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2019年3月23日 (土)

カリタスアジアの次期総裁選出

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3月21日から22日にかけてカリタスアジアの総会がバンコクで開催され、次期カリタスアジア総裁に、バングラデシュ出身の信徒であるベネディクト・アロ・ロザリオ氏を選出しました。総裁の任期は4年ですが、私が務めている現在の二期目が5月に満了となりますので、5月末にローマで開催される国際カリタスの総会で同意を得てから、ロザリオ氏に引き継ぐことになります。

1956年生まれのアロ・ロザリオ氏は、1983年にバングラデシュ司教協議会の正義と平和部門に就職し、その後奨学金を得て、米国で修士号、さらに英国で開発学の博士号を取得。そのためカリタスの友人たちの間では親しみを込めて、「ドクター・アロ」と呼ばれています。1987年に、司教団の要請で正義と平和部門からカリタスバングラデシュに異動したドクター・アロは、定年までカリタスバングラデシュの責任者を務めてこられました。現在は、国際カリタスのいくつかの委員会の委員を務めています。

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カリタスアジアは1999年に独立した組織を持って自ら運営を始めましたが、これまで総裁はすべて司教が選出されてきました。99年の初代はスリランカのフェルナンド司教、その後がタイのサマンチット司教、そしてインドのアンブローズ司教。2011年には私が選出され2期務めました。今回初めて信徒の方を総裁に選出しましたが、ドクター・アロは開発の専門家であるとともに深い信仰をもったキリスト者でもあります。さらに充実したアジアのカリタス組織に育っていくことが期待されます。

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また同時に行われた選挙で、カリタスアジアの運営に当たる地域委員会には、韓国、モンゴル、フィリピン、ネパールのカリタスがそれぞれ選出されました。また事務局長のエリアザル・ゴメス氏も再任されました。

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新潟にて@2019年3月17日

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3月17日の日曜日、新潟教会では二つの大切な行事がありました。

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まず主日の午前9時半のミサでは、新潟教区の唯一の神学生である岡秀太さんの、朗読奉仕者選任式が執り行われました。このまま順調に養成が進めば、来年のこの時期には祭壇奉仕者、その次の年の今頃には助祭叙階式とつながります。岡神学生のためにお祈りください。

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そして午後1時半からは、新潟教区における性虐待被害者のための祈りと償いの日の行事とミサが行われました。司教協議会のこどもと女性の権利擁護のためのデスク責任司教である名古屋の松浦司教と私の挨拶の後、こどもと女性の人権擁護デスクの事務局担当者からの解説があり、その後、私の司式で新潟地区の司祭も参加してミサが捧げられました。

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教会において、聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを、特に私たち聖職者は真摯に反省しなければなりません。被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしをこいねがいます。いのちの尊厳を護ることを常々強調してきた教会が、弱い立場にある人たち、特に未成年のこどもに対して、このような行為に及んだことは、いのちの尊厳に対するダブルスタンダードと批判されて当然であると思います。


聖職者による性的虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、心からゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。


同時に、積極的で真摯な対応を怠り、事態の悪化を漠然と看過してきた私たち司教も、その怠りの罪を反省し、真摯に対応していく決意を新たにいたします。


私たちは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というイエスの言葉のうちに、すべての人、とりわけ弱い立場に置かれた人のうちに主がおられると信じているはずです。虐待の加害者は、残念ながら、被害者の方の心に思いを馳せることができなかっただけでなく、同時にそこにおられる主ご自身をも傷つけてしまったことを、自覚しなければ成りません。


新潟教区では対応委員会がすでに設置され検討を重ねてきた結果、現在は相談窓口を準備中で、まもなく窓口について教区からお知らせできる予定です。


なお東京教区でもすでに対応の窓口がありますが、4月号の東京教区ニュース2ページ目に、対応窓口の電話番号を掲載してあります。なおこの番号は教区本部の番号で、まず教区の女性職員が相談のお電話に対応し、専門にお話を伺う委員につなぐようにしております。専門にお話を伺う委員へつなげるご案内をいたします。

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2019年3月11日 (月)

3月11日、あれから8年。

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2011年3月11日に、東北の地を巨大地震と津波が襲ったあの日から、8年となりました。あらためて、亡くなられた方々の永遠の安息のために祈ります。

東京カテドラルでは、本日午後2時半から、追悼のミサが行われました。カリタス南相馬で支援活動に携わっているCTVC・カトリック東京ボランティアセンターが中心となって企画してくださいました。

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2時半から現在の被災地の映像を見ながら音楽とともに黙想し、2時46分には黙祷。そしてミサが始まりました。ミサは私が司式し、南相馬で活動されている幸田名誉司教も共同司式に加わりました。ミサ後には幸田名誉司教から、現在の活動についてのお話もありました。

たくさんの方に参加頂き、祈りをともにしていただいたことに感謝いたします。

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以下本日のミサの説教の原稿です。

東北地方一帯に巨大な地震の被害をもたらし、特に太平洋沿岸においては想像を超える津波を発生させた、東日本大震災。日本だけにとどまらず世界中に衝撃を与えた2011年3月11日のあの日から、今日でちょうど8年となりました。あらためてこの大災害で亡くなられた多くの方々と、この8年間の復興の過程で亡くなられた方々の永遠の安息を祈りたいと思います。

8年という時間は、ある人にとってはゆっくりと進んできた時間であったと思いますし、ある人にとってはあっという間の8年だったのかも知れません。いずれであったとしても、あの巨大な災害の体験とその記憶から、またその体験から生まれたそれぞれの心のおもいから、新たな歴史を刻む一歩を始めるためには、短い時間であったと感じています。歴史に残る巨大災害は大きな爪痕を残し、そのときまで、その地にあって、普通の生活を営んでこられた方々の、その普通の生活を大きく変えてしまいました。以前そこにあった普通の生活を取り戻すためには、時間と、尋常ならざる心のエネルギーが必要だと感じます。

政府の復興庁の統計によれば、今年1月の段階で、いまだに5万人を超える方々が避難生活を送られているといいます。これほど多くの方が、8年という時間が過ぎても、まだ普通の生活を取り戻すことができないほどの負のエネルギーが発生したのだという事実を、私たちは心にとめなくてはなりません。

とりわけ、原子力発電所事故の影響が残る福島県内では、復興の歩みにはさらなる時間が必要だと、支援に関わる多くの方が指摘されています。

数日前のニュースでは、原発の廃炉作業の行き着く先が、普通の廃炉作業のような更地に戻すことなのかどうか、そのイメージさえ現段階では描けていないと報道されていました。人間が普通に把握できる時間の流れを遙かに超えるほどの影響を及ぼす事故であったことを、あらためて実感させられます。人間がその限界をわきまえることなく、能力を超えた事柄に手を出してしまったのではないかと考えさせられます。

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今年の四旬節メッセージの中に、次のような教皇フランシスコの言葉があります。
「神との交わりが絶たれれば、園が荒れ野と化したように(創世記3・17-18参照)、人間と、そこで生きるよう人々が招かれている環境との間の調和的な関係も傷つけられます。罪は、人間に自分のことを被造物の神、絶対的な君主であるという考えを抱かせ、たとえ他者や被造物を傷つけても、創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用するよう人間を仕向けます」

自然災害がきっかけになった事態であるとはいえ、私たちが「創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用」しようとしたことは否めず、神との交わりを絶ってしまった人間の傲慢さが私たちうちにないか、過去を振り返るようにと求められていると感じます。

福島に関連しては、公式の統計には表れない避難者の方々も全国に多数おられると推測されます。そういった方々を含め、普通の生活がある日突然奪われてしまい、人生の道筋が予想もしなかった困難な道のりとなってしまった多くの方が、多数おられることを忘れないでいたいと思います。困難に直面する多くの方々が、忘れ去られることのないように、教会はその全国的なつながりを生かしながら、地道な支援を続けていきたいと思います。

私たちの信仰は、絶望の淵から必ずや新しい希望が生み出されることを教えています。最高の指導者であったイエスが十字架で殺されていったという出来事を体験し、絶望の淵にあった弟子達に、イエスはご自身の復活の栄光を示して、その絶望の暗やみから新しい生命への希望が生まれることを示されました。私たちの信仰の基本です。

キリストにおけるこの希望を、社会の直中で告げしらせる責務を教会は担っています。様々な困難を抱え、その理不尽さにうちひしがれている方々に、希望の光へと続く道を示す責務を教会は担っています。私たちが告げるべき福音は、まさしくすべての人にとっての「喜びのたより」でなければなりません。具体的な喜びの光でなければなりません。

残念ながら、このところ、カトリック教会は世界的にみて、大きな批判を受ける対象となってしまっています。本当は、希望の光を掲げるはずであるのに、弱い立場にある人を虐げ苦痛を与えてきた事実が、大きな批判を受けています。加えてそういった行為が、模範となるべき聖職者によってなされてきたことに、私をはじめとした聖職者は心から許しを願い、反省をしなければ成らないと思います。

自らまいた種ではありますが、教会の存在を大きく傷つけてしまったことを猛省しながら、教会が本来行うべき業をあらためて自覚し、その業に真摯に打ち込んでいくことが、いま重要だと思っています。

だからこそ、私たちの国を襲ったこの大災害に直面し、不安と悲しみの淵に追いやられた多くの被災者の方々と歩みを共にしながら、教会は希望のともしびを掲げ続けたいと思います。喜びのたよりを告げしらせたいと思います。自らの言葉と行いで、福音を証ししていきたいと思います。そうしなければ、キリスト者と呼ばれる資格はありません。

私たちを愛してくださった神が、自らを犠牲にして新しい生命への希望を与えてくださったのですから、その希望の光を多くの方に分かち合うのは私たちの責務です。とりわけ、困難に直面する多くの方に、光から遠ざけられている多くの人に、出かけていってその光を届けようとするのは、私たちの使命です。

あの大震災から8年目となる本日、あらためてキリスト者としての私たちの使命を自覚し、いのちの主の希望の光を高く掲げ、困難な道を歩み続ける方々と、歩みをともにし続ける決意を新たにいたしましょう。

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2019年3月 6日 (水)

灰の水曜日@東京カテドラル

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3月6日は、灰の水曜日です。四旬節がはじまりました。40日間を通じて信仰の原点を振り返り、キリスト者のあり方をより深く追求し、ふさわしい準備の上で、御復活祭を迎えたいと思います。

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今日の午前10時の東京カテドラル聖マリア大聖堂のミサは、私が司式し、折から東日本大震災復興支援のチャリティーコンサートのグループにイタリアから同行しておられるフランチェスコ・モンテリージ枢機卿も、一緒に司式に参加してくださいました。

モンテリージ枢機卿は、以前は駐韓国教皇大使なども務められた外交官で、その後バチカンで働き、サンパオロ大聖堂の主席司祭を務めておられました。御年84歳で引退されておられますが、ますますもってお元気で、このチャリティーコンサートには最初から賛同しておられ、以前にも来日されています。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

わたしたちが信仰者として生きるとは、いったいどういうことなのか。教会は今、この大きな問いかけに直面しています。残念ながらその主な原因は、わたしたち聖職者の行いにあります。

米国やラテンアメリカ、ヨーロッパ諸国をはじめとして、その数年間、聖職者による未成年への性的虐待の問題が次々とあかされて、さらにはこの小さな教会である日本でも、同様の問題があることが明らかになっています。今、その問題を避けて教会を語ることはできません。

2月21日から24日まで、「教会における未成年者の保護」をテーマに、世界中の司教協議会会長が呼び集められ、バチカンで会議が行われました。その閉幕に当たりささげられたミサで教皇様は、「人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、わたしたちは悪の手を見ることができる」と指摘されました。

その上で、「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」と厳しく指摘し、この問題に真摯に取り組んでいく姿勢を強調されました。

本来教会は、社会における道徳的権威として、また倫理的信頼性に足る存在として、宗教の枠組みを超えて道しるべとなるべき存在です。それが、指導者であるはずの聖職者によるこのような問題を起こす体質であったことを真摯に反省し、虐待を受けた被害者の方々に誠実に関わっていかなければならないと、痛感しています。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前で誠実な僕であるのかどうかを振り返るときでもあります。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているのかどうか。

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振り返るときに、心にとめておかなくてはならないことがあります。それは本日の第1朗読に記されていた、言葉です。預言者ヨエルは、「衣を裂くのではなく、おまえたちの心を引き裂け」と、主である神の言葉を伝えます。

わたしたちは、人間ですから、それぞれが心の中に承認欲求のような感情を抱えています。誰かに認められたい。それ相当に評価されたい。また、自らの望みを実現したいという、自己実現への欲求もあります。当たり前のことです。

信仰者として生きていくときに、わたしたちは本来、「キリストの使者としての務め」に重心を置いていかなければならないはずなのですが、どうしてもわたしたちの弱さは、承認欲求や自己実現へとその重心を引きずり込もうといたします。その生き方をイエスは、「偽善者たち」と指摘します。偽善者とは、すなわち自分の欲求に重心を置いて生きている人、自分中心に世界を回そうとする人であります。

自分の欲求に重心を置くときに、結局わたしたちは、教皇の言われる「悪の手」に身をゆだねてしまう可能性があるのです。本来「キリストの使者」として果たすべき、社会の現実にあって神のいつくしみを言葉と行いであかしし、その光を輝かせるという大切な働きを忘れ去り、周りの人々の心にまなざしを向けることなく、欲望の赴くままに道を踏み外してしまいます。

ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけています。
「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」

何度も何度も失敗を繰り返し、道を踏み外し、自分中心に生きようとするわたしたちに、預言者は、何度も何度も、神のいつくしみに立ち返れ、立ち返れ、と呼びかけるのです。

私たち信仰者は、そして特に今の時、私たち聖職者は、この四旬節にその生き方をあらためて見直し、踏み外した道から、愛と希望の道へと立ち返る努力をしなければなりません。

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四旬節の始まりに当たり、教皇フランシスコは、ローマの教会への手紙8章19節を引用して、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と題したメッセージを発表されています。

その中で、教皇は「神の子として生きていなければ、わたしたちはたびたび隣人や他の被造物に対して――自分自身にさえ――破壊的な態度をとり、すべてを自分の意のままに利用できるという考えを、多かれ少なかれ抱いてしまいます。それにより、節度のない行いが横行し、人間の条件と自然を尊ぶことからくる制約を逸脱した生活様式が現れ、歯止めの利かない欲望に従うようになります」と、あらためて指摘されています。

その上で、「復活祭への歩みは、過越の神秘の恵みの豊かさを余すことなく享受するために、悔い改め、回心、ゆるしを通してキリスト者としての顔と心を取り戻すようわたしたちを招いています」と指摘され、すべての被造物の前でおごることなく、謙遜に生きるようにと呼びかけられます。

この説教の後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。

神の前にあって自らの小ささを謙遜に自覚するとき、私たちは自分の幸せばかりを願う利己主義や、孤立願望や自分中心主義から、やっと解放されるのではないでしょうか。そのとき、はじめて、キリストの使者として生きる道を、少しずつ見いだしていけるのではないでしょうか。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。キリストの使者として生きる覚悟を、この四旬節に新たにいたしましょう。

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2019年3月 3日 (日)

教皇フランシスコ 3

教会は、聖霊によって守り導かれているのですから、わたしたちは安心して集っていることができるはずなのです。

しかし現実はそんなに簡単ではない。社会は少子高齢化だ。その直撃を受けて、教会も少子高齢化。戦後に相次いで建てられた聖堂は、そろそろ補修が必要だ。なかには建て替えも考えなくてはならないところもある。災害が相次ぎますから、耐震工事も不可欠だ。

教会共同体の運営に関わってくださる多くの方々は、本当に毎日、心配の種が尽きないことだと思います。そしてそのような配慮と取り組みは、この世界に現実の組織として存在する限り、不可欠であり重要です。感謝です。

でも同時に、教会は、様々な方向を向いていなくてはならないのも事実であり、常に与えられた使命を最優先に果たしていく努力も忘れることはできません。

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教皇フランシスコの、「福音の喜び」にある有名な言葉です。

「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(EG20)

物理的に今いる場所が快適かどうかと言うよりも、何も変化させずに今あるままでいることが、一番安心できる、という意味で、「快適な場所」です。

今の教会は、少なくともエネルギーに満ちあふれていると感じています。でもそのエネルギーが、ちょっと後ろ向きの積極性に使われすぎでしまっているのではないか。

前向きの積極性に使うエネルギーも大切です。様々な方向に向かって歩み出す、積極的なエネルギーも必要です。

そして忘れてはならないことは、私たちにはいの一番に考えなければならない使命があること。それはイエスの福音をなんとしてでも一人でも多くの人に伝えること。言葉と行いであかしをすること。そこへと踏み出す勇気が必要です。

教会共同体は、快適にそこに留まるためにエネルギーをため込むのではなく、ともに祈りミサにあずかることで、聖霊のエネルギーを頂き、それを充填し、勇気を持って外へと送り出すためにエネルギーを発生させる。そんな存在であったらばと思います。

教会が、福音をあかしするための、エネルギー発電所になりますように。

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八王子教会で堅信式、そして新潟へ

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先週の日曜日、2月24日は、八王子教会を訪問し、10時からの主日ミサの中で、五名の方が堅信の秘跡を受けられました。

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堅信の秘跡を受けられた皆さん、おめでとうございます。ミサ後には、受堅者を囲んで、お隣の幼稚園ホールをおかりして、祝賀会もありました。

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八王子教会の主任は東京教区の辻神父様。助任が、4月の人事異動で秋津教会の主任へ転任することが決まっている野口神父様です。教区の神学生の小田君も、現在八王子教会に滞在中です。八王子教会には力強い侍者団がおられ、この日のミサは香炉もつかって大変荘厳な雰囲気でありました。

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八王子の町へ足を踏み入れたのは、たぶん40年ほどぶりかと思います。中学生の頃に一度、八王子教会を訪れたと記憶しています。その当時の教会周囲を記憶しているわけではないのですが、今回は、教会の周囲に高層マンションが建ち並び、また新しいマンションの工事も進んでるのを目の当たりにしました。なにか、教会がマンションの谷間にあるような、そんな町になっていました。

聖堂は一杯でしたし、聖歌もすばらしく、教会共同体全体にみなぎっている活発なエネルギーを感じさせられました。

さてそんな八王子教会訪問をおえ、先週は司祭の月例集会やカリタスジャパンの会議などを経て、金曜日の夜には新潟へ移動。

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3月2日の土曜日は、この季節の新潟にしてはまずめずらしい快晴に恵まれたなか、新潟地区の信徒使徒職協議会総会が開催され、出席してきました。

第二バチカン公会議直後に、盛んに言われた信徒使徒職ですが、その頃から新潟教区には、各地区に信徒使徒職協議会が設置され、信徒が主導する様々な活動が行われてきました。

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私が2004年に新潟に赴任してからは、教区全体の信徒と修道者、司祭の代表で様々な意見を交換する教区宣教司牧評議会を立ち上げましたが、これまでの経緯もあり、各地区での信徒使徒職協議会は、信徒をとりまとめる場として機能し続けています。

新潟地区は、新潟、佐渡、青山、寺尾、花園、鳥屋野、亀田、白根で構成されています。合併で新潟市になった新津は、以前の経緯もあり今の時点では隣の新発田地区に属しています。

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これらの教会から、司祭団と信徒の代表が集まり、参加者は七〇名ほどでしたでしょうか。私が「あらためて福音宣教について考える」というテーマで一時間お話をさせて頂き、その後1時間でグループの分かち合い。皆で一緒にお弁当の昼食を頂いて、午後一時半から派遣ミサで終了となりました。

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小さいけれども、コンスタントに活動を続けている教区です。この十年ほど、全体的な人口は減少していますが、成人洗礼の数はほぼ変わっていません。もちろん少子化の影響もあり、幼児洗礼は減っているのは事実ですが、まだまだ教会にはできることがたくさんあります。いま必要なのは、新しい牧者でしょう。司教の誕生を待っている教区です。

一日もはやく、教皇様が新潟のために新しい司教を任命してくださるように祈っていますし、皆様にもお祈りをお願いします。

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よく、前任者である私が後継者を指名するとか、いろいろな噂があるようですが、残念ながら、前任者が後任選びに関わる余地はそれほどありません。

実際の新しい司教の任命は、その国を担当する教皇大使が中心になって候補者を選び、いろいろな人の意見を聴取しての調査をおこない、それに基づいて教皇庁の福音宣教省の枢機卿委員会議で選任が進められ、最終的に福音宣教省長官がこの委員会議の結果を教皇様のところに持って行き、教皇様が最終決定をされます。

時間がかかるのは、その最初の候補者選びと調査です。手続きが早く進み、ふさわしい司教が選任されるように、聖霊の導きをどうぞお祈りください。

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