
6月29日の聖ペトロ聖パウロの祝日に、サンピエトロ広場で行われた教皇様司式のミサで祝福されたパリウムの授与ミサが、9月17日の午後1時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われ、教皇大使からパリウムを授与していただきました。

パリウムは、管区大司教(メトロポリタン)の教皇様との一致のしるしとして授けられるものです。中央協議会のホームページには、次のような解説が掲載されています。
「パリウムとは白い羊毛(1月21日、聖アグネスおとめ殉教者の祝日にローマの聖アグネス教会で祝別された羊の毛)で編んだ丸いバンド風のもの(右図参照)で、頭からかぶって肩に掛けるようになっています。前後に同じ布地の垂れがついていて、黒い十字架が刺しゅうしてあります。教会の牧者のかたどり、ローマ司教(教皇)の権威の象徴です。
福音書の中に、よい牧者は見失った1匹の羊を「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、……」(ルカ15・5-6)とありますが、全世界の信徒を牧する教会の最高指導者としての権威と使命を表すのです。現在は、教会管区大司教にも授けられます。」
この一年間に管区大司教として任命を受けた大司教は世界に30名で、そのうちの28名が、教皇ミサに参加して、箱に入れられたパリウムをいただいて帰国しました。そしてパリウムは、それぞれのカテドラルで、教皇大使から授与されることに、現在の教皇様が定められました。以前は、直接に教皇様から授与されていましたが、管区共同体の一致と協力の証しとして、このようになっています。

残念ながら、すでに様々な予定がそれぞれの教区では組まれている連休中でしたので、東京教会管区のほかの司教たちには参加していただけませんでしたが、それでも管区司教団を代表して、さいたまの山野内被選司教が参加してくださいました。信徒の方も休日にもかかわらず大勢参加してくださり、特に千葉県の銚子教会からは、50名ほどの方々がバスで駆けつけ、祈りをともにしてくださいました。感謝です。

以下、パリウムミサの説教の原稿です。
パリウム授与ミサ説教
2018年9月17日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
去る6月29日、サンピエトロ広場で捧げられたミサの中で、教皇様はこの一年間に管区大司教として任命された30名の大司教に与えるパリウムを祝福され、ミサの終わりに、当日共同司式に参加した28名の大司教に、パリウムを渡されました。わたしも当日、その28名のひとりとして教皇様のミサで共同司式をし、箱に入ったパリウムをいただいてまいりました。
その日はペトロパウロの祝日でしたが、ミサの説教で、「ペトロの生涯と信仰告白を観想することは、使徒の人生につきまとう誘惑について学ぶことでもあるのです」と話され、「ペトロのように、教会もまた、宣教のつまずきとなる悪のささやきに、常にさらされている」と注意を促されました。
また当日の説教で教皇様は、「メシアであるキリストの業に参与することは、キリストの栄光、すなわち十字架に参与すること」と強調され、イエス・キリストにおいて「栄光と十字架は常に共にあり、それらは切り離すことができません」と説かれました。神の栄光は常に苦しみとともにあり、苦しみを避けて、安易な道をたどって栄光に達することはあり得ないと説かれました。
この世において聖なる存在、善なる存在であるはずの教会は、残念ながら時にその道からはずれ、悪のささやきに身をゆだねてしまうことすらあります。
ちょうど今、米国での聖職者による性的虐待問題の報告書など、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した問題が各国で明らかになっています。教会において、聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを、特に私たち聖職者は真摯に反省し、許しをこいねがわなければならないと思います。
教会が今直面する危機的状況は、単に偶発的に発生している問題ではなく、結局は、これまでの歴史の積み重ねであり、悪のささやきに身を任せて積み重なった諸々のつまずきが、あらわになっているのだろうと思います。教皇様を頂点とする教会は、結局のところ、この世における巨大組織体ともなっています。組織が巨大になればなるほど、その随所で権力の乱用と腐敗が生じるのは世の常であります。この世の組織としての教会のあり方をも、私たちは今、真摯に反省し、組織を自己実現のためではなく、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。そういう「とき」に、生きているのだと感じています。
そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、許しを願いながら、その傷にいやしがもたらされるように、できる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。また同時に、各地で露見しているこれらの問題の責任を一身に受け、解決のために尽力されている教皇様のためにも祈りたいと思います。
教会は、「キリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む」存在であるはずです。確かに現代社会の様々な現実を客観的に見るならば、私たちは輝く光の中と言うよりも、暗闇の中にさまよっている存在であると感じることがあります。それは特に、神が賜物として与えられた人間のいのち、神の似姿として尊厳を与えられた人間のいのちが、社会の様々な現実の中で危機にさらされていること。その始めから終わりまで、例外なく大切にされ護られなくてはならないいのちが、危機にさらされている様々な現実を目の当たりにするとき、まさしくわたしたちは暗闇の中に生きていると感じさせられます。
その暗闇の中で、教会は、キリストの光を輝かせる存在でなくてはならない。果たしてその役割を真摯に果たしているのだろうか。もし仮に私たちがその光を輝かせていないのであれば、私たちは真摯に自らを省みなくてはなりません。いったい何を恐れて光を輝かせていないのか。どのような困難が、私たちを光り輝く存在から遠いものにしてしまっているか。
教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具であり」ます。確かに現代社会の様々な現実を客観的に見るならば、私たちは一致と言うよりも分裂の中に生きていると感じることがあります。教皇様がしばしば指摘されるように、現代社会には排除の論理が横行し、異質な存在を排斥し、時に無視し、自分を中心とした身内だけの一致を護ろうとする傾向が見受けられます。教皇様は、「廃棄の文化」と言う言葉さえ使われます。弱い立場にある人、助けを必要としている人に手を差し伸べるのではなく、そんな人たちは存在しないものとして、社会の枠から追い出されてしまう、捨てられてしまう。
そんな現実の中で、教会は神との交わりのうちにおける一致を、その存在を通じて明確に示しているでしょうか。残念ながら、教会の中にでさえ、不和があり、押しつけがあり、横暴があり、排除があり、一致を明確に示しているとは言いがたい現実があることは否定できません。小教区の中における一致も重要ですし、とりわけ、聖職者の間での不一致は、大きなつまずきとなっています。一致を妨げているものはいったいなんでしょうか。自らの欲望を優先させる利己的な思いは、その要因の一つであると感じることがあります。
教会憲章は、全世界の司教と教皇との交わりを、「一致と愛と平和の絆」における交わりであると指摘します。
教会が一致を明確に示す存在であるように、その牧者である司教団も、教皇様を頭として、まさしく「愛と平和と一致」の証し人とならなければ、存在する意味がありません。
パリウムを教皇様からいただくことで、わたしは、ローマの司教との一致をよりいっそう自覚させられます。教皇様の牧者としての導きに信頼しながら、わたし自身の言葉と行いが、一致と愛と平和の絆の証しとなるように、心がけなくてはならないと思っています。
教皇様のためにお祈りいたしましょう。そして教皇様と一致しながら使徒団を構成する司教のためにも、どうぞお祈りください。さらには、聖性のうちにキリスト者の模範となるべく努力を続ける司祭・聖職者のためにも、どうぞお祈りください。
そして私たち一人ひとりの存在が作り上げている教会のために、ともに祈りましょう。教会が、この社会にあって聖なる存在であるように、この社会に善なる道しるべであるように、そしてこの社会に対して一致の証しとなるように、聖霊が力強く導いてくださるように、ともに祈りを捧げたいと思います。