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2020年1月 1日 (水)

主の降誕;日中のミサの説教

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12月25日午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、主の降誕の日中ミサの説教の原稿です。

世界のすべてを創造され支配される力ある神は、今日、厩の飼い葉桶に眠る小さないのちとして、わたしたちとともにいてくださいます。

限りない愛を込めて賜物として与えられた命を生きる人類が、神から離れ去っていたにもかかわらず、神の元へと引き戻すために、神は命じるのではなく、代理を送るのではなく、自ら人となられ、わたしたちが生きている現実へと自ら足を運ばれました。

そして両親の助けと守りがなければ、そのいのちを繋いでいくことができない幼子としてこの世界に来られることで、いのちを守ることの大切さを明確に示してくださいました。

わたしたちの神は、愛にあふれた神は、助けを必要としている人に、遠くから指示を与えるのではなく、自らその現場へと足を運ばれるか見えあることを示されました。まさしく、インマヌエル、わたしたちとともにいる神であります。

Christmasday1901

主の降誕の日中ミサで必ず朗読されるのはヨハネ福音書の冒頭です。そこには、この誕生した幼子イエスは、神の言葉であると記されています。ヨハネは、「言葉のうちに命があった」と記しています。

わたしたちは、数限りない言葉が飛び交う世界に生きています。人と人との交わりが希薄になったと言われてる世界に住んでいるのですが、しかし実際には、以前にも増して、言葉が飛び交う世界に生きています。

インターネットの世界や、スマホの様々なアプリの世界を垣間見ただけでも、毎日どれほどの言葉がそこで飛び交っているかは、想像に難くありません。

しかし同時に、飛び交っている数限りない言葉は、例えば反射的な相づちのような言葉であったり、意味もなく書き連ねられた言葉であったり、極端に言ってしまえば、単なる文字の連なりに過ぎないこともしばしばあるように感じます。発信される言葉の多くが、それほど意味を持たされることなくなんとなく飛び交っている。

自動販売機などの合成音声が、「ありがとうございます」と言ってくれたからと言って、わたしたちが感慨にふけることはありません。合成音声の背後には、感謝の心がないことを知っているからです。わたしたちには、発せられる言葉の背後に、込められた心があるのか、込められた思いがあるのか、感じ取る力が与えられているとわたしは思います。しかし、薄っぺらな言葉が、飛び交っている現代社会にどっぷりつかりながら、なんとなく、言葉全体がまるで合成音声のように、背後に心がないまま飛び交い続けているように思います。心がないのだから、何も響かないのです。何も訴えないのです、心地よい音の響きに過ぎなくなってしまうのです。わたしたちが書いたり発したりする言葉は、心を込めたいのちの言葉にしたいと思います 

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教皇フランシスコは、短い訪日でその言葉に関する豊かな宝を残して行かれました。教皇の言葉には力がありました。その力は言葉の裏にある心、思いの強さによって生み出されています。

力がある言葉だからこそ、多くの人に感銘を与え、多くの人の話題に上りました。わたしたち教会に生きる者にとっても、豊かな宝を残されました。

広島や長崎では、核兵器の廃絶や平和について力強く語りました。そのメッセージは、原子爆弾の悲劇を体験した広島と長崎から語られたからこそ、日本のみならず、世界中の多くの人の心に力強い生きた言葉として届いたことだと思います。

東京においても教皇様は、東北の大震災の被災者と出会い、災害からの本当の復興とは衣食住が整うことだけを意味するのではなくて、共同体の絆が再建されることが必要なのだと力説され、次のように言われました。

「わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決を包括的に受け止め、きずなという知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。わたしたちは、互いにつながっているのです」

互いに助け合い、関心を持ち合うことの大切さは、教皇フランシスコが2013年の教皇就任以来、強調されてきたことです。誰ひとりとして排除されない神の愛しみに満ちた世界の実現を、常に呼びかけてこられました。忘れられて良い人は誰もいない。無視されて良い人は誰もいない。すべてのひとが、神から与えられた賜物であるいのちを生きているのだから、おなじように大切にされなければならないし、互いに支え合わなくてはならない。教皇様は、そう繰り返してこられました。今回のテーマ、『すべてのいのちを守るため』は、教皇フランシスコが大切にしていることを明確に表す言葉です。

Christmasday1903

そして、このカテドラルで青年たちと出会ったとき、教皇様は困難に直面する人たちへの思いやりの心の大切さを強調して、こう言われました。

「さて、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです」

この短い言葉には、力がありました。ですから難民について滞在中に語ったのはたったこれだけであったにもかかわらず、様々な反応が巻き起こりました。

もちろんカトリック教会は、カリタスの活動などを通じて、長年にわたって難民の受け入れや支援活動を行ってきました。その行動を支える教会の信念と、具体的な実績の裏付けがあるからこそ、教皇様の言葉には、力がありました。

Christmasday1905b

今日本の社会を見れば、様々な国から来られた方が一緒に生活し、その中には、安全と安心を求めて避難してきた方々も少なくありません。文化の違い、言葉の違い、外見の違い。様々な違いによって、社会の中で孤立して、助けを必要としている人も少なくありません。

社会全体としても、若者たちの間にも、また高齢者の間にも、助けの手が差し伸べられることなく、孤立し孤独のうちに生きている人も少なくありません。

教皇様の言葉は、まさしく心のこもった力ある言葉でした。その「言葉うちに命が」ありました。

わたしたちも自らいのちの言葉を伝えるために足を運ぶものになりたいと思います。幼子としてわたしたちのもとへお生まれになったいのちの言葉。その言葉を、必要としている人のもとへ、積極的に出かけていって届け、またその言葉を目に見える形にする、神の言葉のメッセンジャーの道を歩みたいと思います。

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