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2020年1月20日 (月)

立川教会の聖堂改修工事が終わりました

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立川教会では、先般より取り組んでいた、聖堂の改修工事がこのたび完了し、1月19日の日曜日午前10時から、祝福感謝ミサを捧げました。ミサは、わたしが司式し、主任司祭の門間神父様、協力司祭の高田神父様、スペイン語ミサ担当のマシア神父様との共同司式でした。

聖堂は腕利きの大工さんたちの素晴らしい仕事で、木材をふんだんに使い、温かな雰囲気の祈りの場となっていました。また大聖堂横には、新しい小聖堂もできあがりました。

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ミサのはじめには聖堂の後ろで祈りを唱え、全体を聖水を撒きながら一周。その後小聖堂に向かい、あたらし祭壇を聖香油で祝福。そして大聖堂に戻ってミサを続けました。

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ミサの最中には、今年成人式を迎えた四名の青年の祝福も行いました。人生のあたらしステージへと足を踏み入れた四名に、神様の豊かな祝福を祈ります。新成人のみなさん、おめでとう。そして立川教会の皆さん、おめでとうございます。

以下、ミサの説教の原稿です。

このたび立川教会の聖堂改修工事が執り行われ、本日その完了を祝い感謝ミサを捧げることになりました。今回の計画に携わり、協力くださった多くの皆様に、感謝するとともに、心よりお喜びを申し上げます。

またこのミサの中で、人生の新しいステージへと足を踏み入れられた四名の新成人の方に、神様の祝福をお祈りいたします。新成人の方々に、心からお祝いを申し上げます。

さて、先週の主の洗礼の主日に引き続いて、本日のミサの福音においても、洗礼者ヨハネとイエスとの関係が語られています。
神の計画に従って清めの洗礼を授けていたヨハネは、イエスに洗礼を授けることを通じて、神の計画が実現していく様を目撃し体験します。その上でヨハネは自信を持って「だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と人々に宣言いたします。

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わたしたちは、毎日曜日この聖堂に集まってまいります。もちろんミサに与るためであります。いったいなぜわたしたちは日曜日にミサに与るのでしょう。それが信徒としての義務だからでしょうか。わたしたちは、それが義務を果たすためだからと言う消極的な理由からだけで、日曜日のミサに来る訳ではありません。

「二人、三人が集まるところに、わたしもそこにいる」と言われたイエスの言葉に信頼して、わたしたちはこの聖堂に共同体として集まるときに、そこに主イエスが現存されることを信じています。

「これをわたしの記念として行いなさい」と命じられたイエスに従って、聖体祭儀に与るとき、わたしたちは聖体のうちに現存される主とともにあり、拝領を通じて主と一致します。

すなわち、わたしたちは、あの日ヨハネがヨルダン川のほとりで神の一人子であるイエスを目撃し体験したように、毎週日曜日に聖堂に集まりミサに与ることによって、その都度、そこに現存される主イエスを体験いたします。今、生きておられる、主イエスに出会います。

ですからわたしたちは、ヨハネ以上に自信を持って、「だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と叫ばなくてはなりません。

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聖堂は、わたしたちが主イエスと出会う場であり、主イエスを体験する場であり、主との一致を通じて、福音を告げしらせる者へと育まれ派遣される場でもあります。

イエスは、弟子たちを共同体として集められました。福音宣教には二人ずつ派遣され、その後再び共同体に戻ってその体験を分かち合うように定められました。教会は、共同体です。教会は現代社会に生きる神の民が集う場です。いや、神の民こそが教会であります。

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第二バチカン公会議の教会憲章は、教会は「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」(教会憲章一)であると指摘します。
ですからわたしたちは、この地域社会にあって「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」として存在する「神の民」であって、その共同体の存在こそが教会そのものであります。

しかしながらこの共同体には、やはり集い祈る具体的な場が不可欠です。その意味で、建物としての聖堂の存在は、わたしたちが神の民としての互いの絆を具体的に確認し、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」となるための目に見える場として、なくてはならないものであります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、教会のあるべき姿を明示されています。教会は、「出向いていく教会」でなければならないと教皇は言います。出向いていく教会は、「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」教会です。

もちろん教皇は、まず第一にわたしたちに具体的な行動を促して、そのように呼びかけられています。教会は社会の中心部に安住しているのではなく、社会の周辺部へと出向いて行かなくてはならない。その周辺部とは、社会の中心から排除され、多くの人から忘れ去られている人たちの所です。

この世界に誰一人として忘れ去られて構わない人はおらず、排除されて構わない人もいない。神から与えられた賜物であるいのちを戴いているすべての人が、大切にされ神のいつくしみのうちに生きることができるような社会。それを築きあげることが、現代社会にあって福音を告げ知らせるキリスト者の使命であると教皇は主張されます。

同時に教皇は、わたしたちが教会の歴史や伝統の中に安住し、新しい挑戦に消極的となることへも警告を発しておられると思います。
わたしたちは変化に対して臆病になりがちです。新しい挑戦に気後れしてしまいがちです。でも教皇はそういった姿勢を、「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった」と述べて批判されます。変化を恐れ現状に安住しようとするとき、人は他者の叫びに耳を傾けようともしなくなると指摘されます。

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先日来日された教皇は、様々な言葉でわたしたちを宣教者となるように鼓舞してくださいました。

東京ドームのミサでは、テーマでもある「すべてのいのちを守るため」を強調しながら、こう指摘されました。「キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています。知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です」

その上で、教皇は、わたしたち教会が日本にあっても、いつくしみのわざと福音宣教の最前線にある野戦病院となるようにと呼びかけ、「傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備」をするようにと求められています。

立川教会が、改修工事の終わったこの聖堂を中心にして、共同体としてイエスを体験し、イエスに勇気づけられて積極的に福音を告げしらせ、そしていつくしみの業の最前線にあって、野戦病院となりますように。

立川教会が、心の安らぎを与える場となると同時に、勇気を持ってその希望を告げしらせる宣教者を生み出す場となりますように。

立川教会が、この聖堂を中心として、いやしと和解とゆるしを、豊かにあふれ出させる共同体を育てていきますように。

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