堅信式ミサ@新発田教会
本日の日曜日、新潟県の新発田教会で、5名の方が堅信の秘跡を受けられました。堅信を受けられた5名の方は全員女性で、そのうちのお一人は、新発田教会の巡回である村上教会の方です。
今日は早朝から新潟市内でも雪が時折激しく降る荒れた天気で、新発田に向かう新々バイパス(国道7号線)を走行中にも雪が激しく降っておりました。
堅信の秘跡を受けられた皆さん、おめでとうございます。新発田教会は子どもたちの声が響く、元気な共同体でした。聖体拝領の後には、フィリピン出身の信徒の方々が、感謝の歌をギターの伴奏で聴かせてくださいました。ありがとう。ミサ後には信徒会館に皆が集まり、昼食会でした。用意してくださった皆さん、ありがとう。
ちょうど本日、年間第7の主日の第二朗読、パウロのコリントの教会への手紙には、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」という言葉が記されていました。堅信の秘跡は、入信の過程の完成であり、この秘跡を通じて聖霊を受けるのですが、まさしく神の霊がそのうちに宿るものとして、堅信の秘跡を受けて成熟した信仰者としての歩みをはじめるものには、常に神とともにあるものとしての役割が期待されています。
神とともにあるキリスト者には、福音を宣べ伝えるという使命があります。それは単に、聖書に書かれていることを述べたり教会の教えを述べたりすることではなく、自らの人間関係のうちにあって、自らの言葉と行いを持って、主の福音をあかしすることに他なりません。
教皇フランシスコがしばしばいわれるように、パートタイムの信仰者はあり得ず、わたしたちは日曜日に教会に来るときだけキリスト者となるのではありません。常に神が宿るものとして、語り、行動することが求められています。もちろんわたしたちは完全ではないので、神の望まれる道とは異なる道を歩んでしまいます。そういったわたしたちの弱さを、神はわたしたちの内に宿る聖霊によって、忍耐強く、方向を修正するように働きかけてくださいます。弱さに負けるわたしたちを見捨てることのない神のいつくしみは、わたしたちへの聖霊の恵みでもあります。
今日の福音は、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」の言葉に象徴される、神の極端とも言える徹底的な生きる姿勢をわたしたちに教えます。人間は、どちらが善い方向であるかは分かっているものの、どうしても徹底的にそれに生きることが出来ずに、このあたりで良かろうと、十分だろうと、妥協して生きてしまいます。この程度までを達成していれば、まあよかろう。それ以上は、非現実的だ。などといって妥協するのです。現実がそうなのだから仕方がない。もう変えようがないから仕方がない。だからその程度でまあ我慢しておこう。
そんなわたしたちに、イエスは、神の求めるところは妥協ではないことを示されます。確かに神はいつくしみに満ち、憐れみ深く、怒るに遅い方ですが、同時に、それは妥協を許す姿勢ではありません。懸命に努力をしても負けてしまうわたしたちの弱さを理解される神は、負け続けるわたしたちを見捨てることはありませんが、だからといって妥協を良しとはされていないのです。なんとなく、努力をすることなく、妥協への道をひた走っているのが、わたしたちのいまの姿ではないのかと思ったりいたします。
明日の月曜午後から、司教総会が行われます。金曜日までの予定です。どうぞ総会のために集まる司教たちのためにお祈りください。
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