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2020年5月31日 (日)

新潟教区に新しい司教任命

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新潟教区の皆さん、二年半も、よく辛抱して待ってくださいました。みなさまのお祈りのおかげです。

教皇様は、本日5月31日19時(ローマ時間お昼)、2017年12月から空位であった新潟教区司教に、パウロ成井大介(なるい だいすけ)神父を任命されました。

パウロ成井大介被選司教は、神言修道会の会員で、1973年11月24日愛知県生まれの、現在46歳。2001年に名古屋で司祭に叙階され、秋田教会で3年間ほど働いたことがあります。現在は、神言修道会のローマ総本部で、修道会全体の正義と平和コーディネーターをされています。

詳細は追って新潟教区から発表されることになります。

パウロ成井大介被選司教様、おめでとうございます。

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聖霊降臨の主日@東京カテドラル

復活節の締めくくりでもある聖霊降臨の主日となりました。結局、2020年は、四旬節も復活節も、教会のミサを公開で行うことができませんでした。受洗を予定されていた多くの方や、また今日の聖霊降臨にカテドラルで合同堅信式を予定されていた多くの方。大変申し訳ない。大きな喜びの時を、大きな試練の時としてしまい、大変残念です。

今後、ミサが公開となっていった段階で、小教区教会共同体全体とは行かないかも知れませんが、共同体の中で、洗礼や堅信を受けるようにしてください。個人的に個別に行うと言うアイディアもありましたが、やはり洗礼も堅信も、緊急の場合を除いて、共同体のお祝いであり、共同体の一員として秘跡にあずかっていただくのが本来の姿です。今後、主任司祭が様々な工夫をして洗礼や堅信を行っていくことになりますので、よくご相談ください。

なお、現時点では、東京教区の小教区公開ミサを再開することはできません。もうしばらくお待ちください。緊急事態解除後に、感染者がゼロになったわけでもなく、亡くなられるかたもおられます。状況を見極め、また特に東京都のロードマップを参考にしながら、時期を定めてまいります。互いのいのちを守るために、慎重に行動したいと思います。

具体的な指針についての問い合わせが、いくつか教区本部にありました。お知らせしたように、4月末に、具体的な対応のガイドラインを小教区の司祭に配布しました。それぞれに必要な対応を準備していただくためです。公開していない理由は、東京教区の中でも地域によって状況が異なりますので、すべての小教区で統一した全く同じ対応をすることは難しいと思われるからです。ガイドラインの一人歩きは避けた方が賢明だと思います。各小教区では、教区のガイドラインに沿って、地域の状況に合わせたアレンジをしていただかなくてはなりません。その作業を、主任司祭と、この数週間は教会の役員の方々などと一緒に、進めていただいております。

ミサを公開する日時を定めましたら、その10日くらい前にはお知らせします。その際には、教区がすでに定めた具体的なガイドラインも公開します。それに基づいたそれぞれの小教区の対応も、お知らせすることになると思いますので、主任司祭の指示に従ってくださるように、お願いいたします。

以下、本日の説教の原稿です。

聖霊降臨の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月31日

緊急事態宣言が解除され、わたしたちは、閉じこもっていた部屋から解放されたように感じています。あの日の、恐れのなかにあった弟子たちのように、部屋の鍵をかけて隠れているような心持ちで、わたしたちも毎日を過ごしてまいりました。

感染にはこれからも繰り返し波があると指摘されていますから、緊急事態宣言の解除が安全宣言ではないことを心にとめて、慎重な行動をとらなければなりません。教会も、社会の中における責任を自覚し、また大切ないのちを守ることを優先して行動していきたいと思います。

あらためて、今回の事態にあたり、日夜努力を続けておられる医療関係者の方々に感謝し、また病床にある方々へいつくしみ深い御父の癒やしの手が差し伸べられるように祈ります。

恐れはわたしたちの心を束縛します。弟子たちは恐れに束縛されて、部屋に閉じこもりました。イエスはその部屋に入り、聖霊を与え、弟子たちを恐れの束縛から解放します。

「あなた方に平和があるように」と、「死」という最大の束縛から解放された復活の主は、弟子たちに言葉をかけます。それは、いつものあいさつの言葉に留まらす、恐れに束縛される心には、神の平和が欠如しているという事実を指摘しています。

神の平和とは、すなわち、神の秩序の実現です。神の平和の欠如とは、すなわち、神が求めておられる世界のあり方とは、正反対にある状態です。恐れる心は自分を守ろうとする思いに満たされ、他者への配慮に欠ける心となりかねません。互いに助けるものとして共に生きるようにといのちを与えられたわたしたちが、他者への心配りを忘れては、神の秩序の実現はあり得ません。

「聖霊を受けなさい」と恐れる弟子たちに、イエスは語りかけます。聖霊は、「いのちの霊、すなわち永遠のいのちの水がわき出る泉」であります(教会憲章4)。聖霊は、心の恐れを打ち砕く、いのちの源です。聖霊に生かされたとき、はじめて、神の平和が実現します。

使徒言行録は、聖霊によって生かされた弟子たちが、様々な言葉で福音を語る姿を記しています。もちろん聖霊をいただくことによって、様々な言葉が話せるようになれば、それはそれで素晴らしいことですが、この出来事が記されている本質はそこにはありません。大切なのは、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が理解されたときに、はじめて、神の平和が実現する一歩が踏み出されると言うことです。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とイエスは、弟子たちに勇気を持って一歩前に踏み出すように促します。聖霊を受けた教会は、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が理解され、神の平和が実現するようにと、遣わされています。神の望まれる世界の実現のために、遣わされています。

あらためて言うまでもなく、わたしたち一人ひとりはキリストの体の一部として、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」のですから、主によって派遣されている教会の一部として、おなじように、一人ひとりがイエスによって派遣されています。

わたしたちの派遣の使命は、聖霊の導きに従いながら、復活された主イエスの福音をありとあらゆる方法で、なおかつ理解される方法で多くの人に伝え、神の平和を実現することにあります。

1998年に開催されたアジアシノドスを受けて発表された教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「アジアにおける教会」に、教会の派遣の使命について、次のような指摘があります。

「教会は、聖霊の促しに従うときだけ自らの使命を果たすことができることをよく知っています。教会は、アジアの複雑な現実において、聖霊の働きの純粋なしるしと道具となって、アジアのあらゆる異なった環境の中で、新しく効果的な方法を用いて救い主イエスをあかしするよう招く聖霊の促しを識別しなければなりません(18)」

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、アジアにおける福音宣教の道を次のように示唆します。
「アジアにおいては非常に異なった状況が複雑に絡み合っていることを深く意識し、『愛に根ざして真理を語り』つつ、教会は、聞き手への尊敬と敬愛を持って福音を告げしらせます。(20)」

同じアジアにおける教会の一員であるわたしたちは、日本社会の現実の中へと派遣されて、「愛に根ざして真理を語」らなくてはなりません。わたしたちは、「尊敬と敬愛を持って」対話のうちに福音を告げなくてはなりません。聖霊の促しを受けて、その働きの純粋なしるしと道具となって、神の平和が実現するようにと、福音を告げなくてはなりません。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりに、「聖霊と共にある福音宣教者」というひと項目を設けています。そこに「聖霊は、福音を宣教する教会の魂」だと言う言葉があります。

そして教皇は、こう呼びかけます。
「宣教活動の中心にイエスの現存を見いだすことがなければ、すぐに熱意を喪失して、伝えていることに確信が持てず、力と情熱を失うことでしょう。信念も、熱意も、自信も、愛情もない者は、誰も納得させえません。イエスと結ばれ、イエスが求めるものを求め、イエスが愛するものを愛してください(266)」

わたしたち自身が、イエスの現存を肌で、心で感じていなければ、何も伝えることはできない。わたしたちがそれを生きていなければ、何も伝えることはできない。

恐れは不信を生み、不信は利己主義へとつながり、連帯のきずなは崩壊します。恐れの内に閉じこもろうとする社会に、わたしたちはいのちの泉である聖霊の息吹を吹き込みたい。

だからこそ、聖霊に導かれる教会は、常に新たにされ、恐れて閉じこもることなく、勇気を持って福音を告げる努力を続けなくてはなりません。教会は常に、聖霊の呼びかけに応えているかを見つめ直さなくてはなりません。感染症の拡大という困難は、三ヶ月にわたって、これまでの教会活動を止めてしまいました。しかしそのことが同時に、この現実の中で教会のあるべき姿をあらためて探求しようとする、いわば黙想の時間を、わたしたちに与えてくれました。教会は、困難な状況をくぐり抜けた後で、新たに立ち上がることを求められています。一人ひとりがキリストの体の一部として、現実の中で福音をあかしするよう派遣されている使命を、あらためて自覚するときは、今です。

社会に定着しようとする新しい生活様式とは、単にマスクをいつも着けることだとか、充分な社会的距離を保つといった、外面的な規則を守ることに留まるのではありません。それは生き方の転換や価値観の転換を促す、社会構造の変革の機会でもあります。

発表されてちょうど五年となる回勅「ラウダート・シ」において、総合的エコロジーの視点を強調される教皇フランシスコは、「後続する世代の人々に、今成長しつつある子どもたちに、どのような世界を残そうとするのでしょうか」と問いかけ、さらに「この世界でわたしたちは何のために生きるのか。わたしたちはなぜここにいるのか」と言う根本的な問いに対して、真摯に向き合うようにと呼びかけます(160)。

聖霊に導かれて、恐れに打ち勝ち、日々新たにされながら、神の望まれる世界、すなわち神の正義が具体化する新たな世界の実現を目指して、一歩前に踏み出しましょう。

 

 

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2020年5月29日 (金)

聖パウロ六世の記念日

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本日5月29日は、聖パウロ六世教皇の記念日です。典礼暦では任意の記念日ですので、パウロ六世と特別な関係のある、例えば男女のパウロ会や師イエズス修道会などの方々のミサでは記念されたと思いますが、実はカリタスジャパンにとっても重要な記念日です。

カリタスジャパンもその連盟の一員となっている国際カリタスは、聖パウロ六世を創立者のひとりと考えています。もともと国際カリタスは、聖オスカル・ロメロ大司教、コルカタの聖テレサ(マザーテレサ)、聖マルチノ・デ・ポレスを保護の聖人と定めていました。2018年にパウロ六世が列聖されたことから、保護の聖人に加わったことになります。

パウロ六世が、国際カリタスの創立者のひとりと考えられているのは、次の理由です。もともとカリタスと名乗っている教会の慈善運動体は、19世紀にすでにスイスやドイツなどを中心に誕生していましたが、現在のような教会公認の世界的組織となったのは、第二次世界大戦後のことです。

1951年にピオ十二世のもとで、国際カリタスは誕生しました。そのときの創立メンバーは、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、ルクセンブルグ、ポルトガル、スペイン、スイス、米国の十三カ国の教会慈善活動組織でした。

その前年から、この活動の国際組織化に興味を示し、指導をしていたのが、当時バチカン国務省の次官を務めていたモンティーニ師。後のミラノ大司教、そして後の教皇パウロ六世です。モンティーニ師の助力がなければ、現在のような形での組織化は難しかったと言われています。その意味で、モンティーニ師は国際カリタスの創立者のひとりであり、また後に教皇パウロ六世となってからも、様々な形で国際カリタスの活動に関わってくださいました。

なお日本(カリタスジャパン)が国際カリタスの連盟に名を連ねたのは1970年。ちょうど五十年前のことになります。

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2020年5月26日 (火)

緊急事態宣言が解除されましたので、今後について。

緊急事態宣言が5月25日に解除されました。今後についての公示を、本日、教区のホームページに掲載しましたが、以下に再掲します。なお教区ホームページには英訳も掲載されています。

公示に関連して、東京教区のミサの公開がいつになるのかというお問い合わせをいただいています。どんなに早くても6月半ば頃までは、現状を維持せざるを得ません。ですから、次の日曜日、聖霊降臨の主日にも、公開ミサはありません。

先日も申し上げましたが、緊急事態宣言の解除は、安全宣言ではありません。感染症はまだ終息しておらず、専門家は、今後も繰り返して波があるだろうと指摘しています。教会にとって最優先なのは、いのちを守ることであり、つまりは「感染しない」だけでなく、「感染させない」ことでもあります。また社会の中にある組織として、責任ある行動をとらなくてはなりません。

もちろんミサの再開に関しては、行政の指導などに従うのではなく教区としての独自の判断をいたします。そもそもミサの非公開についても、政府などの要請に従って決めたことではなく、専門家との相談の中で、独自に決定したものですし、緊急事態宣言発令以前の2月末に決めたことです。ですから今後も、状況を毎日見極めながら、教区としての独自の判断をいたします。その際に参考になるのは、東京都のロードマップにおけるステップです。これがどれくらいのスピードで次のステップに移動するかを、参考にします。それぞれのステップには、集会の規模についての目安がありますが、基本的にステップ2の100名程度になってから状況を判断するようにしたいと思います。現時点はステップ1で50人程度です。

「典礼はイベントではないから、行政のイベント自粛要請に従う必要はない」という意見もいただきましたが、典礼がイベントではないことは言うまでもなく当然ですし、これまでも、行政の要請に従って判断したわけではなく、独自に判断してきました。問題はイベントかどうかではなくて、感染を避けるため、また感染させないために、どのような行動が最善であるのかの判断基準は、行政が提供するそういった指標ですから、それを参考にするという意味です。

なお、公開ミサの再開にはそれぞれの小教区で、例えば人数制限などの準備が必要です。本日公示した文書にあるとおり、再開できる日時を決定したら即座に公示しますが、状況が流動的ですので、あまり直前にならないように、少なくとも公開ミサ再開の10日ほど前にはお知らせできるようにしたいと思います。

以下、本日の公示文書です。

カトリック東京大司教区の皆さんへ

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功
2020年5月26日


緊急事態宣言解除後の教会活動について

 緊急事態宣言が、5月25日をもって解除されました。状況は流動的で、感染流行には今後も何度かの波があるという専門家の指摘があります。

 したがって、宣言解除後もしばらくは、原則として現状を維持します。

 今後、東京都や千葉県の公立学校再開の状況や、大規模イベント自粛要請の解除などを見極めた上で、日程を定め、感染症対策を行い、また「三つの密」を避けながら、限定した条件下で、段階的に教会活動を再開させます。

 特に、聖堂内で、互いに1.5から2メートルほどの距離を保つことは最低限必要な条件です。それが不可能な場合は、聖堂を使うことはできません。

 また高齢・持病(基礎疾患)のある方には、大変申し訳ないのですが、いのちを守ることを優先して、当初の段階では、どうか自宅にとどまってくださるようお願いします。なお法的に高齢者とは、65歳(前期高齢者)以上のかたですが、特に75歳以上の方にあっては、もうしばらくの間は、自宅でお祈りください。

 灰の水曜日以前の教会に、即座に戻ることは考えられません。様々な制約は、自分だけではなく、他の方々のいのちを守るために、責任ある前向きな行動とご理解ください。教会共同体全体と社会の善益のための犠牲です。

 そういった条件や制約に協力頂くことが難しい場合には、当該小教区の教会活動再開を、当分の間、断念せざるを得ない場合も出てまいります。どうかご協力をお願いします。

 教会活動を再開する状況となったときには、その日程と、感染対策のための段階的な条件を公示いたします。

 なお、司祭には、4月末にガイドラインを示し、それぞれの教会で具体的対応の可能性を検討するよう依頼しました。緊急事態宣言解除後、今後の対応準備のために小規模な会議が必要かと思います。これは、感染対策に留意しながら行ってください。

以上

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2020年5月24日 (日)

復活節第七主日・主の昇天@東京カテドラル

復活節第七の主日は、日本を初め多くの国で、その前の木曜日の「主の昇天」を、この日曜に移動させて祝います。復活節も終わりに近づき、来週は聖霊降臨の主日となりました。

公開ミサを四旬節第一主日から非公開として、だいぶ時間が経ちました。その間には、政府による緊急事態宣言もあり、社会全体が立ち止まっているように感じます。教会も集まることができなくなり、ミサを通じて神の言葉をいただき、聖体の秘跡に共にあずかることができなくなっています。共同体としての一致を求める教会は、いま、あらためてその存在の意味を共に見つめ直し、これからの教会共同体の姿を模索する時を与えられています。よりふさわしい道を見いだすことができるように、聖霊の導きを願いましょう。

なおみなさまご承知の通り、緊急事態宣言の解除は、そのままで安全宣言ではありません。従って、東京教区を構成する東京都と千葉県を対象とした緊急事態宣言が解除されたからといって、即座に教会活動を再開させることはできません。政府は現在、明日25日の解除を検討中とうかがっていますが、その翌日に教区としての今後についてお知らせします。また東京都の「ロードマップ」の各ステップにおける集会の人数制限もありますので、教会にとっても難しい選択が待ち構えています。なお、その後の教会活動については、すでに教区としての検討は終わり、4月30日に司祭に伝達して、それぞれの小教区での具体的な対応の検討を始めていただいています。教区としての大枠であるガイドラインも、時期を見計らって公示いたしますが、それに基づいて今後示されることになるであろう、それぞれの主任司祭と小教区の役員の方々の判断に、どうかご協力くださるようにお願いいたします。

以下、本日の配信ミサの説教原稿です。

復活節第七主日・主の昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月24日

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」

新しいいのちへと復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちとともにおられ、神の国について教え、地の果てに至るまで、イエスの証し人となるようにと命じられた後に、天にあげられたと、使徒言行録の冒頭に記されています。

十字架上での死によって、主が取り去られてしまった弟子たちは、大きな絶望を味わったことでしょう。神の国の実現という、将来に向けての具体的な目的が潰えてしまったからです。しかし主は復活されて現れ、あらためて弟子たちを力づけられた。弟子たちには再び希望が芽生えます。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけに、あらためて将来に向けて生きる目的を見いだした弟子たちの希望が表されています。

しかし、主は再び自分たちから離れて行かれた。弟子たちは呆然として、天を見上げて立ちすくんでいたことでしょう。手にしかけた希望を、あらためて奪われてしまったのです。

その茫然自失の状態で立ち尽くす弟子たちに、天使は希望の言葉を告げます。
「天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」

困難な状況の中にあるわたしたちは、感染予防のために続けてきた活動の自粛の出口を、かろうじて見通すことができるようになってきました。感染には波があると指摘されており、まだまだ油断することはできませんが、当初の頃に較べれば、そこには光が見えつつあり、希望を感じ取ることができます。希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、守りに入って自分だけを見つめる目を、助けを必要とする他者へと開きます。

この希望への道を切り開いてくださっている医療関係者の努力に、あらためて感謝すると共に、病床にある方々の一日も早い回復を心から祈ります。

「あなたの教区の希望は何ですか」
司教になって初めての定期訪問アド・リミナで2007年にローマを訪れたとき、当時の教皇ベネディクト十六世との個別謁見で、そう尋ねられました。「教区の将来への不安」であればいくらでも並べることができますが、希望はなかなか思いつかず、考え込んだことを記憶しています。

信仰・希望・愛の三つの徳を重要なテーマとされ深めたベネディクト十六世は、希望についてしばしば語り、わたしたちの信仰とは希望であると断言されます。

回勅「希望による救い」で、テサロニケの信徒へあてたパウロの言葉を引用した上で、教皇はこう述べています。
「(当時の)キリスト信者は、将来自分たちを待ち受けていることを正確に知っていたわけではありませんでした。けれども彼らは、いかなる人生も無で終わるのでないことを知っていたのです。未来が積極的な現実として確実に存在するとき、初めて現在を生きることも可能になります」(2)

その上で、その人生に希望をもたらす、イエスの福音とは何なのかを、次のように続けます。
「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。時間、すなわち未来の未知の扉が開かれます。希望を持つ人は生き方が変わります。新しいいのちのたまものを与えられるからです」(2)

いま、わたしたちは、困難な状況を克服しようと努めていますが、その道程にあって、どのような希望を求めているのでしょうか。どのような未来を実現しようとしているのでしょうか。そのためにどのような生き方を選び取ろうとしているのでしょうか。

マタイ福音に記されたイエスご自身の言葉は、わたしたちの生きる希望です。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

様々な困難に直面し、人間という存在の弱さと小ささを自覚させられるときに、それでもわたしたちは見捨てられることはない。いつまでも共にいてくださる主が、未来に向かって歩みを共にしてくださる。わたしたちは、この約束の言葉に、生きる希望を見いだします。

いのちの危機という困難を克服しようとしている今、世界に必要なのは希望です。希望は過去にはなく、これから進み行く未来にあります。過去に夢を見て戻ろうとするところに、真の希望はありません。苦しみのその先にある未知の扉を開き、希望を生み出すために、わたしたちはいったいどこに向かって、どう生きていけば良いのか。

その鍵は、教会がこれまでたびたび指摘してきた「連帯」にあります。

ベネディクト十六世は、「救いへの希望」で、こう述べています。
「わたしだけの希望は、真の希望ではありません。それは他の人を忘れ、ないがしろにするからです」(28)

困難な状況の中でいのちの危機に直面している世界は、この数ヶ月の間、いのちを守るためには連帯しなければならないことを心に感じ取っています。同時に、身を守ろうとするあまり利己的になり、名ばかりの連帯で、関係性にあって攻撃的な言動も見られます。攻撃性は、社会にあっては差別的言動も生み出しています。そこに希望は見いだせません。

わたしたちは真の希望を求めています。いのちの希望を求めています。救いへの希望を求めています。その希望は、「わたしだけの希望」では、「真の希望では」ない。「他の人を忘れ、ないがしろにする」希望は、真の希望ではない。真の希望は、共有する希望です。互いを思いやり支え合うきずなの中で、共にいのちを守るために連帯するとき、世界ははじめて生きる希望を生み出すことができます。

教皇ヨハネパウロ二世は、連帯の重要性も強調された教皇ですが、回勅「真の開発とは」に、連帯の意味をこう記しています。
「(連帯とは)至るところに存在する無数の人々の不幸、災いに対する曖昧な同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、共通善に向かって、すなわちわたしたちは、すべての人々に対して重い責任を負うがゆえに、個々の人間の善に向かい、人類全体の善に向かって自らをかけて、共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです」(38)

わたしたちは、単なる優しさに基づいた行動としての連帯を目指してはいません。わたしたちの目指す連帯は、自分の利益のためではなく、すべての人の善益のためであり、互いに関心を寄せ合い、思いやり、支え合い、互いを忘れることなく、一致を目指す連帯です。わたしたちと常に共にいてくださる主イエスの存在を確信させるため、その言葉と行いを具体的にあかしする行動です。真の希望を生み出すため、共通の家を互いに守り、誰ひとりとして排除されることのない世界を生み出そうとする、明確な決断を伴う行動です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束された主の言葉に信頼しながら、困難に直面する社会で真の希望を生み出すために、すべての人と真の連帯を強め、忍耐と謙遜の内に希望の福音をあかしする者となりましょう。

 

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2020年5月22日 (金)

ニコラス神父様帰天

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2008年から16年まで、イエズス会の総長を務められた、アドルフォ・ニコラス神父様が、5月20日午後に帰天されたとのことです。イエズス会日本管区によれば、こういった状況ですので、5月23日夕方五時に行われる予定の葬儀ミサには、感染症対策のため参列を控えてほしいとのことですが、ライブ配信も行われるとのことです。ニコラス神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

スペインで1936年に誕生されたニコラス師は、神学生時代の1961年に来日、その後日本で1967年に司祭叙階を受けられました。1978年から84年には、マニラにあるEAPI(東アジア司牧研究所)の所長を務めたり、1993年から99年まではイエズス会の日本管区長、東京教区にとっては2000年から04年までCTIC(カトリック東京国際センター)のメンバーとして、現在のCTICの活動の基盤を整えてくださいました。日本の教会にとっても、神学的にも、霊性的にも、活動の上にも大きな貢献をされたイエズス会員であったと思います。

実は、わたしは、ニコラス師とほとんど接点がなく、よく存じ上げないのです。というのも、わたしが司祭養成を受けたのは神言修道会ですから、養成はすべて名古屋で行われ、中学から大学院まで、すべて南山学園なのです。つまり上智で教えられていたイエズス会員には、まったく接点がありません。東京の神学院で学ばれた司祭や、東京を中心に活動してきた方は、ニコラス師の偉大さをよくご存じなのだろうと、今回の帰天にあたって、様々な場で語られる言葉を見て感じます。しかもわたしは、神言会の司祭になってからも86年から95年頃まで日本にはいなかったので(ほとんどガーナの山奥にいたので)、ニコラス師も関わったと聞く、その頃行われたナイスの二回の全国会議も、わたしは全く体験していません。さらに男子の修道会の管区長は、国内には30数名ほどしかいませんが、全国の集まりをしていてそこで知り合うのですが、わたしの神言会の管区長任期は99年から04年で、ちょうどニコラス師がイエズス会管区長を終えるときと入れ替わり。ですからこれまで全く接点がありませんでした。

一度だけ直接お会いしたことがあります。2015年12月。ローマで開催された、教皇庁福音宣教省の第十九回総会の席でした。そのときの様子は、当時の「司教の日記」のこのリンクに掲載されています。かつて黒い教皇とまで言われたイエズス会の総長ですから、集まっていた多くの枢機卿たちも尊敬の念を抱きながら、ニコラス師と意見の交換をしていたことを覚えています。(白い教皇が本物の教皇様、赤い教皇が福音宣教省長官、黒い教皇がイエズス会総長、などとかつては言われたほどに力があるポジションだったようです。色は、着用するスータンの色です。写真は、総会の際に、タグレ枢機卿と話し合うニコラス師)

ニコラス師は総長が終わられてからもマニラなどで活躍されていましたが、病を得て日本に戻り、2018年夏からはロヨラハウスで生活されておられました。一度だけ、ロヨラハウスを訪問してお話をさせていただいたとき、ニコラス師とも少しだけ言葉を交わすことができました。

昨年11月には、教皇様が訪日されたとき、お二人が再開する機会がありました。

わたしたちは教会を導く聖霊の働きを信じています。聖霊がより良く働くためには、その実りを具体化する器が必要です。ニコラス師も聖霊の働きを日本の教会に、そして世界の教会に具体的にもたらす有能な器であったと思います。燃えさかろうとする聖霊の火を吹き消すことなく、さらに燃えたたせるように、ニコラス師の生涯に倣って、聖霊を働かせるための器に徹したいと思います。

ニコラス神父様の永遠の安息を、心からお祈りいたします。

 

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2020年5月17日 (日)

復活節第六主日@東京カテドラル

復活節第六主日です。復活の主日から、あっという間にひと月ほどが経過し、昇天祭(今週の木曜日ですが、日本をはじめいくつかの国では、次の主日に祝います)や聖霊降臨祭が近づいてきました。

本日の説教でも触れていますが、教会は今日の主日を、「世界広報の日」と定めています。教皇様の世界広報の日のメッセージは、こちらのリンクから、中央協議会ホームページで読むことができます。

また、明日、5月18日は聖ヨハネパウロ二世教皇の生誕100年の日です。これも説教で触れていますが、本来であれば、ポーランド大使との協力の中で、本日日曜の夕方に、わたしの司式でカテドラルにおいて記念ミサを捧げる予定でした。残念ながら、現在の状況で延期となりました。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

復活節第六主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月17日

わたしたちは、イエス・キリストの福音をのべ伝えます。人となられた神のことばである、イエスを告げしらせます。「折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」とパウロがテモテへの手紙に記すように、ありとあらゆる困難を乗り越えてでも、わたしたちは福音をのべ伝えます。福音を告げしらせることが、わたしたちに与えられた使命だからに他なりません。

困難な状況が続く中でも、次のステップに進む可能性がかろうじて見えてきたいま、三ヶ月近くも教会に集まれずにいるわたしたちは、どうしても、教会へと実際に足を運び、一緒になってミサにあずかることに、思いを集中させてしまいます。もちろん集まることは大切なことですし、ご聖体における一致は、教会共同体の根本を形作るものであります。

しかし同時に、わたしたちは、与えられている大切な使命を思い起こしたい。福音を、社会のただ中で、すべての人へ告げるようにと派遣されている、その使命を思い起こしたい。とりわけ、この困難な状況の中で、暗闇における希望の光を輝かせる務めが、教会にはあるのだと思い起こしたい。そして、その教会とは、誰かのことではなく、わたしたち一人ひとりのことだと、自分のことなのだと、思い起こしたい。

教会は、今日の主日を、「世界広報の日」と定めています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。

もちろん当初は、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などの広報媒体を用いて行う専門的な使徒職が対象でしたが、今や時代はインターネットです。SNSの様々な手段を通じてわたしたちは、個人的なコミュニケーションにとどまらず、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者が関わることのできる福音宣教のための使徒職ともなりました。

広報専門職の重要性には変わりがありませんが、同時に、すべてのキリスト者が、福音宣教のための道具を手にしているのです。もう、福音宣教ができない口実を並べることはできません。わたしたちは、道具を手にしているからです。

「広報メディアに関する教令」には、こう記されています。
「母である教会は、これらのメディアが正しく活用されるなら、人類に大きく貢献することを熟知している。それらが人々を憩わせ、精神を富ませ、また神の国をのべ伝え、堅固なものとするために大いに貢献するからである(2)」

しかし同時に、この教令は、次のような警告も記しています。
「人々が神である創造主の計画に反してメディアを用い、それらを人類への損失に変えうることを、教会は認識している。実に、その誤用によって人間社会に幾たびとなくもたらされた損害を前に、教会は母としての痛みを感じている(2)」

確かにこの数年、わたしたちは簡便なコミュニケーション手段を手に入れ、どこにいたとしても、十数年前とは比べものにならないほど大量の情報を、あっという間に集めることができるようになりました。さらには、SNSを通じて、簡単に不特定多数に向けての情報発信ができます。

それと同時に、「フェイク・ニュース」という言葉に代表される裏付けのないデマに、簡単に踊らされる事態に直面する危険も増えています。

さらには、発信される言葉が時として暴力的になり、人間の尊厳をおとしめるような差別を生み出す原因となったり、いのちを危機にさらすような出来事の引き金を引く可能性すら存在します。この数ヶ月のように、先行きが見通せない中で不安が積み重なっている状況は、疑心暗鬼の中で殺伐とした言葉のやりとりを生み出す可能性を持っています。

ペトロは今日の第二朗読の中で、「あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で、弁明するようにしなさい」と諭しています。

イエスご自身から、福音宣教の使命を与えられているわたしたちは、SNSなどを通じた発信が、福音宣教の使徒職を果たすための手段となるという可能性を、意識したいと思います。

わたしたちは、自分の言葉を、「穏やかに、敬意を持って、正しい良心」のうちに、ネットに向けて発信するように、心したいと思います。

今年の世界広報の日にあたり教皇フランシスコは、一人ひとりが語る物語の重要性を指摘するメッセージを発表されています。教皇は、メッセージ冒頭でこう述べておられます。

「道に迷ったままにならないためには、よい物語から真理を吸収する必要があると、わたしは信じているからです。よい物語とは、壊すのではなく築き上げる物語、自分のルーツと、ともに前に進むための力を見いだす助けとなる物語です」

人はそれぞれの物語を語り、互いに分かち合うことで豊かにされ、成長すると指摘する教皇は、現状を次のように分析しています。

「幸せになるためには、獲得し、所有し、消費することを続ける必要があると信じ込ませ、説き伏せる物語がどれほど多くあることでしょう。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

当然、わたしたちが伝える福音は、物語です。わたしたちは、イエスの物語を受け継ぎ、それを他の人へ物語ろうとしています。福音の物語は、イエスについての教えや知識にとどまらず、それを受け取ったわたしたちが、具体的にそのもの語りを生きるようにとうながします。いのちを大切にし、互いに助け合い、尊重し合い、ともに道を見いだすようにとうながす物語です。

明日、5月18日は聖ヨハネパウロ二世の生誕100年にあたります。特に、ポーランドの皆さんにお祝いのことばを述べたいと思います。本来は、今夕に、ポーランド大使館の主催で、生誕100年記念のミサを、ここカテドラルでささげる予定でした。

その聖ヨハネパウロ二世は、2002年の世界広報の日のメッセージで、インターネットを通じた福音宣教の可能性に触れながら、こう記しておられます。

「大切になるのは、キリスト教共同体が実践的な方法を考案し、インターネットを通して初めて接触してきた人たちが、サイバースペースの仮想世界から現実のキリスト教共同体世界へと移行する助けとなることです」

わたしたちは、与えられた福音宣教の道具を賢明に用いながら、仮想世界であっても現実世界であっても、福音をのべ伝え、信仰における深いきずなに結ばれた信仰共同体を実現し、育んでいくことができるように、努めたいと思います。

 

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2020年5月14日 (木)

ロザリオの祈りの夕べ@東京カテドラル

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ファティマの聖母の記念日にあたる5月13日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、ロザリオの祈りの夕べを行いました。

本日5月14日に祈りをささげるようにと教皇様が呼びかける前に決まっておりましたので、13日に行いましたが、祈りの意向は同じです。「新型コロナ感染症拡大のさなかにささげる祈り」として「混乱する事態の早期終息と病症にある方々の快復、及び亡くなられた方々の永遠の安息のために」、聖母の取り次ぎを求めて祈りをささげました。

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全体の構成と、始めと終わりの祈願については、先日、アメリカ合衆国の司教団が行った祈りの集いの式次第を参考にしたもので、翻訳は私訳です。感染対策のため非公開でしたし、聖堂内での互いの距離を保つために、参加してくださったのは、いつもの配信ミサと同じ少数のシスター方です。平日の夜にもかかわらず、ネット中継のためにお手伝いくださった関口教会の信徒の方々に感謝いたします。

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なお水曜日ですので「栄えの神秘」の黙想でしたが、五つの黙想の本文は、京都教区の北白川教会のホームページを参考にさせていただきました。

以下、祈りの集いの中で、ロザリオの祈りへの導入として行ったお話の原稿です。

<祈りへの招きの言葉: 2020年5月13日 ロザリオの祈りの夕べ>

5月の聖母月にあたり、特に新型コロナウイルス感染症による困難な状況に直面する中で、教皇様は、ともにロザリオを祈るように呼びかけられました。特に、外出自粛などが続く中で、多くの人がこれまで以上に家族と一緒に時間を過ごすことになっていますが、その中にあって、家族とともに祈ることの大切さを、呼びかけのメッセージでこう述べておられます。

「五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、わたしたちはこの「家庭で祈る」という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました」

日本では、多くの場合、家族全員が信徒であることは少ないのが現実だと思いますが、信仰における家族として、ファティマの聖母の祝日である今日、ロザリオの祈りをともにいたしましょう。また教皇様は、明日、5月14日を、「祈りと断食と愛のわざの日」とされ、すべての宗教者と霊的に結ばれ、新型コロナウイルスのパンデミック収束のために人類を助けてくださるよう神に祈ることを呼びかけられました。

1965年に、特に世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと呼びかけた「メンセ・マイオ」で、教皇パウロ六世はこう述べています。

「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」(3)

同時にパウロ六世は、ロザリオの重要な要素として「賛美と祈願」に加えて、「観想」の重要性を説いておられます。「マリアーリス・クルトゥス」には、「観想という要素がないならば、ロザリオは魂の抜けた体にすぎません。・・・主にもっとも近かったマリアの目を通して主の生涯における神秘を黙想できるように役立つべき」とも記されています。(47)

十字架上で主イエスご自身から、「見なさい。あなたの母です」と、教会の母として民を託された聖母マリアは、ルルドやファティマでのロザリオの祈りへの招きを通して、母としてのわたしたちへの気遣いを示そうとしておられます。ロザリオの祈りは、聖母マリアを通して主イエス・キリストへとわたしたちを導く賛美と祈願と観想の道です。神の御旨が実現するために自分自身のすべてを神にゆだねる勇気を持つことができるように、聖母マリアに従って、主イエスへと至る道を歩み続ける祈りです。

聖母の取り次ぎを求めながら、祈りましょう。

一日も早く今般の事態が終息するように、また病床にある人たちにいやしが与えられるように、医療関係者に守りがあるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい判断をすることができるように。

そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

 

 

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2020年5月10日 (日)

復活節第五主日@東京カテドラル

復活節第五主日となりました。

教皇庁大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教にあっては、金曜日5月8日に急病のため緊急入院されました。脳梗塞の疑いがあるとのことで、現在も集中治療室にて闘病中です。チェノットゥ大司教様の回復のために、お祈りください。

なお、すでにお知らせしたように、ファティマの聖母の祝日に当たる5月13日(水)午後7時から、新型コロナ感染症拡大のさなかにささげる祈りとして、ロザリオの祈りの夕べを行います。ミサ同様に非公開ですので、インターネットで中継配信しますが、同じ時刻に、「混乱する事態の早期終息と病床にある方々の快復、および亡くなられた方々の永遠の安息のために」、ご一緒にロザリオ、栄えの黙想一環をお唱えください。

以下、本日のミサの説教原稿です。

復活節第五主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月10日

最後に皆さんと一緒にこの大聖堂でミサを捧げたのは、2月26日、灰の水曜日のことでした。その翌日から、ともに集い、ともに賛美を捧げ、ともに祈ることを、一時中断しています。緊急事態が宣言されている間は、公開ミサの中止を継続せざるを得ません。感染しないためであり、感染させないためでもあります。

今年の復活祭に洗礼を受けるため、準備してこられた多くのみなさん。わたしたちは、信仰共同体の心のきずなで結ばれていることを、どうか心にとめてください。再び集まれる日に、喜びと希望をもって一緒に賛美を捧げることができるよう、この困難な時期の間も、わたしと、そして教区のみなさんと、祈りの時をともにしてください。

また、病床にあって不安のうちに毎日を過ごしておられる方々、苦しみの中で闘っておられる方々、経済的な困難に直面しておられる方々。いのちの与え主である神が、皆さんを力づけ、守ってくださるように祈っています。またいのちを救うために、日夜奮闘されている医療関係者の皆さん。心からの感謝とともに、皆さんの健康が守られるように祈っています。

教会は、歴史の中で、様々な変革を体験してきましたが、今また、変わることをせまられています。これまで培ってきた教会のあり方を、大きく変えなくてはならないのかも知れません。共同体として集まることの大切さには変わりがないものの、同時に、現在のような事態にあって、たとえ実際に集まらなくても、霊的な共同体を育んでいく術を、見いだすように求められていると思います。

そもそもわたしたちの信仰は、共同体の信仰です。わたしたちの信仰は、「交わり」のうちにある信仰です。「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。コリント書に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか(1コリ10:16)」とある、「あずかる」は、「交わり」のことです。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体の交わりのなかで、生きている信仰です。

教会に集まれない今、わたしたちは祈りのときをともにしながら、主日には霊的聖体拝領が勧められていますが、その霊的聖体拝領は、個人の信心のためではなくて、共同体の「交わり」のためであります。キリストの御体にあずかること、すなわち交わりです。

ですから、離れていたとしても、わたしたちは一つのキリストの体の一部としてあり、その交わりの中で一致へと招かれているのだということを、忘れないようにいたしましょう。

主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と福音の中で語られます。

イエスは、地図にすでに描かれている道を案内してくれるガイドではなくて、自分こそが何もないところに新たに切り開かれていく道そのものであると宣言されます。すなわち、御父へと至る道は、すでに存在している道ではなくて、常にイエスご自身が先頭に立って切り開いて行かれる新しい道であり、イエスご自身のことであります。ですから、わたしたちは御父へと至る道を、一人で勝手に歩むことはできません。新しい道を知らないからです。イエスに付き従って、歩み続けなければなりません。そしてその道を、わたしたちは共同体の交わりのうちに歩みます。ともに分かち合い支え合いながら、共同体として道であるイエスに付き従います。

初代教会では、弟子の数が増え続け発展してきた頃に、その実際の運営を巡って対立と混乱が生じたと、使徒言行録に記されています。

そこで教会共同体にとって優先するべきことは何かを識別し、そのために新たな教会のあり方を定めていったのです。第一の変革です。神の言葉を告げしらせることこそ優先すべきことであると識別した教会は、そのための制度を整えたことで、さらに発展を遂げていきました。

今の時代にあっても、その優先事項は変わっていません。教会は、「神の言葉をないがしろにして」はなりません。神の言葉をさらに多くの人たちに告げていくために、この状況にあって教会はどのようなあり方がふさわしいのか、見直していかなくてはならないのです。もし新たな挑戦を何も始めなければ、集まることのできない教会は、御父へと至る道を切り開き進まれる主を、遙か彼方に眺めながら、取り残されていくだけです。いま教会は変革のときにあります。

特に、洗礼を受けた後に、様々な事情から、教会と距離を置いている多くの方々に、心から申し上げたい。教会は今、変わらなくてはなりません。そのためには、皆さん一人ひとりが必要です。

さて、そのような旅路を続ける中で、「神をあがめ、キリスト者を神の御旨と完全に一致した生活に向かうように導く」のは、聖母マリアへの信心であると述べたのは、パウロ六世でした(マリアーリス・クルトゥス39)。

教会は伝統的に五月を聖母の月としていますが、今年の聖母の月にあたり教皇フランシスコはすべての信徒へ書簡を送り、次のように招いておられます。

「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、わたしたちはこの『家庭で祈る』という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました」

教皇は二つの祈りを用意して、ロザリオを唱えるときに祈るようにと招いておられます。

今週、5月13日は、ファティマの聖母の祝日です。1917年5月13日から10月13日の間にポルトガルで、ルチア、ヤシンタ、フランシスコの三人の子どもたちに、聖母は六回出現されました。

2017年5月13日行われたヤシンタとフランシスコの列聖式の説教で、教皇フランシスコはこう述べておられます。
「ルチアによれば、3人の子供たちは聖母から発せられた光に包まれたといいます。聖母は神から与えられた光のマントで彼らを包まれたのです。聖母のマントの下にあるものは失われません。聖母の抱擁によって、必要な希望と平和がやってくるでしょう。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、他の人が耳を傾けてくれるとの希望をもって神に祈りましょう。そして他の人に語りましょう、神は確かに私たちを助けて下さると。」

同じ確信を持って、困難な状況にあるわたしたちは、聖母の取り次ぎを求めて祈りましょう。聖母マリアが、わたしたちを「神の御旨と完全に一致した生活に向かうように」、道、真理、いのちである主イエスへと導いてくださるように祈りましょう。また聖母の取り次ぎによって主へと導かれた教会が、自らのあり方について識別を深め、困難な時期にあって、社会における希望の光となる道を見いだすことができるように、祈り続けましょう。

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2020年5月 7日 (木)

5月13日、ロザリオの祈りの夕べ

先日もお知らせいたしましたが、5月の聖母月にあたり、特に今般の感染症拡大の状況の中で、教皇様が二つの祈りを特別に用意されてロザリオの祈りを呼びかけておられます。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、5月13日(水)、ファティマの聖母の祝日にあたり、午後7時から、ロザリオの夕べを行います。

残念ながら、現時点では非常事態宣言が継続されていますので、このロザリオの祈りの夕べも非公開で行いますので、皆さんに参加していただくことができませんが、主日ミサとおなじように、インターネットで中継配信いたしますので、それぞれの場から一緒に祈りをささげてくださいますと、幸いです。5月13日午後7時です。

インターネットへのアクセスがない方にも声をかけていただき、同じ時間に、ロザリオの「栄えの神秘」を一環、ご一緒に唱えてくださるようにお招きください。

5月13日(水)はファティマの聖母の記念日です。1917年5月13日から10月13日の間にポルトガルで、ルチア、ヤシンタ、フランシスコの三人の子どもたちに、聖母は六回出現されています。

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2020年5月 3日 (日)

復活節第四主日@東京カテドラル

復活節第四主日は、善き牧者の主日などとも呼ばれ、世界召命祈願日ともされています。

説教でも触れましたが、例年ですと、この日曜の午後から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京大司教区の一粒会(司祭・修道者の召命のために祈り支える会で、教区の全員が自動的にそのメンバーです。「いちりゅうかい」とよみます)が主催して、召命祈願ミサが捧げられてきました。今年は緊急事態宣言下で公開ミサが中止となっていますから、残念ながら召命祈願ミサがありませんが、是非とも司祭や修道者の召命のためにお祈りください。

神学生の養成については、現在は新しく1年間の「予科」が加わり、全部で7年の課程となっています。つまり、今日、司祭志願者が現れても、その人が司祭になるのはどんなに早くても7年から8年後のことなのです。上石神井にある東京カトリック神学院で行われる司祭養成の費用も、(神学院は伝統的に全寮制ですから)かなりかかっており、一粒会の献金がその養成費用を支えてくださっています。感謝申し上げますとともに、これからも司祭養成のための支援とお祈りをお願い申し上げます。

現時点で東京カトリック神学院には、東京教会管区(札幌・仙台・さいたま・新潟・横浜・東京)と大阪教会管区(名古屋・京都・高松・広島・大阪)の神学生が27名在籍しており、それ以外にも宣教会や修道会などから数名が通学や共住の形で、司祭養成を受けています。その中で、東京教区の神学生は、現時点では6名です。

以下、本日の映像配信ミサの説教の原稿です。

復活節第四主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月3日

羊が羊飼いの声を聞き分けるためには、羊飼いの声が届かなければなりません。

教会は、教会という建物に、定期的に信徒が集まることで、共同体を維持してきました。牧者であるキリストの声は、教会の司祭を通じてまず届けられ、わたしたちはそこからさらにすべての人へと牧者の声を届けようとしてきました。

今般の事態が発生し、教会は牧者であるキリストの声を届ける手段を失いました。一番確実だった、教会に集まってくるみなさんを通じて、牧者の声を届けるという方法をとることができなくなりました。感染を避けるために、社会的距離をとることや、できる限り自宅にとどまることが求められ、社会での人との関わりや、奉仕活動を通じて、牧者の声を届けることに困難が生じています。

教会は混乱する社会に、牧者のいのちの言葉を届けたい。日夜奮闘する医療関係者に、牧者の励ましの言葉を届けたい。病床にある人たちに、牧者の癒やしと慰めの言葉を届けたい。

そこで牧者の声が少しでも届くようにと、カテドラルから主日のミサをインターネットで配信しています。例えば先週の日曜日のミサは、配信された時点の中継で七千人ほどのかたが見てくださり、その後に再生された回数は二万回を超えています。

その数字は確かに、多くの方が見てくださっている証左ではありますが、同時に、教区全体の信徒数と比較すれば、ごく一部の方々に過ぎません。すなわち、インターネットを通じて、牧者の声は、一定数の方々には確かに届いているのですが、それ以上に、例えば教会共同体にはインターネットにアクセスすることのできない方も多い。この事態にあって、牧者の声から除外されている人たちが、多くおられることに、心を痛めています。なんとかひとりでも多くの人に、牧者の声を届け、さらにはすべての人に希望と励ましの主キリストの声を届けたい。そう思います。

教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日となっています。例年であれば、教区の一粒会が主催して、この日の午後にカテドラルでは、神学生や志願者を招いて召命祈願ミサが捧げられてきました。残念ながら、今年のミサは中止となりましたが、あらためてみなさまには、司祭・修道者への召命のために、またその道を歩んでいる多くの方のために、お祈りくださるようにお願いいたします。

教皇様は、今年の祈願日にあたって発表されたメッセージに、こう記されています。
「主がわたしたちをお呼びになるのは、わたしたちを『水の上を歩く』ことができるペトロのようにしたいと願っておられるからです。水の上を歩くとは、主が示される具体的で日常的な方法で、とりわけ、信徒、司祭職、奉献生活のさまざまな形態の召命を通して、福音のためにささげるものとして自分の人生を手にすることです。」

すなわち、召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。
「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

いまほど、司祭・修道者の召命に加えて、信徒の召命を深める必要があるときはありません。牧者であるキリストの声を、すべての人に届けるためには、キリスト者の働きが必要です。

「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。

「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」で、キリスト者が聖性に生きることの必要性を説きながら、次のように記しておられます。
「聖なる者となるのに、司教や、司祭、修道者になる必要はありません。わたしたちは聖性が、日常のもろもろから離れて、祈りに多くの時間を割くことのできる人だけのものだと思ってしまいがちです。そうではありません。それぞれが置かれている場で、日常の雑務を通して、愛を持って生き、自分に固有のあかしを示すことで聖なる者となるよう、わたしたち皆が呼ばれているのです」(14)。

聖なる者となる。考えてみれば、品行方正で立派な生き方をせよと求められても、そんなに社会の現実は簡単ではないと、おもわずひるんでしまう呼びかけであります。しかし教皇フランシスコは、聖性とは単に掟をよく守った上で品行方正となることではなくて、「聖性とは、完全に愛を生きることにほかならない」と指摘しています(21)。

不安が増し、危機感を募らせ、身を守ることに心を砕くあまり、他者への思いやりが消え、殺伐とした雰囲気が感じられるいまの社会だからこそ、わたしたちは愛に生き、愛を伝えたい。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(1コリント13:5-6)と記されたコリント書の言葉を思い出します。その愛が、今の時代に必要です。

困難な状況の中で翻弄されながら、わたしたちは毎日、先へ進もうと努力を続けています。誰ひとりとして将来を見通すことができない中で、わたしたちは闇雲に彷徨っているわけではありません。牧者である主キリストは、羊であるわたしたちの名を呼んで、後についてくるようにと招かれています。羊の門である主キリストは、緑の牧場へ至る道を示してくださいます。

いまわたしたちは、大きな困難の中でいのちの危機に直面しているからこそ、牧者である主キリストの声を、ひとりでも多くの人に伝えることが不可欠です。

だからこそ、できる限り多くの人に、牧者の声を届ける使命に生きる人が必要です。司祭・修道者の召命が必要であると同時に、まさしく今すぐ、社会のただ中で、忘れ去られる人がいないようにと、忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼節を守り、利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかずに、愛に生きる人が必要です。

そして、先行き不安の中で疑心暗鬼が深まる社会にあって、パン種のように、「神に従って秩序づけながら神の国を探し求める」召命に生きる人の存在が、これまで以上に必要です。

神からの呼びかけは、特別な人にだけ向けられているのではなく、皆さん一人ひとりに向けられています。

牧者であるキリストの声が、社会に大きく響き渡るように、すべての人に届くように、努めましょう。神の愛に生きることによって、聖なる者となりましょう。

世の終わりまでともにいてくださる主に信頼しながら、その声がすべての人の心に響き渡るように、わたしたち一人ひとりに与えられている召命を見つめ直してみましょう。

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2020年5月 2日 (土)

5月は聖母月です

Mayseibo

伝統的に、5月は聖母月とされているのはご存じの通りです。一年の典礼において、聖母を記念する日はいくつもありますが、一ヶ月が聖母のために捧げられているのは5月と10月です。10月は特にロザリオの月とされています。

教皇様は、世界各地で猛威を振るう新型コロナの感染症拡大の中で、多くの人が外出を自粛したり禁止されたりすることから、家族での祈りの大切さを指摘して、この5月に特に家族でロザリオを唱えるように招いておられます。

「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、わたしたちはこの「家庭で祈る」という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました」

日本では、多くの場合、家族全員が信徒であることは少ないことでしょう。もし家族全員が信徒であるなら是非一緒に、またお一人でも、教皇様の呼びかけに応えて、この5月にはロザリオの祈りを捧げましょう。

また教皇様は、今般の事態にあって、ロザリオの祈りとともに捧げる祈りを二つ示されています。このリンクから中央協議会のホームページで、その祈りをご覧ください。

5月に聖母マリアに祈りを捧げることについては、歴代の教皇がその大切さを説いてきたところですが、例えばパウロ六世は第二バチカン公会議後の典礼改革のなかにあって、聖母への信心の重要性を説いた「マリアーリス・クルトゥス」でこう述べています。

「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつとおとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています。アヴェ・マリアの祈りを繰り返して唱え続けてゆくことによって、ロザリオはわたしたちに今一度福音における基本的な神秘であるみことばの受肉を提示してくれます。マリアはこの神秘をお告げという決定的な瞬間において黙想したのでした。このようにして、ロザリオは過去におけるよりもおそらく今日において、司牧担当者や神学者たちが好んで定義するように、「福音の祈り」であるといえるのです。」(44)

また1965年に、特に世界平和のために聖母に祈ってほしいと呼びかけた「メンセ・マイオ」では、こう述べています。

「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」(3)

一日も早く今般の事態が終息するように、また病床にある人たちにいやしが与えられるように、医療関係者に守りがあるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい決断をすることができるように、主イエスの守りと導きが豊かにあるように、ロザリオの祈りを通じて、聖母マリアの取り次ぎを祈りましょう。

なお、5月13日(水)はファティマの聖母の記念日です。1917年5月13日から10月13日の間にポルトガルで、ルチア、ヤシンタ、フランシスコの三人の子どもたちに、聖母は六回出現されました。

この記念の日、5月13日水曜日に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で祈りのときを持ち、ロザリオの祈りをささげたいと思います。時間はまだ未定ですが、5月13日水曜日の夕刻になろうかと思います。これについては調整がつき次第、あらためてお知らせします。また、この夕べの祈りのひとときは、インターネットで配信することで、皆さんにも一緒にお祈り頂ければと思います。(付記:残念ながら、ミサと同じく、このロザリオの祈りも「非公開」ですので、聖堂で参加して頂くことはできません。ネット配信します)

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