連休中の諸々の出来事から
10日間という連休が終わりました。その間には、すでにお知らせしたように、新潟教区では、現役の主任司祭(亀田教会と白根教会)であり園長でもある山頭神父様が亡くなられ、その通夜と葬儀がありました。山頭神父様は、昨年3月頃に体調を崩され、検査の結果は余命3ヶ月ほどと言われていましたが、その後の治療もあり、最後は在宅の緩和ケアで亡くなられました。5月3日の夜に新潟教会で通夜。5月4日に葬儀が行われました。
4月27日の土曜日には、上石神井のイエズス会黙想の家の設立70周年と、霊性センターせせらぎの20周年を祝うミサがありました。黙想の家の聖堂が一杯になるほど、関係者の方が多数集まってくださり、私が司式し、イエズス会のレンゾ・デ・ルカ管区長と、責任者の柳田神父様と一緒にミサを捧げました。またミサ後には、お隣にあるイエズス会の高齢会員施設であるロヨラハウスを訪れ、30分ほど大先輩の宣教師の皆さんにお話をさせていただく機会もありました。
黙想の家は、その昔、1979年の秋頃、神言会の修練者であった時分に、同級の修練者5名で、一ヶ月間の黙想に来たことがありました。一人を除いてまだ20代前半でしたので、まだまだ未熟な修道者であったわたしたちは、ろくに黙想も祈りもせずに過ごしておりましたが、最後の週に当時指導をしてくださっていたイリサリ神父様の逆鱗に触れ、追い出されそうになったことだけを覚えています。そこで追い出されては修練期が続かないので、必死でお願いして、追い出されずに済んだことを覚えています。建物は、当時は昔の旧カルメル会修道院で、今は新しくなりましたが、懐かしい場所です。その一ヶ月の黙想会にはシスター方も多数おられましたが、後に、司教になってから、ある修道院でそのとき一緒だったシスターに再会して、冷や汗をかいたこともありました。
4月28日の日曜日は、昼12時から、千葉中央宣教協力体の合同ミサが、鎌取にある聖母マリア幼稚園を会場に行われました。千葉中央宣教協力体に所属しているのは、西千葉、千葉寺、東金、茂原の各小教区です。
きれいに晴れ渡った空の下で、野外ミサでした。祭壇の向こうには、鯉のぼりもみえて、素晴らしい環境でした。
この日のミサでは、特に、復活の主日に発生したスリランカでの爆弾テロ事件の被害を受けられた方々に思いを馳せ、亡くなられた方々の永遠の安息を祈りました。この地域におられるスリランカ出身の方も数名ミサに参加してくださいました。
祈りのために集まった聖堂で、そのようなとんでもない事件に巻き込まれた方々の心にはどれほどの悲しみと恐怖が刻まれてしまったことでしょう。スリランカの教会のために、祈り続けたいと思います。そして、どのような理由があるにせよ、暴力的な方法でこのように人間の生命を奪うことは、決して許されることではなく、犯行に及んだ者たちのその暴挙を、あらためて強く非難します。
ミサ後には、それぞれの教会で木陰に席を設け、一緒に弁当の昼食会となりました。また教区の青年たちが、今年の9月に予定されているネットワーク・ミーティングの打ち合わせのために、ミサ後に合宿を行っておりました。よい企画が立てられることを期待しています。
連休中でもあり、また行きも帰りも事故があったようで、道路は凄まじい渋滞でした。
4月29日の月曜日は、昼過ぎから、JOC(カトリック青年労働者連盟)の日本での創立70年のお祝い行事が、東京隅田川の辺にある永代働く人の家で行われました。JOCのOBやOG中心に50名ほどの方が参加。青年たちによるコンサートあり、分かち合いの発表あり、同伴しているペラール師(パリ外国宣教会)の80歳の誕生祝いありと、楽しいひとときでした。
JOCは、例えばガーナなどではYCWとして知られていますが、ホームページによれば「20代前後の働く・働こうとする若者のグループです。“人を大切にする”という精神をもとに、それぞれの現状を分かち合いながら、仲間と共に成長していくことを目指します」とあります。
また、「個人の活動を助けるために毎週あるいは月2、3回程度の集まりをしています。 そこではお互いの生活や活動について分かち合い、「見直し」をしています。 仲間を広げたり、グループの仲間意識を育てるために、自分たちで楽しい行事を企画しています」ともあります。関心のあるかたは、JOCのホームページをご覧ください。
そして、5月5日には、六本木のフランシスカン・チャペルセンターで堅信式があり、32名のおもに子どもたちが堅信を受けました。
フランシスカン・チャペルセンターのミサは英語ミサで、東京近隣に在住する英語を使う様々な国籍の方々がミサに参加されています。しっかりとした聖歌隊には、3本のブラスの伴奏もついて、荘厳でした。海外に住む親族などのためでしょうか、堅信式の様子はインターネットで同時中継されていたようです。
千葉中央宣教協力体のミサでも、六本木でのミサでもお話ししたことですが、主の復活を見なければ信じないと言ったのは弟子のトマスでしたが、まさしく見なければ神など信じないと主張する世界の中で、わたしたちは信仰を生きています。そもそも現実の生活においては、様々な具体的価値観がもてはやされ、人生の中にあって大切だと思われているものは、何らかのレベルでの利益をもたらす具体的な事柄ばかりであって、目に見えない神を信じる宗教は、それほど重要な位置を占めてはいません。宗教に重要性があったとしても、例えば祈ればこれだけの効果があるとか、この神に頼ればこれこれの願いが叶うとか、そういった類いの具体的な出来事でもてはやされることはあっても、なかなかそれ以上ではありません。大げさに言えば、たくさんの神の存在を疑うトマスに囲まれてしまっています。
その中にあって、神を示すのは、わたしたち信仰者による共同体の存在そのものではないでしょうか。教会は社会の直中にあって、神によってもたらされる愛と希望と喜びの目に見えるしるしでありたいと思います。その共同体の存在を通じて、神の存在を実感させるような、愛と希望と喜びと、そして大切な霊性に満ちあふれた共同体でありたいと思います。小教区共同体を、そういった存在に育てていくことは、福音宣教の一つの道であると思います。
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