッパだけでの問題ではなく、教皇様がしばしば指摘されるように、全世界で、「無関心と排除」の態度として拡がっています。日本も例外ではありません。

漠然としたテロなどへの恐怖感をはじめ、治安維持への不安感は、何となくわたしたちを疑心暗鬼の暗闇に引きずり込み、「排除」する姿勢へと導きます。目に見えるところで、分かっている範囲で、わたしたちは安心をしたいのです。異質なものを、普通と異なる存在を、社会は、いやわたしたち教会は、排除しようとしていないでしょうか。教皇の呼びかけるように、すべてを受け入れるいつくしみの共同体であるでしょうか。排除しないまでも、そういった異なる存在に目をつむる、「無関心」な共同体になっていないでしょうか。主ご自身を迎え入れる「機会」は、常にわたしたちの目の前にあるのです。もしかしたらわたしたちは、宿を求めてたたずむ聖なる家族の面前で、冷たく扉を閉めているのかもしれません。

最後に「脅威」。主の降誕にあって最大の脅威は、その存在を否定しようとするヘロデの存在であったかもしれません。神の愛の充満である生命、神の御言葉そのものである幼子への攻撃です。

あらためて繰り返すまでもなく、いま日本を含め世界の至る所で、生命は危機にさらされています。守られるべき生命と存在を無視される生命との格差が広がっています。まず第一に考えられるべきは生命の尊厳であるにもかかわらず、そうではない価値観が優先されています。これほどの「脅威」はありません。どのようなレベルにおいても、どのような形であっても、人間の生命は、神の似姿である限り尊厳があり、守られなくてはなりません。

主の降誕にあたり、あらためてわたしたちが、御言葉を告げる使命を勇気を持って生きることが出来るように、祈りましょう。

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2016年12月24日 (土)

主の降誕、おめでとうございます。

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主イエスの降誕祭にあたり、皆様にお祝いを申し上げます。

誕生した神のひとり子は、暗闇の内に不安を抱えて暮らす多くの人々への希望の光です。キリストを信じるわたしたちは、教会にあって、その生命と希望の光を輝かせる存在でありたいと思います。

クリスマスを目前にして、新潟県の糸魚川市では大きな火災が発生しました。年の瀬の寒さがつのる時期に、多くの方が家を失い、またこれまでのご自分の歴史の積み重ねを、家族を結びつける絆を失われました。被害を受けられた方々に、心からお見舞いを申し上げます。

糸魚川教会は糸魚川駅を挟んで火災の発生した地区とは反対側にあるため、被害を免れ、また今のところ信徒の方の被害もなかったと聞いております。しかし教会幼稚園の職員のかたに、被害があったという報告をいただいています。こういう災害にあたって、糸魚川の小さな教会に出来ることは限られているのでしょうが、今日と明日の降誕祭のミサの時に、何が出来るのか分かち合っていただければと思います。

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以下、本日の新潟教会における夜半のミサ(午後8時)の説教の原稿を掲載します。明日の日曜日は、主の降誕の日中のミサが、新潟教会では午前9時半から、司教司式で行われます。

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主の降誕(夜半)ミサ
2016年12月24日

お集まりの皆様、主の降誕おめでとうございます。

主イエスが誕生したその夜、主の天使が野宿して羊の番をしていた羊飼いたちにあらわれたと、先ほど朗読されたルカ福音は記しています。羊飼いに対して天使は、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。あなた方のために救い主が生まれる」と述べたあとに、すぐこう続けています。
「布にくるまって飼い葉桶のなかに寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである」
 

救い主の誕生を預言したイザヤ書も、同じようなことを告げています。
「あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり」と告げた後で、「一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちのために与えられた」と記しています。

ルカ福音もイザヤの預言も、人類にとって大きな喜びが与えられるが、その喜びを象徴するのは、新しく生まれた生命であると記しています。その大きな喜びは、たとえて言えば、長い間にわたり暗闇の中をさまよっていた人々が光を見いだし、大いなる希望を見いだした喜びです。また「死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」と記すことで、その大いなる希望が、死を打ち破る生命への希望であることを明確に示しています。

主の降誕のお祝いとは、すなわち、神が与えられる生命の内にある喜びと希望のお祝いであります。神ご自身が、わたしたちと同じ生命の内に人として生きられたことによって、生命のうちにある尊厳を明確にされたことをお祝いするのです。さらに言えば、イエスご自身がその生命を、他者の救いのためにすべてを捧げて生きられたように、わたしたち一人ひとりにとっても、与えられた生命の意味をあらためて考えるお祝いであります。人間が生きる意味を、あらためて考えるお祝いでもあります。

ルカの福音には、天使たちが羊飼いにあらわれた後、神を賛美してこう言ったと記されています。
「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」

この言葉には、与えられた生命を生きているわたしたちが、どのような道を歩むべきなのかが示されています。すなわちわたしたちは、天における神の完全なあり方に倣って、この地上では神の望みに適う生き方をしなくてはならない。それをパウロは第二の朗読のテトスへの手紙で、「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」と記します。

そして天使の言葉は、神の望みに適う生活をすることは、それすなわち「平和」なのだと宣言しています。

幾たびも教会の中で繰り返されてきたとおり、神の語られる「平和」とは、単に戦争がないこと、争いがないことだけを指し示す言葉ではありません。それは神が最初にこの世界を創造されたときの秩序が完全に回復されている状態です。神が望まれる世界が実現している状態です。

ですから主イエスの降誕の祝いは、わたしたちに生命の尊厳について、その意味について考えさせる祝いであるとともに、その生命の究極の目的、すなわち、平和の構築、神の望まれる秩序の回復、すなわち神の望まれる世界の実現についても考えさせるのです。

教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」でこう述べています。「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」(66)。その上で、教皇はこう記します。「聖書によれば、いのちにかかわるこれらの三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です。」(66)

この罪を引き起こしている原因を、教皇はこう記しています。「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。」(66)

この一年を振り返るとき、わたしたち人類は世界の各地において、神が望まれる世界の秩序とはまったく異なる秩序を生み出そうとしているのではないかと感じます。
それは平和の破壊であり、その先にある生命の危機です。
それは人間の謙遜さの欠如であり、他者とのかかわりの拒絶、排除と無関心です。

様々な出来事がこの一年間ありました。例えばシリアの内戦です。
教皇様はシリアでの内戦の激化とそれにともなう難民の流出という現実を目の当たりにして、しばしば国際社会に迅速な和平への対応をとるよう、アピールを続けてきました。さらには具体的に、例えば今年の4月16日にギリシアのレスボス島を訪問した際に、シリア難民の三家族12人を一緒にローマへ連れ帰ったりしてきました。

また7月のビデオメッセージで教皇は、次のように呼びかけました。
「・・・平和を説く国々の間には、武器を供給している国もあり、右手で人を慰めながら、左手で人を打つ人をどうして信用することができるだろうか。・・・この『いつくしみの特別聖年』に、無関心に打ち勝ち、シリアの平和を力強く唱えよう。(バチカンラジオの訳から)」
しかし現実はどうでしょう。対立する勢力の間で停戦が合意され、そしてそれが破棄され、という状況が繰り返されています。その間にも、例えば病院が爆撃されたり、多くの人々、とりわけ子どもたちが生命の危機にさらされ続けています。

わたしたちが生きる日本でも、生命の意味をあらためて考えさせる事件がありました。相模原市の知的障がい者の施設で、19名の障がいと共に生きている人たちを殺害するという事件がありました。 犯人の青年が「自分は正しいことをした。障がい者は生きている価値がない」とでも言わんばかりの言動をしたばかりか、それに賛同する人が少なからずいることが明らかになりました。

この生命をわたしたちに賜物として与えてくださった神は、この生命がどのように生きられることを望んでおられるのでしょうか。わたしたちは時の流れにただ身を任せるのではなく、いまいちど立ち止まり、「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深」く、その意味を、人間が生きる意味を考えるときに来ているのではないでしょうか。
わたしたちが生きているこの世界は、生命を軽んじる、あまりにも多くの悪意と無関心と利己心に、満ちあふれています。

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2016年12月15日 (木)

宮古・釜石で待降節黙想会、そして不二聖心へ

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12月11日の待降節第三主日は、岩手県の宮古教会と釜石教会でミサと黙想の一日でした。岩手県の宮古は私にとって生まれ故郷です。当時、父親は教会で働き、母親が教会の幼稚園の教員でした。9月に秋田からの巡礼で訪れたとき、今年の待降節に黙想会をする約束をしておりました。

前日の朝9時頃に新幹線で新潟を発ち、大宮で乗り換えて一路盛岡へ。盛岡駅で今度はバスに乗り換え。午後3時に宮古駅前に到着しました。今年の台風の被害で、JR山田線は盛岡と宮古の間でがつながっていません。

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土曜の夜は信徒の方と夕食会。想像以上にたくさんの方が集まってくださいました。その中には、私が当時一緒に幼稚園に通った幼なじみも。信徒の方が昔の写真のアルバムを持参してくださり、その中に幼稚園時代の私と幼なじみの姿を見つけることができました。

日曜日は朝9時半から宮古教会のミサ。ミサ後には一時間ほど待降節黙想会としてお話をさせていただきました。その後皆で一緒に昼食。ちなみに宮古教会には司祭が常駐しておらず、普段は釜石教会から司祭が巡回してきます。

昼食が終わる頃に、釜石教会から迎えの方が。今度は一時間強をかけて、宮古から釜石へ移動。途中、山田町を通過しましたが、ほかの地域に比べてかさ上げ工事が少し遅れているように見えました。山田町から大槌を通過して釜石へ。

釜石教会では主任の田中神父(仙台教区)に迎えていただき、3時から一緒にミサ。時間の関係もありましたので、ミサの中でちょっと長めに説教をさせていただき、黙想会としました。

ミサ後に田中神父に盛岡まで送っていただき、新幹線で東京へ。宮古の皆さんも釜石の皆さんも、小さな教会共同体ですが、しっかりと信仰をあかしし護っておられました。迎えていただきありがとうございました。

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さて月曜と火曜は静岡県の三島を経由して、裾野市にある不二聖心へ。初めて出かけましたが、山の中の素晴らしい環境に、間近に富士山を仰ぐ素晴らしい環境でした。

出かけたのはカリタスジャパンの中期活動計画を策定するための戦略計画作りのワークショップのため。国際カリタスやカリタスアジア関連のワークショップでもおなじみのイギリス人コンサルタント、フランク氏の指導をいただいて、カリタスジャパンの事務局員と委員会関係者、そしてカリタスに関わってくださる様々な団体の方など20名以上が集まりました。フランク氏は英語で話しますから、通訳の方もお願いしました。ワークショップの途中ではスカイプを通じて、カリタスウガンダの方からも様々な意見をいただきました。

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おおむね参加者全員が英語でなんとかなったとはいえ、そこはやはり外国語。言葉の壁はあったものの、通訳の方が素晴らしく、時間のロスなくワークショップを進めることができました。この後数週間のレポートのやりとりを経て、戦略計画が確定され、活動計画が策定されていくことになります。

不二聖心から戻って、水曜日と木曜日は臨時司教総会。その内容は近日のカトリック新聞をご参照ください。

なお、鹿児島教区の前教区司教である糸永真一名誉司教が12月10日に88歳で亡くなられました。葬儀は明日、16日午後2時から鹿児島で行われます。司教様の永遠の安息のためにお祈りください。(カトリック新聞を参照ください。 http://www.cathoshin.com/news/obit-bishop-itonaga/11302

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2016年12月 8日 (木)

亀田で堅信、そしてルワンダのお話

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巡礼から帰国した翌日、待降節第二主日の12月4日、新潟市内の亀田教会で堅信式を行いました。前晩にわたしが成田から新潟へ戻ることが出来なかった(最終の上越新幹線に間に合わなかったため)ので、この日は始発の新幹線で新潟へ戻ったため、いつもは9時のミサを10時に変更していただきました。

ミサでは、4名の方が堅信の秘跡を受けられました。そのうちの3名はご家族で、ご両親と小学生の息子さん。堅信の秘跡を受けられた皆さん、おめでとうございます。

亀田教会は、主任司祭の山頭神父のもと、少ない信徒数ながら、長年の積み立てを基にして、2007年に聖堂を新築されました。当時の献堂式の「司教の日記」はこちらです

なかなか新しいメンバーが増えず、信徒の高齢化も顕著ですが、しかしそれでも信徒自身のリーダーシップで、ミサの30分前にはロザリオを唱え、機会あるごとに皆で集まって鍋パーティーをする家庭的教会です。つい先日は、聖堂につながる司祭館と信徒会館の外壁と屋根を更新する工事も行われました。

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さて亀田での堅信式と、その後の昼食会を終えて、今度は新潟市のサッカースタジアムであるビッグスワンへ。サッカーの観戦ではありません。ビッグスワンの会議室で行われた、講演会に参加するためです。そして久しく会っていない方々に会うために。

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アフリカのルワンダで、1996年頃から義肢製作所を設立して、障がいのある方々のために働いておられる、ガテラ・ルダシングワさんとルダシングワ(吉田)真美 さんご夫妻。ルワンダの首都キガリをベースに、義足を制作し必要としている方々に提供し、さらにはルワンダで障がいと共に生きる人々に様々な助力をするムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクトという団体を運営しているお二人です。現在はお隣のブルンジにも活動の場を広げているそうです。NHKや民放の番組にも、先般取り上げられていました。

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お二人がルワンダの首都キガリで、ベースとなるゲストハウスや義肢製作所などのセンターを立ち上げたのが1996年。わたしはその翌年の夏、カリタスジャパンの視察でルワンダを訪れた際に、キガリでお二人に初めてお会いしました。(上の写真が、1997年夏に初めてキガリでお会いしたときの写真。右が真美さんで左がわたし)

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その後、2003年までは、ほぼ毎年ルワンダに出かけていましたので、お二人には何度も会うチャンスがありました。最後にキガリで二人を訪ねたのは、2003年に、当時のカリタスジャパン責任司教であった池長大司教と一緒に、ルワンダとケニヤの援助先視察に出かけたときでした。(上の写真が、2003年にキガリで池長大司教と真美さん。下は同じ日にガテラさんと池長大司教)

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カリタスジャパンは長年にわたって、ルワンダでの子どもたち(特に両親を失い、同伴者のいない子どもたち)への支援事業を続けています。現在はその最終フェーズになっています。わたしは2004年に司教になってから、一度もルワンダに出かけていないので、それ以来のお二人との再会でした。下の写真が講演会後のお二人と一緒に撮った写真です。

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お二人の活躍は、テレビをはじめ様々なメディアで紹介されています。本当に、素晴らしい取り組みをあの厳しい地ではじめ、ここまで育て上げ、さらに将来を見据えているお二人の努力と熱意に敬意を表します。これからも応援したいと思います。(今回の講演会を企画してくれた新潟県立大学の坂口先生にも感謝です)

次のリンクがムリンディ・ジャパン・ワン・ラブ・プロジェクトのホームページです。ご覧ください。http://www.onelove-project.info/index.html

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2016年12月 6日 (火)

聖地巡礼から帰国しました

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先週末の土曜日夜、成田空港に夜8時頃に到着したターキッシュ航空便で、聖地巡礼から帰国しました。(写真上:ペトロの首位権教会でミサを司式する平賀司教)

私と平賀司教を含め15名にパラダイス社の村上氏を含めた16名は、皆無事に帰国。巡礼は最終の二日間、エルサレム近郊で雨と風の寒い天気の中を歩いて回ったため、風邪を引かれた方も少なからずおられましたが、基本的には皆さんお元気です。感謝。

前回の同じ時期は、地域の安全などへの不安もあったのか、聖地はどこに行ってもガラガラでした。ところが今回は巡礼者も観光客も戻っており、どこに行っても長蛇の列でした。それでも、毎日のミサを始め、祈る時間をしっかりととることもできました。

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巡礼はガリラヤから始まって湖畔のティベリアに3泊して、イエスの足跡をたどり、その後は死海に向かって一泊、さらにベトレヘムに二泊してエルサレムを中心に歩きました。前半は温暖な晴れの日でした。(写真上:ガリラヤ湖畔の山上の垂訓の教会)

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それでも最終日の出発前の最後のミサは、金曜日の夕刻にエンカレムのご訪問教会で、巡礼を振り返りながら落ち着いて捧げることができました。というのも木曜と金曜の雨と風で、巡礼者の足が鈍り、前半と比べると訪問者も少なかったためです。(写真上:エルサレム旧市街神殿の丘)

あらためて写真とともに巡礼の記事を掲載しますが、ひとまず、無事巡礼から帰国した報告までに。

なお12月になりましたので、今月の主な予定を。

  • 12月6日 常任司教委員会 (潮見)
  • 12月7日 神学院常任委員会 (東京キャンパス)
  • 12月11日 宮古教会黙想会、釜石教会黙想会 (岩手県)
  • 12月12・13日 カリタスジャパン会議 (三島) 
  • 12月14・15日 臨時司教総会 (潮見)
  • 12月17・18日 カリタスアジア会議 (バンコク)
  • 12月20日 カリタスジャパン会議 (潮見)
  • 12月21日 新潟清心女子中高クリスマスミサ (新潟)
  • 12月22日 新潟カリタス会理事会 (新潟)
  • 12月24日 降誕祭深夜ミサ (新潟教会夜20時)
  • 12月25日 降誕祭ミサ (新潟教会朝9時半)

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2016年12月 2日 (金)

巡礼は6日目が終了

聖地巡礼は6日目終了。皆元気です。今日のエルサレムは雨模様。

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