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2020年3月29日 (日)

四旬節第五主日ミサ@東京カテドラル(配信ミサ)

Cathedral200328

3月29日、雪降る東京です。四旬節第五主日のミサの導入と、説教の原稿です。

今回は大聖堂から配信しましたが、音の問題は多少改善されたと思います。映像の乱れが解消していません。

ミサの導入

わたしたちは生まれて初めて、ミサのない四旬節を過ごしてまいりました。砂漠の中に放り出されたような、霊的な渇きに苦しめられた四旬節です。

第五主日のミサは、すべてをつかさどる神の力を通じて復活への希望を新たにする日です。感染症が拡大する中で、東京ではこの週末の外出を自粛するようにとの要請が出るなど、希望を見いだすことが難しい状況でわたしたちは生きています。

その不安の中にあって、あらためて本当の希望である主イエスへの信頼を、このミサの中で深めましょう。

また洗礼を準備しているすべての志願者の上に、勇気が与えられ祝福がありますように祈りましょう。

そして、感染症の拡大が一日もはやく終息し、事態が収まるように祈りましょう。

ミサの説教の原稿

人間のいのちのはかなさ。人間のいのちを奪い去る死への恐怖。福音の冒頭にあったように、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と叫びたい気持ちです。

今年の四旬節ほど、人間のいのちについて考えさせられた四旬節はありません。感染症の拡大の中で、わたし自身を含めて、多くの人が、「いのちを守るために」適切な行動をとるようにと呼びかけつづけている四旬節です。初期の段階では大げさだと思われた行動が、時間を経るにつれて、まだまだ厳しい対応をしなければ間に合わないと危機感を募らせることになり、状況は日夜変化し続けています。

世界各地で、とりわけ現時点では欧米諸国で、多くの方が感染症のために命を落とし、その原因が目に見えないウイルスであるからこそ、死への恐怖がわたしたちに忍び寄ってきます。

東京教区がこうして公開の形での主日ミサを取りやめているのも、何度も強調してきましたが、自分の身を守るためと言うよりも、無症状のままで感染源になる可能性があるという今回のウイルス感染の特徴のため、知らないうちに自分が感染源となって、他の人たちを巻き込んでしまうことを避けるためです。

インターネット上には、医療崩壊を食い止めるために、自宅にとどまってくれるように呼びかける医療関係者の動画とか、「私たちのいのちを守るために、家にとどまってくれてありがとう」と呼びかける高齢者の動画などがあふれています。

コロナウイルス感染症の蔓延は、わたしたちに、すべてのいのちを守るためには、自分の身を守ることだけではなく、同時に他者のいのちにも心を配る思いやりが必要なのだということを思い起こさせています。すなわち、すべてのいのちを守るための行動は、社会の中での連帯と思いやりを必要としています。

わたしたちは、この理不尽な感染症の蔓延という事態が、どうしていまこのときに起こっているのか、わかりません。なぜこのような苦しみが、世界にもたらされているのか、その理由を知ることも不可能でしょう。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。この世界から理不尽な苦しみを取り除く努力をしなければならないとしながらも、教皇は、人間はその有限性という限界の故に、苦しみの源である悪と罪の力を取り除くことができないのだとも指摘します。それができるのは神だけであり、神は人間の歴史に介入されて、自ら苦しまれることで、世界にいやしを与える希望を生み出した。そこにこそ、わたしたちが掲げる希望があると指摘されます。

その上で、教皇は、人間の価値は苦しみとの関係で決まるのだとして、こういいます。
「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

わたしたちにとって、いのちを奪いとる死に至る道は、苦しみの極地ではないでしょうか。

本日の福音で、イエスは愛する友人であるラザロの死という苦しみと悲しみを通じて、初めて神の栄光を目に見える形で表します。

そのイエスご自身が、自ら受難の道へと足を進められ、十字架上でいのちをささげられます。しかしその自己犠牲こそは、永遠のいのちへの復活という栄光を生み出す苦しみでありました。

イエスの人生こそは、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を具現化する人生であります。

わたしたちは洗礼の水を通ることによって、古い自分に死に、新しい自分に生きることになります。エゼキエル書に「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と墓にいる者たちに告げる言葉が記されています。まさしくわたしたちは、洗礼によって神の霊を吹き込まれて、新たに生かされることになる。

その新たに生きる人生は、それまでの人生の継続ではなく、新しい人生です。

すべての悪に打ち勝つイエスの復活の力に希望を見いだす人生です。

「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を中心に据えた人生です。

教皇ヨハネパウロ二世は、書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」において、苦しみの意味を考察されています。

教皇は、「神は御ひとり子を、人間が悪から解放されるために世に与えられた」と指摘し、御子は、神が愛される人間の救い、すなわちあがないのために、罪と死に打ち勝たなくてはならなかった。そのための戦いが、イエスの人間としての苦しみの生涯なのだと述べています。

その書簡の終わりにあたり教皇は、ただ漫然と苦しみに耐えていれば良いというわけはではないことも、指摘することを忘れてはいません。漫然と耐えているだけでは、この世における神の国の実現はあり得ないからです。神の国の実現のためには、打って出る行動が必要です。

教皇は、教会が「善きサマリア人」に倣って生きるようにとよびかけ、「我々お互いの関係は、苦しむ隣人の方に向かわなければならない」と指摘します。

その上で、教皇は「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」とまで述べて、困難に直面する人たち、苦しみのうちにある人たちへ、徹底的に自己を与え尽くすことによって奉仕し、寄り添うことが必要であると説きます。苦しみの福音は、善きサマリア人として生きることを通じて、常に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜いた主イエスによる希望へと方向づけられるのです。

感染症が蔓延する中で身を守ろうとしているわたしたちには、すでに述べたように、「いのちを守るための行動」が必要で、そのためには自分の身を守ることだけではなく、社会の中での連帯と思いやりが必要です。

今回の事態で、病気に苦しむ人、病気との闘いに苦しむ人、経済の悪化で苦しむ人、雇用を失う人。様々な状況で、いのちの危機に直面する人たちが社会には存在することでしょう。わたしたちにはいま、思いやりと共に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜くことが求められています。

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2020年3月25日 (水)

新型コロナウイルス感染症に伴う3月30日以降の対応

新型コロナウイルス感染症に伴う3月30日以降の対応

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功
2020年3月23日

新型コロナウイルスによる感染症は世界的な規模で拡大を続け、各地で重篤な症例の報告が相次いでいます。ご存じのように世界各国でも、公開のミサなど教会活動の中止が決められています。

3月19日の政府専門家会議の新たな見解に基づき、3月30日以降の東京教区の対応を以下のように定めましたので、具体的な対策をお願いいたします。

1:3月30日(月)以降も,当面の間、東京教区のすべての信徒を対象に、主日のミサにあずかる義務を免除します。

2:3月30日(月)以降、当面の間、不特定多数が参加する公開のミサを原則として中止します。

3:結婚式と葬儀については、充分な感染症対策をとった上で、通常通り行います。

4:諸行事に関しては、20名程度の小さい集まりを除いて、できる限り延期または中止するようにご配慮ください。実施する場合でも、手指消毒はもとより、換気を充分に行い、互いの間隔を大きくとり、短時間で終了するように心がけてください。

5:聖週間の典礼は聖香油ミサを含めすべて非公開としますが、復活祭の洗礼式については、主任司祭の指示に従ってください。

6:いのちを守るため、特に高齢で持病のある方にあっては、自宅において共同体の祈りに加わるようになさってください。

7:四旬節愛の献金をはじめ、この典礼季節に特別に献金をされてきた方は、個別に主任司祭にご相談ください。

なお、関口教会の信徒の方のご協力を得ておこなっている主日ミサのインターネット映像配信ですが、これを継続するとともに、聖週間の典礼も配信します。

なお映像配信については、字幕などのサービスを常時提供できないこともあります。担当してくださる方にボランティアとしてお願いしていますので、ご理解いただきますようにお願いいたします。

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大司教メッセージ「聖週間を迎えるにあたって」

新型コロナウイルスによる感染は世界的レベルで拡大し、毎日のニュースにおいて国内外における感染者と死者の増加が報道されない日はありません。

亡くなられた方々の安息を祈ると共に、感染された方々、現在治療を受けられている方々の一日も早い回復をお祈りいたします。同時に、対策や治療のために日夜努力されている研究者、医療関係者の方々の超人的な働きには感謝の言葉しかありません。この方々の健康のためにお祈りいたします。

世界的なレベルで感染が拡大する中、世界各国は鎖国のような状況に陥っていますが、このようなときだからこそ、政治のリーダーたちが互いの相違を乗り越えて、信頼の内に協力しあう世界の実現を願っています。また政治のリーダーにあっては、すべてのいのちを守ることを優先され、様々な側面から忘れ去られる人のないように、対策を進められることを願っています。

そして宗教に生きるわたしたちは、祈りの持つ力への信頼を失わず、それぞれの場にいながらも、信仰に結ばれながら、祈り続けたいと思います。

わたしたちは,これまでにない厳しい挑戦を受け続けながら四旬節を過ごしております。感染症の拡大が要因とはいえ、四旬節中にミサにあずかることなく,また御聖体を受けることなく過ごすような事態となってしまったことは、非常に残念ですし心苦しく思っています。

もちろんミサがないことで教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。わたしたちは信仰によって互いに結ばれているのだという意識を,この危機に直面する中であらためて心に刻んでいただければと思います。祈りの内に結ばれて、キリストの体をともに作り上げる兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます。(マタイ28章20節)

この挑戦は,わたしたちに、生活において信仰を意識する機会を与えています。わたしたちはこの困難な時期を、信仰を見つめ直したり、聖体や聖体祭儀の意味についてあらためて学んだり、霊的聖体拝領にあずかったりと、普段はあまり気にとめていない信仰生活を、見直す機会ともしたいと思います。

わたしたちは、ひとりで信仰を生きているのではなく、キリストの体である共同体のきずなの内に結ばれています。いまこそそのきずなが必要です。共同体にあってわたしたちは、すべてのいのちを守るようにと呼ばれています。自分のいのちを守るためだけではなく、互いのいのちを守るために、いまこそ思いやりの心遣いが求められています。様々な立場で感染症と闘っている専門家、病気と闘っている患者、社会的状況や経済的状況によっていのちの危機に直面している人々。すべてのいのちが守られるように、いまこそわたしたちの祈りと心配りが必要です。

東京教区ではこれまで二度にわたる注意喚起を発出し、感染予防を訴えてきました。

また、2月13日の香港教区での公開ミサ中止を受けて信徒の医療専門家と話し合い、2月24日の厚生労働省の専門家会議の見解に基づいて、一回目の公開ミサの中止を決定いたしました。さらに3月9日の司祭評議会での話し合いと、同日の厚生労働省専門家会議の見解に基づいて、公開ミサ中止延長を決定いたしました。

今回の感染症にあっては、感染者の多くが無症状なままで回復していると報告されています。しかし大きな問題は、その感染者の多くが、無症状なまま感染源となり得ることにあります。

厚生労働省の専門家会議は,感染が拡大しやすい環境として次のように指摘します。
「これまで集団感染が確認された場に共通するのは、①換気の悪い密閉空間であった、②多くの人が密集していた、③近距離(互いに手を伸ばしたら届く距離)での会話や発声が行われたという 3 つの条件が同時に重なった場です」

これまでのインフルエンザ流行対策などでは、熱があったり体調を崩している人が家で療養してくだされば、健康な信徒が教会に集まることには問題がないのですが、今回は、自覚症状がないとしても実は感染している人が存在する可能性があり、その方から、特に高齢で持病のある方に感染した場合、重篤な症状を引き起こす可能性があります。

従って、公開のミサを自粛する一番の理由は、自分が感染しないようにするためではなく、意識しないまま感染源となり、他の方を危険にさらす可能性を避けるためです。

まもなく聖週間がはじまるのを前にして,政府の専門家会議の見解に基づいて東京教区の対応を別途発表いたしました

わたしたちはいま、体験したことのない聖週間と復活祭を迎えようとしています。聖週間の毎日を、どうか大切にしてください。聖週間の聖書朗読を必ずお読みください。祈りを共にしてください。苦難に打ち勝ち復活の栄光に達した主の力に、わたしたちをゆだねましょう。信仰を生きる意味をあらためて見つめ直しながら、一日も早い事態の終息を、いつくしみ深い神である御父に祈りましょう。

聖なる神の御母よ、
あなたの保護のもとにわたしたちは身を寄せます。
試練の中で祈るわたしたちを見捨てないでください。
栄光ある、祝福されたおとめよ、
わたしたちをあらゆる危険から守ってください。
(教皇フランシスコの祈りより)
以上

 

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2020年3月22日 (日)

四旬節第四主日ミサ@東京カテドラル

インターネットで配信した、3月22日、四旬節第四主日のミサの説教原稿です。東京カテドラル聖マリア大聖堂は、大聖堂と地下聖堂とも、音声を収録することに困難がつきまとっています。備え付けのマイクからの音声と、聖堂内の全体の音声などのバランスを調整しながら収録することがとても困難で、例えば教皇様の来日の際のように、独自の機材を大量に持ち込めば良いのですが、残念ながら突発的な出来事でしたので、教区の予算の制約もあります。できる限り機材を購入しながら、少しずつ改善しているところですが、準備が整えば、大聖堂からの配信もできるように、主任の天本神父以下取り組んでくださる信徒のボランティアの方々と、鋭意挑戦中です。

ミサの導入

四旬節第四主日は、伝統的に、このミサに固有の入祭唱が、イザヤ66章の「神の民よ、喜べ、 神の家を愛するすべての者よ、ともに集え」という言葉からとられていることで、レターレの主日とかバラの主日とも呼ばれています。復活祭の喜びへと旅を続けるわたしたちに、まもなく訪れる希望の光を先取りする形で、キリストの光にあずかるようにと招いている主日です。

困難な時期にあって、事態の一日も早い収束と、病気にあって苦しまれている人たちの回復を祈りましょう。また治療のために日夜取り組んでおられる医療専門家の方々や研究者、今回の事態にあって社会的に経済的にいのちの困難や危機に直面している多くの方々の上に、いつくしみ深い神の手が差し伸べられるように、祈りましょう。

共同祈願の導入

四旬節は復活祭に洗礼を受ける準備をされている方々にとって、心を整える最終的な準備の期間です。四旬節第四主日は、荒れ野の中を旅するような苦しみの中で信仰を見つめ直し、洗礼への準備を進める旅路にあって、まもなく洗礼を言う喜びのときが近づいていることを心にとめる、喜びの主日でもあります。残念ながら、今年は小教区での主日のミサが行われていないため、洗礼志願者の方々にあっては、まもなく訪れる喜びを、共同体のなかで実感していただくことができません。

洗礼は個人的な出来事にとどまらず、教会共同体に迎え入れられること、すなわち、キリストの体の一部となることでもあります。四旬節の主日のミサにおいて、教会共同体が洗礼志願者のために祈るのは、共同体に迎え入れられるという出来事を、信徒も志願者も、互いに実感するためでもあります。

本日のミサには、それぞれの場から映像を通して参加されている洗礼志願者の方もおられることと思います。教区の共同体全体が、皆さんのために祈り、また皆さんを兄弟姉妹として共同体に迎え入れる日を、心待ちにしています。本日の共同祈願の中でも、洗礼志願者の方々のために祈り、また終わりには洗礼志願者が、「やみから光に移り、暗闇の力から解放」され、「光の子として歩むことができ」るように、「解放を求める祈り」を唱えます。

それでは、光の源である神に心を開いて祈りましょう

説教の原稿

四旬節第四主日

東京カテドラル聖マリア大聖堂(映像配信ミサ)

2020年3月22日

わたしたちは,厳しい挑戦を受け続けながら、今年の四旬節を過ごしております。教会の歴史の中では初めてではないのだろうと思いますが、しかし、私を含めて多くの方が,信仰生活の中でこれまでに体験したことのない事態に遭遇し,困惑しています。

四旬節は、洗礼の最終的な準備をしている洗礼志願者と歩みをともにしながら、キリストに従うわたしたちが、信仰を振り返り、イエスとの出会いの原点に立ち返ろうとする季節です。感染症の拡大が要因とはいえ、その四旬節中にミサにあずかることができず、また御聖体のうちに現存される主との一致の機会も霊的な拝領に限定され、黙想会などを通じて信仰を見つめ直す機会もなくなってしまったことは、わたし自身非常に残念ですし、教区に対してそのような判断をせざるを得なかったものとして大変心苦しく思っております。

もちろんミサがないことだけで、わたしたちの教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。この危機的な状況に直面する中で、あらためて、わたしたちは信仰によって結ばれている兄弟姉妹なのだという意識を、さらにわたしたちは共に、同じキリストの体を形作っているのだと言う意識を、心に刻んでいただければと思います。

祈りのきずなによって結ばれて、共に困難に立ち向かう兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。

わたしたちは、暗闇の中に取り残されて、一人で信仰をまもろうとしているのではありません。わたしたちは、神から与えられた賜物であるいのちを共に生きているように、物理的に離れていても、たとえ皆が集まることに困難があったとしても、同じ信仰の内にあって共に祈ることで、一緒になって力を合わせて信仰をまもっています。

パウロはエフェソの教会への手紙の中で、わたしたち一人ひとりに、主に結ばれて「光の子として歩みなさい」と呼びかけます。その「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」と記されています。

わたしたちは、暗闇の中で疑心暗鬼に苛まれている社会にあって、キリストの光を輝かせ、「善意と正義と真実」を生じさせるように努めたいと思います。

パウロは同じ手紙の中で、わたしたちが光の子として先に光を輝かせるのではなく、まず「キリストはあなたを照らされる」と記しています。しかし、そのためには条件があるとも記されています。それはその言葉の直前にある、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ」と言う言葉に示されています。

わたしたちはキリストからの光の照らしを受けたから立ち上がることができるのではなくて、わたしたちが、立ち上がるからこそ、そこに結果としてキリストの光が照らされるのだ、というのです。すなわち、わたしたちが光の子として輝くためには、キリストからの光の照らしが必要であって、その照らしを受けるためには、わたしたちの主体的な行動がまずなければならないのです。

ヨハネの福音では、シロアムの池で癒やされた盲人の話が記されています。もちろん冒頭で、イエスは土をこねて盲人の目に塗るのですが、そこで本人の行動を促します。

「シロアムの池に行って洗いなさい」

盲人は自ら行動することによって、癒やしをえるというキリストの光に照らされることになるのです。そして、さらには、福音には、「帰ってきた」と記されています。すなわち、キリストに導かれながら自ら行動したことによって光に照らされた盲人は、その光の源であるキリストから離れることはなかった、キリストの光の内にとどまったということです。

その一連の行動を、律法の規程に背いているとして咎め立てるファリサイ派の人たちは、キリスト光の内にとどまることのない人の姿を現しています。

自らの常識やプライドにがんじがらめにされているため、目の前で起こっている事実を、自分の世界の枠組みの中でしか理解することがありません。その目には、キリストの光は届いていないのです。

福音の中では、ファリサイ派の人たちとイエスとの立ち位置の違いが象徴的に描かれています。イエスは外に立っている者として描かれ、ファリサイ派の人たちは自分たちの場所の中にとどまっているように描かれています。目の不自由な人は、翻弄されながら、その間を行き来しています。

キリストの光は、自分たちの殻に閉じこもり、常識とプライドの中に安住を求めている中の人たちには届いていません。そこには、善意と正義と真実が欠けてしまっているのです。

とはいえ、ファリサイ派の人たちが、取り立てて悪人であると断罪することは、わたしたちにはできません。なぜならそこに描かれている姿は、わたしたちそのものでもあるからです。わたしたちは、個人としても共同体としても、自分の思いや社会の常識や長年の伝統やプライドを優先させて、時としてそれを守ることに力を傾けてはいないでしょうか。

積極的に出向いていく教会の姿を説き続ける教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージにこう記しています。

「主への回心の時期や方法を司るのは自分だといううぬぼれた思い違いで、この恵みの時を無駄に過ごすことのないようにしましょう」 

その上で教皇は、「イスラエルの民のように荒れ野に導かれましょう。そうすれば、花婿であるかたの声をついに聞き、その声を心のうちで、より深く意欲をもって響かせることができるでしょう。そのかたのことばにすすんで関わればそれだけ、わたしたちに無償で与えられる主のいつくしみをますます味わえるようになります」と述べています。

さらに教皇は四旬節メッセージにこう記します。

「イエスにおいて、神の熱意は、ご自分の独り子にわたしたちのすべての罪を負わせるほどに、また教皇ベネディクト十六世が述べたように、「自らに逆らう神のわざ」となるほどまでに高まります。神はまさに、ご自分の敵さえも愛しておられるのです」

わたしたちの旅路の主役は、光であるキリストです。わたしたちを愛するがあまり、先頭に立って十字架を背負い、わたしたちを導いてくださるキリストです。自分という殻を打ち破って外へと出向き、行動するように促すキリストです。

わたしたちはこのキリストに、ひとりでつき従うのではなくて、神の民として、共同体としてつき従っています。それは光の子として、わたしたち一人ひとりが、そして共同体全体が、この世界に「あらゆる善意と正義と真実」を生じさせるためであります。神が求められる世界を実現し、神の声に身をゆだね、神の愛を分かち合うために行動する共同体となるためであります。

困難な状況の中にあって、互いに祈りの内に結ばれて、キリストを証ししていく者となることができるように、招かれる主に従って一歩先へと歩み続けたいと思います。

 

 

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2020年3月15日 (日)

四旬節第三主日ミサ説教@東京カテドラル

March15cathedral

ミサの導入

四旬節第三主日にあたる今日、東京教区ではこのミサを、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」のミサとしてささげます。

聖職者による性虐待の罪にゆるしを願い、被害を受けられた方々の心のいやしのために祈り、同じ過ちを繰り返さない決意を新たにするために、教皇フランシスコは、全世界の司教団に向けて、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるように通達され、日本では「四旬節・第二金曜日」と定めました。今年は3月13日ですが、東京教区ではその次の主日に、この意向でミサを捧げることにしています。

すべてのキリスト者とともに、傷ついた被害者の方々の悲しみと苦しみをおもい、いやしと回復の恵みのために、いつくしみ深い神に祈り、また、全世界の教会が同じ過ちを繰り返すことのないように、神のゆるしと導きを祈りましょう。

説教の原稿

「性虐待被害者のための祈りと償いの日」
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年3月15日

 「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
 先ほど朗読された福音では、実際に、のどの渇きをいやす水について話すサマリアの女に対して、イエスは、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語っています

 自らをいのちの水として語られる主イエスに従う教会は、つねに「いのちの福音」を語り続けています。人間のいのちは、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで、例外なく尊厳をまもられ尊重されなくてはならない。教会はそのように主張し続けています。

 教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという現代社会の思い上がりを戒めながら、そういった現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を実現しなければならない。

 回勅「いのちの福音」の冒頭に、こう記されています。
 「いのちの福音は、イエスのメッセ-ジの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『良い知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」

 さらに教皇ヨハネパウロ二世は、この回勅において「殺してはならない」と言う神のおきてを取り上げ、こう述べています。
 「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています。そのおきては、創造主である神が人類との間に結んだ最初の契約を告げる響きとして、すべての人の道徳的良心にもう一度響き渡ります(77)」

 キリストに従うわたしたちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。

 残念なことにわたしたちが生きている社会にあっては、神からの賜物であるいのちが危機に直面し続けています。いったいわたしたちは、人間のいのちをどのような価値観に基づいて判断しているのかを、大きな疑問を抱かせるような事件も相次ぎました。

 障害と共に生きておられる方々を、社会に貢献しなければいのちが存続する意味はないとして、暴力的にいのちを奪う事件もありました。

 この数年、せっかく与えられたいのちを生きている幼子が、愛情の源であるべき親や保護者の手で虐待され、命を暴力的に奪われてしまう事件もしばしば耳にします。様々な事由から、誕生することのなかったいのちも少なくありませんし、様々な要因に絡め取られる中で自死へと追い詰められる人も、多くおられます。

 また社会全体の高齢化が進む中で、孤独のうちに人生を終える方々の存在もしばしば耳にいたします。誰にも助けてもらえない。誰からも関心を持ってもらえない。孤立のうちに、いのちの危機へと追い詰められていく人たちも少なくありません。

 さらには、雇用環境の厳しさの中で、不安定な生活を送る若者も増えています。加えて、海外から来日し、不安定な労働環境の中で、困難に直面している人たちにも、出会うことが増えてきました。

 危機にさらされるいのちの現状、教皇ヨハネパウロ二世が指摘する「死の文化」が支配する現実の中で、教会こそは、「いのちの福音」を高く掲げ、わき出るいのちの水を多くの人に届ける努力をしていなければなりません。

 その教会にあって聖職者には、神の賜物である尊厳あるいのちを守るために最善を尽くす義務があります。牧者として自らが神の民の先頭に立ち、「いのちの福音」をその言葉と行いを持って証しする義務があります。

 残念ながら、その模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という他者の人格を辱め人間の尊厳を蹂躙する行為におよび、いのちの尊厳をおとしめる事例が、過去にさかのぼって多数報告されています。

 それは、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声に耳を閉ざしてしまう行動です。神が、自ら愛される人間を、いのちの水が豊かにわき出る泉へと導こうとしているときに、枯れ果てた空の井戸へと導こうとする行動です。性虐待は、被害を受けられた方の人格の否定であり、尊厳あるいのちを与えてくださった神への挑戦です。

 さらには大人による保護を必要とする未成年者に対する性虐待や、暴力行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。

 加えて司教をはじめとした教区や修道会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽したり、その被害を過小評価した事例も、世界各地で多数指摘されています。

 日本の教会も例外ではなく、聖職者から性的な虐待や暴力行為を受けた事例があります。とりわけ被害者が未成年であった場合、深い苦しみと大きな葛藤のなかで、何十年も経ってからはじめて、その事実を公にできたという方もおられます。

 そのような深い苦しみと大きな葛藤を長年にわたって強いてきた聖職者の加害について、被害を受けられた皆様に、心からお詫びいたします。

 教会がこの世界にあって、枯れた井戸ではなく、いのちの水を湧き出させる泉になるように、この世の組織としての教会のあり方を真摯に反省し、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。いまはそういう「とき」であると思います。

 そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

 教会は、いのちの福音を語り、神のいつくしみと愛を語り、すべてのいのちを守ることを語り続けています。そうであるからこそ、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声に心を閉じることなく、いのちの尊厳を、一人ひとりの人格の尊厳を守りぬく道を、先頭に立って歩み続ける存在でありたいと思います。

 

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2020年3月11日 (水)

3月11日、あの日から9年目にあたって

311mass

3.11追悼の日のメッセージ
2020年3月11日
カトリック東京大司教区
大司教 菊地功

「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。」
昨年11月に日本を訪問された教皇フランシスコが、東北の被災地の方々との集いで語られた言葉です。

2011年3月11日の「あの日」から、今年で9年という時間が経過しました。東日本大震災からの復興への取り組みは続いており、日本のカトリック教会の支援の取り組みも、今日から10年目に入ります。

あらためてこの大震災で生命を落とされた方々と、それ以降の様々な状況の中で亡くなられた方々の、永遠の安息をお祈りいたします。

9年前、復興支援の活動を始めたときには、いまの日本の国力と技術力を持ってすれば、数年のうちに被災地は見事に復活するだろうと、単純に考えていました。

しかし復興の歩みとはそんな単純なものではなく、単に資金と技術をつぎ込んで、インフラを元に戻したり整えたりすることだけで、復興は成し遂げられないのだと言うことを、わたしたちは体験から学んできました。

この9年間の東北の方々との歩みが、「復興」とは「元に戻す」ことではなくて、「新たな希望を生み出し歩み続ける」ことだと、わたしたちに教えています。

教皇フランシスコは、日本訪問を計画されていたときから、ぜひとも東北の被災者の方々と会いたいという希望を表明しておられました。時間的制約もあり、残念ながら東北の地に足を運んでいただくことはできませんでしたが、東京において東北の被災地の方々と集いを開き、教会との関わりがある方が主ではありましたが、被災された方々、支援の中で道をともに歩んでおられる方々と出会っていただきました。

教皇は、羽田空港に到着した直後、教皇庁大使館で日本の司教団と会い、東北の被災者との集いに関連してこう述べておられました
「今なお続く彼らの苦しみを見ると、人として、そしてキリスト信者として、わたしたちに課された義務をはっきり自覚させられます。身体や心に苦しみを抱えている人を助け、希望といやしと和解という福音のメッセージを、すべての人に伝えるという義務です」

そして東京において開催された集いでは、こう言われました。
「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

その上で、現代社会に蔓延する利己主義と無関心を「悪」と指摘した上で、「家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です」と呼びかけられました。

確かに災害などからの復興のためには、衣・食・住の充足は不可欠な要素であり、人間のいのちを守るために忘れてはならない要素であります。しかしながら人間は、それだけでは生きていけないのです。人間が豊かに生きていくために必要なのは、教皇が不可欠だと言われた、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」であります。

衣・食・住は、外から持ってくることができるものです。しかし希望と展望は、誰かが外から持ってきて与えることのできるものではありません。それは人の心の中から生み出されるものであり、そのためには、「友人や兄弟姉妹との出会い」が不可欠です。

カトリック教会の復興支援活動は、教会が災害の前から、そして災害の間にも、また災害の後にも、その地域の一員として存在していることから、つねに地域と密着して行われてきました。教会は、どこからかやってきて去って行く存在ではなく、ともに道を歩みながら、友として、兄弟姉妹として、災害から復興する道を歩んでいる方々と出会い、その心に希望と展望が生み出されるように、きずなを深めようとしてきました。

同時に、教会の活動は、全世界に広がる教会のネットワークを通じて、世界中からの祈りによって支えられています。教会の活動は徹底的にローカルでありながら、祈りを通じてグローバルであります。

カトリック教会は、教皇フランシスコの言葉を心に刻みながら、東北の方々を家族の一員として互いに支え合う活動を、これからも継続してまいります。

復興庁の統計によれば、今年の1月の段階で、いまだに4万8千人を超える方々が避難生活を送られているといいます。これほど多くの方が、普通の生活を取り戻すことができない状態が続いていることを、私たちは心にとめなくてはなりません。

とりわけ、原子力発電所事故の影響が残る福島県内では、復興の歩みにはさらなる時間が必要であり、公式の統計には表れない避難者の方々も全国に多数おられると推測されます。人生の道筋が予想もしなかった困難な道となってしまった多くの方々が、忘れ去られることのないように、カトリック教会のネットワークを生かしながら、ともに歩み続けたいと思います。

大震災から9年となりましたが、10年目以降の関わりも視野に入れながら、継続してともに道を歩み続けましょう。

東日本大震災からの復興の道を歩んでおられるすべての方々に、そして復興のために日夜活動されている多くの方々の上に、いつくしみと愛に満ちた神の祝福があるように、お祈りいたします。

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Notice:Precautionary Measures Concerning COVID-19 from 15th March and Beyond

10 March 2020

Dear brothers and sisters in the Archdiocese of Tokyo:

Precautionary Measures Concerning COVID-19 from 15th March and Beyond

The spread of infections and serious cases due to COVID-19 have been reported one after another, and Church activities such as public masses have been suspended in different parts of the world. The other day, it was announced that masses all throughout Italy, including the Diocese of Rome, had been suspended. In Japan, it is not yet clear when the infections will peak.

In light of these circumstances, kindly take note of the following specific precautionary measures from 15th March and beyond as prescribed by the Archdiocese of Tokyo:

1: All parishioners of the Tokyo Archdiocese are dispensed from their obligation to attend Sunday mass from 15th March (Sunday) to 29th March (Sunday).

2: In general, all public masses from 15th March (Sunday) will be suspended for the time being.

3: Concerning weddings and funerals, kindly take adequate precautionary measures against infections before proceeding as usual.

4: For events other than masses, as much as possible kindly consider postponing or canceling them, except only for small gatherings. In case of holding such events, in addition to hand disinfection, kindly provide sufficient ventilation, keep a distance between each other, and try to finish as quickly as possible.

Moreover, in cooperation with a parishioner of Sekiguchi Church, we have been broadcasting the Sunday mass via internet, and we hope to continue this for the time being. Through this, we are able to pray together, and I encourage everyone to receive the Lord in the act of spiritual communion.

Furthermore, since we are not relieved from our duty to pray on Sundays, let us find time to offer our Sunday prayers, in spiritual communion with the whole Church community.

As for the video streaming, it may not always be possible to provide subtitles. And so, I ask for your understanding since we are relying on the generosity of the person volunteering to take charge of the broadcast.

Concerning the measures to be taken after 30th March, we shall make the announcement again around 23rd March, after carefully examining the situation and seeking the advice of medical experts.


Tarcisio Isao Kikuchi, SVD
Archbishop of Tokyo

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お知らせ:新型コロナウイルス感染症に伴う3月15日以降の対応

カトリック東京大司教区の皆様

新型コロナウイルス感染症に伴う3月15日以降の対応

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功
2020年3月10日

 新型コロナウイルスによる感染症の拡大と重篤な症例が報告が相次ぎ、世界各地で公開のミサなど教会活動の中止が決められています。一昨日にはローマ教区を含めイタリア全土のミサの中止も発表されました。国内における感染のピークの時期も、まだ見通せていません。
 こういった状況に鑑み、3月15日以降の東京教区の対応を以下のように定めましたので、具体的な対策をお願いいたします。

1:3月15日(日)から3月29日(日)まで、東京教区のすべての信徒を対象に、主日のミサにあずかる義務を免除します。

2:3月15日(日)以降も当面の間、公開のミサを原則として中止します。

3:結婚式と葬儀については、充分な感染症対策をとった上で、通常通り行います。

4:ミサ以外の諸行事に関しては、規模が小さい集まりを除いて、できる限り延期または中止するようにご配慮ください。実施する場合は、手指消毒はもとより、換気を充分に行い、互いの間隔を大きくとり、できる限り短時間で終了するように心がけてください。

 なお、関口教会の信徒の方のご協力を得て、主日のミサをインターネットで映像配信していますが、これを当分の間継続しますので、映像を通じて祈りの時をともにし、霊的聖体拝領を受けられるように勧めます。

 また主日に祈りを捧げる務めがなくなるわけではありませんから、教会共同体との一致のうちに、主日には祈りの時を持つように務めてください。

 なお映像配信については、字幕などのサービスを常時提供できないこともあります。担当してくださる方のボランティアとしてのサービスに頼っておりますので、ご理解いただきますようにお願いいたします。

 3月30日以降の対応については、状況を見極めながら、医療専門家の助言をいただき、3月23日過ぎ頃に、あらためて発表いたします。

以上

 

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四旬節第二主日、東京カテドラルでのミサ(ネット中継)説教

3月8日、四旬節第二主日ミサは、前週に続いてインターネットで配信させていただきました。以下はそのミサの説教の原稿です。

すでに昨日発表いたしましたが、公開のミサの中止については、3月15日以降も当面の間継続いたします。また3月中の主日にあっては、主日のミサにあずかる義務を、東京教区のすべての信徒の方を対象に免除しています。先日も触れましたが、これに関連して、是非とも教会の五つのおきてを見直してみるチャンスとなさってください。

ミサのインターネット配信は、これで完璧なものではありませんが、3月15日以降も継続する予定です。映像制作に関わってくださる関口教会の天本神父様と信徒の方々、また協力してくださっているドミニコ宣教女会、師イエズス会、イエスのカリタス会のシスター方にも感謝します。

なお3月15日のミサは、性虐待、償いと祈りの日の特別ミサです。

なお本日3月11日は東日本大震災被災者の方々のため、また復興のため、さらに3月13日には教皇フランシスコの選出7年ですので教皇様のために、特にお祈りください。

四旬節第二主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年3月8日
(映像配信用)

あと数日で3月11日、すなわちあの東北での大震災発生から9年が経過しようとしています。

9年前、地震と津波発生から数日後の3月15日に仙台へ駆けつけ、被害の大きさに驚きながらも、しかし数年もすれば地域の生活は元に戻るだろうと勝手に想像していました。

確かにインフラの整備など社会の大枠としての地域復興は、順調に進んでいるように見えることは間違いがありません。しかし、教皇フランシスコが昨年11月の東北の被災者との集いで、特に福島の現状に関連して言われた、「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ」、本当の復興は成し遂げられないのだという言葉が、心に重くのしかかっております。

まもなく9年を迎えるのを前に、あらためて東日本大震災で亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈るとともに、あの日以来、予想外の人生の物語を刻んでこられたすべての人が、神のいつくしみ深い御手によって包み込まれることを祈ります。

教皇フランシスコは、東京での被災者との集いの中で、こう述べておられます。
「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。」

教皇は、本当の復興のためには「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠」だと述べられました。もちろんいのちをつなぐために衣食住を整え支援することは重要です。しかし教皇は、それだけでは十分ではないと指摘されているのです。衣食住の充足に加えて、「希望と展望の回復」が不可欠だと指摘されています。

希望や展望は自然に生まれてはきません。希望や展望は、誰かがどこからか持ってきて与えることができるものでもありません。希望と展望は、人と人とのつながりの中で、心の中から生み出されていくものです。

教会は、この9年間、人と人とのつながりの中で、希望と展望を生み出すための努力を続けてきたのではないかと、わたしは思っています。わたしたちの復興支援の一番の柱は、人と人とのつながりの中で、希望と展望を生み出す努力であったと思います。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、こう述べています。
「出向いていきましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いていきましょう」

教会は、神が私たちのいのちを愛しているというメッセージを伝えるために、出向いていかなくてはならないと、教皇フランシスコは繰り返し主張されます。

本日の第一朗読では、アブラムが新しい土地へ出向いていくようにと、主から呼びかけられた模様が描かれています。
「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」

「生まれ故郷、父の家」は、アブラムにとって、安住の場です。しかしこの段階で「私が示す地」とは、いったいどこなのか、どんなところなのか、全く情報が与えられません。暗闇に手探りで乗り出すようにと言われているようなものです。しかしアブラムは、「主の言葉に従って旅だった」と記されています。主の呼びかけに信頼して、未知へと旅立ったのです。それは単に思いつきではなく、アブラムの心に培われた信仰における神への信頼が、その決断の土台となっていました。

パウロは、神がわたしたちを招き入れているのは、「わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによる」と記しています。
神によって招かれている旅路の主役はわたしたちではなく主ご自身であるのだから、その計画に信頼して身をゆだねよという呼びかけです。

それではその、わたしたちが信頼するべき神の計画はどこにあるのか。その神の計画は、福音書にあるように、御父が「私の愛する子、私の心に適うもの、これに聞け」と言われた御子イエスの言葉と行いに明示されています。

わたしたちは、ただ闇雲に出ていってさまよい続けるのではなく、わたしたちが信頼するイエスの言葉と行いに導かれながら、歩みを続けます。そのためには、わたしたち自身が日々の祈りを通じて、また教会共同体の典礼や祈りを通じて、「私の愛する子、私の心に適うもの」と主が言われた、御子イエスの言葉と行いに耳を傾け、それに倣わなければなりません。その上で、恐れることなく、神がすべての人へその愛といつくしみの手を差し伸べようとしている事実を伝えるため、出向いていく教会でありたいと思います。わたしたちはその旅路の中で多くの人と出会い、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」となりたいと思います。

教皇は『福音の喜び』において、「すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めている道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけにこたえるように招かれています。つまり、自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」と、呼びかけておられます。

教会には、社会の直中にあっていくつもの役割があると思います。もちろん、一人ひとりの心の安らぎの場として、静寂と聖性のうちに、神と出会い神と対話する場でもあります。一人ひとりのその出会いを、祈りのうちに、また聖体祭儀において深める場でもあります。また聖体のうちに現存されるイエスとの出会いと、また聖体拝領を通じて、内的にキリストと一致する場でもあります。

しかし同時に教会は、主イエスが「諸国民から呼び集められた自分の兄弟たちを自分のからだとして神秘的に構成した」、キリストの体でもあります。

さらに教会は、「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」であると、教会憲章は記しています。

キリストご自身が、神であり人であるように、教会にも目に見える教会と諸聖人との交わりにある霊的共同体があり、現実社会にあっても教会には私的側面と公的側面があります。

わたしたちはこの社会にあって、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」として、社会に出向いていく教会でありたいと思います。希望と展望を生み出す源となりたいと思います。

わたしたちは出向いていく教会として、つねに立ち上がり旅立つように御父から呼びかけられている神の民です。旅立つ準備はできているでしょうか。神の計画を優先させる決意はあるでしょうか。「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」となる心づもりはできているでしょうか。

神の言葉に耳を傾けながら、ふさわしい道を選択することができるように、聖霊の導きを祈りましょう。

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2020年3月10日 (火)

東京教区の皆様へのメッセージ

カトリック東京教区の皆様へ

新型コロナウイルス感染症に伴う困難な時期にあって

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功
2020年3月09日

新型コロナウイルスの感染は世界的規模で拡大を続け、社会全体を巻き込んだ総合的な対応が急がれています。

教会にあっても、日本国内は言うに及ばず、近隣諸国でも公開のミサの中止が相次いでいますが、昨日はイタリアにあっても全国的な公開のミサの中止が発表されています。

この困難な時期にあって、わたしたちは祈りの力をあらためて認識したいと思います。普段のように皆が主日に集まることができなくても、洗礼を受けた一人ひとりは主イエスの体の一部としてつながっていることを思い起こしてください。わたしたちはそれぞれの場で祈りを捧げるとしても、その祈りは個人的な祈りではなく、教会共同体の祈りとして捧げられています。

聖書にあるとおり「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたら」すと、わたしたちは信じています(ヤコブの手紙5章16節)。ですから病気が蔓延したからといって、わたしたちは祈りを止めることはありません。感染に対応する様々な手段を講じる中には、わたしたちの霊的な戦いをも含めていなければ、この世界にわたしたちが教会として存在する意味がありません。祈り続けましょう。

なおミサの中止は、上記のように『公開のミサ』の中止であって、教区内の小教区や修道院にあっては、「公開されない」形で、ミサが通常通り司祭によって毎日捧げ続けられています。教区共同体内から、ミサが消えてしまったわけではありません。司祭はたとえ一人でミサを捧げたとしても、すべては「公」のミサとして捧げるからです。

教皇ヨハネパウロ2世の回勅『教会に命を与える聖体』に、こう記されています。
『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』

もちろん実際にミサに与って聖体拝領することは、わたしたちの信仰生活にとって最も重要ですが、それ以外の場合にも、例えば聖体礼拝のうちにあって、またはミサに参加することができない場合にあっては個人の祈りのうちに、現存されるキリストとの一致を求めながら霊的に聖体を拝領することも忘れてはいけない教会の伝統です。

教会の中には、信仰の表現の理解にあっても、祈りの方法の理解にあっても、様々な考えを持った方がおられることは事実です。それが教会の多様性を担保し、霊性を豊かにしています。

この困難な時期にあっては、互いの命を守ることを最優先に考え、豊かな思いやりの心で支え合うことを第一に考えてくださることを望んでいます。今回のような、まれに見る状況に遭遇して、お一人お一人のこれまでの信仰生活の体験に基づいた、様々な思いが交錯していることと推察いたします。こういったときだからこそ、わたしたちがキリスト者として、主イエスの体における一致へと招かれていることをあらためて思い起こし、一人で祈っているときであっても、それが目に見えない形であったとしても、わたしたちはつねに主イエスの体である一つの共同体に結ばれているのだという信仰における確信を深めていただくことを期待しています。わたしたちはこの信仰を一人で生きているのではありません。目に見えないきずなのうちに、ともに道を歩みながら、信仰を生きているのです。
 

また今般の状況を契機として、そういった多様性を制限する機会として利用しようなどと考えることは不遜ですし、また個人の思いを最優先させることも兄弟愛に欠け、キリストの体における一致から離れてしまう危険性があります。困難に直面しているいまこそ、兄弟姉妹としての互いの信頼を深め、支え合ってすべてのいのちを守ってまいりましょう。

信仰におけるいのちへの希望を掲げながら、愛といつくしみの心を持って、感染した方々の回復と一日も早い事態の収拾を、わたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎのもと、父である神に祈りましょう。

いと高き方を隠れ場とする者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げる「わが逃れ場、わが城、わが神、わが頼みとする方」と。
まことに主はあなたを救い出してくださる。鳥を捕る者の網から。死に至る疫病から。
主は羽であなたを覆う。あなたはその翼のもとに逃れる。
(詩編91、1節から4節)

 

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2020年3月 7日 (土)

主日ミサのインターネット放映などに関して

政府の発表や報道を見ますと、コロナウイルス感染者数はこの数日増加を続けています。どのあたりがピークになるのかは、様々な専門家が発言されているので、なかなか見極めることが難しいと言うことだけを理解することができます。

国内も心配ですが、例えばイタリアも大変な状況のようで、大学を含む学校の休校措置もされていると聞きますし、昨日にはバチカン市内でも感染者が報告されたと報道されています。それ以外にも多くの国で感染の報告が相次いでおりますが、一日も早い事態の収束と、重篤な状態に陥っている方々の回復を祈りたいと思います。あらためて祈りの力に信頼を置きながら、いつくしみ深い神の御手にわたしたちすべてをゆだね、すべての創造主である御父の御旨が実現するようにと祈り続けましょう。

さて、すでに教区のホームページなどで公開されていますが、主日のミサをインターネットで放映しています。しばしば霊的聖体拝領の重要さを指摘しておりますが、わたしたちがミサにあずかるのは、物理的に聖体をいただくこと「だけ」を目的としているものではないことを、あらためて思い起こしてください。

共同体の一致のきずなのうちに、それぞれの場所は異なっているものの、朗読される神のみ言葉にともに耳を傾け、御聖体の前でともに祈る時を共有することには、大きな意味があります。

大変な状況の中で四旬節を過ごすわたしたちは、なんとか霊的生活を深めようとしていますが、この困難な体験のときを、学びを深めるときにもしたいと思います。特に、実際に御聖体をミサの中でいただくことができないという事態に直面して、多くの方が、「御聖体を受けたい」という心の渇望を口にされています。これを通じてあらためて、わたしたちの信仰における御聖体の持つ深い意義を見つめ直す機会としていただければと思います。御聖体について、学びを深める契機としてください。

御聖体を拝領することを希望される場合、是非とも司祭にご相談ください。個別に聖体を授けることが禁止されているのではありません。仮に、状況の変化から公開のミサ中止が予定よりも長引いた場合は、病者の拝領を援用して個別に聖体を拝領していただく機会を設けるようにしたいと考えています。

また、『なんとしてでもミサにあずかりたい』という声も多く聞こえてきます。その通りだと思います。ですから、そのなんとしてでもあずかりたいミサは、いったいどういう存在なのか、何をしているのか、何を求めているのか。ミサについて学びを深める契機としていただければと思います。

第二バチカン公会議の典礼憲章は、遠くはピオ10世の時代頃からはじまった長年にわたる典礼見直しの研究と議論の成果ですが、そこには感謝の祭儀について短くこうあります。

「したがって教会は、キリスト信者が、部外者あるいは無言の傍観者としてこの信仰の神秘に列席するのではなく、儀式と祈りを通してこの神秘をよく理解して、意識的に、敬虔に、行動的に聖なる行為に参加し、神のことばによって教えられ、主の御からだの食卓で養われ、神に感謝し、ただ司祭の手を通してだけではなく、司祭とともに汚れのないいけにえをささげて自分自身をささげることを学び、キリストを仲介者として、日々神との一致と相互の一致の完成に向かい、ついには神がすべてにおいてすべてとなるよう細心の注意を払っている」(48)

「儀式と祈りを通してこの神秘をよく理解して」のところが英語の文章を見ると、「through a good understanding of the rites and prayers they should take part in the sacred action conscious of what they are doing, with devotion and full collaboration.」となっているので、「よく理解」するのは「神秘」ではなくて「儀式と祈り」だと思いますが(ラテン語原文も「 sed per ritus et preces id bene intellegentes, sacram actionem conscie, pie et actuose participent」なので)、いずれにしろ、感謝の祭儀の『儀式と祈り』をよく理解することが重要です。

次に、今回の感染症への対策で「主日のミサにあずかる義務を免除する」ことを公示しています。ご自分の体をまもるとともに、反対にご自分が知らないうちに感染源となってしまうことを防ぐために、健康や年齢に不安がある場合に無理にでも教会まで出かけることがないように願いながら、そう定めています。

しかし同時に、主日にミサにあずかることが義務であることを、あまり気にかけておられない方も少なからずおられることにも気がつきました。できれば「カトリック教会のカテキズム」の2041項、2042項と2043項を見てくださればと思います。教会のおきてが記されています。五つあります。ここにはあえて引用して記しませんが、仮に覚えがないと思われる方は、是非とも教会の五つのおきてを探し出して、心にとめてくださるようにお願いします。

3月15日以降の対応については、関東圏の状況を見極めながら、医療関係者のアドバイスを求めつつ、司教顧問や司祭評議会のメンバーと相談しながら、検討を進めます。政府が次にどのような対応策を出してくるかは不透明ですが、そちらともタイミングをはからなくてはならないため、3月15日の主日をどうするのかの決定がぎりぎりになる可能性もあります。できる限り迅速に決定してお知らせするように努力をいたしますが、状況を勘案の上、御寛恕いただければ幸いです。

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2020年3月 3日 (火)

四旬節第一主日@東京カテドラル

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、東京教区では3月1日と8日の『公開』のミサの中止を決定しています。詳細については、この投稿の前の二つの投稿をご確認ください。(公示へのリンクと、補足説明のリンク

3月1日と8日ついては、主日のミサにあずかる義務を免除いたしましたが、教区共同体の主日におけるともに祈りを捧げる務めと、祈りのうちに一致するために、また霊的に聖体を拝領することでキリストとの内的一致にあずかるために、主日の午前10時、カテドラルで捧げられるミサをインターネットで放映することにいたしました。

ミサは東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で捧げられ、構内に修道院のある師イエズス修道女会と近隣に修道院のある聖ドミニコ宣教修道女会のシスター方数名に、お手伝いいただきました。

また映像を作成するにあたっては、字幕などの課題をクリアして作業を進めてくださった、関口教会の信徒の方に感謝いたします。

以下、当日のミサの説教の原稿です。

今年の四旬節は、これまで経験したことがない四旬節となってしまいました。新型コロナウイルスの感染拡大をなるべく緩やかのものとするために、この二週間ほどが最も重要な期間であるという専門家会議の見解を受けて、主日のミサをその期間に限って非公開とすることを決めました。

ミサの中止という言葉が一人歩きしていますが、教区共同体という視点から見れば、ミサは続けられています。中止とされているのは公開のミサですが、司祭は主日の務めとして今日もミサを捧げており、そのミサは、たとえ「信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為」として、共同体の公のミサであります。

とはいえ、感謝の祭儀は「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点で」ありますし、「聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されていますから、ミサにあずかることと、聖体を拝領することは、わたしたちの信仰生活にとって欠くべからざる重要なことであります。

その意味で、現在のような状況は、あってはならないことでもあります。未知のウイルスからの感染を避けるために、わたしたちはしばらくの間、集まることを止めているのですが、それは決して共同体を解散したという意味ではありません。やむを得ない状況の中で集まり得ないときにも、共同体は存続し、ともに主の日に祈りを捧げる義務は消失していません。

また教会の伝統は、聖体拝領を通じてキリストとの内的な一致を目指すために、秘跡を通じた拝領と、霊的な拝領の二つがあることも教えています。

こうやって映像を通じてともに祈りを捧げるとき、またそれぞれの家庭で祈りを捧げるとき、それはひとり個人の信心業なのではなく、キリスト者の共同体のきずなのうちにある祈りであり、その祈りのうちにあって、ぜひキリストとの一致を求めて、霊的に聖体を拝領していただければと思います。

この不幸な状況は、同時に、わたしたちに様々な信仰における挑戦を突きつけております。ちょうど主イエスが、その公生活を始めるにあたり40日の試練を受けられたように、わたしたちもいま、復活の喜びに向けて心を整える40日間にあって、大きな試練に直面しております。

先ほど朗読された福音によれば、40日の試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けておられます。

まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。次にすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。そして神への挑戦の誘惑。この三つの誘惑が記されています。

第一に、人間の本能的な欲望や安楽にとどまることへの願望。第二に、権力や繁栄という利己的な欲望。第三に、人間こそこの世の支配者であるという思い上がり。

悪魔からの誘惑とは一体どういうことか。それは、神から離れる方向へと人をいざなう、さまざまな負の力のことでしょう。そういう誘惑はどこからか降りかかってくるのかといえば、実は、外からやってくるものではない。その多くは、結局のところ、わたしたち一人ひとりの心の中から生み出されている。わたしたちの心の反映であるように思います。

わたしたちがいま直面している試練はどうでしょう。

東京ドームでミサを捧げられた教皇フランシスコは、「わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています」と述べて、わたしたちが視点を、自分から他者へ移すようにと、むなしく輝く虚飾のシャボン玉を打ち破って外へ出向くようにと呼びかけられました。

その上で教皇は、そのために必要なことは、「知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です」と指摘されました。

得体の知れないウイルスによる感染症が蔓延しつつある現在、感染の事実や発症の実態が目に見えない度合いがとても強い今回のコロナウイルスの感染拡大ですが、そのためにどうしてもわたしたちは疑心暗鬼の暗闇の中に閉じ込められたような気分になってしまいます。

確かに慎重な感染対策を行って、一人ひとりの身を守る行動は不可欠ですし、実際教会はいまそうしているわけですが、それが同時にわたしたち一人ひとりの心の内にも防御の「壁」を築き上げる結果になっていないでしょうか。

心が守りの姿勢になるとき、どうしてもその防御の「壁」はより堅固なものになり、自分を中心にした心の動きに、とらわれてしまいがちになります。それこそ悪魔の誘惑であります。

教皇は、「知恵と勇気をもって」行動せよと呼びかけます。

教皇は、「無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢」をもって、いのちを守る姿勢を証しせよと呼びかけます。

教皇は、「実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度」が必要だと呼びかけます。

2009年に新型インフルエンザが蔓延したとき、日本の司教団の部落差別人権委員会はメッセージを発表して、次のように指摘していました。

「「感染源」という発想から感染者探しにエネルギーを注ぐと、たくさんの「容疑者」を作り出していく危険があります。・・・感染症対策という名で社会防衛策がとられると、菌やウィルスよりも人々の間に不安や恐怖が伝播して偏見や差別を社会の中で醸成していく危険があります」

これもわたしたちが悪魔の誘惑に屈して築き上げてしまう心の防御の「壁」のなせる業であります。

わたしたちは体の健康を守るための防御壁を必要としていますが、その壁が、心の中にまで防御の「壁」を築き上げないように心したいと思います。

「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、パンの必要性を否定をしてはいません。しかしイエスは、それよりも重要なものがあるのだとして、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と述べられています。

人は、自分のいのちを守るためにパンを必要とするが、それ以上に、神の言葉、すなわちすべてのいのちを守るための神の一人ひとりへの思いが実現することこそが、人を生かすのだ。

他者への思いやりの心は、単なる人間としての優しさに基づいているのではなく、神の言葉を実現させたいという信仰における確信に基づいています。その確信は、神ご自身が大切に思われているすべてのいのちに対する思いやりの心、豊かな想像力を持った配慮を、わたしたちに求めています。

この困難な時期、教会共同体においてつながっている兄弟姉妹に思いを馳せ、そのつながりの中でわたしたちは一致へと招かれていることをあらためて思い起こしましょう。そして体の防御の壁が心の「壁」になってしまわないように、神が愛されるすべてのいのちへと、わたしたちの心の思いを馳せましょう。

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