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2020年1月 1日 (水)

謹賀新年

Shinnen2002

新年明けましておめでとうございます。

2020年が皆様にとって神の祝福に満たされた、素晴らしい日々に満たされた一年となるようにお祈りいたします。

新年1月1日は、恒例ですが、年が明けた午前零時、すなわち12月31日の深夜に、新年の一番最初のミサを捧げました。夜に入って北風の強まった寒い東京でしたが、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、通常の座席はほぼ満席でした。新しい年の初めを、祈りのうちに過ごすために集まってくださった皆さん、ありがとうございます。

2019年は、日本の教会にとって大きな出来事、すなわち教皇様の38年ぶりの訪日という出来事がありました。今年は、そこで語られた教皇様の様々な言葉を大切にし、深め、生かしていく一年にしたいと思います。

東京教区にあっては、皆さんの意見を集約しながら作業を続けている教区の宣教司牧方針の策定の最終段階に入ります。まもなく、意見や提言をとりまとめた文書を、公開するための準備を進めております。寄せられたご意見や提言をそのまますべて網羅すると、まとまりのない膨大な文書になってしまいますので、わたしが中心になって複数で検討作業を重ね、テーマごとにとりまとめた文書にいたしました。これに基づいて、今一度意見を集約し、さらには3月に再開する新しい教区の宣教司牧評議会において、それぞれの宣教協力体の意見をとりまとめ、最終的な宣教司牧方針へつなげていく予定です。

現在、宣教司牧評議会の評議員選定を、宣教協力体にお願いしておりますが、これまでとは異なり、評議員の方々には、宣教司牧評議会と宣教協力体のパイプ役になっていただくことをお願いしております。

以前にも記しましたが、プロセスは、エマオへの弟子と歩みをともにしたイエスに倣った、ともに歩みながら交わりを深め、よりふさわしい道を見いだしていくプロセスです。できる限り現実を反映した、教区にとってより良い方向性を見いだすことができるように努めたいと思います。

少子高齢化は、今や日本の社会の代名詞になっていますが、教会もその影響を強く受けています。小教区の共同体の高齢化はもとより、司祭団の高齢化も見逃せません。教区の司祭団には、80歳を遙かに過ぎても、小教区での責任を担ってくださる司祭がおられます。もちろんそれには感謝しかないのですが、同時にこれからのことも考えていかなくてはなりません。現状でも教区内には、いくつか複数の既存共同体に、定住する司祭を派遣できていないところがあります。

神学生がひとり誕生したとしても、現在のシステムでは、司祭叙階まで、最短で7年の時間が必要です。つまり、仮に2020年にひとり入学したとして、司祭になるのはどんなに早くても2026年。そして2020年に、東京教区から新しい神学生の入学はありません。

これまでも修道会などに司祭のお手伝いをお願いしていますが、修道会にあっても、司祭会員の高齢化は激しく進んでおり、これまでのように、自由にお手伝いいただける司祭が豊富に存在することは見込めません。

他の教区にあっては、ひとりの司祭が二つは言うに及ばず三つの教会を担当することも珍しくなく、すべての日曜日にミサを捧げることが、現実的に不可能な教会共同体も多く存在します。

もちろん司祭の任命にあってできる限りのことはいたしますし、安易な選択はしないつもりですが、現実的にみて、養成された信徒の司会者による集会祭儀の実施も、いくつかの地域では今後不可避になってくるかと思います。そういったことも含め、今後、教区の宣教司牧評議会などで検討を深めていきたいと考えています。

Shinnen2004

あらためて申し上げますが、教皇ベネディクト16世が、『神は愛』の中に記しているように、教会には、福音を告げること、礼拝をすること、愛の業を行うことの三つの要素が不可欠であり、それぞれが互いを前提として成り立っていることを、常に心にとめておきたいと思います。

社会の現実が厳しさを増し、神の賜物である命が危機に直面するような事態が深刻化する中で、教会共同体は、愛の業を行うことをこれまで以上に強めつつ、その前提である福音を告げしらせることも忘れないでおきたいと思います。愛の業は、あかしによる福音宣教となり得ますが、それは自動的にそうなるのではなく、福音を告げしらせると言うことを自らがしっかりと深め自覚するときに、初めて愛の業は福音のあかしとなり得ます。

また愛の業も、福音のあかしも、祈りと典礼に支えられていなければ、やはり意味がありません。ただ単に典礼の美しさだけを追い求めるのではなく、それを背後で支える霊性を深め、典礼についての学びを深め、教会の祈りの伝統に触れてその霊性を現代に生かす努力をしなければ、やはり全体はむなしいことになりかねません。

ひとりですべてを完璧にこなすことはできませんが、だからこそ教会は共同体として存在しているのだという、教会共同体の意味をあらためて考えていただければと思います。教会共同体は、仲良くするところではなく(もちろん仲が良いに越したことはありませんが)、互いの違いを受け入れて、それぞれができることを、自分のためではなく、教会共同体の業の一部として行うことで、全体として、上に掲げた三つの教会の要素が十全に実現される。そういう場であると思います。

2020年は、東京を中心にオリンピックとパラリンピックが予定されており、世界中から多くの方が訪れることでしょう。またその中には多くの信徒の方もおられるでしょう。教会がそういった方々にどのように対応するか、検討と準備をすすめます。

良い一年となりますように。

Shinnen2001

以下、新年最初のミサの説教の原稿です。

お集まりの皆さん、新年明けましておめでとうございます。

主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念する私たちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画は、聖母マリアの「お言葉通りにこの身になりますように」という、神の前でのへりくだりの言葉がなければ実現しませんでした。そしてその言葉こそは、人生をかけた決断であり、神の意志への信頼の表れでもありました。

神に完全に従うことを決意した聖母マリアの人生は、救い主であるイエスとともに歩んだ人生でありました。その人生は、シメオンによって預言されたように、「剣で心を刺し貫かれ」た苦しみ、すなわちイエスの十字架での受難に至る、イエスとともに苦しみを耐え忍ぶ人生でもありました。

教皇パウロ6世は、使徒的勧告「マリアーリス・クルトウス」で、十字架の傍らに立って、御子イエスととともに、激しく苦しんだ聖母マリアは、「母の心をもって自分自身を御子のいけにえに一致させ、彼女自身が生み、永遠の御父にささげたこのいけにえが屠られることに、愛を持って同意した」と指摘します。

その生涯の全てを神に捧げたマリアは、自らの最愛の子と苦しみをともにすることで、いのちを生きること自体が神への礼拝となることをあかしし、その礼拝に徹底的に生きる道の模範を示しておられます。

神の計画が実現することは、簡単なことではありません。神の救いの計画の中心には十字架の苦しみが存在しています。

イエスが背負われた十字架、イエスがその命をささげられた十字架、それは、私たち人類が、神からの愛に背いて犯し続ける数限りない罪の結果です。私たちは、まるで主の十字架における苦しみと自己犠牲が、2000年前のあの日に終わってしまい、すべてが許されたかのような傲慢さで、今日もまた罪を犯し続けています。

十字架の上で私たちの罪を背負い、その傍らで苦しみをともにしながら立ち尽くす聖母とともに、教会は、現代社会の直中にあって、人類が犯し続ける数々の罪を悲しみのうちに見つめながら、立ち尽くしています。

人類の犯し続ける罪とは、神の定められた完全な世界の状態、神の秩序への挑戦であります。ですから教会は、黙して立ち続けるのではなく、定められた神の秩序へ立ち返るようにと呼びかけ続けています。

神が最初にこの世界を創造されたときの秩序は、当然ですが、完全な秩序でありました。それを平和と呼びます。しかし人間の罪は、最初の段階からこの神の完全な秩序を破壊し始めます。私たちは、戦争や紛争がなければ、それで世界は平和だと思ってしまいますが、実はそれでは足りないのです。神の秩序があらためて確立されたとき、初めて神の平和が確立されるのです。ですから、どうみても今の世界は、神の望まれる平和な世界ではない。

戦争や紛争の状態に直接巻き込まれてはいないものの、現代を生きる私たちの国において、いのちが危機に瀕している状況は、神が望まれない秩序の破壊の最たるものであると、改めて強調したいと思います。

神の平和を実現することは、単にきれいな言葉を並べ立てるだけでは足りない。そこには必ずや困難や苦しみが伴います。イエスの背負われる十字架の重さを、聖母とともにわたしたちも背負わない限り、神の秩序は完成に至ることがないからです。

教皇パウロ6世は、「平和の女王を通じて」、平和を神に祈り求める日として、この日を世界平和の日とも定められています。

世界平和の日は、今年で53回目を迎えます。53年にわたって教会は平和を訴えてきたのですが、いのちの危機は去ることなく、神の秩序の実現にはほど遠いのが現実です。

今年の世界平和の日に当たり、教皇フランシスコは「希望の道である平和」と題するメッセージを発表され、先日の日本訪問で力強く語られた、核兵器の廃絶への呼びかけを繰り返しておられます。

同時に教皇は、平和の確立には困難が伴うけれども、人類が平和への望みを持ち続けるからこそ、その困難な状況にあっても、「わたしたちはそれを生き、受け入れることができます」と指摘されています。
その上で、教皇は、現代社会における相互不信が様々なレベルでの孤立を生み出し、暴力的な社会を生み出しているとして、こう指摘されます。

「脅威にさらされた状況はことごとく、不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向けます。不信と恐れは、決して平和的な関係に結びつかない悪循環で、関係性をもろくし暴力の危険を増大させます。」

そして、平和を求める道にあって困難に直面しても、くじけることのないようにと、こう述べます。
「平和の歩みは、時間がかかる骨の折れることなのです。それは、真理と正義を求め、犠牲者の記憶を尊重し、報復よりもはるかに強い共通の希望に向けて一歩ずつ切り開いていくという、忍耐力を要する作業です」

Shinnen2003

今日の福音において、マリアは、起こった出来事の不思議さに驚く羊飼いたちの興奮から距離を置き、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。それは、ご自分と御子のともに歩む人生の道程が、自分の思いを主張する人生ではなく、他者のために捧げられ、他者のために様々な困難を乗り越え、耐え忍ぶ人生であることを、すでに理解していたからではないでしょうか。

教会は聖母マリアの模範に倣い、社会の現実の喧噪に踊らされることなく、心の静寂のうちに、神の救いの計画に与る道を見極め続けたいと思います。そして困難に直面しても、静かに耐え忍びながら、希望を失うことなく、見極めた道を歩むことをあきらめずに、一歩ずつ前進を続けたいと思います。

東北の大震災の被災者へのメッセージで、教皇フランシスコはこう呼びかけられました。

「何もしなければ結果はゼロですが、一歩踏み出せば一歩前に進みます。・・・だれかのため、皆さんのため、皆さんの子どもや孫のため、そしてこれから生まれてくる次の世代のためです」

誕生したイエスが聖母マリアとともに歩まれた人生は、十字架へ至る苦しみと困難の連続であったことを思うとき、わたしたちも、困難や苦しみを避ける道を選ぶのではなく、その直中にあって、聖母に倣い、忍耐力を持って神の計画の完成に至る道、神の平和の実現への道を、歩みを続けたいと思います。

 

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