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2020年1月11日 (土)

コングレガシオン・ド・ノートルダム修道院竣工ミサ

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東京の調布にあるコングレガシオン・ド・ノートルダム修道会では、このたび修道院の建物を改築され、1月10日午後から、竣工祝別ミサを執り行いました。

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会場には180名ほどの方が駆けつけ、新しくできた聖堂には入りきれずに、廊下などにもあふれてミサに参加してくださいました。わたしが司式したミサには、近隣の高幡教会の司祭と信徒の方々、調布教会の司祭と信徒の方々、サレジオ会の司祭、そして修道会と関係の深い各地の信徒の方、さらには幼稚園関係者と工事関係者も参加されました。

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以前の修道院は歴史の経過とともに耐震の問題が出てきており、2017年頃から改築・立て替えの計画が進められ、最終的には木造平屋建てとすることになり、一年ほど前、2018年12月22日に起工式・地鎮祭が行われていました

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実はこの写真は、上が調布の新しい修道院、下が新潟の司教館。似ていませんか?

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それもそのはず。設計デザインと施工業者が、新潟司教館と全く同一。コングレガシオンの遠藤管区長が、2017年頃に、南相馬のカリタス南相馬の竣工式で、設計担当の高垣先生と出会い、相談を開始。結局、高垣先生(他に東京神学院などを手がけておられます)がデザインされ、南相馬にも関わった新発田建設が建設にあたりました。新発田建設は、もちろん新潟の新発田の会社で、新潟教区でも新発田教会をはじめ司教館や各地の幼稚園など、多くの教会関係の建物を担当していただいております。

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中庭には、サマリアで女性と出会ったイエスの場面を想起させる井戸が設けられていました。これは実際の井戸ではなく、黙想用のモニュメントだそうです。

おめでとうございます。お祝いには、ちょうど日本を視察に訪れていた同修道会の総長の総長シスターアグネス・キャンベルさんも参加されていました。

以下当日のミサの説教の原稿です。

コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会の調布修道院が新しくなり、新しい年の初めにあたって、今日、竣工祝別ミサの日を迎えられたことを、心からお喜び申し上げます。

修道者の存在は、現代社会に生きる教会にとって、ますます重要な意味を持ってきたと思います。

教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」には、「奉献生活がこれまで教会にとって助けとなり支えとなってきただけでなく、神の民の現在と将来にとって貴重な欠かすことの出来ないたまものである」と記され、その重要性が指摘されています。

その上で教皇は、修道者の存在意義をこう記します。
「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です」

奉献生活者・修道者の存在の意義は、その人生をかけて修道生活に生きることによって、他の人々が「いのちと希望を持つ」ことができるようになるところにあると指摘されているのです。

新年早々、中東における紛争危機など、きな臭いニュースが飛び交っていますが、平和が脅かされる状況を持って新しい年がはじまることは、残念であると同時に、わたしたちに、平和を実現するように力を入れてさらに働くようにとの呼びかけでもあると感じています。

とりわけ、昨年11月末に教皇フランシスコを迎え、核兵器廃絶にはじまる平和への力強い呼びかけを耳にしたわたしたちにとって、平和を告げるものとしての教会の役割を一層強めていくことは、重要な使命であると思います。

不安と疑心暗鬼の闇の中にたたずむ人類の希望の光となることを目指す教会にとって、「他の人々がいのちと希望を持つことができるために」、率先して生き方の模範を示す存在は不可欠です。

その意味で、東京教区にあって、存在する様々な修道会共同体の存在は、重要な意味を持っています。それぞれの修道会には創立のカリスマやビジョンがあり、それぞれ独自の活動を行っているとはいえ、それは教区の共同体と隔絶した活動ではなく、独立している分けでもなく、教区共同体の宣教の重要な一部として、聖性の模範と、希望に生きる姿の模範を示すために存在しているのだということを、あらためて指摘しておきたいと思います。

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さらに同じ「奉献生活」の中で、教皇ヨハネパウロ二世は次のようにも指摘し、奉献生活者の福音宣教への貢献についてこう述べられます。
「外に現れる活動以上に、宣教は、個人的なあかしによってキリストをこの世に示すことのうちに存在します。これは挑戦であり、これこそ奉献生活の第一の務めです。奉献された人々がキリストにいっそう似たものとなるよう努めれば努めるほど、キリストはすべての人の救いのために、この世においていっそうはっきりと現れ、活動するのです」

したがって、この修道院の中で生活する会員の皆さんは、隠れて籠もって祈り続けているわけではなく、徹底的にキリストに従う生活によってあかしの福音宣教をするのです。共同体はこの場でキリストを社会に向けてあかしをするのです。それによって、教区における福音宣教に直接に貢献していきます。

共同体による福音のあかしの重要性に触れて、教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」のなかで、「どの共同体も、『復活した主の隠れた現存を経験するために神に向かう場』を生み出すために呼ばれています」と記し、その上で、「みことばの分かち合いと、ともに祝う感謝の祭儀は、兄弟姉妹のきずなを強め、わたしたちを聖なる宣教する共同体に変えてくれます」と指摘されます。

先ほど朗読した福音は、復活された主が弟子たちと道をともに歩まれる、有名なエマオへの弟子の話でありました。

道をともに歩み、互いに心の思いを分かちあった二人の弟子とイエスは、その締めくくりに食卓を囲み、ともに感謝を捧げることによって、気づきをいたします。それは自分たちが歩んでいる道が正しい方向ではないと言う気づきです。そこで、正しい道、すなわち主とともにあるエルサレムへと、二人の弟子は引き返していきます。

イエスは、単に頭ごなしに、「こちらの方向が正しいのだから道を変えよ」と命令をする指導者ではなく、忍耐強く道をともに歩み、忍耐強く話に耳を傾け、忍耐強く祈りをともにすることで、正しい方向性を識別する道へと弟子たちを導きます。

教会はイエスとおなじように、現代社会に対して、闇雲に正しい道を示して立ち返れと命じるのではなく、時の流れの中で歩みをともにしながら、対話の中で、より正しい道を指し示し、祈りのうちに、神への道を多くの人が歩むことができるようにと、忍耐を持ってエマオへと歩まれたイエスの態度を、教会自身の生き方にしたいと思います。

社会の直中にある修道院は、社会から隔絶された世界を構築するのではなく、いのちと希望を生み出す共同体として闇に輝く光となり、現代社会を支配する神から離れようとする価値観へのアンチテーゼとなり、正しい道を識別するための忍耐強い対話と祈りの場となっていただきたいと思います。

この新しい聖堂で捧げられる祈りとミサが、共同体のきずなを深め、あかしによる福音宣教の力を生み出すことを、心から願っています。

 

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