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2017年4月29日 (土)

新潟教区宣教司牧評議会@新潟司教館

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毎年4月29日は、新潟教区宣教司牧評議会の総会の日です。新潟司教館を会場に、第11回目となる教区宣教司牧評議会が、午前10時から午後2時半まで開催されました。秋田、山形、新発田、新潟、長岡の各地区から、地区長の司祭と信徒の評議員が二名、そして修道者の代表が二名、さらに新潟女性の会の代表が一名、それから司教総代理と事務局長で構成されていますが、今回はさらに新潟教会の青年たちから二人にオブザーバーとして参加してもらいました。

今回もわたしからの諮問事項は、「新潟教区の宣教司牧をより良くするために、何をしたら良いのか。何が必要か」という一つの点です。数年前から、単に各地区の報告を聞くのではなく、積極的に意見を交換していただくために、まずわたしが45分ほどお話をして、それに基づいてグループでの意見交換をしていただくことにしています。

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今回もまずわたしが、新潟教区の宣教司牧の優先課題についてお話しいたしました。そしてそれに基づいて、三つのグループに分かれて1時間半ほどグループディスカッション。食事を挟んで、午後からはそれぞれの発表と意見交換で、2時半には終了となりました。2時半の終了は、ちょっと早いと思われるのかもしれませんが、その一番の理由は、JR東日本の新潟から秋田へ向かう直通電車の最終が、なんと3時であるためです。しかも一日に三本しかありません。

南北に長く、秋田、山形、新潟ではそれぞれの事情異なっているので、教区全体で同じ優先課題を見いだすのは至難の業ではあります。それでもこういった意見の交換を重ねることで、全体として進むべき方向性が見えてくるのではないかと思います。

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なお現在の新潟教区の宣教司牧における優先課題は、教区100周年の際に定めた以下の三つとなっています。

A: 世代、国籍、文化の違いを乗り越え、喜びと思いやりにあふれた「私たちの教会」を育てる。
B: 教区、地区、小教区において、お互いの情報を共有し交わりを深めることで、社会における教会の役割を自覚する。
C: 継続した信仰養成を充実させ、社会の現実のうちで言葉と行いを通じて福音を証しする信仰者へと脱皮する。

参加してくださった皆さん、貴重な意見を聞かせていただきありがとうございます。これからの福音宣教の方向性を定めるために行かしていきたいと思います。なお次回2018年は、4月29日が日曜日にあたるため、その前日、4月28日の土曜日開催予定です。

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2017年4月19日 (水)

復活の主日@新潟教会

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復活祭の日曜日、新潟はやっと暖かい春の日となり、ちょうど桜も満開となりました。新潟教会の復活の主日ミサには多くの方が集まり、前晩に洗礼を受けた方々と喜びを共にしました。

ミサ中にはこの日だけ来られる方も多いことから、もう一度洗礼の約束の更新を行いました。また閉祭前には復活の卵を祝別。ミサ後には、信徒会館ホールで祝賀会を行いました。

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以下復活の主日のミサ説教の原稿です。

近頃、たまたま土曜日に予定がないときには、午前中に再放送される「こんなところに日本人」というテレビ番組を見ることがあります。世界の様々な国で生活している日本人をタレントさんが訪ねていくという企画です。いかにもテレビ番組の企画でちょっと大げさなところも感じますが、しかしわたしにとってはある意味懐かしい、かつて生活したアフリカの情景がしばしば登場することから、興味を持って拝見させていただいております。

こういった海外で生きる日本人を紹介したりする番組はいくつかあるようですが、時に「だから日本人はすごい」などと、何か自画自賛の内容となってしまうこともあり、そんなときはちょっと内向きな印象を受けることもあります。しかし同時に、番組のホームページに「世界にはまだわたしたち日本人が知らないような、小さな町や村があり、日本で暮らしていては想像も出来ないような暮らしを送る日本人がいます」と記されているように、見知らぬ国や人々に興味を持つことはとても重要で、それこそ内向きな態度を打破し、わたしたちの意識を外へ向かわせるという意味で、重要なきっかけとなる番組でもあると思います。

わたしたちは、神のもとで同じいのちを生きる兄弟姉妹として、一つの共同体に生きているなどと申しますが、その兄弟姉妹の現実を知らなければ、「共に生きる」はかけ声倒れに終わることでしょう。その視点からは、こういった番組が様々な国の様々な人々の現実を伝えてくれることには意味があり、重要であると思います。

ただ、はたしてこういった番組が、本当に外へと足を踏み出し、未知なる人々と交わりを持とうとする原動力となっているのかどうかが気になります。たしかに実際に冒険をしてみようという人が、いないことはないのでしょうが、そういった実際に海外へ出かけるのかどうかということではなく、心持ちの問題として、内向きではなく外へ向かって開かれた心を持つ人の増加に果たしてうまくつながっているのだろうかが気になります。

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教皇フランシスコが就任直後に訪れたランペドゥーザ島でのミサの説教でいわれた言葉を思い出します。
「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった」

何となく、自分の部屋の居心地の良いところに座り込み、テレビで海外の人々の生活を眺めながら、何かそれで異なる世界のことを知ったような気分に浸ってしまったのでは、ちょうどこの教皇様の指摘のような有り様ではないのかと思ってしまいます。

良く知っているように、テレビの画面で展開される物語は、現実の一側面を切り取った断片に過ぎません。それをきっかけに実際に現地へ赴けば、そこにはまったく異なった現実があることも、わたしたちは良く知っています。

教皇様の説教は、こう続きます。
 「これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている」

よく知っているようで、思いの外その知識は限定されている。関心を抱いているつもりで、その関心は、シャボン玉を突き破るだけの力はない。わたしたちには、シャボン玉を突き破り、外に向かって歩み出す姿勢が求められているのではないでしょうか。

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本日の第一朗読で、復活の主にすでに出会ったペトロは、イエスが十字架につけられた日に恐れをなして隠れようとし、またイエスを三度知らないと裏切ってしまったあの夜の態度とは打って変わり、力強くイエスについて語っています。それは知識を教えているような姿ではなく、どうしても語らずにはいられないという姿です。すなわち、それほど多くの人に伝えたくて仕方がない話がある。自分には分かち合いたい宝のような話がある。そういうペトロの熱意が伝わってくるような姿です。

実際わたしたちキリスト者には、伝えても伝えきれないほどの宝のような話が、たくさんあるのではないでしょうか。その宝を伝えたくて伝えたくて仕方がない思いに駆られて、多くの宣教者が歴史の中で迫害をもいとわず、苦難を乗り越えて、世界中へ出かけていきました。日本の教会は、そういった福音宣教者たちによって育てられてきました。いま現在でも、世界の至る所へ出かけていって、その宝物の話を分かち合おうとする人は多く存在し、日本の教会はそういった宣教者によって支えられています。

わたしたちはそういった福音宣教者の存在を、どのように見ているのでしょうか。あのテレビ番組を眺めているように、テレビの画面の向こうにいる、何か特別なストーリーを持った特別な存在であって、「すごい人もいるもんだなあ」などと傍観しているだけでしょうか。

あらためて言うまでもなく、わたしたち一人ひとりも、そういった福音宣教者になるようにと召されているのです。司祭や修道者だけの話ではありません。それは、イエスをキリストと信じ、神の名において洗礼を受けたすべての人は、福音宣教者として召されています。
 わたしたちには、語っても語り尽くせぬ宝のような話がたくさんあるはずです。わたしたちが語るようにと召されているのは、知識を教えることではありません。わたしたち一人ひとりが、主との出会いの中で感じたことを、生きる中で分かち合っていくことです。

わたしたちの持っている宝とはどんなものでしょう。例えば、限りのない神のいつくしみと愛。徹底的に奉仕する心。他者を自分のように助けようとする心。支え合う存在としての人間の尊厳。ベネディクト16世の言葉を借りれば、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。」賜物であるいのちの尊厳。神の秩序の完全な回復。聖母が示す、神に対する徹底的な従順の生き方。聖人たちの模範。そして、放蕩息子を迎える父のように、わたしたちを包み込んでくださる、神の深いゆるし。挙げはじめたらきりがありません。わたしたちには、伝えていかなければならない宝は、本当にたくさんあります。

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ただ考えなくてはならないのは、伝えるためにはまず知らなくてはならないことでしょう。まず教会共同体の中で、わたしたち自身がそれを学び体験しなくてはなりません。信仰は一人では深まりません。わたしたちの信仰は、人間関係の中で深められていきます。そのためにも何よりもまず、教会共同体こそがこういった宝を実践する場でなくてはなりません。そこで学び体験した宝を、わたしたちが大切にしている宝の話として、今度は教会共同体から外へと派遣されて、多くの人に伝えていくのです。

誰かすごい人がそうしてくれるのを傍観しているのではなく、わたしたち自身が勇気を持って一歩踏み出し、主との出会いの宝の話を多くの人に分かち合っていきましょう。シャボン玉を突き破って、一歩踏み出しましょう。復活された主ご自身が、わたしたち一人ひとりといつも一緒にいてくださり、勇気を与えてくださいますように。

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2017年4月17日 (月)

御復活ミサの写真から@新潟教会

今年の聖週間は、新潟教会での司教ミサの写真を撮影する方が所用で不在であったため、写真の掲載がありませんでした。ただ週末にあたる復活徹夜祭と主日は他に撮影する方がおられるので、その中から数枚を掲載します。

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2017年4月15日 (土)

復活徹夜祭@新潟教会

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御復活おめでとうございます。

新潟教会の復活徹夜祭は、普段の日曜日よりも多くの方が参加してくださいました。ミサの中で9名の方が洗礼と堅信を受けられました。おめでとうございます。

わたしは主任司祭に代わり、何年ぶりかで復活讃歌を歌いました。ガーナで主任司祭をしていた頃は英語の式文で歌っていたので、日本語の復活讃歌を歌ったのは、助祭時代以来の32年ぶりでした。

以下、本日の説教の原稿です。(上の写真は今夜のカテドラルを後ろから。なおミサの写真は後日)

今宵わたしたちが祝っている主イエスの復活は、わたしたちの信仰の核心部分にある出来事です。主イエスの復活がなければ、わたしたちの信仰はそもそもあり得ない。主イエスが死を打ち破り新しいいのちへと復活しなかったのであれば、わたしたちが信じていることはすべてむなしい。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にも与るのだと強調されています。

すなわち御復活のお祝いとは、信仰の核心である主の復活という出来事を喜び祝うだけではなく、あらためて、キリストにおいてあたらしいいのちに生きるものとして、その死と復活にも与ろうとすることでもあります。あらためて与ろうとするのであれば、わたしたちはその死と復活とは、一体何を意味しているのかを知らなくてはなりません。

復活を祝うわたしたちは、旧約聖書における出エジプトの出来事を記した聖書の言葉を聞きました。イスラエルの民のエジプトにおける奴隷の状態からの解放は、いまの生活の現実を完全に離れ、具体的にそして物理的に体を使って移動し、新たな地へ向かって移っていくことによって実現しました。古い生き方からまったく異なる新しい生き方への移り変わり、すなわち「過ぎこし」によって解放は実現していきました。しかしその「過ぎこし」による解放は一瞬にして成し遂げられたのではなく、エジプトの地を離れ海を渡ることも、その後の40年の荒れ野の日々も、苦難の連続を通して達成されました。

主イエスは、すさまじい苦しみを体験された後にこの世におけるいのちを終えられ、死の力を打ち破って、新しいいのちへと移られました。新しい過ぎこしであります。福音は、復活された主がその場にとどまらず、ガリラヤへ物理的に移動されると弟子たちに告げたことを記しています。そしてそれは、弟子たちにとっては安住の道ではなく、福音宣教のうちに生命を賭していく苦難の道の始まりでもありました。

主の死と復活に与るわたしたちに求められているのは、安住の地にとどまることではなく、新たな挑戦へと立ち向かっていくこと、そして苦難の中に主への揺らぎない信仰を持ちながら立ち向かって歩み続けることであります。

わたしたちはつい先日、ユスト高山右近の列福を祝いました。それ以前には、188殉教者の同志として、ルイス甘粕右衛門を始めとする53名の福者殉教者を教区にいただきました。迫害の時代を生き抜いた福者殉教者たちは、まさしく初代教会の使徒たちのように、肉体的な苦しみを耐え忍びながら、その人生を賭して新しいいのちに生きる道を追い求め、また多くの人にそれをあかししていきました。

21世紀の日本に生きるわたしたちには、同じような肉体的迫害は存在していませんが、残念なことに世界の各地には、未だ宗教を理由にして生命の危険にさらされる地域が存在しています。また宗教を口実にして人間のいのちを暴力的に奪い取る行為すら頻発しています。どのような宗教であれ、人間のいのちというすべての存在の根本をないがしろにして良いと教えることは、あってはならないことであると思います。いま現在そういった状況にあって命の危機にさらされている多くの人、特にシリアの混乱状況の中で暴力にさらされている多くの方々のために祈りたいと思います。いのちを危険にさらす武力の行使が、国際社会の問題解決のために利用されることは、正しいことではないと思います。

そして日本においても、信仰を保ち続けるには挑戦的な厳しい状況が、異なる形で存在します。それはわたしたちを信仰において内にこもらせてしまう、心への攻撃です。

ご存じのように教皇様はその就任以来わたしたちに、何者も排除されてはならないことや、神のいつくしみをすべての人にもたらすことを強調されています。それは、キリスト者が本来的に優しい人だからなどという理由ではないと私は思っています。確かに皆が優しくあることは素晴らしい。しかし教皇様の考えの根本には、まさしく現代社会にあって、そういった神における価値観を優先して生きることが困難になっている現実があり、その現実はわたしたちの心への攻撃となっているという考えがあります。肉体的な攻撃以上に、心への攻撃は強力な負の力を持っています。面倒に巻き込まれないためには、単に口を閉ざして周りに合わせ、静かにしていれば良いと、わたしたちを消極的にするからです。

いつくしみ深くあることだとか、すべての人を排除しないなどということは、現代社会にあって、何をナイーブで愚かなことを言っているのだという嘲笑にさらされる価値観や行動ではないかと感じることがあります。クリスチャンは夢見る理想主義者だと非難されるよりは、黙っている方が無難だと、わたしたちに思わせる。すさまじい負の力を持っています。

でもそういうわたしたちに、復活された主は、困難に立ち向かって行動するように求めているのです。新しい過ぎこしを生きるようにと呼びかけておられるのです。神の目において善いことを、積極的に生きるようにと呼びかけておられます。

今宵暗闇の中で輝くロウソクは、復活された主が暗闇に住むすべての人にとっての希望の光であることを象徴しています。わたしたちは今日、その輝くロウソクから自分のロウソクに火をいただきました。それはわたしたちも同じように、暗闇の中でその光を輝かせるという使命を受け継いだ象徴です。受け継いだ使命を、勇気を持って果たしましょう。

復活された主に、暗闇の中で光を輝かせる勇気を願いましょう。復活された主に、信仰における勇気を願いましょう。復活された主に、その死と復活に与り、新たな一歩を踏み出す、信仰における力を願いましょう。復活された主に、神の福音の光を照らし続ける忍耐の力を願いましょう。復活された主に、神のいつくしみを一人でも多くの人に分けていく思いやりの心を願いましょう。

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2017年4月14日 (金)

主の晩餐@新潟教会

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主の復活はわたしたちの信仰のもっとも核心部分にあることがらですから、その意味で教会の典礼の頂点ともいうべき聖なる三日間が始まりました。

新潟教会では午後7時から、主の晩餐のミサが行われ、ミサの中では洗足式も行われました。ミサの終わりには御聖体が小聖堂に安置され、その後9時過ぎまで聖体礼拝も行われました。

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平日の夜の典礼ということで、この数年どうしても参加する人が減少傾向にあります。わたしたちの信仰生活の中心にある典礼ですので、どうぞ、できる限り足を運んでくださいますように。今日、聖金曜日には主イエスが十字架上で亡くなられ葬られたことを黙想し祈る主の受難の典礼が、同じく夜7時から行われます。また主イエスが十字架につけられた時刻を思い起こしながら、午後3時からは同じく新潟教会で、十字架の道行きが行われます。

以下昨晩、主の晩餐ミサの説教の原稿です。(諸般の事情からミサ中の写真はありません)

わたしたちが暮らしているこの国は、一体どんな国でしょうか。それぞれの立場から、様々な評価があろうかとは思います。経済にしろ環境にしろ、近隣諸国との関係にしろ、大震災からの復興や原発事故などにしろ、そこには指摘すれば切りがないほどの様々な問題が存在することであろうと思います。しかしながら同時に、多くの人が、ある程度の生活の満足の中で、それほど悪い社会ではないと思いながら、毎日の生活を営んでいるのではないでしょうか。

わたしたちキリスト者の信仰の立場からこの国の現実を見つめてみると、やはりそこにあるのは、神の目における完成からはほど遠い現実であります。神が一人ひとりのいのちに託した使命が十分に実現する社会を生み出しているのかどうか。神が天地創造の一番最初に望まれた神の完全な秩序に近づいているのかどうか。そう考えてみると、神の国の実現という視点からは、まだまだわたしたちには改めていかなければ課題が多い。そう感じさせられます。私たちはキリスト者として福音に生き、それをあかしするというのならば、どのような社会をこの国において実現させようとしているのか、常に思いを巡らせなければならないと考えます。

日本の司教団は先日、2001年に発表したメッセージ「いのちへのまなざし」を増補改訂し、人間のいのちの営みに関する新たな司教団メッセージを発表いたしました。2001年の「いのちへのまなざし」は、21世紀という新しい時代の幕開けにあたり、信仰の立場から最も大切な問題、すなわち私たちのいのちに関わる問題について、教会内部だけでなく、広く一般の方々に呼びかけるメッセージでした。その冒頭にはこう記されています。

「神がおつくりになり、その御ひとり子をお与えになるほど愛された人間の尊いいのちとその一回限りの人生が、不幸な状況の中に生きているということ、それを抜け出すためにどうして良いか分からないままでいること、ここに、わたしたちカトリック教会の司教団が、いのちと人生についてのメッセージを世に送ろうと決意した理由があります」

時の流れは速いものでそれからすでに16年がたち、社会の状況は大きく変化しました。世界的にいのちに関わる科学も一段の進歩を見せ、生命倫理の立場からも新しい課題が指摘されるようになりました。人間関係や性に関する社会の常識にも大きな変化が見られ、教会としての考え方を明らかにする必要も出てきました。とりわけ教皇フランシスコが、誰一人として排除されて良いはずがないと強調されていることや、教会が異質な存在を排除する共同体であってはいけないと強調されている姿勢は、わたしたちの生き方にも大きな影響を与えています。また私たちにとっては、2011年3月11日の大震災と津波、その後の原発事故が、改めて人間のいのちの持つ意味について考えさせる契機となりました。

教会は社会に存在する神の民として、神が望まれる完全な秩序の実現と現実を常に比較しながら、現実の世界に対して神の望みに一歩でも近づくようにと、様々な警告を発してきました。それは政治や経済や軍事など、いわゆる正義と平和の課題を中心にしてはいますが、それ以外にも貧困や孤立の問題などにも積極的に発言しまた行動してきました。様々なレベルや分野において人間が十分に生かされ尊重されていなければならないという視点から、教皇フランシスコはそういった教会の立場は、総合的な人間開発を目指しているものだとしばしばのべられています。

神が最初に私たちを創造し、この世界を生み出されたときの、完全な秩序は失われています。その完全な秩序を取り戻すことが、平和の実現であると、これまでも幾たびも申し上げて参りました。ですからこの神の秩序を乱そうとする人間の営みに対しては、それを正すための声を教会は上げないわけにはいきません。この国をどのような国にしたいのか、思想信条や価値観の異なる立場から様々な考えがあることでしょう。私たち信仰者には、神における信仰の立場から、神の望まれる秩序の実現という視点でそれを語っていく義務があります。

さて「いのちへのまなざし」を改訂し改めて多くの人に呼びかけようと司教団が考えたのは、そういった神の秩序の根本にあるのは、人間にたまものとして与えられたいのちがあると信じるからに他なりません。人間の人生の営みに関連して様々な問題がありますが、その根本にはいのちの問題があります。というよりも、いのちがなければ、そもそもこの社会自体が成り立たない。すべての根本は、結局このいのちをどのように考えるのかにかかっております。

そうしたとき、私たちが生きている社会の現実はどうなのか。たとえば昨年7月の相模原での障害者殺害事件にあるような、直接的にいのちの尊厳をないがしろにするような衝撃的な事件もあります。戦争や核兵器の問題にしても、経済の不公平さや格差と排除の問題にしても、結局は人間のいのちをどのように考えるかという点にその議論の基礎をおいていなければ、人間不在のむなしい議論となってしまいます。

教会は、今の時代にあって、神がたまものとして与えられたこのいのちを尊重し守り抜くのだという価値観が、社会の中心から排除されていることを危惧をしています。このままでは、神の秩序の完成という理想から、私たちの社会は徐々に遠のいてしまうと危惧しています。様々な暴力にさらされるいのちが増え続けている世界では、いのちの価値が徐々に軽くなってしまうと危惧しています。

神の望まれる社会のあり方は、まさしくイエスが最後の瞬間まで弟子たちを通じて私たちに伝えようとした事柄です。それは旧約における「過越し」の出来事に象徴されるように、イエスにおいて新しいいのちへと、新しい生き方へと、今の古い自分から新しい自分へと変えられていくこと、つまり過ぎ越していくことの重要性です。

最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗った主は、まさしく価値観の完全な転換を弟子たちの心に刻みつけました。この世が良しとして優先させる価値観ではなく、それと全く逆なところに、神が求める生き方があるのだということを、イエスは自らの行動を持って弟子たちの心に刻み込まれました。一番偉いはずの先生が、師が、自ら弟子の足を洗うという衝撃的で逆説的な行動をとることで、弟子たちの心に刻みつけました。

また自らの体と血を、すなわち御自身の存在すべてを、パンと葡萄酒の秘跡のうちに私たちに与えられました。自らのすべてを与えつくして他者をささえ、自らのいのちを持って他者を生かそうとするような生き方は、現代社会の中心にある生き方とは異なるものであると感じます。

そして主は、「このパンを食べ、この杯を飲むたびごとに」、その神の生き方を告げ知らせるようにと私たちに託しておられます。

聖木曜日の今宵、私たちは現代社会にあって、この主から託された使命にどのように応えていくのでしょう。改めて考えてみたいと思います。ミサに与り、聖体の秘蹟に与るたびごとに、私たちは、あの晩の主の教えを改めて心に刻み、イエスご自身が行動で示されたように、その生き方を、教えを証しするために遣わされるのだということを、心にしっかりと刻み込みたいと思います。
                                                   

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2017年4月12日 (水)

2017年聖香油ミサ@新潟教会

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新潟教区の今年の聖香油ミサは、本日水曜日の午前10時から、新潟教会で行われました。教区で働く司祭団は教区司祭と修道会司祭を会わせて30数名おりますが、今日のミサには22名が参加。また平日の昼間でしたが、多くの信徒の方も参加してくださいました。

ミサの中では、説教の後に司祭団が自らの叙階の日を思い起こしながら、叙階の誓いを新たにし、またミサ中に秘跡の執行に不可欠な三つの聖なる油が祝福されました。(写真は上がミサ前の三つの油。下がミサ終了後に、各小教区などのために聖なる油を小分けにしているところ)

なお新潟教会では、明日の聖木曜日は主の晩餐のミサが夕方の午後7時から、聖金曜日の主の受難の典礼が同じく午後7時から、さらに土曜日の復活徹夜祭も午後7時からとなっています。信徒ではない方々も、カトリック教会の重要な祈りの時ですので、どうぞおいでください。木曜と金曜はそれぞれ1時間ほど、土曜日夜は2時間ほどの祈りの儀式です。

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以下、本日の聖香油ミサの説教の原稿です。(諸般の事情からミサの写真はありません)

近頃は、真実はいったいどこにあるのだろうかと考えさせられる出来事が巷には溢れていると感じます。例えば卑近なところでは、大阪における小学校設立に関わる一連の出来事にあっても、毎日報道されてきた内容を見たり聞いたりすればするほど、真実はいったいどこにあるのか、誰が本当のことを言っているのか、という思いが深まりました。また米国の新大統領就任式をきっかけに、「代替的事実(オルタナティブ・ファクト)」などという言葉が、注目を浴びる時代でもあります。

事実は事実として一つしかあり得ないのですが、どの立場からその事実を見るのかによって理解が異なるということはたしかに否定出来ないのかもしれません。しかしながら「代替的事実」などという言葉が当たり前になってしまったのでは、結局のところ、何を言ってもゆるされる、ということが普通になってしまう可能性があります。語られる言葉への評価は、極論すれば自分が好きか嫌いか、肌に合うか合わないのかなどという、個々人の主観的で感覚的な判断にゆだねられてしまうことになります。そしてそういった主観的で感覚的な判断は、非常に自己中心的で利己的になりがちです。

そんな時代の風潮の中では、唯一の真理を語り追求するなどということは、ますますもって難しくなってしまうと感じています。わたしたちの信仰は、イエスの時から始まっていまに至るまで、常に神の真理を語り追求するものです。わたしたちが信仰において語る真理は、個々人が感覚的に受け入れられるのかどうかだとか、肌に合うのか合わないのかなどという、非常に自己中心的で利己的な価値判断の前で、いまや翻弄されています。

教皇様は四旬節のはじめに発表された今年のメッセージで、「ラザロと金持ち」の話を取り上げ、その中で、金持ちの問題点を次のように指摘されています。
 「彼の悪の根源は、『みことばに耳を傾けないこと』です」

その上で教皇様は、みことばに耳を傾けない金持ちは、「神を愛さなくなり、隣人を軽蔑するようになりました。みことばは人々の心を回心させ、再び神に立ち返らせることのできる、生き生きとした力です。みことばというたまものに心を閉ざせば、兄弟姉妹というたまものにも心を閉ざしてしまいます」と指摘されています。今の時代を生きているわたしたちは、生きていくために何に耳を傾けているのでしょうか。

世界全体の視点で見るとき、わたしたちは互いに恐れ、憎しみあい、対立を深める方向に歩んでいるように感じます。具体的に対立する勢力の相互不信感が武力紛争に発展している地域では、例えばシリアで起こっている紛争状態のように、幼い子どもたちを始めとした一般の市民が巻き込まれ、暴力的に生命を奪われる事件が頻発しています。さらには住む家を追われて難民として各地をさまよう人々も大勢おられます。加えてテロへの恐怖は、互いの疑心暗鬼を生み出し、その疑心暗鬼から生まれる感情は、互いに助け合うことよりも、異質な存在を排除する不信という深い闇を生み出しています。

わたしたちの国でも状況はそれほど異ならず、近隣の国々との相互不信は深まりつつあり、異なる人々を排除するような暴力的な言動も目につくようになりました。わたしたちは、「みことばというたまものに心を閉ざせば、兄弟姉妹というたまものにも心を閉ざしてしまいます」という教皇様の指摘通りの道を歩んでいるといえるのではないでしょうか。

互いに協力し助け合うことが良しとされない社会は、神から離れた世界であると思います。そして現代社会は、まさしく神から離れ、人間を中心に生きようとしている、神の目にとって非常に傲慢な人間たちによって造り出された世界です。

もちろんそのような社会の現実を前にして、わたしたちキリスト者は、「仕方がない」とつぶやいているわけにはいきません。なぜならば、わたしたちの使命は、徹頭徹尾、福音に生き福音をあかしして、それを告げ知らせることだからです。神のみことばに耳を傾けない世界の直中で、そのみことばに生き、語り続けることがわたしたちの使命だからです。

社会の様々な問題や政治の課題に声を上げることも大切です。そこには往々にして、正義をないがしろにし、弱い立場の人を虐げるような現実が横たわっているからです。キリスト者が、弱い立場にある人々のために声を上げないならば、その存在意義はありません。

しかし同時に、わたしたちは、神のみことばをもっと具体的にあかしする努力もしなければなりません。誰かが神のみことばに耳を傾けるためには、それこそ誰かがそれを告げ知らせなくては、何も始まらないからです。

今年の3月5日、四旬節第一主日のお告げの祈りで教皇様は、「わたしたちのことばは役に立ちませんが、みことばには悪魔を打ち破る力があります。したがって、聖書に親しむことが重要です」と語りかけられました。わたしたちがみことばをより良く告げることが出来るためには、聖書に親しむことが不可欠です。

その上で教皇様はこう続けられました。「『携帯電話のように聖書を扱ったらどうでしょう』。『聖書をいつも持ち運び、少なくともポケット版の福音書をいつも持っていたらどうでしょう』。携帯を忘れたら『あっ、忘れた』と言ってすぐに戻りますが、聖書を忘れてもすぐに引き返すでしょうか」。

わたしたちは、この社会に福音を告げ知らせるものとして、さらにいっそう、神のみことばに親しむ者となるよう努めたいと思います。耳を傾けてくれる人がほんのわずかであっても、語る言葉を嘲笑されたとしても、くじけることなく、イエスの福音を語り、そのあかしを続けていきたいと思います。社会の波に流されることなく、常に神における唯一の真理を見極めていたいと思います。

さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない新潟教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。また司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司教と共にこのミサの中で祝福いたします。加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、司教の招きに続いて沈黙の内にその決意を新たにいたします。

一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こし、初心に立ち返ることによって、主イエスから与えられた使命の根本を再確認するのです。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、祈ってくださるよう、お願いいたします。

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2017年4月 9日 (日)

聖週間が始まりました@新潟教会

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本日は受難の主日(枝の主日)です。聖週間が始まりました。

新潟市内は朝は小雨模様でしたが、ミサの始まる9時半頃には雨も上がり、肌寒い曇り空ではありましたが、センター(信徒会館)から聖堂まで、外を行列することが出来ました。

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ミサはまずいつものようにセンター(信徒会館)一階で始まり、枝の祝福とエルサレム入場の福音朗読。その後、侍者団や司式のわたしと共同司式の主任司祭ラウル神父を先頭に、短い距離でしたが、外を聖堂まで行列しました。

なお聖週間中の水曜日、午前10時からは、秘跡の執行に不可欠な聖なる油を祝別する「聖香油ミサ」が新潟教会で行われます。教区内で働く多くの司祭も共同司式に加わり、叙階の日の誓いを新たにします。このミサにはどなたにでも参加しただけますので、平日の午前中ですが、どうぞおいでください。

聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭はそれぞれの日の午後7時から。また復活の主日のミサはいつもの通り午前9時半から行われます。また土曜日夜7時からの復活徹夜祭では洗礼式が行われます。

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以下、本日のミサでの説教の原稿です。

同じ出来事を目の当たりにしていても、また目撃するだけではなく、同じ出来事を体験していたとしても、そこに10人の人がいれば、10通りの物語が語られることは確かであると思います。人間の記憶は機械的な記録装置ではないので、目の前に展開する出来事を、そのまま完全に記録するわけではない。わたしたちの記憶は、わたしたちの主観というフィルターを通して加工された情報のみが、残されていくものです。ですから、そのフィルターが異なっていれば、当然残される情報も同じではなく、そうするとそこには異なる幾通りもの物語が存在する余地があるのかもしれません。

わたしたちが生きている現代社会は、溢れんばかりに大量の情報が、わたしたちを取り囲んでいるような世界です。至極当然のことですが、ありとあらゆる情報が飛び交っていたとしても、その大半は自分自身で実際に体験したことのない、伝聞情報に過ぎません。

実際に目前で展開する事実を目の当たりにしてさえ、わたしたちが記憶に残していく情報は一人ひとり皆異なっているのです。そうであるとしたら、自分自身が体験することのない伝聞情報は、目で見たり肌で感じたりすることのない分、わたしたちの感情というフィルターを通じて簡単に加工されてしまいます。

どこかで耳にした噂話が、何人かの人の口を通過していくごとに様々に変化して、実際に起こったこととは異なる物語になっているなどということは、珍しいことではありません。主観と感情といったフィルターによって加工され、大きく変化してしまった情報は、時に人間の生命をさえ奪ってしまう負の力を生み出します。とりわけ実際に体験してはいない出来事に関する噂話、実際に出会ったことがない人物に関する噂話といった、噂の持つマイナスの力には恐ろしいものがあると思います。

この4月6日で23年になりましたが、アフリカのルワンダで発生した虐殺事件も、そこには国際政治の複雑で様々な要因や歴史的背景もある中で、一番大きな影響力を持っていたといわれているのはラジオなどを通じて流された噂話の類いでした。この時、噂話の持つ負の力は、まず殺さなければ自分が殺されるという実際には根拠の乏しい恐怖心を、多くの人の心の中に生み出しました。根拠が乏しい恐怖心であったのに、自分自身がその事実を確認する術を持たないために、不安はますます拡大し、結局その噂に基づいた不安は、他者の生命を奪うという究極の負の力を発揮したのです。

もともとが根拠のはっきりとしない噂です。根拠はないし自分が体験したわけでもない。まして確かめたわけでもない。しかしみんながそう言っているから、何となく不安が増す。そんな漠然とした不安に、噂話は強烈な力を発揮しました。

根拠のはっきりとしない噂話は、極端な反応を生み出すものなのだと思います。それが今日朗読された二つの福音に登場する人々の姿に、如実に現されています。

Palm1706
あの日イエスを十字架上での死に追いやったのは、噂話の持つ負の力に突き動かされた多くの人々でした。でもその人々とは、直前まではイエスを賛美して熱狂のうちに迎え入れた同じ人々です。今日朗読された二つの福音に登場する人々、すなわち、イエスの入場を賛美して熱狂する人々と、イエスを十字架につけよと叫ぶ人々は、当然ですが同じエルサレムの人々です。もしかしたらまったく同じ人物たちかもしれない。

実際には自分が体験したこともない出来事であるにもかかわらず、漠然とした不安にとりつかれている人々は、強烈な力を持った噂話に飛びつき、両極端の反応を見せてしまったのです。大きな期待を持って賛美したがために、自分たちの期待とは違う存在がイエスの実際であると知り、今度はまったく反対の極端へと走ってしまったのです。

受難の朗読には、十字架に架けられたイエスを前にして、祭司長や律法学者たちがこうののしったと記されています。
 「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」

十字架に架けられている神の御子という事実を目の当たりにしながら、この人たちは見事に自分はどのようなフィルターで神を見ているのかを白状してしまいます。これがわたしが神を信じてやる条件だ。この条件に合わなければおまえは信じるに値しない、神ではない。それはつまり、おまえが神かどうかは、わたしの決めることだ、といっているのと同じです。落ち着いて考えてみれば、神様を目の前にしてなんと傲慢な言葉を彼らは語っていることでしょうか。

さてそれでは、この情報の満ちあふれた現代社会に生きているわたしたちはどうなのでしょう。もしかしたらわたしたちも、同じように神に対して、身勝手な自分の条件を突きつけていないでしょうか。こういう神だったら信じてやるとか、これをかなえてくれたら信じてやろうとか、神に対して傲慢な言葉を投げつけてはいないでしょうか。

わたしたちを見捨てることのないいつくしみに満ちた神は、あふれかえる情報の洪水の中で、あの日ピラトの前に黙したように、静かにたたずんで、わたしたちが自分のフィルターを手放すことを待っておられます。代わりに、神ご自身のフィルターを手にするようにと求められています。

それではその神のフィルターは、いったいどこにあるのでしょう。この世界にあふれかえる情報の中には、そのヒントはありません。神のフィルターは、わたしたちに向かって静寂のうちに語りかけ、時代の波に流されることのない、常に変わらぬ神の御言葉のうちにしか存在しません。

イザヤの預言にこう記されていました。
 「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」
溢れる情報に翻弄されて疲れ切ったわたしたちの心に、神の励ましは、その言葉を通じて与えられます。あふれかえる情報に翻弄されて、不安に駆られたり、熱狂のうちに踊らされたり、身勝手なフィルターで人間に都合の良い物語を生み出していったりするわたしたちに、神は静かに黙しながら、その御言葉を持って真実を語りかけられます。キリストの受難と死、そして復活を黙想するこの聖週間。心落ち着けて、神のことばに耳を傾ける道を選びましょう。

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2017年4月 5日 (水)

「人間開発のための部署」初会合@ローマ

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教皇フランシスコが新しく設立された部署がバチカンには二つあります。一つは翻訳が仮称ですが、「信徒・家庭・いのちの部署」で、もう一つが「人間開発のための部署」。後者の初めての会合が、このたびローマで開催されたので、参加してきました。

今回の会合に呼ばれたのは、わたしがもともと「人間開発の部署」に統合された部門の一つである「開発援助促進評議会(Cor Unum)のメンバーだったからです。

「人間開発のための部署」は英語名称が「Dicastery for Promoting Integral Human Development」といいますので、どちらかというと「総合的人間開発促進局」とでも言うのだろうと思います。ただこれまではバチカンの役所の一般的呼称として用いられてきた「dicastery」が固有の名称となり、これをどう訳すのかが定まっていません。

さてこの部署は、今年の1月1日に、「正義と平和評議会」「開発援助促進評議会」「移住・移動者司牧評議会」および「保健従事者評議会」が統合されて設置されました。責任者はこれまで正義と平和の責任者であったピーター・タクソン枢機卿です。

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それぞれの評議会に事務局があり、またメンバーや顧問が任命されていたので、それを一つにして再編成する作業が進められています。教皇様からは復活祭をめどに、事務局組織の再編にめどをつけるようにと言われている模様です。そこで今回は、パウロ6世の社会教説として重要な意味を持つ「ポプロールム・プログレッシオ(諸国民の進歩)」発表50年を記念した会議を開催し、そこにメンバーや顧問を集めて、今後の道筋を明確にすることになったようです。

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会議の会場はシノドスホール。62カ国からの参加者があり、会場はいっぱいでしたから300人以上はいたのではないでしょうか。初日には各国の駐バチカン大使も招待され、日本政府の中村大使もおいででした。

日本からは、開発援助促進評議会のメンバーである私と、正義と平和評議会顧問の保岡孝顕先生の二人が参加。日本語つながりではルクセンブルグのオロリッシュ大司教も一緒でした。

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会議自体は、午前9時から午後7時まで、様々な専門家による講演と、実際の体験の分かち合いの二日間でした。特筆すべきは二日目の午前中、教皇様が会場においでになり、講演をしてくださったことでしょう。教皇様はパウロ6世の文書に記された「総合的人間開発」という言葉にたびたび触れ、「総合的または統合(integral)」という用語がご自分にとってとても重要な意味があるのだと強調されました。(講演の英語版はこちらのリンク

その上で、「地上のすべての人々の統合」、「社会の統合の可能なモデルの提供」、「社会を形成している様々なレベルでの統合」、「個々人の社会との統合」、「体と魂の統合」というそれぞれの側面が重要だと指摘されました。

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教皇様はこの日の講演の後、同じ建物の中で英国のチャールズ皇太子夫妻と面談されたそうです。道理で会場周辺の警備の厳しかったこと。

なお一日目の会議の昼前には、パロリン国務長官の司式で、聖ペトロ大聖堂の教皇祭壇の裏側でミサが行われ、ミサ後に司式の枢機卿、司教、司祭で地下に降り、福者パウロ6世の墓前で祈りを捧げました。

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また会議一日目の夜には、これまで20年にわたってカリタスの中東地域コーディネーターを務めてきたロゼッタさんが引退するに当たり、シルベスター騎士賞が贈られることになり、旧開発援助促進評議会事務局で、国際カリタス関係者も参加して、タクソン枢機卿からメダルが授与されました。

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