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2020年2月27日 (木)

ミサに関する文書への補足

Ashwed20

本日2月27日から3月14日まで、新型コロナウイルスの感染拡大を防止する取り組みに協力するため、東京教区における『公開ミサ』中止を発表したところです。

数点、補足します。

1『公開ミサ』について

典礼に『公開ミサ』とか『非公開ミサ』という定義があるわけではありません。もともとの「感染対策注意喚起」の文書作成で参考にした、香港教区の文書にある「Public Mass」を、そのように翻訳しました。すなわち、現時点での主眼は「濃厚接触の可能性をできる限り低減するために何ができるか」ですので、「不特定多数の人が自由に参加できる」という意味で『公開』を使用しています。

2『ミサの中止』について

ミサは中止にはなっていません。中止になっているのは上記『公開ミサ』であって、教区内の小教区や修道院にあっては、「公開されない」形で、ミサが通常通り毎日捧げ続けられています。東京教区共同体内から、ミサが消えてしまったわけではありません。司祭はたとえ一人でミサを捧げたとしても、すべては「公」のミサとして捧げます。

『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』(ヨハネパウロ二世回勅「教会にいのちを与える聖体」)

3『霊的聖体拝領』について

あらためて言うまでもなく、聖体はわたしたちにとって最も重要な秘跡です。教会憲章には、次のように記されています。

「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」

またヨハネパウロ二世は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史を旅するうえで携えることのできる、最も貴重な宝だと言うことができます」と述べて(回勅『教会にいのちを与える聖体』)、個人の信仰にとってもまた教会共同体全体にとっても、聖体がどれほど重要な存在であるかを繰り返し指摘されます。

ミサは、キリストの贖いのわざとしての「犠牲とそれに続く復活を、秘跡の形で再現する」ものとして、キリストがいまここに現存し、また現存し続けると言う意味でも、教会にとって最も重要な位置を占めています。

さらにヨハネパウロ二世は「聖体のいけにえの救いをもたらす力が完全に発揮されるのは、主の体と血を聖体拝領によって受けるときです。聖体のいけにえは本来、聖体拝領を通じて信者とキリストが内的に一致することを目指しています」と述べて、聖体拝領の重要性を指摘されています。(回勅『教会にいのちを与える聖体』)

すなわち、聖体の秘跡が信仰生活にとってそれほど重要であるならば、今般の状況のように、公開のミサを一時的に中止することは、上記のように、「公』のミサは捧げ続けられるとはいえ、信徒の霊的生活の側面からは、あってはならないことです。

今回の決断は、教会が存在する地域共同体の共通善に資するために下したものですが、それが一時的に聖体祭儀が捧げられないような状態をもたらすことと、結果として生み出される善とを比較しながら到達した、何日もの祈りと熟慮と諮問の結果であることをご理解頂けると幸いです。

同時にそうであっても、司教にはどのような場合でも、信徒が聖体の秘跡に与るためにどうするのかを配慮する義務があります。

ここで注目したいのは、同じ回勅でヨハネパウロ二世がこう述べているところです。

『キリストの現存は、キリストのいけにえによる感謝の祭儀から生じ、拝領されることを目指しますが、それには秘跡による場合と、霊的な仕方による場合の両方があります」(ヨハネパウロ二世回勅『教会にいのちを与える聖体」)

わたしたちにとって欠くことのできない『聖体拝領』には、『秘跡による場合』と『霊的な仕方による場合』の二種類があるという指摘です、これが教会が伝統的に教える『霊的聖体拝領』のことであり、それはミサに与ることが様々な事情で不可能な場合のたすけであるだけではなく、聖体礼拝などの信心の持つ意味にも深くつながるものです。

それは例えば、聖体賛美式の儀式書の緒言には、「聖体の顕示と賛美式は、聖体に現存されるキリストをたたえ、聖体拝領によって最高度に実現したキリストとの一致を味わい深めるものであるから、霊と真理のうちに神に捧げるべき礼拝にとって大きな助けとなる」と記され、聖体拝領と聖体礼拝の連続した関係が示されています。

実際にミサに与って聖体拝領すること(秘跡による場合)は最も重要ですが、それ以外の場合にも、例えば聖体礼拝のうちにあって、またはミサに参加することができない場合にあって祈りのうちに、現存されるキリストとの一致を求めながら霊的に聖体を拝領することも忘れてはいけない教会の伝統です。

今回の状況にあっては、日々悪化する事態の深刻さに鑑み、また教会が存在する地域社会の共通善へ資するために、主日の公開のミサを行いませんので、秘跡による聖体拝領を受けていただくことができません。(病気など緊急の場合は、司祭にお申し出ください。例えば病院が立ち入り禁止などにならない限り、できる限りの努力をして対応します)そこで、教会には『霊的聖体拝領』の伝統があることを、是非とも思い出してください。

決まった形式はありませんが、例えばロザリオの祈りを捧げた後に、聖体のうちに現存されるキリストに思いを馳せながら、一致を求めて、心の内で拝領をすることでも良いですし、または主日にあっては、『聖書と典礼』を利用して、三つの聖書朗読を読み、共同祈願を唱え、主の祈りを唱えた後に、心の内で拝領をすることもできます。

または旧来の伝統に従って、ロザリオなどの祈りの後に、心の内に拝領し、次のような祈りを唱えることもできるでしょう。

『聖なる父よ、あなたが私の心に住まわせられた聖なるみ名のゆえに、また、御子イエスによって示された知識と信仰と不滅のゆえに、あなたに感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。

全能の神よ、あなたはみ名のためにすべてをつくり、また人々があなたに感謝するため、御子によって霊的な食べ物と永遠のいのちを与えられました。力あるあなたに何にもまして感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。アーメン」(カルメル会『祈りの友』より)

もちろん以前よく使われていた公教会祈祷文に掲載された祈りでも構いません。

ミサの映像配信がある場合は、通常通りミサの進行に従い、拝領の場面では、心の内に主を迎えながら、霊的に拝領します。

なおこういった事情の中で、ミサに与ることができない場合でも、祈りのうちに主と一致を求めることで(霊的聖体拝領)、教会全体で捧げられる感謝の祭儀のうちに教会全体の交わりに与ることになります。状況が少し異なりますが、『司祭不在の時の主日の集会祭儀指針」の34には、次のように記されています。

「迫害や司祭不足の理由から、短期間あるいは長期間、聖なる感謝の祭儀に参加できないでいる個々の信者あるいは共同体に救い主の恵みが欠けることは決してない。事実、彼らは秘跡に与りたいとの希望で内的に生かされており、さらに祈りにおいて全教会と一つに結ばれて神に哀願し、また自分たちの心を神にあげているからである。

彼らは聖霊の力強い働きによって、キリストの生ける体である教会ならびに主ご自身との交わりにあずかっており、秘跡の実りにもあずかっているのである」

四旬節の始まりに、このような事態になったのは残念ですが、これを是非とも振り返りの機会として、特に御聖体の持っている意味を改めて見つめ直し学ぶときにしていただければと思います。主との一致を求める心と、共同体とともに一致する心を持って祈りを捧げるとき、わたしたちは決して主と、そして共同体との交わりから、見捨てられることはありません。

(この際、ぜひご参考までに、聖ヨハネパウロ二世教皇の回勅「教会にいのちを与える聖体」をお読みください。90ページに満たない短い回勅で、学ぶところが多くあります。)

 

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2020年2月25日 (火)

新型コロナウイルス感染症に伴う、公開のミサ中止について

カトリック東京大司教区の皆様

新型コロナウイルス感染症に伴う、公開のミサ中止について

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

2020年2月26日

新型コロナウイルスによる感染症の拡大と重篤な症例が報告されるに至り、一昨日には厚生労働省の専門家会議から具体的な見解が示されました。

感染が拡大する時期にあって、国の専門家会議は、今後、一から二週間が感染拡大のスピードを抑えられるかどうかの瀬戸際だという見解を示し、大多数が集まり濃厚な接触の可能性のある集会などの自粛が求められています。

すでに東京教区では、第一次と第二次の注意喚起をもって、感染拡大のための対策を講じてきましたが、さらに感染が拡大し多くのかたの生命が危険にさらされる可能性が出てきました。感染拡大の危険を軽減し生命を守るために、教会としてもこの重要な二週間にあってはこれまでにない対策を講じる必要があると判断いたしました。

そこで、考えられる様々なリスクを避けるため、以下のように対応を定めましたので、第一次と第二次の注意喚起とともに、具体的な対応をお願いいたします。

1:2月27日(木)から3月14日(土)まで、公開のミサを原則として中止します。

2:特に3月1日と8日の主日にあっては、小教区をはじめ、定期的に不特定多数の信徒が参集して主日ミサが行われている施設では、公開のミサを原則として中止にします。

3:ただし、結婚式や葬儀は、充分な感染対策をとった上で、通常通り行います。

4:2月27日から3月14日まで、週日のミサは、ごく小規模な参加者の場合を除いて、同様に中止します。

5:大きな状況の変化がない限り、現時点では初期対応として二週間のミサ中止を考えていますから、3月15日以降は、通常に復帰する予定です。ただしその場合も、第一次と第二次の注意喚起にご留意ください。

6:ミサ以外の諸行事に関しては、規模が小さい集まりを除いて、できる限り延期または中止するようにご配慮ください。なお飲食が伴う行事に関しては、すでに東京都が自粛の方向性を示しています。

7:3月1日と8日にあっては、東京教区の「すべての信徒」を対象に、主日のミサに与る義務を免除します。それぞれが聖書を朗読し祈りを捧げる時を持つことを勧めます。また可能であればインターネットでミサを中継できるように手配をいたしますが、その場合、中継のミサに与って霊的聖体拝領をするように勧めます。

教会にとって、日々捧げられるべきミサの中止の決断は、容易なことではありません。判断に至った状況の深刻さを、ご理解くださいますように、お願いいたします。

東京教区の小教区にあっては、観光客も含めいわゆる「不特定多数」の方々が集まる規模が大きい教会も少なくありません。また信徒にあっても、高齢の方々が増加している現実を考えると、ミサ中における濃厚接触の可能性や、ミサへ来るための移動中の感染の可能性などのリスクを回避することは重要です。もちろんそれぞれの方々の自己判断に信頼したミサ参加自粛の要請にとどめることも考えましたが、感染拡大を食い止めるための重要な二週間にあっては、その効果を確かなものとするために、ミサを中止するべきだと判断しました。

上記の通り、現時点では3月14日までの時間を区切っての対応としております。限定した期間が終了する前に今一度判断をいたしますが、行政からの積極的な自粛要請がある場合を除いて、感染期間中すべてに渡って、ミサを中止する考えはありません。感染拡大を食い止めるための、緊急避難措置とご理解いただければ幸いです。
 
もちろんわたしたちは祈りの力を信じています。病気が蔓延したからといって祈りを止めることはありません。感染に対応する様々な手段を講じる中に霊的な戦いをも含めていなければ、この世界に教会として存在する意味がありません。

「私の記念としてこれを行え」と命じられた主の言葉を思い起こすとき、ミサを中止にすると言うことは、霊的な敗北のように見えてしまいます。だからこそ、この危機に直面している時代には、通常以上に様々な祈りを捧げなければなりません。ミサの中止は敗北ではなく、祈りの持つ力を改めて認識し、祈りによって霊的に深めるための機会でもあること、また祈りの力を改めて認識する機会でもあることを心にとめたいと思います。

信仰におけるいのちへの希望を掲げながら、愛といつくしみの心を持って、感染した方々の回復と事態の収拾を、わたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎのもと、父である神に祈りましょう。

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Suspension of Public Masses due to the Spread of COVID-19 (NOTICE)

26 February 2020

Dear brothers and sisters in the Archdiocese of Tokyo:

Re: Suspension of Public Masses due to the Spread of COVID-19

With the recent reports concerning the spread of infections and serious cases due to the new corona virus, the experts commission of the Ministry of Health, Labour and Welfare has issued on 24 February specific preventive measures and guidelines in response to the situation.

It was pointed out that with the rate of the spread of infections at this time, the next two weeks is crucial for the prevention of outbreaks, thus, recommending to refrain from holding gatherings with unspecified number of people.

In the Archdiocese of Tokyo, we have already issued two advisories concerning measures related to the COVID-19. However, it is expected that the infection will spread more widely, raising the possibility of putting many lives in danger. In order to contain the spread of the COVID-19 and to protect lives, the Church is determined to take necessary even unprecedented measures for this crucial two weeks.

In order to avoid various possible risks, we have decided to issue the following measures, and I encourage everyone to observe them together with the specific measures stated in the first two advisories.

1: In general, public masses from February 27 (Thursday) to March 14 (Saturday) will be suspended.

2: In particular, public masses on the following Sundays, March 1 and March 8, in general will be suspended in parishes and in public facilities where a large number of faithful coming from various places regularly gather for Sunday masses.

3: However, weddings and funerals will be held as usual, only after taking sufficient measures to prevent infections.

4: Weekday masses from February 27 to March 14 will also be suspended, except for small communities.

5: This two-week suspension of the mass is taken as an immediate response to the present circumstances, thus, unless there is a major change in the situation, the suspension will be lifted after March 15. In such case, kindly take note of the measures stated in the first and the second advisories.

6: For events other than masses, as much as possible kindly consider postponing or canceling them, except only for small gatherings. Concerning events serving food and drinks, please be informed that the government of Tokyo has already issued directives on the matter.

7: For March 1 and 8, all the faithful in the Archdiocese of Tokyo will be exempted from their obligations to attend Sunday mass. I recommend everyone to find time to read the Bible and offer prayers. We are looking at the possibility of broadcasting the mass via internet, and on such case, I encourage participation by viewing the live mass in the act of spiritual communion.

It is not easy for the Church to make this decision to suspend masses, which should be offered daily. But I am hoping for your understanding of the seriousness of the situation that led to such a decision.

In the parishes of the Tokyo Archdiocese, there are quite a number of churches visited by a large number of people, including tourists, who come from many different places. Moreover, thinking about the increasing number of elderly people among the faithful, it is important to put efforts in avoiding risks, such as the possibility of close contact with other people during the mass and the possibility of getting infected along the way as they travel to church. We have certainly considered the possibility of emphasizing personal responsibility of the faithful in their participation in the mass. However, during this crucial two weeks, in order to prevent the spread of the infection, and to ensure its effectiveness, it was decided that the mass should be suspended.

As mentioned above, the period until March 14 is an immediate response to the situation at the moment. Before the prescribed period ends, a decision will be made once again, and unless there is a serious request from the government to refrain from holding gatherings, there is no plan to continue the suspension of the mass during the entire period when there are cases of infections. I hope you understand that this as an emergency safety measure to stop the spread of the infection.

We absolutely believe in the power of prayers. There is no stopping us from praying just because the infections had spread widely. In taking various practical measures to respond to COVID-19, there is no point in having a Church in this world unless we include our spiritual response in our fight against COVID-19.

Recalling the words of our Lord commanding "Do this in memory of me," would lead us to think that the suspension of the mass is for us a spiritual defeat. The fact is we must offer more prayers than usual during this time of crisis. The suspension of the mass is actually not a defeat, but rather it is an opportunity for us to reaffirm the power of prayer, to deepen our spiritual life through prayer, and to recognize from our hearts its power.

Grounded on a faith that hopes for life, with compassion and love, let us pray to God our Father, through the intercession of our blessed Mother, that He may restore those who are infected by COVID-19 and take full control of the situation.


Tarcisio Isao Kikuchi, SVD
Archbishop of Tokyo

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2020年2月21日 (金)

ミャンマーの視察旅行

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東京教区は、1979年以来、ミャンマーの教会を支援しています。毎年11月の第3日曜日は「ミャンマーデー」と定められ、ミャンマーの教会支援のための献金が続けられています。

教区のホームページには、次のように記されています。

「東京大司教区は1964年よりドイツのケルン大司教区と姉妹関係を結び、お互いに助け合い、祈り合う関係を保っています。1979年には両大司教区の友好25周年のお祝いが行なわれました。当時の白柳誠一東京大司教(後に枢機卿)は、ケルン教区の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の全信者に呼びかけました。来日していたヘフナー枢機卿(当時のケルン教区長)と白柳大司教は、ケルン教区の精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマー(旧ビルマ)の教会を支援することに合意しました。こうして東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけることになったのです。ミャンマーが支援先に選ばれたのは当時ミャンマーが最も貧しい国の一つであり、援助を必要としていたからです」

Myanmar2004

この数年間は、築地教会のレオ神父様やCTICの高木健次神父様を中心に、ミャンマーの神学生養成支援を行ってきました。その一環として、ミャンマーに16ある教区全体の哲学過程の神学院(2年間)として、マンダレー大司教区のピンウーリンに設置されている神学院で、建物建設を支援してきました。これまでに宿舎や教室、食堂、図書館、ホールなどのために2棟が完成しています。計画としてはもう1棟宿泊棟を建てて計画は完了ですが、このたび2月の第一週に3棟目の起工式が行われたため、出席することにして、それ以外の支援先の視察もかねて現地まで出かけてきました。訪問団は、レオ神父、高木健次神父、天本神父、泉雄生神父に私5名に、現地で活動する御受難会の畠神父様と支援する信徒の方お一人の7名の訪問団となりました。

Myanmar2001

マンダレーでは昨年大司教になったマルコ・ティン・ウィン大司教様に迎えていただき、多くの司祭団やシスター方から歓迎していただきました。

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翌朝6時には、マンダレーのカテドラルでミサを司式させていただきましたが、早朝にもかかわらず、多くの司祭やシスター方、そして信徒の方々がミサにあつまり、香炉まで使う荘厳なミサでした。なおミサは英語で司式させていただきました。

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ちなみに首都のヤンゴンあたりは、日中も30度を超える暑さですが、マンダレーあたりは標高も高く、今回の6日間の訪問の間は、朝晩を中心に非常に涼しく、日本の冬の服装でも構わないほどの「寒さ」でありました。

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その後、車で2時間ほど移動して、神学院のあるピンウーリンへ。全国16教区から35名ほどの神学生が学んでいました。哲学課程2年の神学院で、日本と同じ16教区から35名ですから、神学生は日本よりも多くいます。

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神学生や、近隣にある養護施設の子どもたちも参加して、基礎への祝福とコンクリート流し込み、そして植樹の後に食事会。その後にはホールで、神学生や子どもたちが、ミャンマーの諸部族の伝統的な歌や踊りを披露して歓迎してくださいました。

翌日には近郊の小神学院の隣で引退されている前教区長のニコラス・マン・タン大司教の家を訪問。ニコラス大司教は、引退後に農業に目覚めて、家の庭一杯に畑やハウスを作り野菜作りに励んでおられました。

そして一行はさらにラーショーの町へ。ここではまもなく75歳になる教区長のフィリップ司教様と、その前の週に司教叙階を受けたばかりの協働司教であるルカス司教様に迎えていただきました。ルカス司教はサレジオ会員で、その叙階式には、さいたま教区の山野内司教も参加されたとか。

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東京教区は、かつてケルンから豊かに援助していただきましたから、今度はその受けた恵みを、さらに必要としているところへ渡していきたいと思います。そうすることで今度は、その「恵み」が、さらに次の必要としているところへ手渡されていくことによって、互いに支え合う愛の輪が広がっていくことを期待しています。

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迎えてくださったミャンマーの教会の皆さんに感謝するとともに、これまで支援をしてくださった東京教区の皆様にも心から感謝いたします。まだまだミャンマーの司祭養成支援を続けていきたいと思います。

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2020年2月16日 (日)

世界病者の日ミサ@東京カテドラル

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2月11日はルルドの聖母の祝日ですが、そのルルドの泉での様々な奇跡的治癒の出来事や、心身の癒やしを求めてルルドに多くの人が集い、聖母の取り次ぎを求めて祈ることに倣い、この日は世界病者の日と定められています。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、毎年2月11日の午後1時半から、教区の行事として世界病者の日ミサを捧げています。今年は550人を超える方が参加してくださいました。

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手話通訳や要約筆記をしてくださった皆さん、ありがとうございます。またこの日は午前中に、大聖堂ではスカウトのBP祭ミサが行われましたが、カトリックセンターでは東京教区の障がい者の方々の団体であるヨブの会の会議も行われました。

なお新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が拡大する中、東京教区ではすでに初期の対応を発表しているところです。香港教区では灰の水曜日を含めて2週間、シンガポール大司教区では無期限に、公のミサを停止する措置を執りました。

東京教区の指針は、カトリック医師会の東京支部の専門会のアドバイスをいただきながら策定し、また必要に応じて改訂するものです。状況を見極めながら専門家の指導をいただいて、対応していきます。

以下、当日のミサの説教の原稿です。

この数週間、新型コロナウイルスによる感染症が拡大し、国内における感染事例の報告も少なからず聞かれるようになりました。

ありとあらゆる情報が瞬時に飛び交う現代社会にあって、特に専門家ではないわたしたち大多数は、それまでに体験したことのない事態が発生すると、確実なことがわからなければわからないほど、疑心暗鬼の闇にとらわれてしまいます。

とりわけ今回のように、健康に影響があるとなると、その最終的な結果が確実にはわからないため、さらに不安は深まってしまいます。

不安の闇に取り残されたとき、わたしたちはどうしても差し込む光を求めてさまよってしまいます。闇にさまようとき、わたしたちの判断力は衰え、時に偽の光に飛びついてしまったり、または不安の根源を取り除こうとして、犯人捜しに奔走し、誤った差別的な言動をとってみたりします。

闇の中にあって必要なことは、互いの人間の尊厳を尊重しながら、互いの心身を慮ることであり、互いに助け合って、真の光を見いだすことであります。

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今回の感染症の拡大にあって、教会は不特定多数が定期的に集まる場所ですから、まずは常識的な範囲で、感染症の予防に努めたいと思います。この時期は毎年のようにインフルエンザの予防が話題に上りますから、通常と同様の常識的な感染予防にまず務めたいと思います。その上で、お互いへの思いやりを忘れず、医療関係者や専門家の助言に耳を傾けながら、不必要な風評を広めたり、誤った差別的言動に陥らないように心を配りたいと思います。

そして教会は、疑心暗鬼の闇の中にあって不安に苛まれ、心身ともに疲れ切った人々へ、 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という、マタイ福音に記されたイエスの言葉を高く掲げます。

教会こそが、こういった不安を増幅させつつある社会の現実の直中にあって、真の心の安らぎを生み出す場であることを、明らかに示したいと思います。わたしたちは、多くの人が生きていくために抱え込んでいる心の重荷を、遠慮せずにひとまず解き放って、心の安らぎを実感できるような教会共同体でありたいと思います。

マタイの福音のこの言葉は、教皇フランシスコが今年の第28回世界病者の日にあたり、選ばれたテーマとなっています。

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世界病者の日と定められた2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。

ルルドの泉がもたらす奇跡的治癒は、キリストのいつくしみの深さとすべてを超える偉大な力を示していますが、同時に、ルルドという聖地自体が、そこを訪れる多くの人に心の安らぎを与えていることも重要です。すなわち、聖地自体が、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっているからです。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、すべての教会共同体がおなじように生み出したい、霊的な安らぎの雰囲気の模範であります。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められ、病気で苦しんでいる人たちのために祈り、同時に医療を通じて社会に貢献しようと働く多くの方々のために祈りを捧げる日とされました。もちろん教会には、奉献生活者をはじめ信徒の方々も含め、多くの方が医療活動に関わっておられます。その献身に、心から感謝したいと思います。

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さて教皇様は今年のメッセージの中で、次のように述べられています。
「もろさ、痛み、弱さを抱えた自身の状態に苦悩する人々に、イエス・キリストは律法を課すのではなく、ご自分のあわれみを、つまりいやし手であるご自身を与えてくださいます。・・・奥深くにまで届くそのまなざしは、見て、気づきます。無関心にはならずに目をとめ、どのような健康状態にあってもだれ一人排除することなく、人間のすべてを受け入れ、ご自分のいのちに入り、優しさに触れるよう、一人ひとりを招いておられます。」

その上で「実際に自分自身でそれを経験した人だけが、人を慰めることができるのです」と言われます。

主イエスが人間の苦しみに真の慰めを与えることができるのは、主ご自身が、十字架上で生命を捧げるまでの苦しみを体験されているからです。

わたしたちは、それぞれの生命が尽きる日まで、完全完璧な状態で過ごすことができるわけではありません。人生の途上にあって、その度合いには違いがあるとはいえ、心身の様々な困難に直面し、さらには仮に健康を誇っていたとしても、年齢とともに、誰かの助けがなければ生命をつなぐことができません。ですから、自らの弱さを自覚し、慰めを体験することで、はじめて他者に対しての慰めとなることができます。

しかしながら同時に、教皇はこうも言われます。
「苦しみの厳しさはさまざまです。難病、精神疾患、リハビリや緩和ケアを要する状態、さまざまな障がい、小児疾患や高齢者疾患などです。こうした状態においては、人間らしさが奪われるように感じられることがあります」

そこで教皇フランシスコは、困難な状態にある人たちを念頭に、「全人的な回復のためには、治すだけではなく相手を思いやり、それぞれの病者に合わせて対応することが求められ」るのだと指摘します。


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東京ドームミサで教皇はわたしたちに次のように呼びかけられました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」

世界病者の日は、特定の疾患のうちにある人たちへの回復だけを対象にした、特別な人の特別な日ではなく、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感する日でもあります。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、野戦病院となる決意を新たにする日でもあります。

ルルドの泉で神のいやしの泉へとベルナデッタを招いた聖母マリアが、御子イエスのいつくしみへと、わたしたちを導いてくださいますように。

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2020年2月11日 (火)

日本26聖殉教者祭@本所教会

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本所教会では、日本26聖殉教者祭を、毎年2月の最初の日曜日に開催しています。今年は2月5日を間近に控えた2月2日の日曜日に、殉教祭が行われ、近隣の教会からも多くの方が参加されました。

Honjo2002m

わたしは、その昔、名古屋の神言会の小神学生だった頃から、当時の下山主任司祭の神学生援助への御礼もかねて、長年にわたりこの殉教祭に通っていたこともあり、これからもできる限り2月の殉教祭には参加させていただければと思っています。

以下、当日の説教の原稿です。

Honjo2003m

昨年11月に日本を訪問された教皇フランシスコは、「すべてのいのちを守るため」をテーマとして、各地で様々な側面から、いのちについて語られました。

言うまでもなく私たちのいのちは、神からの賜物であり、神は愛を込めて、人を神の似姿として創造されたとわたしたちは信じています。そこに何物にも代えがたい人間のいのちの価値があり、人間の尊厳があります。

教皇フランシスコは、広島や長崎では核兵器廃絶や平和について語り、東京では、無関心や孤立や孤独のうちに危機に直面するいのちを守る必要性を語られました。人間はひとりでいのちをつないでいくのではなく、互いの出会いのうちに支え合って生きていくのだと諭されました。

教皇は「有能さと生産性と成功のみを求める文化に、無償で無私の愛の文化が、「成功した」人だけでなくどの人にも幸福で充実した生活の可能性を差し出せる文化が、取って変わるよう努めてください」と、到着して早々に日本の司教団に呼びかけられました。

誰ひとりとして排除されて良い人はおらず、忘れられて良い人もいない。教皇フランシスコは、排除のない世界の実現のために、世界各地で呼びかけ続けておられます。

実質三日に過ぎなかった日本訪問でしたが、教皇フランシスコはいのちの価値について語っただけではなく、長崎で殉教者の地を訪れて、信仰を守り抜いたわたしたちの信仰の先達についても話されました。西坂の26聖人殉教地を訪れた時には、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。
「しかしながら、この聖地は死についてよりも、いのちの勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです」

聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、いのちの勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いた。そこから「福音の光」という希望が生み出されたと教皇は指摘されました。

Honjo2004m

「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。テルトゥリアヌスは『護教論』において、権力者の暴力と不正を告発し、キリスト教の立場を明確にする中で、殉教を通じた聖霊の勝利を示します。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの勝利を、教会の存在があかしし続けていくという意味においてです。

西坂での教皇フランシスコの言葉を続けます。
「ここは何よりも復活を告げる場所です。襲いくるあらゆる試練の中でも、最後は死ではなく、いのちに至ると宣言しているからです。わたしたちは死ではなく、完全な神的いのちに向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです。確かにここには、死と殉教の闇があります。ですが同時に、復活の光も告げ知らされています」

わたしたちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返るだけではなく、その出来事から現代生きるわたしたちへの希望の光を見いだそうとするのです。

それでは二十六聖人の殉教は、今を生きるわたしたちに、どのような希望の光を示しているでしょうか。

教皇フランシスコは西坂で、「殉教者の血は、イエス・キリストがすべての人に、わたしたち皆に与えたいと望む、新しいいのちの種となりました。そのあかしは、宣教する弟子として生きるわたしたちの信仰を強め、献身と決意を新たにします」と言われました。

わたしたちは信仰の先達である殉教者を顕彰するとき、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音をあかしし、告げしらせるものになる決意を新たにしなければなりません。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音のあかしとして、いのちを暴力的に奪われるときまで、信仰に生きて生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音をあかしし、告げしらせたのです。

わたしたちは殉教者に倣いたい、倣って生き抜きたい、倣って信仰をあかしして生き抜きたい。

Honjo2005m

それでは現代社会にあって、わたしたちは何を福音として告げしらせるのでしょうか。

教皇は東京ドームのミサで、日本の現実を次のように述べられました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです」

その上で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『わたし』に対抗できるのは、分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち」、これしかありません」とのべて、教会の信仰のあかしが、個人的なものではなく共同体のあかしであることを明確に示されます。

わたしたちが毎日唱える主の祈りには、『わたしたち』という言葉があっても、『わたし』という言葉はないと、教皇は昨年2月の一般謁見で述べられました。その上で、「どうして、神との対話には個人主義が入る余地がないのでしょうか。世界の中で苦しんでいるのは自分だけであるかのように、自分の問題を誇示してはなりません。兄弟姉妹としての共同体の祈りでなければ、神への祈りにはなりえません。共同体を表す『わたしたち』として唱えます。わたしたちは兄弟姉妹です。わたしたちは、祈りをささげる民です」

孤立や孤独を深めている社会の現実が人間のいのちを危機にさらしているのであれば、それに対抗できるのは、共同体における兄弟姉妹のきずなです。わたしたちの信仰は共同体の信仰です。「分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち』」の共同体です。共同体の信仰におけるあかしこそが、孤立や孤独を深める現実に対する希望の光を生み出す源となります。

Honjo2006m

二十六殉教者が今日私たちに示しているのは、二十六名一人ひとりのヒロイックな信仰のあかしであるとともに、二十六名の共同体としての『わたしたち』の信仰のあかしが持つ、いのちの力と希望の光です。

教会は、現代社会にあって、兄弟姉妹の交わりを通じて、孤独と孤立の闇に輝く光となりたいと思います。『わたしたち』の信仰における希望の光を、証しする存在となりたいと思います。二十六聖殉教者の共同体としての信仰の模範に倣い、わたしたちも勇気を持って信仰に生きる、いつくしみと愛の手を無償で差し伸べる共同体となりましょう。

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2020年2月 1日 (土)

奉献生活者の日ミサ

Hoken2006

2月2日の主の奉献の祝日にあわせて、教皇ヨハネパウロ2世は、1997年に奉献生活者のための祈りの日を設けられました。

日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることをその時からはじめ、今年の奉献生活者のためのミサは、本日2月1日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

Hoken2001

司式はチェノットゥ教皇大使、さいたま教区の山野内司教とわたしが大使の両脇で共同司式し、男子修道会の多くの管区長や責任者が共同司式してくださいました。聖歌隊はイエスのカリタス会のシスターたち、説教はわたしが担当しました。

Hoken2003

以下、本日のミサの説教の原稿です。

東北地方を中心に大震災が発生してから、まもなく9年となります。日本の教会は、仙台教区とカリタスジャパンを中心にして、この9年間、被災地の復興支援に携わってきました。わたしが改めて申し上げまでもなく、今日お集まりの皆さんの中にも、当初から今に至るまで、様々な形で復興支援に携わった方がおられることでしょう。

復興はまだ終わっていません。まだまだ時間が必要です。全国の教会をあげての支援活動は、10年目となる来年3月末で一旦終了となりますが、違う形で支援活動は継続していくことになるだろうと思います。

いみじくも、先日訪日された教皇フランシスコは、復興支援についてこう述べられました。
「日本だけでなく世界中の多くの人が、・・・祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間が経てばなくなるものや、最初の衝撃が薄れれば衰えていくものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません。・・・被災地の住人の中には、今はもう忘れられてしまったと感じている人もいます」

また教皇は福島の現状に触れながら、次のようにも指摘されました。
「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません」

人間がいのちをつないでいくためには、もちろん「衣食住」が充分に保障されていることが不可欠です。しかし人間は、物質的充足それだけでは生きていけません。

人間が人間らしく生きていくためには、いのちを生きるための希望が不可欠です。そしていのちを生きるための希望は、誰かが外から持ってきて与えることができるものではなく、希望を必要としている人自身の心の奥底から生み出されるものです。

震災と原発事故によって破壊された地域のきずなを回復するということは、被災した地域に生きる方々の心に、いのちを生きる希望を生み出すことにほかならず、教会がこの9年間復興支援として行ってきたこととは、まさしくいのちを生きる希望を生み出すための活動であったと思います。

建物を建てたとか、物資を配布したとか、そういう「衣食住」に関わることも大切ですけれど、やはり、人と人との関わりの中で、そしてともに人生の道を歩むことによって、そして現場で共に生きることによって、わたしたちはいのちを生きる希望を生み出すための種まきをしてきたのだと思っています。

Hoken2002

そう考えたとき、この9年間は、日本の福音宣教の歴史に刻まれるべき特別な9年間であったとわたしは思います。日本の教会は、迫害の時代を経て、再宣教に取り組んで以来、小教区での宣教に加え様々な事業を全国で展開してきました。社会福祉や教育の分野で、社会において重要な役割を果たしてきたと思います。教会は、それが福音宣教だとは言わないものの、そういった愛の業を通じて、福音のあかしとし、それを通じて一人でも多くの人に福音が伝わるようにと努力をしてきました。

社会福祉や教育を通じた福音宣教において、奉献生活者の方々の貢献には大きなものがあります。奉献生活者がいなければ、多くの事業は存在すらしなかったでしょう。しかし、社会の少子高齢化を反映するように教会にも少子高齢化の波は押し寄せ、修道会が関わる諸事業にあっては、後継者がいないという事態に直面しており、地域によっては教会と諸事業との関わりが絶たれてしまうのではないかと危惧するような状況も出現しています。

そんなとき、東北における復興支援活動は、日本の教会に、日本における福音宣教のもう一つの姿を教えてくれたのではないかと、わたしは思っています。

ベネディクト16世の使徒的勧告「愛の秘跡」は、聖体について語っているのですが、その中に、奉献生活者についての興味深い指摘がありました。

「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」

教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的なあかし」なのだと指摘されています。

その意味で、教皇ヨハネパウロ二世が、使徒的勧告「奉献生活」の中で、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です」と述べて、奉献生活が、「教会の使命の決定的な要素として教会のまさに中心に位置づけられます」と指摘しているところに、現代の教会における奉献生活者の果たす重要な役割を見いだすことができます。

復興支援の中で、ただひたすらに現場にあって人々と歩みをともにし、人々の語る言葉に耳を傾け、人々の喜びや悲しみをともにし、ただひたすらに祈り続ける奉献生活者のひたむきな生きる姿勢こそが、行いによる預言者的あかしによる福音宣教ではないでしょうか。

Hoken2005

教皇フランシスコは、東京ドームのミサで、日本の現状を次のように指摘されました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。・・・多くの人が、当惑し不安を感じています」

教皇が指摘する日本の社会とは、希望を失った社会です。いのちを生きる希望が失われている社会です。
この希望を失った社会にあって、わたしたちには、「いのちの意味」をあかしし、伝えていく務めがあります。
人間の存在の意味を伝えていく務めがあります。
互いに支え合い、誰ひとりとして排除されない社会を実現していく務めがあります。

そのためには、生活の中で福音を真摯に生きて、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々」、すなわち奉献生活者の存在による預言的なあかしが必要です。

東京ドームのミサが終わる際に、わたしは、東京教区を代表して、また日本の教会を代表して、教皇様に御礼を申し上げました。その御礼の言葉の終わりの方で、次のように教皇様に約束をいたしました。
「わたしたちは、小さな共同体ですが、教皇様の励ましをいただき、アジアの兄弟姉妹と手を取り合い、歩みをともにしながら、神から与えられたいのちの尊厳を守り、いつくしみの神のいやしと、希望の福音を宣べ伝えていきます」

教皇様が日本で語られた力強い言葉を耳にして、皆様もそれぞれの心の内に、様々な思いを抱きながら、その呼びかけに応えようと、それぞれの決意をされたのではないかと思います。わたし自身の決意はこの御礼の言葉の最後です。教皇様訪日を受けて、わたしたちはそれぞれに心に誓った約束に、忠実に誠実に生きたいと思います。

今の社会の現実の中で、奉献生活者はその存在の意味を問われています。いや教会自体がその存在の意味を問われています。福音に忠実に生き、いのちの希望をあかししてまいりましょう。

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