御受難修道会の助祭叙階式@秋津教会
2月23日の午後1時半から、秋津教会で、御受難修道会の会員であるヨセフ稲葉善章さんの助祭叙階式が行われました。これまで聖アントニオ神学院で学ばれ、秋津教会で司牧実習もされておられたとのことで、現在は御受難修道会は東京に修道院が存在しないものの、秋津教会での式となりました。
当日は日本準管区長の山内十束神父をはじめ、御受難会の会員が大阪や福岡から駆けつけ、またその昔の青年時代に横浜の戸塚教会で出会ったという新潟教区の石黒神父、そして瀬田のフランシスコ会会員も参加。秋津教会主任の天本神父をはじめ近隣の教区司祭も加わり、10名を超える共同司式となりました。
秋津教会の聖堂は一杯でしたし、侍者団もたくさん参加され、これから助祭として近い将来の司祭叙階への準備を進める稲葉さんのために祈りました。秋津教会での叙階式は珍しかったようです。確かに司祭や助祭の叙階式、また修道者の誓願式は、なかなか参加する機会もないので、今回、秋津教会で行われたことは良かったと思います。こういう機会に、ご自分の司祭や修道者への召命に目覚めてくれる人が現れるように、期待を込めて祈ってます。
以下、当日の説教の原稿ですが、後半部分は、叙階式の儀式書からの引用です。
わたしたちの信仰は、一人で生きるものではなく、共同体の中で生きていく信仰です。旧約にあって神がイスラエルを民として救いに導いたように、また新約にあってはイエスが弟子たちを呼び集め共同体を築くことから始めたように、わたしたちの信仰は、共同体で生きる信仰です。
もちろんキリストに従うのかどうかは、個々人の決断であることは間違いありませんが、しかしその決断は共同体の中で育まれ豊かにされていきます。わたしたちの信仰は、共同体なしでは成り立たない信仰です。
実に福音を多くの人に告げしらせるためには、教会共同体が福音を証しする共同体となっていなくてはなりません。例えばこの教会を初めて訪れる人が、そこでの出会いから何を感じ取るのか。そもそも教会共同体がどのような雰囲気を醸し出しているのかは、福音宣教にとって重要なポイントです。日曜日の聖堂に満ちあふれている雰囲気こそは、その教会共同体のあり方の反映です。
現代社会において、真摯に福音宣教に取り組もうとするなら、それは何らかのテクニックを考えることではなく、教会共同体を成長させるところからはじまらなくてはなりません。言葉と行いによるあかし以上に力強い福音宣教はありません。それは一人のカリスマのある人物の出現に頼っているのではなく、教会共同体が全体として、社会の中における福音のあかしの発信源とならなくてはなりません。あの聖霊降臨の日、聖霊は聖母とともに集まった弟子たちの共同体の上に注がれ、その共同体の言葉によるあかしが、多くの人にとってキリストの福音のあかしとなりました。
その意味で、わたしたちの教会共同体が、そのような状態であるのかを振り返ることは大切です。少子高齢化が教会にも現実的な危機として感じられる昨今、わたしたちは今あるものの維持という多少後ろ向きな積極性に引きずられている嫌いがあります。その積極性を、前向きの積極性に変えていきたいのです。
教皇フランシスコは、福音の喜びの中で次のように指摘され、常に挑戦者であることを求められます。
「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(EG20)その上で教皇は次のようにも指摘されます。
「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従う良い生活を送るよう励まされる感じられる場でなければならない」(EG114)また本日の第一朗読にはパウロの言葉が次のように記されていました。
「へりくだりと優しさをもち、広い心で、愛によって互いに耐え忍び、平和という絆で結ばれて、霊のもたらす一致を大切に保つように」はたしてわたしたちの教会共同体は、この社会の現実の中でどのような存在でしょうか。なにをあかししているのでしょうか。
前向きに積極的に出向いていく教会共同体でしょうか。あわれみといつくしみを感じることのできる共同体でしょうか。愛を感じ、励ましを受ける共同体でしょうか。互いにへりくだり、優しくある共同体でしょうか。互いに広い心と愛のうちに、耐え忍び合う共同体でしょうか。平和、すなわち神の望まれる秩序が実現し、祈りのうちに一致しているでしょうか。
教会共同体を強調することは、それぞれの個性を無視して、皆がおなじように同じことをするようにと内向きな圧力のかかる共同体となることではありません。共同体を前向きに育てるためには、それぞれが与えられたカリスマを理解し、それを生かし、共通の善のために行動することが不可欠です。いつくしみと寛容さにあふれた共同体こそが、個々のカリスマを豊かに生かす共同体となります。
そういう教会共同体を育てて行くに当たって、牧者である司祭の役割は重要ですし、それを助ける助祭の役割も重要です。(以下、儀式書から少し言葉を変えての引用)
ご列席の皆さん。稲葉善章さんは、まもなく助祭団に加えられます。助祭の奉仕の務めとは何でしょうか。助祭は聖霊のたまものに強められ、神のことばと祭壇に奉仕し、愛のわざに励み、すべての人に仕えて、司教とその司祭団を助けます。祭壇に奉仕する者となって福音を告げ知らせ、ささげものを準備し、主の御からだと御血を信者に授けます。
さらに、助祭の奉仕職には、司教から命じられたことに従って、信者にも信者でない人にもよい勧めを与え、聖なる教えを伝え、祈りを司式し、洗礼を授け、結婚に立ち会って祝福を与え、死に臨む人にキリストの聖なる糧を授け、葬儀を司式することがあります。
助祭は、すべての務めを神の助けによって果たし、仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストのまことの弟子であることを示してほしいと思います。
稲葉さん、あなたは自らすすんで助祭に叙階されることを希望しているのですから、かつて使徒たちによって愛のわざの奉仕者として選ばれた人々のように、人望があつく、聖霊と知恵に満たされた者でなければなりません。あなたは独身のまま奉仕職を果たそうとしています。独身生活は、牧者としての愛のしるしと励ましであり、また、世にあって豊かな実りをもたらす特別な源なのです。主キリストへのひたむきな愛に駆り立てられ、すべてをささげてこの生き方を貫く人々は、ほかのことにとらわれず、よりたやすくキリストに結ばれるでしょう。こうして、より自由に神と人々に仕えることに専念し、人々を神によって新たに生まれる者とするわざに、よりよく奉仕することができるのです。信仰に根ざし、これを土台にして、キリストの役務者、神の秘義を人々にもたらす者にふさわしく、神と人々の前で汚れのない者、非のうちどころのない者として自らを示してください。また、福音の告げる希望から目をそらさないでください。あなたは、福音を聞くだけではなく、福音に奉仕しなければならないのです。
清い心で、信仰の秘義を保ち、口でのべ伝える神のことばを行いで示してください。こうして聖霊によって生かされるキリストの民は、神のみ旨にかなう清いささげものとなり、あなたも終わりの日に主を迎えて、「忠実な良いしもべだ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」という主のことばを聞くことができるでしょう。
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