教皇フランシスコ 4
教皇フランシスコは、しばしば『排除』に言及されます。教会共同体が神のいつくしみのあふれる場であり、見に見えるしるしでなければならないと強調される教皇様は、だからこそ、誰ひとりとして排除されない教会共同体を求められています。
わたしたちは、完全な存在ではありません。様々な弱さを抱えています。時に、神の前で罪に定められるような行いを繰り返してしまいます。互いにそうであるにもかかわらず、どういうわけかわたしたちは、他人を厳しく裁いてしまうことがしばしばです。もちろん、いつくしみにあふれる教会とは、なんでもどうでもよいのだ、などという柱のない存在のことではありません。そこには神が望まれる人の有り様という柱があり、常にそこへと向かって歩みを続けるようにわたしたちを促すのが教会です。しかし時として、裁いてしまうことが、教会共同体からの排除となり、神の元へと立ち返る機会を、そもそも奪ってしまうことになってしまうことがあります。
何でもよいわけではないのですが、でも、教会は誰をも排除することなくともに歩みながら、神の望まれる道へと互いに立ち返る努力を、辛抱しながら続ける場でありたいと思います。そしてその思いを、社会全体に伝えていきたいと思います。
「わたしたちは『廃棄』の文化をスタートさせ、・・排他性は・・もはや社会の底辺へ、隅へ、権利の行使できないところへ追いやられるのではなく、社会の外へと追い出されてしまうのです。排除されるとは『搾取されること』ではなく、廃棄物、『余分なもの』とされることなのです」(福音の喜び53)
教皇のこの言葉は、経済体制への警告として記されています。しかし同時に、わたしたちの教会共同体にも影響を及ぼす現代社会全体の傾向への警告です。排除の行き着く先は、その存在さえも認めない『廃棄』なのだと警告されています。この世界に誰ひとりとして『余分なもの』はいないはずなのに。
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