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2020年4月27日 (月)

緊急事態宣言が発令されている間の現行の措置

カトリック東京大司教区
緊急事態宣言が発令されている間の現行の措置
2020年4月27日

カトリック東京大司教区 大司教 菊地功

1: いのちを守るために、基本は、家にとどまりましょう。
 特に高齢であったり持病のある方にあっては、自宅において共同体の祈りに加わるようになさってください。

2: 主日のミサにあずかる義務の免除
 当面の間、東京教区のすべての信徒を対象に、主日のミサにあずかる義務を免除します。

3: 公開ミサの中止
 当面の間、不特定多数が参加する公開のミサを原則として中止します。

4: 諸行事・活動の中止
 ミサ以外の諸行事・会合・集いに関しては、緊急に必要な場合を除いて、どのような規模であっても、緊急事態宣言が解除されるまでは、中止または延期としてください。

5: 結婚式
 結婚式に関しては、延期が難しい場合、充分な感染症対策を行い、社会的距離をとって、行います。

6: 葬儀
 葬儀についても、参列者や司祭だけでなく、葬儀社の方々も感染の危険にさらされています。ご遺族の皆様には司祭とよく話し合い、例えば火葬を先に済ませて、後日事態が落ち着いてから葬儀を行う可能性もお考えください。
 諸事情から、ごく小規模で行われる場合でも、感染症対策や社会的距離を充分にとって行います。
 
以上

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緊急事態宣言の中にあって

カトリック東京大司教区の皆様

「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と弟子たちに約束された復活の主は、新しいいのちに生きるようにと、わたしたちを招いておられます。感染症の拡大という困難な事態のただなかにあっても、わたしたちは、主がお見捨てになることなく、今日もまた共におられることを信じています。

いのちの危機に直面する中で、人間の弱さを自覚させられているわたしたちは、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」というパウロの言葉を思い起こします(2コリント12:9)。助けを求めている世界は、わたしたち弱い存在を通して働かれる力強い神の力を必要としています。

ですから、できる限り家にとどまりましょう。それは逃げ隠れているのではなく、すべての人のいのちを守るための前向きな行動です。

同時に、様々な事情から家にとどまれない人たち、とどまる家のない人たちに、力強い守りの手が差し伸べられるよう祈りましょう。またいのちを守るために、日夜懸命に働いておられる医療従事者の皆さんが、守られるように祈りましょう。病床にある人たちに、神の癒やしの手が差し伸べられるよう祈りましょう。

困難に直面するわたしたちは、神の愛といつくしみのうちに、互いに助け合い、支え合い、尊重し合い、連帯する中で一致へと歩むことができるように、努めたいと思います。カリタスジャパンも、いのちを守る活動を支援するため、募金を始めました。

緊急事態が宣言されている間、ミサの公開を含めた教会活動を中止しています。解除された後にも、しばらく状況を見極める必要があります。当面の間、現状を維持し、「三つの密」を避け、責任ある行動をとりましょう。今後の方向性については、緊急事態宣言が解除されたとき、お知らせできるように準備しています。

集まることができない中でも、共にいてくださるイエスを中心として、わたしたちは一つのからだに霊的に繋がれています。今年の復活祭に洗礼を準備されていたものの、洗礼式がまだ行われていない皆さんも、そのからだの一部です。洗礼志願者の皆さん、それぞれの場にとどまりながら、神の力が世界を支配してくださいますようにと、共同体の皆と一緒に祈ってください。 

いつくしみ深い神が、すべての人を、まもってくださいますように。

2020年4月27日

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

(English version has been posted below.)

 

 

 

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During the state of emergency

27 April 2020

Dear brothers and sisters in the Archdiocese of Tokyo:

The risen Lord who promised to His disciples “I am with you always, until the end of the age” (Matthew 28,20) is inviting us to live a new life. Even in the midst of this COVID-19 pandemic, we firmly believe that the Lord will never abandon us, and is with us today.

Confronted with this crisis of life, we are made aware of our human weaknesses and we remember the words of Paul: “I will rather boast most gladly of my weaknesses, in order that the power of Christ may dwell with me” (2 Corinthians 12,9). It is indeed the power of our Almighty God at work through our weaknesses that is indispensable for our world now seeking for help.

Therefore, let us stay home as much as we can. It is not running away to hide, but rather it is a positive response to protect the life of all people.

At the same time, let us pray for the mighty hand of God to protect those who for various reasons could not stay home, and also for those without home. Let us also pray for the safety of all health care and front-line workers who are working hard day and night to protect life. And we pray that God may lay His healing hands upon all those who are sick.

In the face of difficulties, let us strive in the love and mercy of God to help each other, supporting one another, respecting every one, and journeying towards unity in solidarity. Caritas Japan has also taken the initiative to raise funds to support activities protecting life.

Until the declaration of state of emergency is lifted, Church activities including the celebration of “public masses” cannot be resumed. For the time being, we will maintain the status quo. And even after the declaration is lifted, it will be necessary to carefully assess the situation for some time. It would require us to continue to avoid the so-called “Three Cs” (Closed spaces with poor ventilation, Crowded places with many people nearby, Close-contact settings such as close range conversations ≪Source: MHLW≫) and to act responsibly. We are presently making the necessary preparations such that all the faithful are informed about the future directions of the Archdiocese after the declaration has been lifted.

Even though we cannot gather together physically, we are all connected spiritually as one body centered on Jesus who is always with us. Those who have been preparing to receive baptism this Easter but have not yet received the sacrament to date are also part of this one body. Remaining in your own places, new members are invited to pray together with all the members of our community for the power of God to reign over the world.

May our merciful God bless you and protect all people.

Tarcisio Isao Kikuchi, SVD
Archbishop of Tokyo

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2020年4月26日 (日)

復活節第三主日@東京カテドラル

4月26日、復活節第三主日のミサ。東京カテドラル聖マリア大聖堂からインターネット配信されたミサの説教の原稿です。

政府による緊急事態宣言が継続するなか、いつもであれば楽しみにしていたであろうゴールデンウィークが始まりました。東京都の小池知事からは「いのちを守るためのStay Home週間:Stay Home Week 」と言う呼びかけがあり、「いのちを守る」が毎日のように聞かれるようになりました。カトリック教会も、「感染しない、感染させない」を基本に、一日も早くこの事態が終息するように、責任ある行動をとりたいと思います。

現在、東京教区(東京都、千葉県)のカトリック教会において、「公開」のミサが中止されています。期限は定めておらず、「当面の間」としています。少なくとも緊急事態が宣言されている間はこのままの状態を維持し、それ以降もしばらくは状況を見極める必要があると思います。明日、4月27日(月)に、そのような内容で、教区の皆さん宛のわたしからのメッセージを、教区ホームページ上の文書とビデオで公表する予定です。

(なお「公開」のミサとは、不特定多数の方が自由に参加できるミサのことです。司祭は自らの務めとしてミサを捧げていますが、現時点でそれらはすべて「非公開」です。信徒の方が参加することはできません。また東京教区にある教会では、人数にかかわらずすべての会合や行事を中止にしています。)

以下、本日のミサの説教の原稿です。

復活節第三主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年4月26日

4月7日に緊急事態が宣言されて、まもなく三週間となります。諸外国と比較すればそれほど強い規制ではありませんが、それでも日常の生活の営みの様々な側面で自粛が要請され、普段とは異なる生活が展開されています。

もし安全な逃れ場があるのだとしたら、この混乱する現実に背を向けて、そこへと逃げ出してしまいたくなりますが、目に見えずに忍び寄るウイルスはどこにいるのかわからず、感染しないだけでなく、感染させないためにも、わたしたちはこの場に踏みとどまらなくてはなりません。

混乱のさなかにあっても、いのちを守るために日夜懸命に働いている医療関係者に感謝しながら、その健康のために祈ります。また病気の苦しみの内にある人に、神の癒やしの手が差し伸べられるように、心から祈ります。一日も早くこの事態が終息し、希望に満ちた社会が取り戻されるよう、祈ります。

今般の事態によって、健康の側面から不安を抱える方々や、経済活動の自粛が続く中で経済的側面から困難に直面しておられる方々もおられ、世界各地でいのちの危機が発生しています。教会のカリタスジャパンでも、国際カリタスとの連携の中で、国内外でいのちを守るための活動を支援する目的で、募金を開始しました。

さて、その日の夕方、師であるイエスが十字架上で殺されてしまうという大混乱の中、二人の弟子は、その現実に背を向けて、安心を求めてエルサレムを旅立ち、エマオへと向かっていました。

2018年に「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマに開催された世界代表司教会議の最終文書は、エマオへ向かう弟子の話を取り上げ、「起きている出来事の意味を理解できないままエルサレムと共同体を離れていこうとしている二人の弟子」と形容しています。(4)

二人の弟子は、自らの生命が危険に直面しているという恐怖と、頼りにしていた指導者が突然奪い去られたことによる混乱の中で、考えることといえば、いきおい自分の安全安心のことばかりになってしまう。だから、落ち着いて、それまでを振り返り、いったいそれまでイエスによって何が教えられていたのか、あかしされてきたのか、そしていま起こっていることの意味は何なのか、見つめ直す心の余裕がありません。

世界代表司教会議の最終文書は、次のように続けます。
「二人の弟子とともに、イエスは歩いておられます。彼らと一緒にいようとして、彼らとともにその道を歩んでおられます。イエスは、彼らが何を体験しているのか気づけるよう手を貸そうと、出来事についての彼らの見解を尋ね、辛抱強く耳を傾けておられます」

この会議を受けて発表された使徒的勧告「キリストは生きている」で教皇フランシスコは、イエスに対する信仰とは、イエスと出会って真の友情を深めることだとして、こう指摘されます。

「イエスとの友情は揺るぎないものです。黙っておられるように見えたとしても、この方は決してわたしたちを放ってはおかれません。わたしたちが必要とするときにはご自分と出会えるようにしてくださり、どこへ行こうともそばにいてくださいます」(154)

世の終わりまでわたしたちと共にいてくださると弟子たちに約束された主は、今日もまた、わたしたちと歩みを共にしてくださいます。混乱の中で、どこかへ逃げていくこともできずに立ちすくんでいるわたしたちと、一緒にいてくださいます。

その日の夕方、二人の弟子と歩みをともにし、その話に辛抱強く耳を傾けたように、主は今日も、混乱の中にあるわたしたちと共にいて、辛抱強くわたしたちの叫びに耳を傾け、いったい今の現実から何を学ぶことができるのか、わたしたちが気づくように手助けしようとされています。

わたしたちを友情の固いきずなのうちに結びあわされた主は、「黙っておられるように見えたとしても」、必ずや共にいてくださる。わたしたちはそう信じています。

共にいてくださる主は、混乱と不安の中にあるわたしたちに、落ち着いて信仰の目を持って、現実を見つめ直すように呼びかけておられると、わたしは思います。

この数ヶ月、わたしたちは、人生に不可欠だとこれまで信じていたことを、制約されたり失ってしまいました。そんなことは不可能と思われた、イベントの延期や中止、また多くの業種での休業や自宅での仕事も、いのちを守るために実現しています。教会も例外ではなく、インターネットの配信を通じて祈りを捧げたりすることが、普通の風景となりつつあります。

失ったり制約されたことで、すべてが不必要だったと結論づけることはできませんが、いまは、これまでの社会のあり方を見つめ直し、評価する「とき」でもあると感じています。

インターネットでミサを配信することで、即座にもう教会の建物はいらない、教会はバーチャルで充分だと結論づける誘惑もありますが、わたしは、教会共同体の意味を、あらためて落ち着いて見つめ直す機会が与えられていると思っています。ただ単に、日曜日にミサに出ればそれで終わりの教会ではなくて、日常生活の直中で、人間のいのちの営みに直接関わる教会のあり方を、あらためて模索する機会を与えられていると思います。信仰は生きています。

教皇フランシスコは「キリストは生きている」の中で、聖オスカル・ロメロ大司教の、いかにも聖人らしい次の言葉を引用しています。
「キリスト教は、信じるべき真理、守るべき法規、禁止事項の一そろいではありません。そうなったら不快です。キリスト教とは、わたしのことをあれほどまでに愛してくださり、わたしに愛を求めておられる、あの方のことです。キリスト教とは、キリストのことなのです」(156)

使徒言行録の中でペトロは、ダビデの言葉の引用として、力強くこう宣言しています。
「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」

不安の中にたたずんでいるわたしたちと、常に共にいてくださる主イエス。いつも傍らにおられる主は、わたしたち一人ひとりに、この混乱の中で、どのように生きることを求めておられるのか、心静かに、祈りの中で主の声に耳を傾けたいと思います。

先ほどの世界代表司教会議の最終文書の続きには、こう記されています。
「耳を傾けてもらうことで、彼らの心は熱くなり、頭がさえ、パンの分割によって、その目は開かれます。彼らはすぐさま踵を返して、共同体に戻り、復活した主との出会いの体験を分かち合うことを、自らの手で選び取るのです」

不安を抱え混乱する中で希望につながる道を探しあぐねている今の社会には、ののしりあう対話ではなく、耳を傾け合う対話が必要です。共に道を歩んでいく辛抱強さが必要です。同じ神からいのちを与えられた兄弟姉妹としての、友情のきずなと連帯が必要です。

教会共同体は、その中にあって、神との一致だけでなく、全人類の親密な一致の「しるしであり道具である」という自覚を、新たにしたいと思います。

とりわけ、感謝の祭儀において、聖体のうちに現存される主との一致を求めるとき、わたしたちは、主イエスとの友情のきずなにむすばれて、全人類の一致と連帯の実現を目指して、社会の直中にある希望のしるしとなりたい。そう思います。

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2020年4月19日 (日)

復活節第二主日@東京カテドラル

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められています。説教の中でも触れましたが、ポーランドの聖女、聖ファウスティナへのメッセージに基づいて、聖女の列聖式が行われた2000年の大聖年に定められました。

1931年2月22日に、聖女に表されたビジョンに基づいて描かれた主イエスのいつくしみの絵は有名です。東京カテドラルではオリジナルの模写が、地下聖堂祭壇横に安置されておりますし、聖ファウスティナの聖遺物が、大聖堂右側に、聖ヨハネパウロ二世の聖遺物と共に、安置されています。

聖ファウスティナの日記にはこう記されています。

「夕方、修室にいた時、白い衣服を着ていらっしゃる主イエスを見ました。片方の手は祝福を与えるしぐさで上げられ、もう片方の手は胸のあたりの衣に触れていました。胸のあたりでわずかに開いている衣服の下から、ふたつの大きな光が出ていましたが、一つは赤く、もう一つは青白い光でした。沈黙のうちに主を見つめていました。しばらくして、イエスはわたしに言われました。「あなたが今見ている通りに絵を描きなさい。その下に『イエス、わたしはあなたに信頼します』という言葉を書きなさい。わたしのこの絵が、まずあなたたちの聖堂で、そして世界の至る所で崇められることを望む。」(『聖ファウスティナの日記―私の霊魂における神のいつくしみ―』聖母の騎士社、より)

以下、本日の10時からの配信ミサの説教の原稿です。

復活節第二主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年4月19日

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と福音には記されていました。

そして今おなじように、わたしたち現代に生きる弟子たちも、感染症拡大の直中で恐れをいだいて、閉じこもっています。

その日、弟子たちは頼るべきで師であるイエスを失った喪失感と、自分たちもまた同じようにいのちを奪われるのではないかという恐れにとらわれていました。

そして今おなじように、わたしたちは、感染症の拡大の中で、それがいのちを奪ってしまう可能性が少なくない事実を目の当たりにして、恐れています。

恐れおののく弟子たちにそうされたように、今日またわたしたちは、主ご自身がわたしたちと共におられて、「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださることを信じています。

それは例えば、いのちの危機に直面する人たちをひとりでも救うために、日本で、そして世界中で、日夜懸命に働いておられる医療関係者の方々の存在を通じて、いのちの与え主である主は、「あなた方に平和があるように」と語りかけておられるように感じています。困難な事態の中で、希望と平和をもたらす医療関係者の働きに感謝すると共に、その健康のために祈ります。

教皇ヨハネパウロ二世は、二千年に行われた聖ファウスティナの列聖式の説教で、復活された主が弟子たちに現れたこの出来事を取り上げ、「人類は、復活のキリストがお与えになる聖霊に、触れてもらい、包んでいただかなければなりません。心の傷を癒やし、わたしたちを神から引き離しわたしたち自身を分断する壁を打ち壊し、御父の愛の喜びと兄弟的一致の喜びを取り戻してくださる方は、聖霊です」と述べています。

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められました。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに身をゆだね、それを分かちあうことの大切さを、あらためて黙想する日であります。

2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の神のいつくしみの主日のために、メッセージを用意されていました。そこにはこう記されていました。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。
「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています」(いつくしみ深い神3)

その上で、「この愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(いつくしみ深い神7)と言われます。

すなわち、「悪と利己主義と恐れの力に負けて」いる人類に、「ゆるし、和解させ、また希望するために」心に力を与えてくれるのは、神の愛であり、その愛が目に見える形で具体化された言葉と行いが、神のいつくしみであると指摘されています。

同時に教皇は、「あわれみ深い人々は幸いである、その人たちはあわれみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と、神のいつくしみは一方通行ではなくて、相互に作用するものだとも語ります。(いつくしみ深い神14)

信仰における同じ確信を持って、教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記していました。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。」(114)

誰ひとり排除されてもいい人はいない。誰ひとり忘れ去られてもいい人はいない。それは、神がすべてのいのちを愛しておられ、そのいつくしみの心で包んでくださっているからだ。

そこで2015年12月に、教皇フランシスコは、「いつくしみの特別聖年」を始められました。

いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」には、こう記されています。
「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父のいつくしみを現さなければなりません」(12)

いのちの危機に直面して、恐れに打ち震えている現代社会に、常に共にいてくださる主イエスは、その直中で、『あなた方に平安があるように』とあらためて告げようとされています。

多くの方々の具体的な愛の行動を通じて、平和と希望を告げしらせようとしています。

世界で進む連帯への動きを通じて、和解を告げしらせようとされています。

恐れている人類は、「復活のキリストがお与えになる聖霊に、触れてもらい、包んで」いただくことによって、「心の傷を癒やし、わたしたちを神から引き離しわたしたち自身を分断する壁を打ち壊し、御父の愛の喜びと兄弟的一致の喜びを取り戻」すことができるようになる。

復活された主イエスの弟子として、神のいつくしみを受けたわたしたちには、その受けた愛を、さらに他の人たちへと分かち合っていく務めが与えられています。「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命が」あるからです。

不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っているわたしたち一人ひとりが、いつくしみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

使徒言行録には、初代教会の理想的な姿が描かれていました。信仰共同体は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。

復活された主イエスの新しいいのちに生かされた共同体は、互いに「学び合い、支え合い、分かち合い、祈りあう」ことに熱心でありました。「心を一つにし」「喜びと真心を持って」いた共同体は、神の愛といつくしみに満たされたものとなりました。神の愛といつくしみを、あかしするものとなりました。神の愛といつくしみを、分かち合うものとなりました。

だからこそ、「民全体から好意を寄せられた」と使徒言行録は記します。社会の中で、希望の光となったのです。

いま、困難に直面する世界の直中にあって、わたしたち自身がまず、神の愛といつくしみに身をゆだね、それをあかししなければなりません。分かち合うものとならなければなりません。

主ご自身が、この時代の直中で、「平安があるように」と告げることができるように、弟子であるわたしたちは、「心を一つにし」「喜びと真心を持って」信仰共同体を育み、希望の光となりましょう。

 

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2020年4月16日 (木)

福岡の新しい司教のアベイヤ司教

Abella2

すでにご存じのことと思いますが、教皇様は4月14日付で、大阪大司教区の補佐司教であるヨゼフ・マリア・アベイヤ司教様を、福岡教区の司教に任命されました。アベイヤ司教様、おめでとうございます。(写真は2018年7月の司教叙階式の際に、クラレチアン会の仲間と)

アベイヤ司教様はスペインで1949年11月に生まれ、1975年にクラレチアン会の司祭として叙階されています。日本での宣教歴は長く、日本管区長や、クラレチアン会の総会長も務められました。

今般の感染症の拡大の事態にあって、着座式(すでに司教ですから、叙階式はありません)の日程がどうなるのか未定です。通常は、任命されてから2ヶ月以内に着座となるのですが、これは福岡教区の決定を待ちましょう。

さてこれで、日本の教会で司教が不在なのは、新潟と仙台の二つになりました。福岡が一年の空位で後任が決まったことは、近頃珍しいことだと思います。新潟は2017年12月から現在に至るまで空位で、わたしが今でも、使徒座管理者として東京大司教と兼任しています。

2009年に札幌教区の地主司教様が引退されたときも、わたしが新潟の司教と兼任しましたが、このときもほぼ4年の空位となりました。わたしは司教になって15年ほどですが、そのうちの6年強を、どこかと兼任していることになります。もちろん牧者としての司教が不在と言うことは、教会共同体にとってはふさわしい事態ではないので、一日も早く新しい司教が教皇様から任命されることを祈っていますが、同時に、国内的には、それぞれの教区は独立した宗教法人ですから、その代表役員が不在(現在わたしは二つの代表役員を兼務)の事態となりますし、代表役員の役職上就任しなければならない学校法人や社会福祉法人の理事とか評議員という立場も多々あるので、空位が続くことは教区運営に様々な困難を生じさせます。

福岡の新しい司教誕生を喜び祝うと共に、同時に、空位となっている二つの教区にも、一日も早くふさわしい牧者が与えられるように、皆様のお祈りをお願いいたします。

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2020年4月12日 (日)

典礼祭儀のネット配信は簡単ではありません

Easter20n

東京教区では、今回の感染症の事態にあたって、2月27日から「公開のミサ」を中止にし、3月1日から、主日のミサのネット配信を始めました。

「公開のミサ」の中止とは、教会でミサが中止になったという意味ではなくて、誰でも普通に自由に参加することのできるミサ(公開)を中止し、すべて「非公開」としたということです。これについては何度もご説明してきましたが、司祭はミサを捧げる義務がありますから、少なくとも日曜日には必ずミサが捧げられていますし、主任司祭は日曜日に、小教区の方々のためにミサを捧げる義務があります。

ですから現在ミサは「非公開」です。誰にでも自由にミサにあずかって頂くことはできません。その意味で、多くの信徒の方には、ミサの中止という事態になっています。最初は、入場制限とか、抽選とか、いろいろと考えましたが、どのような方法にも無理があるので、東京教区内は一律に非公開としました。それに一番に考えなくてはならないことは、大勢でミサをしないのは、自分が感染しないように護ることではなくて、今回の感染症の特徴である、無症状の感染者が、知らないままに他人に感染を広げてしまうことを避けるためです。自分は大丈夫だからは、今回は通用しません。

そこで、少なくとも主日のミサを、カテドラルからネットで中継することにしました。ミサの映像配信にはいろいろな考え方があると思いますが、カテドラルからの配信は、感染の危険を最大に避けながらも、しかし同時に典礼の荘厳さを失わないようにしっかりとした構成をすることを目指しました。

Easter20p

幸い、以前からミサ配信の可能性を検討してくれていた関口教会の信徒の青年が、ボランティアで協力してくれることになりました。早速、主任司祭の天本神父が中心になって、必要な機材の調達が始まりました。全くのゼロからの挑戦です。そもそもネット環境も、大聖堂にはなかったので、その手配も簡単ではありません。当初は機材の関係から、土曜日の夕方に録画して、日曜に配信としました。しかも、必ず、歌ミサで、すべてに字幕を入れることにもしました。また祈りの機会ですから、余分な解説は一切入れないことにもしました。

これが実は大変難しい挑戦でした。一番簡単なのは、祭壇だけが映るようにして、固定したカメラで中継することですが、できる限り典礼の荘厳さを出すために、複数のカメラを使用することにしました。

そして歌や朗読でシスター方の協力をお願いしました。

ミサに参加してくださっているのは、カテドラル構内に修道院のある師イエズス修道会(ピエタのシスター)とすぐ近くに住むドミニコ宣教修女会のシスター方で、これに2回目からは、聖歌を歌いオルガンを弾くために、イエスのカリタス会のシスターと志願者が10名ほど、協力してくれています。

しかし問題は、今度は感染予防です。聖堂内は、シスター方だけで20名近くになります。

最初は地下聖堂で、録画しました。ところが、地下聖堂の音響機器が古く、音をとるのが難しい。さらには地下聖堂は、100名ほど入る大きさと言ってもやはり狭く、換気がよろしくない。

Easter20q

そこで、大聖堂にて撮影することにしました。この頃には、機材も整いはじめ、さらに大聖堂の音響機器は新しいもので、音をとることも地下よりは容易になります。ただ今度は、大聖堂は非常に巨大な空間で、予備の椅子も出せば千人ほどが入れる空間ですから、カメラを3台駆使して撮影することで、わかりやすさと荘厳さを両立させることになりました。

一番最初に大聖堂から配信したときは、映像が安定せず、ツイッターなどでいろいろご意見をいただきましたが、担当の信徒ボランティア(この段階では3名)の努力で、様々な機材が「開発され」、無線で方向を変えたりズームしたりすることもできるようになり、一台をオルガンへ上がる階段、もう一台を聖堂右側にポールを立てて固定、そしてもう一台を移動用にして、映像を調整することができるようになりました。特に土曜の夜などに、改善のために遅くまで取り組んでくれて、感謝の言葉しかありません。また3名のボランティアの方と一緒に、努力を続けている天本神父にも感謝です。

生中継で字幕を入れるためには、事前に原稿を用意して、ミサ当日にはそのまま読み上げなければなりません。また字幕入れは、画像調整の場で、事前に用意した画像を重ねる形で、その場で手作業でタイミングを計っています。聖週間の典礼のように、普段と異なる場合は、事前の打ち合わせが不可欠ですが、そのために充分な時間をとることも難しく、ミサが始まる直前まで直しが入ったり、大変な努力をして頂きました。そのため中継中に少し異なる文面になったりしたところもありました。申し訳ありません。

専門家ではない信徒の方々の、この積み重ねで到達した映像は、聖週間の映像をユーチューブで見ていただければおわかり頂けると思いますが、専門家に外注したわけではなくて、教会のメンバーの手作りです。感謝の言葉しかありません。

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さてここからは感染予防の課題です。まず第一に、映像は遠くからズームで撮影するので、前後の距離感がうまく表現できません。そのため祭壇上などでは、司祭と侍者が重なって見えていますが、これは写真のように、前後が2メートルも離れています。(赤い椅子が司祭、白い椅子に侍者が座っています)

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さらに聖堂内のベンチは、これも写真を見て頂くとおわかり頂けると思いますが、通常の倍の距離で配置されています。前と後ろの間は1.8メートルです。そして通常は4名ほどが座るベンチに、一人だけ座って頂くように、テープで指定をしました。

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この写真は、以前の聖堂(右側)と、現在の聖堂(左側)です。

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聖歌を歌ってくださるカリタス会のシスターや志願者10数名には、離れて頂くために、祭壇から遠い大聖堂の一番後ろに、左右に大きく離れて、それぞれの距離が2メートルになるように、配置して頂いています。そのため、一番左にいるシスターなどは、右にいる指揮者のシスターを見るために、ミサ中には前でなく右を見て歌を歌って頂くなど、ご苦労をおかけしています。様々なご苦労と工夫に、本当に、感謝しています。

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さらに、大聖堂は暖房を入れると内気循環になってしまうので、すべての典礼の時には、暖房を使っていません。寒いです。さらに、さらに、大聖堂は、前の左右の扉を開け、正面の扉を開けているので、風が吹いています。お気づきになったかも知れませんが、聖金曜日の典礼での説教中に、説教の原稿をこの風で飛ばされそうになり慌てました。(上は、復活の主日のミサの説教中です。映像には映らない、大聖堂の空っぽなところが見て取れるかと思います)

ミサ中にも、いくつかの細かい変更をして、接触を減らそうとしています。奉納のところと、平和の挨拶の後には、祭壇の後ろで、わたしと司祭たちは手指をアルコール消毒しています。わたしも消毒した直後以外では、ホスチアに触らないようにしています。また、これもズームのため映像ではわかりにくいと思いますが、祭壇でのわたしの立ち位置は、普通よりも後ろに離れていて、後ろに1メートル以上下がって、祭壇中央に置かれたカリスからの距離を2メートル近くにして司式しています。

聖マリア大聖堂は、他のいくつかの聖堂と比較すると、巨大な建造物で、かなりの間隔を空けていても、見た目にはなかなかわかりにくいかとは思いますが、これからもできる限りの注意を払って、取り組んでいきたいと思います。

なお、昼間のミサですと、何名かの方が教会に来られて、聖堂の中に入られることを希望されますが、大変申し訳ないのですが、お入れすることはできません。感染予防の意図と、行政が要請している外出自粛の意図を、どうかご理解ください。できる限り、ご自宅で、祈りの時を一緒にしてください。インターネットがない場合は、同じ時間(日曜日の10時から)に心をあわせて、聖書と典礼などから朗読を読み、祈りでご一緒ください。お願いします。

東京カテドラル聖マリア大聖堂の、非公開ミサに入って頂くのは、現時点では、わたしの方からお願いする修道者の方と、配信のためのスタッフだけに限らせて頂いています。「シスターではなくて、ベールをかぶっていないから信徒がいた」というご意見をいただきましたが、それはカリタス会の志願者か、パウロ会のシスターであろうと思います。

公開ミサの中止期間にあっては、これからもこの形でミサの中継を続けていくつもりでおります。通常の事態に戻ったらどうするのかは、まだ決めかねています。今の状況では、中心になって動いてくださる信徒に大きな負担がかかってしまうので、普通の状態に戻ったときには、また協力者を増やすなどして、対処できれば良いなとは思っています。

何気なくネットで配信しているように見えますが、本当に多くの方の協力と、そして今の事態では細心の注意を持って、成り立っていることを、ご理解頂ければと思います。協力くださっている信徒の方々、シスター方に、感謝します。

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御復活の主日@東京カテドラル

Easterv2002

御復活おめでとうございます。

4月12日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、御復活の主日ミサには、いつものように司祭と神学生とシスター方だけが参加。撮影スタッフは信徒の方3名。日中ですので、何名かの方が聖堂の中に入られようとしましたが、大変申し訳ないが、お断りしました。別途記しますが、感染予防の趣旨を是非ともご理解いただきたいと心から願っています。

また、今日のミサには、毎日新聞とNHKの取材が入りました。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年4月12日

皆様、主イエスの御復活おめでとうございます。

今この瞬間にも、世界中で、そして日本でも、多くの人がいのちを守ろうとして、いのちを救おうとして、力を尽くしておられます。感染が拡大し続け、いったいいつまでこのような状態が続くのだろうかと、先行きを見通すことが難しい中で、なんとかいのちの危機を食い止めようと努力する人たちの存在は、希望の光です。医療従事者に感謝し、その健康のために祈ります。

いのちを守るための闘いが続いている直中で、わたしたちは、新しいいのちへの復活という、わたしたちの信仰にとって、最も大切な出来事を記念し、祝っております。いのちを守る行動が、これほどまでに注目され、その価値が強調された四旬節と復活祭を、経験したことがありません。

多くの人が、とりわけわたし自身を含めた医学の素人が、今年の初め頃には、事態がこんなに大事になるとは思っていませんでした。世界中で段々と深刻さの度合いが増すに連れて、危機感を強めてこられた方も多いと思います。わたし自身も、一月半ば頃から今に至る三ヶ月間、東京教区をあずかる立場にあってどういう判断をするべきなのか、悩みました。医療の専門家にも何度も相談をしました。的確で時宜を得たアドバイスをいくつもいただきましたが、同時に専門家の間でも、事態のとらえ方が異なり、様々な意見があり、難しい選択を迫られて困惑することもたびたびありました。

まだ終息に至っていない現時点で、その決断の可否を判断し評価することはできませんが、教区全体で公開のミサを中止にするという判断は、簡単に到達した結論ではありません。その判断が、一〇万を超える東京教区の信徒の方に及ぼす影響を考えたとき、いのちを守るためにとるべき最善の道はどこにあるのか、逡巡を重ねてきましたし、今でも毎日、刻々と変化する状況を目の当たりにして、次の決断へと悩む日々が続いています。

しかし常に念頭に置いているのは、神からあたえられた賜物であるいのちを守るために最善の道を探ることであり、同時に、信仰のうちに神への信頼を失わない道を探求することであります。

人類は今、いのちの危機に直面していると言っても過言ではありません。人類全体に影響を及ぼすいのちの危機は、凄まじい強力な伝染病や、星の衝突や、巨大地震や火山の噴火といった天災ではなく、たいしたことのない風邪のようだと当初は言われた、ウイルスによってもたらされました。大混乱をもたらす災害によっていのちの危機が明白に生じるのではなくて、知らないうちに感染しそれが知らないうちに拡大し、いまは危機的状況なのだと何度も自分に言い聞かせなければ忘れてしまいそうな弱々しい形で、わたしたちに迫ってきました。

これまでの歴史の中でわたしたちが築き上げてきた世界が、大げさな言い方かも知れませんが、これほど簡単にいわば存亡の危機に直面するとは、思ってもみませんでした。

今般の感染症の拡大という理不尽な出来事は、混乱と恐れと悲しみをわたしたちにもたらしていますが、同時に、少し立ち止まって、今までの世界の歩みを見つめ直し、新しい世界へと変わっていく道を探るよう、わたしたちを促しているようにも思います。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」にあるように、わたしたちはいのちを守るために、総合的なエコロジーの観点から、地球環境問題をはじめとした人間のいのちを取り巻く様々な課題に取り組むことが必須であると議論を続けていました。

わたしたちの共通の家をまもり、将来の世代によりふさわしい環境を残していく責任を果たすためには、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか」といった問いに答えていかなければならないと、教皇は回勅で呼びかけます(160)。

わたしたちは、現時点では、感染症の前にまさしくなすすべもなく、途方に暮れていのちの危機に直面しています。加えて、この事態が、人類の歴史の中で、今回が最後であると、いったい誰が断言できるでしょうか。わたしたちは、自らの存在の意味を、あらためて問い直すように、招かれています。

コリントの教会への手紙に、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」という言葉が記されていました。

復活された主の新しいいのちへと招かれている教会には、常に新しいいのちを生きるために、その立ち位置を過去に固定させ留まることなく、前進し続けることが求められています。

実際、今般の出来事によって、聖堂に共に集い、聖体祭儀にあずかって、キリストの体における一致を体験することができなくなっている教会は、半ば強制的に、そのあり方を変革するように求められています。

聖体祭儀がその中心であることには何も変わりがないものの、それができなくなっている今、世界中の教会は、共同体のきずなを確認し深めるために、様々な手段を講じています。このようにインターネットを通じてミサを中継している教会も多くありますし、講座や祈りを、配信し始めたところも少なくありません。日本だけではなく、世界中です。司祭や信徒が個人で発信を始めている例も少なくありません。

心の避難所である教会の存在は、どの時代にも重要です。祈りを捧げる聖なる場所も信仰には必要です。共同体の皆と共に、一緒に賛美を捧げる場所は、わたしたちにとって欠かすことができません。わたしたちの信仰は、共同体の信仰です。ですから教会に集まると言うことが、消滅してしまうわけではありません。

しかし、今回の事態はわたしたちに、目に見えない教会共同体のきずなを深めることの大切さ、そして目に見えない教会共同体のきずなは、毎日の家庭や社会での生活にあってもつながっていることを、あらためて自覚させてくれました。すなわち、わたしたちの信仰は、日曜日に教会に集まってきたときにだけ息を吹き返すパートタイムの信仰ではなくて、教皇フランシスコがしばしば指摘されるように、フルタイムの信仰であることを、思い起こさせてくれています。

インターネットで様々な場所からのミサの中継があることで、選択肢が増えたと喜んでおられる方もいるのかも知れません。

違うのです。

インターネットを通じて、教会が皆さんの毎日の生活の中にやってきたのです。教会は生活とかけ離れた存在ではなくて、毎日の生活の中にあるものとなったのです。教会は特別なところではなくて、普段の生活の一部となろうとしています。

教会は、社会から隔離された避難所ではなく、社会の荒波の直中にある一艘の船です。港に繋がれている船ではなくて、荒波に乗りだしている船です。

同じ船に乗っている仲間として、そのきずなをあらためて確認し、いのちの危機に直面している世界の直中で、復活された主イエスの新しいいのちへの希望を、光り輝かせる新しい教会となりましょう。

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復活徹夜祭@東京カテドラル

Easterv2001

御復活、おめでとうございます。

今年の復活祭は、これまでと全く異なる復活祭となりました。ミサはいろいろなところで捧げられたと思います。東京カテドラル聖マリア大聖堂でも捧げられました。しかし、東京教区ではすべてのミサが非公開でした。司祭と、少数の修道者と、中継をしたところではそのスタッフと、ほんの少数の方が参加。多くの方は、自宅に留まって、そこで祈りを捧げたり、中継ミサにあずかったりされたことと思います。祈りの内に、皆が一致できているように、願っています。

聖マリア大聖堂も、普通は予備の椅子も入れれば、千人近く入る大きな空間ですが、そこに少数の司祭団と、構内と近隣のシスター方数名、歌を歌ってくれたイエスのカリタス会シスターと志願者。志願者には、中継前のベンチの消毒もお願いしています。しかも聖堂内のベンチはすべて2メートル近く離して設置し直し、普通は4人座るところに一人だけにしていただき、司祭団もすべて互いに2メートル近く離れ、司式者とか歌唱者以外は、マスクを着用してもらいました。加えて、暖房を切り(内気循環になるので)、横の扉二つを開放してあるので、内陣あたりには常に風が吹いています。特に聖金曜はそうでしたが、説教中に、わたしが、原稿を飛ばされないように押さえているところが、映像に残っていました。がらんとした聖堂で、感染予防に極力気をつけながら、それでも典礼の荘厳さを保つように、バランスを考えて努力しているつもりでおります。

典礼は、今回の事態にあたり、バチカンの典礼秘跡省から出た指針に従い、ロウソクの祝福や行列を止め、朗読の数を絞り、洗礼式などをなくしてあります。典礼での注意や中継の難しさについては、後日お話しします。

一日も早く事態が終息するように、病気と闘っている人たちに復活の主イエスの癒やしの手が差し伸べられるように、日夜闘っている医療関係者に守りの手が差し伸べられるように、祈りたいと思います。

以下、昨晩の説教の原稿です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年4月11日

皆様、主イエスの御復活おめでとうございます。

暗闇に光り輝く復活のロウソクは、わたしたちの希望の光です。

その希望は、キリストがもたらす新しいいのちへの希望です。暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心で感じながら、わたしたちは新しいいのちに招かれ、また生かされていることをあらためて思い起こします。

いつもの年であれば、、キリストと出会った多くの方が、準備の期間を経た上で、復活徹夜祭で洗礼を受け、新しいいのちの旅路を歩み始め、教会共同体の一員として迎え入れられます。

今年は洗礼式が延期となってしまった洗礼志願者の方が、ほとんどであろうと思います。大変残念に思っています。

目に見える形で共同体にお迎えできないのですが、しかし、皆さんの「キリストに従って生きたい」という願い、「キリストの体の一部となるのだ」という熱意が、洗礼志願者の皆さんをすでに教会共同体の一員としています。今夜、洗礼を予定されていた皆さんを、兄弟姉妹として、そして仲間として、喜びのうちに教会共同体へお迎えしたいと思います。

残念ながら、今年は、日本を含め世界各地において、この大切な夜を、多くのキリスト者が、そして多くの洗礼志願者が、聖堂ではなく、自宅で過ごさざるを得なくなっています。

実際に皆で集まることが難しいいまだからこそ、信仰のきずなによって互いが一つに結ばれていることを思い起こしましょう。わたしたちは、「古い自分がキリストと共に十字架に付けられ」、「キリストと共に生きることに」なりました。そのキリストは、数多くいるキリストではなく、唯一のキリストです。わたしたちは、どこにいたとしても、常に一つのキリストの体に結びあわされていることを、思い起こしましょう。

それぞれの場で捧げる今宵の祈りは、ともにキリストの体を作り上げる兄弟姉妹としての連帯へと、わたしたちを招きます。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます(マタイ28章20節)。暗闇に輝く希望の光である復活された主は、わたしたちを見捨てることはありません。主の約束に信頼しながら、一つのキリストの体にあずかる者として、互いを思いやり、支え合いながら、困難に立ち向かいましょう。

死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちへの希望を、わたしたちに与えています。困難な状況の中にあるからこそ、わたしたちは孤独のうちに閉じこもることなく、連帯のきずなをすべての人へとつなげていき、死を打ち砕き、いのちの希望を与えられるキリストの光を、社会の中で高く掲げたいと思います。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。

すなわち御復活のお祝いとは、信仰の核心である主の復活という出来事を喜び祝うだけに終わるものではありません。わたしたちは、キリストにおいて、新しいいのちに生きるものとなるように、その死と復活にもあずかるために、あらためて具体的な歩みを始めるようにと求められています。だからこそパウロは、わたしたちはいま、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」と記します。わたしたちには、立ち止まらず、歩み始めることが求められています。

先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。
「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」

モーセに導かれて奴隷状態から逃れようとしたイスラエルの民は、強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて叫ぶばかりでありました。

神は、モーセに、行動を促します。前進せよと求めます。ただ闇雲な前進ではなくて、神ご自身が先頭に立って切り開く道を、勇気を持って歩めと、告げるのです。

復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。
「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。」

イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。

恐れと不安にとらわれた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。新しいいのちを生きる希望の原点に立ち返り、旅路を歩む勇気をあらたにするようにと告げています。

主の死と復活にあずかるわたしたちに求められているのは、安住の地にとどまることではなく、新たな挑戦へと旅立つこと、そして苦難の中にあっても、先頭に立つ主への揺らぐことのない信仰にあって、勇気を得ながら、困難に立ち向かい、歩み続けることであります。

たったひとりで、歩み続けるのではありません。わたしたちは、ひとりで信仰を生きているのではなく、キリストの体である共同体のきずなのうちに信仰を生きています。いまこそそのきずなが必要です。

困難な状況の直中で、いのちの危機に直面しているわたしたちは、すべてのいのちを守るために、勇気を持って前進を始めるように、招かれています。

この事態を終息させるために様々な立場で感染症と闘っている方々、特に政治のリーダーたち、医療専門職の方々、実際に病気と闘っている患者のみなさんのために祈りましょう。いのちの希望を掲げることができるように、祈りの力で連帯しましょう。

いのちを守るために、日夜懸命に努力をされているすべての人の上に、神の守りがあるように、祈りましょう。

また社会的状況や経済的状況によって、いまいのちの危機に直面しているすべての人のために、祈りましょう。

イスラエルの民の先頭に立って、奴隷状態から解放された神が、わたしたちを善なる道へと導いてくださるように、祈りましょう。

復活された主イエスが、わたしたちに勇気を与え、共に助けあっていのちを守る道を歩み続けることができるように、祈りましょう。

神からの賜物であるいのちが守られるように、いまこそわたしたちの祈りと連帯と心配りが必要です。復活された主イエスの、新しいいのちへの希望の光が必要です。

 

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2020年4月10日 (金)

聖金曜日、主の受難の典礼

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聖なる三日間の典礼が続いています。

聖金曜日の典礼。主イエスが十字架上で亡くなられ、墓に葬られたことを思い起こしながら、沈黙の内に祈ります。

本日の典礼での説教の原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信用)
2020年4月10日

世界のすべての人たちと共に、わたしたちは今、いのちの危機に直面しています。そこから逃れる術をまだ知らず、ただただ神に助けを求めて苦しんでいます。わたしたちと同じ人となられ、人間として苦しみを耐えしのばれた主の十字架を仰ぎ見ながら、苦しみに直面しているわたしたちが、そこから何を学ぶことができるのか。日々、黙想しています。

生活の中で当たり前であったことを、順番に失いつつある今、わたしたちは生き方を変えるように促されていると感じます。

主イエスが耐え忍ばれた苦しみ、十字架上の受難と死をあらためて心に刻む今日の典礼は、主の苦しみが自分とは無関係な苦しみではなく、まさしくわたしたちのための苦しみであったことを思い起こすようにと、招いています。

第一朗読のイザヤの預言には、「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・・彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と記されていました。

人類の救い主である主イエスが、わたしたちの犯した罪と苦しみをすべて背負われて、贖いのいけにえとして、十字架の上で命をささげたのだと思い起こさせる、預言者の言葉です。

この主の苦しみは、わたしたちにどう生きるようにと促しているのでしょう。

十字架上で激しい苦しみの中にある主イエスの傍らには、母マリアと愛する弟子が立っていたと、受難の朗読に記されていました。

苦しみの中でいのちの危機に直面していた主は、その中にあっても、他の人々へ配慮することを忘れません。自分の苦しみを耐えしのぶことで精一杯であったことでしょう。しかし、それでも主イエスは、他者への心配りを見せるのです。神の愛そのものである主の心は、いつくしみと思いやりにあふれています。

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこのときから、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。

その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立つ姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立つ聖母マリアはその希望のしるしです。

私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。神の民である教会は、聖母マリアと同じようにイエスの苦しみに心をあわせ、自分のためではなくすべての人のために、神の望まれる道を、「お言葉通りにこの身になりますように」と、歩み続ける勇気を持たなくてはなりません。

十字架は、復活の栄光へとつながる希望です。十字架は敗北ではありません。その苦しみと死ですべてが終わってしまう敗北の象徴ではありません。主イエスは、十字架の苦しみを通じてすべてを無にして神にささげたが故に、復活の栄光に到達しました。ですからわたしたちにとって、十字架は希望です。

教会は、聖母マリアと共に、十字架の傍らに立ち続けながら、苦しみを耐え忍びつつ、十字架がもたらす新しいいのちへの希望を高く掲げようとしています。

苦しみの中にあっても他者への配慮を忘れない主ご自身に倣うように、聖母マリアも、苦しみの人生を歩みながら他者への配慮を忘れない存在です。神にすべてを捧げ、心が剣に刺し貫かれる苦しみの生涯であったにもかかわらず、常に他者への心遣いを忘れない生き方です。

教会は主イエスの十字架の傍らに立ち続けながら、主ご自身に倣って、また母である聖母マリアに倣って、苦しみの中にあっても、助けを求めている人、弱い立場にある人、忘れ去られた人、排除された人、苦しみにある人への心配りを忘れない教会であり続けようとしています。

人となられた神の言葉を宿され、そのいのちを育んだ聖母マリアを教会の母とすることで、主イエスは、いのちの尊厳をまもる責務を教会に与えられました。

教会は主イエスの十字架の傍らに立ち続けながら、どのような困難な中にあっても、神の賜物であるいのちをまもることが最優先なのだと、困難の直中にあって自覚を新たにしています。

いま、感染症の拡大という困難の中にあって、多くの医療関係者が、いのちを守るために、日夜働いておられます。自分自身もいのちの危機と隣り合わせの中で、いのちを失うことのないように、挑戦を続けておられます。その働きに感謝すると共に、彼ら自身の健康を、いのちの与え主である神がまもってくださるように、心から祈りたいと思います。

医療関係者の献身的な働きに、わたしたち教会も学びたいと思います。

十字架上の主の苦しみは、わたしたちにどう生きるようにと促しているのか。教皇フランシスコはたびたび、無関心のグローバル化と、むなしいシャボン玉に閉じこもった利己主義が、多くのいのちを奪っているのだと指摘され、「新しい普遍的な連帯」の必要性を説いていました。

今世界は、連帯しなければ生き残れないのだと、実感しています。互いに助け合うことの大切さを、体験しています。苦しみの直中にあっても、他者のために心を配ることの重要さを、学んでいます。実際に集まっていなくても、心のきずなで結びあわされて、共同体を創ることができるということを、目の当たりにしています。

苦しみの中にあるときにこそ、より「完全な者」となる道を求め、十字架の苦しみに心を合わせ、その十字架が指し示す復活の栄光と希望を目指しながら、神の愛といつくしみが満ちあふれる世界の実現のために、今歩みを始めましょう。

 

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2020年4月 9日 (木)

聖木曜日・主の晩餐

聖なる三日間が始まりました。残念ながら、感染症の拡大と、東京大司教区にあっては東京と千葉が緊急事態宣言の対象地域であるため、典礼はすべて非公開となっています。

聖木曜日・主の晩餐のミサの説教の原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年4月9日

聖体の秘跡は、神があふれるほどに注がれる人間への愛を、日々わたしたちが心と体で感じることができるようにと、制定され、与えられました。

聖体を通じて現存される主は、常に私たちと共におられることを、目に見える形で示されています。ご自身が語り行われたこと、捧げた祈り、そしてその身を私たちのためにささげられたという事実を、再び来られる日まで、すべての人に伝え続けるようにと命じられました。

最後の晩餐での出来事は、弟子達の証しに始まって、いまに至るまで連綿と引き継がれ、それを受けたわたしたちには、さらに将来へと伝えていく義務があります。

聖体祭儀に与るたびに、「わたしの記念としてこのように行いなさい」といわれた主イエスの言葉が、その切々たる思いと共にわたしたちの心に響き渡ります。

今宵、最後の晩餐を記念しながら、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を、あらためて思い起こしましょう。同時に、自分自身が受け継いだその事実を、次の世代へと引き継いでいく役割があるのだという自覚を新たにいたしましょう。

教会は、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言う主の言葉に従い、主が語り行われたことを宣べ伝え、主が祈られたように神に向かって祈り、主が教えたように愛の奉仕を実践していきます。

愛する弟子たちとの別れが迫る中で、万感の思いを込めてそう述べられた主イエスは、「わたしを忘れるな」と、弟子たちに命じたのではないでしょうか。聖体の秘跡が、ミサの中で繰り返しささげられるごとに、そこには「わたしを忘れるな」という主の思いが、響き渡ります。

その響き渡る主の声を、むなしい響きに終わらせないためにも、主の思いを受け継いで、次へと繋いでいく共同体が必要です。

主イエスの言葉を受け継いで、社会の現実の直中にあって、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を、あかししていく務めは、教会の共同体に与えられた使命です。

コロナウイルス感染症が蔓延する中で、わたしたちは新しい言葉を使うようになりました。日頃の会話の中で、感染症拡大以前にはあまり口にすることのなかったいくつかの言葉を、当たり前のごとく口にするようになりました。その中の一つが「社会的距離」という言葉です。

ちょうどこの東京カテドラル聖マリア大聖堂もそうですが、接触感染を避けるために「社会的距離」を確保しようと、聖堂内のベンチが以前と比べてかなり離れて設置されています。

互いの接触を避けることがまず第一の感染予防策だと耳にするようになって、わたしたちは、臆病になりました。互いに近づくことに、若干の恐れを抱くようになりました。目に見える形で具体的に一メートルから二メートルほどの距離を保って、なるべく他人と接触しないように心掛けることが、だんだんと普通のことになってきました。昨年の今頃、聖堂のベンチをこのように離して設置すると言ったら、誰も賛成してくれなかったことでしょう。でもいまはそれが普通になりました。社会的距離を保つことは、感染予防のために必要です。そのことには何も反論はありません。

しかしその物理的な距離が、心の距離をも深めてしまうことがないように祈っています。

今般の感染症の特徴のためですが、多くの方が感染しても無症状で回復すると言われています。ただ、無症状のまま、感染源となる可能性があります。

自分が意図しないまま感染源となって、他の方、特に高齢であったり持病のある方のいのちを危機に陥れることのないようにと、いま教会ではミサの公開を中止にしています。インターネットなどの映像を通じて、今夜のミサにあずかってくださる方もおられるでしょう。「すべてのいのちを守る」と主張する教会には、いまはその選択肢しか、あり得ないと思います。

しかしその物理的な距離が、互いの心の距離を深めることにならないように祈っています。

さて、最後の晩餐で主からの言葉を受け継いだ教会共同体とは、どんな存在でしょうか。

第二バチカン公会議の教会憲章は、「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のあかし、道具」だと指摘しています。

その上で、教会はキリストの体であり、キリストは教会を「目に見える組織としてこの地上に設立」され、「目に見える集団と霊的共同体」が「複雑な一つの実在を形成」しているのだと記しています。

わたしたちの共同体は、実際に日曜日に建物に集まってくる信徒の集まりだけのことではなく、目に見えない霊的な共同体としても存在しています。キリストに従うことをひとたび決意し、洗礼によってキリストの体に加わるようにと呼ばれたものは、例えば日曜日に教会に行かないからと言って、キリスト者でなくなるわけではありません。そもそも、キリストの体に属さない、一匹狼の信徒などという存在はあり得ません。

しかしながら、わたしたちは弱い存在ですから、目に見える共同体での物理的な交わりを失うとき、心も離れてしまう誘惑にさらされてしまいます。

教会はいま、まさしくその危機に直面しています。コンピュータのディスプレイの前でミサにあずかっておられるとき、その心はどこにありますか。

教皇ヨハネパウロ二世の回勅『教会にいのちを与える聖体』に、こう記されています。
『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』

したがって、聖体祭儀にあずかることは、たとえそれが実際に聖体を拝領することを伴っているか、いま現在の状況のように霊的聖体拝領を伴っているか、どちらの場合であっても、個人的な信心のためではなく、教会の公の行為にあずかっていることを忘れてはなりません。

最後の晩餐で主イエスが制定された聖体は、弟子の共同体に与えられ、歴史の中で連綿と、共同体を通じて伝え続けられました。聖体は、教会共同体の交わりを生み出す秘跡です。聖体祭儀にあずかる時、わたしたちは、教会共同体の交わりの中にあることを意識したいと思います。

いま、残念なことに、具体的な形で日曜日に集まっていないとしても、わたしたちは、祈りの内に、小教区共同体の交わりの中にあります。小教区共同体を通じて、普遍教会の交わりの中にあります。

物理的に距離を離して身を守らなくてはならない今だからこそ、わたしたちは、離れていても、キリストの体である教会共同体に結びあわされており、共に祈ることによって、生かされていることを思い起こしましょう。そしてわたしたち一人ひとりには、この共同体が主ご自身から受け継いだように、主が語り行われたことを宣べ伝え、主が祈られたように神に向かって祈り、主が教えたように愛の奉仕を実践する務めがあります。信仰に基づくわたしたちの言葉と行いは、キリストの体としての言葉と行いです。困難な時期だからこそ、思いやりと配慮の心を持って互いに支え合い、言葉と行いを通じて、「神との親密な交わりと全人類一致のあかし、道具」でありましょう。

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2020年4月 7日 (火)

日本政府による緊急事態宣言を受けて

カトリック東京大司教区の皆さんへ

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功
2020年4月7日

日本政府による緊急事態宣言を受けて

4月7日付で、政府から今回の新型コロナウイルス感染症拡大を受けて、緊急事態宣言が発表されます。東京都と千葉県は、その対象地域の中に入っております。期限は一ヶ月と報道されています。

東京教区としては、3月23日付で発表した「新型コロナウイルス感染症に伴う3月30日以降の対応」に基づいて、「感染しない、感染させない」ことを念頭に、自分の身を守るだけではなく他の方々への十分な配慮をもって、対応を続けてまいります。

同文書では、「当面の間」として主日のミサの義務の免除と公開ミサの中止を定めております。これについては、残念ですが、少なくとも緊急事態宣言が解除される5月9日頃までは継続せざるをえません。4月末を目途に、ゴールデンウィーク以降の対応について、あらためてお知らせいたします。

なお、今回の緊急事態宣言に伴って、いくつかの変更点とお願いがあります。

1:ミサ以外の諸行事について
ミサ以外の諸行事・会合に関しては、緊急に必要な場合を除いて、どのような規模であっても、緊急事態宣言が解除されるまでは、中止または延期としてください。

2:ゆるしの秘跡について
ゆるしの秘跡が必要な方は、司祭に相談ください。ただし、従来の箱形や個室型の「告解室」の利用は避けてください。
 
応接室などで、少し距離を置いて、互いにマスクを着用の上、秘跡を受けてください。

3:洗礼式と合同堅信式について
復活祭に予定されていた洗礼式は、大変残念ですが、緊急事態宣言が解除されるまでは、緊急時を除いて、後日に延期といたします。

第二バチカン公会議の教会憲章に、「聖霊の働きのもとに、明らかな意志をもって教会に合体することを願っている洗礼志願者は、その望みそのものによって教会に結ばれており、母なる教会は彼らをすでに自分のものとして愛と配慮をもって迎え入れる(14)」と記されています。残念ながら洗礼は少し先になってしまいますが、志願者の方々には、「教会に合体することを願っている」明らかな意思があるときに、すでに教会共同体の一員となっていることを、心にとめていただけると幸いです。

なおそれに伴って、それぞれの方の学びや準備のことなども考慮して、5月31日に予定されていた教区合同堅信式は、残念ですが今年は中止といたします。

4:葬儀について
感染が拡大していますので、参列者や司祭だけでなく、葬儀社の方々も感染の危険にさらされています。ご遺族の皆様には司祭とよく話し合い、例えば火葬を先に済ませて、後日事態が落ち着いてから葬儀を行う可能性もお考えください。


教会は、一人ひとりのいのちを守ることを優先し、今回の事態に対応していきたいと考えています。また、困難な事態が長引く中で、孤立する人、経済的に困窮する人、理解の相違から排除されたり、対立の中に巻き込まれる人など、様々な形でいのちが危険にさらされる可能性があります。

死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちの希望を、わたしたちに与えています。困難な状況の中にあるからこそ、わたしたちは孤独の鎖を打ち砕き、互いに支え合って立ち上がり、希望の光を社会の中に掲げたいと思います。

互いに集まることができないとしても、信仰によって結ばれていることをあらためて自覚し、目に見えない霊的な教会共同体に属していることを思い起こしましょう。一人ひとりのいのちを守ることを最優先として、心配りの日々を過ごしてまいりましょう。

この困難な事態にあって、昼夜を問わず感染した方々を救うために尽力されている医療関係者の方々には、心から感謝したいと思います。いつくしみ深い神の守りの手が、医療関係者の上に差し伸べられるように祈りましょう。
 
どうか、祝福に満ちた復活祭を迎えられますように。

以上

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2020年4月 5日 (日)

受難の主日・枝の主日@東京カテドラル

厳しい状況の中で、聖週間がはじまりました。

受難の主日のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂から中継配信しました。

広い大聖堂内は、先日ベンチの間隔を1.8メートルあけるように配置し直してあります。十数名のシスター方に、広い大聖堂内に広がって座っていただき、聖歌と朗読をお願いしました。正面と横の扉も開放しているので、風通しは良いのですが、まだまだ寒い大聖堂です。

以下、本日の説教の原稿です。

受難の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年4月5日

教会の扉が閉じられたままで、聖週間がはじまりました。感染症が拡大する中で、先行きの見えない不安に苛まれながら、わたしたちは、先ほどの受難の朗読にあったとおり、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と声をあげてしまいたくなります。

大勢の群衆の歓声の中、エルサレムに迎え入れられたイエスは、同じ群衆から「十字架に付けろ」とののしられ、死へ至る苦しみへと追いやられていきます。十字架上の苦しみの中で主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですが」と叫び声を上げられました。裏切られ、見捨てられ、孤独の内に、人生のすべてを、そして究極的にはいのちでさえ奪われていく悲しさ。むなしさ。苦しみ。

しかしその悲しみ、むなしさ、苦しみがあったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆるものにまさる名をお与えになった」とパウロは指摘します。

「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であった。だからこそすべての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べるようになる。それも、苦しみ抜いた本人を褒め称えるためではなくて、父である神をたたえるためなのだと、使徒は書いています。

行動を共にしてきた弟子からも裏切られ、歓声を持って迎え入れた群衆からも見捨てられ、孤独の内にいのちの危機に直面されたイエスは、まさしくわたしたち多くが体験する苦しみのなかでも究極の苦しみを、自らご自分のものとされました。

わたしたちが生きている社会には、経済的な要因から、政治的な要因から、また地域の不安定な治安状況や紛争のために、さらには災害のために、いのちの危機に直面する人たちが多数存在してきました。国際的なレベルでも、国内的なレベルでも、いのちの危機に直面する人たちは常に存在します。その中には、どこからも助けの手が差し伸べられずに、孤独の内に苦しんでおられる方も少なからずいることを、わたしたちはニュースなどで耳にしてきました。

「出向いていく教会であれ」と言うメッセージと、「教会は野戦病院であれ」と言うメッセージは、教皇フランシスコが、教会のあるべき姿として、たびたび繰り返してこられたメッセージです。

ベネディクト十六世が回勅「神は愛」の中で指摘されたように、教会の本質は、「神の言葉を告げ知らせること(宣教とあかし)、秘跡を祝うこと(典礼)、そして愛の奉仕を行うこと(ディアコニア)」であります。ですから長年にわたって教会は、社会にあって「愛の奉仕」を具体化しようと、様々な活動に取り組んできました。

それは第二バチカン公会議にあっても、例えば現代世界憲章の冒頭に、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と記すことで、教会が何を大切にして歴史の中で歩みを進めるべきかを明確にしてきました。

東京ドームのミサで教皇フランシスコは、わたしたちに次のように呼びかけられました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」

でも考えてみると、これらの言葉はすべてわたしたちに、与えるものになりなさい、手を差し伸べるものになりなさいと呼びかける言葉です。もちろんそれは良いことであります。

しかし、2020年の初めからいまに至るまで、わたしたちが体験していることは何か。それは、わたしたち一人ひとりが、この目に見えないウイルスとの戦いの中で、いつでもいのちの危機に瀕する可能性を持っている弱いものであることを自覚させる体験であります。

どれほどわたしたち一人ひとりが、弱い存在であるかを自覚させる体験であります。
誰かに助けてもらいたい、手を差し伸べてもらいたいと懇願する体験であります。
大げさに言えばわたしたち人類はいま、すべての人が助けを必要としながら、孤独の中に取り残されて、いのちの危機に直面しています。

いまわたしたちは、取り残さないでくれと懇願しています。

人生からすべてを奪い取らないでくれと懇願しています。

暗闇の中に見捨てないでくれと懇願しています。

教皇フランシスコは3月27日の夕方に、今回の事態の終息を祈りながら、聖体降福式をもってローマと世界に向けた教皇祝福「ウルビ・エト・オルビ」を与えられました。

その中で、マルコ福音書に記された嵐を鎮めるイエスの物語を引用されて、こう述べています。
「わたしたちは恐れおののき、途方に暮れています。福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです。わたしたちは自分たちが同じ船に乗っていることに気づきました。」
その上で、そのように気がついたわたしたちはいま、「『わたしたちが溺れ死んで』しまうと不安げに一斉に叫んだあの弟子たちのように、わたしたちも、一人で勝手に進むことはできず、皆が一つになってはじめて前進できることを知ったのです」と指摘されています。

すなわち、わたしたちはこの嵐の中で、ひとり孤独の内に取り残されているのではなくて、同じ船に乗っている仲間がそこには存在していることに気がつかさせられている。いまするべきことは、ひとりで道を切り開こうとすることではなくて、船に乗っている仲間たちの存在に心をとめ、一緒になって前進しようと連帯することです。

教皇フランシスコが3月28日のお告げの祈りで、「あらゆる形の武力的対立を止め、人道支援回廊の構築を促し、外交に開き、最も弱い立場にある人々に配慮するよう」に世界のリーダーに求められたのは、まさしくいま人類は歴史の新しいステージに立っていることを自覚せよと呼びかけるためであります。

いまわたしたちは歴史の転換点に立っています。この感染症の危機が過ぎ去った後の世界は、これまでとは異なる世界になると主張する声も聞かれます。これまでの常識が通用しない世界なのかも知れません。どのような世界が感染症の後に展開するのか。その行方は、いま危機の中にあるわたしたちがどのような言動をするのかにかかっています。その世界を神の善が支配する世界とするためには、いま、連帯の道を選び、互いに助け合いながら、嵐に翻弄される船に乗り合わせた仲間として、一つになって前進することが大切です。

十字架の苦しみの先に復活の栄光があったのは、イエスがすべてを無にして、神にすべてをゆだねたからでした。困難の中にあるいま神の計らいにすべてをゆだね、兄弟姉妹と一致しながら歩む道を選択しなくてはなりません。対立や排除ではなく、神がその愛を持って包み込まれるすべての人と、心を繋いで立ち上がる。

神からの賜物である命を守るために、互いに連帯し、理解を深め、助け合い、支えあって行く道を求めましょう。

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