海外からの働き手と人間の尊厳
いわゆる入管法の改正が国会で論議され、その審議のプロセスがあまりに拙速だと、この数日間ニュースでも取り上げられています。
常日頃から、キリスト教の信仰の立場に立って、人間の尊厳を語る者として、海外からの働き手をより多く導入しようとする政策に、無関心でいることはできません。
毎日曜日の教会の現実を見れば、そこには日本人の信徒とともに、海外から来られた信徒の方が多くおられ、近年は特にアジア諸国からの若い信徒の方々が急増していることを実感いたします。キリスト者の立場からは、同じ神を信じ、同じイエスをキリストと信じる兄弟姉妹は、国境を越えて一つの共同体を形作る大切な仲間です。その仲間たちには、様々な歴史的背景があり、来日の事情もそれぞれ異なっています。留学生やビジネス、または結婚などで来日された方も多いとはいえ、今特に増加しているのは、いわゆる技能実習生として来日された若者たちです。
確かに、『人口の大きな塊である「団塊の世代」は2022年に後期高齢者(75歳)に達し、嘱託などとして働いていた職場からの「引退」が本格化し始めるとみられる。そうなると65歳以上の就業者数の増加はそろそろ見込めなくなってくる。つまり、人手不足はこれから「本番」を迎える』ことは間違いがなく、日本の社会は極端な人手不足に直面することは間違いがありません(日経ビジネス10月26日)
それを見越して、必要な労働力を確保しなければならないと考えることは、政府にとっては当然の責務であると思います。しかし、「いわゆる移民政策は採らない」という方針を明示するがあまり、ともすれば海外からやってこられる働き手を、一人ひとりの人間としてではなく、抽象的な「労働力」として見てしまう傾向も感じられます。
人間の生命は、神がご自分の似姿として創造されたが故に、一人ひとりに人間の尊厳があると信じている私たちキリスト者は、神がそのいつくしみをもってひとりたりとも忘れることなく、一人ひとりの名前を手のひらに刻みこむほどに(イザヤ書49章)すべてのいのちをいつくしまれているとも信じています。
そう信じるとき、ニュースなどから報道されてくる、いわゆる技能実習生の方々の置かれた過酷な労働現場の現実や、ともすれば奴隷労働のような取り扱い、そして実際に教会で出会う海外から来られた方々の実情を目の当たりにして、心の底から悲しみを感じざるを得ません。
教皇フランシスコは、排除されても良い人は誰ひとりいない、忘れ去られて良い人は誰ひとりいない、と説かれ、無関心のグローバル化に警鐘を鳴らされています。それは、キリストを信じる仲間だけに向けられているのではなく、思想や信条にかかわらず、神が創造されたすべての生命に対して向けられた言葉です。ですから教会は、キリスト者だけにではなく、すべての人の悲しみと苦しみに対して関心を持っています。
将来に向けて日本における労働力の確保を考えるとき、どうか、どうか、海外から来られる働き手は、ひとりの大切な人間であることを、尊厳を持った存在であることを、神が愛されいつくしまれて大切にされている生命であることを、忘れないでいただきたい。人間の尊厳を、守り抜く道を整えていただきたい。私たちは、それを常に心にとめておきたいと思います。
残念ながら、すべての人が満足する方法は、どの分野でも実際には存在しないのかも知れません。しかし、この大切な兄弟姉妹を、十把一絡げに抽象的な『労働力』と見なしてしまうことのないように、心から願います。
そして教会は、教会として、人間の尊厳を奪い取られるような状況に追い込まれた兄弟姉妹に、常に寄り添い助け合う存在でありたいと思います。
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