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2018年3月30日 (金)

主の晩餐@聖木曜日

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復活祭を前にした聖なる三日間となりました。聖木曜日の主の晩餐のミサを前にして、聖香油ミサが行われました。

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新潟教区の聖香油ミサは水曜日の午前10時から新潟教会で。東京教区は木曜日の午前10時半から関口教会で、それぞれ行われました。新潟教区は、遠いところでは車での移動は6から7時間、本数の限りなく少ない電車は乗り継いで5時間半という秋田県の北部にも教会がいくつかありますので、さすがに聖木曜日に集まるのは不可能です。毎年この時期に、火曜日には司祭評議会を行い、そのまま宿泊していただいて翌水曜日に聖香油ミサをしてきました。

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聖香油ミサでは、秘跡の執行に必要な油、洗礼志願者の油、病者の油、そして聖香油の三つが祝福されます。さらにミサ中には、その教区で働く司祭団が、叙階式の誓いを思い起こしながら初心に立ち返り、その誓いを新たにいたします。

さすが東京と新潟では、信徒の数も司祭の数も規模が違います。油の量も、かなり異なっておりました。(写真:上三枚は東京、下は新潟)

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聖木曜日の主の晩餐は、やはり東京カテドラルの関口教会でミサを捧げました。ミサは関口教会と韓人教会の合同で行われ、聖堂はいっぱいとなりました。説教の後の洗足式は男性も女性もいて12名。近頃、床に膝をつくと激痛が走るようになってきたので、今回は膝パッドを手に入れ、万全の体制で臨みました。

ミサ後には御聖体を、カテドラルの左側にあるマリア祭壇に安置。しばらく聖体礼拝のひとときがもたれました。

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今日、聖金曜日と明日の復活徹夜祭。関口教会はともに私の司式で、午後7時からです。

以下、昨日の主の晩餐のミサの説教の原稿です。(写真は聖香油ミサです)

この聖堂は、毎日多くの方が訪れます。観光で立ち寄られる国内外の方々。数日前にもありましたが、コンサートのために訪れる方々。結婚式で訪れる方も少なくありません。また有名な建築家の作品であることから、建築を学んでおられる方なども訪問されます。聖堂の中に足を踏み入れる人の数で言ったなら、日本有数の訪問者を誇る聖堂の一つであろうと思います。新潟のカテドラルも、1927年献堂の90年を超える歴史のある建物ですから、新潟の観光案内などには掲載されていますので、それなりに観光で訪れる方もおられますが、この関口の聖堂には適いません。

毎日のようにそれほど多くの方が訪れるこの聖堂。訪れてくださる方々の、特にキリスト者ではない方々の心には、いったい何が残されるのでしょうか。素晴らしい建築だ。聖なる雰囲気だ。圧倒された、などなど、様々な感想があるのだと思います。

この聖堂は、単なる礼拝の場所にとどまるのではなく、はたまた素晴らしい建築作品であるだけではなく、さらには荘厳な雰囲気の場所であるだけではなく、ここにあるキリスト者の信仰共同体を象徴する共同体の目に見える体であります。教会はただ冷たく物質的に立っている建築物ではなく、その中に育て上げられる教会共同体の精神を反映しながらここに建っております。この聖堂が醸し出す雰囲気は、常にそこに満ちあふれている信仰共同体の雰囲気そのものであります。

パウロはコリント人への手紙の中で、最後の晩餐における主イエスの言葉を詳細に伝えています。イエスご自身は、実際にパンを手に取り、また杯を手にとって秘跡を制定されたのですから、その場でそれらを実際に示しながら、「このパン、この杯」と言われたことに、何の不思議もありません。でも、パウロはその後に続けて、あらためて自分の言葉として「このパンを食べこの杯を飲むごとに」と、「このパン、この杯」と特定して話を進めています。それは、どこにでもあるパンや杯なのではなく、イエスの体と御血となった「このパン、この杯」なのだと明確に示すためです。見た目には同じパンと杯であっても、それは全く異なる存在として特別な意味を持っているのだということを明確にするためです。

おなじようにこの聖堂も、単なる大きなホールなのではなく、私たちにとって「この聖堂」として、そこには特別な固有の意味があるはずです。それは、私たち信仰共同体があかしをしようとする信仰のしるしとしての意味であります。

パンと杯は、イエスの弟子たちへの切々たる愛のほとばしる思いに満ちた秘跡制定の言葉によって、特別な存在となり、特別な意味を持つようになりました。残される弟子たちへの痛いまでの愛の思いが込められたのは、「私の記念」という言葉であります。「私の思い、言葉、行いを忘れるな」というイエスの切々たる思いが込められた、「記念」という言葉です。その激しいイエスの思いを持って、ただのパンと杯は、「このパンと、この杯」になったのです。

ですから、この聖堂もそのままでは特別な意味を持つ存在とはなりません。この聖堂が、単なる建物や大きなホールから、はたまたホテル付属の結婚式場から、「この聖堂」になるためには、私たち信仰共同体の切々たる熱い思いが必要であります。信仰のあかしをしようとする、ほとばしるような神への熱い思いが必要です。私たちの信仰共同体には、そのほとばしるような熱い思いがありますでしょうか。そして信仰共同体が熱い思いに満たされるためには、それを生み出している私たち一人ひとりが、やはり熱い思いに満たされていなくてはなりません。

それを教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」の冒頭で、こう記されています。
「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです」

教皇様が指摘されるように、私たち信仰者の熱い思いとは、イエスと出会った喜びによって生み出される熱意であります。そしてそれは自分ひとりのものではないことを、教皇様は次のように続けられます。

「このむなしさは、楽な方を好む貪欲な心を持ったり、薄っぺらな快楽を病的なほどに求めたり、自己に閉じこもったりすることから生じます。内的生活が自己の関心のみに閉ざされていると、もはや他者に関心を示したり、貧しい人のことを考えたり、神の声に耳を傾けたり、神の愛がもたらす甘美な喜びを味わうこともなくなり、ついには、善を行う熱意も失ってしまうのです」

このパンを食べこの杯を飲むとき、私たちは主の死を告げ知らせるとパウロは記します。それはすなわち、イエスの受難と死と復活によってもたらされた新しい命に生きる喜び、それを多くの人に告げ知らせることでもあります。

私たちは、信仰者として一人ひとりが、そして一人ひとりでは力が足りない、力が不足している、またそれぞれ役割が異なるので、共同体という一つの体として全体で、このイエスとの出会いの喜びを熱くなって伝える存在でありましょうか。私たちがそうならなければ、この聖堂にはその熱意が満ちあふれることもなく、訪れてくださる多くの方の心にその熱意が伝わることもありません。

主の晩餐のミサの福音は、イエスによる愛の奉仕の場面の朗読です。実際に足を洗うかどうかは別にして、互いに謙遜になり、互いを助け合うこと、互いに奉仕し合うこと、その大切さを自ら模範を持って示す主の姿です。

そしてその愛の奉仕は、御聖体の秘跡とともにあるのです。あらためて教皇ベネディクト16世の回勅「神は愛」の言葉を引用します。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」

教会にはありとあらゆる方面で、愛の奉仕の業に励んでおられる方が大勢おられます。奉仕に努められている多くの方に心から敬意を表します。同時に、その一つ一つの働きは、たとえ団体は異なっていても、それに携わる信仰者にとっては、一つのキリストの体の一部としてなされているのだということを心にとめていただきたいと、いつも願っています。それは愛の奉仕の業は、教会の大事な務めとして、福音宣教や典礼と切り離すことはできないからです。

さて、この聖堂を訪れる方々に、私たち信仰者の熱意を感じ取っていただけるように、私たち信仰共同体にとっての「この聖堂」にするために、この三つの務めを充実させながら、教会共同体を信仰において神に対する熱い思いに満たされた共同体に育てて参りましょう。私たちには、あの晩の、イエスの熱い思いを、主が再び来られる日まで、伝えていく務めがあるのですから。
 

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2018年3月25日 (日)

受難の主日@田園調布教会

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聖週間が始まりました。洗礼の準備をしておられる方々にとっては、重要な一週間ですし、信仰者にとっては、イエスの死と受難と復活こそが信じる事柄の基本でありますから、クリスマス以上に大切な一週間です。

枝の主日とも呼ばれる受難の主日の今日、田園調布教会に生まれて初めて赴き、ミサを捧げることができました。写真は、フランシスコ会からの借り物です。

そうですこの田園調布教会はフランシスコ会の担当で、昨日と今日、全国のフランシスコ会担当の小教区かた侍者のリーダーたちを集めて、講習会を開催していたのです。30名くらいの侍者が集まり、新潟の高田からも参加者がありました。

ですから今日のミサは、侍者がいっぱい。ミサの最後にはフランシスコ会による侍者の認定証(ちゃんと等級付き)の授与までありました。一番上の等級になると、特製ジャンパーがもらえるのだとか。

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で、私はこれに誘われたとき、悩みました。初めての聖週間だからカテドラルの関口教会でミサを司式すべきかとも思いましたが、なんと言っても侍者の集まりです。私の霊名はタルチシオで、この方は初代教会のローマの殉教者ですが、御聖体を守って殺害されたことから、侍者の保護の聖人であります。ですから侍者の集まりと言われると行かないわけにもいかない。というわけで、初めての田園調布教会訪問となりました。

ミサ後には、残った信徒の方々との茶話会もありました。たくさん写真を撮っていただいて、感謝します。

以下本日の説教の原稿です。

その日、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と問いかけるピラトに対して、群衆は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音には記されていました。

「十字架につけろ」いう短い叫びは、深く考えるまでもなく、なんとなく興奮して集まった人々にはわかりやすいフレーズですから、瞬く間に人々の心をとらえ、大きなうねりとなっていきました。

この大きなうねりを前にしたとき、「落ち着いて考えてみよう」とか「イエスの言うことも聞いてみよう」などという理性的な言葉は力を失います。大きな波に飲み込まれてしまいます。
どんな理性的な言葉も群衆を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、その大きな波に抵抗することをやめてしまいます。捕らえられていた犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡したのです。

「十字架につけろ」という短い叫びは大きな波となって、集まった人々の興奮を倍増させました。考えてみれば、今日の入堂行列の前の福音朗読にあるように、同じエルサレムの町で同じ時期に起こった出来事ですから、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆というのは、その数日前にイエスを喜びの声を持って迎えた群衆でもあります。数日前に、イエスを賛美し喜んでエルサレムに迎え入れたことなど、この大きな波は人々の記憶からすっかり忘れ去らせてしまいます。

聖書が記している、この「群衆」という存在。それは、自分自身の頭を使って自分としての判断をすることを停止した人々、その集まりを象徴しています。その時々の大きな波に飲み込まれて、喜んでみたり悲しんだり。どちらにしろ大切なことは興奮していることであって、その興奮を生み出している原因が何であるのかを考えることはしない。なぜなら手間のかかる面倒なことだからです。

その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆に、たとえば今の時代のようなテレビのレポーターでもそこにいたとして、一人ひとりにインタビューをしたら、どんな反応が返ってくるでしょう。「十字架につけてイエスを殺せなんて、そんな大それたことは言ったつもりはない」とか、「イエスに死んでほしいなんて、実は思ってもいない」などという、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰が感じるでしょう。

今の時代、スマホに象徴されるような様々なコミュニケーション手段を、私たちは持っています。それを利用した言葉のやりとりの中で、どうしても気にかかることがいくつかあります。

それは、まず第一になるべく「短い言葉」で交わすやりとりであります。なかでも、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。短い言葉のやりとりが,時として、無責任な言葉の投げつけあいに発展することもよくあることです。長い文章であれば、じっくりと考えなければ意味が通じないので、何回も読み返してみたりする可能性もあるでしょう。しかし短いフレーズは、「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすいのです。だから深く考えることもなく、相手に送ってしまう。

短い言葉の投げ合いは,時に人を極端に感情的にさせます。感情的な短い言葉のやりとりは,結局は罵詈雑言の投げつけ合いに発展する可能性を秘めています。短い言葉の投げつけあいで興奮してしまっているやりとりを見るときに、イエスを「十字架につけろ」と叫んで盛り上がっている現代の「群衆」の姿をそこに見るような思いがします。短いフレーズの投げつけあいの世界は、興奮という波のうねりは生み出しても、その言葉から広がる背後の広い世界に目を向けさせることはありません。でも人間は、その広い世界で生きているのです。

教皇様は、本日の世界青年の日にあたり、メッセージを発表されています。今年のテーマは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」というルカ福音書の言葉です。

メッセージの中で教皇様は、聖母マリアが天使からお告げを受けたときに、その驚くべき内容に「恐れ」を感じたであろうとして、次のように書いておられます。

「それでは若者の皆さんはどんな恐れを抱いているでしょうか。何が皆さんを心底、悩ませているのでしょうか。多くの皆さんが抱いている「根本的な」恐れは、自分という人間が愛されても、好かれても、受け入れられてもいないのではないかという恐れです。今日、多くの若者が人為的で実現不可能になりがちな標準に合わせるために、本来の姿とは別の姿にならなければならないと感じています。自分の姿を「画像修正」し続け、仮面と偽りのアイデンティティの後ろに隠れ、まるで自分自身を「偽造(フェイク)」しているかのようです。多くの人が出来るだけ多くの「いいね」を得ようとやっきになっています。自分が不十分であるという心情から、多くの恐れや不安が生じています。」

つまり、教皇様は、自分自身の存在に自信がないという恐れの中で、人から好かれたいという願いが、私たちをフェイクな生き方に招き入れていると指摘しています。私が心配する第二の点はこの教皇様の指摘に関係します。つまり、私たちは本当の人生を生きているのかどうか。フェイクニュースという言葉が有名になりましたが、少し前なら誰も信じなかったような嘘であっても、インターネットでまことしやかに流されるとあっという間に拡散して、群衆は興奮してしまう。中身は、あの人が悪いとか、あれが諸悪の根源だとか、わかりやすい単純な方があっという間に拡散します。まさしく現代の「群衆」による「十字架につけろ」という叫びです。

そもそも私たち自身も、自分を偽ってフェイクな生き方をしていないか。みんなと一緒になって興奮している私は、本当に本物の私なのだろうか。立ち止まって、落ち着いて考えてみる必要があります。

教皇様は、メッセージの中で、実際に人と話をすることの重要さを説いて次のようにアドバイスされています。

「さまざまな選択肢をしっかり見極め選べるよう助けてくれる、同じ信仰をもつ経験豊富な兄弟姉妹に相談するのです。少年サムエルは、主の声を聞いても、すぐにはそのことが分からず、老祭司エリのもとに三度駆け寄りました。エリは最後に、主の呼びかけに対する正しい答えをほのめかします。「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』といいなさい。もし疑いをもったら、教会に頼ることができることを思い出してください。」

教皇様は、信仰を同じくする多くの方と、実際にリアルに具体的に関わり、よく言葉を交わすことで、ふさわしい道を見いだすことができると教えられます。

みなさん、受難の主日にあたって、あらためて自分の生き方を見直してみましょう。私はどちら側に立っているのでしょうか。それが興奮の波に巻き込まれ「十字架につけろ」と叫んでいる「群衆」の側ではないことを祈ります。心落ち着けてサムエルのように、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と答える側に立ち続けることができるように、神様に心を強めていただきましょう。

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2018年3月20日 (火)

秋津教会、多磨全生園訪問

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四旬節第五主日、3月18日の日曜日は、秋津教会を訪問し、午前10時のミサを一緒にさせていただきました。この日はミサの中で、教会学校主催で今年度の卒業生(大学生から小学生まで)への祝福の祈りや記念品の贈呈も行われました(。写真上は秋津教会聖堂。下はミサ中の記念品の祝福)

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地理の感覚がまだつかめていないので、この日は車のナビゲーションに従って走行。関口の司教館からほぼ1時間15分ほどの距離です。途中までは首都高速を通り、途中から一般道に降りると埼玉県に。自衛隊の朝霞駐屯地などを通過して再び東京都へ舞い戻り清瀬駅前を通過して秋津教会へ。

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ここは社会福祉法人慈生会が運営する諸施設に隣接する場所、というか敷地内。教区立のベタニア修道女会がその運営母体となっていますが、ここに、乳児院と児童養護施設、病院と老人ホームが整備されています。乳児院と児童養護施設は先頃新築されたばかりとうかがいました。ミサ後に、シスターの案内をいただき、すべての施設を見学させていただきました。

秋津教会は、どちらかというと若い層も多い共同体で、この日はミサ後に信徒会館でランチサービスがあり、献金をいただきながら皆でテーブルを囲み、時間も忘れて交流するひとときがありましたが、子どもたちや青年も大勢テーブルを囲み、楽しいひとときでした。

秋津教会の主任司祭は、東京教区の天本神父です。

さてミサが終わり、昼食の交流会のあとに、慈生会の諸施設を見学させていただいた後、車で少し移動して、多磨全生園へ向かいました。

ここは正式名称が、国立療養所多磨全生園。ホームページには園長の石井先生の挨拶が掲載されていますが、そこにこうあります。

「当園は正式名称を国立療養所多磨全生園(こくりつりょうようじょたまぜんしょうえん)といい、全国に13施設ある国立ハンセン病療養所の1つです」

「ハンセン病の患者さんは、これまで、偏見と差別の中で多大の苦痛と苦難を強いられてきました。我が国においては、昭和28年(1953年)制定の「らい予防法」(新法)においても引き続きハンセン病の患者に対する隔離政策がとられ、ようやく「らい予防法の廃止に関する法律」が公布、施行されたのは平成8年(1996年)でありました。

  その後、平成13年(2001年)には、ハンセン病国家賠償訴訟に関する熊本地方裁判所の判決を契機として、ハンセン病療養所入所者等の精神的苦痛を慰謝するとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図り、あわせて、死没者に対する追悼の意を表すため、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が公布、施行されました(平成18年〈2006年〉一部改正)。さらに、ハンセン病の患者であった者等の福祉の増進、名誉の回復等のための措置を講ずることにより、ハンセン病問題の解決の促進を図るため、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が、平成21年4月に施行されました。引き続き、ハンセン病の患者であった者等に対する偏見と差別のない社会の実現に向けた取り組みが求められています。」

わたしが多磨全生園を訪れるのは、今回が二回目ですが、前回はほぼ40年前。1979年10月頃だったと記憶しています。

その当時わたしはまだ神言修道会の修練士でした。毎年10月に、一ヶ月間の大黙想があり、その指導を上石神井のイエズス会の黙想の家でイエズス会司祭から受けることになっていました。

その年の神言会の修練士は6名。ひとりを除いた5名が、小神学校上がりのまだ20歳そこそこの若造です。一ヶ月の大黙想は、20名ほどのシスターたちと一緒に行われ、ベテランシスターたちの熱心さに比べて、霊的に子どものような私たちは、なんともできの悪い連中だと、指導者からもシスターたちからも見られていたと思います。確かに大変未熟者でした。

そんな大黙想の休日の日曜日、参加者全員でミサに出かけたのが多磨全生園のカトリック教会でした。細かいことはすべて忘れ去ってしまいましたが、鮮明に記憶しているのは、ミサの時に歌われた聖歌です。答唱の歌であったでしょうか、現在の典礼聖歌61番、「神は残された、不思議なわざの記念を」であったと思うのです。

その詩編唱、詩編111です。

「心を尽くして神に感謝しよう。神をたたえる人の集いの中で。神の業は偉大。人はその業を尋ね求めて喜ぶ」

一緒にミサに与っていた全生園の信徒の方が、なかなか出にくい声を思いっきり出しながら、振り絞るように、全身全霊で、言ってみればシャウトするように歌う詩編のこの言葉。

いつも自分たちがミサの時に歌っているのとは、同じ言葉なのに迫力が全く違う。全身全霊を持って神をたたえるとはこういうことなのだ。神の業に包まれて喜びに浸るとはこういうことなのだ。そう心に響いてくる歌声でした。こんな迫力のある聖歌は、それまで一度も聞いたことがなかった。

そこには、歌われている方々の人生のすべてが込められている。命のすべてが込められている。自分もそんな風に、全身全霊を込めて神に向かって叫びたい、と感じさせられる、いわば衝撃的な体験でした。

この日のミサの中で、その思い出を少し話させていただきました。その当時の感動がよみがえって、ちょっと涙ぐんでしまいました。ミサ後の茶話会で、「それはきっとあの人だ」と教えていただきました。当時、高田三郎先生が歌唱指導に訪れて、やはりその全身全霊を込めて歌う声に接し、人生そのものを背負って歌われている方々に指導することはなにもないと言われたというお話もしてくださいました。その通りであったと思います。

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多磨全生園の信徒の方々に、感謝します。わたし自身の信仰の道にあって、本当に刺激的で力ある体験をいただきました。今回またこうしてミサのために戻ることができて、そのことにも感謝です。

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2018年3月18日 (日)

カリタスアジア理事会@東京

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カリタスアジアの理事会が、久しぶりに東京で開催されました。

カリタスアジアは、国際カリタスを形成する世界七つの地域の一つで、現在アジアにある23のカリタスが名を連ねています。カリタスジャパンもカリタスアジアの一員として、国際カリタスの連盟を形作っています。現在のカリタスアジアの責任者は、2011年からわたしが務めていて、一期4年で現在二期目。再選は二期までですから、2019年の5月でわたしの役目は終わることになります。

カリタスアジアの事務局はタイの首都バンコクにあり、フィリピン出身の事務局長を始め、タイ、インドネシア、カンボジア出身の職員で、総勢5名がフルタイムで働いています。

カリタスアジアはアジア全体を東、東南、南、中央の四つに分けており、その代表を持って理事会を構成しています。現在は、東がマカオ、東南がミャンマー、南がパキスタン、中央がモンゴルで、英語を公用語にして会議をしています。通常は理事会をバンコクで開催するのですが、今回は私の都合で、久しぶりに東京での開催としてもらいました。前回東京で開催したのは、私がまだ司教になる前に理事を務めていた2002年頃だったと記憶しています。

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今回は、3月14日の初日は朝から晩まで理事会の会議を行い、15日は福島へ出かけました。特に今回はローマにある国際カリタスの本部から事務局長のミシェル・ロワ氏が参加してくださったこともあり、ちょうど福島の原発事故から7年目のミサが15日に南相馬の原町教会で行われることでもあり、参加者全員で電車に乗り、上野からいわきを経由して富岡まで行き、そこからはカリタス南相馬の方の案内で被災地視察をしながら、最後は原町でミサに出席。

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カリタスアジア理事会メンバーと国際カリタスの事務局長は、事故から七年が経過した今でも避難せざるを得ない人が多くおられる現実や、分断された地域共同体の現状、また復興の進んでいない地域の現状を実際に目にされて、本当に驚いておられました。また国際カリタスのロワ事務局長は、あらためて世界的規模で原子力発電の必要性を見直す道を模索することの重要性を今回の視察で強く感じられ、帰りの道中は脱原発の道を模索することの重要性を強調されていました。

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2018年3月12日 (月)

東日本大震災7年目の祈り

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昨日3月11日午後1時半から、上智大学を会場に、東京教区のCTVC(カトリック東京ボランティアセンター)による祈りと「無念」上映の集いが開催されました。「無念」は、地震と津波の後、原発事故が発生したため、被災者の救援活動を中止して避難せざるを得なかった浪江の消防団の方の物語です。(写真は会場となった上智大学の新しい建物。表通り側は銀行の本店になっています)

残念ながら、わたしはその後の神学生の選任式などの予定があったため、途中で失礼させていただきましたので、映画を見ることはできませんでした。多くの方が、集まってくださいました。

上映会に先立って、お祈りをさせていただきました。以下、その時に唱えたお祈りです。

私たちにいのちを与え、そのいつくしみ深い手で私たちを包んでくださる、全能永遠の父よ。
   
7年前、私たちは自然の驚異的な力の前でなすすべもなく、頼りにしていた人間の知恵や技術がむなしく破壊される様に唖然としながら、ただあなたに助けを祈っていました。
   
私たちは、なぜそのような悲劇が起こるのか、その理由を知ることはできません。ただ、私たちは、すべてが神の御手の中にあり、人間の力が神の力の前でいかに小さなものであるのかだけを知ることができました。
   
いつくしみ深い御父よ。私たちはあの日から祈り続けています。大震災から7年を迎えた今日、あらためてあなたにだけ頼り、あなたの御手の中に私たちをゆだねて祈りをささげます。
   
どうか、災害の犠牲となってなくなられたすべての方々を顧み、永遠の安息をお与えください。すべての苦しみから解放され、あなたの光で安らぎを与えてください。あなたのいつくしみ深い御手で、彼らの魂を包み込んでくださいますように。
   
どうか、愛する人を失った悲しみのうちに、今も人生を歩み続けている多くの人たちに、あなたの愛を注いでください。いただいたいのちを希望を持って生きることができるよう、心を愛で満たしてくださいますように。
   
どうか、普通の生活を取り戻すために、毎日努力を続ける多くの方を顧みてください。時間のかかるあまりにもゆっくりとした歩みです。もう自分には関係のないことだと、忘れ去ろうとする人たちでさえ、周囲には存在します。地域の人たちとの交わりを回復し、互いに助け合いながら、人間らしい尊厳ある生活を取り戻すことができるように、心を希望の光で満たしてくださいますように。
   
どうか、避難生活を続ける人たち、特に福島の原子力発電所の事故の後、はっきりとした事実が判然としない中で、不安の中で人生の道を探っている多くの方を顧みてください。心の安らぎのうちに、安心した生活を送ることができるように、心をあなたのいつくしみで満たしてくださいますように。
   
どうか、復興支援活動に取り組む多くの人たちが、被災地の方々と歩みをともに続けることができるように、あなたの優しさで満たしてください。時間が経過するにつれ、心を配ることを忘れ、自分たちの生活を優先させようとしている人たちも少なからず存在します。あなたの優しさといつくしみのまなざしを私たちに向け、私たちの心を、あなたと同じ、いつくしみ深さで満たしてくださいますように。
   
私たちの母である聖母マリアが、幼子イエスをいつくしみを持って抱かれ護られたように、私たちをその御手の中に抱き、護ってくださいますように。
   
私たちの主、イエス・キリストによって。 アーメン。

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あの日から7年

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東日本大震災発生から7年がたち、昨日は各地で祈りがささげられました。あらためて、大震災で亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。また復興の過程で亡くなられた方々のためにも、心から祈ります。さらには、普通の生活を取り戻すために、日々取り組んでおられる多くの方々のためにも、神様の守りと導きを心から祈ります。

昨日は午前10時から、カテドラルの関口教会で主日ミサを司式させていただき、そのなかで特に祈らせていただきました。なお、午後3時からは神学生の選任式がケルンホールで行われました。東京教区の小田神学生が祭壇奉仕者に、同じく東京教区の宮崎神学生が朗読奉仕者に、さらにレデンプトール会の下瀬神学生が朗読奉仕者に選任されました。この選任式は、東京教区の一粒会総会の前に行われ、総会参加者をはじめ、多くの方が参加し神学生のために祈ってくださいました。写真は、昨日の一粒会総会です。

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一粒会は神学生の召命のために祈り、また養成のために献金をしてくださる組織です。神学生が司祭になるには最短でも6年かかります。その間、召命の道を歩んでいくためには、皆様のお祈りによる支えが不可欠です。加えて、具体的には養成の費用(神学院の運営費。授業料など)がかかりますので、そのための資金的面での支援もお願いしております。また東京教区では、すべての信徒の方が自動的に一粒会の会員となっております。どうぞ、将来の教会共同体に奉仕する司祭の誕生のために、お祈りと献金をよろしくお願いいたします。

以下、昨日の10時のミサの説教の原稿です。

東北地方一帯、特に太平洋沿岸において巨大な地震と津波が発生し、日本全国だけにとどまらず世界中に衝撃を与えた2011年3月11日のあの日から、今日でちょうど7年となりました。あらためてこの大災害で亡くなられた多くの方々と、この7年間の復興の過程で亡くなられた方々の永遠の安息を祈りたいと思います。

人生の中で、あの日あのとき、どこで何をしていたのかを明確に記憶している出来事は、それほど多くはありません。多くの方にとって、少なくともわたしは、あの日どこにいたのか、何をしていたのか、明確に記憶に残っています。それほどに、私たちにとって衝撃的な出来事でありました。

7年前に、被災地の復興にこれほどの時間がかかるとは想像すらしておりませんでした。この7年という時間は決して短いものではありません。それにもかかわらず、いまだ報道などで「仮設住宅」にお住まいの方々のお話や、自主避難生活を続ける方々のお話を耳にいたします。その度ごとに、この災害による被害の甚大さをあらためて認識させられます。

政府の復興庁の統計によれば、昨年12月の段階で、8万人近い方々がいまでも避難生活を送られているといいます。被災地の方々が、何か特別なことを求めているというわけではないと思うのです。ただただ、普通の生活を取り戻したい。しかるにこれほど多くの方が、その当たり前の願いを叶えることができずにいるということを、私たちは心にとめなくてはなりません。

カトリック教会は、全国の教会をあげて、被災地復興支援に取り組んできました。オールジャパン体制などと呼んでおります。被災地はほとんどが仙台教区でありますので、仙台を中心に、各協会管区が仙台教区との協力の下、東北の各地に拠点を設けて、ボランティアの派遣などを行ってきました。これを、カリタスジャパンが国際カリタスとの協力の中で、資金的に支えてきました。

被災地の復興には様々な段階がありますが、7年が経過した今、地域共同体の復活のため地元の方々の活動が中心になる中で、カトリック教会の支援活動も、地元の方々を中心とする体制へと変化を続けています。

同時に、教会は震災10年目となる2021年3月までは、このオールジャパン体制での復興支援を継続することも決めております。それは、被災地で取り組まなくてはならないことがまだまだ多くあるということを再認識させられているからです。とりわけ、原子力発電所の事故の影響が残る福島県内では、復興の歩みにはさらなる時間が必要だと感じさせられます。昨年9月に被災地を訪れ、南相馬市などを視察されたバチカン福音宣教省長官のフィローニ枢機卿も、震災発生からこれほどの時間が経過しているにもかかわらず地域共同体が再生できていない現実をあらためて驚きとともに認識され、地域再生のために祈りを捧げるとともに、特に福島の実情を教皇フランシスコに報告されました。これからも被災地の皆さんに心を向け、復興のために祈りのうちに歩みをともにする決意を新たにしたいと思います。

私たちの信仰は、絶望の淵から必ずや新しい希望が生み出されることを教えています。最高の指導者であったイエスが十字架で殺されていったという出来事を体験し、絶望の淵にあった弟子達に、イエスはご自身の復活の栄光を示して、その絶望の暗やみから新しい生命への希望が生まれることを示されました。これこそが私たちの信仰の基本です。

今日の福音でイエスはニコデモに受難と死を通じた救いについて語りながら、「信じるものが皆、人の子によって永遠のいのちを得るためである」と語りかけます。パウロもエフェソの教会への手紙で、人間の自らの力ではなく、神が私たちを愛してくださるからこそ救いが与えられるのだと指摘します。

私たちが何かをして成果を上げたから、そのご褒美として神から愛してもらえるのではなく、神が自らの似姿として創造されたこのいのちを、よいものとしてその始まりから愛し抜かれているからこそ、永遠のいのちへと招いてくださるのだ。それは人間が勝ち取ったものではなく、無償で与えられた神からの賜物であるとこの聖書の箇所は教えています。

私たちの国を襲ったこの大災害に直面し、悲しみの淵に追いやられた多くの被災者の方々と歩みを共にしながら、私たちキリスト者には、希望のともしびを掲げる責務があります。そうでなければ、キリスト者と呼ばれる資格はないではありませんか。私たちを先に愛してくださった神が、自らを犠牲にして新しい生命への希望を与えてくださったのですから、その希望の光を多くの方に分かち合うのは私たちの責務です。とりわけ、困難に直面する多くの方に、光から遠ざけられている多くの人に、出かけていってその光を届けようとするのは、キリスト者の責務です。

私たちが掲げることのできる希望のともしびの一つは、愛の奉仕のうちに助け合う人々の姿であると思います。キリスト者は、その性格が優しいから愛の奉仕を行うのではなく、先に神から愛されたからこそ、その愛を他者に分かち合わざるを得ない。そうせざるを得ないのです。助け合い支え合う姿は、それ自体が神の愛の生きたあかしであります。

私たちの教会共同体が、この社会のただ中にあって、常に希望の光を高く掲げる存在となり得ているか、自らのあり方をも真摯に振り返ってみたいと思います。私たちは、教会として、神が、誰ひとり例外なく、いのちを与えられた存在をすべて愛しているのだ、すべての人によりよく生きてほしいのだ、すべてのいのちの尊厳が護られてほしいのだ、そのように願っているということを、その神のほとばしる人間への愛の思いを、具体的にあかしする存在でありたいのです。そして、神の愛をあかしする教会共同体を作り出すのは、誰かではなく、私たち一人ひとりの責務であることを、この四旬節の信仰の振り返りのうちに、あらためて心に刻みましょう。

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2018年3月10日 (土)

主にささげる24時間@東京カテドラル

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教皇フランシスコは、四旬節第四主日直前の金曜日夜から土曜日夜までの24時間を特別な祈りの時間として定め、2015年以来毎年、「主にささげる24時間」と名付けての取り組みを推奨してこられました。

今年は、3月9日金曜日から10日土曜日まで、「ゆるしはあなたのもとにあり」という詩篇130編4節の言葉をテーマと定め、聖体礼拝とゆるしの秘跡の機会が提供されるようにと四旬節メッセージに記されています。

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東京カテドラル関口教会の地下聖堂では、3月10日土曜日の朝7時から行われるミサ後から、夕方午後6時に行われる同教会の主日のミサまでの間、聖体を顕示し、ともに祈る場といたします。

今朝のミサはわたしが司式させていただきました。夕方まで御聖体は顕示されていますので、どうぞお祈りにお立ち寄りください。また、明日、3月11日の10時の関口教会主日ミサは、東日本大震災の復興のための祈りとして、わたしが司式いたします。

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以下、今朝のミサの説教です。

私たち信仰者の生きる姿勢は、人間中心ではなく、神中心であります。しかしながら今や現代社会は人間中心になり、人類の知恵と知識と技術を持って世界をコントロールできるのだ、いのちでさえもコントロールできるのだと考えております。人間がすべての王様になったとき、そこに神の存在する場所はなくなってしまいます。

たとえば7年前の大震災のような自然の驚異の前でなすすべもなくおののくとき、人間は初めて世界をコントロールできるのは自分たちではなく、自分たちを遙かに超える力がそこには働いているのだと悟ります。そして神の存在に目を向けるのですが、残念ながら時間がたつにつれ、再び私たち人間は、神のことなど忘れ去り、人間中心の世界に舞い戻ってしまいます。人間が万能であり、その幸福をのみ追い求める価値観は、徐々に自分さえ良ければという自己中心主義に到達します。なぜなら、すべての人に同じように幸福を保証することなど人間の力では不可能だと、すぐに気がついてしまうからなのです。それならば、せめて自分だけはと、自己中心に陥るのです。そして教皇様がしばしば指摘されるように、自己中心主義は、他者への無関心を、とりわけ助けを必要とする弱い存在への無関心を生み出します。それはすなわち、愛の欠如でもあります。

教皇様は今年の四旬節メッセージの中で、次のように指摘されます。
「使徒的勧告『福音の喜び』の中で、わたしはこの愛の欠如のもっとも顕著なしるしを描こうとしました。それらは怠惰な利己主義、実りをもたらさない悲観主義、孤立願望、互いに争い続けたいという欲望、表面的なものにしか関心をもたない世間一般の考え方などです。こうして、宣教的な情熱は失われていきます」

人間中心主義に陥るとき、教会では宣教的な情熱すら失われるのだと、教皇様は指摘されています。

四旬節にあって私たち信仰者は、人間中心ではなく神中心で生きることの重要性を今一度思い起こしたいと思います。傷ついた私たちが立ち返るのは人間の知恵や知識や技術ではなく、いやしを与え、傷を包んでくださる主のもとだと、ホセアは預言します。

人間の自己満足である生け贄をささげることや、焼き尽くす捧げ物を差し出すことではなく、愛であり、神を知ることであるとホセアは語り、人間中心ではなく神を中心にして生きるようにと、私たちを促しています。

ルカ福音は、まさしく人間中心の見本であるかのようなファリサイ派の人を登場させます。この人物の正しさは、結局、神のためであるよりも自分の満足のためであることが、その言葉から明らかになります。しかし徴税人は、すべてを投げ出して自らを神の手の中にゆだねるのです。神中心に生きようとする姿勢であります。

四旬節は、私たちがどのような姿勢で生きていくのかを、信仰の目であらためて見つめ直し、その上で神にすべてをゆだねきる決断を改めてするようにと私たちを招いています。そのための特別な時間として教皇様は、四旬節中に主の御前でじっくりと祈り、ゆるしの秘跡を通じてすべてを神にゆだねるようにと、四旬節第四主日直前の金曜日夜から土曜日夜までの24時間を特別な祈りの時間として定め、2015年以来毎年、「主にささげる24時間」と名付けての取り組みを推奨してこられました。そして今年は、3月9日金曜日から10日土曜日まで、「ゆるしはあなたのもとにあり」という詩篇130編4節の言葉をテーマと定め、聖体礼拝とゆるしの秘跡の機会が提供されるようにと四旬節メッセージに記されています。

教皇様がテーマとして取り上げられた詩篇130編の冒頭から、少し読んでみましょう。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐えましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます」

両手を大きく広げ、すべてをゆだねるようにと私たちを招いてくださる主の存在を感じさせるような詩編の言葉であります。神の前に素直に頭を垂れ、徴税人のようにすべてを神にゆだねきって、主にそれぞれの叫びを上げましょう。

このミサから、今晩のミサまで一日、この聖堂で主イエスの現存である御聖体を顕示し、その御前で祈りながら、自分が、人間中心となっていないか振り返ってみましょう。御聖体のうちにおられる主イエスに、すべてをゆだねきることができているか、私たちの生き方を振り返ってみましょう。

教会の伝統は私たちに、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すように求めています。この四旬節、どのように信仰生活を過ぎしているのか、今日のこの特別な祈りの日を通じて、ゆっくりと黙想いたしましょう。

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2018年3月 5日 (月)

司祭の帰天@東京教区

東京教区司祭のアシジのフランシスコ井手雄太郎神父様が、昨日3月4日の日曜日に帰天されました。井手神父様は1926年9月生まれで、91歳でした。

1954年に土井大司教様から司祭叙階を受け、その後各地の助任を経て、蒲田教会、麻布教会、高円寺教会、成城教会、本郷教会などの主任司祭を務められたと、手元の資料にあります。また巡礼旅行記などの著書も多数あり、さらには絵もお上手であったと。

残念ながらわたしは、東京に来て初めてお会いしたものですから、すでにペトロの家で引退されている姿しか存じ上げませんが、多くの方がそれぞれの思い出を持って神父様を御父のもとへと送られることでしょう。どうぞ永遠の安息をお祈りください。

司祭は、いわゆる就職する職業ではありませんから、司祭の定年退職というものもありません。定年退職は、司祭としての役職、たとえば主任司祭などですが、その役職には定年が定められています。主任司祭は75歳になったら、教区司教に引退願いを出すことになっていますが、もちろんそれぞれの健康状態などに応じて、教区司教はそのまま継続することをお願いできることになっており、近年は平均寿命も長くなっているのですから、健康がゆるす司祭には75歳を過ぎても主任を継続してもらう方が増えています。

ちなみに司教も同じで、75歳になると定年引退願いを教皇様に提出することになっています。

そして、司教であっても司祭であっても、その役職としての教区司教や主任司祭に定年での引退はあっても、一人ひとりが叙階の秘跡で受けた司祭であることや司教であることは、終わることはありません。

従って、司祭は引退しても司祭です。高齢になられて、活発な活動や仕事を積極的に担うことができなくなっても、この命がつきるまでは司祭であり続けるのです。ですから、役職を引退した後も、司祭としてどのように生きていくのかは重要な課題です。東京教区にたとえばペトロの家のような場所が整備されているのは、高齢司祭の暮らす場所としてだけではなく、その場で、その年齢と能力に見合った司祭の務めを果たすことができるようにとの配慮であろうとわたしは思います。それはたとえば祈ることなのかも知れません。病床にあっても、司祭としての祈りを続けることはできるからです。

その意味で、教区の司祭団にとっては、現役ではなくても、ひとりの先輩司祭が帰天されることは、体の一部が失われるような痛みを伴う出来事でもあります。司祭団といわれるように、司祭はともに一つの体を形作っています。その一部が失われた痛みを、今感じています。

そしてひとりの司祭が帰天されるとき、その失われた部分を担う新しい召命が与えられるようにと、祈らざるを得ないのです。井手雄太郎神父様の永遠の安息を祈るとき、同時に東京教区司祭団に加わる新しい召命が誕生するようにと、お祈りくださいますように。

井手神父様の通夜は、3月7日水曜日の午後6時から、葬儀ミサは3月8日木曜日の午後1時から、ともにカテドラルの関口教会で行われます。

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2018年3月 1日 (木)

三月です。春はまだか。

何十年ぶりかで、首都高速を運転しました。これまで長年、車で東京に乗り込むのは避けてきたのです。最後に首都高を運転したのは40年近く前の大学生時代だったと思います。最新のナビのおかげで、右に左に分岐する首都高も、なんとか迷わず走ることができました。

で、出かけた先は、調布。カルメル会の修道院で、シスター方と一緒にミサを捧げて参りました。着座してから、初めての女子修道院訪問でした。

シスター方にお祝いの言葉をいただいて、それで思い出したくらいに忘れていましたが、今日、3月1日は、わたしの終生誓願の記念日。名古屋の神言会で1985年でしたから、33年目です。シスター方のおかげで、自分がまず第一に修道者であることを、あらためて心に刻むことができました。感謝。

この数日、シリアの混乱の悪化の状況がしばしば報道されています。先ほどカリタス・シリアのFacebookにも、平和のための祈りの呼びかけが記されていました。政治には政治の正当化する理由があるのでしょうが、しかし私たちは、人間のいのちの尊厳を繰り返し、繰り返し、宣言するしか道はありません。神は、私たちのいのちを自らの似姿として、良い存在として、尊厳を持って創造されました。日本に生きていようが、ヨーロッパに生きていようが、シリアに生きていようが、人は命を生きる場を自分で選ぶことはできません。どこにあっても、いのちの尊厳は護られなくてはなりません。いのちは、その始まりから終わりまで、すべての時にあって、護られなければなりません。シリアの平和のために祈ります。

教皇様は先日来、シリアを始め、コンゴや南スーダンでの平和への祈りを呼びかけておられます。特別なときだけではなく、繰り返し、繰り返し、平和のための祈りを心がけたいと思います。

3月になりましたので、今月の主な予定を記しておきます。

  • 3月1日 カルメル会修道院ミサ (調布)
  • 3月5日 カリタスジャパン会議 (潮見)
  • 3月6日 カリタスジャパン会議 (潮見)
  • 3月8日 常任司教委員会・社会司教委員会 (潮見)
  • 3月10日 聖心女子大学卒業式 (東京)
  • 3月11日 関口教会10時ミサ、東北震災復興祈祷会13時半 (上智大学)、一粒会総会15時 (関口)
  • 3月12日 司祭評議会、責任役員会 (東京)
  • 3月13日 カトリック新聞会議 (潮見)
  • 3月14日~16日 カリタスアジア理事会 (潮見、南相馬)
  • 3月17日 宣教司牧評議会 (東京)
  • 3月18日 秋津教会ミサ、多摩全生園ミサ (東京)
  • 3月20日 経済問題評議会 (東京)
  • 3月23日 HIV/AIDSデスク会議 (潮見)、ペトロの家運営委員会 (東京)
  • 3月25日 受難の主日 (田園調布教会)
  • 3月27日 司祭代表会議 (新潟)
  • 3月28日 聖香油ミサ 10時 (新潟教会)
  • 3月29日 聖香油ミサ (関口教会)、聖木曜日ミサ 19時 (関口教会)
  • 3月30日 聖金曜日 19時 (関口教会)
  • 3月31日 復活徹夜祭 19時 (関口教会)

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