
2月7日(火)のお昼から、大阪市の大阪城ホールを会場に、ユスト高山右近の列福式が、教皇庁の主催行事として行われました。会場にはスタンドの上部に多少の空きがあったものの、あの広い大阪城ホールに一杯の参加者で、司教協議会によれば1万人が参加したとのこと。共同司式した司祭団は300人を超えていましたが、その司祭団がそれほど大勢に見えなかったのは、会場が大きかったためでしょう。アリーナの一番端っこに設営された祭壇の前後を挟む形で、フロアと、後ろのスタンドに司祭団が着席。いったいどこから誰が来ているのかは、結局わたしからは見えない(認識できない)くらいの距離でした。
いろんな方が様々なところで写真を掲載し、記事を書いているので、列福式の概要はここであらためて記すことはしないでおこうと思います。
一番上の写真はミサが始まる直前、裏で待機中の司教団です。もう一枚、すぐ下の写真はミサがほぼおわり、高見大司教が挨拶に立っている間に司教席からみた会場内。

共同司式に参加した司教団は、日本の現役の司教全員に、すでに引退されている池長大司教、野村司教が加わり、それ以外に韓国の司教が6名、ルクセンブルグ、ベトナム、カンボジアの司教、そして教皇大使とマニラのタグレ枢機卿。もちろん司式は教皇フランシスコから代理として派遣された教皇庁列聖省長官のアンジェロ・アマート枢機卿。サレジオ会員のアマート枢機卿は78歳の年齢を感じさせない若々しさで、力強くミサを司式してくださいました。そして黒のスータンにスルプリで統一された侍者団は、日本カトリック神学院の神学生たち。まもなく司祭叙階を控えた全国の教区助祭団10名も大活躍でした。
なお参加してくださった韓国の司教様のうち3人の司教様と、ルクセンブルグ、カンボジアの両司教が、日本語が堪能でありました。

列福式では、教皇の名による列福の宣言が読み上げられ、そのときに鐘が鳴って肖像画が除幕されます。今回は、確かに鐘は鳴りましたが、序幕ではなく、いかにも現代風に天井から設置されたスクリーンに肖像画が映し出されました。上の写真は、列福式後のレセプション会場で公開された、三牧樺ず子さんが描かれた原画です。
またあれだけの大会場であったにもかかわらず、大阪の実行委員会がよく考え準備されていて、聖体拝領も各所で行われ予想以上に早くミサが終わることになりました。事前のわたし自身の予想より、列福式は20分以上は早く終わりました。
ミサは奉献文がラテン語でしたので「ラテン語であげられたミサ」なのですが、随所に日本語をはじめ様々な言葉が用いられ、聖歌もベトナム語や韓国語などもあり、普遍教会のアジアにおける存在の片鱗を感じさせる典礼でした。なおすでに触れたように列福式は教皇庁の行事であるので、事前に実行委員会と教皇庁との間で幾たびものやりとりが行われ、最終的に整えられたものですので、わたしも式次第がネット上で事前に公表されるまで、その内容は一切知る術はありませんでした。(下の写真はレセプションで挨拶する前田大司教)

さあ次は列聖に向けての運動です。列聖には、高山右近をはじめ日本の多くの福者は殉教者ですから、少なくとも一つの奇跡が認定されなければなりません。また仮に手続きが進んで教皇様による裁可があったとしても、列聖は普遍教会全体の慶事ですから、列聖式が日本で行われることは、まずありません。通常、列聖式は教皇様ご自身の司式でバチカンで執り行われます。
また、「奇跡が日本で?」などと思われますか?そうでもないのです。わたしが所属する神言修道会の創立者である聖アーノルド・ヤンセンは2003年にもう一人の神言会宣教師聖ヨゼフ・フライネーデメッツ神父とともに列聖されたのですが、その聖フライナーデメッツの列聖の鍵となった奇跡は1980年代後半に名古屋のある病院で起こっています。
今回の列福式の終わりに挨拶されたイエズス会の梶山管区長の言葉の中にもありましたが、列福や列聖に向けた調査の作業というのは膨大なものであり、時間と能力と、そしてなにより体力を要するものです。高山右近の列福運動が、この数年間の間に大きく前進した陰には、全身全霊を傾けて作業にあたられた故溝部脩司教様の働きがあったことを、わたしたちは忘れてはならないと思います。

月曜日の前晩の祈りと水曜日の感謝ミサは、玉造のカテドラルで、これまた一杯の参加者を得て行われました。玉造教会は本当に大きな建物ですが、とにかく寒い。祭壇上のロウソクの炎が終始揺らいでいましたから、聖堂内には風が吹いているのかもしれません。写真は感謝ミサ後の玉造教会内陣です。
準備にあたられた大阪教区のみなさまをはじめ多くの協力者の方々、列聖運動を進めてこられた多くの方々に、心から感謝いたします。本当にご苦労様でした。