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2020年3月29日 (日)

四旬節第五主日ミサ@東京カテドラル(配信ミサ)

Cathedral200328

3月29日、雪降る東京です。四旬節第五主日のミサの導入と、説教の原稿です。

今回は大聖堂から配信しましたが、音の問題は多少改善されたと思います。映像の乱れが解消していません。

ミサの導入

わたしたちは生まれて初めて、ミサのない四旬節を過ごしてまいりました。砂漠の中に放り出されたような、霊的な渇きに苦しめられた四旬節です。

第五主日のミサは、すべてをつかさどる神の力を通じて復活への希望を新たにする日です。感染症が拡大する中で、東京ではこの週末の外出を自粛するようにとの要請が出るなど、希望を見いだすことが難しい状況でわたしたちは生きています。

その不安の中にあって、あらためて本当の希望である主イエスへの信頼を、このミサの中で深めましょう。

また洗礼を準備しているすべての志願者の上に、勇気が与えられ祝福がありますように祈りましょう。

そして、感染症の拡大が一日もはやく終息し、事態が収まるように祈りましょう。

ミサの説教の原稿

人間のいのちのはかなさ。人間のいのちを奪い去る死への恐怖。福音の冒頭にあったように、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と叫びたい気持ちです。

今年の四旬節ほど、人間のいのちについて考えさせられた四旬節はありません。感染症の拡大の中で、わたし自身を含めて、多くの人が、「いのちを守るために」適切な行動をとるようにと呼びかけつづけている四旬節です。初期の段階では大げさだと思われた行動が、時間を経るにつれて、まだまだ厳しい対応をしなければ間に合わないと危機感を募らせることになり、状況は日夜変化し続けています。

世界各地で、とりわけ現時点では欧米諸国で、多くの方が感染症のために命を落とし、その原因が目に見えないウイルスであるからこそ、死への恐怖がわたしたちに忍び寄ってきます。

東京教区がこうして公開の形での主日ミサを取りやめているのも、何度も強調してきましたが、自分の身を守るためと言うよりも、無症状のままで感染源になる可能性があるという今回のウイルス感染の特徴のため、知らないうちに自分が感染源となって、他の人たちを巻き込んでしまうことを避けるためです。

インターネット上には、医療崩壊を食い止めるために、自宅にとどまってくれるように呼びかける医療関係者の動画とか、「私たちのいのちを守るために、家にとどまってくれてありがとう」と呼びかける高齢者の動画などがあふれています。

コロナウイルス感染症の蔓延は、わたしたちに、すべてのいのちを守るためには、自分の身を守ることだけではなく、同時に他者のいのちにも心を配る思いやりが必要なのだということを思い起こさせています。すなわち、すべてのいのちを守るための行動は、社会の中での連帯と思いやりを必要としています。

わたしたちは、この理不尽な感染症の蔓延という事態が、どうしていまこのときに起こっているのか、わかりません。なぜこのような苦しみが、世界にもたらされているのか、その理由を知ることも不可能でしょう。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。この世界から理不尽な苦しみを取り除く努力をしなければならないとしながらも、教皇は、人間はその有限性という限界の故に、苦しみの源である悪と罪の力を取り除くことができないのだとも指摘します。それができるのは神だけであり、神は人間の歴史に介入されて、自ら苦しまれることで、世界にいやしを与える希望を生み出した。そこにこそ、わたしたちが掲げる希望があると指摘されます。

その上で、教皇は、人間の価値は苦しみとの関係で決まるのだとして、こういいます。
「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

わたしたちにとって、いのちを奪いとる死に至る道は、苦しみの極地ではないでしょうか。

本日の福音で、イエスは愛する友人であるラザロの死という苦しみと悲しみを通じて、初めて神の栄光を目に見える形で表します。

そのイエスご自身が、自ら受難の道へと足を進められ、十字架上でいのちをささげられます。しかしその自己犠牲こそは、永遠のいのちへの復活という栄光を生み出す苦しみでありました。

イエスの人生こそは、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を具現化する人生であります。

わたしたちは洗礼の水を通ることによって、古い自分に死に、新しい自分に生きることになります。エゼキエル書に「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と墓にいる者たちに告げる言葉が記されています。まさしくわたしたちは、洗礼によって神の霊を吹き込まれて、新たに生かされることになる。

その新たに生きる人生は、それまでの人生の継続ではなく、新しい人生です。

すべての悪に打ち勝つイエスの復活の力に希望を見いだす人生です。

「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を中心に据えた人生です。

教皇ヨハネパウロ二世は、書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」において、苦しみの意味を考察されています。

教皇は、「神は御ひとり子を、人間が悪から解放されるために世に与えられた」と指摘し、御子は、神が愛される人間の救い、すなわちあがないのために、罪と死に打ち勝たなくてはならなかった。そのための戦いが、イエスの人間としての苦しみの生涯なのだと述べています。

その書簡の終わりにあたり教皇は、ただ漫然と苦しみに耐えていれば良いというわけはではないことも、指摘することを忘れてはいません。漫然と耐えているだけでは、この世における神の国の実現はあり得ないからです。神の国の実現のためには、打って出る行動が必要です。

教皇は、教会が「善きサマリア人」に倣って生きるようにとよびかけ、「我々お互いの関係は、苦しむ隣人の方に向かわなければならない」と指摘します。

その上で、教皇は「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」とまで述べて、困難に直面する人たち、苦しみのうちにある人たちへ、徹底的に自己を与え尽くすことによって奉仕し、寄り添うことが必要であると説きます。苦しみの福音は、善きサマリア人として生きることを通じて、常に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜いた主イエスによる希望へと方向づけられるのです。

感染症が蔓延する中で身を守ろうとしているわたしたちには、すでに述べたように、「いのちを守るための行動」が必要で、そのためには自分の身を守ることだけではなく、社会の中での連帯と思いやりが必要です。

今回の事態で、病気に苦しむ人、病気との闘いに苦しむ人、経済の悪化で苦しむ人、雇用を失う人。様々な状況で、いのちの危機に直面する人たちが社会には存在することでしょう。わたしたちにはいま、思いやりと共に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜くことが求められています。

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