イグナチオ教会で堅信式、そしてペトロ・パウロのお祝い
洗礼者ヨハネの誕生を祝う昨日の日曜日、午後3時半から、麹町の聖イグナチオ教会で、堅信式が行われました。あの広い聖堂はいっぱいでした。
堅信を受けられたのは、なんと137名。137名ですよ、皆さん。と、ジャパネットの前社長なみの声で叫びたくなりますが、137名です。東京に来てから、あまりの違いに驚くばかりですが、先日の合同堅信式で200名を超えていたのも驚きましたが、今回は、単独の小教区で137名です。
堅信を受けられたのは、小学生から80歳の方まで。様々な方がおられました。皆さん、おめでとうございます。
祭壇の横には、イグナチオの伝統だと言うことで、聖霊の七つの賜物を記したロウソクがともされ、堅信を受けた後に、このロウソクからとられた火を、受堅者一人ひとりがロウソクに受け取り、平和の挨拶を交わしました。
ミサ後には、ホールで祝賀会。これだけの人数ですから、ホールもいっぱい。これからも小教区共同体とのつながりの中で、ともにふさわしく生きる道を探して参りましょう。私たちが告げるのは、自分が好きなことや気に入っていることや、自分の勝手な解釈ではありません。神ご自身が望まれていることを告げるのです。そして神の意思は、共同体における祈りの識別のうちに示されるものだと思います。そして神が望まれることは、往々にして、人間の社会常識からはかけ離れた神の常識であることが多いのです。
さて6月25日の月曜日は、月末の月曜日ですから、司祭の月の集まりの日です。毎年6月のこの日は、ペトロ・パウロのお祝いのミサを捧げ、その中で、金祝や銀祝を迎えた司祭のお祝いもいたします。
今日11時のミサには教皇大使も参加され、寺西神父様ほか叙階60年のダイアモンド3名をはじめ、金銀祝の司祭が参加。そのほか大勢の教区司祭や修道会司祭が共同司式に参加してくださいました。また先日、補佐司教職からの引退が認められた幸田司教も参加し、最後に特に司祭団にお礼の挨拶をされました。
なお手元のリストによれば、本日参加されなかった方々も含めて、東京教区で働く教区と修道会司祭の中に、ダイアモンドが5名、金祝が8名、銀祝が8名おられます。神父様方、おめでとうございます。
以下本日のミサの説教原稿です。
「それでは、あなたがたは私を何者だというのか」
主イエスの弟子たちに対するこの問いかけは、二十一世紀の現実の中で、イエスの福音を告げしらせようとする私たち一人ひとりへの、現代的な問いかけでもあります。いま私たちは情報の波に翻弄されて生きております。インターネットの普及によって、十数年前には考えられなかった簡便さで、様々な情報を手に入れることが可能になりました。どこかで事件が起これば、あっという間にその内容が、インターネット上にはあふれかえります。全く便利な社会になったものだと思います。
そのインターネットを見ていたら、こんな意味のことが書いてありました。
今や高度情報化社会である。高度情報化社会とは、結局、手にした情報をいかに捨てるかが最大の課題だ。そのためには、ますますもって考え、論理的に思考するすべを身につけなくてはならない。これでは便利で簡単になったのか、はたまた面倒なことになったのか、よくわかりません。確かに近頃は、フェイクニュースなどとまで言って、流れている情報が真実なのか嘘なのか、それすら素人には判然とせず、時には、全くの嘘によって、とんでもない風評被害にさらされる人まで出現する始末であります。簡単で便利になったようで、その実、以前とは異なる意味で、面倒な世界にわたしたちは生きているのかも知れません。
高度情報化社会とは、以前よりもたくさんものが分かる社会ではなくて、情報の量があまりにも多すぎて、その中から取捨選択をしなければならない世界です。逆にいえば、そういった取捨選択を面倒だと怠るのであれば、他人から与えられた情報の中に身を任せて満足してしまうこともできる社会でもあります。でもそれでは簡単に偽物の情報に踊らされてしまう可能性すらあります。とんでもない情報に簡単にコントロールされてしまう可能性すらあります。
そんな真偽の確実ではない情報に翻弄されている姿は、言ってしまえば、井戸端会議の「うわさ」に基づいて生きている社会と変わらないのではないかとも思います。
時に「うわさ」は、無責任にも「不幸な誰か」、自分とは異なる「不健全な誰か」を作りあげ、自分はそれとは違う、自分の方がまだましだと、つかの間の心の安定をもたらす効果も生み出します。
「うわさ」は自分の心の安定のために誰かを犠牲にする。「うわさ」は基本的に、社会にあって差別の構造を生み出す道具だと思います。大量に流される様々な情報にあっという間に取り込まれていく私たちは、いま簡単に差別を生み出す社会に生きています。
「うわさ」が生み出す漠然とした恐怖感は、人間を疑心暗鬼の暗闇におとしいれます。疑心暗鬼の暗闇に彷徨うとき、不安な心は行く先を照らしてくれる光を待っているのです。そこに一筋の光が差し込みます。「あいつが悪いやつだ。悪人だ」などと指摘する「うわさ」話であります。
漠然とした恐怖感は、何かはっきりと実態がつかめない感情で、だからこそ足元がしっかりとしていないように、不安感が増幅するのです。そのもやもやした恐怖感に目で見える形をしっかりと与え、その不安を現実のものとして肯定してくれるのが、うわさ話であります。
イエスの弟子たちへの問いかけに、弟子たちは口々に、聞いてきた話を伝えます。あちらではこう言っていた、こちらではこう言っている。それは結局、彼らが耳にしてきた噂話でしかありません。それに対してイエスは、「よしわかった。そんなうわさはどうでも良い。私が知りたいのは、結局あなた自身がどう判断しているかなのだ」
他人の言うことに惑わされないで、自分の頭でものを考えなさい。うわさに翻弄されずに、はっきりと自己決断をすること求めているのです。自己決断ができない社会は差別を生み出す社会です。自己決断を回避して、みんなと一緒になどとばかり言ってる社会は、差別を生み出す社会です。私たちはそんな社会の中で、自ら判断し決断するようにというイエスの言葉を伝えようとしています。まやかしの光に導かれ、疑心暗鬼の暗闇の中にさまよう人々に、本当の光であるイエスの言葉を伝えようとしています。
「誰かがこう言ったからではなく、みんながそう言うからではなく、あなた自身はどう言うのか。」イエスのこの問いかけこそが、暗闇に射し込む本物の光です。疑心暗鬼の暗闇に彷徨う心に本当に必要な一筋の光は、まさしく漠然とした霧のような不安感を打ち払う光であって、決してそれを肯定してしまう偽物の光ではありません。
でも、そんな光は、歓迎される光であるとは限りません。時として暗闇の中にさまよい続ける夢を打ち壊し、現実の苦しい決断へと人を招くこともあるからです。勇気を持って暗闇から出る一歩の行動を求めることもあるからです。でもわたしたちは、そんな苦しい自己決断と行動の先にこそ、本当のいやしと慰めがあるのだとも信じています。
しっかりと自分自身の信仰を証しして生き、うわさに惑わされない本物の情報である神の言葉を勇気を持って掲げ続けましょう。
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