使徒ヨハネ市川嘉男神父様葬儀ミサ説教@東京カテドラル
4月29日に94歳で亡くなられた、東京教区司祭、使徒ヨハネ市川嘉男神父様の葬儀ミサが、本日5月5日午後1時半から、カテドラルの関口教会で執り行われ、200名近い方が参列してくださいました。連休中のお忙しいときに、お祈りをともにしてくださり、感謝申し上げます。
以下本日のミサの説教の原稿です。
使徒ヨハネ市川嘉男神父 葬儀ミサ 2018年5月5日
使徒ヨハネ市川嘉男神父様は、今週の初めの日曜日、4月29日に、94年の人生に幕を下ろされ、御父のもとに帰られました。現役であった頃の市川嘉男神父様を私は存じ上げませんので、何かの手がかりにと10年ほど前の東京教区報に掲載されていた神父様のインタビュー記事を拝読いたしました。
そこには、「東京教区司祭で 『お兄ちゃん』 といえば、 市川嘉男神父を指します。 それは弟の市川裕神父と兄弟だからということもありますが、 市川嘉男神父のお人柄が、 呼びかけに反映されているということでしょう」と記されていました。「お兄ちゃん」とは、それだけで現役時代の市川神父様のお人柄をなんとなく想像させる呼び名であります。
そしてインタビューの中で、「司祭として大切にしてきたことは」という問いに、市川神父様はこう答えられています。
「特にはないけどねえ。 まあ、 司祭だからミサは大切にしてきたよ。 生来、 のんきな性格というか、 自分から積極的に何かをするというタイプではないから、 頼まれればするけど、 そうでなければじっと見て、 その都度対応していくという感じかな。 カッコよく言えば、 『あるがままを大事にする』 ってことかもしれないけど」「あるがままを大事にする」、そういう司祭としての人生は、自らのうちに秘めた信仰を素直に生き抜く人生であったと想像いたします。
先日、5月1日に、清瀬にある東星学園で、創立記念日のミサを捧げる機会がありました。ミサの前に校長先生から、是非、市川嘉男神父様の永遠の安息のためにミサで祈ってほしいと依頼をいただきました。それは神父様が、東星学園でミサを捧げたり、宗教を教えたりと、生徒さんたちの心の教育のために30年近くにわたって関わってくださったからだと伺いました。それもまた、「あるがままを大事にする」司祭の人生は、子どもの時代に信仰によって心を育むことの大切さを、自ら身にしみて理解されていたからだろうと想像いたします。
同じ日に、ベタニアのシスターからこんな話も聞かされました。すでに引退されてある程度時間が過ぎたときのこと、ある公的な文書に職業を記入する欄があり、記入した方が「無職」と記されたそうです。その頃、高齢のためすでにあまりいろいろとお話にならなかった神父様は、その書類をなかなか認めようとしない。そしてシスターに、職業欄を指さして、「私は東京教区司祭です」と言われたそうです。「あるがままを大事にする」司祭は、ただ時の流れに身を任せて何気なく生きていたのではなく、その人生が終わるときまで、自らの召命をしっかりと自覚して生きてこられたのではないでしょうか。司祭はその命が終わる日まで、司祭としての務めを果たし続けます。それは、そのときそのときの自らの有り様を受け入れ、まさしく「あるがままを大事に」して、そのときに与えられた可能性のうちに召命を生き抜くのです。
司祭は叙階の秘跡によって、「最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別される」とカテキズムには記されています。
すなわち司祭には、三つの重要な役割があるとそこには記されています。一つ目は「福音を宣教すること」。二つ目が「信者を司牧すること」。そして三つ目が、「神の祭礼を執行する」ことです。司祭のこの三つの務めは、すべてのキリスト者にとって、生きる姿勢の模範となるものです。
同時にこの三つの務めは、司祭にだけ与えられているものではありません。キリスト者は洗礼によってすべからく「キリストと合体され」、その「固有の立場に応じて、祭司、預言者、王としてのキリストの任務に参与」します。
わたしたちは、司祭の示す模範に倣って福音を宣教したいのです。わたしたちは司祭の示す模範に倣って教会共同体を育て上げたいのです。そしてわたしたちは司祭の示す模範に倣って聖なる者でありたいのです。
パウロはローマ人への手紙で、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」と記すことで、神のわたしたちへの愛には、世の理不尽さを遙かにしのぐ深さがあるのだと教えます。世の常識から言えば、あり得ないことを、神はわたしたちのために成し遂げられた。それほどにまで、神の愛といつくしみは、人間の理解を超えて深いものであります。
イエスは福音で、自分こそが「道であり、真理であり、命である」と宣言されました。イエスご自身が示された生き方にこそ、本当の命へ至る道があり、その道を歩むとき初めてわたしたちは、神とともにあると確信できるのです。
しかしながら、わたしたちが生きている今の社会は、神の御旨に従って成立しているとは言い難い。イエスの福音に忠実に生きようとすればするほど、それは理想主義であり、夢物語であり、非現実的だと見なされてしまいます。いったい、今の時代にあってわたしたちが生きるために頼りにし、その歩みを進めようとしている道は、正しい道なのでしょうか。その道は、真理へと続く道なのでしょうか。本当の命へと続く道でしょうか。それとも、刹那的な喜びと安楽を見いだすための、滅びへと続く道でしょうか。
御父を示してほしいと頼むフィリッポに対して、イエスは、ご自分とつながることこそが御父への道であると諭されます。
「あるがままを大事にする」生き方は、まさしく、イエスとのつながりに忠実に生きる生き方であったのではないでしょうか。まずもって大事にするのは、イエスとのつながりであり、そこがしっかりとつながっているのであれば、何も騒ぐことなく、うろたえることなく、自然体で生きることができる。この世の様々な思い煩い、この世が大切にする様々な価値観、社会の常識。そういった荒波に翻弄されることなく、イエスとのつながりに自信を持って身を任せ、悠々と生きる。市川神父様の生き方は、人生にとって一番大切なことは何かをしっかりと理解したうえでの、信仰における悠々自適な生き方ではなかったのかと思います。
わたしたちは、司祭の示す模範に倣って福音を宣教したい。わたしたちは司祭の示す模範に倣って教会共同体を育て上げたい。そしてわたしたちは司祭の示す模範に倣って聖なる者でありたい。生きる姿勢の模範を示される司祭に倣いながら、自分自身のイエスとのつながりをあらためて確認し、身を任せて、命へと続く真理の道を、歩んで参りましょう。
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